2017年10月18日水曜日

ジョン・ウォルタ夫妻

ご無沙汰です。
9月1日夜から、老いたる母の闘病につきあって、心の余裕のない7週間目です。
「老老介護」でおたがいに疲労困憊!とはなりたくない、というときに、ケアマネージャさんが有能で助かっています。

そうした折、今月末よりケインブリッジからジョン・ウォルタ夫妻が来日して、ぼくの知性を再活性化してくれます。
(肖像権を考慮して、右側をトリミングしました。ぼくはなぜかすごい日焼け。)
ジョンは、C・ヒルの影響下に17世紀史を始め、社会史、民衆文化、とりわけ暴力の問題を正面から議論してきた人です。エセックス大学まで自転車で通勤したこともある! 日本人で留学生としてお世話になった方が何人もいるのではないでしょうか。
近世民衆史および政治社会の歴史家で、もっとも重要な人のひとり。J・モリルの親友でもあります。
ブロン夫人はアイリッシュ・ディアスポラおよびジェンダー研究。

東京でのジョンの予定は、次のとおり:
【主催者からは事前登録不要だが、懇親会参加希望の方は ihs@toyo.jp にご一報ください、とのこと。
 この@マークは半角に変えてください。】
・10月28日(土)午後2時、東洋大6号館2階にて
Crowds & popular politics in the English Revolution: Recovering agency.
(コメント:那須敬) ⇔ なぜかブロン夫人のセミナーと同階隣室にてぶつかる?

・10月29日(日)午後1時、東洋大10号館3階にて
The new social history & discovering political culture in early modern England.
(斎藤修、高橋基泰、ギヨーム・カレ氏を迎えて、ケインブリッジ学派についての大討論会になるかも)
→ 詳細は、こちらのサイトから https://www.toyo.ac.jp/site/ihs/334083.html

・11月7日(火)午後6時30分、東大経済(小島ホール2階)にて
 Reflections on my career as a historian

2017年10月5日木曜日

Kazuo Ishiguro

The Guardian
Thursday 5 October 2017 14.23 BST

The English author Kazuo Ishiguro has been named winner of the 2017 Nobel prize in literature, praised by the Swedish Academy for his “novels of great emotional force”, which it said had “uncovered the abyss beneath our illusory sense of connection with the world”.

日本国籍のあるなしということより、「英語で書く作家」ということでしょうか。
訳すのではなく、最初から英語で考え書く。たしかにそのほうが、ある真理、普遍的なこと、饒舌なレトリックで誤魔化せないことを表現できるような気がする。ぼくたちも日本語で討論していて煮詰まってしまったときに、「それじゃ、英語でどう言うか考えてみよう」というのは一つの賢明な手段ですね。
それから、イシグロは、ある種の知的な観点(方法、構成、洗練された文体 ‥‥ )をしっかり出してくれる。それが嬉しい。『イギリス史10講』では『日の名残り』に2カ所で論及しました。

With names including Margaret Atwood, Ngugi Wa Thiong’o and Haruki Murakami leading the odds at the bookmakers, Ishiguro was a surprise choice. But his blue-chip literary credentials return the award to more familiar territory after last year’s controversial selection of the singer-songwriter Bob Dylan. The author of novels including The Remains of the Day and Never Let Me Go, Ishiguro’s writing, said the Academy, is “marked by a carefully restrained mode of expression, independent of whatever events are taking place”.

2017年9月17日日曜日

記憶/記念の(発信の)場


歴史意識についてexplicit で象徴的なモニュメントは、前にも書いたとおり、ダブリンの場合、他の都市にもまして場所の記憶と結びついて顕著だと思われます。中央郵便局や聖スティーヴン公園に1916年関連のモニュメントが集中し、逆にトリニティ・カレッジ(大学)には18世紀ないし19世紀のリベラリズムが表象されているように。
ドイツ語では記念碑を Denkmal と言いますが(松本彰さんなど)、考えるよすが or 考えることをうながす存在ですね。経験的な感覚と思索をうながされました。

なおまた立像が横溢するロンドンのシンボリズムについては、The Evening Standard 紙に議論が載っているのを坂下史さんから教えられました。↓
https://www.standard.co.uk/comment/comment/simon-jenkins-it-s-time-to-have-the-argument-about-london-s-historic-statues-a3622161.html

 今日のアメリカ合衆国において、南軍 Confederatesはracistだ、として南軍関連の立像を攻撃しているグループの行動は、あたかも「民のモラル」の代執行のようです。The Evening Standard 紙の良識は、あくまで複合文化、競合する価値の併存をとなえる相対主義の立場です。その結論は London is a diverse and sometimes offensive city. I would rather it was both than neither.
ちょっと崩れた破格な英語ですが、でもロンドンには both diverse and sometimes offensive であってほしい。neither(どちらでもない)のは嫌、とはっきりしています。

