2015年3月11日水曜日

BL の撮影解禁

12月19日のアナウンスに続いて、ついに MSS, Rare Books も! Asian ということは India Office Records もという意味ですね!
英国図書館(BL)を史料館として利用している者にとって、使い勝手が、大転換するということで、うれしい!

March 2015
Reader Service message
Self-service photography in our Reading Rooms

Dear Kazuhiko,

Following the initial roll-out of self-service photography http://email.bl.uk/In/77814854/0/ImXcnYgrN9plRfBAFSNb4zKFlqr1d9OGegMbENZPiJm/ in several of our Reading Rooms in January, we are pleased to tell you that this facility will be extended to the following Reading Rooms in March 2015:

• Asian & African Studies
• Business & IP Centre
• Manuscripts
• Maps
• Rare Books & Music

Our curators have been working hard behind the scenes to identify material that can be photographed. With over 150 million items in our collections this is a huge task that will take some time to complete. From 16 March 2015 a significant amount of additional material will be available for photography for personal reference purposes and curators will continue to identify more material appropriate for inclusion.

Items which cannot be photographed include (but are not limited to): those that have not yet been assessed as appropriate for photography; restricted or special access material; items at risk of damage; and items where there may be data protection, privacy or third party rights issues. This will be a small proportion of our overall collections. Of the material ordered across all of our Reading Rooms in 2014, more than 95% of those items would now be available to photograph.

You may use compact cameras, tablets and mobile phones to photograph material and any copies made must not be used for commercial purposes. As with our current copying services, copyright, data protection and privacy laws must always be adhered to.

Before using your device to take photographs, we kindly ask that you view our Self-service Photography Video http://email.bl.uk/In/77814855/0/ImXcnYgrN9plRfBAFSNb4zKFlqr1d9OGegMbENZPiJm/ This video outlines the new policy, along with information on copyright, data protection and collection handling.

A handout, available in the Reading Rooms, explains this facility and if you need further advice or assistance, please speak to our Reading Room staff.

Best wishes,
Reader Services

2015年2月24日火曜日

『史苑』75巻1号の書評

『史苑』(立教大学)の75巻1号(2015年1月)のPDFが送られてきて、拝見しました。青木 康さんが『イギリス史10講』をたっぷり書評してくださっています(pp.229-235)。
3週間あまり前に『西洋史学』に載った金澤 周作さんの書評は、『10講』を評しつつ彼じしんを語るかのごとく、若さ溢れる文章でした。『史苑』の青木さんの書評も、空気は全然異なるけれども、評者の人柄が巧まずして現れる、明晰な文章です。しかも読者の必要を配慮して(?)註の付された文章で、ありがたく受けとめました。

なお確認になりますが、
I. 『イギリス史10講』は、岩波新書としてはすでに限界を越えそうな分量でした。索引についてコメントしてくださっていますが、その項目は900以上用意したのを最終的に292にしたので、無理が残りました。刊行の1ヶ月前に、(本文が長くなりすぎたので)索引は4ページが限界と申し渡され、岩波書店の一室に2度にわたって缶詰になり、項目を削りました。
最終的な取捨選択基準としては、人名が時系列的に素直に(定石的な位置に)出てくる場合は、エドワード2世もフィリップ2世もヴォルテールもペインもエンゲルスも、アルバート公や E.パウエルさえも割愛するということにしました。研究者名についても、索引に日本人はほとんど登場しません。これでも「索引無しよりは、よほどまし」と自分に言い聞かせながらの苦しい作業でした。通常よりかなりポイントが小さいことにお気づきでしょう。

II. 本文最初のページ(p.3)で「アイデンティティと秩序のありかたに注意しながら、できるだけ具体的なイメージの浮かぶように述べたい」と記しているからには、「イギリスの通史‥‥の変化とそれらを通じての統一性を体現する要素」については、たとえば「王位の正当性の3つの要件」を -①②③という印とともに- p.33~p.274の間に 数度にわたって刻んでみました。これをご指摘のp.142 にも、またヴィクトリア治世の最初と後半(pp.214-15, 217-18)、1936年の王位継承危機(p.274)、そしてサッチャ期の王室と国教会(p.298)にも繰りかえし明記しても良かったかもしれませんが、くどくなるかな、と迷いました。
王を推挙したり承認したりする政治共同体については、中世史で「賢人‥‥すなわち歴史を知る聖俗の有力者」といった言い方から始まり、近世・近代・現代では「議会と教会」(p.158以下)にフォーカスすることになります。

III. 17世紀以降、トーリとホウィグのアイデンティティの核心らしきもの(pp.139, 160, 205-6, 213 . . . )、そして「ピットは‥‥自由主義者である」(p.204)と記述するときには、もちろんフランス史研究者たちと同時に青木さんの顔を思い浮かべていました。ピット、ピール、グラッドストンを同列に扱い、新自由主義者ロイド=ジョージと対照する(pp.257-8)というのは単純化しすぎ、とされるかもしれません。
また19世紀末からの現代的情況への取り組みとして、チェインバレン、ウェブ(ほかの社会主義者たち)、ランドルフ=チャーチル、ロイド=ジョージの交錯(そのなかにアイルランド・スコットランド・ウェールズ・インドなどの Home Rule 問題も組み込まれる)などをもっとしっかり浮き彫りにできればもっと良かったでしょう。そこは示唆に留まったかもしれません。
読者には明快な筋を示し、同時に問題の広がりと深さみたいなものを示唆して、各々考えていただく、というのが執筆の基本方針でした。ODNBや『イギリス史研究入門』のような参照文献は、巻末に明示しています。概してイギリス人歴史家の文章は、思い切りがよく、かつ余韻がのこる。政治も文化もしっかり取り組み、解釈する姿勢を、見ならいたいと思います。

