2013年7月25日木曜日

相良匡俊さん

 昨夜おそく帰宅したら、訃報が待っていました。

7月3日に下のようなメールを頂いたばかりだったし、昨夜の会でも「相良さんは元気だ‥‥」と話題にしていましたから、驚きました。法政大学を定年退職後、病魔におかされながら、車椅子で、日々を聡明に、自宅で過ごしておられたのですね。
歴史として、記憶として』(御茶の水書房)に寄稿された章は一種の哀感を覚える、「読めて良かった」という文章でした、と書いたぼくのメールへの返事として:

------------------------------------------------------------
‥‥この先、どの程度のことができるかわからないけれど、精一杯の仕事をしたいと思う。
ボクが気にしていたのは、政治的行動や社会運動のなかにある行動のパターン、文化でした。
あなたが関心をもっておられたのもそうだったのではないか。そんな風に感じていました。‥‥

残る元気でおもしろい仕事を。
                    さがらまさとし
------------------------------------------------------------

相良さんとのお付き合いは、1970年代半ばに濃いものがありました。その江戸っ子というのか、シティボーイというのか、独特の雰囲気(文化!)にはアテられ、たいへんに影響を受けました。

パリに行かれる前の本郷でのさまざまの場面、そしてパリからのお手紙、航空便用の薄い便箋に青インクでしたためられたお原稿(一回では終わらず、数回に分けて送られてきました)‥‥、帰国後は『社会運動史』第6号で相良編集長の下、ぼくが柴田さんからいただいた原稿に赤で編集指定など加筆して印刷所に送った、といった場面を懐かしく想い出します。

一種の諦観のようなものを漂わせつつ、しかしできるだけ粋に、生きようとなさっていたのではないか。地方人のぼくとしては、九鬼周造の『「いき」の構造』なんかを読んで感心していたものです。

相良さんは柴田さん、喜安さんとの「接近戦」がいろいろあったようですが、二宮さん、遅塚さんとご一緒の場面はあまり見かけませんでした。 それから、すでに60年代から冗談の種となっていた「木村・相良の共著」は、ついに実現しませんでしたね。残念!
【ちょっと古いが、法政大学にホームページがあることを発見。
 → http://www.geocities.jp/hoseisagara/

ご冥福をお祈りします。

2013年7月20日土曜日

『10講』

 事情を知る方々から、問い合わせと励ましをいただいています。

> ゴールまであと一息に迫っておられるものと楽しみにしています。
> (あるいは、もうテープを切った!というサプライズも?)

 いえいえ、サプライズはありません。
 『フランス史10講』『ドイツ史10講』への参照を本文中で求めることもありますが、それら既刊書とは一寸違う、タネもシカケもある本です。

 たとえば、E・M・フォースタを小説として引用するのか、それとも映画として?
といったレヴェルで悩んだりしつつ、のたりのたりと9講を書き進んでいます。
フォースタともケインズとも異なる非オクスブリジ・エリートである、ウェブ夫妻の「新しい文明 ソ連」への高評価も、しっかり書きこみます。

 前評判の 『海のイギリス史』(昭和堂)は頂いて、価値ある出版と受けとめています。ありがとうございます。感謝しますが、ご免なさい、本質的にぼくの『10講』では、第1講から視座として「海は人や文化を隔てるだけでなく、人や文化を結びつける」と宣言して、すでに織り込み済みです。越智先生の『大航海時代叢書』(岩波書店)への評価についても(御編著の場合は、p.309)、本文中で言及しています。

 9月後半の上海・天津(旧租界)調査旅行、および
10月の Harvard Conference on Global E.P.Thompson には予定どおり参ります。