2017年9月14日木曜日

海港コーヴ

港町コーヴは南西部の中心都市コーク(それ自体が中世からの港市です)から大西洋に出てゆく外航船のための「外港」のような役割で、入江のなか、水深の深い良港です。いまは海軍基地があります。多数の Irish の人々がここからアメリカに移民として渡りました。アメリカで成功した Irish Americanたちが故郷に寄付して、坂道の上の丘に、立派な大聖堂を建てました。
1912年4月、当時は(ヴィクトリア女王の1849年来訪を記念して) Queenstown と改名されていましたが、Titanic 号の最後の寄港地でした。『イギリス史10講』p.255. 沖に停泊した豪華客船の2224名の乗客・乗組員は、先にも登載した Gothic revival の大聖堂を見上げたわけです。

 昔の鉄道は廃線となり、駅舎が観光用に残っています。1912年のタイタニックと1915年のLusitania撃沈を記念する(忘れない)ために、湾を一望する丘の上に小公園ができていました。

南西アイルランド

 帰国してみたら、No sooner had I arrived in Tokyo than . . . というわけで、暑いだ涼しいだと言ってる間もなく、母の看病モードに移行してしまいました。

 それにしても8月のアイルランド紀行で、もう一つ書いておかねばならないのは、南西地方の海港の豊かさでした。
海路でフランスやスペインと往来するのは案外近い。Kinsale の海の料理がおいしいのは、あきらかにその影響でしょう。旧デズモンド家の城は今ではワイン博物館になっていました。コーク市の評判の大聖堂ばかりでなく、コーヴ(Cobh)でも、ヨール(Youghal)でも、立派な教会堂が迎えてくれました。
 18世紀コークがバターの生産と輸出で栄えたとか、Wolfe Tone が手引きしたフランス軍の上陸(の失敗)とか、そういえばどこかで読んだなぁという史実も、その舞台に立って改めてモニュメントとともに見ると、甦ります。
 R. R. Palmer, The Age of the Democratic Revolution, II (Princeton, 1964) pp.271-2 における1796年、バントリ湾の上陸策の不首尾について昔(1979-80年、名古屋でした!)に読んだときには、リアリティのない逸話でした。今回、寒冷前線と虹に迎えられてバントリ湾に降りたち、細身のウルフ・トーン像に挨拶し、また丘を登ってホワイト(Viscount Bantry)の邸宅の庭から旧式の大砲とともに湾を遠望して、
 「強者どもが夢のあと」
という思いを強くしました。パーマによると、トーンはパリで孤独で、バブーフの陰謀については知らされないまま執政政府に全幅の信頼をおいていたのでした。p.250. 

 内陸部と海港との違いは、他でもそうだが、アイルランドの場合にとくに甚だしいということでしょうか? 近世・近代以前にも、トリスタン・イズーの伝説の時代から、このビスケー湾(ブルターニュ)、イギリス海峡(コーンウォル)、聖ジョージ海峡(ウェールズ、アイルランド)の繋がりはきわめて重要でした。中世前半のキリスト教伝来も、ジャコバイトの移動路としても、そしてカトリック避難民が醸造酒・蒸溜酒のノウハウとともに大陸へ逃れる(wild geese ならぬ wine geese の)経路としても、この南西の海の道が決定的でした。キンセールのワイン博物館が雄弁に語っているとおりです。

2017年8月23日水曜日

記念像のアイルランド

 ロンドンにて、まだ Irish impact を反芻しています。
 Trinity College 前の College Green は車と人の雑踏がばかりでなく、現在工事中の標識がたくさんあって、きれいな写真になりませんが、黒くみえる立像にご注目。
 こちらの右から大学に向かって Grattan, 大学正門から街に向かって Goldsmith, Burke と18世紀後半(啓蒙・自由主義)の人物(だけ)が立ち並びます。
 当然ながら、現代アイルランド共和国はこのままを許容するわけにゆきませんので、カメラの右後ろには Tone grave, Thomas Davis と19世紀のラディカルたちが構えていますし、さらに北側のオコネル通りには、もちろんオコネルの巨大な像から GPO(1916年3月完成、4月に占拠、襲撃)まで、19世紀・20世紀のシンボリズムがあふれます。
 数が多いだけなら、ロンドン・ウェストミンスタにも「偉人」の立像がたくさん居並びますが、ダブリンでは(土地がコンパクトということもあって?)College Green に18世紀後半の自由主義者(でイングランドにも受容された3人)、
その先に少し遠ざかって19世紀前半の志半ばでたおれた2人、
さらに方向は北に転じて、ローマカトリック Pro-Cathedral に近い大通りにオコネル、19世紀の十分影響力を行使した活動家たちが居並ぶ、という明快な配置です。これは topology と chronology が重なって意味をもちます。ある段階で、だれか mastermind(個人? 集団?)がいてこそ実現した場所的色づけ(臭いづけ)なのではないかと、想像したくなります。