IV. それにしても、ご指摘のとおり「‥‥近年有力となっている研究動向に積極的に向き合って叙述した結果、本書の上述の特徴が生じた」というのは真実です。『10講』のための勉強によって、ようやく「わかった/見えた」という論点が多々あります。「ハムレット」や「ぜめし帝王」や「本国さらさ」や「ワイン」(in vino veritas)では知的に遊ぶことができたし、また『福翁自伝』から『米欧回覧実記』『80日間世界一周』への繋がりは、年来あたためていたアイデアでもあり、pp.226-231で印象的に語れたかな、と思います。ビアトリス・ウェブ(pp.239-243, 278)についても、ケインズ(pp.271-272)についても、もっともっと素材はあるのですが‥‥
とにかく分量との、そして時間との戦いでした。キビキビとストーリを展開し、イメージ豊かに、しかも理屈はしっかり述べるといった、欲ばりの本でした。

ところで今日、再見した映画『イングリッシュ・ペイシャント』で、火傷で死に瀕したラズロ・アルマシ伯(Ralph Fiennes)が言っていました。「きみの読み方は速すぎる。キプリングの書いた速度で読んでくれ。カンマを付けて!」
この恋愛至上主義の映画の隠れたテーマは、20世紀前半のインテリたちの読書癖(ヘロドトス‥‥)と、朗読する習慣ですね。

2015年2月14日土曜日

ぶりてん数寄

きのうの続きですが、読売新聞オンラインの「ぶりてん数寄」には↓
http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/20150127-OYT8T50116.html
↑「坂次劇場」のシティ観光案内にことよせて、かなり単刀直入に
イギリス法の世界、そして信託法チャリティの歴史に読者をいざなう、たくみなウェブページもあります(やはり3回物)。
グローバルに仕事をするビジネスマンにとって、コモンロー、信託(基金)法、そしてチャリティの理解は必要不可欠です。小坂記者は「タテマエとホンネ」という筋に話を落とし込もうとされていますが、ずっと本質的な問題だろうと思います。
『イギリス史10講』では、公益団体、endowment、そして「ワクフ」や国のかたち論(pp.219-221)にまで言及してみました。
これには小松久男さんが『史学雑誌』の回顧と展望(2014年5月)でさっそく反応してくださり、ほっとしたものです。

2015年2月13日金曜日

ワインな英国人


12日に読売新聞オンラインの記者さんから下記のような連絡が参りました。
題名「酒都を歩く(ぶりてん数寄)」「ワインな英国人」からもご想像のつくとおり、帰宅途上にスマートフォンで読むようなライトな記事(3ページもの)です。

≪先ほど、インタビュー記事をアップいたしました。
 URLは以下の通りです。
http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakababanashi/20150130-OYT8T50208.html

また、連載記事の紹介を在日英国大使館が運営している Taste of Britain でも
紹介させていただいています。
https://www.facebook.com/oishii.igirisu

ヨミウリオンラインにアップ後、使用している写真の一部を使い、こちらのフェイスブックでも紹介をする予定です。≫

2015年2月7日土曜日

工藤光一さん

もう1ヶ月近く経ってしまいましたが、1月10日に工藤光一さんが亡くなりました。56歳でした。先月にはある方からメールで悲報をいただきましたが、昨夜は、ご夫人からの寒中見舞いが到来しました。

彼が院生の頃からのつきあいで、いろいろな場面が想い起こされます。樺山先生のお宅で毎正月に開かれていた(らしい)「一斗会」のこととか、柴田先生と彼とのやりとりとか‥‥。外語大からの、自他ともに任じる二宮宏之さんの愛弟子の一人でしたから、『二宮宏之著作集』第3巻(岩波書店、2011)の「解説」も執筆しておられます。闘病生活が長いことは存じていましたが、そのころは復調していたようだし、ぼくとしてはこの文章のトーンに不満で、そのように伝えました。

ぼくが「礫岩政体と普遍君主:覚書」の最後を執筆したときに想い浮かべていた人の一人が彼であることを隠す必要はないでしょう。
彼とのメールのやりとりの最後は2013年6月13~14日でした。
工藤さんの長いメールには次のような部分がありました。
以下引用
‥‥「礫岩政体と普遍君主:覚書」は、スケールの大きな問題提起にうならされるとともに、「おわりに」の二宮先生のお仕事についてのご見解には、考えさせられました。確かに、1990年代以降の二宮先生については、エトノスの複合性をふまえたうえでの res publica 論やホッブス的秩序問題、思想史・概念史にかかわる議論は棚上げされたかにみえます。ルフェーヴルの「革命的群衆」論文が集合心性の研究への橋渡しとしていかに枢要だったかを強調される一方で、「複合革命」論には言及されなかったのもご指摘のとおりでしょう。からだとこころとソシアビリテを軸に「社会史」ないし「歴史人類学」を構想してゆくうえで、「複合革命」論を取り込むことは、さしあたって必要なかったということなのかもしれません。
ご高論の中で、二宮先生の「文化史的な内向の磁力が、追随する若手研究者におよぼす抑制的影響力」を懸念しておいでで、「2000年代の内省的二宮は、具体的にその〔六角形の〕枠組ををこえて内外に浸透した秩序問題、そして概念史、世界史へと研究を広げようとする者に対する抑止力でもあった」とおしゃっておいでですが、「抑制的影響力」や「抑止力」という二宮先生が一番嫌われた力が現にあとに続く者に働いているかというと、私にはそうは思えません。私の場合、確かに「六角形の枠組」を越えることなく、フランス農村世界の政治文化史に一貫してこだわってきましたが、これは二宮先生からの直接的な影響力によるものというよりは、アラン・コルバンの「感性と表象の歴史学」が政治史に新たな地平を拓いたことに触発を受けています。コルバンの研究によって、農村世界の政治文化史には、まだ広大な未開拓の領野が残されていることが明確に見えてきたと思っています(詳しくは、『歴史を問う4 歴史はいかに書かれるか』岩波書店、2004年に所載された拙稿「記録なき個人の歴史を書く―アラン・コルバンの試みが意味するもの」pp.105-106をご参照ください)。
この未開拓の領野を切り拓いてゆく方向性において、私は二宮先生の「呪縛」なるものを感じたことはありません。他の研究者の場合は分かりませんが、多くの人たちが「偉大な先達をおもいつづけ、そのたおれたあと、未完の課題を引き継いで前へ進もうとする」点では、近藤さんと同じ立場を採っているのではないでしょうか。二宮先生のあとに続く者たちの間に、大塚史学の場合のように、「護教論者の集団」ができるようなことはないと信じています。
自分の病に対する不安で、少々鬱々とした気分でいましたところに、近藤さんから喝を入れられた思いがいたしました。刺激を与えて下さったことに深く感謝いたします。
工藤光一
以上引用

