2023年9月30日土曜日

バーミンガム大学にて

 今回の旅行は、ダブリンに2泊したあとは北アイルランドで4泊、ロンドンで2泊、バーミンガムで1泊、ロンドンで6泊、とたいへん忙しく機動的に動きました。
 バーミンガムは1982年以来です。New Street駅の近く、Town Hall(ヘレニズム様式!)やミュージアムのまわりは新しい建物が増えたとはいえ、基本は40年前と同じ。丘あり沢ありで起伏の多い街に、運河が行き渡っているのが印象的。全国的な運河網のハブだ、という歌いこみで、歩くにも飲食するにも楽しい環境を整備しています。
 今回の目的は大学図書館の Special Collection 所管の Papers of E H Carr です。New St.駅から University Stationへの鉄路も、他ならぬウスタ運河に沿って建設されています。産業革命の運輸は鉄道ではなく、運河だったという事実をみなさん、忘れがちです。18世紀後半から運河建設・改良は進み、鉄道建設は1825年/30年から始まる、というのは厳然たる事実です。ウェジウッドの陶磁器を鉄道でガタゴト運ぶわけにはゆきません。運河網を利用してリヴァプールにもロンドンにも、またその先の海外にも安全確実に運送できたのです。『イギリス史10講』pp.189-191.
 
 で、その運河脇の University駅に着くと、ホームで迎えてくれたのは、このジョーゼフ・チェインバレン。「エネルギーと人間的磁力」にあふれた美男、あの富裕ブルジョワのお嬢さんビアトリス・ポタの胸を焦がした「一言でいうと最高級の男性」です。バーミンガム市長、選挙権が拡大する時代の自由党の「将来の首相」。『イギリス史10講』pp.239-240.しかしベアトリスと別れ、1886年にグラッドストン首相と対立して自由党を割って出たチェインバレンは、civic pride のバーミンガム大学の初代総長にも就いていたんですね。市中でも大学内でもチェインバレンの存在感は大きい。
 広い空が広がるバーミンガム大学のキャンパスは、なぜか名古屋大学のキャンパスを連想させるところがあります。名大より広く、緑も多く、モニュメントも多いけれど。
 その北寄りの Muirhead Tower(ULとは別の新建築)に Cadbury Research Libraryと称する特別コレクション、手稿、稀覯本の部門があり、前週にインターネット予約をしたうえで参りました。最初の手続、確認を済ませたうえでアーキヴィストに導かれ、おごそかにドアの中に入ると、すでに予約した手稿の箱3つが待っていました。
 
 そこでは、こんな鉛筆書きのメモ(Last chapter / Utopia / Meaning of History)やタイプの私信控え etc., etc.を(座する間もトイレに行く間もなく)立ったまま、次から次に読み、写真に撮り、ということでした。各紙片に番号は付いていないし、また(私信や新聞雑誌の切抜きを除くと)日付もないので、取り急ぎのサーヴェイでは、全体的にきちんとした印象はむずかしい。それにしても、『歴史とは何か』第2版(M1986, P1987)における R W Davies の「E・H・カー文書より」(新版 pp.265-311)はかなりデイヴィス自身の問題意識に沿った引用・まとめであり、それとは違うまとめ方も十分にありうると思われます。たとえば、新版 pp.288-295では、70年代のカーの社会史・文化史への関心は十分に反映していませんでした!

2023年9月20日水曜日

往路と帰路

フライトは、来たときと同じ北極海経路を逆にたどるのかと思いきや、ヒースロウを出て、一路東へ。しかもFlight Mapなるものには、その後北上してモスクワ方面に向かうかの表示です。これは危ない!
Mapを見つめていましたら、イスタンブル、アンカラあたりの上空に達し、これは大丈夫かも、というので、睡魔に身を任せることにしました。数時間後に目覚めてみると、なんと飛行機は北京・天津・大連あたりを飛んでいます。
結局は、西ヨーロッパからイスタンブル経由で、東へ東へと向かうというのは「一帯一路」というイメージでしょうか。イギリスでも中国人のプレゼンスは色濃かった!
最後は、房総半島からぐるっと回って、東京の北から山手線に沿って、新宿・渋谷・大崎の真上を飛んで羽田に着陸しました。
蒸し暑い! でも想像したほどひどくはない。
というわけで、また日本時間の生活に復帰しました。

2023年9月17日日曜日

怖かった! → 反省

忙しかった2週間も実り豊かに終わり、今日(土)は宿からすぐ北の Regents Canal を歩いて、すぐに産業革命期の運河拠点 Coal Drop Yard へ。St Pancras駅の裏手、今日のロンドンのもっともfashionable なエリアかもしれない。東京の湾岸再開発と似て非なのは、新しい建物が東京では超高層で、あいだが空きすぎ。ロンドンではせいぜい10階建てなので、隣りが近く、また上からの圧迫感がない。ガスタンクを模したcondominiumなど、パンデミック前からあった景観ですが、住宅も店も広場もふえて、今日は土曜ということもあり、家族やカップルの人出がたいへん多い。
通りにこんな掲示板が続いていました。一連の関係するメッセージですが、手前の板には queer generation、3枚目の板には Queer Joyという語が明記されています。
そのあとBLへ。ほんの数時間滞在して、出ようかと思ったら出口近くにて Magna Carta特別展。簡潔で良いト書きとともに、要領の良い史料展示、そして専門的なコメントを中世史家だけでなく、近現代史家もヴィデオでやっています。リンダ・コリ先生、ジャスティン・チャンピオン先生にも久方ぶりに対面したような気になりました! 土曜なので、5時閉館。

