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2024年7月6日土曜日

美浜区 打瀬(うたせ)

 今日も - 太平洋側では - 暑かったですね。お変わりありませんか?
 そうしたなか、前々から予定されていた用件で京葉線「海浜幕張」まで参りました。昔「放送大学」の番組制作で何度か訪れた駅ですが、そちらとは反対の、南口(海の側)に出て、幕張メッセや千葉ロッテのスタジアムの方角、しかし直近の超高層ビルへ。その25階でのお話と手続はトントン拍子で運び、11時半にはすべて終了して、解散とあいなりました。
 支障なくことが運んだのは良いのですが、ちょっと拍子抜けで、商業地区、そして広い帯状の海浜公園を抜けて、美浜区打瀬の、これぞ「幕張ベイタウン」という街区を歩いてみることにしました。
 ぼくが京成電車で中学、高校に通っていたころは、このあたりは遠浅の海岸で、アサリ取りと海水浴(と海苔養殖)しかなかった! 60年代、70年代に埋め立てが進んで、成田空港ができてからは(途中にあたるこの辺には)高速道路と京葉線が計画され、80年代には幕張はその要、「副都心」とする構想が唱えられるようになりました。京葉線の沿線の北半分(市川、船橋)はおもに工業・倉庫・物流の拠点となり、南半分(千葉市内)は住宅地が広がり、「海浜幕張」は両者の要というか狭間というか、商業・情報・教育の拠点となってゆくプロセスはぼくの知らぬまに過ぎ、いつのまにか、バブル期が終わってみたら、そうなっていたんだ、という認識です。
 1996年正月に日本に帰ってきてから - そのころは両親と一緒に住むことも展望して - しばらく広い範囲で(多摩や国立まで含めて)住宅/住宅地を捜したのですが、新聞広告にくりかえし出ていた幕張ベイタウンの集合住宅は魅力的で、その写真や図面は今でも記憶に残っています。
 多摩ニュータウンは傾斜地が前提の街造りでしたが、幕張は平坦な埋立地で、商業地や放送大学、アジア経済研究所と近接しながらの地割りも計画的に行なわれて、街の真ん中および海側の緑地も十分に設けられています。 
 最高気温35度にもなる真昼だったので、ベイタウンの目抜き通り(美浜プロムナード)も歩行者が少ない。しかし街路樹もたっぷり、目抜きの1階は(雪国の雁木通りみたいに)回廊のようになっているので、雨ばかりか日射しも避けられる構造です。小さな商いやブティクも並んで、悪くない街並みだなと思いました。駅の近くの超高層は別にして、たいていの集合住宅は6階ないしは5階までとして統一感があり、間隔を十分にとった(上から見ると)ロの字型、コの字型の住宅。なんだか西ドイツかオランダの都市住宅みたい、と連想しました(高度成長期の日本の団地住宅とは大違いです)。
 そういえば、わが高校の同窓生たちの現住所で、美浜区打瀬とか磯辺といったのが少なくない‥‥。京葉線快速を利用して、東京駅近辺まで通勤するには便利ですね。ここはまた定期借地権での分譲という手法も活用された、革新的な住宅地でした。

2024年3月10日日曜日

バーミンガムの誇るもの

(そもそも最初に家族で訪問したのは82年でしたが)去年9月に来たときも再認識せざるをえなかったのは、バーミンガムって起伏の多い/多すぎる街だ、ということです。それが運河網とあいまって、丘の上の非国教徒の街(「丘の上のデモクラシ」!)、を形成する地理的根拠になったのでしょう。
そのバーミンガム市の誇るのが、市長にして19世紀自由党の大物チェインバレン(日本で誤ってチェンバレインなどと表記されていますが)、グラッドストンの盟友、ビアトリスの恋人でした。
バーミンガム市の Victoria Squareに次ぐ広場には彼の記念碑が雄々しく建っています。
大学の初代名誉総長(Chancellor)でもあったので、大学駅に大きな写真と碑文があっても当然ですね。ビアトリスは結婚前だけでなく結婚してベアトリス・ウェブとなってからも、彼のことを想うと、胸を焦がしてしまった。そのことを正直に日記に告白しています。今でも知的女性にとって、魅力的な中年男性でしょうか? 彼の息子オースティンがロカルノ条約でノーベル平和賞、もう一人の息子ネヴィルが宥和政策の首相となりました。
さらにバーミンガムは現代都市としての diversityを表明したいのでしょう。黒人やインド人、ムスリムばかりでなく中国人も定着していることの一つの証に、China town(唐人街)があります。

→ 帰国しました。写真をアプロードできる環境になり、遅まきながら、バーミンガム関連で2葉、ご覧に入れます。

2023年9月30日土曜日

バーミンガム大学にて

 今回の旅行は、ダブリンに2泊したあとは北アイルランドで4泊、ロンドンで2泊、バーミンガムで1泊、ロンドンで6泊、とたいへん忙しく機動的に動きました。
 バーミンガムは1982年以来です。New Street駅の近く、Town Hall(ヘレニズム様式!)やミュージアムのまわりは新しい建物が増えたとはいえ、基本は40年前と同じ。丘あり沢ありで起伏の多い街に、運河が行き渡っているのが印象的。全国的な運河網のハブだ、という歌いこみで、歩くにも飲食するにも楽しい環境を整備しています。
 今回の目的は大学図書館の Special Collection 所管の Papers of E H Carr です。New St.駅から University Stationへの鉄路も、他ならぬウスタ運河に沿って建設されています。産業革命の運輸は鉄道ではなく、運河だったという事実をみなさん、忘れがちです。18世紀後半から運河建設・改良は進み、鉄道建設は1825年/30年から始まる、というのは厳然たる事実です。ウェジウッドの陶磁器を鉄道でガタゴト運ぶわけにはゆきません。運河網を利用してリヴァプールにもロンドンにも、またその先の海外にも安全確実に運送できたのです。『イギリス史10講』pp.189-191.
 
