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2024年7月6日土曜日

美浜区 打瀬(うたせ)

 今日も - 太平洋側では - 暑かったですね。お変わりありませんか?
 そうしたなか、前々から予定されていた用件で京葉線「海浜幕張」まで参りました。昔「放送大学」の番組制作で何度か訪れた駅ですが、そちらとは反対の、南口(海の側)に出て、幕張メッセや千葉ロッテのスタジアムの方角、しかし直近の超高層ビルへ。その25階でのお話と手続はトントン拍子で運び、11時半にはすべて終了して、解散とあいなりました。
 支障なくことが運んだのは良いのですが、ちょっと拍子抜けで、商業地区、そして広い帯状の海浜公園を抜けて、美浜区打瀬の、これぞ「幕張ベイタウン」という街区を歩いてみることにしました。
 ぼくが京成電車で中学、高校に通っていたころは、このあたりは遠浅の海岸で、アサリ取りと海水浴(と海苔養殖)しかなかった! 60年代、70年代に埋め立てが進んで、成田空港ができてからは(途中にあたるこの辺には)高速道路と京葉線が計画され、80年代には幕張はその要、「副都心」とする構想が唱えられるようになりました。京葉線の沿線の北半分(市川、船橋)はおもに工業・倉庫・物流の拠点となり、南半分(千葉市内)は住宅地が広がり、「海浜幕張」は両者の要というか狭間というか、商業・情報・教育の拠点となってゆくプロセスはぼくの知らぬまに過ぎ、いつのまにか、バブル期が終わってみたら、そうなっていたんだ、という認識です。
 1996年正月に日本に帰ってきてから - そのころは両親と一緒に住むことも展望して - しばらく広い範囲で(多摩や国立まで含めて)住宅/住宅地を捜したのですが、新聞広告にくりかえし出ていた幕張ベイタウンの集合住宅は魅力的で、その写真や図面は今でも記憶に残っています。
 多摩ニュータウンは傾斜地が前提の街造りでしたが、幕張は平坦な埋立地で、商業地や放送大学、アジア経済研究所と近接しながらの地割りも計画的に行なわれて、街の真ん中および海側の緑地も十分に設けられています。 
 最高気温35度にもなる真昼だったので、ベイタウンの目抜き通り(美浜プロムナード)も歩行者が少ない。しかし街路樹もたっぷり、目抜きの1階は(雪国の雁木通りみたいに)回廊のようになっているので、雨ばかりか日射しも避けられる構造です。小さな商いやブティクも並んで、悪くない街並みだなと思いました。駅の近くの超高層は別にして、たいていの集合住宅は6階ないしは5階までとして統一感があり、間隔を十分にとった(上から見ると)ロの字型、コの字型の住宅。なんだか西ドイツかオランダの都市住宅みたい、と連想しました(高度成長期の日本の団地住宅とは大違いです)。
 そういえば、わが高校の同窓生たちの現住所で、美浜区打瀬とか磯辺といったのが少なくない‥‥。京葉線快速を利用して、東京駅近辺まで通勤するには便利ですね。ここはまた定期借地権での分譲という手法も活用された、革新的な住宅地でした。

2024年2月12日月曜日

『ボクの音楽武者修行』その2

そういうわけで、中3(1962)の8月には3・4日かけて音楽室でベートーヴェンの全交響曲をスコアを見つつ聴く、といったこともやりました。学校にあったのはブルーノ・ワルター(コロンビア交響楽団)のステレオ録音全集。音楽室の音響環境を十分に生かすにはモノラル録音は不足、ということで、これを聴いたのですが、この点、今になってみれば、異議ありと言いたいところ。ぼくたちはフルトヴェングラー、トスカニーニ、クレンペラーなどのモノラル録音を聴き、しだいにフルトヴェングラーに圧倒されるようになっていたのです。
翌1963年4月に千葉高校に入ると、念願の音楽部に所属し、ここでさまざまの楽器に触り、ひとと合奏することの喜びを知りました。中3の悪ガキたちはほとんど全員、一緒でした。11月23日、県内の高校演奏会の朝に、ケネディ大統領暗殺の報が入り、落ち着かない空気の会場で演奏したことについては『いまは昔』(2012)にも記しました。高1の1年間は、フルトヴェングラーのベートーヴェン、そしてヴァーグナーと向きあった1年でした。ドイツ語を勉強したいと思いました。
そのころ『指揮法入門』という本を KK*と一緒に購入し、勉強を始めました。(ぼくとは違う)中学のブラスでクラリネットをやっていた彼は、本気で芸大に進むつもりでしたから、高1の途中からピアノの先生に付いて楽理も勉強し始めた。ぼくはといえば、アマチュアのまま、『ジャン・クリストフ』を読むのと同じ構えで総譜を開いていたに過ぎないので、すぐに付いて行けなくなった。音楽ではない領域で武者修行するしかないと認識します。高2になると同時に音楽部は退部して、別の勉強を(ドイツ語の基礎も)始めました。
【* このKKは、前記の高梨先生を訪ねていったK とはちがう男で、現役で芸大の指揮科に入学しました。その前後から個人的つきあいはなくなってしまったけれど - 1982年秋にぼくが留学から帰ってきてみると、NHKFMでマーラー、ブルクナーの放送があると、必ずのように登場してコメントする人になっていました。 ちなみに、Kというイニシャルは日本人にはたいへん多くて - 加藤も木村も工藤も近藤も - 一対一識別は困難です。この芸大に行った楽理の同級生は KKとします。むかし『ハード・アカデミズム』(1998)という本で高山さんは、K先生、K教授、K助教授といった区別をしていましたが、ほとんどナンセンスな識別法でした。正解は順に木村尚三郎、城戸毅、樺山紘一で、刊行時には3人とも先生で教授でした!】

