2016年12月31日土曜日

シェイクスピアの歴史意識

 10月に立正大学でやりました公開講演の要録がパンフレットになりました。表紙を写真でご覧に入れますが、しゃれたデザインです。立正大学、品川区のどちらからこんなアイデアが湧いてきたのでしょう?
 ぼくは例のとおり、悲劇のような史劇として「長い16世紀」のなかに『ハムレット』を読み解きます。
いろいろ読み直してみると、なんとヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』(最初は1961)や、カール・シュミット『ハムレットあるいはヘクバ』(1956)といった先学の直観の後塵を拝した議論に過ぎないのかもしれません。彼らがポーランド人、ドイツ人といった具合に英語国民でないうえに、政治的・精神的な緊張のただなかで発言していたという事実は、重要でしょう。20世紀英・米そして日のインテリがぬるま湯のなかで、『ハムレット』はノンセンス劇だ、実存的危機がテーマだなどとのたまって収まっていたのが、可笑しくなる。

2016年から2017年へ

世界史の潮流を変えそうな勢いの、今年おこった2つの事件を挙げるとすると、第1にアメリカ合衆国におけるトランプの当選、第2にヨーロッパ連合(EU)とイギリス(連合王国)の関係でしょうか。マスコミでいろいろと言われていますが、アイデンティティと秩序をめぐって、ぼくが『図書』1月号に書いた程のことを指摘している記事はあまり多くない。
重大事故の原因は、つねに一つではなく複数。革命は(ピューリタン革命もフランス革命もロシア革命も)つねにいくつもの要素の複合した情況(contingency)の産物です。
右か左か、白人中間層の不満、反エリート・反既得権益・反知性主義の「箱」を開けてしまったネットメディア(SNS)の存在も、たしかに問題でしょう。しかし、現状および将来に不安を抱く中間層(とそれに取り入るポピュリズム)だけで過半数を占めたわけではない。それとは性格のちがう要素も一緒に複合しています。
権力闘争という要素もあったでしょう。それらに加えて、イギリスでは立憲主義(議会主権)という問題、アメリカでは既得権益でうまくやってきた共和党成金たち(Trump家もその例)のさらなる利権欲もあったでしょう。フランス革命が民衆の反乱よりも、まずはアリストクラート(特権貴族)の反動から始まったことを忘れてはなりません。フランス革命の研究史から学ぶことは多い。

2016年12月19日月曜日

中之島センター & ダイビル

(承前)
17日の会は、大阪・中之島における『礫岩のようなヨーロッパ』をめぐる、ヨーロッパ中近世史の方々による合評会でした。執筆者も6名が出席し、企画者・司会のリードのおかげで、効率的に集中的に討論することができました。
中世から近世への移行の契機(?)をめぐって考えに違いのある場合も含めて、基本的な共通理解は確認できました。せっかくいらした並み居る論客も、時間の制約のもとでは自由に発言なさったわけではなく、その点は残念でした。同じく中之島のダイビル3階でも討論は継続。

自宅に着いてみると岩波書店から『図書』1月号が到来していました。http://www.iwanami.co.jp/magazine/
「EUと別れる? イギリスのレファレンダムと憲政の伝統」pp.7-11
という拙文を寄稿しましたが、最後に『礫岩のようなヨーロッパ』におけるケーニヒスバーガの「議会絶対主義」という語にも注意を喚起したものです。
6月23日のレファレンダムの結果は(当初のショックから落ち着いてみると)ただ右翼のデマゴギーの産物というだけではとらえきれず、複合的ですが、イギリス人にとって金科玉条の議会主権にたいするEUの侵犯、というキャンペーン言説がかなり効果的だったから、という一面もあります。その点で、トランプ旋風のアメリカ合衆国とはすこし違う。

ちなみに、フォーテスキュの dominium politicum et regale はイギリスの場合、
「議会と王権(という2つの別の機構)による主権の分有」
と理解してよいでしょうか? 否です。
イギリス憲政の理解では politicum et regale は King in Parliament (議会のなかの王、王とともにある議会)として現象します。
近代には、行政は責任内閣制;司法も貴族院の司法議員 law lords が最高位(つまり最高裁は議会(貴族院)の中にあった)。要するに、日本・合衆国・フランスのような三権分立でなく、三権がすべて議会のなかにある、そうした議会主権=「議会絶対主義」。
【EUから、司法の立法府からの独立を申し渡されて、2009年に独立しました】。

