2020年1月8日水曜日

『丸山真男と戦後民主主義』

 昨年には読んで良かったなという本がいくつもありましたが、清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』(北海道大学出版会、2019)もその1冊。
このたび、恒例の『みすず読書アンケートへの原稿をまとめるにあたり、これを再読しました。【近年は丸山眞男という表記が一般化しましたが、ぼくたちの世代には、丸山真男という表記の方が馴染むのです。1965年、高校3年のとき『朝日新聞』の文化欄で、最近の学界を展望して注目すべき学者たちというコラムがありました。そのときもそうでしたし、以来、大学に入って『日本の思想』でも『現代政治の思想と行動』増補版でも、眞男でなく真男でした。清水さんも1950年代終わり~80年代の実際・慣行に従い、丸山真男と表記します。】
 その後、勉強が進むにつれて、丸山真男は強烈な存在感のある、ちょっと距離を保ちたい人と感じつつも、しかし読むに値する人であり続けました。1996年夏につづいた大塚久雄の告別式には行きませんでしたが、丸山真男の告別式には参りました。
 人格的に100%好きになれなくても、100%学ぶべき人はいる、というのがぼくの人生後半の知恵です。極端な例をあげれば、マルクスは嫌いだし、もし友人・隣人としたら厄介このうえないヤツでしょう。しかし、彼の書き残したものは再読三読に値するのです。

 著者・清水さんは「‥‥丸山真男と戦後民主主義について未解明のことを明らかにし、その思想を継承したい、ただ批判的に継承したい」(p.318)という立場で、東京女子大の「丸山文庫」や「東大闘争資料集」DVDに収められた手記やビラなどにも分け入り、関係者を捜し出して面談し、誠実に緻密に腑に落ちる解釈を呈示します。その姿勢は爽快で、敬服します。
 ただし、本書のうち唯一、1968年12月23日の「法学部研究室」(という固有名詞の研究棟、正門脇)の封鎖について、翌24日、毎日新聞に載った
軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ」(本書では p.182 に写真)
とされる丸山発言の真偽については、まだ納得できません。
その場にぼくも居なかったので、報道や人々の証言に依拠するしかないのですが、「ナチ」と明記したニュース源、一次証言は結局のところ毎日新聞しかありません(他はその拡散か、「ファシズム」「ファシスト」です)。
 一昨年秋の和田英二『東大闘争 50年目のメモランダム:安田講堂、裁判、そして丸山眞男』でも、この点が第Ⅱ部のテーマでした。
 なんと清水さんは2008年にその毎日新聞の担当記者に尋ねあたり、「ただ聞いたままを記事にした」「山上会議所の電話で本社に送稿した」という証言をえたということです(p.185)。ご努力には頭が下がりますが、これで証拠は十分といえるのでしょうか。
 申し訳ないが、40年経過して自分の行為を正当化した記者は、ナチスとファシストの違いが問題だと認識していたのでしょうか。たしかに自分で了解した言説を(法学部から山上会議所・現山上会館まで移動するのに急いでも数分以上かかり反芻する時間があります)整理して、電話でデスクに伝えたのでしょう。オーラル・ヒストリの方法論にかかわりますが、記憶が正しいとして、彼の頭脳を経由した記憶ではないでしょうか。

 これに加えて、清水さんは「ナチは‥‥ユダヤ人教授や反ナチ教授が早く追放されたので、研究室を封鎖する必要もなかったということだろう」(p.186)と述べられます。これは矮小化に近づいています。さらにまた「「ファシストもやらなかった」(佐々木武回顧)と言っても、「軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった」(毎日新聞)と言っても、ほとんど違いはなかった」(p.187)とまで述べられます。
 これは西洋史をやっている者には、そして丸山を政治学者・思想史学者と考える者には、かなり抵抗を覚える箇所です。
焚書やマルク・ブロック銃殺やベンヤミン自殺を例に挙げるまでもなく、問題は学問や知性の圧殺です。そうしたナチスさえ東大の「法学部研究室」の封鎖まではしなかったと、もし本当に丸山が言ったのなら、おそろしく錯乱していたことになります。当時も今も、ちょっと信じがたいことです。

 とここまで書いて、今日、清水さんご本人から私信をいただきました。「ナチもしなかったと言った」という(毎日新聞とは別の)たしかな私的証言があるとのことです。そうだとすると、ぼくの疑念も、和田の論証も覆されることになります!

 1968年11月から12月にかけての丸山の言動、林団交にたいするシュプレヒコールやナチス報道に接したぼくたち(文スト実)は、今だったら「ウソーッ」「マジか」といった感覚でした。 林団交にたいする坂本・丸山両教授たちのデモンストレーションの際に、当時社会学の院生だった杉山光信さんは図書館前にいらしたようですが、「正直のところ違和感がないわけではなかった」と記しています(『丸山眞男集』16巻月報)。丸山月報への寄稿文なので、抑制された表現ですが、たしかに多くの学部生・院生が共有した違和感だと思います。
 1968年、ぼくたちサンキュロット学生とアリストクラート教授陣の間のズレ・隔絶が、6月の機動隊導入 → 無期限ストライキを招き、秋から以降の丸山真男を錯乱させた、ということなのか。【ついでに言うと、柴田三千雄『バブーフの陰謀』(岩波書店、1968)は1月刊行で、『朝日新聞』にも紹介が載ったし、すぐに増刷されて、フランス革命の後半局面についての重要で分析的な仕事ということは知れていたと思われますが、『丸山眞男集』全16巻にも、『自己内対話』にも柴田についての言及はないようです。ジャコバン主義とサンキュロット運動、というフレームワークは丸山の頭にはなかったのでしょうか?】
 (なお、67年2月の法学部学部長選挙で丸山が当選した後、医師の診断書を提出してこれを辞し、3月に再選挙の結果、辻清明が当選したという事情がありました。辻は同期の助手、丸山は24年前に「国民主義理論の形成」稿を新宿駅で彼に託して出征したのでした。法学部長職を旧友辻に押しつけることになったことが仁義の負い目となり、以後の丸山の言動に抑制がかかったというか、不自然が生じた、というのが当時の -事情を知る人たちの- 憶測でした。

 なおさらに究明すべきことが示されている、という意味も含めて、とにかくこの書は丸山真男論として、これまでぼくが接したうち、一番啓発的で、説得力のある力作です。有り難うございました。

0 件のコメント: