2024年4月20日土曜日

燕の巣

 ソメイヨシノの時期が過ぎて、八重桜が満開。ツツジも始まり、花々が美しさを競う季節だなと思いつつ、運河に添って歩くうちに、すばやく身をひるがえす鳥。これは、逃げる虫を追う燕(swallow)です。
であれば、あの巣に戻ってきたのだろうか? 近くの集合住宅の駐車場の天井脇に営巣された古巣を見に行ってみました。これは(よそのマンションなので委細は知りませんが)管理組合で大切にされて、床が糞尿で汚れるけれど、それは黙って掃除する、上の巣のあたりは汚れてもそのままに放置する、という方針のようです。
 夜に、つがいの燕が狭い巣に身を寄せあっている様子を(失礼!)パチリと撮影しました。こんなに狭くて、このままでは卵を産んでもあふれ落ちたりしないだろうか、それまでに「増築」するのだろうか、と心配になるくらいです。
 ところで、他の巣には燕はまだ戻ってきていないようです。慣用句で
  One swallow does not make a summer.
  Eine Schwalbe macht noch keinen Sommer.
とはよく言ったもので、英独ともに4月はまだまだ夏とは言えません。ところがフランス語・イタリア語の場合は
  Une hirondelle ne fait pas le printemps.
  Una rondine non fa primavera.
と言って、夏ではなく、春まだき、という感覚なんですね。
地中海に近接しているかどうかで、春か、夏か、といった季節感も違うということでしょうか。

2024年4月18日木曜日

マウリツィオ・ポッリーニ、その2

 じつはポッリーニ(ぼくの5歳上)の演奏については、感動していただけではありません。とりわけ近年は、おやっ、と思うことがなきにしもあらずでした。
 バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は、なんといってもS・リヒテルの録音(ザルツブルク、1972年~73年)があって、これがそれ以前の演奏すべてを上書きし(無にした!)、以後の演奏者はリヒテルとどう差別化するかで苦闘してきました。なにしろザルツブルク郊外のSchloss Klessheimでは、録音演奏中のリヒテルのピアノに感動した雀たちがリヒテルに唱和していっしょに歌ってしまった(!)、そのような歴史的な演奏です。
【ぼくにこの演奏の魅力=迫力を教えてくれたのは、名古屋の土岐正策さんでした。1990年代以降の再版CDでは鳥の唱和を雑音として消去してしまったので、聞こえません! ぼくはもとのLPレコードから、白黒デザインのEurodisk、瀟洒な日本ヴィクター、美しくない肖像写真のalto、RCA Victor Gold Seal とCDだけでも4つの版を持っていますが(同一の演奏なのに!)、それもこれも雀の唱和を求めてのことでした。ディジタル処理が容易になってしまった時代に、きれいに処理される以前のヴァージョンを求めての、むなしい探索でした。ちなみにグレン・グールドの我が道を行く演奏も、リヒテルという偉大な「敵」あればこその試行だったのでしょう。こんなことをいうと、天国の木村和男くんが嗤うかもしれない。】
 ですから、2009年にポッリーニの演奏で「平均律クラヴィーア曲集」の第1巻だけ、ドイツグラモフォンからCD2枚組が出たときには、ただちに買って期待して聴きました。しかし、なぜか先を急ぐような演奏で(リヒテルの正反対)、あまりくりかえし聴きたいという録音ではなかった。
 そして2019年6月、ミュンヘンにおけるベートーヴェン最後の3つのソナタ(2020年ドイツグラモフォン発売)です。先の日曜夜にNHK-E tvでポッリーニの死を悼んで再放送したのは2019年9月のミュンヘンにおける公演ですから、同年6月の演奏録音と基本的に同じ解釈・表現と受けとめてよいでしょう。 
これはしかし、77歳、ポッリーニ円熟の演奏というよりは、なにかに憤っているのか、時代を諫めるというか、厳しい表現行為です。テレビ画面で見ていても、表情はずっと硬くて、最後にも笑顔はない。あたかもリヒテルの(ロシア的?)ロマン主義に対抗し、グレン・グールドの(アングロサクスン的?)ego-historyを諫め、これこそベートーヴェンの理性と構成主義なのだ、と息せき切って説いているかのようです。彼の遺言でもあったのでしょうか。

