2010年8月12日木曜日

9月10日 IHR にて


9月10日(金)午後にロンドンで開催される日本人博士取得前後の留学生むけの催しのプログラムは、ようやく IHRのサイトに掲載されました。綴りなどに間違いが散見されましたが、複数の方々の指摘で、13日現在、訂正版が載っています。
   → http://www.history.ac.uk/news/ihr
  日本人留学生4名のイギリス史研究報告、
  イギリス側日本現代史研究者4名の研究報告、
  交歓が目的です。
積極的にいらしてください(confirmed participants 以外の方は必ず IHR に事前登録してください)。ぼくも全日参加です。

念のため、ちょっと細工したものを FEATURES に載せます。
右の欄からクリックしてご覧ください。

2010年8月10日火曜日

その4:shore


 【写真はクリックすると拡大します】 こちらはエセクス州の海岸線にある Mersea という、満潮時には島となり、干潮時にはブリテン島と連結する地区。これでも2つの教区からなり、かつてはデーン人(ヴァイキング)の定住地となったよし。
 今では余裕のある引退世代の安住の地でもありますが、また写真のようなヨット係留港でもある。干満の差が激しくて干潮時には、こんな具合です。ローマのカエサルが侵攻した折にはさぞや難儀したことでしょう。

 英語の問題として shore とはただの海岸ではなく、高潮線と低潮線の間の土地を言うんだそうですね。coast とも beach ともすこしちがう、法律用語でもあるとのこと。

 なおまた、この辺の河川はテムズもふくめて tidal river です。日本では隅田川、淀川の河口近くではたしかに潮の影響で水位が上下することはあっても、航行に影響するほどではないでしょう。テムズ川の河口から50キロ遡ったロンドンでも潮の干満によって shore が隠れたり露出したりするのは、日本的な感覚からすると驚くべき事実です。こちらのペン画は Canaletto.

その3:ピューリタン史観?


 イングランド南東部は、ピューリタンの強かった地域でもあり、だからこそクロムウェルもケインブリッジ大学の学生だったのですが、ピューリタン革命の痕跡は、写真のような「偶像破壊」にも残っています。 cf. Walter, Understanding popular violence in the English revolution (CUP, 1999).
日本の高校世界史におけるピューリタン史観(プロテスタント原理主義によるカトリックに対する偏見)がいかに一面的だったか、反省させられます。矢内原忠雄・大塚久雄といった「人格高潔な」先生方の世界観を、いつまでも崇め奉り、護持すべきか、ということでもあります。

 なお、イングランド・プロテスタンティズムの拠点だったケインブリッジ大学の真ん中に位置するキングズ学寮チャペルは、現ブログの看板、および7月25日登載の写真のとおり。この華美にして popish な臭いのするステンドグラスを破壊すべく勢い込んでやってきたピューリタン兵士たちが、実際にチャペルに入ってその美しさに圧倒されて、これに手をかけることを止めた、という逸話が残っています。

 王制復古期の宗教政策について、戦後史学(代表は浜林正夫さん)では反動的で陰謀的な性格が論じられていました。それで良かったのでしょうか。むしろ同時代人の感覚からは、「あのピューリタンの時代に戻るのは、かなわない」という、それなりの合理性と中道性があって、支持される政策だったのではないでしょうか。Hudibras の物語 が熱烈に迎えられた時代です。
 1685年から急速にルイ14世にたいする警戒の念が強まる、というダイナミックスも忘れたくない。このナント王令後30年間のヨーロッパ情勢が、以後長期にわたってすべてを規定する祖型なのか、それとも1700年をはさむ±15年、すなわち1世代だけの問題だったのか。「太陽王」の時代の研究者はきちんと考えて明らかにしておくべき点でしょう。
 ぼくの答えは、限定的です。すなわち、ヨーロッパ啓蒙の res publica を強調し、したがって(途中は省きますが)E・P・トムスンの parochialism を批判する立場です。今ケインブリッジでやってる仕事は、根本的なEPT批判です。

その2:国教会


 さて昼食は写真のパブで摂りましたが、その入口の上に built circa 1756 とみえる。 circa というのは、根拠が危ういときに用いる便法でもあるんですが、まぁ18世紀をやってる者には話の種です。
 村の教会には、なんと1763年のジェントルマン寄進の王家の紋章がかかっていました。パブが7年戦争の始まりの年、国教会の紋章がその戦勝の年、ということで、イギリス近代史にとっての7年戦争は、日本近代史にとっての日清日露だろうか、と考えました。

