2016年11月26日土曜日

「いき」の哲学


 承前。『「いき」の構造』は今のように岩波文庫にはいるより前、ぼくが学生のときに、岩波書店が旧版のままの再刊を出して、その「いき」な装幀が話題になったので、薄い本なのに、と思いながら(!)初めて読みました。
パリと京都のエスプリ(?)を知る東京人・九鬼周造による英語圏の history of ideas のような才覚が際だちました。極端(ヤボ、下品)を排した、意気・粋・生きかたの解釈学として、全面的に感服します。だがしかし、悲しいかな、両大戦間の知識人として、議論を「民族的特殊性」へと絞りあげ、「いきの核心的意味は、その構造がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全なる会得と理解とを得たのである。」(岩波文庫版、p.107)としてしまう。そうしないと収まらない、時代のなにか強迫的な磁場のようなものがあったのでしょうか。

 にもかかわらず、次のようなコメントがあるかぎり、この本は読まれ続けるべきです。その「序」の第2段落に
「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。」
とあります。この「哲学」とは、狭義の哲学でもあるけれど、あのハムレットがホレイショに向かって言う
「天と地のあいだには、君の philosophy では思いもつかないことがあるのだよ」
の philosophy であり、また現在の欧米の大学における Ph D(Doctor of Philosophy)というタームに存続している、人文的な学問、学知、のことですね。ですから
「生きた学問は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。」
「生きた歴史学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。」
と、無理なく言い換えることができる。

 岩波書店の岩波文庫アンケートで、九鬼周造のドイツ・フランスにおける「経験を論理的に言表すること」に触れようとして、1冊につきたった90字の文字制限では、言いたいことを分かるように表現するのはむずかしかった。 背景としては、EU問題、ピューリタン史観への批判(中庸の再評価)も『史劇ハムレット』論も含まれていました。

 この2週間の帯状疱疹の苦しみから快復して、さて次の仕事は、立正大学の公開講座「インテリ王子ハムレットと学者王ジェイムズ」の録音起こしの校正に続いて、学問的な註を補い、これを論文『史劇ハムレット』論として仕上げることです。歴史学による文学批評の批判ですよ!

世界史の奔流


「アダム・スミス以来の普遍性と世界資本主義のチャンピオンだった英米両国があいまって、世界史の潮流を変えそうな大事件」が続きました。これについて黙っていられなくて、『図書』が機会を与えてくださったので、
EUと別れる? イギリスのレファレンダムと憲政の伝統
という文章を寄稿しました(来1月号)。https://www.iwanami.co.jp/tosho/
問題を全面的に分析して論じる余力はないので、1) イギリス史の「アイデンティティと秩序」を長期にわたって叙述した者として、また 2)「戦争と宗派対立の続いた近世ヨーロッパにおける諸国家システム、‥‥複合的な国のかたち」を討論している者として、したためたメモに過ぎません。ケーニヒスバーガやフォーテスキュの名も出しましたが。
時代の奔流、危機感のなかで、新しい思考は生まれる、ということでしょうか。

その直前直後に読んだのは(『ハムレット』関連に加えて)
・Emanuel Todd 『問題は英国ではない、EUなのだ』(文春文庫, 2016) ← 7月3日の記事を含む
・Dani Rodrik, The Globalization Paradox: Democracy and the Future of the World Economy (Norton, 2012)
・Frank Trentmann 『フリートレイド・ネイション:イギリス自由貿易の興亡と消費文化』(NTT出版, 2016) ← 7月付の「日本語版への序文」を含む
・秋田茂ほか『「世界史」の世界史』(ミネルヴァ書房, 2016)
・九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫, 1979) ← 初版は1931年
でした。

2016年11月10日木曜日

ケンカを知っているトランプ


 ふだんの業務に加えて、「新しい入試制度」で大学のプレゼンスをどう高めるかとか、「UKとEU」といった文章、あるいは手を抜けない「推薦書」 etc.で寸秒を争うような毎日なのに、アメリカ大統領選挙は、沈黙を許さぬ結果です。NHK-BSでの藤原帰一先生の表情も硬かったけれど、トランプはハッタリだけだろう、といった甘い態度でいると、たいへんな世の中、万人の万人にたいする戦いの世になるのかもしれませんぞ。