 で、その運河脇の University駅に着くと、ホームで迎えてくれたのは、このジョーゼフ・チェインバレン。「エネルギーと人間的磁力」にあふれた美男、あの富裕ブルジョワのお嬢さんビアトリス・ポタの胸を焦がした「一言でいうと最高級の男性」です。バーミンガム市長、選挙権が拡大する時代の自由党の「将来の首相」。『イギリス史10講』pp.239-240.しかしベアトリスと別れ、1886年にグラッドストン首相と対立して自由党を割って出たチェインバレンは、civic pride のバーミンガム大学の初代総長にも就いていたんですね。市中でも大学内でもチェインバレンの存在感は大きい。
 広い空が広がるバーミンガム大学のキャンパスは、なぜか名古屋大学のキャンパスを連想させるところがあります。名大より広く、緑も多く、モニュメントも多いけれど。
 その北寄りの Muirhead Tower(ULとは別の新建築)に Cadbury Research Libraryと称する特別コレクション、手稿、稀覯本の部門があり、前週にインターネット予約をしたうえで参りました。最初の手続、確認を済ませたうえでアーキヴィストに導かれ、おごそかにドアの中に入ると、すでに予約した手稿の箱3つが待っていました。
 
 そこでは、こんな鉛筆書きのメモ(Last chapter / Utopia / Meaning of History)やタイプの私信控え etc., etc.を(座する間もトイレに行く間もなく)立ったまま、次から次に読み、写真に撮り、ということでした。各紙片に番号は付いていないし、また(私信や新聞雑誌の切抜きを除くと)日付もないので、取り急ぎのサーヴェイでは、全体的にきちんとした印象はむずかしい。それにしても、『歴史とは何か』第2版(M1986, P1987)における R W Davies の「E・H・カー文書より」(新版 pp.265-311)はかなりデイヴィス自身の問題意識に沿った引用・まとめであり、それとは違うまとめ方も十分にありうると思われます。たとえば、新版 pp.288-295では、70年代のカーの社会史・文化史への関心は十分に反映していませんでした!

2023年8月20日日曜日

大手町駅 B7 出入口

東西線を利用してJR東京駅に出るには大手町駅(の東側=日本橋寄り)から歩くのが便利です。
①丸の内(正面)側に出るには、改札を出てすぐに「JR東京駅」という指示のとおりに、エスカレータに乗って、その先を歩けば、迷う余地もなく、にぎやかなOazoの地下通路を通って、いつのまにか東京駅丸の内北口付近の雑踏にまぎれこむ、という構造です。これは地下通路も地上通路もあって、ほぼ同じ方角に移動する、一番利用者が多い経路でしょう。
逆に東京駅から東西線に向かう場合は、丸の内北口から丸善Oazoをめざして、それを右手に見ながら「東西線」という指示のとおりに歩けばいいのです(地上でも地下でも基本的に同じです)。
②八重洲口に出るには、大手町駅の改札を出て東西線の電車路の上を(すなわち永代通りの下を)日本橋方向=東にやや歩き、B8b あたりから右折して、あまり人出のない、さびしい昔ながらの「連絡通路」を歩いて、やがて八重洲地下街に到達する、という構造です。
逆方向ですと、東京駅で新幹線を降りて、八重洲口から東西線まで歩く、という人が辿りがちの、あまり楽しくない経路です。
③むしろ新しく - といっても10年以上前に - できた「東京駅日本橋口」にゆくには、大手町駅の改札を出て東西線の電車路の上(すなわち永代通りの下)を日本橋方向=東に向かい、B7 という出口から地上に出ます。そこは超モダンな空間で、新幹線【JR東海、JR東日本とも】の改札口、長距離バスの発着を利用する人びとが多いのですが、天井/空が高いので、混雑感・圧迫感はなく、ぼくとしては気に入っています。時間帯によっては、ツアー団体客や修学旅行客の集合場所として利用されています。

じつは今朝早くに、必要があって、この③の経路を使って東京駅に往復したのですが、ただいま大規模な再開発工事中で、さらに数年後にはすごい空間になるのだなと見上げました。「東京駅日本橋口」から北を見て左側にたつ高いビルが「サピア・タワー」という名の大きな建築で、知識産業が入居しています。何年も前にブレーン企業のセミナーに呼ばれてここの上階で話をしたことがありました。関西の私立大学の東京教室もあります。
このサピア・タワーは朝7時に開館で、それより前の早朝には館内のエスカレータが使えない。したがって東京駅を利用する大きな荷物の旅行客は、永代通りの長いB7階段をエッチラオッチラ利用せざるをえず、これは辛いな、と思わせるところでした。
 今朝の帰路に階段で気付いたのは、この写真のとおりの掲示です。
 そうか、利用者からの要望が続き、いよいよ、B7の「改良工事」に取りかかるわけですね。とはいえ今年の9月11日~2028年3月とは(5年間!)かなり長い! 近接するB6もB8aも改良工事で閉鎖中、ということは、この近辺の再開発が大規模だということを示しています。同時に、工事閉鎖中の不便もまた大きく、とりわけ東西線の早朝・深夜利用者には影響は少なくありません。