これにたいして、ぼくは謝意を表すると同時に、「‥‥歴史学はなにより体力勝負のようなところがあります。ぼくも家族も壮健ではありませんが、どうぞお大切に。」
と書いて送ったのでした。そのあと1年半、ついにふたたび拝顔することはかないませんでした。
ご冥福を祈ります。

2015年1月29日木曜日

『西洋史学』253号の『イギリス史10講』評

新年のご挨拶もないままで、失礼しました。余裕のない、しかし皆さんの厚意に守られた日夜がつづき、このブログの更新どころではありませんでした。

学年末、あわただしくも憂鬱な気持でいるところに『西洋史学』253号(2014年)が岩波書店から転送されてきました。金澤周作氏による『イギリス史10講』の書評(pp.63-65)があり、拝読、再読。これだけ「相当の気構えで臨んだ」書評をしてもらえるのは、人生でしばしばあることではなく、著者冥利に尽きるというものです。記されているコメントはいちいちごもっとも。さらにはこちらの意図を忖度して言語化してくださる部分もあります。
感想と弁明を、ちょっとだけしたためてみます。

I. ご指摘のとおり、『民のモラル』(1993年)で描いたような猥雑さや民衆的な生活文化が後景に退いているのではないか、という点は、自分でもこれ以外の書き方はないのかと思案したところです。結局は「国のかたち」「秩序問題」で筋を通すことにしました。政治社会史です。民衆文化的なところにはあまり歴史的変化の相は認められず、丸山眞男なら basso ostinato とでも呼ぶようなものを感じました。
ぼくは決して本質論的な/国民的な political culture 探しをしているわけではないので、その傾きのある「政治文化」論には反対でいます【歴史学研究会(編)『国家像・社会像の変貌』2003年】。むしろ歴史的に与えられた条件のもとで取り組まれた政治構想にこそ、今の興味と課題はあるようです。大学1年で学に志してからすでに50年近くも遍歴したぼくの今の営みを「広義の intellectual history」と呼んでくださるのに異存はありませんが、「卓越した人物たちが織りなす政治史(ハイ・ポリティクス)」とは、すこし違うのではないかという気がします。High politics とは politician たちの(政権/覇権をめぐる)権力闘争・合従連衡のことであって、政治構想・秩序問題の論議とは、やや次元を異にするか、と。
「認識論的歴史プラトニズム」とは、正直のところよく分からない表現でもありますが、しかし、水田洋さんが柴田三千雄『バブーフの陰謀』(1968年)の書評で「(意味ある)歴史とは結局、思想史なのではないか」といったコメントを記されたのを想い出しました【『史学雑誌』1969年】。クローチェが下敷きのコメントかもしれませんが、名言ではないでしょうか。

II.「‥‥作者のコントロールを越えたポリフォニーよりも、指揮者的な筆者が‥‥編成するシンフォニーが目立ってしまう」という評は、至言です。突き詰めると、近藤は、『フィガロ』のような遊びを知っているアマデウスより古典主義的な意志を通した晩年のモーツァルトの構成的なシンフォニー、そしてほとんど古典主義とロマン主義を体現したベートーヴェンのほうに、換言すれば「近代」に寄り添ってしまっている;その意味で、柴田史学を批判しているようにみえても、じつはその掌中で遊んでいたにすぎない - ということになるでしょうか。
「この‥‥作品を乗り越える一つの方向性は、多声性を叙述に反映させることにある」というのは当たっています。なにしろ通史は生まれて初めての経験でしたから(中学・高校の教科書で世界史を編集執筆したし、また別にヨーロッパ近世史の叙述を繰りかえしてはいますが)、そこまでバロック的な冒険をする自信はなかった。

III. なお最後に「‥‥見る主体である自分自身を反省し、哲学を定めて叙述する」と記しておられます。ぼくの場合は16年間の取り組みによってこそ、自分自身の歴史観/世界観は形成されたと思います。成熟したと言いたいところです。この間の情況的な転変に影響されていることは否定しませんが(ブレたのでしょうか?)、それはまたピューリタン的な純粋主義/原理主義をどう見るか、スミスを、豹変する君子たちをどう理解するか、帝国の経験と公共財、マルクス主義とは全然ちがう企てであるケインズやガンディをどう受けとめるか‥‥といった具合に、「一気呵成に書き下ろすやり方では不可能な」、試行錯誤というか、迷妄と勉強の産物です。
「哲学を定めて」それから書き出したのではなく、E・H・カーが歴史家の仕事について述べているひそみにならえば、史料文献を読みつつ、あるとき興が湧いて書き出し、一定程度すすむとまた史料(というより辞典から始まってあらゆる文献やインターネット情報)に返ってそれを別の視点から読み直す‥‥といった往還の繰りかえしでした。能率が悪く、あまり合理主義的でないぼくの仕事(歴史の作法)のせいで16年もかかってこの程度の書物となりました。叙述しながら哲学していたのです。

感動的な書評に動かされ、元気をいただきました。多謝。 近藤和彦

2014年12月19日金曜日

ついに British Library も!