 『朝日新聞』が「権力への怒り」といったタイトルで解説しようとしているのは、不用意で誤解をまねく。嫌悪感さえ覚えます。
 トランプを駆り立てているのは「権力への渇望」「力への妄信」であって、怒りではない。むしろ人民(とくに poor white)の不定形の不安と不満を「外来のもの」に向けてあおる衆愚政治です。ユダヤ人への差別的な言説、ナチス的な要素に対してきわめて敏感なアメリカのメディアは、イスラムやラテン系に対するヘイトスピーチについては野放図でした。日本車や日米安保への無知な発言を放っておくというのも、3・40年ほど昔の大衆レヴェルです。なにか「問題を分析し理解して取り組む」といった姿勢じたいを軽蔑しているようなところがある。
 ケンカの仕方を知っているトランプの最後の切り札(trump)は、州権的な大統領選挙のシステムを熟知したうえで、激戦州、決定的な州 - Florida, Ohio, Pennsylvania - にキャンペーンを傾注して、選挙人団(electoral college: すなわち選挙社団! という近世的編成ですね。)を獲得することでした。これがみごと効を奏したわけで、戦略的な勝利です。いくらマサチューセッツ州やカリフォーニア州でたくさん票を得ても、選挙人の数が定数より割り増しされるわけではないのだから。

 トランプはバカではない。計算高く、権力欲は強烈。プーチンでも金正恩でも交渉次第で握手するでしょう。こうしたクレヴァーな「ジャイアン」にたいして、安倍政権は賢明に対処できるでしょうか。たくましく、現代の「万人の万人にたいする戦い」を乗り切る人材と裁量をもっているかな?
 近世の states system (諸国家システム)が今日的に再現し、グロティウスの「戦争と平和の法」が書かれる前夜のような弱肉強食の情況です。こういったときに「信仰によってのみ義とされる」とか、悪魔(Antichrist)を呪うとかいう立場に、未来はありません。ひたすら「公共善」をとなえる politique派(アンリ4世!)、あるいは中道(via media)のエリザベス女王を憧憬します!

2016年11月9日水曜日

札つきトランプ

驚きました。みなさんもそうでしょう。

Trump triumphs, and Clinton is let down.

6月23日のイギリスと同様に、アメリカのような先進的な大衆社会で、このような衆愚政治がおこなわれている。共和党がこんな男を大統領候補にして、好き勝手にやらせるしかなかったこと(会社社長ならOKでしょう);民主党がこれだけ嫌われ、政治センスの欠けた女に任せるしかなかったこと(優等学生とか弁護士とかならOKだとしても)。
アメリカの政党政治、そして民主主義に暗雲が差しています。むしろ世界的な暗雲です。

人民 対 エリート、といった構図をマスコミが大きく書き立てて人気を博するなんて、健全なわけがない。Two nations(『イギリス史10講』pp.212-3).19世紀のディズレーリ以来の政治の課題、解決すべき問題です。Politics そして政治社会が復権すべき時です(『礫岩のようなヨーロッパ』p.10)。

同時に、こうした接戦の場合のマスコミの報道および世論調査について、6月のイギリス、11月のアメリカと、これだけハズレが続くと、信頼されなくなるのではないか。はたしてこれまでの投票行動の予測手法が妥当なのか。大衆社会、SNS社会に対応できないのかもしれない。