2021年4月16日金曜日

立正大学のR

 水曜には大崎の立正大学まで授業に行って参りました。教室で授業をするのはじつに2020年1月から15ヵ月ぶり! 大学事務に顔を出すのは、20年3月の年度末処理以来でした。 学生もそれなりに居ますが、しかし Covid前に比べると、やはり空いています。
 峰原坂の正門から入ると変化に気付きませんが、6号館食堂・図書館の脇から山手通りの通用口へ下ると、2019年以来の大工事がすべて完了して、きれいになっています! 11号館と新13号館を合体させて一つの建物であるかのように見せているのですね。

 左隣は大崎警察署。あいにくの天気でしたが、違和感のない連続性が示されています。
大学のロゴもいつのまにか「緑のR」から「青のRデザイン」に替わりました(校舎の左壁、そして1階の中ほど)!

2020年12月16日水曜日

ベルリンより

師走も中旬、いよいよ本当に寒いなぁと感じ入っていたら、予期せぬクリスマスプレゼントが到来! なんときれいなベルリンの住宅カレンダー。Charlottenburger Baugenossenschaft (シャルロッテンブルク住宅協同組合)とあり、毎月分 Shinichi 署名の景観水彩画です。
2000年の夏の終わりに Urban History の学会でベルリンに滞在したときは、工科大学に隣接し、クーダムからも遠くないホテルでした。このとき工科大学も本屋も運河もいろいろ案内していただき、楽しい想い出です。以後ちょうど20年も顔を合わせてないのではないでしょうか!

  朋あり遠方より来信、また楽しからずや。

それにしてもドイツの都市景観は、このカレンダーとは別の所でも、明るい雰囲気の似た場が少なくないような気がします。2005年にリサーチに行ったハノーファも [戦災による全滅後に建て直したようですが]これに似たよい雰囲気の住宅街の一角に泊まりました。Rathaus の前を通り、小川のほとりの Hannah-Arendt-Weg を歩き、Archiv に通ったのです。ずうっと後に行ったミュンヘンも含めてドイツの印象はいいことばかりです。

2020年3月6日金曜日

神保町を歩く


コロナウィルス19とスギ花粉の時候がら、「不要不急の外出」は控えていますが、緊急必要のタスクがあれば、それなりの防備をした上で出かけざるをえません。大学にも、量販店にも。しかし一番良いものはやはり神田神保町の古書店街に、ということで、火曜・木曜には久方ぶりに出かけました。

靖国通りに面した2つの老舗店で良い買い物ができました。
 崇文荘書店は(坂巻助手、岡本先輩に教えられ)社会経済史も充実して、70年代にはお世話になったものです。書店側でも本の価値がよく分かっていて「ちょっと高め」の価格設定でしたね。今はどうかな。「日本の古本屋」kosho.or.jp というウェブぺージがあって、読者は歩き回らなくても相場がわかる(今では海外の古書店に注文するのも手軽にできる)ということもあり、それなりにリーズナブルな価格設定でなければ、売れません。

田村書店は、仏文の田村先生と関係あるのかないのか知りませんが、フランス文学や古典学に強い店。2階へ上がる階段にも古書が一杯で、階段幅は半分に狭まっている! そういうこともあって、これまでこの書店の2階に上がった覚えがない。今回は「日本の古本屋」で2巻本のラテン語辞典がかなり安く出ていたので、問い合わせたら、まだ在庫、というので飛んで行きました。ご主人とちょっとお話しできたし、なにより1階の和書は、今でも勉強家の学生にとって魅力的な掘り出し場です。

上の両店ではなく、別の古書店の前の歩道で、ちょうど荷車から降ろしているのを見かけたら、なんと西洋近世近代史の(ぼくの蔵書の一部、といっても通る)良い本ばかり複数の山を造っている! 思わず蔵書印かなにか手がかりをと思って手にとろうとしたら、「ダメです、店の中のものだけにしてください」と厳命されてしまった! 

春の晴れた午後。まだ日本の書籍市場も捨てたものではない、という気持にさせてもらいました。
(とはいえ、駿河台下交差点付近では、小川町ですが、昔むかしのエスワイルという洋菓子店も、またKKR・気象庁方面へ向かう千代田通りの左手・地下にあった鰻の店も、なくなっています。どちらも最初は柴田先生に連れて行ってもらった店。ずっとご無沙汰していたぼくもいけないのだが、悲しい。)

