2018年9月30日日曜日

新幹線「ひかり」最終

(承前)
旅行者で、ぼく以外にもそう考えていた人は少なくないと思われます。
ゆったり朝食を摂り、電車を乗り継いで10時過ぎに新大阪駅についてみると - 構内の土産品など売店がキヨスク以外はすべて閉まっていること、改札口からすでに大勢の人が滞留していることを目撃して、これは「もしやヤバイかも」と考えが変わりました。

いつもの25番・26番の二つだけでなく27番も合わせて上りホームを三つ使っていること、職員を多数ホーム上に配置していること、電光掲示にあきらかに急造りの最新情報を伝える英語表記も出ていることなどからは JR東海が本気で取り組んでいるのが伝わりました。
で、災害時なので予約した夜ののぞみ指定席(全便不通)でなく、来た便の自由席のどれにも乗れることを確認してから、戦略的に考えました。
10:20発のぞみ、10:40発のぞみ、いずれの場合も待ち行列は各乗車口ごとに40m、50m以上。広く長いホームは一杯です。要するにだれでものぞみの自由席に乗りたいと考えるでしょうが、のぞみの自由席は1・2・3号車のみ。しかも指定席を臨時に自由席に開放するといった策はとらない。であれば、指定席車両に乗り込んで、立って2時間半揺られるという選択肢も含めて、これ以上、のぞみのために行列するのは愚か。
ひかりを狙おう。ひかりは3時間あまりかかるが、自由席は1・2・3・4・5号車で、すこし余裕があるし、東京までは行かない客も多いはず。
というわけで、10:20発のぞみ4号車のための行列の最後尾に付いて、その次に来る10:43発ひかりを狙いました。10:20発のぞみ、10:40発のぞみのいずれについても積み残しがあり、JR職員は指定席車両に乗車するよう勧誘する、という方針のようでした。こういう時に、機敏に動ける人とそうでない人との差は大きく、見ていても気の毒なほどです。
ぼくの場合は、狙い通り、10:20発のぞみの出たあと、43発ひかりのために残った短い行列の前のほう(10人目くらい?)に位置することができましたが、向かい側では、10:40発のぞみのための行列がさらに蛇行していました。しかも、なんとひかりは、ぼくの乗る10:43発が最終なので、その後はぼくのような戦略を採ることができなくなったわけです! 
実際に来たひかり10:43発はそれなりに(一両100人中40人分くらい?)空席はあって、ドタバタせずに座れたのですが、京都から先は、車中のデッキに立つ人たちが溢れることとあいなりました。東京までのあいだに、浜松や静岡で後発ののぞみに抜かれながら、東京駅にはすこし遅れて13:50に到着しました。途中は校正刷りのコピーを見直したり、居眠りしたりできて、個人的には賢明な選択だったと思いますが、それにしても、新幹線はもうすこし後の時間まで、たとえば2時間ほど余分に、運行できなかったのでしょうか。

もちろんJR経営体として、万が一にも新幹線車両が暴風雨で立ち往生したうえ、最悪のケースとしては(むかし山陰線の鉄橋であった事故のように)暴風にあおられて新幹線車両が脱線転覆するといった大事故があったりしてはいけないと、そこは慎重に判断した、ということでしょうか。
東京駅も混雑していましたが、雨風はなく、嵐の前の静けさ? 今晩20時に山手線など首都圏の在来線も運行停止と予告されています。(大阪行きの前に、すでに自宅ベランダに置いていた植木や、洗濯物干しフレームや、ガラクタの類いは室内にしまって置きました。)
これまで読まれたように、ぼくはいろいろと楽観的で、良いほうにしか物事を考えない傾向があります。皆さま、どうぞ楽天家の近藤をよろしくご善導くださいませ!

台風24号 最接近

週末に台風24号最接近! 21号に続き、全国的に警戒状態。
というのは存じていましたが、まぁ、大丈夫、と構えていました。

ですから、土日の大阪・中之島センターでの研究会は土曜のみ、日曜は中止/延期、という主催者の方針を聞いて、ぼくとしては、慎重なのはよいが大事のとりすぎかな、という受け止め方でした。なにしろJR東海で予約した出張パックが「宿も列車の座席も指定で、変更不能」という設定なので、面倒だな、というのが正直なところ。
で、金曜午後のぼくの返信は【 28 Sep 2018 15:41 】
「拝復、心配してくださって、ありがとう。日曜なので、美術館、図書館巡りも良いかな、と考えています。いま、出版社にて再校の交渉に向かう車中です。秋晴れの素晴らしい午後です。」
といった呑気なものでした。

これには主催者も慌てたようで【 28 Sep 2018 15:49 】
「‥‥日曜日の昼間は暴風雨が懸念されます(美術館・図書館の閉館も含めて)。もし外出が厳しいということになれば、‥‥[これこれという代案も考えてくれて‥‥]明日はお気をつけていらしてください。」
さらには続伸で【 28 Sep 2018 18:31 】
「‥‥夕方の関西圏のニュース&天気予報を注視しています。JR西日本などは山陽新幹線を含め30日昼から1日にかけて運休の可能性を発表しました。(東海道新幹線はわかりませんが。)こちらのニュースによれば30日夕〜夜が大阪で最も暴風雨の強まる時間帯となり、鉄道・自動車を含め移動が困難になることが見込まれます。一案として「パックで予約されている分は30日朝の宿泊までとし、帰りの新幹線のチケットは事実上”捨てて”もらう」→「あらためて30日朝の新幹線の「新大阪→東京」の片道チケットを予約してもらう(片道分の旅費は主催校でなんとかできないか聞きます)」ことを提言します。」
とまで提案してくれました。
この段階では、西日本ではそうでしょうが、東海道新幹線は大丈夫。なにしろ九州に上陸して四国・中国と経由するうちに台風の威力は弱まるのだから、と公言さえしていました。この間の自然災害について、東京ないし南関東の被害は比較的少なく、徳川家康の江戸立地センスのすばらしさ、なんてことさえ東京の親しい仲では口にしていました!