こんな通知メールが到来しました。朗報です。
むずかしい相手でもあきらめずに要望し続けるものですね。
以下引用:

December 2014
Reader Service message
Self-service Photography

Dear Kazuhiko,

Over the past few years, many people who use our Reading Rooms have asked us
to consider introducing a self-service photography facility so that Readers
can use their own devices to photograph items for personal research purposes.

We are now pleased to announce that we are extending our current self-service
copying facilities to include photography. The new arrangements will take
effect from 5 January 2015 in the following Reading Rooms:

Boston Spa Reading Room
Humanities – Floor 1 & 2
Newsroom
Science – Floor 1 & 2
Social Sciences

We will review and assess the feedback we receive from Readers and staff,
before introducing self-service photography in the following Reading Rooms in
March 2015:-

Asian & African Studies
Business & IP Centre
Maps
Manuscripts
Philatelic
Rare Books & Music

You will be able to photograph all physical collection items which you can
currently copy using our self-service copying facilities. Because of license
restrictions that apply to some of our electronic resources, you will not be
able to photograph computer screens.

You may use compact cameras, tablets and mobile phones to photograph material.
Any copies made may be used for personal reference purposes but must not
be used for a commercial purpose. As with our current copying services, copy
right and data protection/privacy laws must still be adhered to.

Before using your device to take photographs, we kindly ask that you view
our guidelines on self-service photography
http://email.bl.uk/In/72187364/0/44CotTs5F9XtT7EDGk7xUssbuwClh4a4fgMbENZPiJm/

2014年12月10日水曜日

社会史・社会運動史: reflexions III

 承前
 岡田先生の遺著『競争と結合 - 資本主義的自由経済をめぐって』の心柱は、いうまでもなく「営業の自由」は人権か、公序か、そして(国家 ⇔ 個人だけでなく)中間団体からの自由、といった議論なのですが、その pp.156-165 には「革命的群衆の社会史的研究について」という『歴史学研究』No.520(1983)に載った書評論文が再録されています。ルフェーヴル(二宮訳)『革命的群衆』とリューデ(古賀訳)『歴史における群衆』という2冊の訳書を素材として、「‥‥民衆運動史の特徴と問題を若干考察し、社会史への一つの希望を述べてみたいと思う」と、これまたアーギュメントとしてしたためられた試論でした。

 「ところで、「民衆」とは、‥‥ひとつの抽象である」から始まる段落(p.158)で、岡田さんはこう述べられます。
「社会科学的に無意味で抽象的な「民衆」という用語は、歴史のなかでは、具体的効果を産み出す実体的機能をもつことがある。‥‥「民衆」というこの曖昧な用語、またそれで漠然と表象されているものの歴史的な意味や役割を問う必要はないか、このような問題意識を、旧来のマルクス主義的歴史学は無視ないし軽視しすぎていないか、さらにはそれを妨害することになってはいないか、こういう問いかけが、今日の社会史の問題提起の一つであるように思われる。」

 二宮さんを含み、また『社会運動史』(1972~85)を念頭においた議論であることは明らかです。【現在、『歴史として、記憶として』の巻末にある「略年表」では割愛されていますが、ワープロ原稿では、東大社研、岡田という固有名詞が見えました。また、1970年代のある日に岡田先生が、だれかすでに[ぼくが]名を忘れた左翼の教授にぼくを紹介なさる折に「近藤くんは民衆運動史をやっているんだ」と短く言われたときの空気というか、ある独特のムードを覚えています。】

 全体に岡田さんのルフェーヴルへの評価は高く、その結論部では、「結局、実証的な史実研究の積み重ねだけからではなく、‥‥人間の歴史についての彼自身の特定の見方=観点によって、選択された」ルフェーヴルの立場を強調なさる。そしてリューデについては、‥‥「これがこの大著の結語である。さびしすぎはしないか。」というものでした。
 刊行直後に名古屋でこれを読んだときの気持も覚えています。あまりに率直な岡田さんの評言にたいして、ぼくの反応は、同じGeorge(s) であっても、Rudé はさほどのすごい学者というより、社会民主主義的なリベラルであるし、またThe Crowd in History は「大著」というほどの仕事でもなく、過大な期待をしてもネ、といったものでした。
 「さびしすぎはしないか」というのは、George Rudé に対してよりも、むしろ「社会構成史が情熱的に問題とし、追究したもの」と無縁なところで史料と遊んで/溺れている70年代からの日本の社会史、社会運動史の人びとにむけられた批判だ、ということは誰にも明白だったでしょう。岡田さんの批判はちょっと違うな、と思いながら、ぼくは、まもなく「シャリヴァリ・文化・ホゥガース」『思想』740号(1986年)を執筆し、抜刷をご覧に入れた岡田先生から、ほとんど別離宣言のようなお返事をいただいた(と受けとめていました)。

 ところが、7日(日)夜の奥様はぼくに対して、まるで別のことをおっしゃった。どう受けとめてよいのか、にわかには分からないので引用しませんが、想い起こすに、2000年3月14日、米川伸一さんをしのぶ会のあと、東京駅近くの地下の店での懇談(吉岡さんも二宮さんもおられた)と、岡田先生の最後の言、「これも米川くんが引き合わせてくれたお陰だな」の含意も変わってきます。
 ゆっくり再考することにします。

2014年12月9日火曜日

岡田与好先生(1925~2014): reflexions II

 12月7日(日)は東京大学経済学部で、岡田与好先生(1925~2014)を偲ぶ会、というつもりで参りましたら、『岡田與好先生を偲ぶ会』という67ページの冊子、と同時に、なんと当日刊行のご遺著『競争と結合 - 資本主義的自由経済をめぐって』(蒼天社出版、2014)もいただきました。刊行記念会でもあったのです。
 1952年、53年のころ(27歳前後)の写真を拝見すると、ほとんど芥川賞でも取りそうな青年文士のような、あるいは、いたづら小僧がそのまま東大の秀才助手になったような雰囲気があって、いいですね。初めて見る写真です。
 山田盛太郎(1952年に)、大塚久雄(1966年に)といった大先生にも学会でしっかり噛みついた、論争的な岡田先生の勢いが、世良晃志郎さんとの友好的交わりをへて、『社会科学の方法』における「営業の自由」論争≒法学批判に繋がるのだということが、この日の皆さんのお話と写真から、よく納得できました。
 当然ながら、参集された方々はイギリス経済史、土地制度史学会、社会科学研究所、経済学部の方々が多いですが、ぼくのように傍系ながら先生から20代(1971~74)にしっかり学び、やがて30代(1980年代)から道を別にした者もいたことは、忘れないでください。
→ http://kondohistorian.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html