といった具合で、夕方は観光客より生活者のたむろする所へ。South Kensington-Gloucester Road あたりをうろつき、イタリアンで軽い夕食とワイン2杯。上機嫌で地下鉄に乗りました。自分では酔っていたつもりはないのだが、空いた夜の電車で男4人、女2人の若者の着衣とふるまいに引きつけられ、彼らが降りるところを撮影しました。(顔は写らないようにしたが、一種の隠し撮りではあった。)
それをただちに咎められ、大柄の4人+2人に攻囲され、追及され、カメラを取り上げられ、destroy it とか‥‥。ぼくとしてはカメラそのものより、この2週間の記録が台無しになるのを恐れ、中身の保全第一に考えました。
このお兄さんたちにまずは謝り、I'm sorry では軽いので、I apologize. いろんなことを叫ぶ彼らのスピードに付いてゆきつつ、どうするか、なにができるか‥‥ぼくは station staff と何度も繰り返し(そのうちに口の中がカラカラになり)、若者たちもstaff だ、policeだと口にするようになった。
改札の中年女性、そして中年の男性が中立的に落ち着いて対処してくれて、ぼくのカメラの該当画像1枚をdeleteしたうえ、他の画像もざっと確認して(なんだかよくわからぬ文書や、町並ばかり‥‥)、若者計6名はぼくを威嚇しつつ消えていった。そもそも警官とは接したくない人びとでしょう。
Station staffは怪我をしなくて幸運だったと慰めてくれつつ、車内の撮影はいけません、ときっぱり明言。たしかに観光客に興味本位で撮られちゃ、愉快ではない。
ぼくが一種の文化人類学者気取りでカメラを向けたのに怒って、‥‥最後はカメラの操作画面をのぞきこみつつ、Chinese や Kantoneseじゃなく英語にしろ、とか叫ぶ気持は分からないではない。怖かったと同時に、済まなかったという気です。I apologize again.
(40年以上前にケインブリッジで同時に留学していたイスラエル人の文化人類学者夫妻が東京に来て、街頭でも地下鉄内でも人びとの様子を無遠慮にパチパチ撮りはじめたので、ぼくが不愉快になったのを今、思い出しました。動物園の珍獣か、原住民をみるまなざし‥‥。)
みなさんも、旅先ではどうぞ慎重に。

2023年9月16日土曜日

変わったもの、変わらぬもの

2日(土)夜にダブリンに着き、それからベルファストおよびアルスタの各地を歩き、ロンドン経由でバーミンガム大学、ロンドンでBEACHの初日(12日)だけ参加して、次の日からケインブリッジ大学、そして昨日(15日)はオクスフォードへ日帰りで91歳のO先生宅へ。 この間、ブログに書き込む暇もないくらい、タイトな2週間です。晴天に恵まれました。
バーミンガム大学ではカー文書を、ケインブリッジではアクトン文書を読んだというより、紙片や手帳やらをつぎつぎに閲覧してパチパチ写真を撮りまくりました。いろんなことが見えてくる!
オクスフォードのO先生はお元気で熱烈歓迎してくださいましたが、良い(revealing and moving)お話も聴き出せて、ものすごい収穫でした。こちらは日本人側4人の合力の成果です。いずれ活字にしたいものです。
ダブリンでもC先生、ケインブリッジではWさん、オクスフォードでO先生に再会したわけですが、それぞれ複合状況(contingency)の結果として親しくなれた人格者たち、わが人生を豊かにしてくれた方々です!
イギリス(とくにロンドン)の街並は、そして人びとは、4年前に比べてずいぶん変わったともいえるけれど、本質は変わってない。ただしEUからの逃避・脱落は、これからボディーブロウとして効いてくるでしょう。

2023年9月4日月曜日

フライトの不思議

いまダブリンです。海外に出るのは、2019年3月以来のこと。しかも戦争が進行中です。
東京から(シベリア・スカンディナヴィア経由で)ロンドンまでの直行便の飛行時間はかつて11時間(ロンドンから東京に向かう場合は偏西風に乗るので、もっと短かい)。それが戦争の影響で今では14時間半とのこと。
日本は戦争当事国ではないとしても、ウクライナ支持を明確にしている「敵性国」なわけだから、ロシア国家として、領空内の日本の民間機の航行の安全は保証しないのでしょう。どのように飛ぶのか、大いに関心がありました。
で、飛行中、(仮眠以外は)窓の外と、座席画面のFlight Mapを注視していました。
羽田を発って、千葉の幕張から霞ヶ浦を越えて、茨城の海岸から太平洋をずっと北上。以前のように日本海には向かわないのですね。それどころか、Flight Mapによると、千島列島の東を北上している! カムチャツカ半島の東側。
そこから、Flight Mapの表示は、信じがたい「奇行」を描きます↓
しばらくして、Mapは合理的な表示に戻り、アンカレッジから北極海へ
北極海からグリーンランドへ、そしてアイスランド上空(いつどのようにレイキャヴィクを通過したのかわかりませんでした)から荒々しい奇景を遠望して、なんとスコットランドへ。↓
要するに、昔のアンカレッジ航路を再利用して(ただしノンストップで)、ユーラシア大陸に触れることなく、カナダ・北大西洋を経由してブリテン諸島に到達する、という航路なのでした。ただし、ランカシャ・マンチェスタ・Midlandsは白いちぎれ雲が多く、いい写真は撮れませんでした。LHRには西から着陸。