2022年6月16日木曜日
王のいる共和政 ジャコバン再考 詳しい目次
編者名や本のタイトルだけなら、他の広告でも見られますが、
かなり詳しい目次 → https://www.iwanami.co.jp/book/b606557.html
そして何より、
立ち読み(試し読み) → https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0615440.pdf
のコーナーがあるというのは、すばらしい! どうぞ、ご一瞥を。
2022年6月11日土曜日
中学生から知りたい ウクライナのこと
「ロシアによるウクライナ侵略を非難し、ウクライナの人びとに連帯する声明」なるものを京都大学有志の会が2月26日に発表したようですが、その声明が巻頭に引用されています。この有志のうちの二人、近世ポーランド史の小山さん、現代ドイツ史の藤原さんがそれぞれの専門で長年考え感じてきたことをふまえながら、ウェブや新聞で発言している、それをもとにここに整えて一書としたものと受けとめました。
表題のうち「中学生から知りたい」についてのみ、ちょっと留保したい気持は残りますが、しかし(写真入りで)ポーランドのバルシチ(スープ)からウクライナのバルシチ(スープ)を見ると、どれほど具だくさんで「すごく豊かで滋養があるけど、ちょっと見た目が不思議な感じ」というイメージから、すごく大切なことが説きはじめられる。中学生だって知りたい。大人だって知りたい。高齢者だって知りたいです。
ですから「中学生から知りたい」というタイトルの修辞のみ留保して、あとは全面的に推薦したい。
細かい活字で補われている註も - 固有名詞の表記を含めて - 大事なことを教えてくれます。
(株)ミシマ社、6月10日刊。http://www.mishimasha.com/
2022年6月6日月曜日
王のいる共和政 - ジャコバン再考
6月28日には、やはり岩波書店で中澤達哉さん(編)の共著『王のいる共和政 ジャコバン再考』が出ます。このところ似た意匠の共著論集がないではないようですが、こちらはいささか ambitious な共同研究、中澤科研の成果です。この公刊により学界の景色、そのトーンもすこし変わるかと期しています。
ぼく個人にとっても数年かけて自分自身と先生方の研究をふりかえり、この何十年来に学び模索してきたことを総括する文章とすることができて、爽やかな快感をともなう仕事でした。序章「研究史から見えてくるもの」(pp.1-27)を執筆しています。ただし「市民革命」という語は用いていません。
中澤さん、近藤の他に、共著者は:森原隆、小山哲、阿南大、正木慶介、古谷大輔、小原淳、小森宏美、池田嘉郎、高澤紀恵のみなさん。巻末の関連年表もぜひご覧ください。 → https://www.iwanami.co.jp/book/b606557.html
2022年6月5日日曜日
2022年5月22日日曜日
池袋のジュンク堂では
赤白の市松模様だけではつまらないから(?)、青緑の岩波新書を混ぜて並べているのでしょうか。ほんの少しイタリア的な色模様。2022年の新版と1962年の旧版とを比べてご覧なさい、といった趣向でしょうか。
ところで、岩波書店のサイトには、このような「試し読み」コーナーもあります。
→ https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0256740.pdf これは1ぺージずつの表示ですが、実際の見開きの表示だと、もっと効果的ですね。
なおまた、すでに手に取ってくださった少なからぬ読者が、本にさわった感触、ぺージをくる心地よさ、etc.を伝えてくださいます。工学部のI先生のおっしゃる「書籍の人間工学的な形態論」でしょうか。ほんの少し厚めの紙質、柔軟でしっかりした製本、ほんの少し大きめの本文活字。それからもちろん、本文から左に目を移せば読める原註、訳註‥‥。デザイナと岩波書店の心意気に感謝です。
2022年5月17日火曜日
5月の実家
その後、無人の実家に行ってみました。
同行した長男が感激(!)したほど、樹木が繁茂して、公道や隣家にはみ出しています。街灯や通行する車や人のためのミラーを覆っていた枝葉を切除し、ミニマムの応急処理をしたあとになって、ようやく気付きました。(じつは最初から家の中の気配がおかしいような気がしたのですが、2ヵ月ほど来てないし季節も変わったので、気のせいかと考えました。)
母が使っていた帳面や、手紙、写真の類が畳のうえに散らばって、前回にぼくが行った折に、帰りを急いで乱雑なままにしたのだろうか? そんなはずはないのだが‥‥。
角の部屋のガラス戸が開閉できないと妻が言い出したときに、事態の意味がようやくわかってきました。そのガラス戸のロックの周囲がかろうじて手が入るくらいに破られています。 よく見ると、あらゆる部屋のタンスや引き出し、戸棚(以上、すべて上の段のみ)、押し入れが開いたままではありませんか。空き巣が侵入して、物色したあげく、最後にはアルミ雨戸を閉めて(少なくとも外からは異常とは見えないようにして)退散したあとだったのでした。位牌のない仏壇も、電源を切ってあった冷蔵庫も、だらしなく開いている、と気付いて怖くなりました。
亡父の能面、謡曲の本、ぼくの著書とか、『漱石全集』、昔の『岩波講座 日本歴史』といった類にはドロボーは目もくれず、現金やカード、宝石類を探したのでしょう。‥‥母はカードの類は持たない人だったし、老人ホームに移ってから4年半も経ったので、金目の小物はただの一つも残ってないのでした。 残念でしたね。
それにしても見るからに無人の陋屋で、アルミの雨戸もガタピシ。こんな所にまで、空き巣は「ダメモト」で侵入してみるものなのでしょうか。みなさま、ご用心を!