小澤征爾という方とはお話したこともないし、その人柄は報道でしか知りません。『朝日新聞』がウェブで再掲載している、1994年9月、サイトウ記念オーケストラのヨーロッパ公演後の上機嫌のインタヴュー(59歳、4回連載)
https://digital.asahi.com/articles/ASS296F34S29DIFI00X.html
では、彼のフランクな発言が引き出されています。昨11日朝の『朝日新聞』オンライン版では、村上春樹が天才肌の小澤の晩年のエピソードをいくつか紹介しています。
https://digital.asahi.com/articles/ASS2B5223S29ULZU00L.html
小澤征爾ほどの才能もエネルギーも持ちあわせなかったぼくとして、羨ましいかぎりですが、それにしても、生涯をかけてヨーロッパ近代文明の本質に(別の面から)接することになった者として、参考になることばかりです。
ずいぶん前のNHKの番組は、ボストンの小澤が(二人の子どもの成長を気にかけながら)早朝からスコア研究にたっぷり日時をかけている様子を描いていて、とても好ましい印象でした。印刷総譜だけでなく、ベートーヴェン自筆譜(の大きなファクシミリ)になにか書込みながら探究している様子は、調べ究める人(ギリシア語の histor)の好ましい姿に見えて、以前よりも好きになりました。