 毛利健三さんのご挨拶、お嬢さんの最後のお話、また権上康男さんとの会話など、心に残るものがありました。樋口陽一、石井寛治といった方々の明晰な話っぷりは心地よかったけれど、とにかく(山田、大塚、高橋、世良といった大先生は当然として)、安良城盛昭、吉岡昭彦、柴田三千雄、二宮宏之、遅塚忠躬、山之内靖、西川正雄と、みんな向こうに行ってしまわれたんだから、‥‥考えこんでしまいます。
 奥様からは、信じがたい、身に余るお言葉をいただきました。
 つづく。

2014年12月8日月曜日

相良匡俊さん(1941~2013): reflexions I

 秋から冬へと、あっという間でした。
 しかも大学入試関連の仕事の合間に、亡くなった方々を偲び、著作を再考する会が続いたりしたものですから、しめやかな気持、そしてわが人生に reflexive な考察がせまられる機会でもありました。
 11月28日は法政大学ボアソナド・タワーで、昨年亡くなった相良匡俊さんの『社会運動の人びと - 転換期パリに生きる』(山川出版社、2014年9月)の出版記念会がありました。
 主催は田中優子総長率いる法政大学で、そこにモト社会運動史研究会のメンバーが便乗させていただくという形で、ちょっと hybrid な会合となりました。相良さんの80年代以降、ぼくたちがあまり知らないでいた側面も出て、そういった意味では有意義な催しでした。
 相良さんの書く姿勢、生きる姿勢における「再帰動詞的な」ところを指摘された福井さんの挨拶、また『社会運動の人びと』の刊行にいたる経緯(友人たちの協力)をきちんと報告してくださった北原さんの発言で、この夕は締まりました。
 谷川さんもスペイン旅行から帰ったばかりとのことで、元気なお姿。
 その後は市ヶ谷で、生き残った者の、現在の元気度の品定め‥‥。

 ぼく個人としては、『社会運動の人びと』p.180に
「けれども、これで終わらせようと思う。第1に、‥‥気の利いたお化けが引っ込んでしまった感じがするし、第2に、こういう種類の仕事にすっかり、あきがきたこともある。第3に、取り扱うべきテーマは近藤和彦氏の縄張りに属している。‥‥そして第5に、にもかかわらず、言いたいことは、ほかに、どこかで言えるだろう‥‥。」
としたためられているのを再読するのは、1979年以来、なんと35年ぶりで、それこそ気の利いたお化けに再会した思いですよ、相良さん。
 このあと1981年に「労働運動史研究の1世紀」と「フランス左翼出版物の系譜」を公になさってから、相良さんはもう歴史学的な発言はなさらないし、学会のたぐいにはほとんど出席なさらなかった。
 ですから『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013)における「暗中模索のころ」という相良さんの文には、新鮮というか、驚きというか、デジャヴュのような感覚を覚えました。
【そして、亡くなる2週間ほど前のメールです。彗星のごとく再び姿を見せて、そして居なくなりました。
http://kondohistorian.blogspot.jp/2013/07/blog-post.html

Downton Abbey

 NHK地上波、日曜夜にいよいよ第二部が再開しました。
「日の名残り」的な、upstairs における貴族の世界と、downstairs における家僕の世界との交錯が、1912年のタイタニック後、いまは大戦中のヨークシャ州を舞台に描かれています。そこに加えて3姉妹の Jane Austen 風の「婚活」と、他の何組かの男女の組み合わせがよりあわされた作り話!

 20世紀初めの貴族と upper middle class との融合や、ロイド=ジョージ内閣のことが、時代のイシューとしてたいへん重要なはずですが、限嗣相続(継承的不動産処分)と貴族的 patronage の問題以外はほとんど出てこないまま。ステレオタイプな保守貴族(と家僕たち)versus 進取の気象でことに臨む中産階級、といった図式をうちだして、21世紀の大衆(直接には英・米の)の好奇心と視聴率をねらう歴史ドラマ。--と厳しい評価もありえます。「わざと」盛りだくさんでドラマチックにした展開も気になるけれど、学生・初学者には、時代の印象的前提として勧められる歴史ドラマですね。ただし、学生にはこの the Great War のさなかにイギリスは志願兵制度から徴兵制度に移行・転換したのだ、ということは分かっただろうか?