2022年4月28日木曜日
菊地信義さん 1943-2022
じつはぼくの関係した本で山川出版社から出たものはすべて菊地さんの装幀です。
最初の『深層のヨーロッパ』〈民族の世界史9〉(1990)からずっと、
『民のモラル』〈歴史のフロンティア〉も、高校教科書も、そして
『ヨーロッパ史講義』(2015)も、
『礫岩のようなヨーロッパ』(2016)も、
『近世ヨーロッパ』(2018)のようなリブレットにいたるまで
装幀はすべて菊地信義さんでした。
山川出版社のかつての独特の品位(センス)を表現していたような気がします。
菊地さんと同席してお話できたのは1回きりでした。 「何でも言ってください」とのことでしたが、今はむかし、です。
悼む記事が今日の『朝日新聞』夕刊に載っています。その筆者・水戸部 功さんは、なんと『歴史とは何か 新版』(5月刊)の装幀者です!
山川出版社から出た15冊については、↓のサイトから
www.yamakawa.co.jp/product/search?q=近藤和彦
ご覧ください。もしこれでうまくヒットしない場合は、
https://www.yamakawa.co.jp/product/search/
のぺージから「検索条件」として 近藤和彦 を入れて検索してみてください。
2022年4月22日金曜日
カー『歴史とは何か 新版』 予告の3
清水訳(岩波新書)では、扉のあと、「はしがき」が始まる前のぺージに
「八分通りは作りごとなのでございましょうに、
それがどうしてこうも退屈なのか、
私は不思議に思うことがよくございます。」
キャサリン・モーランド 歴史を語る
とあり、なにか有閑・教養マダムで、もしや高齢でお上品な淑女の発言のようにも聞こえます。何のことを言っているのか分かりにくいし、本文が始まる前のエピグラフとしておいた著者の意図・効果も不明で、それこそ「不思議に思って」(I often think it odd ...)いました。
若きジェイン・オースティンの生前は未刊の小説 Northanger Abbey 第14章とのことで、調べてみると、いろいろなことが判明します。なにより主人公 Catherine Morland は17歳の夢見る乙女。読書が大好き、世の中のいろいろなことに興味津々、でもその深みまではよく分かっていないティーンが、男女のこと(結婚)についても、文学についても次第に目を開かされる、という設定でした。バースで知り合った新しい知己とのあいだの会話で、どういった本を読むのか、好きなのかといった話題のなかでのキャサリンの発言です。ぼくはこう訳しました。
「不思議だなって思うことがよくあるのですが、
歴史の本ってほとんど作りごとでしょうに、
どうしてこんなにもつまらないのでしょう。」
原文は
I often think it odd that it should be so dull,
for a great deal of it must be invention.
この直前にキャサリンは、こうも言っていますので、2回目・3回目の it は history です。
I can read poetry and plays, and things of that sort, and do not dislike travels.
But history, real solemn history, I cannot be interested in. Can you?
キャサリンのナイーヴな発言は『歴史とは何か』の巻頭に、かなり挑発的なミッションを負って置かれていたのです。というわけで、巻末の訳者解説にはこうしたためました。pp.367-368.[ ]は今回の抜粋にあたっての補い。改行も増やします。
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‥‥じつは[1961年の初版以後、]英語の各版が新しくなるにつれて、巻頭におかれたキャサリン・モーランド嬢のエピグラフはカーの本文からどんどん(何10ぺージも)離れてしまっていた。これを本訳書では中扉の裏(2ぺージ)、第一講の直前に戻すことによって、元来のカーの意図(としたり顔)を生かす。
従来の『歴史とは何か』の論評ではあまり言及されないが、ジェイン・オースティンの最初の作品『ノーサンガ・アビ』(死後1818年刊)において、17歳で読書好きのヒロイン、キャサリン嬢は率直に、歴史物はほとんど作りごと(インヴェンション)なのに、どうしてこんなにつまらないのかと感想を洩らしていた。この文脈で history とは歴史物の作品であるが、英語では本書のテーマ、歴史および歴史学と区別はつかない(補註a)。
歴史/歴史学とは過去の事実への拝跪であるという岩礁[への座礁]も、歴史家の作りごとであるという渦潮[への沈没]も、第一講で明確に否定されるのであるが、カーは愛読したジェイン・オースティンからこのエピグラフを引いて、あらかじめ渦潮派の問いかけを呈示し、それにたいする反論を予告していたわけである。だからといって、カーのことを素朴な実証主義者(岩礁派)だといった虚像(カカシ)を仕立てあげて攻撃するポストモダニストには、[笑]をもって答えるのだろう。ちょうど『歴史とは何か』を執筆しているころのカーの肖像写真(332ぺージ)の表情が語るかのようである。 <以上>
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たとえば『危機の二十年』(岩波文庫)で使われている肖像写真は温厚きわまる老紳士ですが、それよりも元気で、いたずらの表情です。]
2022年4月18日月曜日
カー『歴史とは何か 新版』 予告の2