2024年2月11日日曜日

『ボクの音楽武者修行』その1

小澤征爾さんが亡くなった(1935-2024)。
特別の感懐‥‥というと、中学3年で『ボクの音楽武者修行』に出会い、オーケストラの指揮者という職業! なんてカッコいいんだ! と思ったことでしょうか。
今、手元に音楽之友社、1962年4月初版の本がなく、中3のぼくが自分で購入して読んだのか、それとも一緒に音楽室に出入りしていたNくんあたりから借りたのか、不明です。
中学校の坂の下にあった本屋にたむろして立ち読みしたあげく、時々本を買うこともしていたので、自分で所持したのかもしれない。ぼくの本やノートの類は、結婚後、引っ越しを繰りかえしたぼくの代わりに、母がそのまま大切に保存してくれていたので、千葉の実家をよく探せば見つかるのかもしれないのですが。
Nくんにしても彼自身で購入したのではなく、むしろ賢兄の本をぼくに貸してくれたのかもしれない。中学・高校でぼくの付き合った友人たちは、ほとんど例外なく(!)兄貴をもつ次男・三男で、ぼくは学友たち経由で、何歳か上の聡明な兄貴たちのさまざまの知恵を伝授された、と言ってもいいくらいです。
『ボクの音楽武者修行』の直前に、ちょうど小田実の『何でも見てやろう』(河出書房、1961)が出ていました(河出ぺーパーバックは1962年7月)。アメリカやヨーロッパで活動的に生きた20代の才能ある青年たちの体験談は、ぼくたちの世界観をひろげて、やはり次男のWなぞは、いずれ貨物船で皿洗いでもしながら南米に渡る‥‥(その先は、牧場でカウボーイ? ゲバラの仲間に入れてもらう?)とか夢のようなことを口にしていました。結局は、東大法学部を出て有能な弁護士になったのですが。Nのほうは病理でノーベル賞を取り損ない、どこかの病院の理事長です。
中3になったぼくたちは『ボクの音楽武者修行』を手にしたときに重大な事実を認識しました。(どちらが先か後か詳らかでないのだが、本の初版が1962年4月1日でないかぎり、事実認識が先にあって、読書が後でしょう。)その学年から新しい音楽の先生が来たのです。新卒のキレイな高梨先生
それまで音楽の担任はパチという渾名の不愉快極まる中年男でした。パチはなんらかの野心をもち(昇任試験の準備?)、授業などやってられない、ということかどうか(真相は生徒たちには不明)、とにかく彼の授業は週1コマだけ、別のコマは、大学でピアノを専攻していた高梨先生に丸投げしたのです。高梨先生はいつでも音楽室にいて(3学年計9クラスの授業の準備はたいへんだったでしょう)悪ガキの相手をしてくれたので、もぅ中3の放課後はいつも音楽室に男子生徒5・6人がたむろしていました。(芸大附属高校に進学する女子も同級にいたけれど、彼女は音楽室には出入りしなかった。彼女はすでに学外の先生から専門的歌唱指導を受けていたに違いない。)
音楽室(独立した別棟)では当時としては良質のステレオ装置でレコードをかけてもらい、大音響でベートーヴェンのまずは「運命」「第7」、チャイコフスキーの「悲愴」、ブラームスの「第1」あたりから始まり、ジャケットの裏のライナーノーツや音楽之友社の『名曲解説全集』を頼りに、音楽を聴くよろこび/感動/もっと知りたいという願望を覚えたのです。指揮棒を振るまねごともしました。一人ではなく数名の少年の共通体験として。
(いまNiiで『名曲解説全集』を検索すると第1・2巻『交響曲』が1959年、最後の器楽曲補=第18巻が1964年。全国の大学所蔵館が今でも230前後で、すごい普及率です!ぼくたちはその続巻が出るたびにむさぼるように読んでいたわけで、なんだか哀愁に近いものを感じます。)
やがて高梨先生の助言で「スコア」(総譜)なるものを見ながら聴くようになり、あるいは楽曲の分析、演奏の論評モドキを試みる‥‥といった深みにはまることになりました。音楽室で終わらない話は、街中の - ちょうど国鉄千葉駅と京成千葉駅への帰路の交差点にあった - 松田楽器店で「新譜を試聴する」、楽譜も探すといったことへと連続して、これは高校1年でもほとんど同じメンバーで繰りかえされるのでした。生意気な/キザな少年たち。でも楽器店としては、この少年たちはときどき1500円から2300円のLPレコードを買ってくれるので、集団としては上客だったのです。高校・大学の授業料が月々1000円の時代でした。
このうち3人(MとKとぼく)が中3の終わりの春休みに高梨先生のお宅に呼ばれ、紅茶をいただき、彼女のピアノを聴き、バックハウスの演奏との違いについて問いかけられるということもありました。まともな答えはできなかった。なにしろ15歳、ピアノ教則本もなにもやってないナイーヴな少年でした。音楽を観念的に知っていただけ。
‥‥これには後日談があって、高校に入ってからもぼくは通学路が一部同じなので、朝しばしば高梨先生と一緒になって、なにかにと熱心に話をしました。2年後に大学の音楽仲間と結婚した先生は、彼の実家の信州に行ってしまったのですが、なんとMはその信州の婚家まで訪ねていったと、大学生になってからぼくに告げたのです。それだけではない。これは還暦を過ぎてから(すでに死去したMはこういう男だったと話題にするうちに)なんとKも信州まで訪ねていったのだと、告白した。ぼく一人が置いてけぼりを喰っていたのでした!

2023年7月25日火曜日

『思想』・『歴史学研究』・『図書』

梅雨明け10日」はメッチャ暑い、とは気象予報士の言。そのとおり連日の猛暑ですが、皆さま、どうぞ慎重に、お健やかに。(蝉しぐれのなかで書いています。)

先にも書きましたとおり『思想』7月号「カーと『歴史とは何か』」をめぐる充実した特集号でしたが、8月号はなんと <特集 見田宗介/真木悠介> なのですね!
見田さんは駒場のまぶしいほどの先生でしたし、その後も社会学の学生たちを実存レヴェルで揺さぶっていた先生です。60年代には父親=見田石介がだれしも知るマルクス主義の学者で、父といかに距離を保つか、どこに自分のアイデンティティがあるか、を考え続けていたのでしょう。8月号、未見ですが、楽しみにしています。 http://kondohistorian.blogspot.com/2022/04/19372022.html でも私見をしたためました。

そうこうするうちに昨朝『歴史学研究』のための初校を終えました。9月号(No. 1039)で、
〈批判と反省〉『歴史とは何か 新版』(岩波書店, 2022)を訳出して
というタイトルです。じつは昨年8月に書き始めてすでに9月には8割方できあがっていました。どう締めるかで迷っているうちに、『図書』の連載で月々の〆切に(心理的に)追われるようになって、しばらく冬眠・春眠していた原稿です。 4月から中学の同期会とか、高校の同期生のやっている「千葉県生涯大学校」の講演とかに出かけて、旧友たちと懇談して気持も整いました。無理なく「締める」ことができたと思います。
というわけで、本当の順番は、この『歴史学研究』9月号が先で、『思想』7月号は後なのです。「思想の言葉」をご覧になって、ちょっと飛躍があると受けとめた方々には、申し訳ありません。9月に『歴史学研究』をご覧になっていただくと、無理なく接続するかと愚考します。いずれにしても、『歴史学研究』編集長とスタッフにはたいへんご心配をかけました。