2019年10月25日金曜日

ノートルダム大聖堂 と 時代


 10月19日(土)にはパリ・ノートルダム大聖堂の炎上 → 再建・修復をめぐってのシンポジウムが上智大学であり(司会・問題提起は坂野さん)、問題は単純ではないということが具体的に示されて有意義でした。http://suth.jp/event/20191019/ 「つくられた伝統」という観点からも。ただし、多くの報告者が建築の歴史を語るときに、フランス王国ないし共和国の枠組が自明のように前提されて、「美(うま)し国」のなかで歴史も文明も完結するかのごとく、縦の系譜がたどられて、ちょっと待ってくださいという気にもさせられました。
 その点で、最後の松嶌さんの報告は、ケルンやシュトラースブルク、さらにはコヴェントリにも議論を拡げていました。「ゴシック様式」の起源がイル=ド=フランスだったらしいというのはいいとして、建築様式をはじめとする技能は(そもそも中世には薄弱な)国境を越えて遍歴する職人集団によって伝えられたし、そうでなくともアイデアやノウハウは真似られ、流行し、継承され、いずれ改変される。近現代においても技術やアートは、たやすくネーションや国境を越えて伝播しますよね。
 また都市史の観点からも考えさせられる指摘があり、大聖堂とその周囲の街並みとの交わりについて、中島さんの図版に、18世紀前半までパリ・ノートルダム大聖堂のすぐ近くまで町家が建て込んでいたことが示されました。その後のクリアランスはパリやフランス諸都市に限らず、およそ啓蒙ヨーロッパに共通の改良(improvement)運動として展開するのが、おもしろい。イギリスでは18世紀が(道路や広場の)改良委員会の時代です。ロンドンの聖ポール大聖堂も、ケインブリッジのキングズ学寮チャペルも、周囲に(今あるような)公共空間ができるのは18世紀です。有名どころとしては、キャンタベリの大聖堂が「街並み改良」としては立ち遅れて、その結果、今日にいたっても建て込んで、ちょっと離れた位置から大聖堂全体の美しい写真を撮ることができませんね。観光絵ハガキでは、したがって、航空写真を使うのがふつうです!
 18世紀が啓蒙だけでなく、新古典主義とバロック・ロココ、あるいは加藤さんの論じられた「良き趣味」の拡がりという点からも、画期なのだ;ドイツでコゼレクたちの論じてきた Sattelzeit がここにも認められる、と思いました。このシンポジウムでは、ヴィクトル・ユゴーやル=デュクの中世趣味的な「修復」の観点を強調することによって、19世紀の中世=ロマン主義の時代性、それに先行した the age of enlightenment の普遍性みたいなことが浮き彫りにされたのかもしれません。

 音楽演奏では、ブリュッヘンたちの Orchestra of the eighteenth century,
専従指揮者のいない Orchestra of the age of enlightenment,
そして J E ガードナ(Gardiner)の Orchestre révolutionnaire et romantique
が競合し共存した時代をへて、今はまたすこし変貌しているかに見えますが。

2019年3月19日火曜日

ブダペシュト

ただいま、ブダペシュトに滞在中。初めての地です。
ヨーロッパのど真ん中ゆえにCEU(Central European University)があって、そこでこんな話をしています。
https://pasts.ceu.edu/events/2019-03-18/european-jacobins-and-republicanism
本日までは、(原稿未完のまま飛来したので)寝ても覚めてもナーヴァスな日夜でした。報告・討論を終えて、ようやくホッとしています。

リスト、ルカーチ、ポランニ、バルトーク、セル、といった人材を輩出したハンガリー。
ブダ+ペシュトは、ドナウ川が流路を90度変えたあと、ハンガリーの大草原に出てくる所にある、というわけで西と東、ヨーロッパ・カトリック教圏と正教圏、あるいは近世ですと神聖ローマ帝国とオスマン帝国との境目にあたります。ユダヤ人街がこんなにも広く展開しているとは、想像もしていませんでした。
CEUもここになくてはならぬわけではない . . .
昨日はたいへん暖かい快晴日、ドナウ川をさかのぼる形ですが、ブラティスラヴァまで出かけました。
今日はふたたび曇天、夜は冷えます。
(写真はたくさん撮っているのですが、カードリーダを忘れできたので、こちらに転送することができません。帰国してからゆっくりご覧に入れます。)

2017年12月22日金曜日

ジョージアン・ダブリンの都市空間

「都市史学会」ワークショップのご案内です。
http://suth.jp/event/20171225/ ← ポスターもダウンロードできます。】

参加=事前申込不要。会員以外の方もご参加いただけます。
______________________________
ジョージアン・ダブリンの都市空間――建築史的視点から

日時:2017年12月25日(月) 13:30-18:00
場所:東京大学工学部一号館(3F・建築学専攻会議室315 号室)

趣旨:
ジョージI~IV 世期(18 世紀初めから19 世紀初め)のダブリンは、ヨーロッパ最大規模の街路、ヨーロッパで最も壮麗とうたわれた建築物、ブリテン帝国で最も美しいとた たえられた公園がつくられるなど、ヨーロッパを代表する華やかな都市へと成長した。
これまで日本の建築史/都市史/西洋史研究においてダブリンが対象とされることはほぼ皆無であった。本ワークショップは、建築および都市空間に注目して全盛期ダブリンの姿を描きだすことにより、その豊かな個性と魅力を伝えたい。さらにダブリンをイングランド、スコットランドの諸都市と比較することで、ブリテン諸島の都市史研究に新しい地平を開くことも試みたい。

プログラム: 司会=坂下 史(東京女子大学)

13:30-14:00 発題
ジョージアン・ダブリンを見る視角
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻伊藤研究室
(伊藤 毅・小南弘季・岩田会津・海老原利加・杉山結子)

14:00-15:45
報告Ⅰ ジョージアン・ダブリンのマクロ的予備考察 | 勝田俊輔(東京大学)
報告Ⅱ 富とチャリティと病院
― ジョージアン・ダブリンの建築物と都市開発 | 大石和欣(東京大学)
報告Ⅲ ジョージアン建築の一起源
― 18世紀のエディンバラおよびダブリンにおける建築的取り組みに表れた社会的課題
| 近藤存志(フェリス女学院大学)