◇ [訳者解説のつづき]
本書の読者は、カーの講演の様子を想像しながらウィットのきいた冗談に笑い、皮肉にため息をつき、豊かで具体的な議論の一つ一つから自由にインスピレーションをえることができる。ただ、本書は論争の書でもあり、どのような筋書きで成り立っている書なのか、その柱と梁だけでも確認しておくのは余計ではないであろう。
第一講「歴史家とその事実」は、冒頭の謎のようなアクトンは別にすると、その展開のまま素直に読めるであろう。大海原に生息する魚類にたとえられる「事実」と歴史家のあつかう歴史的事実なるものの区別、シュトレーゼマン文書にみる史料のフェティシズム、クローチェとコリンウッドの歴史論。巧みなたとえを用いながら話は進み、結びは、こうまとめられる。歴史家のあぶない陥穽として、一方には事実(過去)の優位をとなえるスキュラの岩礁のような史料の物神崇拝が、他方には歴史家の頭脳(現在)の優位をとなえるカリュブディスの渦潮のような解釈主義/懐疑論、今日のいわゆるポストモダニズムが存在する。しかし、カーとともにある歴史家は、史料/事実に拝跪して座礁するのでなく、主観的な解釈、構築という渦潮に翻弄されて沈没するのでもなく、二つの見地のあいだを巧みに航行する。そうした最後に導かれるのが、よく知られている「歴史家とその事実のあいだの相互作用」「現在と過去のあいだの対話」である。全体を通読した後にもう一度読みかえすなら、「読むのと書くのは同時進行です」といったノウハウ - 論文執筆のヒント - も含めて、第一講に込められた意味はさらによく見えてくるであろう。
ところで冒頭の欽定講座教授(補註c)アクトンであるが、じつはアクトンの名も彼の『ケインブリッジ近代史』(補註e)も、日本の読者にはあまりなじみがないのではないか。カーは、「アクトンは後期ヴィクトリア時代のポジティヴな信念‥‥から語り出しています」、「ところがですね、これはうまく行かんのです」と否認するかに見える。読者は一読して、アクトン教授とはこの本で最初に否とされる古いタイプの歴史家の役回りなのかと受けとめるであろう。博学なコスモポリタンで、講義でも会話でも人々を知的に高揚させながら、生前に一冊も歴史書を著すことのないまま心筋梗塞(過労死)で亡くなり、せっかくの野心的な企画も挫折した、魅力的で不運な歴史家。「なにかがまちがっていたのです」とカーは畳みかける。しかし、そのアクトンは本書のあらゆる講でくりかえし登場し、論評されるのである。索引を見ても、アクトンはマルクスと並ぶ双璧である。なぜか。片付いたはずの後期ヴィクトリア時代の「革命=リベラリズム=理念の支配」(256, 261ぺージ)の亡霊のようなアクトンが、それぞれの文脈でカーの議論をつないでいる。『歴史とは何か』を解読する一つの鍵はアクトンにある。この点はデイヴィスもエヴァンズも渓内謙も看過している。
[以下 5ぺージほど中略]
◇
カーが未完の第二版で意図していたのは「過去をどう認識するかについての哲学論議」(9ぺージ)ではなかった。この点は重要であるがデイヴィスが立ち入らないので、訳者として補っておきたい。もしそうした認識論談義を求められたならば、たとえば『マルク・ブロックを読む』(岩波書店、2005, 2016)における二宮宏之と同じく、思弁的な方法論に淫する人々に向けて弁じたリュシアン・フェーヴルの「そんなことは方法博士にまかせておけばよい」という台詞をカーもくりかえしたのではないか。フェーヴルやブロックについて二宮が明言したのと同様に、カーもまた「歴史を探究し記述するとはいかなる営みなのかを研究の現場に即しながら根本から考え直すような書物を書きたいと希っていた」(二宮、193ぺージ)‥‥[以下1ぺージあまり中略]
こうしたことより、現役歴史家にとって大きな問題と思われるのは、たとえばしばしば言及されるフランス革命について、G・ルフェーヴルの名はあがってもその複合革命論、ましてやR・R・パーマの同時代国制史への言及がないことである。カーは「歴史家稼業であきなうのは諸原因の複合性です」(146ぺージ)と述べるのにとどまらず、因果(why)だけでなくいかに(how)を考えるという示唆もあった。その因果連関論を縦の系列のつながりに留めることなく、同時的な複合情況(contingency)へと視角を広げ、さらにはアナール派や Past & Present の社会文化史と交流し、啓発しあう可能性もないではなかっただろうが、これは展開されないままに留まった。‥‥[中略]このようにカーの到達点からさらに具体的な「過去を見わたす建設的な見通し」へとつなげてゆくのが、今日の課題なのではないか。「今、わたしたちこそ、さらに一歩先に進むことができる」(333ぺージ)という自叙伝の一文は、わたしたち自身の言明とすることができるであろう。
その自叙伝は‥‥1980年、88歳にして自分の人生と著作を省みた語りで、そこに反省的な自己正当化が働いていないとは言えない。父のこと以外には家族関係に言及しないという心機が働いているかのようである。それにしても、ここでのみ開示される「秘密」もあり、巻頭の「第二版への序文」と合わせて、晩年のカーの貴重な証言である。エヴァンズを初めとして多くのE・H・カー論の依拠する情報源でもある。
巻末におく略年譜は、自叙伝ではパスされている事実婚を含む3度の結婚、不如意に終わったロンドン大学の教授ポストへの応募、7年間の失業といった「事実」を補い、‥‥訳者が作成した。激動の20世紀をそのただなかで生き、考え、書いたE・H・カーの姿が浮かびあがる。
[後略。以下3ぺージあまり]
5月の刊行を、お楽しみに! → 岩波書店 twitter