2017年8月22日火曜日

風のアイルランド


 アイルランド探訪のなかでも、いくつか重要な側面があり、まずは ancient Ireland とされてきたもの(invented traditionかもしれない)の最たるスポットを訪ねました。順不同です。

¶「タラの丘」は太古の王(high kings)の居所だったと伝えられる丘。古墳から遠からぬ所に、シャムロックを手にもつ聖パトリックの立像も据えられ、シンボリズムは十分ですが、近代史ではオコネルの1843年「百万人集会」の場にもなりました。
『風と共に去りぬ』でもタラはアメリカ南部の Irish American の心の支えで、この映画のライトモチーフになっています。最後の場面ではスカーレットの Tomorrow is another day が「明日は明日の風が吹く」と訳されて、名訳か迷訳か、ひとしきり議論されましたが、現場に立ってみて、そうか、この強風のことなのだ、と妙に納得しました。
緑、緑、緑のただなか、たえまなく吹きつける風に、全身で耐えている4人の写真です。

¶ カシェルの岩山はマンスタ王の居城だったのが、1101年に教会領となり、修道院文化の繁栄の中心でした。1647年にクロムウェル軍の包囲攻撃で廃虚となり、1749年には屋根が除去されて、荒廃が進んだようです。大聖堂わきの十字架を撮りましたが、ここでも身の危険を感じるほどの強風。
誰かさんのようにこの廃虚で「運命の人とのめぐりあい」はなかったけれど、しかし、アイルランド史、ブリテン諸島史、ヨーロッパ史のことを再考しました。

 Gone with the Wind も、The Wind that shakes the barley も、the wind をキーワードとしていたのでした。これが分かってなければ、アイルランド史は(アメリカ史も!)理解できないということか。

2017年8月20日日曜日

Irish revelation!

 アイルランドの南西に旅行してダブリン大学に帰って来ました。これこそ「啓示」というのでしょうか? 現場に立ってこその感覚があります。1995年以来、22年間もこの地を踏んでないのでした。

 神の子羊たちに行く手をさえぎられて車を止めた所に、にわかに隠れていたゲリラの狙撃が始まりそうな山間。

 
マイクル・コリンズ(1890-1922:『イギリス史10講』p.263)の英雄視と、内戦の事実の看過。IRAに待ち伏せ暗殺されたことは、記念碑には記さない約束なのでしょうか。

2017年8月10日木曜日

『ゼア・ファイネスト』と『グッバイ レーニン』

 今どきの私立大学は真夏でも多忙です。
 そうしたなかでようやく2つの話題の映画をDVDで見ることができました。

¶ 一つは今秋に劇場公開の『ゼア・ファイネスト(Their Finest)』 (キノフィルムズ、公開タイトルは未決)、1940-41年ロンドン空襲下の映画制作者たちの同志的なつながりの物語。
 ダンケルク敗走のあと、ドイツ軍による空襲が始まり、チャーチル言うところの Battle of Britain の士気を維持するために、そしてアメリカの参戦をうながすために情報省映画部もたたかいます。ちょうど連続ドラマ『刑事フォイル』が英仏海峡に面した町での複合的な感情と事件を扱っていた、それと同じ時期のロンドンの街中。ロンドン大学の本部セネットハウスは1937年に完成したばかりでしたが、戦時には情報省が置かれます。この映画ではその白亜の建物がほんの一瞬だけ映し出され、チャーチル首相の肖像写真も含めて、権力のシンボリズムにはあまり触れない。不自由な日常生活、防空壕と化した地下鉄駅などにおいて冗談を交わしながら勤勉に耐える男女を描きます。
 この映画は監督Scherfigも、原作『彼らの最高の1時間半(Their Finest Hour and a Half)』の著者Evansも、脚本Chiappeも女性であることにも現れるように、主人公カトリンの女としての成長が第1のテーマです。30歳前後(?)とみえるジェマ・アータトンの泣き笑いの自立と才能開花の物語。第2のテーマは、映画と時代ということでしょう。戦争直後にリーン『逢いびき』、リード『第三の男』、オリヴィエ『ハムレット』といった名画が連続するための苗床のようにして、戦時プロパガンダ映画があったのかもしれない。そこで映画におけるヒーローとは、物語と真理(truth)、事実(fact)とは、といったことを明示的に口論しながら、映画(のなかの映画制作)は進む。これは表象論の講義に使えると思います。ハリウッドとは違う抑制と節度をまもりながら『彼らの最高のとき』は、困難な時の映画人の連帯を謳いあげます。
 なまじっかの言語論的転回よりも、はるかに具体的で分析的な映画作品が、なんとあのセネットハウス(現ロンドン大学図書館、歴史学研究所)を舞台として想定してつくられたわけで、これは歴史学者への問いかけ(?)というより挑戦(!)かもしれない。