15:45-16:35
コメントⅠ ダブリンの風景を読む | 桑島秀樹(広島大学)
コメントⅡ ジョージアン都市の歴史を比較すると | 近藤和彦(立正大学)

16:35-18:00 討論

【お問い合わせ】都市史学会事務局 〒113-8656 東京都文京区本郷 7-3-1
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻伊藤毅研究室気付 電話= 03-5841-6184
HP= http://suth.jp/event/20171225/ Email= office@suth.jp
【後援】2013-2017 年度科学研究費・基盤研究(S)
「わが国における都市史学の確立と展開にむけての基盤的研究」(研究代表者:伊藤 毅)

2017年8月23日水曜日

記念像のアイルランド

 ロンドンにて、まだ Irish impact を反芻しています。
 Trinity College 前の College Green は車と人の雑踏がばかりでなく、現在工事中の標識がたくさんあって、きれいな写真になりませんが、黒くみえる立像にご注目。
 こちらの右から大学に向かって Grattan, 大学正門から街に向かって Goldsmith, Burke と18世紀後半(啓蒙・自由主義)の人物(だけ)が立ち並びます。
 当然ながら、現代アイルランド共和国はこのままを許容するわけにゆきませんので、カメラの右後ろには Tone grave, Thomas Davis と19世紀のラディカルたちが構えていますし、さらに北側のオコネル通りには、もちろんオコネルの巨大な像から GPO(1916年3月完成、4月に占拠、襲撃)まで、19世紀・20世紀のシンボリズムがあふれます。
 数が多いだけなら、ロンドン・ウェストミンスタにも「偉人」の立像がたくさん居並びますが、ダブリンでは(土地がコンパクトということもあって?)College Green に18世紀後半の自由主義者(でイングランドにも受容された3人)、
その先に少し遠ざかって19世紀前半の志半ばでたおれた2人、
さらに方向は北に転じて、ローマカトリック Pro-Cathedral に近い大通りにオコネル、19世紀の十分影響力を行使した活動家たちが居並ぶ、という明快な配置です。これは topology と chronology が重なって意味をもちます。ある段階で、だれか mastermind(個人? 集団?)がいてこそ実現した場所的色づけ(臭いづけ)なのではないかと、想像したくなります。

2017年6月17日土曜日

東京駅前ひろば


今夕、幾週間ぶりか、東京駅丸の内南口の「東京中央郵便局」に行って、ゆうパックを出しました。受取人払いの書類です。
この東京中央局は、昔の古めかしい5階建て、大きなトラックが出入りしていたころからよく使いました。24時間受付ですので(土日も)、重要な申請書、〆切間際あるいは〆切の過ぎた原稿や校正ゲラを急ぎ送るために、電車や自転車で駆けつけたものです。今ではメール添付で送ることが増えたので、改装なったキッテ(JPタワー)までわざわざ行く必要は減りました。

この前、ここに来たのは5月の何日?とか思いながらOAZO丸善の方向に向かって、おや、と認識。先ごろまで工事用の塀で遮られて狭苦しい思いをしていた(ステーション・ホテル正面の)空間が広くなっています。
まだ一部塀は残っていますが、それが撤去されたら、東京駅から皇居前までかなり広々として気持のよい公共空間が現出することになりそう。‥‥ とりわけ夜景は、こんな具合に美しい。

2017年5月24日水曜日

マンチェスタのOくん

マンチェスタ大学の院生Oくんから、迫真のメール、到来。
「‥‥大惨事があったことにも全く気づきませんでした。当該事件についてネットニュースで知りましたし、パトカーの音なども特に聞こえません。‥‥」
とのこと。
まずは無事で良かったと思います。大学は、事件現場と街の中心部をはさんで反対の南側、Oxford Road、全然環境のちがう界隈ですから、何も聞こえなくて不思議はありません。

現場付近は18世紀ころまではマンチェスタの真ん中で(なかば暗渠になっていますが)川の合流点。歴史的な Cathedral や Chetham's Library、そしてマーケットがありました。Victoria Station はマンチェスタから北へ (Wigan, Preston, Lancaster, Glasgow) 行く場合に利用するターミナル駅で、ロンドン方面にゆく Piccadilly Station とは何キロか離れています。今ではトラムで繋がっていますが、むかしはタクシーかなにかで急ぐしかなかった。

マンチェスタでは1996年6月に IRA の爆発事件がありました。それもやはりCathedral, Market, Arndale の付近で、これはあまりにも大規模な破壊だったので、何年もかけて近辺を再開発せざるをえないほどでした。後年に行って付近の景観が一新されたのを見て驚きました。MEN Arena というのは、その再開発の一環として Manchester Evening News が建設した興行スポーツ大建築ですね。いまは経営が替わって、名も Manchester Arena になったのか。ぼくのこの写真では、まだMENでした。

多数の死傷者が出ましたが、こちらで動画などを見るかぎり、爆発の威力だけでなく、
狭い場所の雑踏で stampede したことで事態が悪化したように思われます。

こうした事件があったからといって、過敏に警戒して街中に出かけないというのは賛成できません。万が一にも似たような状況に出くわしたら、慌てず落ち着いて行動してください。
ぼくも1981-2年ころ、サッチャ政権でロンドンの治安が悪化し、IRA 関連事件で都心の雑踏の中、家族と合流できず焦ったことを思い出します。ケータイなどない時代でした。
泣いても叫んでも(慌てて走り出しても)意味がないので、
「今の条件のなかで何をしなくてはならないのか/なにが可能なのか」
を第一に考えて、行動してください。
ドタバタ、うろうろしないというのが、人生の教訓ですね。