2016年10月18日火曜日

「豊洲問題」


今マスコミと小池知事が、あげて土壌、地下水、空気を問題にしています。でも、ここで問題にしたいのは市場建設の是非よりも「豊洲」という地名そのものです。
あなたは江東区豊洲に来たことがありますか? 一度も歩いたことのない人には想像もできないくらい広い地域です。1988年から隣接する越中島の住民として、よく知っていました。夜中に遠く、ドックの船舶の汽笛が聞こえたものです。
http://www.toyosu.org/  豊洲2・3丁目まちづくり協議会
豊洲1丁目~5丁目」は一つの島をなし、戦間期からおおむね石川島播磨工業の造船・メインテナンスの大工場と関連の中小企業、そして住宅、飲食店が拡がっていました。国鉄の貨物線も走っていました。いま地図で計ってみると、全部で約1400m×800mの広さ。石川島播磨工業は1980年代に、まず創業の地・中央区佃から撤退し、そこは今、超高層住宅が林立しています。やがてさらに江東区豊洲2・3丁目の主工場敷地も再開発することが決まり、最初の超高層・NTTデータの豊洲センタービルが竣工したのは1992年でした。そして IHI と改名した本社ビル(豊洲3丁目)、芝浦工業大学、いくつものタワーマンション、商業施設、オフィス、「アーバンドックららぽーと」(豊洲2丁目)が開業したのが、2006年。湾岸を代表する、職住近接の街として楽しい空間ができました。子どもをもつ親(と祖父母)にとってキッザリアは一度は行くメッカでしょう。

これとは水路をはさんで、直角に接する「豊洲6丁目」というこれまた広大な、約1800m×600mほどの埋め立て地があって、東京ガスおよび東京電力の工場が占めていました。ほとんど住宅はなかったみたい。やがて、こちらの用地が収用され、それぞれガステナーニおよびTEPCOのミュージアム施設以外は空き地がひろがり、そこに「ゆりかもめ」が走り、湾岸の高速道路へのアプローチ公道が何本か伸びる、付随して流通業の大配送センターが建つ、という状態が長く続いていました。ここに新市場が移転・建設されることになったのです。http://www.tokyogas-toyosu.co.jp/project/toyosu22/  とよす22

繰りかえしになりますが、「豊洲1丁目~5丁目」と「豊洲6丁目」とは別で、(2丁目・5丁目の境にある)「ゆりかもめ」豊洲駅から二つ目の駅が「新市場前」です。「豊洲1丁目~5丁目」の住民・勤め人は、ジョギングか犬の散歩でもなければ、行ったことはないんじゃないでしょうか。おなじ豊洲という地番で一緒くたにするのは、迷惑な話で、たとえれば築地全部(1200m×800m)を銀座9丁目と呼んで、銀座(約1100m×700m)と築地を区別することなく一緒にするのより、もっと乱暴な企てです。

2016年10月14日金曜日

悲劇的な史劇 or 悲劇の形をとった史劇


【承前】 そもそも『ハムレット』の正規の題は The tragical history of Hamlet, Prince of Denmark です。高貴のプリンスは、ルターのヴィッテンベルク大学をちゃんと卒業したのか留年中なのか、むしろNIETなのか、よくわからない状態で実家のエルシノール城に戻ったのです。
あたかも実存哲学的な科白と筋を展開しつつ、1600年前後の〈諸国家システム〉における王位継承のあやうさと王殺し、母子の関係のアクチュアリティを埋め込むことによって、『ハムレット』は多義的で近世的な作品として呈示されています。おそらくシェイクスピアは相当の自負心をもって、ロンドンの観衆・聴衆・読者にむけて、ヨーロッパ事情と寓意に満ちた作品を見せつけました。それは「悲劇の物語(history)」でもあり、「悲劇の形をとった史劇(history)」でもあり、歴史的な悲劇でもある。