¶ もう一つはすでに2004年公開で知る人ぞ知る『グッバイ レーニン(Good bye Lenin!)』、1989年ベルリンの壁崩壊前から翌年のドイツ統一(西による東の吸収)にいたる東ベルリンの母子の献身的な物語。ここでも、なんと映画(テレビニュース)制作、本当(Wahrheit)とウソがキーワードになります。
 結局どちらの映画も、退っ引きならない情況におけるフィクションの効用、物語(ウソ)を協力して一所懸命に構築するという点で、そして映画中の役者がフィクション・事実・本当といったことを議論するという点で、共通しています。ただし、『ゼア・ファイネスト』では戦争中で人が続けて死ぬのに、全体に与える印象は、静かであまく切ないロマンス。ところが『グッバイ レーニン』のほうは親子の情も少年の成長もあるけれど、なんといっても「東」の瓦解という政治の激動、コカコーラと西側大衆文化と人材の洪水のような流入, etc., etc. 映画中で死ぬのはただ一人、主人公の母に過ぎないが、そしていくつものロマンスも描かれるが、現代史の奔流が観衆の足下を勢いよく削り、ぐらつかせてしまいそうです。
 政治的シンボリズムとして、左手に本をもち、右手で理想の未来を指すレーニン像がヘリコプターで搬送されたり、「フェイクニュース」を演技して、ヴィデオを母にみてもらうとかいった苦労をさんざ繰りかえしたあげく、最後には母自身が虚構を演じていたのだと知らされるというどんでん返しが用意されています。権力政治と、親子の愛情と、近隣の人々のちょっとした協力出演、そしてサッカーのワールドカップといった異なるレベルのイシューが複合して、言うにいわれぬ時代性をかもし出す -- これは明らかに Becker 監督の意図したところでしょう。「怒濤のような西側資本主義難民を受け容れるDDR(ドイツ民主共和国)」といった虚構のテレビ・ナレーションが、泣かせます。
 すばらしい映画ですが、ただし、タイトルが問題。レーニンを社会主義共同体の象徴でなく、権力政治と独裁の象徴としか思っていない者には紛らわしい。この映画のなかの母もじつはそう認識して割り切っていたのし、亡命した夫を愛しつづけ、(二人の子のためにこそ)社会主義優等生を演じていたわけだから、Good-bye, Lenin! よりも、むしろ 映画中にくりかえし出てくる街中のスローガン DDR 40 Jahre がストレートでよいかもしれない。あるいは東ドイツへの幻滅の先に登場する、(飛行船が象徴する)西側資本主義への近々の幻滅をタイトルにしても良かった。たとえば Hello, Capitalism!

¶『グッバイ、レーニン』『ゼア・ファイネスト』、ともに post-truth ⇔ fake news といった現今の対立図式を、もうすこし歴史的にソフィスティケートさせた作品と言えます。どちらも映画中の映画(テレビ)に歴史的なモンタージュを用い、また方法的なメッセージを明示的に論じています。
 見たあとの感覚は異なるに違いないけれど、それぞれ見るに値する作品です。それぞれ別の事情で見るきっかけを与えてくれた方々、ありがとう。

2017年8月9日水曜日

暗愚の真夏

 この間、まる1ヶ月も発言なしで過ごしました。
 日本の真夏に体調全開というインテリはあまりいないと思われますが、大学の繁忙が一息ついたかと、今月3日(木)に古い本(大河内‥‥社会政策学‥‥)を置く場所を移動したさいに(ここに入居して以来の)14年間のホコリや黴の胞子などを吸い込んだのでしょうか。喉の具合が悪い、などと言っていたら、2・3日のうちに完璧に風邪の症状となってしまいました。おかげで7日の書評会にはマスクをしていった次第。夕刻には台風ゆえの驟雨にやられて全身ずぶぬれとあいなりました。雨宿りの店で3時間余り懇談するうちに、なんとか元気回復。
 池田嘉郎『ロシア革命:破局の8か月』(岩波新書、1月刊)
ですが、すばらしい。叙述力について言う人が多く、それは否定しないけれど、本書の意義はなにより、1917年ロシアの立憲自由主義者たち(カデット)の努力と挫折、大ロシアの民衆世界に入り込むどころか対峙してしまった近代文明派のエリートたちの無力を描きだしたところにある。その挫折・無力 → 破局があってこそ、ボリシェヴィキ・レーニンの断乎たる無理押し(「泥んこのなかで天衣無縫に遊ぶ幼児」p.97?)、なぜか自信満々の意志と行動力が功を奏するわけだ。じつに説得的です。
 他派の欺瞞と不決断を排して正しい道をひた走る「(ボ)史観」、せいぜい乱暴なスターリンを憂慮していたレーニン、といった味付けの1967年(ロシア革命50周年)に育ったぼくたちの世代には、ナロードニキやトロツキーといったオールタナティヴはあっても、立憲自由主義という選択肢は、100%、想定外でした!
 民衆の暗愚、とは高村光太郎を連想させる用語で、すこし留保を置きたいけれど、それにしても自由主義文明派の無力、文明開化の破局、ボリシェヴィキの強力な介入(ジャコバン主義的な「領導」)を説明するには分かりやすい。