2016年10月18日火曜日

「豊洲問題」


今マスコミと小池知事が、あげて土壌、地下水、空気を問題にしています。でも、ここで問題にしたいのは市場建設の是非よりも「豊洲」という地名そのものです。
あなたは江東区豊洲に来たことがありますか? 一度も歩いたことのない人には想像もできないくらい広い地域です。1988年から隣接する越中島の住民として、よく知っていました。夜中に遠く、ドックの船舶の汽笛が聞こえたものです。
http://www.toyosu.org/  豊洲2・3丁目まちづくり協議会
豊洲1丁目~5丁目」は一つの島をなし、戦間期からおおむね石川島播磨工業の造船・メインテナンスの大工場と関連の中小企業、そして住宅、飲食店が拡がっていました。国鉄の貨物線も走っていました。いま地図で計ってみると、全部で約1400m×800mの広さ。石川島播磨工業は1980年代に、まず創業の地・中央区佃から撤退し、そこは今、超高層住宅が林立しています。やがてさらに江東区豊洲2・3丁目の主工場敷地も再開発することが決まり、最初の超高層・NTTデータの豊洲センタービルが竣工したのは1992年でした。そして IHI と改名した本社ビル(豊洲3丁目)、芝浦工業大学、いくつものタワーマンション、商業施設、オフィス、「アーバンドックららぽーと」(豊洲2丁目)が開業したのが、2006年。湾岸を代表する、職住近接の街として楽しい空間ができました。子どもをもつ親(と祖父母)にとってキッザリアは一度は行くメッカでしょう。

これとは水路をはさんで、直角に接する「豊洲6丁目」というこれまた広大な、約1800m×600mほどの埋め立て地があって、東京ガスおよび東京電力の工場が占めていました。ほとんど住宅はなかったみたい。やがて、こちらの用地が収用され、それぞれガステナーニおよびTEPCOのミュージアム施設以外は空き地がひろがり、そこに「ゆりかもめ」が走り、湾岸の高速道路へのアプローチ公道が何本か伸びる、付随して流通業の大配送センターが建つ、という状態が長く続いていました。ここに新市場が移転・建設されることになったのです。http://www.tokyogas-toyosu.co.jp/project/toyosu22/  とよす22

繰りかえしになりますが、「豊洲1丁目~5丁目」と「豊洲6丁目」とは別で、(2丁目・5丁目の境にある)「ゆりかもめ」豊洲駅から二つ目の駅が「新市場前」です。「豊洲1丁目~5丁目」の住民・勤め人は、ジョギングか犬の散歩でもなければ、行ったことはないんじゃないでしょうか。おなじ豊洲という地番で一緒くたにするのは、迷惑な話で、たとえれば築地全部(1200m×800m)を銀座9丁目と呼んで、銀座(約1100m×700m)と築地を区別することなく一緒にするのより、もっと乱暴な企てです。

2015年11月24日火曜日

頸椎症性神経根症

 つい2週間前のことです。大学のエレヴェータで出会ったグレースーツの紳士が、右腕に三角巾をしておられたので、どうしたのですかと尋ねたら、「肩の骨がささくれだって、神経を圧迫し、耐えられないように痛む。70歳を越えたらだれでもなるかもしれない、と医者に言われた」とのこと。お大事にと言って別れた、そのときのぼくはけっして冷たい気持で聞き流していたわけではない。でも、あたたかい気持で親身に心配してあげていたわけでもない。要するにぼくには関係ない不幸として受けとめていたのです。

 天網恢々‥‥そうしたぼくを戒めるかのように、13日(金)の深夜、就寝時から突然、右の二の腕、肘、そして右肩が大変に痛み/しびれ始めました。時間とともに、悶絶するほど痛くなる。未明に起き出して、湿布(ロキソニン)を探し出して貼ったけれど、気休めにもなりません。
 翌日(土)は千葉の老母のところに行く約束で、睡眠不足のまま出かけて(昼間は不思議なことにさほど痛まないので)この日はさほどの力仕事もなく、無事に過ごしました。とはいえ、やはり就寝後、数分たつとしびれ/疼痛が始まり、これが少し部位を移しながら波状に朝まで続く、悶絶の夜です! 日曜は史学会大会。これも、起床・活動時は軽く耐えられる痛みなので、皆さんとも普通に会話できました。

 16日(月)、知り合いの薦めもあり、麻布十番の鍼灸院に行きました。生まれて初めて。ちょっと緊張しましたが、話のやりとりをしながら納得づくで身体をほぐし、鍼をうち、灸をすえて、リラックスはできたと思います。若いときからの緊張と無理な力みが右手、右肩、身体の右半分すべてに累積しているとのこと。とはいえ急に恢復するわけではなく、じつはこの月曜夜あたりから疼痛も厳しくなったような気がします。
夕刻にはスマートフォンの画面入力さえビンビン響くように、指先や手の甲など身体の浅いところが痛む。ロキソニンに加えて、就寝時にパジャマの上から「衣類に貼るホッカイロ」を右肩および右肘のあたりに貼り、またバッファリンを飲む、ということを始めました。
 しかし、あいかわらず深夜にくりかえす悶絶の経験から再考すると、ロキソニンは部位を冷やして痛みを逆に強めているような気がするし、ホッカイロは上手に貼らないと低温ヤケドに近い痛みが残ります。というわけで、ロキソニンは中止、ホッカイロは一箇所、肩のみ。バッファリンは効果はあるのだが、多用しないことが条件。
 水木金から土日にも校務(推薦入試の面接と判定会議!)が続き、ようやく23日(月)になって鍼灸院を再訪。肩から二の腕、肘の部位をピンポイントで確認しつつ処置してもらいました。この月曜からホッカイロ、バッファリンも止めて、勧められた温湿布、トウガラシエキスの入った「ホグリラ 温感」のみ。あとはお酒を断ち、朝・夜2回の風呂。 → これでなんとか快方に向かっている気分です。