複合君主政のイギリスはステュアート家による代替わり(1603)の直前直後でした。しかもジェイムズの母は「淫乱のメアリ」! 父(夫)殺しに積極的に関与していました。 ロンドンの観衆は、複合君主政(しかも選挙王制)の「デンマーク・ノルウェイ王国」における王位継承の悲劇を人ごとでなく受けとめたでしょう。「淫乱の母」とその一人王子も含めてハムレット家は劇の終わるまでに全滅し、その宰相ポローニアス家も死に絶える。いったい王位はどうなるのか。
ハムレット王子が息絶える前の最後の言葉は、1) 学友ホレイショにむけて、見たこと my story をしっかり伝えてくれ、2) election があればノルウェイ王子フォーティンブラスが勝つだろう、he has my dying voice、と言って死ぬのです。父王フォーティンブラスと父王ハムレットのあいだの古き意趣がここで想起され、1524/36年~1660年のあいだ、選挙王制をとる「デンマーク・ノルウェイ」の複合君主政がここで機能し始めます。
劇末にてフォーティンブラスが盛大に葬式を執り行うのは、王位継承を受けての喜びの、公的行事なのでした。

そもそも父ハムレットが死んでその一人王子ハムレットが王位を継承しなかったのは、臣民の賛同が得られないから[人望がないから]、ということが含意されています。(まだ学生だから、ではありません。事実、メアリはほとんど生後まもなく1542年に、ジェイムズは1歳に満たずして1567年に王位を継承したのですから。)

12日夕の公開講演は、この間、ケインブリッジのワークショップから、福岡大学の七隈史学会も、映画論も含めて、スキッツォ的に拡散しがちなわが関心事が、近世的・礫岩的に連結した瞬間でした! いらしてくださった皆さん、ありがとう。 いらっしゃらなかった皆さん、いずれ録画配信、あるいは書き物で。

2016年10月13日木曜日

『ハムレット』


ご無沙汰しました。学期の始まりと、「東奔西走」とまでは言わないが、いろいろなことが続き、blogに書き込む気になれない、という日夜でした。

昨12日夕には、立正大学の公開講座(品川区共催)で、没後400年 シェイクスピアを視る という企画の一環(第3回)として、
「インテリ王子ハムレット」と「学者王ジェイムズ」
という話をしました(品川区から録画チームが来て無事収録できたようですから、いずれインターネット公開されることになると思われます)。

ロンドンからデンマーク、この間いろいろと撮りためた写真も使いながら、 -当然ながら、ズント海峡、エルシノールのクロンボー城、地の神の像の写真も見ていただきました- 文学研究の作品論とは異なる観点から『ハムレット』を見直し、1600年前後のロンドンの観衆・聴衆・読者がどう受けとめただろうか、論じてみました。一般むけで楽しく、しかしやや論争的なお話としました。
『デンマーク王子ハムレットの悲劇の物語』(1599から上演、刊本は1603~23に数版でます)が、じつに「礫岩のようなヨーロッパ」を地でゆく悲劇的史劇であることを最近に「再発見」したぼくの、エキサイトしたお話でした。
『ハムレット』を翻訳で読んだのは高校生のとき、さらに高校の図書館で研究社の対訳叢書(市河三喜監修)を見つけて、対訳註釈の付いた版で英語を読むよろこびを知りました。
To be or not to be: that is the question. から始まる一種実存哲学的な雰囲気と、言葉、言葉、言葉‥‥の溢れる警句的、寓話的な近世の宇宙を(今おもえば)このとき垣間見たのですね。16・7歳の少年が同年配の乙女にたいしてもつ、不安定な感覚もあいまって Frailty, thy name is woman. とか;時代にたいするカッコをつけたスタンスとして The time is out of joint. とか暗唱して悦に入っていたものです。もっとも
There are more things in heaven and earth, Horatio, than are dreamt of in your philosophy. というのは気取っているが、しかし青い高校生にとっては心底は理解できないままの科白でした。
‥‥のちのち大学院教師となって、ほとんど常識のつもりで『ハムレット』の科白を(日本語で)言ってみても、まるで反応のない院生が過半だと知ったときほどの驚愕(宇宙を共有していない!?)は、ありませんでしたね。それ以後またしばらく経って、『イギリス史10講』でシェイクスピアを引用するときにも、ちょっとだけ考えこみましたよ。結論は、「妥協しない」。著者として現実的に貫きたいことは貫く、というわけで、『イギリス史10講』には、(巻末索引に 37, 111 ページが採られているだけでなく)シェイクスピアに限らず、高校生にも読める英語のセンテンスが重要な論理展開の場面で、いくつか訳なしで書き込まれているわけです。