2017年7月2日日曜日

都議選の結果

 政治的な情勢展開もふくめて、6月には公私ともにいろんなことが次々にありました。このブログではたいして内容のない「無難な」コメントだけで過ごして参りました。力量不足です。
個人的には、長谷川先生のお通夜、大阪での科研研究会、ある「塾」での講演セミナー、「痛いの痛いの」合評会、「郊外」沼地、そして立正史学会の「主権」講演などなどの合間に、大学ではふだんの業務に加えて保護者面談や(留年生の)卒論指導、家族の介護, etc. というわけで、せっかく D. A. Bell や John Styles といった方々の来日にもかかわらず都合を合わせることができない、という1ヶ月。
 英国総選挙についても都議会選挙についても、気の利いたコメントができず、残念至極。ただ本日の都議選について、ぼく自身は、反小池、豊洲市場賛成の観点から投票しました。小池さんは、サル山の新ボスのように、ヤマの木々をゆさぶって、どうだと威力を見せつけ、忠誠の表明を迫る、といった政治手法で、これは賢明な政治リーダーのすることではない。マスコミについても、むかしの美濃部フィーバーから、小泉劇場、今回の「小池ファースト」まで、思慮の浅さ、軽さに呆れています。
 これで安倍政権の腰が折れるのは好機ですが、それが公論の勝利ではなく、ただ政権の連続するスキャンダル処理のまずさの結果でしかない、というのは淋しい。
【ぼくは resilience とか wise spending といった言葉を使ったからといって政治家を攻撃するのは、愚かなポピュリズムだと思っています。むかし麻生首相を引きづり下ろしたマスコミと同じです。相対的に、池上彰の発言はまだ健全ですね。】

2017年6月17日土曜日

東京駅前ひろば


今夕、幾週間ぶりか、東京駅丸の内南口の「東京中央郵便局」に行って、ゆうパックを出しました。受取人払いの書類です。
この東京中央局は、昔の古めかしい5階建て、大きなトラックが出入りしていたころからよく使いました。24時間受付ですので(土日も)、重要な申請書、〆切間際あるいは〆切の過ぎた原稿や校正ゲラを急ぎ送るために、電車や自転車で駆けつけたものです。今ではメール添付で送ることが増えたので、改装なったキッテ(JPタワー)までわざわざ行く必要は減りました。

この前、ここに来たのは5月の何日?とか思いながらOAZO丸善の方向に向かって、おや、と認識。先ごろまで工事用の塀で遮られて狭苦しい思いをしていた(ステーション・ホテル正面の)空間が広くなっています。
まだ一部塀は残っていますが、それが撤去されたら、東京駅から皇居前までかなり広々として気持のよい公共空間が現出することになりそう。‥‥ とりわけ夜景は、こんな具合に美しい。

2017年6月6日火曜日

ザビエル? シャボン玉? ぜめし帝王?

 本日の『朝日新聞』オンライン版に
「聖ザビエル」じゃないの? 神父も困惑、君の名は
という記事があります。引用されている東京書籍の『中学社会』でザビエルのあたりを執筆したのは、じつはぼくですし、編集委員会の討議をへて(高校向けとは別に)「ザビエル」という表記でゆこうと合意したわけですので、このブログでも一言。
 アメリカの都市 San Francisco の由緒でもある、イエズス会の修道士 Francisco de Yasu y Javier (1506-52) の名を教科書でどうカタカナ表記するか、という問題と、元来どう発音されていたか、という問題は、二つの別問題です。
『朝日』の記事を書いた棚橋という記者の取材力、そしてデスクの知識にも問題がないではない。

 まず、 表記に “ が付いているかどうかと、歴史的に清音だったか濁音だったか、とは一対一対応しません。「さひえる」と書いて、サヒエルと発音したかどうか。むしろ『日葡辞書』(1603-4年刊)のローマ字表記などから推定されるのだが、「さしすせそ」は sha shi shu she sho ないしは ja ji ju je jo とも発音していたらしい。これは近代日本の九州から瀬戸内方面の老人たちの発音からも十分に想定できる。全然と書いて「じぇんじぇん」と発音しているし、「ゼネラル石油」とは General 石油。だから「せめし帝王」とは King James のことです。逆に savon は「シャボン玉」になります!
 歴史的に「しびえる」「ジヤヒエル」「娑毘惠婁」といった表記があることからも、16世紀の西日本にはシャビエル/ジャビエルといった発音が伝わった(それがさまざまに表記された)ということらしい。
 バスク生まれだからバスク発音シャヴィエルで表記すべし、というのは一見 politically correct で正しそうだが、それは適切とは言いがたい。フランシスコはバスク貴族の出だが、パリで勉学し、1534年にロヨラたちとイエズス会を創設し、ヴェネチアで叙任され、ローマでイエズス会士として勤務し、ポルトガル王の命で1541年にゴアに派遣されて以後マラッカ、モルッカ、ついで1549年に鹿児島に上陸し2年間、西日本で宣教するわけです。バスク人としてのアイデンティティがイエズス会士ないしクリスチャンとしてのアイデンティティより優ったか? これははっきりと否でしょう。16世紀の東アジアにおける共通語が(漢語および)ポルトガル語だったということも考慮すると、バスク発音に固執することは無意味です。なおまたフランシスコ自身が現地の言語と慣習を尊重して伝道した(典礼問題の祖!)ということも忘れたくない。