カー『歴史とは何か 新版』(岩波書店、5月17日刊行)予告の1
このような装丁の本です。 → 岩波書店
昨年11月末から本文(第一講~)の初校ゲラが出始め、巻末の略年譜と補註の初校ゲラが出たのは2月末でした。十分に時間をかけて、くりかえし朱をいれて、多色刷りの著者校を戻し、そうした作業の最後に訳者解説を書きあげたのは3月13日。ちょうどそのころから母の具合が急に悪くなって、祈るような気持で仕事を進めました。3月末、百歳の母が力尽きて亡くなったときは、一瞬、刊行日程を1ヶ月延ばしてもらえるか、お願いしようと考えたほどです。編集サイドの最大限の支援と協力に支えられて、かつ今日のITのおかげで、瞬時にメールやPDFで正確にゲラや訂正文を送受できるので、本文は四校まで、索引は再校まで見て、ぼくの側ですべて完了したのは4月16日でした。
なにしろ前付がxxii、本体+付録は371ぺージ、後付が(横組)索引と略年譜で17ぺージ、合計410ぺージ(と余白ぺージ)。それにしても岩波新書(清水幾太郎訳)が252ぺージだったのに、今回は四六判で410ぺージ。差異は量的なものにとどまりません。
以下は訳者解説から、内容にかかわる部分の抜粋をご覧に入れます。
◇
「歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去のあいだの終わりのない対話なのです。」
「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。」
- こういったセンテンスで知られるE・H・カーの『歴史とは何か』であるが、それ以上には何を言っているのだろう。「すべての歴史は現代史である」とか「歴史を研究する前に、歴史家を研究せよ」、そして恐怖政治について「従来、公正な裁きの行なわれていた地においては恐ろしいことだが、公正な裁きの行なわれたことのない地においては、異常というほどでもない」といったリアリストの言があるかと思えば、「世界史とは各国史をすべて束ねたものとは別物である」といった高らかな宣言もあり、最後は20世紀の保守的な論者たちの言説を列挙したうえで、「それでも、世界は動く」といった決め台詞で読者をうならせる。古今の名言が次から次に現れて、ぼんやり読むと、全体では何を言っているのか分からなくなるかもしれない。
およそ歴史学入門や史学概論を名のる本、そして大学の授業で、E・H・カーとその『歴史とは何か』に触れないものはないであろう。だが、その内実はといえば、上のように印象的な表現の紹介にとどまるものが少なくないのではないか。ちなみに二宮宏之「歴史の作法」[『歴史はいかに書かれるか』所収](岩波書店、2004)でも、遅塚忠躬『史学概論』(東京大学出版会、2010)でも、カーの『歴史とは何か』は俎上にのぼるが、論及されるのはほぼ第一講だけである。たしかに遅塚の場合は事実と解釈の問題に立ち入って批判的だが、しかし第二講以下はコメントに値しなかったのであろうか。むしろ、作品としての全体を扱いかねたのかもしれない。
◇
カーは1961年の初めに6週連続のトレヴェリアン記念講演(補註f)を行なった。『歴史とは何か』はその原稿をととのえ脚註を補って、同年末に出版されたものである。大学での講演(講義)であるが、教職員・学生ばかりでなく一般にも公開され、無料で出席できた。ケインブリッジ市の真ん中を南北にはしるトランピントン街から、平底舟(パント)とパブでにぎわうケム川のほとり(グランタ・プレイス)へ抜けるミル小路に沿って建つ講義棟の教室を一杯にして、時に笑いに包まれながらこの講演は進行したという。直後には同じ原稿をすこし縮めた講演がBBCラジオで放送されている。
この講演にのぞむカーの意気込みは十分であった。それには事情がある。[以下 2ぺージほど中略]
◇
本訳書の底本は What is History? Second edition, edited by R. W. Davies, Penguin Books, 1987 であり、これに1980年執筆の自叙伝、訳者が作成した略年譜を加えている。[以下 3ぺージあまり中略]
2022年4月17日日曜日
見田宗介さん 1937-2022
わかくカッコいい先生で、1937年生まれということだから、あの授業の時は、29歳の専任講師だったわけです! この朝日新聞の写真は2009年撮影とのことですが[本当でしょうか]、あのころの見田さんの雰囲気が十分に残っています。
しかしぼくがとった社会学の授業は、折原浩先生。1935年生まれで、66年度=ぼくが1年のときは専任講師から助教授になったばかり。(もしや2歳下の見田さんの人気に煽られて?)講義中に 「ひょっこりひょうたん島」を分析して見せたり、ということもないではなかったが、基本は、マルクス、デュルケーム、ヴェーバー、オルテガ・ガセット、そしてアーノルド・トインビーといった社会科学の基本文献を紹介し、東大の1年生に必要な学知を授けるものでした。とりわけマルクスとヴェーバーについては岩波文庫を持参させて該当ぺージを指示しながら読んでゆくといった丁寧な講義で、定員800人の「2番大教室」を一杯にしての授業。1列目・2列目くらいの座席は早々と席取りのコートや鞄が置いてあった。後方の座席では双眼鏡を使う学生が何人もいた。1列目では常に首を上に向けていなくてはならず辛いので、ぼくは前から6~10列目くらいに座して、一言ももらさじと構えました(コンサート会場と同じ!)。
社会調査の分野については、松島先生が分担していたようです。想えば、東大社会学の黄金時代の始まりだったのかな。
いざ2年生、進学振り分けの季節には、さんざ迷ったあげく、社会学はあきらめました。理由としては、