なお『図書』の連載はまだまだ続きます。
第11回(7月号)ウェジウッド「女史」。 これは自分では良く書けたのかどうか分からないところが残ります。
第12回(8月号)はマクミラン社の兄弟。 こちらは自画自賛ながら、調べて書いた成果が実感できます。カーの出版についても、マクミラン社およびマクミラン首相についても、「そうだったのか!」と納得していただけるのではないでしょうか。連載のうちでも会心の回の一つです。この2回連続して、セクシュアリティが通奏低音になります。
熱心に読んでくださる読者、とくに現役の方々からいただく反応はなによりのご褒美です。ありがとうございます。

2023年6月3日土曜日

〈リフォーム〉ほどではないけれど

今日の午後は、長い大雨の後、久方の快晴。気持いいですね。
いくら間遠とはいえ、このところブログ登載が月一どころか、5月は無、となってしまいました。ただただ日夜のこと & 原稿〆切に追われて(!)というわけではなく、それなりの進展はあります。
じつは現在の集合住宅に入居して、この春でちょうど20年。同居人の構成も変化したうえ、いろいろなモノが貯まり堆積して、自宅がまるで考古学遺跡のようになってしまいそう、と心配してくれた娘の提言で(準備のメールとZoom会議をへて)、4月から夏まで数次に分けて、部屋の使いかたを多少とも転換中です。
 ×まずは大きく重すぎて邪魔、処分さえ困難だった「大電動椅子」と古いソファ
 ×多数のプラ=ケースに収納されていた古着、過去の遺物
これらを整理/破棄処分しました。そして、これからの生活のために前を向いて、
 ・誰の物、家族のコモンズ・常用といったゾーンを明確化し、
 ・開かずのスペースになってしまっていた北側ベランダへの出入りができるように、
 ・各部屋の用途を再考し、老後の介護のためにも寝室と「納戸」とを交換しました。
こうしたことを実現するためには、じつは本人たちだけの手には余り、複数の屈強の男性が必要でした。娘がそうした「ゴミ屋さん」(!)という名の業者を捜しあて、日時を決めて動いてくれたので、なんとかなったのでした。久方ぶりに床のフローリングがしっかり見えるのは、感動的です!
(とはいえ、ぼくの書斎、図書・ファイルにかかわることについては、さすがの娘も関与を諦め/謝絶し、お父さんが自分で考えてやって、と引導を渡されました!)
5月の連休の後、3人で収納ラック一式を組み立てて、新しく 納戸スペース を構築して、すっきりしました。
なおさらに「大仕事」なのは、台所スペース です。(先週に訪問した千葉高校時代の友人の邸宅では、全体がすばらしいのですが、とりわけ外光もたっぷり入る広いキッチンには感激しました!)いまや言葉で納得してもなかなか動き出せない我々老夫婦にとって、子世代に背中を押してもらって、業者との相談会に向かい、ようやく実現に向かいます。

2021年8月4日水曜日

還暦を過ぎた桜並木

暑い盛りですね。みなさま、どうぞ無理せず、平常心でお過ごしください。

いまは無人の実家に行き、樹木も雑草も蔓延放題なのですが、隣家や公道に覆いかぶさるような枝葉だけは刈り込んで、多少の手当てをして参りました。
南北の窓をすべて開け放つと、それなりに涼風が通って、爽やかな気持ちになります。蛇口から直接、冷たい水道水を飲むと、小中高校生のころの感覚がよみがえります。
自宅にも学校にも冷房などなかった当時、夏休みは学校に行って級友と遊ぶか、自宅でなにかやっていた。島崎藤村 → 夏目漱石 → ヘルマン・ヘッセ、そして『ジャン・クリストフ』を読むか、ブラームスを聴くか。高校1年の一時期は、ベートーヴェンやブラームスの総譜を見ながら、(作曲ではなく)編曲の真似事などをやっていたこともある‥‥。大学2年の夏は ヴェーバー『宗教社会学論集』との格闘(みすず書房の『論選』翻訳が出るのは何年か後でした)。
暑さをあまりつらいとは思わなかったのは、若かったから? それとも実際いまほど暑くはなかった?
それにしても、この南の庭から北の隣家へと抜ける緑陰の涼風の感覚は、なぜか(60年くらいの時を隔てて!)なつかしく想い起こされました。

近くの公園です。もちろん遊具も道路との境界柵なども、全部入れ替わっていますが、60年を越えた桜の並木は、ぼくの9歳から23歳くらいまでの成長を見知っています。
1956年、県が開発したこの住宅団地に我が家はすぐに入居したのですが、なにもなかった公園には1・2年して遊具が置かれ、桜並木が植樹されたのだと記憶します。ですからこの桜木たちは64歳くらい‥‥。

2020年7月20日月曜日

Pasmoの履歴 → Zoomで代行?