 ∴発音についての結論は、ポルトガル語なまりのラテン語で、それが現地で受けとめられた音が正しい、とすべきでしょう。

 もう一つ、中学教科書、高校教科書でどう表記するかという問題です。大学の学者がむやみに専門知識をふりかざして「正確な事実」を教科書に織り込もうとする近年の風潮を、ぼくは憂いています。歴史とりわけ外国史嫌いを増やしているだけではありませんか? 教科書や大学入試で細かく正確な事項の暗記を強いるのには反対! 

 ∴教科書表記についての結論は、中学でも高校でもザビエルないしサビエルがよい、と思います。ただし高校では Xavier という不思議な綴りも一緒に教えたい。中国人・日本人については漢字表記を教えているのですから、高校生には欧語にも慣れてほしい(試験に出題する必要はありません。優秀な学生に欧語表記に慣れてもらうことがポイントです。後のち -30代、40代の生活で- かならず役に立ちます)。

 念のため。先生方! 研究史を呈示して「中学・高校ではこう習ったね。でも今の研究水準では、こう考えたほうが良さそうなんだよ」といった講義は、無事(歴史嫌いにならずに)大学に入ってきた学生むけに語るまで取っておきましょう。

2017年6月1日木曜日

長谷川博隆先生 1927-2017


長谷川博隆先生はご闘病中のところ、31日、肺炎で亡くなったとのことです。89歳。第一報の電話をいただいて、混乱しました。
1977年~88年に名古屋大学で公私ともにお世話になりました。ぼくは生意気な最年少教授会メンバーでしたが、自由にさせてくださり、見守っていただきました。
じつは東大西洋史の成瀬助手時代(1950年代なかば)に、長谷川博隆・遅塚忠躬・今井宏といった院生たちがたいへん仲が良かった、遅塚さんが名古屋の長谷川家まで泊まりに来た、といったことをお二人ご一緒の折に聞いたことがあります。
さらに印象的なのは、1991年の日本西洋史学会大会@名古屋で、例の「古代史におけるパトロネジ」のシンポジウムが開かれた翌朝です。宿の朝食をぼくは二宮さんとご一緒することになっていて、そこへ降りてゆくと、村川堅太郎・長谷川博隆両先生がご一緒にいらしたのですが、二宮さんの姿を認めて、村川さんは「やぁ二宮さん」と満面の笑みで、4人は同じテーブルに着席することになりました。とはいえ、話題は南フランスを一緒に旅行なさった60年代のある日々のことに尽き、車を運転した○○さんのことも含めて、昨日のことのように懐かしんでおられた。ぼくと長谷川さんは部外者として、楽しい回想をただ拝聴しているだけでした。村川主任教授時代の西洋史助手は、成瀬 → 長谷川 → 二宮 → 直居淳 → 西川正雄 → 伊藤貞夫、とつづき、黄金時代だったのですね(ぼくの知らないアンシァン=レジームです。まだ定員は一人。伊藤さんの任期中に定員二人となり、城戸さんが後任助手に就きました。1968年4月、村川先生の定年とともにお二人が同時に辞めて、北原敦・木村靖二助手の時代となり、ぼくにとっての「同時代」史が始まります)。
【 → この91年の12月に村川先生は亡くなるので、その半年前の、幸運で愉快な時間だったのでしょう。なお、先生と愛弟子はちょうど20歳違いというのが良いのだとは、長谷川先生の説です。村川・長谷川のご両人は20歳違い。柴田先生とぼくは21歳違うなぁ、とそのとき感じ入ったものです。】

なお、今春には國原吉之助先生も亡くなっていたとのことです。ぼくは名古屋大学文学部3階で、研究室が隣り同士でした。國原先生と長谷川先生は尊敬しあう関係だったようで、ある時点まで両先生の学恩を浴びるように享受していたのが、土岐正策さんです。週末夕刻から始まるラテン語の学習会は、國原先生よりも、むしろ土岐さんが仕切っておられた。
長谷川(編)『ヨーロッパ: 国家・中間権力・民衆』(名古屋大学出版会、1985)が出版された折には、ぼくが英語 mob の語源は mobile vulgus で、17世紀末にはただの mobile という形で使われていた時期もあるとしたためたのに目を留めた國原先生は、誉めてくださいました。お人柄は、『古典ラテン語辞典』(大学書林、2005)のまえがきにも現れているとおりです。