つまり dominium politicum et regale は、 politicum et regale が形容詞であることにも現れているように、2つの実体・機構による主権(権力)の分有をさすとは限らず、むしろ、mixed constitution をはじめとする歴史的な統治構造の分析概念として(のみ)有用なのかも、と未整理ながら、考えこみました。
【なお直江真一氏による「政治権力と王権による支配」(『法政研究』67, pp.545, 547註3)というのは、完全に混乱した誤訳です。http://ci.nii.ac.jp/naid/110006261848

ついでに16世紀末イギリスの作品『悲劇の形をとった史劇、デンマーク王子ハムレット』についても進展があります。いずれ、また後日に。

2016年12月18日日曜日

大阪歴史博物館


今月10-11日には大阪歴史博物館で都市史学会大会、17日には大阪大学中之島センターで関西中世史研究会と古谷科研の合同研究会。2つの週末に連続して(帯状疱疹の痣をさらしつつ)歴史的な大阪の空気を呼吸しました。

大阪はぼくの両親(松山と尾道)が1945年2月4日に結婚して住んだ所です。その3月に大阪大空襲で焼け出されて松山に戻りましたが、戦後1953年にふたたび大阪に出て働きました(戦後に住んだのは阪急沿線・桂の住宅で、こどものぼくには大阪市はよくわからない広大な都会でした)。
このたびの都市史学会大会は、大阪城と難波宮跡にはさまれた歴史博物館で、なぜかNHKと礫岩のようにくっついた建物にて。
古代から近代までの大坂・大阪史の問題の豊かさを具体的に示していただき、また合間に博物館の展示を拝見しました。閉会後の夕刻には難波宮のあとを歩いてみました。
古代からの歴史の長さという点でも、水運による瀬戸内海・東アジアとの接続という点でも、大坂は(江戸より)はるかロンドンに近い存在かなと考えました。
もし1868年に東京でなく大阪に遷都していたとしたら、ロンドンとの類似性はさらに増した、というより複雑になったかな。
午後のブルッゲ・ベルゲン・ヴェネチア・カイロ・アムステルダム・長崎における商人集団と多文化のありかたをめぐるシンポジウムでも、いろいろと示唆をいただき、なお考えを深めてゆきたいと思いました。
みなさま、ありがとうございます。

2016年12月5日月曜日

帯状疱疹とゴルバチョフ


 史学会大会の前の木・金あたりから頭皮(→ 顔の皮膚)の神経痛があり、その痛みが眼孔の奥にも及んだので、11月12日(土)に普段からお世話になっている眼科に行ってみたところ、帯状疱疹(herpes)が出るかもしれない、と予告されました。それまで、帯状疱疹とは想像もしていなかったので、「道」がみえて、なぜか一安心。
 13日(日)から額に疱疹が出始めました。痛みも増します。しかし、これがだんだん増えて眼に近づいたので、不安になり、火曜朝に順天堂病院に予約なしながら(皮膚科は急患を受け付けるというので)、これから行きたいと電話したら、なんと即日緊急入院という危ないケースもあり、と受け付けてくれた!
「万一の場合」にはこれがないと困る、という林・柴田両先生以来の教訓で「歯ブラシ」と、それから(さすがPCはなしで)原稿と材料を持って、順天堂病院に参りました(家族は所要で出かけているので、ぼく一人で)。電車のなかでも気付いた人はそっと距離を保つ、見るも無惨な形相です。
 ところが、皮膚科では血液検査と診察で、典型的な「三叉神経の帯状疱疹」ということで(こわい Ramsay Hunt症候群ではない)、適切な措置をしていただき、なんだか拍子抜けで、そのまま帰宅して、言われたとおりの経過をたどっています。18~20日くらいが峠だったでしょうか。
早めに治療(抗ウイルス錠+鎮痛錠+胃保護+軟膏)を開始したことが良かった、と言われています。顔や頭髪も積極的に洗って清潔にするように、とのことで心理的に楽になりました。孫と接触しても大丈夫、とも。
 見苦しいので、額に大きなガーゼを当てて授業をしたこともあります。電車内は帽子を被ることにしています。ゴルバチョフの額もどきの瘡蓋がいったんとれて、今は赤褐色のケロイド状でまだらな傷跡です。11月26日の書評会でも、12月3日の研究会でも、顔を合わせた方々を驚かせました。この次は火曜に同じ病院内の皮膚科とペインクリニックに行って、経過を見ます。頭髪が伸びてしまって、鬱陶しいのですが、散髪に行くのはその後ですね。
【ゴルバチョフ大統領(左)といっても、今の学生たちは知らない!これにもビックリ。】