 教区教会【国家=教会体制の末端、cf.「聖俗の結合」in『伝統都市』IV】にいかなる王家の紋章を掲げるか、が高教会派・低教会派の間の熾烈な争いの的になりうる、ということは、指昭博さんの文章にも暗示されていますし、ぼくの Church and politics in disaffected Manchester, pp.112-13 では明示的に論じています。

その1:Essex 探訪

 寒い8月に絶望しそうになっていたら、日曜はようやく日が差して、世界が明るくなりました。今日(月)は快晴。みんなが楽しげ。

 その日曜は、エセクス州探訪の日。4つあるJames のお宅のうち、ご自慢の Fingringhoe邸に訪ねるのは何度目かですが、妻を連れて行くのは初めてなので、前から楽しみにしていました。ガタゴト列車を Ely と Ipswich で計2度乗り換えて、コルチェスタ駅に12.01に到着。すぐにご長男、乗馬の雄姿を見に riding school に直行しました。

 Fingringhoe 村の邸宅は十二分に広く、いかにも4歳と3歳の男の子が育つにふさわしい家。なにしろ向こうの川原敷きまで届こうかという敷地に Mummyの納屋、Wの畑、Rの小屋、と作って【Daddy のは無し - 書斎とキチンがあって、そもそも全体を仕切る責任は彼にあるわけだから】、生意気ざかりの4歳児に言わせれば、'natural' をキーワードに子育て中。

 ついでに1月15日の本郷の研究会にいらした皆さんにはご覧に入れた、今は昔の写真も並べて、経年変化を見てもらいましょうか。

2010年8月6日金曜日

いまはもう秋‥‥

 1日の記事で「‥‥ケインブリッジは21度といった感じ(かわいそうに、Scotland では19度?)」などと書いた呪いか、今日はケインブリッジもたったの18度。これでは、着るものがない‥‥。
学寮のランチ時の雑談では、部屋ではオーバーを着てるとか、暖房を入れてるとか、いう人(東アジア人および老人)もいるかと思うと、断然半袖の人も少なくない(西洋人限定)。なんなんだ?
 暑さは7月の1・2週間ばかりで、もうケインブリッジの夏は終わりなのか? 今週は毎日 scattered rain & a bit of sunshine、確実に秋の気配。 そういえば日本では「立秋」ですね。

 写真は、勉強家および WiFi 利用者のよく知る、ロンドンのある昼食所。

2010年8月3日火曜日

故・松浦高嶺先生を偲ぶ会

 6月末にもこのページに記しましたとおり松浦先生が亡くなりました。先生をしのび、語りあう会が9月18日(土)午後に予定されています。
立教大学文学部のページ http://www.rikkyo.ac.jp/bun/LateMatsuura918.pdf にあるとおりですが、要点は
「* 日付と場所: 2010年9月18日(土)立教大学池袋キャンパス
 * 内容: 午後2時~3時 逝去記念式 (立教学院諸聖徒礼拝堂)
  午後3時15分~5時 茶話会 (セントポールズ会館2階)
 * 会費: 茶話会に参加される方については、当日セントポールズ会館2階の受付にて
   5,000円を申し受けます。」
ということです。
 参加申込みの方法についても、記されています。ご覧ください。


 じつはこれとは別に、同じく6月に亡くなった小林昇さんを偲ぶ会が、
10月9日(土)午後に、同じく立教大学池袋キャンパス内で、
   2時「経済学部葬」および
   3時半「偲ぶ会」として開催されるという通知をいただきました。
こちらは経済学部にお問い合せください。

20世紀が確実に去っていきます。

2010年8月2日月曜日

country house

盛夏の日本の皆さまには申し訳ありませんが、このところ England は最高気温せいぜい23度。ロンドンが23度だと、ケインブリッジは21度といった感じ(かわいそうに、Scotland では19度未満?)。

今日は曇天ながら Julian の Sunday lunch に招かれて、ケインブリッジの南西、Cockayne 村の17世紀の農家へ。
同時に むかしUCLでお会いして以来の Kathleen Burk 夫妻が招かれていて、15年ぶりにお話ししました。美味しい料理の後に庭でコーヒー。

夕刻には雨がぱらつく天気でしたが、カンスタブルに負けない絵になったかな。
「300年以上前の壁も柱も傾いている家の修繕に、どれだけ手間がかかるか」、「この広い庭の手入れがたいへんでね‥‥」とかいった会話は、たいていの日本の大学教授には縁がない。手間をかけるのが楽しいんだ‥‥。イースタ休みも、夏休みも家・庭いじり(+勉強)のためにある、とは恐れ入ります。

カリフォーニアをよく知るキャスリンによれば、
Sunday lunch is an English institution which Americans don't have. And I like it.