名古屋の古代ローマ関係のお三方は、ともに今は亡く、さびしい。
【2日(金)の晩は浦和でお通夜でした。しみじみと語りあいました。なおまた、このブログ記事につき、欠けるところを指摘してくださった方、ありがとうございます。】

2017年5月24日水曜日

Manchester 追伸


https://www.theguardian.com/uk-news/2017/may/23/theresa-may-condemns-sickening-cowardice-of-manchester-attack
The Guardian (元来は The Manchester Guardian)によると、容疑者捜査などは市の南側、まさしくOくん在住の大学南側の住宅地区でおこなわれているらしい。このあたり、19世紀のブルジョワ住宅地は、ぼくが(大学から借りて)1982年夏に住んでいたころには、すでにムスリム・コミュニティに転じていました。

マンチェスタは『ガーディアン』紙にとって、大阪が『朝日新聞』にとって占めるのと同じで、1820年、発祥の地です。だから、今日の『ガーディアン』の社説は、こうです。

A bomb that strikes at the heart of Manchester’s civil life is something felt acutely at the Guardian. This is where the newspaper was founded, as the Manchester Guardian, almost 200 years ago, out of a distinctive Mancunian radical tradition, in the aftermath of the Peterloo massacre in 1819 when 15 people were killed in protests over parliamentary reform.
Throughout Manchester’s history, its people have campaigned for what they thought was right. It is a city that has never been afraid to challenge received wisdom; its capacity for innovation stretches from what may be the world’s first free public library and the first passenger railways, to the suffragette movement, vegetarianism and graphene. It is a special place, with a historic sense of confidence. It is a testament to the city that an attempt to divide a people only brought them closer together: doors were opened to strangers and meals offered to worried parents. Hotels and cabs provided services for free.
As one taxi driver put it: “We’re glue. We stick together when it counts.”

このリベラルな伝統をメイ内閣の時代にも維持できるか。正念場です。

マンチェスタのOくん

マンチェスタ大学の院生Oくんから、迫真のメール、到来。
「‥‥大惨事があったことにも全く気づきませんでした。当該事件についてネットニュースで知りましたし、パトカーの音なども特に聞こえません。‥‥」
とのこと。
まずは無事で良かったと思います。大学は、事件現場と街の中心部をはさんで反対の南側、Oxford Road、全然環境のちがう界隈ですから、何も聞こえなくて不思議はありません。

現場付近は18世紀ころまではマンチェスタの真ん中で(なかば暗渠になっていますが)川の合流点。歴史的な Cathedral や Chetham's Library、そしてマーケットがありました。Victoria Station はマンチェスタから北へ (Wigan, Preston, Lancaster, Glasgow) 行く場合に利用するターミナル駅で、ロンドン方面にゆく Piccadilly Station とは何キロか離れています。今ではトラムで繋がっていますが、むかしはタクシーかなにかで急ぐしかなかった。

マンチェスタでは1996年6月に IRA の爆発事件がありました。それもやはりCathedral, Market, Arndale の付近で、これはあまりにも大規模な破壊だったので、何年もかけて近辺を再開発せざるをえないほどでした。後年に行って付近の景観が一新されたのを見て驚きました。MEN Arena というのは、その再開発の一環として Manchester Evening News が建設した興行スポーツ大建築ですね。いまは経営が替わって、名も Manchester Arena になったのか。ぼくのこの写真では、まだMENでした。

多数の死傷者が出ましたが、こちらで動画などを見るかぎり、爆発の威力だけでなく、
狭い場所の雑踏で stampede したことで事態が悪化したように思われます。

こうした事件があったからといって、過敏に警戒して街中に出かけないというのは賛成できません。万が一にも似たような状況に出くわしたら、慌てず落ち着いて行動してください。
ぼくも1981-2年ころ、サッチャ政権でロンドンの治安が悪化し、IRA 関連事件で都心の雑踏の中、家族と合流できず焦ったことを思い出します。ケータイなどない時代でした。
泣いても叫んでも(慌てて走り出しても)意味がないので、
「今の条件のなかで何をしなくてはならないのか/なにが可能なのか」
を第一に考えて、行動してください。
ドタバタ、うろうろしないというのが、人生の教訓ですね。

2017年5月13日土曜日

岩波文庫「青春の三冊」

(承前 5月9日)
 ちなみに、might-have-been (未練記事)ですが、当初ぼくが岩波文庫の「青春の三冊」として考えてみたのは、次の3つでした。

¶トーマス・マン『トニオ・クレエゲル』
 走る馬の連続写真、金髪のインゲ‥‥。高1の少年にはこちらのほうが『若きヴェルテル』よりも分かりやすかった。新潮、角川など他の訳もありましたが、岩波文庫のタイトル表記に惹かれました。