1) 見田さん的なカッコいい学問は、ぼくのタイプではないと考えた、というよりは
2) 社会学に進学する学生たちに、ぼくは伍して行けるだろうか、という不安
3) 案外、西洋中世史(堀米先生)もおもしろそう。ヴェーバー、そして大塚久雄を読んでいることが生きてくることは確実、という判断がありました。
その後(1970年代から)、見田さんは、次々に刊行される本の著者名として、見田宗介と真木悠介と二つを使い分けておられて、当時から説明はあったのですが、結局のところ、何故二本立てなのか、よく分からなかった。父君、見田石介との確執、といったことは風聞で耳にしましたが。
1980年代の『朝日新聞』文化欄なぞ、ほとんど見田宗介と高橋康也(英文)と山口昌男(文化人類学)に席巻されていました。 → 『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社、1987)。ケインブリッジから帰国したばかりのぼくも名古屋の自由な雰囲気のなかで、シャリヴァリ・文化・ホーガースを初めとして、社会文化史に首まで漬かった日々でした。
その後、ずいぶんたった2019年、ある方から見田宗介自身の才能についての自負、メキシコ行きの経緯、などを聞いて、そういうことだったのかと驚き、合点がいったことでした。
2022年4月12日火曜日
2022年3月10日木曜日
一代の奇傑 ホーガース
アダム・スミス文庫100年の記念事業です。↓
東アジアへの西欧の知の伝播の研究
2022年3月11日(金)13:30-16:00 なぜか、大震災の日です!
【開催方法と申し込み】Zoom によるオンライン開催
参加希望の方は 2022年3月10日までに以下の URLよりお申し込みください。前日までに接続先をメールでお知らせします。
https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/meeting/register/tZYuf-6pqT0rH9NhqqRu2JEAdR7ZEaU6x89v
プログラム
13:30-13:40 開会挨拶・趣旨説明:野原慎司(東京大学准教授)
13:40-14:40 報告1:東田 雅博(金沢大学名誉教授)
「東アジアの文化の西欧への衝撃と受容――シノワズリーとジャポニスム――」
14:40-14:55 休憩
14:55-15:55 報告 2:近藤 和彦(東京大学名誉教授)
「一代の奇傑ホーガース」
【各報告には質疑応答の時間を含みます】
15:55-16:00 閉会挨拶:石原俊時(東京大学教授)
ウクライナでも香港・台湾でも、人が(言論でたたかう自由も、ボンヤリする自由も含めて)平静に暮らせますように。
今書いている文章で、E・H・カーによるカーライル『フランス革命』の引用が印象的です。
「[恐怖政治とは]従来、公正な裁きの行なわれていた地においては恐ろしいことだが、
公正な裁きの行なわれたことのない地においては、異常というほどでもない。」
なんというリアリスト!
2022年2月10日木曜日
羽生結弦の悔し涙
「どんなに努力しても報われない努力ってあるんだな」
と。たしかに人生の一つの真実かも知れないし、とりわけ勝負の世界ではそうなのでしょう。ただ、「塞翁が馬」という格言もあります。彼のまだまだ長い人生においては、この北京こそ、わが人生[の地平]が広がる画期だったと言えるようになるかもしれない。
めげることなく、しっかり生きてほしいと思います。
かく言うぼくも立派な人生を歩んでいるわけではありませんが、70歳を越えると、人の恩をしみじみ感じる機会も少なくありません。
大河内一男(1905-1984)の収集したホーガース版画コレクションがあって、それが東大経済の図書館に寄贈されたとは前々から聞いていました。先月、それを初めてゆっくり拝見しました。幸か不幸か、東京の Covid 感染者が1日900人台(全国で数千人台)に留まった最後の日でした! 翌日から急に東京は2000人を突破、全国は1万人を突破したのでした。
思っていたより良い状態の版画で、紙質も含めて、写真や刊本で見るのとはリアリティが違いました。18世紀の庶民たちはこれを見ながら、このオランダ商人はダレのことだ、この職人はあいつにソックリ、この牧師は笑わせる‥‥と口々に思ったことを言いながら、興じたのです。
「わたしの絵は、わたしの舞台であり、男女はわたしの俳優で、一定の動きや表情によって黙劇を演じるのです」
というホーガースの自信作。「疑いもなく卑猥」な「一代の奇傑ホーガース」について、3月に語る機会をいただきました。色々の方々の口添えがあってのことらしく、ありがたいことです。
文化も経済も政治も転変する18世紀のイギリスは、大河内一男の『社会政策』上下巻(有斐閣)の重要な舞台ですが、当時の日本の学者にはイメージを結びがたい時代でもあったようです。大塚久雄や他のピューリタン史家たちと異なる時代像を求めてレズリ・スティーヴンに頼ったこともあるとか。 ぼくたちには、どうしても「1968年の東大総長」という事実が先に立ってしまうけれど、その前の学者としての大河内に、ホーガースの版画はどんなインスピレーションを与えたのでしょう。
アダム・スミス文庫100年の記念事業です。↓下記のとおり。
東アジアへの西欧の知の伝播の研究
2022年3月11日(金)13:30-16:00
【開催方法と申し込み】Zoom によるオンライン開催
参加希望の方は 2022年3月10日までに以下の URLよりお申し込みください。前日までに接続先をメールでお知らせします。