 個人的には、昨夜 Lancashire Fusiliers という古めかしい名の歩兵連隊が言及されて、マンチェスタ史としていささか懐かしい気がしました。

2014年10月5日日曜日

67歳の同期会

 ほんの2週間前のことです。ロンドン・コペンハーゲンから帰ってただちに、中学の同期会に参りました。
 40歳のときの会は覚えていますが(『朝日新聞』名古屋版にも書かせてもらいました)、そのあとはずっと会ってないのだろうか? 記憶が曖昧になりました。この中学から同じ高校へ50名以上が進学したので、そしてそのまま同じ大学へ20名ほどが進学したので、なんだかいろんなことが重なって記憶が厳密ではないのです(高校の同期会は60歳で参加して、たいへんなインパクトがありました)。
なにより不安だったのは、何人の顔がわかるだろうか、それよりいったいぼくが誰だと認識してもらえるだろうか、ということでした。
同期の一番の有名どころはオペラ歌手、秋葉京子でしょうか。東大理学部をへて広島市長をやった秋葉兄さんの妹さんです。集まったのは同期127名のうち41名で、大学教授も病院長も、昔の色男、今のつるっパゲ、今もきれいな専業主婦もいましたが、誰より15歳年長(すなわち82歳)の斉藤先生がお元気なのには圧倒されました。
 案ずるより易く、幹事さんたちのお陰で、きわめてすんなりと受けとめていただき、高石公平には『大学院紀要』の抜刷りを渡しながら、中学1年の冬に英和辞典を見ながら「Pig, hog, swine . . .」と暗唱しながら大笑いしたことを覚えているか尋ねたら、しっかり覚えていた! 1年C組で「近ちゃんはアメリカの50州全部を暗唱したり、円周率を何十桁も覚えたり‥‥」という高石は、鉄棒の大車輪でみんなを感服させる「ケネディー」だったのだ。
 たった一つの嫌な記憶は、他にも何人かが共有していたので救われた気持ですが、それ以外は、秋葉さんの先導で歌った校歌、戦後民主教育そのものでした。校長は飯田朝という憲法学者でした。

  空には若葉 かがやきて
   胸にはもゆる 自由の火
   亥鼻台に まなびやの
   歴史をほこる わが一中
   個性と自重 つねにあれ

   真理をもとめ もろともに
   不断の努力 たゆみなく
   文化の日本 うちたつる
   その先がけの わが母校
   平和と秩序 つねにあれ

 中学生のころは、歴史の教師になるとは夢にも思わなかった。それにしてもわが『10講』を貫く、心柱のようなテーマは「個性と自重」のありかた、「平和と秩序」のありかたの議論だったなぁと、あらためて感じ入ったことでした。

2014年9月19日金曜日

スコットランド をめぐる festival of democracy

 後ろ髪を引かれる思いで、投票日の18日(木)、ヒースロウからコペンハーゲンに乗り継ぎ、たったいま東京に帰り着きました。すでに19日(金)です。
 レファレンダムを「住民投票」と訳すのはどうかと思います(総選挙もまた住民が投票します)。今回のレファレンダムは、ゴミ処理場をどうするか、幹線道路をどうするか、といったレベルの問題ではなく、国のかたちを変えるかどうかという、国政選挙以上の国制をめぐる選挙ですから、人民投票に近い。
 選択肢は、単純:Should Scotland become an independent country? これに Yes か No で答える(チェック×する)という投票です。
 しかも有権者は、SNP の立法で、なんと16歳以上と定められました。自国の将来・未来を決める投票だから、だとしても高校2年生まで投票するのには、個人的に抵抗感があります。そもそもUKは政治的国民で、投票率は高いのですが、今回の有権者登録は97%にまで上ったというのだから、関心の高さは remarkable です。事前の世論調査では、Yesが48%、Noが52%。
 政府も、労働党もこれには脅威をおぼえて、投票前日にキャメロン首相(オクスフォード大学卒)、前首相ブラウン(エディンバラ大学出身)がともに連合王国堅持の立場から熱烈なキャンペーンをしました。
 17日にオクスフォードでお話ししたO先生とぼくは同じ立場で、ナショナリズムは不毛で、政治の視野狭窄をもたらすと考えます。
 いま開票結果が順に明らかになっている途中ですが、なんといっても大都市エディンバラとグラスゴーが決定的。エディンバラは18世紀からそうであるようにホウィグ的・UK支持。グラスゴーはひところまで労働党基盤だったはずなのに、いまは Scottish National Party の地盤になっているとのこと。最近の労働若者映画でよく描かれているとおり、失業若者が多い、したがって閉塞感の強い地域です。すでに1997年の労働党政権下でdevolutionが進行し、さらにSNPのサモンド党首がスコットランド首相に収まっているわけですが、21世紀のナショナリズム、煽りと内向で、スコットランドの将来ばかりでなく、連合王国の将来、そしてEUの将来を誤るデマゴーグではないか、というのがぼくの本音。
 独立して=主権国家になってどうするのか。あらゆる点で連合王国の重要部分として存在し、機能してきたスコットランド。しかし、イングランド人が結婚(Union)した相手をなおざりにしてきたことは確かで、プライドへのrespect が足りなかった、怒らせてしまった、ということも事実。タカをくくっていたこともたしか。
 ゴードン・ブラウンが What we have built together, by sacrificing and sharing, let no narrow nationalism split asunder! と熱弁をふるったのは、テレビでも見ましたが、18日のガーディアンは好意的です。
 開票途中で、案外、Yes が伸びないというので「安堵」の空気が出ているようですが、最後に最大の選挙区グラスゴーの票が確定するので、これが決定的です。No、すなわち連合王国が維持されるなら、スコットランド人も理性を失わずに合理的な選択をしたと判断してよいでしょう。さもなければ、連合王国全体、ヨーロッパ全体、コモンウェルス全体の政治文化は、良くない方向に展開するところでした。
 スペインも、フランスも(?)、さらには「琉球処分」にも関係するイシューです。

 多様性を前提に、連帯する連邦国家。アメリカ合衆国やドイツ連邦共和国に似た国制、が解決策でしょう。

2014年9月15日月曜日

スコットランド独立?

