2015年12月29日火曜日

村上春樹の旋回!?

 遡って、20日(日)午後には東京ステーションホテルで4時間ほどの密度ある会議をもち、編著『礫岩のようなヨーロッパ』の出版の具体的な見通しをえました。
 気持が高揚し、そのまま帰宅する気になれず、夕刻、OAZO の丸善に入ったら、1階で唯一赤い表紙の岩波新書、『村上春樹はむずかしい』が目に飛びこんできました。著者は加藤典洋、ぼくの同期で仏文でした。どんなことを書いているんだと立ち読みを始めて、止まらなくなった。結局、二息ついてから、別の1冊とともに計2冊をもってレジの列に並ぶことになりました。

 村上春樹は、近代日本の、そして今日のアジアのインテリ、物書きから低く評価されている。芥川賞もとっていない。しかし、現代の日本および海外の若者、大衆的な読者、そして編集者や中文の藤井先生にアピールする何かを表現してきました。その理由は?
 村上春樹は明快に、近代日本のインテリの宿痾のような「否定性」(68年にぼくたちは「否定的直観」と呼んでいた)のダイナモを motivation とすることなく、肯定的なことを肯定する作品を自分のペースで生産し続けている(「気分が良くてなにが悪い」)。芥川賞の選考委員はこの「否定性のなさ」を「浅い」とか「空気さなぎ」とか片づけてきました。なにを隠そう、インテリの一人であるぼくも、遠い距離を感じてきました。
 だが、第1の事実として、村上春樹は(ぼくの2歳下で)1968年に早稲田の文学部に入学して、74年に卒業する。ヴェトナム戦争期に重なります。その間の早稲田の文学部がどういった所だったか、『村上春樹はむずかしい』p.65 には端的に「内ゲバによる死者数の推移」が挙がっています。ぼくも歴史として、記憶として』(御茶の水書房)p.182に書き付けたような経験を、村上はもっと生々しく、繰りかえし見聞きしていたようです。
  I keep straining my ears to hear a sound.
  Maybe someone is digging underground;
  or have they given up and all gone home to bed,
  thinking those who once existed must be dead? (pp.70-71、句読点を補充)
 そして第2に、父親の中国経験。
「暴力と死とセックス‥‥を避けてでなく、その内側に入り‥‥反戦と非戦の意志へと抜け出ていくことができるか。‥‥私たち日本人の戦後の冥界くぐり」として村上文学を最大限に称揚したのが、加藤の本書と言えるようです。一種の「ラブレター」とでも言えそう。

 これではなんだか、団塊の世代の村上文学を団塊の世代の評論家=加藤が論評したものを、団塊の世代の読者=近藤がどう読みとったか、といった具合ですが、しかし、じつは団塊の世代といっても、1968年に大学3・4年だった(本郷にいた)者と、1・2年だった者とではかなり経験の受けとめ方が違うのではないか、と思ってきました。大学にいなかった人なら、なおさらに違うでしょう。
 その点で、ぼくは村上春樹と彼の周囲の人たちの世界を垣間見て知っているし、彼と似た空気を呼吸したことはあります。しかし、70年代に異なる思考回路を選択し、以後、別の小宇宙で生活してきました。そうした村上がいま、「歴史に行くしかないんじゃないか」と言明し、「近代日本批判の従来型の否定性を‥‥脱構築しながら、なおかつ別種の新しい否定性を作り上げること、コミットすること」(加藤、pp.131,139)に力点を置いているのだとしたら、これはすごい事態の展開/転回なのかもしれない。
 村上の言では、こうなります。「‥‥井戸を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだ‥‥。」(p.140から重引)

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