もう一つ、日本では許されない、ワインをそれなりに飲んだ後の運転。これがないと Sunday lunch ばかりか、こうした country house を購入して(擬似ジェントルマンのように)ときおり行き来する優雅な生活自体が、成り立ちません。‥‥そのための濃いコーヒー。

2010年7月31日土曜日

Webcat plus minus


皆さんは日本に所蔵する和洋の図書を検索したり、なにかの書誌を確認するとき、どうされますか?
ぼくは国立情報研究所(NII)の WebcatPlus を愛用していました。【イギリスで英語の書誌を確認する場合は BBIH が自由に使えるので、これ+日本でも使える COPAC で十分です。】
Webcat はバカだが、WebcatPlus はまぁ使える(代わりがないからにはこれを活用するしかない)、と。

ところが6月に入ってから様子が可笑しい。
イギリス史研究入門の制作は最後の追い込みですが、第Ⅱ部 研究リソース案内で列挙する「統合文献所蔵カタログ検索サイト」なので、あらためてアクセスしてみてびっくり。
様変わりしたWebcatPlus は、下手な遊びみたい。とりわけ「連想検索」は利用者をコケにしています。設計者の知性を疑います。
 我々の検索にとって、本のカバー写真なんてなくていい。
 ねらいの図書を正確に検索して、ヒットを必要なだけ多く・少なく表示し、
 新旧いろいろの順で並べ替えられる、というのが重要です。
かといって本来の Webcat のほうは 旧態依然のまま。
同一著者であっても、氏・名のあいだにスペースを入れるとヒットする本、
スペースなしでヒットする本、とムラがありすぎですし、
タイトル順の表示で、これを刊行順に並べ替えることさえできません。
このままでは日本の人文社会系の学問はおしまいか、と心配して、NIIあてに
「スタイルを変える前の、もとに戻してください」と 要望メールを出しました。

7月に剣橋に戻り、どうしても必要なことがあって、もう一度 WebcatPlusを見なおすと、‥‥不具合通知や抗議、批判などを出していたのはぼくだけではないようで、
+Webcat Plus Minus β版
という試行を始めたようです。プラスマイナスという名がおもしろい。
無用の遊びはなくなって、旧 WebcatPlus をスッキリさせたような観がある。
学問は simple & clear でなくては。
ウェブページのFAQ もご覧ください。
http://webcatplus.nii.ac.jp/faq_008.html

皆さん、まだなら、ぜひ試してみてください。
そして意見を言いましょう(世論なしには動かない社会です)!

2010年7月28日水曜日

sundials

 剣橋の日時計を feature しました →
 (それぞれの学寮=独立法人としての性格も
  出ているような気がします。)

2010年7月26日月曜日

King's College Chapel


昨(土)夕は John Scott organ recital @King's ということで、この15世紀 English Perpendicular のチャペルにて圧倒的なオルガンを聴きました。16世紀初めの匿名氏から、バッハ、ヘンデルをへて20世紀前半の Percy Whitlock, Jehan Alain まで(この二人は知りませんでした)。

ぼくの席を見下ろす天使が撮って撮ってというので、皆さんが拍手しているあいだに、急いで撮りました(もちろんフラッシュなしで)。フットライトが、天使と扇状天井を照らしていました。

2010年7月24日土曜日

King's College, Cambridge

ご質問もありましたので、ご存じの方には余分かもしれませんが、説明いたします。


1. キングズ学寮とケム川と Backsの牧草地との位置関係は、この写真のとおりです。時間帯は違いますが、川にぐっと接近して撮ってみました。
 21日の記事およびトップの写真では、望遠の効果で、遠近が圧縮されて縦の距離感が失われ、
 また川は当然ながら低い位置にあるので、存在しないかのようにも見えます。
 地図で確かめると、King's Chapelの西面から撮影地点までちょうど300m ありました。
(この写真の右手の建物は King's ではなく Clare (17世紀の古典様式)です。よく間違われます。King's の芝生が、めずらしく暑さで枯れています。)

2. キングズ学寮の東側、表通り King's Parade はというと、7・8月の昼間はこんな具合。
 別の世界がキングズをはさんで併存しているようです。

2010年7月22日木曜日

The Backs

夏のケインブリッジは観光客で一杯。
でも、夕食の後ともなると、バックスはこんな感じです。↑
白い牛3頭が放牧されてのんびりしています。
夕刻で光が足りない分、油絵のような粗さが出て「絵画的な写真」になったかな。