 ちょっと説明が足りませんでした。
(イングランド王、デンマーク王、ノルウェイ王を兼ねた)クヌート王によって命名されたスコーネのロンドン(Lund)からイングランドのロンドン(London)に参りました。見慣れた景色も相対化されます。
 スコーネをとりまく周囲の離合集散(スウェーデン、デンマーク、バルト海、ノルマン人の礫岩...)をふりかえると、-Skane と Scone! そしてScotland が無関係とは考えられない - 1707年、そしてバノクバンの1314年を想い出しながら、スコットランドの有権者が Yes! と投票したくなる気持は、わからないではない。
 SNP とは日本のマスコミがいう民族党ではなくて(スコットランド民族なんて存在しません)、19世紀のアイルランド国民党と同じく、構築され、主張されているスコットランド国民党ですが、
現UK の保守党(Unionist Party)にたいする political な反対と、
UK の constitution(国のかたち)問題とを混交させたデマゴギーをやっていると思われます。
もしSNP、独立派が勝利すると、イギリス史はもちろん、ヨーロッパ史においても時代が変わるんじゃないかと思います。それだけ重要なレファレンダムです。
『イギリス史10講』では pp.57-58, 181-183, 156, 299-302 などが関連します。

 18日、木曜の投票を刮目して待ちましょう。
日本のテレビ局からせっかく取材のお申し込みを受けましたが、すみません、ただいま在ロンドンで、遊んでいるわけではないぼくには、ちょっと無理なスケジュールでした。

2014年9月11日木曜日

Lund にて

 百聞は一見に如かず。
 一見は歩くにしかず。
 ルンドに来るには、ストックホルム経由でなく、コペンハーゲン経由なのでした。
(歴史を知らずして現実を理解することはむずかしい‥‥)
しかも、ケインブリッジやハーヴァードに負けないくらいの良いの雰囲気の大学町。
デンマーク大司教座がここに置かれていたということは、中世のこの地域の中心だということですね。
Conglomerate state を論じるのにこれほど適切な場がほかにあるでしょうか?
 昨日はコペンハーゲン大学の Lind 先生の案内で最高の17世紀コペンハーゲンを歩き、また夜の討論は
内村鑑三の『デンマルク国の話』の脱神話化、invention of tradition、内村 → 矢内原 → 大塚 の系譜の歴史性
にまで及びました。
 それにしても、4月のイングランドみたいな驟雨がつづきました。
ルンドについては、Gustav王のお友だちには既知の ↓ に写真がありますので、どうぞ。
https://www.facebook.com/daisuke.furuya/posts/10204152309586635

2014年8月29日金曜日

全勝さんのページ

 すこし涼しく、楽になりました。とはいえ、豪雨やたいへんな災害に見舞われている地域の方々には、申しあげる言葉もありません。

 岡本全勝という方がホームページを持っていらして、じつに精力的に発言なさっています(ということに、ようやく最近に気付きました)。政治と行政のど真ん中で発言なさっているエリート官僚のお一人でしょうか。大学でも教えておられるようです。
 その全勝さんが、なんと『イギリス史10講』について、全9回の連載でコメントをくださいました。こういう「公共精神の立場から国家百年の計を考え行動」なさっている「経国済民の士」(p.206)の目に止まったというのは嬉しいことです。その論評は、わが業界の若い院生や研究者とは異なるレヴェルで、実際的にしかも知的に行われていて、これも有り難いことです。
 ↓
http://homepage3.nifty.com/zenshow/seiji/seijinoyakuwari/seiji47.html
http://homepage3.nifty.com/zenshow/seiji/seijinoyakuwari/seiji48.html

 「引き続き、『民のモラル ― ホーガースと18世紀イギリス』、『文明の表象 英国』を読みました」とのこと。有り難うございます。たしかに岩波新書を書きながら想定していた主な読者は、史学科の学生よりは、もうすこし大人の人たちでした。そういう人たちの手にも届いたのだとしたら、もって瞑すべし、ですね。

2014年8月19日火曜日

舩橋晴俊くん

 この1週間、北海道にいて、インターネット環境はあまり良くありませんでした。
『北海道新聞』の紙面で15日朝に舩橋くんがくも膜下出血で亡くなったと知り、にわかに信じられません。今日18日が告別式だったとのこと。
 駒場の折原ゼミ以来の友人で、1972年5月、ぼくの結婚祝いの会にも参加してもらいました。東京都副知事を父とする秀才ですが、学問的には20代前半に模索を繰りかえして、経済学部でソ連経済の研究を志すこともあったようです。結局、環境社会学の創始者の一人となり、ぼくと違って(また Weber とも違って)、現実の問題と実際的にとりくむ学者です。
 生まれ育った大磯を愛する人でした。法政大学では学部長など要職をこなしつつ、プロジェクト・チームを運営しておられました。4年前に『世界環境年表』のために会ったのが最後となるなんて、想像もしていませんでした。66歳。原発問題にも取り組んでおられ、志なかば。無念だったでしょう。北海道とはいえ真夏の日射の下で、目眩がしました。しっかりしたことも書けません。

2014年8月2日土曜日

註釈 『イギリス史10講』、リポジトリへ

 昨12月に刊行された『イギリス史10講』(岩波新書)ですが、文字どおり皆さまのおかげで、第5刷が出ます。これまでもそうでしたが、該当ページ内に収まるかぎりの修正をほどこしました。たとえば本文中に(p.267)のように参照ページを追加する、また索引の指示ページを若干ふやす、といったことも含めて、微細かもしれないがあきらかな改善と考えています。どうぞよろしく。

 なお、別のサイトですでにご案内したことですが、『イギリス史10講』p.304で予告しました「やや長い註釈」は、『立正大学大学院紀要・文学研究科』30号(2013年度)pp.71-87 に掲載されています。これがそのまま立正大学の学術リポジトリに登載されました。
http://repository.ris.ac.jp/dspace/handle/11266/5295

 Title: 註釈『イギリス史10講』(上)-または柴田史学との対話-
 Other Title: Ten Lectures of British History, annotated
 Author: 近藤 和彦 KONDO Kazuhiko
 Issue Date: 31-Mar-2014 (実際は4月)
 URI: http://hdl.handle.net/11266/5295

 どなたも PDF で読み、ダウンロードすることができます。お試しください。
岩波新書に書けなかった論拠や研究史的コメントなどはたいへん長くなり、1回では収まりませんので、今回は(上)として、同紀要の次号に(下)を発表することとします。