実際、土曜に大阪について、雨ではあったけれど、とくに風がどうとかいうわけでもなく、午後の研究会は時間とともに討論も充実しました。「礫岩のような国家」をどう見るか、から「近世ヨーロッパ」をどう見るか、さらに今一度、「ウェストファリア体制を再考する」とかいう問題設定から一歩先へ進んで、
・主権概念の生成プロセスにおける類似用語の併存・重なり;
・主権者の家産領や、特権的な社団の編成を越えて「国家/主権国家っていったい何なんだ」という問題への回帰 -
という所まで確認できました。神聖ローマ帝国(Reich)および皇帝(Kaiser)、ドイツ王、ローマ王のなんとも絶妙な用語法も!
5月27日の早稲田における歴史学研究会大会、合同部会「主権国家 再考」およびその特別号での刊行(晩秋)が、おそらく西洋史研究および世界史研究にとってひとつの画期になりそうな予感も共有して、とても良かったのですが、それだけに2日目が先に延期というのが残念至極。
遠方から来て夜の会食後に大阪に泊まるのはぼく一人(他はみな今晩中に帰途へ)、と分かり、さんざ脅かされ、帰宿して、日曜午前は、新大阪発11:40 → 東京着14:13(のぞみ16号)が最終、という報道とJR新幹線サイトも確認しました。そのあと、書いたのは【 29 Sep 2018 23:14 】
「いろいろとありがとう。‥‥テレビおよびインターネット情報で、午前中の新大阪発上りは大丈夫ということで、早めに帰宅します。今日の研究会は、佳境に入って時間切れというのがもったいなかったね。」
という具合に呑気でした。朝食もゆったり摂って、宿は交通至便なところなので、JRを乗り継いで新大阪に11時前に着けば楽々‥‥と。

2018年9月27日木曜日

木谷勤さん、1928-2018

木谷先生が亡くなったと、昨日、知らされました。
1928年4月生まれですから、90歳。

名古屋大学文学部で、北村忠夫教授の後任としていらっしゃり、1988年3月まで同僚でした。そのときの名大西洋史は4人体制(教授二人、助教授二人)で、年齢順に、長谷川博隆、木谷勤、佐藤彰一、近藤、そして助手は土岐正策 → 砂田徹と替わりました。志摩半島や、犬山ちかくの勉強合宿にもご一緒していただきました。
それよりも、名大宿舎が(鏡池のほとり、桜並木の下の)同じ建物の同じ階段、3階と1階の関係とあいなりましたので、その点でもお世話になりました。お宅でモーゼルのすばらしく美味しいワインを頂いたこともあります。福井大学時代の Werner Conze 先生のこととか、いろいろ伺いました。

何度も聞いた、忘れられない逸話は、戦争末期のやんちゃな木谷少年のことで、高等学校に入ったばかりだったのでしょうか。高松の名望家のぼっちゃんで、成績もよく、理系でした。空襲警報が鳴ると、いつもお屋敷の屋根に上って、阪神方面に向かう高空の米軍機を遠望し、「グラマン何機飛来」とか、今日は「B29何機」と大声で下の人に向けて告げるのを常としていた、といいます。
ところがある日、ふだんと違って飛行編隊の高度があまり高くなく、こっちに向かってくるではありませんか。爆撃機が機銃射撃しながら近づいてきたと認識した途端、身体に痛みを感じ、屋根から転落した木谷少年は、その後、数日間意識不明だったといいます。気付いてみるとみんなが心配してのぞき込んでいた、そして左腕は切断されていた。
木谷少年も、こうして高松空襲の犠牲者で、さいわい命はとりとめましたが、両手を使っての実験はできないので理系の道はあきらめ、戦後、文系、しかも西洋史・ドイツ近代史を専攻することになったわけです。(「花へんろ」の早坂暁と1歳違いですね。松山と高松という違いもありますが。)

山川出版社の旧『新世界史』の改訂版、および『世界の歴史』を出すための編集会議(2000年ころ)でご一緒して、そうです、ぼくの原稿が従来の謬見のまま、プロイセンおよびドイツ帝国について権威主義・軍国主義の中央集権国家*、と書いてるのを、そうではなく連邦主義の複合国家だと言ってくださり、誤りの再生産を防いでいただきました。
なおロンドンのベルサイズ(ハムステッドの手前)にはお嬢さん一家が滞在中のところ、ご夫妻で寄寓ということでしたが、ニアミスで残念でした。
ご夫妻と直接お話ししたのは、2008年の松江が最後だったでしょうか。いただいたお年賀状は去年のものが最後となりました。

* 近代ドイツを中央集権国家というイメージで語りたがるのは、いつの誰からでしょう? 伊藤博文・大久保利通以来、明治~昭和のオブセッション? 関連して「30年戦争」以来、ドイツはバラバラで荒廃した、といった定型句もありました。坂井榮八郎さんの『ドイツ史10講』(2003)が徹頭徹尾、こうした中央集権(を目標とする)史観に反対しています。

2018年8月28日火曜日

ことばの歴史性


 話はあちこち逸れましたが、16・17世紀にもどって、もし大航海時代の冒険商人たちが(日本列島でなく)現代のアメリカ合衆国に遭遇したなら、軍の最高司令官=大統領のことは emperorと呼び、合衆国の国のかたちについては邦 state を50個も束ねる empire だと形容したでしょう。だからといって、今日の政治学者も歴史学者も、大統領は「皇帝」だ、合衆国は「帝国」だと呼ぶわけにはゆきません(そう言いたくなる折々はあっても!)。
 むしろ現代のアメリカ合衆国は連邦制の imperium「主権国家」で、大統領は imposterならぬ imperator「国家元首」で、議会や司法の掣肘をうける存在でしょう。上記の平川『戦国日本と大航海時代』の引用部分について確認するなら、大航海時代のポルトガル人やイエズス会士は、日本列島を統一途上の imperium「主権国家」、秀吉や家康を(フェリーペ2世やジェイムズ1世のような)imperator「強大な君主」「主権者」と認めた、というのに他なりません。

 16世紀末と19世紀末は異なる時代です。300年の歴史をはさんで、近世・近代のヨーロッパの政治用語は 1648年のウェストファリア体制、1815年のウィーン体制の〈諸国家システム〉を前提にしたものに転じ、用法が異なります。同時に単語としての継続性も残る。歴史研究者なら、言葉の継承と、その意味の転変とのデリケートなバランスを捉えないとなりませんね。
 ユーラシア史の大きな展開。これを十分に把握するためには、アジアだけでなくヨーロッパ史の新しい展開も看過できない、ということです。西洋史も、2・30年前に高校世界史で習ったのとは違うのですよ!