2010年7月17日土曜日

ノリッジ → キーン → IHR: その3

 ジョアナの母上はケインブリッジの南に住んでおられるので、夕刻、車に同乗させていただいて、ナヴィは母上にまかせて、車中いろいろと積もる話をしました。その一つに 日英歴史家会議(AJC)関連のこともあり、その結論は Some people need kicking to move ということでした。
 で、さっそく何度目かのキック(シュート?)をしてみたところ、即 命中して、Proceedings 2009 の刊行予定についての返事と、さらには 9月10日に IHR で留学生の半日コローキアムを催す案についての打診が来ました。

 この案のインスピレーションは、2004年1月にオクスフォードで Joanna が十分に準備してやってくれた留学生とその指導教師むけの1日セミナー@Somerville でした。このときはオブライエン先生の全面的支援や後藤春美さんの周到な調整と司会の妙もあって、たいへん有意義なものになったことは、参加者の記憶にしっかり刻まれていると思います。
 今回も、有意義な会合になってほしい。そのためには日時がやや急ですが、在英の留学生諸君!ぜひ積極的に対応してください。そのためにもPRが大切ですね。微力ながら、試みます。
 

 誤解してほしくないが、Miles Taylor は19世紀についてすばらしい研究をしています。今ごろになって彼の編著書をまとめて速読して、ヨーロッパ史としてのイギリス近代、帝国史としてのサウサンプトン史、表象史としてみたヴィクトリア時代、‥‥。手堅い実証史学と先端的研究動向とが無理なく結合して、歴史学研究所(IHR)所長として文句なしのお仕事と再認識しました。
 この8月はずっとリサーチのためにインドに滞在とのこと。
 であればこそ、所長を疲弊させないために、IHRの支援スタッフがしっかりせねばなりません。

ノリッジ → キーン → IHR: その2



 ドナルド・キーンさん(1922年生、写真は public domainより)については日本国が文化功労者、文化勲章をもって敬意を表して至当と思います。ケインブリッジにおける日本学講師は、キーンの後任がブラッカ(1924年生)という関係だと今回認識しました。
 誠実な語り手ですが、現今の日本学の専門化については歓迎しつつも留保つき、という立場のようです。人文学のサイエンス化という大きな傾向には抗えないとして、しかし丸山、キーン、といった広く深い眼をもつ知識人なしには、世の中どうなってゆくんでしょう。「‥‥長く立っていて足が痛くなってきました」というキーンさんに恐縮して、椅子を勧めて、中世の教会堂を改装して公会堂とした Blackfriars' Hall をジョアナとともに辞しました。 

 異文化について、歴史について、サイエンスとして文句なしの仕事をこなし、専門をこえた明快な洞察も呈示する。そうした学者が少数であっても元気でいる社会でないと、このあとは decline and fall しかありません。今日の学者は、むやみに忙しく、疲弊しています。

ノリッジ → キーン → IHR: その1


 語れば長くなる話を要領よく話すには、どうすればよいか。数回に分けてみましょう。

 まずはこのポスターを見ていただきます。Public domain にあるかと探しましたが見あたらないので、手持ちのポスターで当日の書き込みが見苦しいものですが。
 7月15日のこと。ノリッジに行くのは、なんと1981年以来で29年ぶり。忘れかけていたこと【ケインブリッジと違って坂の街だとか、教会は大聖堂だけでなくあちらもこちらも非国教礼拝堂もふくめてまるで京都みたいとか、大聖堂のネイヴは美しいが、おやと思うほど幅が広くない, etc.】、そして大聖堂に石庭ができたといった新しい発見もたくさん。


 夕刻6時の講演とレセプション。ドナルド・キーンさんがご自身を語ると、そのままカーメン・ブラッカの話になるという事実にも目を開かれますが、なによりカーメンという美しく聡明な女性と人生の大事な部分を共有したドナルドと夫マイクル・ロウという学者(老いたとはいっても男性)二人が、200人ちかい聴衆の前で相互を讃え、しっかり握手する場面は、なかなか感動的でした。ちょうど誕生日と命日(7月13日)に近い日だったので、マイクルの最後の言葉は、「カーメンに birthday present をありがとう」というのでした。
 カメラは携行していたけれど、感動的な演奏の写真を撮ることはできないのと同じで、構えるのは控えました。 cf. 3月の記事。 同じ講演が7月22日には英国博物館(BM)で行われるとのことです。


 その聴衆のなかには Joanna Innes と母上もいました。カーメンは Somerville 卒のようですが、そもそも Innes 母娘とはケインブリッジで近隣のお付き合いでした。ぼくが2004年にオクスフォードで老カーメンと再会できたのも、ジョアナのおかげだったのです。