https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/meeting/register/tZYuf-6pqT0rH9NhqqRu2JEAdR7ZEaU6x89v
プログラム
13:30-13:40 開会挨拶・趣旨説明:野原慎司(東京大学准教授)
13:40-14:40 報告1:東田 雅博(金沢大学名誉教授)
「東アジアの文化の西欧への衝撃と受容――シノワズリーとジャポニスム――」
14:40-14:55 休憩
14:55-15:55 報告 2:近藤 和彦(東京大学名誉教授)
「一代の奇傑ホーガース」
【各報告には質疑応答の時間を含みます】
15:55-16:00 閉会挨拶:石原俊時(東京大学教授)
2022年1月30日日曜日
寒中お見舞い申しあげます
ぼくや家族が健康を害しているとかいうわけではありません。たしかに年相応の故障はありますが、そして Covid-19 (という名称にそのしつこさが表れています!) のニュースが毎日の憂鬱要因ですが、なんとかやっています。ただ12月31日の記事にもしたためましたとおり、『歴史とは何か 新版』の最終局面にあり、- 普段のぼくには珍しく - 選択と集中の体勢でいます。そのぶん失礼の段、みなさまには申し訳ありません。
そうこうしているうちに、本日『みすず』no.711 (1・2月合併号) が到来。恒例の「読書アンケート」です。これは百数十名による読書案内というだけでなく、執筆者の個性と現況がうかがえる企画で、毎年楽しみにしています、書き手としても読み手としても。むかしは丸山眞男や、二宮宏之の書いたものをフムフムと読んでいたのですが、最近は毎年、キャロル・グラック、徐京植、ノーマ・フィールドといったみなさんが力作を寄稿なさいます。執筆者の年齢も若返って、年長の方々よりは団塊の世代が多く、さらにずっと若い人々も増えました。
というわけで、今号は
・八木紀一郎『20世紀知的急進主義の軌跡 - 初期フランクフルト学派の社会科学者たち』(みすず書房, 2021)
・岸本美緒『明清史論集』計4巻(研文出版, 2012-21)
・立石博高『スペイン史10講』(岩波新書, 2021)
・バーリン『反啓蒙思想 他二篇』(岩波文庫, 2021)
そして
・Jonathan Haslam, Vices of Integrity: E. H. Carr 1892-1982 (Verso, 1999) に登場していただきました。
バーリンとハスラムはE・H・カーがらみです。バーリンの論文選は、これからも岩波文庫で続刊とのこと。ハスラムの伝記については邦訳があることは存じていますが、『誠実という悪徳』とかいう訳タイトルはありえない。むしろ「学者としての本分(integrity)ゆえの数々の欠点(vices)」といった意味でしょう。of は由来・理由です。
2021年12月31日金曜日
『歴史とは何か 新版』
学問的には充実した1年で、中澤達哉(編)『王のいる共和政 - ジャコバン再考』の1章も仕上げましたが、それとは別に春から、E・H・カー『歴史とは何か 新版』の翻訳に取り組みました。両方とも岩波書店です。
「歴史とは、歴史家とその事実とのあいだの相互作用の連続するプロセスである」とか、
「歴史とは、現在と過去のあいだの終りのない対話である」といった、印象的で上手な説は人口に膾炙していますが、それで終わる本ではない。もっと深い学識と、未来への理性的な投企が宣言された書でもあります。カーが講演の依頼を受けてただちに、最初の粗稿をアメリカへのリサーチ旅行の船上でしあげ、その後、1年半にわたって熟成し、十分に準備して、ケインブリッジ大学の講義棟を一杯にして行われた講演です。
BBCラジオでも放送され、『リスナ』誌に連載され、その年内に公刊した、勢いある講演録でした。新聞の論説委員もBBCの講演も十分に経験しているカーですから、そして言いたいことが一杯あるカー先生でしたから、そのこと(頭のなかでバズっていること)が読み取れないままでは、なんだか古今の引用の多い - ときにはラテン語の詩やフランス語の科学論まで、訳されないまま出てくる - 難解な書という印象しか残らないのではないでしょうか。
ぼくは名古屋大学でも東京大学でも立正大学でも、それぞれ1年分だけ演習で読んだことがあります。いずれも(一部の)学生の反応はたいへん良かった。しかし、難しい(よく分からない)という反応も必ずありました。ぼく自身もよく読めているのかどうか自信を持てない箇所がいっぱい。
コロナ禍で鬱々とする日夜がつづく間に、思い立って、前々から話のあった『歴史とは何か』の第二版をきちんと正確に(講演なのだから)よくわかる日本語にしよう、という気持をかためて岩波書店と話をしてゴーサインが出たのが、今年の3月。以来、考えていたより時間はかかりましたが、今は初校ゲラを抱えています。
しっかり読み込むと、クローチェをアメリカに紹介した Carl Becker がコーネル大学であの R. R. Palmer を研究指導した(!)といった関係も発見し、なにより巻頭に出てくる『ケインブリッジ近代史』のアクトン教授が、最初だけでなく何度も何度も、数え方では17回も言及されるのは何故か、今回はじめて分かった気になりました! 嬉しい(再)発見の多い本です。1961年12月に刊行されて、ちょうど60年ですが、全然古くなっていないどころか、あらためて69歳のカーの意志の強さに感銘します。当然ながら執筆刊行中だった『ソヴィエト=ロシアの歴史』をいったん停止してまで取り組んだ What is History? ですから、内容にふさわしい訳本とします。訳註もたっぷり付けます。見開き左註で、見やすい版面にします!