2018年8月27日月曜日

<帝国>と世界史


(ちょっと日にちが空きましたが)『日経』郷原記者の「アジアから見た新しい世界史 -「帝国」支配の変遷に着目」の続きです。第1の論点について異論はありません。特別に新規の説ではなく、多くの読者に読まれる新聞の文化欄8段組記事ということに意味があります。

 第2の論点、帝国となると、そう簡単ではありません。郷原記者は平川新『戦国日本と大航海時代』(中公新書)を引用しつつ、16~17世紀に「日本は西欧から帝国とみなされるようになった」「太閤秀吉や大御所家康は西欧人の書簡で「皇帝」、諸大名は「王」とされた」と紹介します。
 それぞれ empire, emperor, king にあたる西洋語が使われていたのは事実ですが、そもそも中近世の empire を帝国、emperor を皇帝と訳して済むのか、という問題があります。近藤(編)の『ヨーロッパ史講義』(山川出版社、2015)pp.93-105 でも言っていることですが、emperor はローマの imperator 以来の軍の最高司令官のことで、近世日本では征夷大将軍や大君(ないし政治・軍事の最高支配者)を指します。京のミカドというのはありえない。
 また empire はラテン語 imperium に由来する、最高司令官の指令のおよぶ範囲(版図)、あるいはその威光(主権)を指していました。だから吉村忠典も早くから指摘していたとおり、帝政以前の共和政ローマにも imperium (Roman empire の広大な版図)は存在したのです。『古代ローマ帝国の研究』(岩波書店、2003)および『古代ローマ帝国』(岩波新書、1997)。
 たしかに近現代史では emperor は皇帝、 empire は帝国と訳すことになっていますが、その場合でも emperor は武威で権力を手にした人、というニュアンスは消えないので、神か教会のような超越的な存在による正当化が必要です。中国の皇帝が天命により「徳」の政治をおこなったように。
 1868年以後の日本では将軍から大政を奉還されたミカド、戊辰の内戦に勝利した薩長の官軍にかつがれた天皇に Emperor という欧語をあてましたが、これはフランスの帝政をみて、また71年以降はドイツのカイザーをみて「かっこいい」と受けとめたからでしょう。ただし、武威で権力(統帥権)を手にしただけでは御一新のレジームを正当化するには不十分なので、神国の天子様という「祭天の古俗」に拠り所をもとめ、89年の憲法でも神聖不可侵としました。そうした神道の本質をザハリッヒに指摘した久米邦武を許さないほど、明治のレジームは危うく、合理的・分析的な学問をハリネズミのように恐れたのですね。

2018年8月22日水曜日

世界史と帝国


 このところ『日経』の記事にあらわれた現代史および今日的な情況について発言を繰り返していますが、じつはその動機/促進要因は、8月11日(土)の文化欄、
アジアから見た新しい世界史 -「帝国」支配の変遷に着目」にありました。
 これは郷原信之さんの久しぶりの署名記事で、2つほど大事な論点(の混乱)があって、そのことを明らかにするのは簡単ではない、一つの論文が必要なくらい、と思ったのです。しばらく対応できないでいるうちに、次々に周辺的な、簡単にコメントできる問題が続いたので、そちらに対応してうち過ごしていた、というわけです。

 帝国や世界史といったテーマで、長い研究史をふまえた話題の出版物が続いていますが、これはじつは郷原さんの東大大学院における研究関心でもあった。彼が修士を終える2001年春までに『岩波講座 世界歴史』は完結し、イスラーム圏をはじめとする「東洋史」の勢いもあたりを払うほどのものとなり、加えてイギリス史における「帝国史」研究グループもミネルヴァ書房の5巻本の企画を進めていたころでしょう。
【それまで関西の人たちの愛用していた「大英帝国」という語が - 木畑さんの語「英帝国」を経て - 中立的な「ブリテン帝国」ないし「イギリス帝国」に替わるのも、これ以後です。まだまだ大英帝国が大日本帝国と同様に右翼の用語だということを知らないナイーヴな人たちばかりでした。スポーツ大会の開会式で、右腕をまっすぐ伸ばして宣誓するスタイルがヒトラー・ユーゲントの作法だと知らないまま、指摘されて「別にそんな邪悪な意図があったわけじゃありません」と釈明するのと同じ。歴史的に無知な公共の言動は罪です。】

 郷原さんの論点の第1は、西欧中心史観ではない世界史、ということで、岡本隆司羽田正といった方々の著作によりながら、いまや学界のコンセンサスと思われることが確認されます。西ヨーロッパがグローバルな勢いをもつのは、15・16世紀の貧弱なヨーロッパの冒険商人が、豊かなアジア(インド)の通商に交ぜてもらうことを求めて大航海に乗り出してから、かつ(偶然が重なって)アステカおよびインカの文明(帝国?)を簡単に滅ぼしてしまってからです。アジアに対して傍若無人・蛮行は通用せず、その豊かな経済と文化に遅参者として交ぜてもらうしかなかった。その結果は、対アジア貿易の赤字の累積です。なんとかせねばならない。
 18世紀からいろんなことが重なって、ユーラシアの東西関係は激変し、なぜかオスマンもムガルも清も、ヨーロッパ人に対する関係が弱腰になる。イギリス・フランスの植民地戦争がグローバルに展開するのも同じ18世紀です。戦争と啓蒙と産業革命の18世紀の結果として、近代西欧はわたしたちの知る近代ヨーロッパとなった。1800年の前と後とで世界史の姿はまるで違います。そして、これは今日の歴史学のコモンセンスで、『日経』の記事がその点を、別の筋から確認したことには意味があります。
【念のため、古代ギリシアをオリエント文明の辺境として捉えるのは今に始まったことではなく、『西洋世界の歴史』(山川出版社、1999)pp.4, 8 などにもすでに明記されています。大航海の動機や産業革命の始まりを合理的に説明するには、西欧中心史観では不可能、ということは、拙著『イギリス史10講』(岩波新書、2013)でも、今秋に出る『近世ヨーロッパ史』(山川リブレット、2018)でも繰り返しています。】