ところで、そうした「引用文に満ち溢れた」『ハムレット』という作品ですが、なぜかデンマーク宮廷にイングランドだけじゃなく、ノルウェイだかの使節や軍人が出入りしている;ドイツ留学やフランス留学が前提されているのは国際性の現れとしていいかもしれないが、劇の結末は、ノルウェイ王子が登場して、これから立派な葬式を執り行なおう、と宣言して終わる。‥‥これは、いかにも取って付けたというか、変なエンディング、という印象でした。しかし、高校生には手に余る問題で、以来、思考停止していました。

ローレンス・オリヴィエ監督・主演の『ハムレット』が、ぼくの受容原型で、それ以外は余分な粉飾(!?)のような気さえしていました。
こうした50年前(!)から棚上げしていたぼくの疑問と思考停止は、礫岩のようなヨーロッパ、複合君主政という視点をとることによって、眼からウロコが落ちるように氷解するのです! to be continued.

2016年9月20日火曜日

七隈(ななくま)史学会大会


 ちょっと大きく構えすぎのタイトルかも知れませんが、ポスターのような講演をすることになりました。
絵として、よく知られている16世紀後半の Europeana Regina のうち、女王の表情が優しく、また後の「国民国家」への行方がまだあまり(太い文字で)明示されていない1570年ころのヴァージョンを選びました。本当は『ヨーロッパ史講義』(1588年?)でも、こちらを使いたかったくらいです。

 日本人の世界認識および歴史認識を振りかえると、幕末・明治には福澤諭吉のような啓蒙的な文明論が、日清・日露以降にはドイツ歴史学派経済学/国家学が、そして戦間期、コミンテルンを後ろ盾とするマルクス主義史学が決定的な枠組を提供しました。人類史の普遍的な歩みのなかに自分たちの歩みも位置づけられるというパースペクティヴの発見。モダンであることもマルクス主義も、若者に、知的な世界の拡がりを感得させ,喜びをもたらしました。
 わたし自身、大塚久雄、高橋幸八郎の愛弟子たちに育てられ、「戦後の学問」の後半局面のなかで呼吸し、そこから全体を把握し構成する志を学び、留学と世界史の転換のなかで脱皮してきました。知のグローバルな展開も目撃してきました。いま文明史を見すえた歴史学を探るにあたって、「近世」の捉えなおしが決定的と思われます。

2016年9月14日水曜日

ヒトゴロシにもイロイロある


シェイクスピアの生まれはエリザベス1世の治政、1564年。ジェイムズ王への代替わり時には39歳で、創作力の頂点。亡くなるのは徳川家康と同じ1616年。ということは「真田丸」の同時代人でもあり、おもしろい話はたくさんあります。
立正大学文学部の公開講座ですが、ご案内申しあげます。
http://letters.ris.ac.jp/aboutus/koukaikouza/idkqs4000000293w.html
詳しくは↓
http://letters.ris.ac.jp/aboutus/koukaikouza/idkqs4000000293w-att/28kokaikoza.pdf
申し込み期日は厳密に考える必要があるのかどうか? むしろ数百人の湛山講堂が満杯であふれるといった事態を避けるためでしょう。

2016年9月9日金曜日

Commentarii


 以前から不思議だったのは、このブログの閲覧者のうち MS Office のインストールや使用法、認証のトラブルにかかわる発言にアクセスする方が非常に多いことでした。なにかソフト(今ではアプリ、ですか?) Office の不正利用のためのノウハウ・ページと誤解してアクセスなさっているのか、それにしても(合衆国、中国、ロシアも含めて)閲覧者数が多すぎるな、と。
 ほんの数日前に、忽然と気付いたのですが、ぼくのブログの名が「オフィスにて」となっていて、どんなスレッドであれ、これは省略されない。検索エンジンでもその結果は、たとえば 「オフィスにて 成瀬治先生」といった表示になるわけです。これは不覚でした。

 (じつはオフィスに行かずに書いているケースも増えていますから)この際、トップの名称を変えてみます。全体の表題を「無」にするという選択は blogger にて許されないようですから、スポーツの「実況中継」ほどにリアルタイムではありませんが、研究教育だの、思考の道具だのにともなう時宜的な commentaries だということで、カエサル的な!?(あるいはぼくたちの学生時代の『判例コンメンタリー』的な!?)名称でちょっとやってみましょう。これにより、アクセス数は健全化するでしょう。

2016年9月4日日曜日

PRC って?