 ところで麻布十番って、歩くのが楽しい所ですね。http://www.azabujuban.or.jp/access/

 なお、インターネットで日本整形外科学会のサイトから「頸椎症性 神経根症」というページを捜しあてました。その記述とわが症状はピッタリで、加齢変化によるのですが、付随的に「遠近両用めがねでパソコンの画面などを頸をそらせて見ていることも原因となることがあります」! ‥‥手術はよほどのことがないかぎり必要ないようで、「基本的には自然治癒する疾患です。‥‥治るまでには数ヶ月以上かかることも少なくなく、激痛の時期が終われば気長に治療します」とのこと。
 こちらも参考になりました。頸椎症にも2つあるんですね。→ http://www.sekitsui.com/9specialist/sp005-html/
 現代医学でも決め手はないようで、ぼくと周囲の皆さんの直観が合致して、鍼灸に頼ったことは正しかった、と信じます。とはいえ、即効はなく、身体を温め、冷たい部分がないように、そして努めて上半身を動かす、ということでしょうか。軽い体操も教えていただきました。神経根症は身体の真ん中および足腰には作用しないようです。そもそも歩数計を装着して毎日しっかり歩いていますので、今のところ足腰は大丈夫。

2015年5月14日木曜日

酒都を歩く(英国編)

読売新聞 Online からこのような通知がきました。

>‥‥本村凌二先生の記事を今朝ほどアップしました。
>以下のURLです。
>http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/20150507-OYT8T50159.html
>2回にわけて掲載予定です。‥‥

関連ページがふえて、やや錯綜してきましたが、2月のぼくのインタヴューも含む、全体の「もくじ」はこうなっています。
→ http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/

2015年2月14日土曜日

ぶりてん数寄

きのうの続きですが、読売新聞オンラインの「ぶりてん数寄」には↓
http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/20150127-OYT8T50116.html
↑「坂次劇場」のシティ観光案内にことよせて、かなり単刀直入に
イギリス法の世界、そして信託法チャリティの歴史に読者をいざなう、たくみなウェブページもあります(やはり3回物)。
グローバルに仕事をするビジネスマンにとって、コモンロー、信託(基金)法、そしてチャリティの理解は必要不可欠です。小坂記者は「タテマエとホンネ」という筋に話を落とし込もうとされていますが、ずっと本質的な問題だろうと思います。
『イギリス史10講』では、公益団体、endowment、そして「ワクフ」や国のかたち論(pp.219-221)にまで言及してみました。
これには小松久男さんが『史学雑誌』の回顧と展望(2014年5月)でさっそく反応してくださり、ほっとしたものです。

2014年5月30日金曜日

『民のモラル』(ちくま学芸文庫)

 ご無沙汰しています。5月は wunderschoen というわけには参りませんで、
多くの皆さまにご心配をかけてきました。

 ただこの間にも筑摩書房と精興社の方々は獅子奮迅のお仕事を進めてくださり、そのおかげで、順調に『民のモラル』の改訂版が出ます。6月10日発売、本体1300円です。
筑摩書房のページ・著者近影も
こちらでは山川版とちくま版、それぞれのカバーデザインをご覧に入れます。
山川のカバー写真(1993)では、なぜか赤色が強調されたうえ全体に黒っぽくなっていました。まるで夕焼けの街頭みたいに。
ちくまのカバーおよび口絵(2014)では、青色の要素もしっかり表現され、白昼、青空の下の光景であることが歴然。

 せっかくこの機会をいただいたので、今となっては中途半端な終章「新しい文化史」は削除し、副題を「ホーガースと18世紀イギリス」と改めて、焦点も議論も明快な本としました。本文も巻末の史料・文献解題もミニマムながら補正して、2014年の刊行物として意味あるものとしました。なおまた編集担当者の熱意のおかげで地図など図版を追加することができ、18世紀なかば、Rocqueのロンドンを、シティのニューゲイト監獄・市門から、ホーバンを西に、聖ジャイルズ教会を経由して、オクスフォード街、そしてハイドパーク入口のタイバン処刑場までたどって歩けるようにしました。じつは今日でも基本的に(微調整すれば)この260年前の地図で歩くことができるんです! 見開きの地図が、右から左へと、次々に連続します。

 本とは一人では出せないものと承知はしていましたが、今回もつくづく、その認識をあらたにしました。
あとがきに名を挙げた方々に、感謝。

2013年10月2日水曜日

ハーヴァード大学

 直行で12時間半!イギリスより遠いフライトの後、はじめてボストンに降り立ち、Cambridge, MASS. に来ました。 晴で、涼しい。
やや古めのホテル、大学キャンパスのほぼ中心 Garden Street に荷を解きました。
LANおよび無線の環境は良いみたい。
しかし、日本との時差13時間遅れ、というのは、調子狂います。