ただし、第2の論点、帝国となると、そう簡単ではない。そもそも empire を帝国と訳してよいのか、という問題から始まります。

教養主義とデモクラシー


 教養主義といえば、講談社現代新書(今年2月刊)の『京都学派』pp.224-226 には、教養主義について(も)恐るべく、ええかげんなことが記されています。著者、菅原某とはぼくの知らない人。
 そもそもこの新書には、近代日本の重要な思想家の氏名と生没年、経歴は列挙されているが、著者自身の表現によれば「言うなれば「師」を外側から観察して「師」の教えをつまみ食いして満足する手合いのもの」p.225、と。そこまで自分のことを認識して書いていたんですか!?
 この菅原某さんは哲学はかじっていても、そもそも歴史的に考えるということができない人のようで、せっかく『世界史的立場と日本』および『近代の超克』における高山岩男と鈴木成高と河上徹太郎の間の「二つの近代」あるいは「近世」と「近代」をめぐるズレ・対立に言及しながらも、なにか意味ある論理が構築されてゆくわけではない(pp.124-137)。長い引用が続くだけです。

 教養主義/教養を語るより前に、自分で観察して調べ、自分の頭で考える、といった習性が、まったく身についてない人、あるいは、そんなことに意味があるの? といった時代・世の中に、ぼくたちはいま包囲されているのだろうか。トランプ現象/フェイクニュース現象は、合衆国だけの問題ではありません。というより(教養市民の核なき)デモクラシーの危うさは、トクヴィル以来、早くから予言されていました。

2018年8月21日火曜日

教養と新聞記者

 
 このところちょっと『日経』をほめすぎたようですから、今日は苦言を。
歴史や哲学 手軽な教養書ヒット」という『日経』8月13日(月)夕刊の記事。
「教養書ブームの歴史」という横組の年表(?)も添えられていますが、1954年のカッパブックスに次いで1968年の吉本隆明『共同幻想論』、その次は1976年、渡辺昇一『知的生活の方法』、そして1983年浅田彰『構造と力』‥‥、といった選択の基準がわからない。テキトーに10年に一つを選んだということかもしれないが、それにしても戦後の高度成長期に「世界文学全集」のたぐいが各社から出て、戦前からの岩波新書の好調に続き(この記事にも言及された光文社「カッパブックス」の後には)、中公新書、講談社現代新書の創刊が続いたこと、そして60年代半ばから90年代まで『岩波講座』が大学生市場を席巻したという事実をうかがわせる兆候は示してほしい。
 本文では、野本某の言「いずれ古びるハウツー本を読むより、古典的な教養に触れた方が自分が高まると感じる人が多いのではないか」という引用。その2段下には、歴史学者(?)與那覇某の言として「教養を通じて、無限に広がる世界へアクセスしたいと思っている読者は、そう多くない。‥‥昔から伝わってきたものに宿る本物らしさに、安心を求めているのでは」と引用されている。
 これでは、できの悪い大学生のレポートみたいなもので、「教養」というものに触れたい人が多いのか少ないのか、いったいどっちなんだ、と詰め寄りたくなる。両者の意味する「教養」の内実が違うと示唆しているわけでもなさそう。だれがどう言っていますという引用センテンスを並べるだけなら、キッザニアで「記者ごっこ」をして遊ぶ孫たちにもできる。

 さらにいえば、戦後の高度経済成長にともない、大学進学率が(1950年代の)8%くらいから(70年代に)20%を越え、(2000年代には)40%を越えました(男女計)。2010年以後進学率は50%を越えたとはいえ、停滞しています(当然でしょう!)。そもそも若年人口も総人口も大卒人口も「団塊の世代」の250万人/年が押し上がるとともに増えてきたわけで、教養主義の盛衰は、大学生( → 大卒者)の絶対数および総人口比とあきらかに相関しているでしょう。
文科省の発表数値を西暦に書き直した表(4大について)
大学への進学率グラフ(第6図が4大について)
年次統計.com(短大を含む進学率)

 そうしただれでも思いつく事実の示唆さえないのは、担当記者(2人)の取り組みのええかげんさを示しています。つまり、これは「盆休みの[スペースを埋めるためだけの]消化記事」だった、ということなのかとさえ疑われる。
デスクにも責任があります。「しっかり事態を観察して、背景を調べ分析し、立体的な論理をたて、こうだという説得性のある文章にして、初めて大卒の書いた記事になるのだ」とかいって原稿を突っ返す、デスクはいなかったのか。

2018年8月18日土曜日

堪え/がたきを堪え 忍びがたきを忍び


 「平成最後の夏(上)」のつづきです。『日経』の同じぺージに「終戦の詔書」の原本の写真があります。記者は詔書の日付が8月14日だということの確認のつもりで添えたのかもしれませんが、この写真はそれ以上に雄弁で、「玉音放送」を朗読した昭和天皇の「間」の悪さというか、演説の下手さかげんの根拠のようなことがようやく見えてきました。

 大きな字で清書してあるのはよいけれど、(昔の正しい国語らしく)句読点がまったくないばかりか、なにより行の切れ目と意味の切れ目が一致しない。
【以下、写真のとおり詔書を転写するにあたって、行の切れ目に/を補います。それから文の終わりに、原文にはないが「。」を補います。カナに濁点もありません。こんな原稿を手にして、なめらかに、リズミカルに朗読せよ、というのが無理というもの。】

【前略】  ‥‥爾臣民ノ衷情モ朕 善/
ク之ヲ知ル。然レトモ 朕ハ時運ノ趨ク所 堪へ/
難キヲ堪へ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ/
太平ヲ開カムト欲ス。/
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾 臣/
民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ。/  【後略】