¶夏目漱石『三四郎』
 名古屋駅で一緒に降りた女性と同室に泊まり、翌朝「度胸のない方ですね」と言われて「両方の耳がほてり出した」三四郎と同レベルの、うぶなストレイシープ。巻末にいたっても三四郎は、「舌が上顎へひっついてしまった」という。なんという青春・恋愛小説家なんだ、漱石は。
 高校生のぼくは本郷の「御殿下運動場」や「三四郎池」に立って「現場追体験」(?)してみましたが、いま読み直すと、美禰子さん、よし子さんの両タイプ、書かない先生=「偉大なる暗闇」論もあって、現代的です。

¶マルクス『経済学・哲学草稿』
 これは東大駒場1年生の衝撃。訳者 城塚登先生の講義「社会思想史」でも、折原浩先生の講義「社会学」でもテキストに指定されて、大教室の何百人の受講生が熱気に引きずり込まれました。まだ木造2階建てのギシギシいう1階にあった生協書籍部に、朝、胸の高さまで山積みされた『ケーテツ・ソーコー』が夕方には残部わずか、という日が繰りかえされる時代でした。城塚先生のかっこよさに惹かれて、本郷で開講されたヘーゲル『精神現象学』の授業にも出ました。

 . . . という具合ですが、あまり懐古的では面白くないし、こうした青春の古典は、きっと他のだれでも挙げるだろうと考えて、止めにしたのです。

2017年5月11日木曜日

マクロン、マカロン?


 フランス国民がEU堅持(その中での改革)を選んだうえで、ラ=マルセイエーズを合唱した、というのは、穏健で健全な安全運転と受けとめられます。去年のイギリスの熟慮なき失策から学習しているとも言えます。
 イギリスは、去年のレファレンダム、今年3月の離脱交渉開始宣言によって、これからかなり無駄なエネルギーをEUとの交渉に割かねばならず(身から出た錆です)、有権者と政権が連続して間違った選択をしたことを長期的には悔やむことになるでしょう。
 もしEU官僚のやり方に不満があったとしても、EUのなかで闘うべきでした。21世紀のイギリス(UK)およびヨーロッパ(EU)の衰退の始まりとして2016-17年は記憶されることになる。イギリス史をやっている者として、またヨーロッパ文明から学び続けてきた者として、悲しいことです。
 そうしたヨーロッパの暗い見通しのなかの微笑ましい事実は、マカロンのような顔をした新大統領の25歳も年上の(!)ファースト・レイディ、ブリジット(Brigitte Macron)。高校の女先生と、こうなる、そして続くって、「あり」なんですね。

 マカロン大統領の道は険しく、じつは議会の牽制をうけてあまり強力な政治力は発揮できないのではないかと予測されています。しかし、強力な政治力と決断ばかりが良いとは限らない。問題の先延ばしが悪いとは限らない。困難な時代の上手な保留は、合理的な選択です。『イギリス史10講』p.95.

2017年5月9日火曜日

岩波文庫3冊


 月刊の『図書』5月号とともに「私の三冊」と題した「岩波文庫創刊90年記念」の『図書・臨時増刊2017』が届けられました。
 ぼくもアンケートに答えて、「青春の三冊」としようかどうか、迷ったあげく、近代日本人の西欧体験という観点から「私の三冊」を選んでみました。p.32.
しかし5月号の巻末「こぼればなし」によれば、ぼくが言及した3点のうち、福澤諭吉『福翁自伝』は一番多い6人が挙げ、九鬼周造『「いき」の構造』は5人が挙げていました。独自性がなくて(?)、ちょっと口惜しい。ただし3点目は夏目漱石『漱石日記』で、これを挙げた人はぼく一人らしい。こちらのほうが、むしろ意外。とはいえ、漱石の作品を数え上げると、十指にあまる。あらゆる意味で「国民的」作家です。

 アンケートに書いた228名があいうえお順に並んで、しかも巻末に書名索引があるので、おや、という発見が楽しい。『みすず』の読書アンケートと似て、どうしても60歳以上の方が過半数ですが、それでもぼくの知るかぎりでアラフォーの元気な人たちも何人も交じっています。
 それにしても、70歳を優にこえる有馬稲子さんとか、國原吉之助先生とか、見田宗介さんとか、まだまだお元気な様子で、なによりです。

2017年4月30日日曜日

ツツジと花壇


今の季節、桜(ソメイヨシノ)が終わり、ケヤキも銀杏も若葉が出揃ったころ、公道の植え込みのツツジが満開で、気持が爽快になりますね。「鬱」の学生も、大学に出てくるのが嬉しい、と言っています。良かったね。

それから、集合住宅の広い中庭の花壇も繚乱。
いつも手入れをしてくださるヴォランティアの方々のおかげです。