わかくカッコいい先生で、1937年生まれということだから、あの授業の時は、29歳の専任講師だったわけです! この朝日新聞の写真は2009年撮影とのことですが[本当でしょうか]、あのころの見田さんの雰囲気が十分に残っています。
しかしぼくがとった社会学の授業は、折原浩先生。1935年生まれで、66年度=ぼくが1年のときは専任講師から助教授になったばかり。(もしや2歳下の見田さんの人気に煽られて?)講義中に 「ひょっこりひょうたん島」を分析して見せたり、ということもないではなかったが、基本は、マルクス、デュルケーム、ヴェーバー、オルテガ・ガセット、そしてアーノルド・トインビーといった社会科学の基本文献を紹介し、東大の1年生に必要な学知を授けるものでした。とりわけマルクスとヴェーバーについては岩波文庫を持参させて該当ぺージを指示しながら読んでゆくといった丁寧な講義で、定員800人の「2番大教室」を一杯にしての授業。1列目・2列目くらいの座席は早々と席取りのコートや鞄が置いてあった。後方の座席では双眼鏡を使う学生が何人もいた。1列目では常に首を上に向けていなくてはならず辛いので、ぼくは前から6~10列目くらいに座して、一言ももらさじと構えました(コンサート会場と同じ!)。
社会調査の分野については、松島先生が分担していたようです。想えば、東大社会学の黄金時代の始まりだったのかな。
いざ2年生、進学振り分けの季節には、さんざ迷ったあげく、社会学はあきらめました。理由としては、
1) 見田さん的なカッコいい学問は、ぼくのタイプではないと考えた、というよりは
2) 社会学に進学する学生たちに、ぼくは伍して行けるだろうか、という不安
3) 案外、西洋中世史(堀米先生)もおもしろそう。ヴェーバー、そして大塚久雄を読んでいることが生きてくることは確実、という判断がありました。
その後(1970年代から)、見田さんは、次々に刊行される本の著者名として、見田宗介と真木悠介と二つを使い分けておられて、当時から説明はあったのですが、結局のところ、何故二本立てなのか、よく分からなかった。父君、見田石介との確執、といったことは風聞で耳にしましたが。
1980年代の『朝日新聞』文化欄なぞ、ほとんど見田宗介と高橋康也(英文)と山口昌男(文化人類学)に席巻されていました。 → 『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社、1987)。ケインブリッジから帰国したばかりのぼくも名古屋の自由な雰囲気のなかで、シャリヴァリ・文化・ホーガースを初めとして、社会文化史に首まで漬かった日々でした。
その後、ずいぶんたった2019年、ある方から見田宗介自身の才能についての自負、メキシコ行きの経緯、などを聞いて、そういうことだったのかと驚き、合点がいったことでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