2019年7月24日水曜日

ジョンソン政権 !?


ボリス・ジョンソンおよび選挙の顔として彼を立てる保守党議員たちは、戦後スエズ危機(1956)にいたる保守党チャーチル、イーデンに似て、ほとんど天動説に近い自己満足の世界観・歴史観にもとづいて、EUの軛(くびき)から解放されてイギリスの主権を回復すれば、あとはなんとかなる(We will do it!)と公言しています。'can do' の精神だそうです。

その驕慢は、石原慎太郎に似ていなくもない。慎太郎は東京都知事に終わって今は存在感がないけれど、慎太郎よりはるかに若いボリスの場合は、ハッタリと右翼的(かつ本音の)発言によって、反知性的な有権者の心をつかみ、ロンドン市長 → 外務大臣 → 保守党党首といった階梯を上ってきました。

イギリスの産業もインフラも(日本やドイツに比べて)驚くべく劣悪なのに、イギリスの経済社会がなんとかやってきたのは、金融・情報・学問(高等教育)が様になっているおかげ。しかし、それはEUメンバーであり、ヨーロッパの中心の一つだから成り立っていたわけです。
予測される hard Brexit では、まもなくヨーロッパ人材も消え、ヨーロッパの情報ネットワークも失い、関税障壁ですべてが滞ってしまい、(人文主義、ユダヤ・ユグノー=ディアスポラ以来の)ヨーロッパ枢軸=青いバナナのすべてのメリットを自ら切って捨てるのです。こんな愚かなことはサッチャ首相さえしなかった/できなかった。
cf.『イギリス史10講』p.75; 『近世ヨーロッパ』p.30

アメリカ合衆国との特別のつながりがあるさ、と(チャーチルとともに)うそぶくかもしれない。アメリカの舎弟としてかしづく覚悟なんだろうか。あたかも安倍政権における「日米同盟」と似て、取り戻すとされていた、いわゆる「主権」はどうなるんでしょう? 

こうしたボリス・ジョンソンの政権は、実行力も交渉力もないので、じつは短命だとしても、彼を選んだ保守党、そしてイングランドの自己満足有権者 ⇔ 左翼主義の労働党(ブレア・ブラウン時代とは決別)の対立構図からなるイギリス(連合王国)の政治文化の先行きは暗い。

2019年7月23日火曜日

英国の混迷

ついにイギリス保守党はボリス・ジョンソンを党首に選びました。
BBCによれば、勝利宣言につづいて、
He vows to "deliver Brexit, unite the country and defeat Jeremy Corbyn"
ということで、
Several senior Conservative figures have already refused to serve under him.

こんなにも下品で分断的で顕示欲=権力欲むきだしのポピュリスト政治家が一時的にでもイギリス首相の座につくなんて! すでに現メイ政権の大臣たちの(期日前の)辞任声明がつづいていますが、一種の政治危機に陥るのだろうか。

BBCの伝えるSNP(スコットランド国民党)のブラックフォードの発言によれば:
He [Blackford] says he is "much more confident than I've ever been" to stop a no-deal Brexit. He urges Parliamentarians "across the chamber to recognise the damage" that a no deal can do. "We are at an impasse. Boris is not going to be able to fix this," he warns.

保守党のこうした「戯れ」を許している一つの根拠として、野党労働党首コービンの左翼主義が無力だ、という事実があります。サッチャ政権(1979-1990)があれほど長かった一つの根拠にも、当時の労働党の無為無力がありました。ブレアの New Labour はいずこへ? このようにイラク戦争におけるブッシュ政権とブレア首相の「心中」は、今にいたるまで深い傷を残しています。

2019年7月17日水曜日

折原先生とヴェーバー


レイシストではないかと抗議する記者に向かって、例のトランプ大統領が "Silence!" と繰りかえす場面がNHKテレビでも放映されました。
"Shut up!" ほど下品ではない(!)とはいえ、公人が公共の場で使う言葉ではありません。せいぜい "Please be quiet." かあるいは "No. I'm not following you./I don't agree with you." までが許容範囲かな。

ぼくがしばらく沈黙していたのは、トランプに威嚇されたからではなく、この数週間、公私のさまざまなことが続いて、その対応に追われていただけのことです。

さて、13日(土)には東洋大学にて折原先生を囲む会合があり、三部編成でたっぷり4時間話し合い、その後も懇親会が続きましたが、半ば同窓会に近い感じもありました。残念ながらもうこの世にいない人も。
なお、出席者・発言者の年次というか世代の違いが第一部と第二部という形で顕在化するような気配がちょっとみえたので、第三部のおわりに挙手して、次のようなことを言おうとしました(即興でうまく言えなかったので、ここで補います)。

折原先生はヴェーバー『宗教社会学論集』第I巻(1920)の序言、最初の段落、とりわけその
der Sohn der modernen europäischen Kulturwelt
という表現の意味について、1968-9年以後でなく以前から慎重に解読してくださっていました。ぼくの仮訳ですと、
「近代ヨーロッパの文化世界の子が、普遍史[世界史]的な諸問題をあつかうにあたって、次のように問いかけるのは不可避にしてまた正当であろう:すなわち、いかなる事情の連鎖によってまさしく西洋という地において、ここにおいてのみ - 少なくともわたしたちがそう表象したがるように wie wenigstens wir uns gern vorstellen - 普遍的な意味と有効性をもつ方向に発展する文化現象が出現することになったのか、という問いかけである。」GAzRS, I, S.1.

1段落1センテンス、息の長い緊密なヴェーバーの文体です。これはときにヴェーバーによる近代ヨーロッパ、その普遍性の全面的な正当視、むしろその信仰告白と受けとめられることもありました。しかし、
「近代ヨーロッパの文化世界の子(der Sohn)」というからには、父と息子の単純でない関係(継承・反抗・独立)が暗示されています(ここまでは13日第二部の三苫さんも指摘)。さらに「少なくともわたしたちがそう表象したがるように」といった挿入句には、はるかに自己意識的なニュアンスに富む比較文明史的なマニフェストが込められている、と読みとれます。第一次世界大戦が終わり、(インフルエンザで急死する前の)56歳、脂の乗りきった著者が大冊論集3巻本の劈頭にかかげる序言の、最初の段落です。
この挿入句は、ヴェーバーが近代ヨーロッパ文化世界の普遍性を自明の前提とはしていないばかりか、その(中近世からの)歴史的形成をみようとしている証、と理解することができるのではないか。ヴェーバーをみる際にも、折原先生をみる際にも、第一部と第二部に通じる、連続性にこそ注目したい、と考えて、発言しました。
(早くは『岩波講座 世界歴史』第16巻(1999)の「近世ヨーロッパ」pp.3-4 でわずかながら論じました。)

会合を準備してくださったみなさんにお礼を込めて。