 すでに3週間前のことですが、北ウェールズ・(ス)ランディドノーの宿にあった小さなシャンプーをいただきました。ロンドンの安宿での浴室備え付けは兼用ボディシャンプーだったので、そちらを使用しました。
 ウェールズなのに Falkirk Scotland の企業の製品なんだ、などと感心していたのだが、小さな文字のどこかに Chine とか見えたような気がして、改めてしっかり読むと(全体で高さ5センチあるかないか。じつに目を凝らさないと読めない)下から4行目右に Fabriqué en Chine とあるではないか!えっ? でも英語でそうとは記されてない。英仏2語表記だが、その左には Made in the PRC とあり。
 PRC = People's Republic of China のことと判明するまで、眼をパチパチしました。オリンピックでも国連でも、こんな表記をしていますかね?
 こういう微妙な使い分け(ダブルスタンダード)を国際戦略的に推進する国と、Cool Japan! なんて一人で悦に入っているナイーヴな国と、今日の states-system のなかで対等にやっていけるかな? グロティウス先生、そして大沼先生から学ぶべきことは多い、とあらためて思い入ります。

2016年8月28日日曜日

成瀬 治 先生(1928-2016)


 日曜未明のメールで第一報を知りましたが、別のソースから確認をとるのにすこし時間がかかりました。
「Landständische Verfassung考(上・中)」(『北海道大学文学部紀要』)、『岩波講座 世界歴史』14巻、17巻(1969-70)、そして吉岡・成瀬(編)『近代国家形成の諸問題』(木鐸社、1979)などなどで研究史を画した成瀬先生、翻訳もたくさんありますが、闘病中のところ、26日に亡くなったとのことです。88歳。
7月末に『礫岩のようなヨーロッパ』をお送りしたら、奥様からお変わりなく過ごしておられるというお葉書をいただきましたし、2週間前のケインブリッジでは、成瀬 → 二宮 → われわれ、といった(ねじれた?)系譜をヨーロッパの学者たちと議論していましたから、. . . 残念、としか言葉がありません。
ぼくにとっては(先生にとっても!)本郷西洋史最初の演習は Rosenberg, Bureaucracy, aristocracy and autocracy: the Prussian experience 1660–1815; 続いて講義はフランス・アンシァンレジームにおける impôt (アンポ税制)史で -「アンポ、反対。闘争、貫徹。」の時代だったので - 法文一号館の教室に冷たい空気が流れていたような気がしました。大学院に入ったら演習は Habermas, Strukturwandel で、こういった点にも、時代の表面に流されることなく、見るべき所をしっかり見ている方だったことが現れています。ただし、68-70年の東大内の政治力学に翻弄された面もあったでしょうか。すこし才能をもてあまし気味のところも。
 学問的な評価という点では、『礫岩のようなヨーロッパ』序章(pp.3-24)をご覧ください。
 ご冥福をお祈りしております。

2016年8月24日水曜日

先行作品 と 自分の道

National Gallery にて Painters' Paintings という特別展をやっていますね。
http://www.nationalgallery.org.uk/whats-on/exhibitions/painters-paintings

要するに、ヴァンダイク以来、リュシアン・フロイトにいたる画家が、先行画家の作品をどのように意識しながら創作し、自分を模索したか、ということがテーマで、ほんのすこしでも「蔵書」をもちつつ仕事をするわれわれ学者・研究者・物書きにとって、他人事ではない展示。考えさせる企画です。
歴史は科学か騙(かた)りか、といった抽象的な問題の建てかたにはぼくは反対です。文句なしの学問であり、アートです。じつは先週のケインブリッジでもワークショップが終わってから、日本人6名の間で、先行研究と自分の仕事との「継承と差別化」、言い換えると「先生」を尊重しつつしかし独自の道を歩む、という点で盛り上がりました。驕慢になるというのとは違いますよ。「絶対主義」 → 「市民革命」 → 「民族独立」といったコミンテルン史観粉砕!ということでも。
研究史とか intellectual history とか特殊化することなく、自分の問題として考えるべき論点だと思いました。

2016年8月23日火曜日

礫岩のようなイギリス


今日午後に、BLのカフェにて旧知の3氏に遭遇しました。
Cambridge Workshop について質問がつづき、「礫岩」とは互いに異質だということじゃない、「Kさんとぼくは性格も出身も違うが、友人である。なぜか?」
という問題だ、と言ったら、半分わかってくれた模様です。
ぼくは学生時代から反nationalist です。「違うから独立したい」というのは1919年の論理で、21世紀の将来は見通せない。「礫岩のような」議論は、後ろ向きでなく、前向きの志から来ています。
『イギリス史10講』について2014年初めの『朝日』の書評欄が、イングランド・スコットランド・ウェールズの違いにも目配りした概説‥‥ といったふざけた紹介をしていました。結局は受け手の問題で、「こと」を理解できていない人には、なんともコメントのしようがなくて誤魔化したのでしょう。

なおまた 北ウェールズ行に関連しても質問がありました。
ウェールズとイングランドの関係は、琉球や台湾やでなく、関西と関東の関係だ、と言ってみたら、これまた半分納得してくれました。
景観も、文化と自尊心、言語と信教も異なる。このことを認めなくちゃ話は始まらない。しかし独立したいとは考えていない‥‥。
サイダー(Seidr)を昨日お昼に飲みました。

2016年8月21日日曜日

コンウィ城:カムリの怨念

現ウェールズはバイリンガルですが、今日は北ウェールズ・ランディドノー経由でコンウィ城に参りました。
1280年代、90年代、エドワード長脛王の征服戦争の拠点であったばかりでなく、
いまやUNESCO世界遺産にまで指定されて、けさ乗ったタクシー運転手などは
その圧倒的な迫力を自慢しつつ、クソッと3度くらい繰り返す、そういった複合感情の凝縮した歴史遺産です。
(カムリの怨念のこもった?)強風に命の危険も感じつつ、城=要塞を歩いて回りました。
エドワードの「ゆうれい」も目撃。cf.『イギリス史10講』pp. 41, 54-56, 59.
下の男は気付いていないのかもしれません。

最後は、コンウィの蜂に襲われて、あ痛!退散とあいなりました!

2016年8月18日木曜日

A Conglomerate Europe

今日は第一日目、Chapel Court Room にて
Rethinking early modern European states
12名の intensive discussion というのもなかなか疲れるが、いいですね。
夏のケインブリッジにてコーヒーブレイクも外で。
夜は Brexit についても十分に話ができました。
今晩は晴れて満月。
韓国の金さん、李さんとも去年の大阪AJC以来1年ぶりに会いました。
明日も天気は良いようです。

2016年8月16日火曜日

何年ぶりのケインブリッジ

暑い日本からロンドン経由でケインブリッジへ。
昨夕、こんな風景の中に身を投じました。
晴れて暑いとはいえ、室内で半袖でいるのは寒い。
夏をこうした環境で過ごせるかどうかは、長い間には決定的な差異となるのかも。
左にスーパーのセインズベリ、右に(ジョギング中の男の脇にみえる板戸を押して入ると)Sidney Sussex College. 16世紀創立、クロムウェルの学寮、表の雑踏とは別の世界です。ここで A Conglomerate Europe: Rethinking the early modern European states を明日から催します。