2010年7月14日水曜日

真夏の夕


 こちらは暑かった日曜の夕刻の光景。

 ぼくが初めてイギリスに来たのは British Council scholar として。1980年8月の夕刻、このあたりを歩いて「神は世界を不公平に造られた」と感じたものです。
 今では、この水面を見ながら、もう少し具体的に Laslett, Smith たち人口史グループの Elton にたいする否定的直観のありかや、Finley と村川堅太郎さんの交流とかいったことを、ゆったりと聞き語ることができるようになってきましたが。

2010年7月13日火曜日

National Gardens Scheme


 11日(日)は、日本では参院選、グローバルにはFIFA world cup final(スペイン王国がカタルニアの力に依拠して、400年ほど前のオレンジ党ネーデルラントに意趣返しをした夜)といった人々の関心を集める出来事があったようです。ケインブリッジ近郊でローカルには National Gardens Scheme によって年に3度だけ開放される個人庭園をみる好機でした。なんと労働法の忍さんが借りている邸宅がその一つ Wild Rose Cottage ということで、斉藤さん、小峯さんと一緒に、Lode村を探訪することにしました。

 ケインブリッジ市から東に車で20分ほど、16世紀、ヘンリ8世の修道院領払い下げの結果生まれた(rise of a gentry !)Anglesey Abbey という名(Abbey は invention!)の所領の近傍にある村 Lode. 写真のように静寂で、きっと豊かな中産階級の住む小さな村です。通過する車はなく、歩くのはわれわれ余所者 visitor ばかりなり。


 開放された庭園の造りは各々さまざまで、ローマ風の folly を置くところあり、 
 
また自然(wild)をテーマに、まるで手をかけてないように見えるよう、しっかり手入れしているところあり。Landscape gardening の長い18世紀をやってる者としては、もっときちんとリサーチした上で来るべきだったと後悔。

 こちらの Wild Rose Cottage は奥が深くて、ぼうぼうの草に囲まれた池に向かって近隣のアーティストのオブジェがあるかと思えば、その視線の向こうには東屋(亭)がみえるではないか。東屋には椅子も茶器も揃っていて、「フィガロの結婚」の終幕の前提ともいうべき庭園! 

 ちなみに、National Gardens Scheme もまたチャリティ(公益団体)でしたよ、金澤さん! 

2010年7月10日土曜日

暑い!


 蒸し暑い東京から、「灼熱の」ロンドン、そしてケインブリッジに帰着いたしました。きょうは最高31度とのこと。
 きのうの The City はこのとおり灼けていましたし(テムズ川は褐色です - 右から1/3くらい St Paul はご覧のとおり無事でした!)、Clare Hall の中庭の芝生はまるで日本のどこかの芝生みたいに熱で枯れかけています。Scorched と言うんですね。
 飛行機は、7月の初めはこうなのでしょうか?空いていましたが、そのぶん寒いくらい。
 ロンドン上空では高曇りのなかから、テムズ川、そして真下に Kew Gardens、右側に皆さんのよく使う地下鉄の駅、右上には TNA (PRO) がしっかり姿を現しました。これぞ窓際の楽しみです。

2010年7月4日日曜日

『人文学への接近法  西洋史を学ぶ』



こんな本を手にしました。すばらしい!
『人文学への接近法:西洋史を学ぶ』(京都大学学術出版会、2010)
基本的には大学1・2年生向けに、副次的には彼らを相手にしている大学教師向けに作られたのでしょうが、正攻法でしっかり学問の入口の案内をしたうえに、さらにコラムでは
「Q 西洋史学といっても、フランスやドイツの本場の研究者の真似なんでしょう?
A はい、真似です‥‥」
とか
「Q 大学院に進んで研究者を目指して、しかも何年も海外留学をして、それで、ちゃんと大学に就職できるのでしょうか」
とか
「Q 西洋史学の専門研究をして論文を書いても、読む人なんていないのではないですか」
といったフランクな対話の糸口も設けられていて(関西だからこそ?)、これはすごい。

服部・南川・小山・金澤といった京大西洋史の4先生の編集になる「熱意」あふれる、協力の産物。留学体験記や各方面に就職している京大出身者の声もあって、大学3・4年の、とりわけ大学院を志望する学生の must かもしれない。2000円なり。

後半に挙がっている「文献案内」は基本的に日本語の本に限られるが、しかし
「どの本も、各節の執筆者が膨大な読書経験の中から選りすぐった良書揃いで、ハズレは一冊もないと自負している」とのこと。 たしかにこれまでの類書とは「腰の入れかた」が違う本のような気がします。
‥‥というわけで、皆さん、まだなら是非。