 先日まったく久しぶりに雑草の繁茂する実家(空き家)にゆき、さらに老母のくらす老人ホームに往復しました。庭ではぼくの背丈より高くなったブタクサなど雑草を掻き分けながら、それにしても雨の多い今年の梅雨。晴れの続くころに庭木や雑草と奮闘することにして、先延ばし。
 前よりさらに痩せたように見える母ですが、ホームの方々が良くしてくださり、食欲もあります。広島県の弟二人も90歳を越えて、ついに姉・弟三人が90代とあいなり、めでたいといえばめでたい。とはいえ、三人とも遠出は不可能で、互いに相まみえることはできません。ぼくのケータイ電話で姉弟が会話した折には広島弁まる出しで、「江奥小学校の卒業生でわたしが一番[年上]じゃ」とか、ぼくの知らない「[母の母の実家の]○さんのせがれは元気かのぅ」とかいった話題を何度もくりかえすのです。
 で、帰途に Pasmo に入金したついでに「利用明細・残額履歴」(100件)をプリントしてみて驚きました。3月14日以来ぼくは電車・バスをほとんど使わなかったのです。
  4月には計12回(都営・メトロ・バスと乗り継いだら、それで3回、往復で6回という記録方式です)
  5月には計4回
  6月には計2回(妻の通院に同行した日の往復だけ!)
  7月には歯医者と、この実家・老人ホーム往復だけ(後者は乗換が多いので、回数が増えます)。
なにも忠良なる都民として「ステイホーム」、「自粛」を厳守したわけではありません。自転車や徒歩で移動できる範囲では毎日(外気のもとではマスクなしで)、雨でも出歩いていました。スーパー特売日の買い出しも(時間帯を考慮しつつ)積極的に。それにしても、これほど公共交通機関を利用しなかった月日なんて、東京生活では珍しい。そういえば、外食もしていません。
 代わりに、5月11日の初体験から以後、Zoomを利用して、毎週水曜は2コマの大学院授業、不定期に学会の企画委員会や研究会、また N先生の最終講義、早稲田WINE のウェビナーといった催しが続きます。従来からの電子メールの交信も含めると、知的 sociabilité という点では、それなりの刺激は維持しています。とはいえ、face-to-face のあまり合目的でもない挨拶・ヤリトリ、すなわち雑談がないままでは味気なく、さびしいですね。

2019年3月1日金曜日

折原浩先生と大庭健さん


 折原浩先生は、亥年でぼくの一回り上ですが、これまで特定の若い人の名を挙げてどんなに交友を楽しんだかを公言することは控えておられたと思われます。
 今回、個人ホームぺージで、
「1967-68年当時、東大教養学部の一般教育ゼミ「マックス・ヴェーバー宗教社会学講読」に参加していた駒場生で、拙著155ページで触れた五人」
のうち、亡くなった八林秀一舩橋晴俊、そしてとりわけ大庭健を悼む文章が公開されました。
→ http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/tenkai2.htm
「5人のゼミ生のうち、残るは2人となってしまいました」と言われるその2人とは、八木紀一郎とぼくのことですが、彼とぼくが暮から新年にかけて期せずして折原先生に長い私信を送って、それをきっかけに、この長い、細部まで分析的な文章(A4に印刷して6枚!)をしたためてくださったのです。5人についてそれぞれ温かい思いが刻印されていますが、なかでも「大庭節」への懐かしさと哀悼は感動的です。
 11歳年長の折原先生に愛され信頼された大庭さん。当然ながら、1年下のぼくに対する影響も決定的で、- こんなことを言うと生意気そのものですが - 駒場の折原ゼミで鍛えられ、大庭(→ 倫理学)、八木(→ 社会学)と同じ空気を呼吸したぼくは、本郷の西洋史に進学して「不安」は全然感じなかった。本郷の先生方や先輩たちを侮っていたのではありません。むしろその学知を100%学習し吸収する用意(基盤)が既にできていると自覚できたのです。
 昨年にもしたためましたとおり、大庭さんを慕う後輩は多く、(そのケツをまくった口吻にもかかわらず)たしかな学識と誠実さはただちに感得されました。編集者たちにも、そのことはすぐに分かったでしょう。
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2018/10/19462018.html
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2018/11/blog-post_24.html