2016年8月8日月曜日

天皇陛下の2つのボディ

 今日午後には今上天皇のお言葉が放送されました。ぼくも3:00から見て聴きました。
 象徴天皇の誠意があきらかな、よく練られたお話で、政治理論的・歴史的には、近現代の君主の「2つのボディ」が明白に現れていました。第1の心と体をもつご当人の気持、そして第2に「国政にたいする権能をもたない」象徴としての法人格。その2つの間のずれが糊塗できないところまできたということでしょう。

 行政およびマスコミの討論はこれからでしょうが、もしカントロヴィツの「2つのボディ」論を理解しないまま近現代天皇について発言するとしたら、それは愚かなナンセンスです。行政もマスコミも賢明になりましょう。歴史学も人文学も、物理学や生物学とおなじく、実学の極みです。その成果を軽んじると、ニワトリや魚群の行動と区別のつかない、条件反射になってしまいます。

イチロー 3000th career hit


 このところ(7月の終わりから)イチローと一緒に調子が出ないような気分でいましたが、ようやく、このとおり文句なしの3塁打で 3000th career hit を決めてくれました。オリンピックのどの金メダルよりも価値ある記録かもしれない。
しかも日本の新聞(電子版)によると、
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 試合後、イチローは「3千を打って思い出したのは、このきっかけをつくってくれた(元オリックスで2005年に死去した)仰木彬監督のこと」と語った。記録達成直後のベンチに座ったイチローが涙を流す姿を中継映像がとらえていた。
「達成した瞬間にチームメートやファンが喜んでくれた。僕が何かをすることで他人が喜んでくれることがなにより大事だと再認識した」。
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 そうなんです。42歳の生き方そのものが、人びとをどれだけ前向きに、幸せにしてくれることか。

2016年8月5日金曜日

校正おそるべし

 『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社)につき、ただちに何人もの方々が感想や印象を書き送ってくださっているところです。有り難うございます。8月17~18日には、ケインブリッジにて、ちょっとしたワークショップを催し、ヨーロッパ・英国側の方々と討論してみます。

 本の仕上がりについて厳しい目を注いでくださる読者には感謝しつつ、「校正おそるべし」との感を深くしています。
同時に、日本エディタースクールの代表、吉田公彦さんのことを想い起こしました。
 1970年代に『社会運動史』という同人誌を編集刊行していましたが、
その4号までの仕上がりをみて(フランス現代史家吉田八重子さんの夫君として)座視していられないという御気持になったのでしょう。
吉田さんは、ぼくと相良匡俊さんを含む数人のシロート院生・助手をある日曜に呼んで、エディタースクール(市ヶ谷のお堀を望む古い建物にありました)の2階の教室で、校正、版面制作について、みっちり教えてくださいました。
要は『校正必携』(日本エディタースクール出版部)の考え方、心構えの基本でした。

・植字工(オペレータ)は著者の秘書ではないのだから、こちらの癖も専門も知らない。だれにも分かる明快な指示をしなくてはいけない。
・たくさん訂正、指示を出してもよい。ただし、訂正や、(打ち消し線、)は正確にドコからドコまでか、( )や ’、’を含むのか含まないのか、欧字の場合はTなのかtなのか、曖昧さを残してはいけない。
・誤解の余地が少しでもあるなら、赤字とは別に、余白に黒鉛筆で(このようにと)しあがり例を記す。横文字・アクサン・ルビの場合は必須。
・校正記号は、『校正必携』の規則に従う。

【・版面の作り方、透明な定規でタテヨコ0.1mmまで計測する、といったことまで教えていただいたので、後々、出版社のプロの方々とは、話が通じやすかった! そのころまともな出版社の編集者は、日本エディタースクールの夜間講座などに通って修了証を取得していました。】

 この半日トレーニング(速習コース)のお陰で、以後ぼくの校正は(3色くらいを使用したうえ)鉛筆の指示も加えて、明快なので、シロート眼には「多様性」「複合性」がめだつかもしれませんが、どの出版社・担当者からも、不評だったことはありません。
 いまやオペレータがコンピュータ制作する時代には、大昔の話かもしれません。