(わたしたちの感覚では)まるで清書した役人が意地悪だったのかとさえ憶測されるほど、パンクチュエーションもブレスも無視した原稿です。
 玉音放送のあの有名な「然レトモ 朕ハ時運ノおもむク所 堪へ[ここに1秒弱の空白]
がたキヲ堪へ 忍ヒがたキヲ忍ヒ‥‥[このあたりは順調に朗読]」
の読み上げで、音楽的にも文学的にもナンセンスな「間」が入ったのは、ご本人のせいではなく、じつは大書された原稿の行末から次の行頭へと縦に眼が移動する(Gに反する動きゆえの)物理的な「間」なのでした!
 詔書はマス目の原稿用紙ではないのだから、気の利く臣下だったら、(句読点の代わりに)数ミリの空白や文字の大小を上手に巧みにまじえて、行末で重要語のハラキリ、クビキリが生じないように清書できたでしょうに。【今日の NHKのアナウンサー原稿も大きな縦書きですが、句読点は明示し、なるべくハラキリ、クビキリの生じないように工夫しているでしょう。】
 陛下、まことにご苦労なさったのですね!

それにしても「爾(なんじ)臣民」のくりかえしが多い。上の6行だけで3回も!
 ポツダム3国(連合軍)の意向ににじり寄りつつ、「‥‥國體(こくたい)ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾 臣民ノ赤誠ニ信倚シ」、天皇制を維持してよいというかすかな保証をなんらかの筋からえて嬉しい。なんじ人民も蜂起や軍事クーデタを企てることなく、「赤誠」の志を示してくれるなら、共にやってゆこうと祈念していたわけですね。

8月15日ということ


 
 『日経』14日夕刊の「8月15日 ニュースなこの日」という記事は、簡潔でザハリッヒでした。1995年、村山首相の「終戦記念日にあたって」という談話。これは特に日本遺族会会長、橋本龍太郎の合意をとったうえで閣議決定、発表にもちこんだのでした。
 記事の最後、「‥‥戦後70年談話でも安倍晋三首相は、過去の談話でキーワードとなった「植民地支配」「侵略」「反省」「おわび」の文言を全て盛り込んだ。いずれの談話も閣議決定し、政府の公式見解となった」と締めているのが良い。

 ここから昭和天皇を怒らせた靖国神社のA級戦犯合祀(1978年)を撤回する決断までは、あと一歩かと思われますが、しかし、日本政治の決定的局面で、今なお「右翼バネ」が効いているわけです。
 同じ『日経』、14日(火)の社会面で「平成最後の夏(上)」という連載が始まりました。この日は、全国戦没者追悼式の変遷をたどり、これが最初に開催されたのは1952年5月2日、新宿御苑で、その後、空白がつづいたこと。1963年8月15日に日比谷公会堂で再開され、翌64年に靖国神社で、65年に日本武道館で開催、以後これを踏襲、という事実が確認されます。
 そのうえで、シンボリックな日付8月15日の根拠をあらためて問うているのが良い。「終戦の詔書」は8月14日(ポツダム宣言受諾日)付、降伏文書に調印して国際法的に戦争が終わった日は9月2日。では、なぜ8月15日が終戦=敗戦の日とされてきたのか? 一に「玉音放送」と「お盆」との重なりゆえで、なんとも内向きでガラパゴス的な invention of tradition なのでした!

 靖国の関連で、念のため、右翼であることと、保守であることは、同じではありません。保守(反革命)はバークやピールのように、ある普遍的な世界観に結びつきうる。それにたいして右翼(ナショナリズム)は、アメリカのKKKも、日本の軍部も遺族会も、普遍性への指向はなく、縦に連なるとされる(本質!?の)系譜にこだわり、これを相対化するような批判にはハリネズミのように身構える。井の中の蛙ですが、武力をもつと、こわい! 

2018年8月17日金曜日

ピンチはチャンス → 東ロボくん


 海辺の砂浜になにかを描く黒田玲子さんの大きな写真を日曜の『日経』でみました。なんと両面見開きの記事には、「右がダメなら左へ」とタイトルがついています。国文学のお父様、本に囲まれた仙台のお宅のことは何度か聞いていますが、70年代後半、ロンドン大学でのトンデモナイ初日の試練については初めてかも。
https://www.rs.tus.ac.jp/kurodalab/jp/Member.html
「ピンチはチャンスなんです」とか、「理不尽なことがあって不平を言うのはいい。でもそれきり行動しないのであれば同情しか(さえ?)買わない。あなたに本当にやりたいことがあるなら、まず自分で考え抜き、人のアドバイスも聞きなさい。必ず扉は開かれる。」という力強い助言で、この長いインタヴューは締められる。黒田さんはぼくと同じ年に東大教授を退職した方ですが、はるかに活動的な現役の先生です。

 国文学と無縁ではないが、国語力、読解力ということで、国立情報学研究所(NII)の新井紀子さん(AIロボットに東大入試を解かせて合格させる「東ロボくん」プロジェクトのリーダー)の前半生が、8月6日から『日経』の夕刊に連載で語られていました。
なんで一橋大学卒の数学者がAIを? という前々からのナイーヴな疑問は、どういった小中高の生活を送った人なのか、ということから氷解しました。(部分的には)上の黒田玲子さんと同じような行動力、動員力のある方なのですね。
 それから、一橋の授業では、新井さんもまた、数学の先生とともに、阿部謹也さんの授業に魅了された一人だったとのこと! アベキンの魔術的な魅力を語る人は、盗聴者もふくめて、多いですね。1980年代のことですが、阿部先生に名古屋大学の集中講義に来ていただきましたら、そのまま後を追って東京に行っちゃった院生がいました。

2018年8月16日木曜日

「花へんろ」ぞなもし


 猛暑と大雨ばかりでなく、驚くような事件も続きます。みなさんは、いかがお過ごしでしょう。
 7月末からほとんど10日間ちかく、「ウイルス性喉カゼ」というのにやられ、年齢のせいかもしれませんが、猛暑も加わり、かなり苦しみました。「喉が痛いな」という感覚から始まり、翌日からセキ、痰が出始め、(ウイルス性で投薬は効かないということなので)栄養と十二分の安眠で自力治癒を目指しましたが、そう簡単には回復しませんでした。