 なおぼくの場合、折原先生と同じ猪鼻台の千葉大教育学部付属中学に通った(校長は同じ飯田朝先生=憲法学)というのは、かなり恵まれた「初期条件」でした。ぼくの親は地域ブルジョワでも教育界でも転勤族でもなく、また受験界にも無知で、ただ小学校6年の後半(初冬?)に担任に勧められて、子どもの受験手続きをしてみたに過ぎませんが。

2018年5月23日水曜日

広島にて


 19-20日に日本西洋史学会大会がありましたが、ぼくの宿は、このように元安川のほとり、広島平和記念資料館をすぐ左下に見て、原爆ドームを右正面に遠望する所にありました。
 こういう立地に立つと、かつての秋葉忠利・広島市長を想い起こします。
 秋葉さんは、例の秋葉京子さんの兄上。ぼくの中学の大先輩で、高校は教育大附属、AFSをへて東大理学部へ、そしてMITに留学して、アメリカで活躍する数学者でした。それが、あるときから日本社会党の議員になり、そして広島市長選挙に立候補して当選、3期を勤められました。
 数学者が政治家になった経緯については存じません。それにしても社会党内で村山富市に対抗し、東京と千葉とアメリカしか知らなかった彼が広島に根付いて、3度の市長選挙に勝利し、平和都市宣言を貫き、オバマ大統領を招致し、今あるような活気ある地方中核都市の建設に奮闘した、というのは生半可なことではないでしょう。

 高校の優等生としてAFS留学を経験したこと、コスモポリタンな学問=数学を専門としたこと(彼のあと数学者になる人/なろうとするヤツが、秋葉さんのあと、ぼくたちの学年まで何人も続きました!)、などもポジティヴな要因だったでしょうか。
 「そらには若葉かがやきて
  胸には燃ゆる自由の火‥‥」
といった中学の校歌を、ぼくたちは歌っていました。

 ‥‥そんなことを考えていた広島の宿に、なんと中学の高梨先生から電話をいただきました。伊那谷で秋葉京子のリサイタルをやろうという企画の話です。
 念のために秋葉忠利さんのブログを探してみたら、今日は日大アメフット部の問題を論じておられました。
http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/

2018年5月13日日曜日

承前:古稀の認識


 昨日、中学の同期会で心に刻み込まれた第2の点は、70歳の元生徒たちの生活に根づく認識です。
 親の介護といった件はあまりに多くの人の共通経験で、とくにどうということもないほど。
 それが配偶者のこととなったとたんに、とくに男子ですが、生活と世界観の大きな転変に至ることもある。‥‥ それでも前を向いてポジティヴに生きるヤツが何人もいたのだと遅まきながら知って、これは想定外のたいへんな収穫でした。
 ひとは一人で生きているわけではない/一人だけで生きようとしてはならない、だれの支援でもありがたい(すなおに受けとめよう)、といった真理に心いたるのも、老境に入ってこそです。
 千葉駅で別れ際にいただいた、ちょっとした一言で目頭が熱くなったりしました。

2018年5月12日土曜日

美しき五月に

承前
 申し遅れましたが、ぼくの音楽的環境を語るにあたって、もう一人の重要な人物、秋葉京子さんについては、前にも書きました。
 今日も最後にぼくが小さな声で Im wunderschönen Monat Mai, とつぶやいたら、直ちにしっかりと、やさしい声で als alle Knospen sprangen,
da ist in meinem Herzen die Liebe aufgegangen. と続けてくださいました。
なんて美しい響きだろう。
 同級でしたが、すでに中学を卒業するときには声楽家になると決めておられましたから、別の道を歩み、1970年代からはドイツでご活躍でした。カルメン、マーラー、バッハ‥‥ 最後は国立音楽大学。今日集まったなかでも国際派の代表格です。

古稀の同期会


 今日はなんと古来稀なのではなく(幹事の真ちゃんによると)首を回すとコキコキッていうから、千葉の中学の同期会。元生徒29人と先生方3人が集まりました。同期の母集団は男女127人でしたが、逝去者がすでに10人を越えたということで、出席率は1/4を越えています。
最近は2年に一度開いているようですが、ぼくは2014年以来。懐かしい顔や、どうやっても想い出せない顔や、いろいろありましたが、個人的にはとりわけ2つの点で感銘を受けました。久しぶりの晴天、土曜の昼に行ってよかった。
 