 17世紀にイングランドの Cambridge大学(Emmanuel College)を卒業した
牧師ハーヴァードさんが Harvard College 法人を生前贈与したので、
町の名もそう命名された、とかいったことは承知していましたが、
来てみれば、本家に比べて中世要素がない分、近現代にがんばって、
広々とより大きく育った分家、という感じ。

 ところで米国のケインブリッジは、英国のケインブリッジに似た大学町で
人口10万あまりですが、違いは、
1) 建物がちょっと大きく、道も広い。
2) 大都市ボストンから 5km ほどなので、スーパーとか量販店とかいったものが見あたらない。
3) 大学関係じゃない人口もそれなりにいるようです。はるかに多文化で、スペイン語、ロシア語、そして中国語が乱れ飛ぶ。こじき(物乞い)もいるが、それぞれ Change, change, change, とか歌ったり、そぼくな楽器(せいぜいカスタネット)をならしてパフォーマンスをしている!
 人びとは比較的おだやかで(全米とはちがう特異なエリート都市だから?)、信号も守るし、今のところイヤな思いをすることはありません。(この感想は中国旅行の直後だから?)

 宿から繁華街(といってもこじんまり)Harvard Square および大学中心 Harvard Yard までは徒歩で500mほど。川までは1キロかな。
地図の左上に Sheraton Commander Hotel(1775年に司令官 George Washington が将兵を鼓舞した所とのこと), 右上にコンファレンスのある CGIS, 手前に Charles 川。

 歴史的な Harvard Yard 構内でも威容を誇るのが図書館 Widener Library です。
なんと1912年のタイタニックで亡くなった息子(卒業生)を悼む母親が、寄贈してできあがったとのこと! アメリカ人の富は規模がちがう。写真のとおり、大階段を強調する設計思想です。

申告したら、簡単に利用票(3カ月有効)をつくってくれました。

2013年9月30日月曜日

『上海』

 皆さま、
 まったくもってご無沙汰です。
 この夏はたいへんな暑さもありましたが、諸々が重なって多事多難でした。しかもこの9月後半は中国(上海、天津、北京)、現在はアメリカ(Cambridge=Harvard)と、東奔西走中です。

 中国は、科研による租界調査の旅行でした。中国はすごいインパクト。世界史観が変わりそうなくらい。まだ整理がつきませんが、考えたことの一端を。
 7泊8日の充実した旅行を終わり、26日(木)夜に北京から羽田に着きましたが、モノレール内でメンバーの一人が(遠慮がちに?)寄ってきて、横光利一『上海』の岩波文庫本の解説文を示してくれました。
「上海はリヴァプールにならって作られた。」
 ぼくの反応は「えっ」という二重の驚きでした。第1に、「今回の旅行を着想したアイデアが、いとも簡単にオリジナリティを否定されてしまった‥‥」というもの。
だれでも思い付くことなのか。ただし、この解説者は根拠を示さないままです。
 第2には、「ぼくも文庫本を持っていたのに、この箇所に気付かないままだった。ぼくの目はフシ穴だったのか‥‥。」
 さて、金曜は勤務先の授業3コマを消化。土曜は重要な校務。その夜、ようやくに徒歩7分のオフィスに行って(ハーヴァード関連の物を回収するついでに)ぼくの『上海』文庫本を手にしました。
 意識していなかったが、ぼくの『上海』は講談社文芸文庫なのでした。装丁の雰囲気は似ている。∴上述の解説文を認識していなかったからといって、必ずしもぼくの眼力か知力の衰えの証というわけではなかった!
 講談社文庫では、横光の息子が父の想い出を、解説を菅野昭正がしたため、最後に「作家案内」と「著書目録」が収められている。岩波文庫より充実しているかも。
 菅野の解説(1991年ないしそれ以前に執筆)はさすがで、死ぬ前の芥川が横光に「上海を見て来い」と言ったこと、横光の文に
「芥川龍之介氏は支那へ行くと[ひとは]政治家になると言っている。これには僕も同感である」
というのがあると記しています。横光は39年に上海を再訪して
「ここほど近代という性質の現れている所は、世界には一つもない」
とまで記したということです。
 ここから先は菅野の表現ですが、「西洋と東洋の対立と角逐が、もっとも尖鋭にあらわれる問題の場所」、「現代の歴史の大きな波頭に拠点を定めて‥‥魔術的な力を秘めた都市を相手どる小説」。
 こうしたイマジネーションの最近の例は、高樹のぶ子の日経連載小説『甘苦上海』でしたね。高樹は、横光の本歌取りを意識していたのでしょうか。

 横光も高樹も、非マルクス主義/右寄り/ノンポリということで、ぼくたちの育った進歩的歴史学界では、歯牙にもかけない処遇でした。
 上海・天津の会食の場でも断片的に口にしましたし、12月刊の『イギリス史10講』を読んでいただけば明らかなとおり、今さらながら歴史学の転換(の収穫!)を意識しています。
 ぼくの先生や先輩たちの大前提にあったマルクス主義講座派は、コミンテルン32年テーゼ、『日本資本主義分析』34年刊に現れたとおり、あまりにもダイレクトな欧米日中心史観≒対義和団出兵国史観でした。それが再生産されていました! あるいはせいぜいそれから一国革命論を人道主義的に希釈化したもの(越智、松浦、今井‥‥、検定教科書)でした。この両方を越えてゆかなければ、イギリス史も歴史学も日本国憲法も展望はないと考えています。
 経験主義≒実証主義( → 業績主義)だけでなにかが解決するというのは甘い。