 その間、知的活動はあきらめ、BSの再放送をはじめ、いくつかの古いドラマや映画を見たりして過ごしました。とりわけ「花へんろ」と「新花へんろ」は愛媛県松山市の郊外「風早町」の「勧商場」とその近隣の人間模様を、関東大震災(1923)から敗戦(1945)、そして戦後のカオスにいたるまで定点観測した作品。そういえば、1985-88年、そして1997年に見たことを想い出しましたが、細部はずいぶん忘れています。早坂暁のライフワークでもあり、桃井かおりの「成長」を目撃する作品にもなりました。
 「昭和とは どんな眺めぞ 花へんろ」という早坂暁の句が毎回、最初と最後に詠まれ、時代を描きつつ、高度経済成長以前の地方の商家と、それぞれの理由で四国遍路に出かける人々の悲哀が語られます。

 じつは松山市中に生まれたとはいえ5歳までに四国を出たぼくにとって、お遍路さんはまったく馴染みのない存在ですし、また「‥‥ぞなもし」という言い回しも親類縁者の間で聞いたことがなく、大人になってからむしろ余所者感覚で認識することになります。
むしろ昭和の後半の松山の人々にとって、お遍路さんよりも瀬戸内、そして大阪とのつながりの方が大きかったと思われます。戦争を生き延びた父も叔父も、そして(尾道の)ぼくの母の父も人生の前半の重要局面で、大阪の学校や企業(日立製作所、大阪商船、東洋レーヨン)に関係していました。「新花へんろ」では東京のエノケンの偽物、大阪の「土ノケン」が登場して笑わせますね。

2018年7月31日火曜日

東大闘争の語り

災害と猛暑が交替で襲来します。お変わりありませんか。
小杉亮子『東大闘争の語り-社会運動の予示と戦略』(新曜社)が出たことを、塩川伸明さんから知らされ、購入しました。

読んでみると、pp.38-39に聞き取り対象者44名の一覧が(許諾した場合は)本名とともにあり、最首助手、長崎浩助手、石田雄助教授、折原浩助教授、から大学院の長谷川宏さん、匿名の学部生がたくさん、そして当時仏文だった鈴木貞美にいたるまで挙がっています。匿名ではあれ、話の内容(と学部学年)からダレとわかる場合も。ふつうは東大闘争の抑圧勢力として省かれる共産党(当時は「代々木」とか「民」とか呼んでいた)関係の証言もあり、叙述に厚みがあります。何月何日ということを極めつつ歴史を再構成して行くのも好感がもてます。45年~50年前の集団的経験について、インタヴューに答えつつどう語るか。当事者の証言を史料としてどう扱うか、方法的にも価値があると思われます。

ただし、方法的に社会学であることに文句はないが、当時の東大社会学関係者の証言が偏重されています。いくらなんでも東大闘争の関係者として、和田春樹さんや北原敦さん(そして塩川伸明さん)を含めて、歴史学関係者の証言がゼロというのは、どうかと思います。
(『文学部八日間団交の記録』を録音からおこして編集した史料編纂者はぼくですし‥‥)文学部ストライキ実行委員会の委員長は西洋史のK(Kは69年に全学連委員長になってしまったので、下記のFFに交替)、学生会議を仕切っていたのは仏文のF、あまり知的でなく行動派のSも西洋史でした(このイニシャルは本書のなかの証言者の記号とはまったく別)。東洋史院生の桜井由躬雄さんは亡くなってしまったので、ここに登場しないのは仕方ないとしても。69年1月10・11・12日に安田講堂や法文2号館に泊まり込んでいた西洋史の学生で後に重要な学者になった人は何人もいる。
哲学の長谷川さんの言として、「白熱した議論を哲学科と東洋史と仏文はやってて‥‥」(p.259)、また学部3年のFのことを紹介しつつ社会学科ではノンセクトの学生が活発に活動しており(p.262)といった一面的な語りは、大事ななにかが抜けていませんか? と問いただしたくなる。本書全体の導き手のような福岡安則の好みによるのだろうか。
そうした偏りはあるとしても、これまでの類書に比べると、相対的に信頼できる出版です。いろいろとクロノロジーの再確認を促されます。
社会学だと運動が予示的(≒ユートピア的)か、戦略的かという問題になるのかもしれません。しかし、『バブーフの陰謀』(1968年1月刊!)とグラムシを読んでいた歴史学(西洋史)の者にとって、「ジャコバン主義とサンキュロット運動」という枠組、そしてカードル(中堅幹部)の決定的な役割、といったことの妥当性を追体験するような2年間でした。

なお69年12月に文スト実のFFが呼びかけて(代々木の破壊工作を避けて)検見川で集会をもち、議論のあげくに「ストライキ解除」決議をとった。これは敗北を確認し、ケジメをつけて前を見る、という点で、たいへん賢明な決断でした。その後のFFは立派な学者になっていますが、先には70歳を記念して、ご自分の卒業論文をそのまま自費出版なさった。尊敬に値する人です。

2018年7月11日水曜日

夏草や‥‥


 放っておくと、母の家の庭もこんな具合。 Before.

 火曜の午後に二人がかりで、母屋と「書庫」と呼ぶも恥ずかしい小屋の間の庭に繁茂する雑草、とくに人の背丈くらいのセイタカアワダチソウを引き抜き、人が歩けるスペースを作りました。汗を1リットルくらい流して、腰痛も心配しましたが、こちらはなんとか。水分とともに、キウイフルーツ、そして水羊羹も食して生き返りました。 After. 撮影の角度は異なりますが。このとおり。
 玄関に吹き溜まっていた枯れ葉などを市指定のポリ袋に収めていたら、隣家のKくん(小学校の同級生でした、彼も70歳!)が帰宅し、声をかけてくれました。
 いろいろ未解決な問題は少なくないのですが、これですこしは爽やかな気持で陋屋をあとにしました。