 第1は、先生方のこと。熱血のクラス経営をしてくださった斉藤先生(教員として最初に受けもった学年から最後の学年まで、すべての生徒の顔と名を覚えていらっしゃる!)、中学で習うことは一生役に立つといいながらカンナの扱い、釘の打ち方を指導してくださった黒川先生、そしてなにより、わが青春の高梨先生がいらした! 高梨先生はぼくたちが中3の時に新卒で赴任されたわけだから、ぼくたちより8歳上?とても信じられない、きれいな女性です。ぼくより(同席のほとんどより)ずっと若く見える!
 この高梨先生は、ぼく一人のマドンナだったのではなくて、中学の音楽室を楽しい場にしてくださった。それまでの主任のパチ先生が教頭になって忙しすぎるとかで、急遽新米の先生にすべてが任されたわけですが、毎日、授業が終わると、松本、金子、西川、若井‥‥といった悪ガキたちが集って、勝手にLPレコードの「蔵出し」をすることが許されたのです。
 1962年の時点で考えると高水準のステレオ設備、音楽室の空間に、大音響でブラームスの第1交響曲、チャイコフスキーの悲愴、‥‥が響き、ぼくたちは、スコア(総譜)をみながら、指揮棒をふりながら、これらを次々に聴いたのです。夏休みには受験準備よりもベートーヴェンを第1番から9番まで連続で聴こう、ということになりました。このときは先生の選定で、ワルター+コロンビア交響楽団の交響曲全集でした。3・5・7・9といった奇数番の力強さとドラマ性に比べて、15歳の男子には、偶数番のシンフォニーはちょっと半端な印象だったりしましたが。
 ちょうど千葉大教育学部が猪鼻台から西千葉に移るにともなって、半分ゴミ扱いされたSPレコード(ブッシュ室内楽団のブランデンブルク協奏曲とか‥‥)を、廃棄処分でいただいたりしました。
 勢いあまって、夕刻は街にくりだして、ちょうど「国電」で帰る組と京成電車で帰る組とが分かれる交差点にあった「松田屋」楽器店では、なまいきにも新譜を「試聴させてください」なんて言って、アイーダを聴いたり、トリスタンの「愛の死」の和音についてああだこうだと言ったりしていたのです! 
【いや、落ち着いて考えると、トリスタンは中3ではなく、翌年、高1になってからだった‥‥ 仲間も通学路もほとんど同じだったので、混同しやすい。したがって、高校に進学してからも、高梨先生と朝夕の通学路でお話しすることができました! 高1が終わるとともに、先生は(25歳)結婚なさって信州に行ってしまいました。】
 怖いもの知らずのぼくは、高1のほんの一時、さ迷って作曲や指揮のまねごとなどをしていました。後にストレートで芸大の楽理に入学するようなヤツと一緒に『指揮法入門』の勉強を始めたり、‥‥さいわい、同学年に実力の差を知らしめてくれるヤツが居てくれて、まもなくそうした迷妄から覚めましたが。

 こういうセンチメンタルな回顧だけではありません。むしろこの音楽室と松田屋での経験が、ぼくの 時代と音楽(文化)という感覚(sense & sensibility)を育んだ、といえる。バッハとモーツァルトでは時代が全然違う。ベートーヴェンから近代が始まる、というより彼は近代の前衛だった。シューベルト、シューマン、ブラームスにとってのベートーヴェンの遺産・重み・桎梏。ワーグナ、ドビュッシの新しさ。そして、ショスタコヴィッチの苦闘‥‥武満の響き‥‥
 こうした音楽経験があったからこそ、18世紀以来の時代性・その転換ということを、ブッキッシュでなく体感的にわかるんだ、というのは、後々に認識するところです。

 つまり今、西洋史学なるものを、なにか新刊本や新しい研究動向を引用しつつ営むのでなく、自分の経験として語れる、文献以外の経験も分析的に論じてゆくことができるということが、もしぼくの強みだとしたら、それは高梨先生の音楽室から始まったのです。
今日は、ここに書いたことのごく部分的な断片だけを申し上げたので、十分に分かっていただけたかどうか。心から感謝しております。
【とにかくレアな経験だったことは、あまり考えなくても、直観できることでした。近藤くんはブラームスだったネと、とくに親しかったわけでもない今井さんに言われて、そこまで皆さん、互いを知っていたんだ、とそうした点についても認識を新たにしました。Danke schön! 】

2017年5月13日土曜日

岩波文庫「青春の三冊」

(承前 5月9日)
 ちなみに、might-have-been (未練記事)ですが、当初ぼくが岩波文庫の「青春の三冊」として考えてみたのは、次の3つでした。

¶トーマス・マン『トニオ・クレエゲル』
 走る馬の連続写真、金髪のインゲ‥‥。高1の少年にはこちらのほうが『若きヴェルテル』よりも分かりやすかった。新潮、角川など他の訳もありましたが、岩波文庫のタイトル表記に惹かれました。