あす元日の『朝日新聞』に出る岩波書店の広告に、『歴史とは何か 新版』の2・3行も引用されるそうです。どんなデザインか、ぼくもまだ知りません!
2021年12月28日火曜日
夜空の大三角
冬空のオリオン座(4つの一等星に囲まれた真ん中の三つ星が狩人オリオンの体躯とベルト)、左下にはその猟犬シリウスの白い目(夜空で一番明るいマイナス一等星!)。 オリオンの左肩(赤いベテルギウス)と、シリウスと、その左(東)に大きな正三角形を形成するプロキオン。冬の星空の初心者にもよくわかる大三角でした。 (c)ニッポン放送 https://news.1242.com/article/279622
ところが、いつのまにか視力も減退し、また都市の夜は明るくすぎて、地上から天の川を見ることはなくなっていたものだから、1980年にケインブリッジで夜空に the Galaxy=the Milky Way が鮮やかに見えたのは、嬉しい驚きでした。チャーチル学寮の西の林の中に大学天文台がありました。そもそもケインブリッジが広大な農村部の真ん中に位置して、街灯もあまりなかったから、星を見るのに適していたのでしょう。
この数日、日本海側の大雪の報道を聞きながら、関東平野は寒いけれど、申し訳ないほどの快晴で、しかもこの数日は月も未明・早暁まで出ないので、視力が0.1にも達しないぼくでも、わが家のベランダから夜空を見上げて集中すると、オリオン座や大三角くらい、そして冬のダイアモンド(Hexagon)までは、なんとかわかります。
何十年も前の夜空を想い出しつつ、しかし、あの赤いベテルギウスは、やがてまもなく太陽よりはるかに激しく燃焼して生命を終える運命なのだ(数万年の範囲内で!)と知ると、天文学と歴史学とのスケールの違いをあらためて突きつけられるような気持です。
2021年11月21日日曜日
ジャコバンと共和政(12月11日)
逆に、この流れに乗りきれなかった方々は、こうした関係性から(意図せずも)排除されてしまうわけで、以前から云々されていた IT divide はますます進行するのでしょうか。
昨日(土)午後は、12月に予定されている早稲田の WIAS 公開シンポジウム「ジャコバンと共和政」のための準備会があり、十分な緊迫感をともなう研究会となりました。 初めての方とお話する場合も、対面なら1メートル~ときには数メートル以上の距離を保っての会話ですが、ウェブ会議ですと数十センチのところに据えたスクリーンで向かいあうわけで、(自分の)髪やシワなども含めて、クロースアップのTVを見るような感覚です。 自室の文献などをただちに参照できるのも便利。 ところで、「ジャコバンと共和政」というタイトルのシンポジウムに、よくも大きな顔をして出てこれるな、という声もあるかもしれません。
じつはぼくの指導教官は柴田三千雄さんですから、「ジャコバンとサンキュロット」という問題も「複合革命」という論点もしっかり刻まれています。Richard Cobb を読んでから E・P・トムスンに向かった、というのは日本人では(英米人でも?)珍しい経路でしょう。コッブの人柄については、柴田さんから60年代前半にパリでソブールのもと付き合った逸話など聞いていました。ずっと後年になって、オクスフォードの歴史学部の廊下で歴代教授の肖像として比較的小さなペン画に対面しました。 → その後任がコリン・ルーカスでした。
どこかでも申しましたとおり、1950年代のおわりに、コッブ、トムスン、そしてウェールズの Gwyn Williams の3人はフランス革命期の各地のサンキュロット(patriot radicals)を発掘する研究をそれぞれ出し揃えて比較するのもいいよね、と話合い、その一つの結果が『イングランド労働者階級の形成』という名の radical republican 形成史だったのです。
もう一つの共和政/respublica 論については、成瀬治さんの国制史(そしてハーバマス!)を経路として、時間的にはやや遅れましたが、ナチュラルにぼくの中に入ってきました。
その12月11日の WIAS催しの案内はこちらです。↓
https://www.waseda.jp/inst/wias/news/2021/10/29/8504/
ポスターは https://bit.ly/3bHG3cr
無料ですが、予約登録が必要です。 ただし、【グローバル・ヒストリー研究の新たな視角】とかいった謳い文句は、ぼくの与り知らぬものです。
2021年11月10日水曜日
海域史・華人史研究からみたFO 17 と『英国史10講』
https://www.gale.com/jp/webinar
イギリス外務省文書 FO 17, Foreign Office: General Correspondence から19世紀半ば=とくにアヘン戦争後=の海域史をみると、どんなことが浮き彫りにされるのか、この史料にどういった利点があるのか、たいへん具体的でよくわかるお話でした。
「中国史」の相対化はもちろん、海賊史、海難史、またイギリス帝国史も相対視されて、気持よいくらい。ウェビナーなので、該当する史料の例示もテキパキと行われて、白黒の紙媒体で行われていた20世紀の研究報告から、はるか別の環境へとやって来たのだなぁと感心。
海域における海賊行為とその取り締まりを実質的に(無料で)下請けしていたイギリス海軍のはたらき、その事実を清政府は看過したか黙認したか、といった微妙なことさえ考えさせられました。