2018年7月7日土曜日

さよならの挨拶

 例年より早い梅雨明け、ということでしたが、天の配剤か、記録的な豪雨が長く西日本を襲っています。どうぞ慎重にご行動ください。七夕です。

 そうした鬱陶しいなかに、『立正史学』123号が到着。奥付には2018年3月とありますが、それはタテマエで、本当はこの7月です。
 日本史とともに、西洋史関係では、北原敦さん、大西克典さん、近藤遼平さんとイタリア史がならび、ぼくの「さよならの挨拶:イギリス人とフランス人」が掉尾に位置する、計250ぺージあまりの充実した巻。
 刊行が遅れた責任の一半はぼくにあります。「さよならの挨拶」は3月31日の会のお話をもとに改稿したもので、それだけ皆様をお待たせしてしまいました。典拠の辞書を引き直し、読み直して論理をしっかりさせたのと、もう一つはなんと、プルーストの失われた英訳初版を求めて、東大の書庫を探し回ったからです。
 当日ご出席の皆様には、抜刷が出来てからお送りしますので、まだしばらくお待ちください。

2018年6月18日月曜日

大阪の地震


 今朝、起きぬけの大阪北部地震ですが、マグニチュード6.1。高槻、茨木、箕面あたりで震度6弱。ちょうど大阪大学のキャンパスおよび宿舎の広がる付近ですね。まだ正確なことを知らぬまま書くのははばかられますが、皆さん、どうぞ身の安全を第一にお考えください。
 85歳の男性が自宅で倒れかかってきた書棚に挟まれて死亡というのも、痛ましいニュースです。寝室に「腰より高い物は置くな」とよく言いますが、住宅事情からむずかしい場合もあるでしょう。
【さきの東日本大震災で、ぼくはたまたま自宅にいて難を逃れたのですが、翌日、大学に行ってみたら、部屋のドアはすなおに開かず、全身の力で押して入ってみると、書棚の本や書類が床に散乱していました。固定書棚とは別に、高さ2mのスチール書棚も16基くらいならんでいましたが、据え付けかたを以前から -初歩的な物理学の知恵で- 工夫していたのが幸いしたか、倒れたものは一つもありませんでした。】

 それにしても大都市の地震としては、被害は特別に甚大ではなく、耐震、耐火の対策がそれなりに効果があるのだと実感しました。不幸中の幸いです。
 フォーラム〈地球学の世紀〉ですでに2011年より前に(!)地震学者が警告していました。21世紀日本にとって、次から次と大地震が起こるのは避けられない。だから、都市とインフラの耐震化・津波対策は、ほとんど運命的に重要だと。
 → このフォーラムの全もくじは、https://honto.jp/netstore/pd-worklist_0629016704.html
 全会合の記録が、松井孝典監修全・地球学 1996-2017(ウェッジ、2018)というでかい本として出版されています。ぼくも2項ほど書いています。

2018年6月6日水曜日

階級闘争の歴史

 <承前>
 いま立正大学の院生たちと一緒に読んでいるテキストは、Gordon Taylor, A Student's Writing Guide (Cambridge U.P.). この p.10 に挙がっているエピソードを、昨日のラウル・ペック監督は味読すべきだと思いました。

... when I read those words by Karl Marx, 'The history of all hitherto existing society is the history of class struggles', childhood memories made me say 'and that's true!', just as years of reading and observation later were to fill in the details for that proposition and raise doubts about what it leaves out.

 そう、階級闘争は、ことの一面にすぎない。それ以外のことが人類史には一杯ある。読むべきこと、考察すべきことをネグレクトして、問題を単純に絞り上げて「敵」を示した上に、ナイーヴな大衆を扇動したマルクス・エンゲルスは、ほとんど文革の毛沢東と同罪、共和党のトランプと同じかもしれない。

 19世紀前半まではどうか知らないが、少なくとも1848年『共産党宣言』以後の社会主義運動にとって、ブルジョワ社会を倒したあと、どういった社会を創るのか、そして議会や国家、そして正しい者の「前衛党」といったものをどう機能させてゆくのか、こうした問題をきちんと考えることができないまま(棚上げにしたまま)、「批判的批判」に甘んじていた。これは、重大な欠損でした。

 というわけで、映画「マルクス・エンゲルス」は「カール・マルクス生誕200年記念作品」と銘打つには、足りない出来。責任の過半は、監督と制作スタッフの力量不足にあるかと見えます。
 いかに今の世がひどい、ネオリベラルが跳梁跋扈しているからといって、旧態依然たる共産党のプロパガンダでよしとするのは、人民への愚弄だと、ぼくは受けとめます。そう、ぼくはマルクス主義についても、ピューリタニズムについても、修正主義者です。悪しからず!

2018年6月5日火曜日

映画「マルクス・エンゲルス」


 今朝、岩波ホールで映画「マルクス・エンゲルス」を見ました。朝から行列ができて、若いのも退職世代も一杯なのには驚きました。

 フランス語原題は Le jeune Marx (若きマルクス)で、1840年代のケルン、パリ、ブリュッセルにおける妻イェニ(ジェニ)との生活、エンゲルスとの出会いと社会主義者たちとの論争。1848年2月の共産党宣言で終わる映画というので、あまり多くは期待できないな、と思いながら行ったのですが、案の定。
(ほとんどレーニン・スターリンの教科書にも出てきそうな)ドイツのヘーゲル哲学、フランスの労働運動、イギリスの経済学という3つの伝統(資産!)の合体したところに生まれる正しい理論・運動としてのマルクス主義。その生成過程をカール、イェニ、フレッド(エンゲルス)の信頼と友情と協力関係で描くという構えです。
 監督ラウル・ペックさんは1953年、ハイチ生まれとのことですが、ちょっと勉強が足りないのではないかと思わせるほど、図式的な(共産党の)マルクス主義理解です。そもそも若きマルクスの学位論文 -マルクスは19世紀前半の「大学は出たけれど」どころか、オーバードクター=アルバイターのハシリです- からのつながりは一切触れられないし、(『経済学哲学草稿』にも、いや後年の『資本論』の価値論にも現れていた)ヒューマンな人間論、むしろ実存哲学的な考察はオクビにも出てこない。