2014年7月30日水曜日

山之内靖さん

 27日(日)午後、東洋大学の公開討論会の席上、山之内靖さんが2月に亡くなったことが話題になりました。1933年生まれ(二宮宏之・遅塚忠躬の一つ下)ですから80歳だったのですね。 二宮さんが亡くなった後の2006年の催しでは、まだ昔の調子でお元気でしたが、最近はまったく音沙汰なく寂しい思いをしておりました。
→ http://www.asahi.com/articles/DA3S11272679.html
(近影も)
 ぼくの研究テーマが18世紀イギリス、あるいは産業革命前夜と定まるにあたって、決定的なのは内田義彦ですが、その前段でもうすこし曖昧に、大塚学派のなかでも『マルクス・エンゲルスの世界史像』(1969)や『イギリス産業革命の史的分析』(1966)を書いていた山之内靖という存在がありました。そのころ、まだ30代だったのですね。『イギリス産業革命の史的分析』のあとがきに、生まれたばかりの赤子の生命力への言及とともに、本書を「プロデュースしてくれた」青木書店の編集者への言及があり、こうしたスタイルは斬新で今も忘れません。
 大学院に入ってからは、山之内さんの『思想』論文、それをまとめた『社会科学の方法と人間学』(1973)で、わが意を得たり、と感じたものです。マルクス学と、社会科学と歴史学の先端で、ぼくにも何かできることがありそうだ。しかもヴェーバーをやってきたことが無駄ではなく advantage らしい、という感覚。
 そうこうするうちに、1976年の土地制度史学会秋季学術大会@高知大学へ向けての準備会が東大社研で始まり、これには(岡田先生、柴田先生でなく)遅塚忠躬、山之内靖、毛利健三といった方々が中心に動いておられました。半年あまりの討論の末に、例の「産業革命期の民衆運動」という大会シンポジウムが企画され、山之内、柳澤治のご両人とともにぼくも3人目の報告者として立ちました。司会は遅塚、毛利。土地制度史学会(とは即、講座派、山田盛太郎・高橋幸八郎学派の牙城)にデヴューし、吉岡昭彦さんと対決して、ぼくは初めて身震いというものを感じたのですが、このとき、山之内さんはマイペースで、ご自分の言いたいことを言って了、あとは観戦、といった姿勢でした。
 そのぶん、遅塚さん、毛利さんは十分に準備して議論を噛み合わせようと尽力なさったけれど、無理でした。ぼくとしても講座派マルクス主義史学との果たし合いに臨むような気持がないではなかったけれど、ザハリッヒな議論の準備はしたので、緊張はしなかった。会場で吉岡さんは小生意気な近藤を撃沈したおつもりだったのでしょうが、こちらは「‥‥先生の回春剤ですか」といった具合で、こたえなかった。吉岡さんの側では「アホか」と思ったかな。それにしては『史学雑誌』「回顧と展望」でムキになって20歳も下の近藤をやっつけていました。
 この1976年秋、高知大学における大会に、ぼくだけでなく青木康、深沢克己、藤田苑子、小井高志といった皆さん(全員まだ20代)までがはるばる出かけたという事実は、今では想像もできないでしょう。同じ年の12月には『思想』630号の巻頭にル=ゴフの二宮訳、そのあとにぼくの「民衆運動・生活・意識」が載ることになります。日本の史学史における転換の年でもありました。

 山之内さんは、その後、柴田三千雄『近代世界と民衆運動』(1983)が出たときの社研の合評会( →『思想』掲載)でも、慌てず騒がず、ご自分の論調を守られました。『岩波講座・社会科学の方法』12巻の編集をへて、『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書、1997)は出てすぐに評判になり、よく売れましたが、あまり顔色は変わらなかった。ご自分の世界を持っておられた、という印象です。
 その他、ここには書けない交渉もありました。 東京外国語大学の北区西ヶ原 時代の黄金期をささえたお一人で、不思議な魅力をおもちの方でしたが、個人的なお付き合いには、ちょっと不完全燃焼感が残りました。

2014年7月29日火曜日

転成する歴史家たち

 27日(日)には喜安朗さんの著書(http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784796703321)をめぐって、東洋大学でこのような公開討論会がありました。
→ http://www.toyo.ac.jp/site/ihs/52631.html

 喜安さんのお話に続き、ぼくも戸邉さんとともに長めのコメントをさせていただきました。網野善彦、安丸良夫、二宮宏之、喜安朗の4人の方々とは、70年代から個人的なお付き合いもありましたし、それぞれのお仕事について、また戦後史学について、喜安さんとは少しちがう受けとめ方をしていますので、ぼくのコメントも無意味ではなかろうと考えたしだいです。安丸さんも見えて、80歳!お人柄のあふれる発言で感激しました。
 ぼくの「はっきりした」発言は、誤解されては困りますが、「昔のなじみ」がなぁなぁでごまかすのはよくない、一期一会であればなおさら、という心境で、ザハリヒに対立いたしました。エモーショナルな要素はなく、「読書する左翼」へのリスペクトは保持しています。
 東洋大学の会場から、夕方はネパール店で第2セッション、夜もふけて白山駅脇の第3セッションまで討論を続けられたことも幸せでした。戸邊さんの「転向文化の過剰性」について議論が始まり、議論における対等性、そしてデモクラシーから「自然権思想の近世・近代性」「法の支配という知恵」にまで論が及びました。これは大事な点で、もっと展開できれば、と希望しています。

 ハナ・アレントのように Denken しつづけ書きつづけたい。考える歴史家でありたい、と思います。「転向」なるものが自由で・真剣な思考の喪失を意味するなら論外だけれど、知的転回=展開は、むしろインテリゲンチアの証なのかもしれない。君子豹変す、とも言います。ホイホイ転変して流されるのは困りますが、必要なときに思いきった言動に出るのは、むしろ望まれているのではないでしょうか。喜安さんの場合の「転成する」とはどういう意味なのか、結局よくわかりませんが。

 というわけで、多くの方々とお話しする機会を作っていただいた、岡本さんと東洋大学の方々、ありがとう!