§ そこで連想したのが、わが『イギリス史10講』の中国語版です。『英国史10講』というタイトル。今年の7月に、何睦さんの訳で中国工人出版社から出たということです(著者献本がつい先日到来したばかりです)。
2017年 脱離欧盟(EU)談判開始
という10刷(2018)の修正加筆が反映されています。 サッチャ、ブレア、チャーチル、ケインズなど固有名詞がどう表記されるのかも新鮮な印象。写真もすべてキャプション付きで掲載されて、全体的に良心的な翻訳かなと思います。
唯一、アヘン戦争に関係して1840年4月8日、議会におけるグラッドストンの反対演説をそのまま引用した箇所:
「たしかに中国人は愚かな大言壮語と高慢の癖があり、しかも、それは度をこしています。しかし、正義は中国人側にあるのです。異教徒で半文明的な野蛮人たる中国人側に正義があり、他方のわが啓蒙され文明的なクリスチャン側は、正義にも信仰にももとる目的を遂行しようとしているのであります。‥‥」【岩波 p.211;工人出版社 p.251】
この引用文はそっくり削除されて、地の文だけで「舶麦頓的 "非正義且不道徳的戦争"」へと叙述が続いています!(このブログでは現代中国の略字体は日本語活字で代用)
ぼくはグラッドストンの論法(上から目線)が独特で重要だと考えたからこそ、これを議会議事録(ハンサード)から引用したのですが、たしかに中国人読者にとっては不愉快な記述ですね。そうした配慮で削除されたのでしょうか?
しかしながら、同じ中国に関する記述でも、20世紀に入って:
「イギリスの中国権益は上海に集積していた。‥‥[このあと中略することなく逐語的に訳したうえ]イギリスは「条約を遵守させることが非常に困難」な中国よりは、日本に宥和政策をとることによって権益を保持しようとした。法の支配、私有財産、自由貿易といった基本について大きく隔たる中国側にイギリスが接近するのは、1931-32年(満州事変、上海事変)以後である。」【岩波 p.266;工人出版社 p.314】
といった中国人の読者にとって愉快ではないだろう段落も、「正如后藤春美所言‥‥」と忠実に訳してくれているようです。ただし最後の満州事変、上海事変は「九一八事変、八一三事変」と表現されていますが、これは中国の読者のためには自然な言い換えでしょう。
というわけで、上のグラッドストン演説の件については不明なところが残りますが、翻訳の話が浮上してから、順調に翻訳出版が実現したことには感謝しています。
これまで『イギリス史10講』をはじめとして、書いたり発言したりするときに近隣諸国にたいして特別の遠慮をすることも、自制することもなかったのですが、このような中国語訳をみて、あらためて自分の文章を客観視できました。Sachlich であることの合理性にも思い至りました。
2021年11月8日月曜日
史学会大会 11月13-14日
東京大学(本郷)‥‥法文2号館一番大教室 にて
公開シンポジウム「世界主義の諸様相 - コスモポリタニズム・アジア主義・国際主義」
と予告されていました。13日(土)1時から勝田俊輔さんの司会・趣旨説明につづき、
川出良枝「普遍君主政の超克-18世紀ヨーロッパ」
中島岳志「アジア主義‥‥」
長縄宣博「静かなラディカリズム-20世紀ロシア」
後藤春美「‥‥国際連盟」
翌14日の部会については法文1号館113教室。
というわけで、久しぶりに本郷へと、期待していました。
ただしちょっとだけ心配で、念のためとウェブぺージを見て、びっくり ↓
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http://www.shigakukai.or.jp/annual_meeting/schedule/
開催方法は、ウェブ会議システム(Zoom)によるオンライン参加のみの実施となりました。事前登録が必要となりますので、こちらより参加申し込み・参加費のお支払いをお願いいたします。締め切りは11月4日(木)です。 PEATIXの利用方法はこちらをご参照ください。本システムでのお申し込みができない場合は、shigakukai.taikai■gmail.com(■を@に変えてください)へご連絡ください。
昨年度は臨時的措置として参加費を無料といたしましたが、本年度は例年通り参加費(2日間共通)をいただきます。一般1,000円、学生500円。会員・非会員の別はございません。
お申し込み・お支払いいただいた方には、大会前にプログラムを郵送いたします。また報告レジュメ、ZoomのURLは11月11日(木)頃ご連絡いたします。
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Zoom開催で、しかもすでに締め切りを過ぎている!
だれもが史学会のウェブぺージをいつも見ているわけではないでしょう!
それでも、とにかく13日のシンポジウムだけでも視聴したいので、Peatixなるぺージへ初めて入って手続を進めてみたら、締め切りは超過しているはずなのに、予約完了。その確認メールまで到来しました。
この事態は放置しておいてはいけないのでは、と考えて、司会・趣旨説明者と史学会事務にメールで連絡してみました。 すみやかに反応があり、
≪‥‥混乱をまねきましたことをお詫び申し上げます。
他に期限後の申し込み希望の方もいらっしゃいましたので、サイトからの申し込みは
11日(木)17時までということを明記いたしました。≫
ということです。[ただし、どこに明記されたのかは不詳。]
→ http://www.shigakukai.or.jp/
ご関心の皆様も、どうぞご覧になってください。