¶夏目漱石『三四郎』
 名古屋駅で一緒に降りた女性と同室に泊まり、翌朝「度胸のない方ですね」と言われて「両方の耳がほてり出した」三四郎と同レベルの、うぶなストレイシープ。巻末にいたっても三四郎は、「舌が上顎へひっついてしまった」という。なんという青春・恋愛小説家なんだ、漱石は。
 高校生のぼくは本郷の「御殿下運動場」や「三四郎池」に立って「現場追体験」(?)してみましたが、いま読み直すと、美禰子さん、よし子さんの両タイプ、書かない先生=「偉大なる暗闇」論もあって、現代的です。

¶マルクス『経済学・哲学草稿』
 これは東大駒場1年生の衝撃。訳者 城塚登先生の講義「社会思想史」でも、折原浩先生の講義「社会学」でもテキストに指定されて、大教室の何百人の受講生が熱気に引きずり込まれました。まだ木造2階建てのギシギシいう1階にあった生協書籍部に、朝、胸の高さまで山積みされた『ケーテツ・ソーコー』が夕方には残部わずか、という日が繰りかえされる時代でした。城塚先生のかっこよさに惹かれて、本郷で開講されたヘーゲル『精神現象学』の授業にも出ました。

 . . . という具合ですが、あまり懐古的では面白くないし、こうした青春の古典は、きっと他のだれでも挙げるだろうと考えて、止めにしたのです。

2015年8月29日土曜日

永栄 潔

朝刊にて、永栄 潔 の名に遭遇。
『朝日新聞』を定年退職して大学非常勤講師や、高校同期会でも活躍している永栄。その著書『ブンヤ暮らし三十六年 回想の朝日新聞』で第14回新潮ドキュメント賞を受章と。おめでとう!
https://www.shinchosha.co.jp/prizes/documentsho/

千葉高校時代には陸上部でも生徒会でも活躍していた。女の子の心をときめかしてもいた。結局、結婚したのも同期の女子だ。ぼくたちが2年生の秋、翌年度から3年生を文系理系に分けて編成するという学校の告知にたいして、千葉高校の教養主義の終焉というので、ぼくたちはブツブツ言っていたのだが、全学集会で一人挙手して、教頭に質問があります、といった永栄は格好よかった。そのあと一人召喚されて、「はい」と言わされたらしい! ちょうどヴェトナム戦争、北爆の1964年だった。
今も体形を維持して格好いい68歳。どうぞお元気で!

2014年10月5日日曜日

67歳の同期会

 ほんの2週間前のことです。ロンドン・コペンハーゲンから帰ってただちに、中学の同期会に参りました。
 40歳のときの会は覚えていますが(『朝日新聞』名古屋版にも書かせてもらいました)、そのあとはずっと会ってないのだろうか? 記憶が曖昧になりました。この中学から同じ高校へ50名以上が進学したので、そしてそのまま同じ大学へ20名ほどが進学したので、なんだかいろんなことが重なって記憶が厳密ではないのです(高校の同期会は60歳で参加して、たいへんなインパクトがありました)。
なにより不安だったのは、何人の顔がわかるだろうか、それよりいったいぼくが誰だと認識してもらえるだろうか、ということでした。
同期の一番の有名どころはオペラ歌手、秋葉京子でしょうか。東大理学部をへて広島市長をやった秋葉兄さんの妹さんです。集まったのは同期127名のうち41名で、大学教授も病院長も、昔の色男、今のつるっパゲ、今もきれいな専業主婦もいましたが、誰より15歳年長(すなわち82歳)の斉藤先生がお元気なのには圧倒されました。
 案ずるより易く、幹事さんたちのお陰で、きわめてすんなりと受けとめていただき、高石公平には『大学院紀要』の抜刷りを渡しながら、中学1年の冬に英和辞典を見ながら「Pig, hog, swine . . .」と暗唱しながら大笑いしたことを覚えているか尋ねたら、しっかり覚えていた! 1年C組で「近ちゃんはアメリカの50州全部を暗唱したり、円周率を何十桁も覚えたり‥‥」という高石は、鉄棒の大車輪でみんなを感服させる「ケネディー」だったのだ。
 たった一つの嫌な記憶は、他にも何人かが共有していたので救われた気持ですが、それ以外は、秋葉さんの先導で歌った校歌、戦後民主教育そのものでした。校長は飯田朝という憲法学者でした。

  空には若葉 かがやきて
   胸にはもゆる 自由の火
   亥鼻台に まなびやの
   歴史をほこる わが一中
   個性と自重 つねにあれ

   真理をもとめ もろともに
   不断の努力 たゆみなく
   文化の日本 うちたつる
   その先がけの わが母校
   平和と秩序 つねにあれ

 中学生のころは、歴史の教師になるとは夢にも思わなかった。それにしてもわが『10講』を貫く、心柱のようなテーマは「個性と自重」のありかた、「平和と秩序」のありかたの議論だったなぁと、あらためて感じ入ったことでした。