 映画の最初に森林伐採法・入会権にかかわる場面があるけれど、これもプロイセン政府の暴虐ぶりを表現するエピソードというだけの意味づけ? プルードンとの論争も、(字幕では)「所有」か「財産」か、といった無意味な訳になってしまった。Propriété も Eigentum も、自分自身(proper/eigen)であることと領有する(appropriation)ことにも掛けたキーワードです。
平田清明の『市民社会と社会主義』(岩波書店、1969)を読んでから出直すべきかも。これは、往時のベストセラー、もしや「岩波現代文庫」に入れるべき一つかもしれません。

 この映画で唯一、映画らしい説得力があったのは、ことばの運用です。マルクス、エンゲルス、イェニともに場面に応じて、相手と感情のままにドイツ語、フランス語を用い、ときにチャンポンでも通じた。むしろ19世紀前半はまだ英語がマイナーな言語であったのだとわかる作りです。そしてマルクスは、経済学を勉強するために、必要に応じて、英語を習得してゆく。メアリはアイリッシュ系の英語。

 他党派にたいするマルクス・エンゲルスの容赦のなさは、この後、ますますひどくなり、また48年議会におけるドイツ周辺部を代表して出てくる議員のドイツ語(の発音)にたいするエンゲルスの差別発言たるや、恐るべきものがありました。ぼくは『マルエン全集』で48年前後の赤裸々な表現を見て以来、エンゲルスをこれっぽっちも好きになれない。これほどの証言を全部収録して全訳する「全集刊行委員会」は何を考えていたのだろう‥‥。冷めた心でマル・エンに接しましょう、とか?

 大学院に入ってすぐの柴田ゼミのテキストは、1864年ロンドンの「第1インター」の議事録(英・仏・独語)でした。そこでの少数派=マルクス・エンゲルスの党派的で強引な動きもまた印象的で、柴田先生はどういうつもりでぼくたちにこのテキストを読ませているのだろう(そろそろセクト主義から足を洗うように‥‥とか?)、とにかく愉快でない経験でした。そして権威的マルクス・エンゲルス主義者であることから気持が確実に離れるきっかけにもなりました。『社会運動史』のメンバーへの援護射撃というおつもりだった?
 70年代半ばの柴田先生は19世紀フランス社会主義の歴史に集中しようと考えておられたようで、西川正雄さんと院ゼミを合同で持たれたこともありました。

2018年5月31日木曜日

東京大学出版会の歴史書

 渡邊 勲(編)『37人の著者 自著を語る』(知泉書館、2018)が到来。読み始めると止まらない。

 残念ながら、縁の薄かった東大出版会、そして歴史学研究会でした。ぼくの東大時代に、渡邊さんはすでに偉くなっていて、その下の高橋さん、高木さんから声がかからなかったわけではなかったのですが。もっぱら近年のぼくの怠慢のために「単著」はまだ日の目を見ていません。

 「渡邊編集長への献呈エッセイ集」ともいうべき、440ぺージをこえる書。部分的には、じつは「老人の繰り言」という箇所分もないではないが、むしろぼくの知らなかったいくつもの事実(坂野潤治、色川大吉‥‥)、そして研究史的な変遷や史料についての明快なコメント(権上康夫、高村直助‥‥)がおもしろい。
 なんと椎名重明先生が立正大学時代に研究室に置いた鞄を盗まれ、カネ目のものは失ったが、犯人にとって無意味なロンドンで書きためた史料ノート2冊はキャンパス裏手の有刺鉄線に引っかかっているのを五反田警察がみつけた! といった事件は知りませんでした。このノートが奇跡的に見つからなかったら、『近代的土地所有』(1973)はこの世に生まれなかったのですね。
 西洋史では、ほかに和田春樹、城戸毅、油井大三郎、増谷英樹、南塚信吾、木畑洋一、伊藤定良といった方々。

 というわけで、渡邊さんが東大出版会の編集者になった1968年4月(ぼくが本郷に進学した春!)から定年退職なさる2005年まで。そのうちでも主には70年代、80年代の、歴史学と出版をめぐるエピソードが一杯。最後の色川『北村透谷』は、出版契約からなんと30年以上かかって、1994年にできあがったのだという。

 とはいえ、たとえば石井進さんや西川正雄さんといったキーパーソンの証言がないと、重要な出版企画がどのように実現していったのか、あるいは消えていったのかの全体像は見えず、画竜点睛を欠く観があります。この本の編集は、もうすこし早めに始めてくださったら良かったのに、と思います。

2018年5月23日水曜日

広島にて


 19-20日に日本西洋史学会大会がありましたが、ぼくの宿は、このように元安川のほとり、広島平和記念資料館をすぐ左下に見て、原爆ドームを右正面に遠望する所にありました。
 こういう立地に立つと、かつての秋葉忠利・広島市長を想い起こします。
 秋葉さんは、例の秋葉京子さんの兄上。ぼくの中学の大先輩で、高校は教育大附属、AFSをへて東大理学部へ、そしてMITに留学して、アメリカで活躍する数学者でした。それが、あるときから日本社会党の議員になり、そして広島市長選挙に立候補して当選、3期を勤められました。
 数学者が政治家になった経緯については存じません。それにしても社会党内で村山富市に対抗し、東京と千葉とアメリカしか知らなかった彼が広島に根付いて、3度の市長選挙に勝利し、平和都市宣言を貫き、オバマ大統領を招致し、今あるような活気ある地方中核都市の建設に奮闘した、というのは生半可なことではないでしょう。

 高校の優等生としてAFS留学を経験したこと、コスモポリタンな学問=数学を専門としたこと(彼のあと数学者になる人/なろうとするヤツが、秋葉さんのあと、ぼくたちの学年まで何人も続きました!)、などもポジティヴな要因だったでしょうか。
 「そらには若葉かがやきて
  胸には燃ゆる自由の火‥‥」
といった中学の校歌を、ぼくたちは歌っていました。

 ‥‥そんなことを考えていた広島の宿に、なんと中学の高梨先生から電話をいただきました。伊那谷で秋葉京子のリサイタルをやろうという企画の話です。
 念のために秋葉忠利さんのブログを探してみたら、今日は日大アメフット部の問題を論じておられました。
http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/