2024年4月17日水曜日

マウリツィオ・ポッリーニ(1942-2024)、その1

 3月、イギリスから帰国した直前直後、衝撃の報はポッリーニ死去というニュースでした。
NHKの日曜夜の番組では、先週には初来日時のブラームス・ピアノ協奏曲1番(N響)、今週は30代の録画の断片いくつかに吉田秀和のコメントを加えて、最後に、なんと2019年ミュンヘンの演奏会における最後のピアノソナタを放送しました!
先に「ボクの音楽武者修行(1・2)にも書いたとおり、わが音楽人生は何も自慢できることのない、恥じらいで一杯のものです。演奏会にもさほど熱心に通っているわけではない。
 それがしかし、1994年の10月には幸運が重なり、テムズ南岸の Queen Elizabeth Hall におけるポッリーニ演奏会に行きました。曲目は、ベートーヴェンの最後のソナタ3つ。
10代には「悲愴」とか「熱情」とか「ワルトシュタイン」といった渾名のついた曲に惹きつけられていたけれど、年齢とともにそうした「若い」曲よりは、もっと成熟して、かつ知的に構成された曲を好んで聴くようになっていました。最後のピアノソナタ3曲は、晩年の弦楽四重奏曲の場合と似てなくもなく、ベートーヴェンの知的構成力と幻想的な心情(ロマン派の前衛!)が十分に表現されて、聴く人の心を揺さぶり、慰める。
(人生を70年+やっていると、こうした経験に恵まれているわが人生は、幸運に満たされている、と静かに想いいたります。)
 この夜の演奏会より前にぼくはポッリーニの「後期ピアノソナタ集」(1975年~77年に録音)のCDを持っていて、ロンドンにも携行していたのでした。
録音から17年を経て、52歳のポッリーニがどういった演奏をするのか。その夜の演奏会は、満場の期待を静かに十分な感動に変えたと思います。すでに30番(op.109)、31番(op.110)の後の休憩時間に洩れ聞こえてきた他の聴衆の反応もそうだったし、最後の32番(op.111)は、着席するやただちに力強いMaestosoが始まり、それまで穏やかに感傷的になっていた気持を揺さぶって、ハ短調(運命!)の最後のソナタ(といっても形式的にかなり自由な大曲)の宇宙にわたしたち聴衆を浸したのでした。
満場の拍手に促されるように、憑かれたように、ぼくは舞台脇から楽屋へと向かい、マウリツィオ・ポッリーニにつたない英語で感動を伝え、握手しました。
公演のあと楽屋まで押しかける、あるいはせいぜい廊下でご本人に挨拶する、といったことはあまりできないぼくですが、このときは何故か自然に突き動かされるようにそうしたのでした。
 じつはその半年後、1995年の初夏、今度はアルフレート・ブレンデルがやはりテムズ南岸の Queen Elizabeth Hall で、同一のプログラムで演奏しました。やはり知的なピアニストで 1970年~75年の録音CDを持っているぼくとしては、大きな期待をもって出かけたのですが、なぜでしょう。長い日照に邪魔されて(?)、会場もぼくも集中できず、やや散漫な印象に終わってしまった夜でした。むしろメンデルスゾーン的な「夏至の夜の夢」でした。
 先の吉田秀和さんの評によると、ポッリーニは知的な構成力が勝ちすぎて、たとえばシューベルトの幻想的なソナタを弾くときには(吉田さんの求める)即興性・幻想性に不満が残る、ということらしい。そこには知性と感性の二律背反が前提されているかに見えますが、どうでしょう。少なくともベートーヴェンにあっては、両者は背反しない、理知と感情が矛盾なく合わさって表現されるのではないか。ポッリーニこそ、その点で最適の演奏者=表現者なのではないか、と思います。

2024年4月10日水曜日

現代のシャリヴァリ

3月の土曜にウェスミンスタの国会議事堂・貴族院脇を歩いていたら、にぎやかな音声が響く‥‥と思ううちに、Millbank通りの南から数百人のデモ行進がやってきました。
先頭の横断幕には
LGBT+ against Racism
続いて
No to Islamphobia
Refugees Welcome Here
Smash the Far Right
Freedom for Palestine   などとあり、
Socialist Workers Party や UNISON などの組織名も見える。
土曜の午後に議会の周辺で「極右」に反対するデモンストレーションということでしょう。
メガフォンにあわせてシュプレヒコールもあるけれど、圧倒的なのはなにかの金属用品とドラム(鉦太鼓)をたたいての大音響。これになんらかの笑劇パフォーマンスが加われば、シャリヴァリそのものだなと思いました。
各グループのゆるい連携による行動かと思われます。警官隊も同行していますが、交通整理とトラブル防止のためでしょう、威圧的な風はなし。

2024年4月6日土曜日

マーチモント街

3月、ロンドンの宿の近くには Marchmont Street というのがあって、学生、インテリ、外国人向きの空気があります。初めてここに馴染んだのは1981年でした。ロンドン大学歴史学研究所(IHR)で4泊5日の院生セミナー「ロンドン史料指南」があり、この通りの北、Cartwright Gardensにある学生寮 Hughes Parry Hallに泊まり、南西の Russell Square を経由してIHR、つまりセネットハウスまで通ったのが始まり。
その後も、交通の便がよく、安宿、古本屋、ある時期はコピー屋、貸しPCといった便宜のためによく来たものです。バングラデシュをやってた人文地理の人に連れられてベンガル料理の店に来たこともあるし、そもそもロンドン大学の先生方御用達の North Sea もこの北にあります。フィッシュ&チップスといっても、労働者用の持ち帰り[take away]と中産階級用のテーブルで食べる尾頭付きとは、入口も違うのだとは、ここで初めて教えられました!
Cartwright Gardens にはその名の由来の John Cartwright(1740-1824)の立像と、さらにこの地域の来歴を示すボードができています。

今回、ぼくがこのマーチモント街を急ぎ足で通過して、北のBL(国立図書館)に向かうところをNさんが目撃したとのことです。また別の日曜には周辺を早足で散歩した折に、「日本人だろうか、いや見覚えがあるような‥‥」と悩みつつ通り過ぎてから振りかえると、先方も振りかえって、「なんだM先生ではないか!」といったこともありました。
地下鉄ラッセル・スクウェア駅と旧国鉄 St Pancras/Kings Cross駅にはさまれた地区なので、日本人の利用者も少なくないのでしょう。近代史をやっている者には限りなくおもしろい地区です。
その一つの例として(先のカートライト兄弟のこともありますが)マーチモント街から一つ筋違いの Judd Streetの61-63番には、1848年後に亡命してきたゲルツェン/ヘルツェンの居所として青い銘板=ブループラークがあります。【このプラークという語は日本語では「歯垢」という意味しかない!というので、『図書』では使用を牽制 → 抑制されてしまいました!】
今は Marchmont Stにあって営業しているJudd Booksという古書店も、20世紀には元来のJudd Stにあって広く、行くたびに収穫があったものです。今、その跡は全然別のカフェ - Half Cup Cafe, Kings Cross - になっていました。
【ちなみに、以前はマーチモント街/あるいはUCLまでUSBを持っていって紙にプリントしたものですが、今やそうしたPCやプリントの店は見あたらない。じゃあどうするんだ、と心配していたら、今では宿の受付にメールでPDFを添付して頼めば(10数枚までなら、カラーでも)無料でやってくれるのでした。時代も変わりました。】