川勝平太といえば、オクスフォードでもマンチェスタでも聞こえた男でした。ぼくより1歳若いが、小松芳喬先生と日本の社会経済史学会で鍛えられてアジア史をふまえ、イギリスでは Peter Mathias先生(そして Douglas Farnie先生)の薫陶のお蔭で、良い仕事をまとめることができたのです。早稲田大学では British Parliamentary Papers (いわゆるブルーブック)の購入決定に理事会が反対したというので、タンカを切って辞職して、国際日本文化研究センターに移動。そのころすでに環境史には一家言あり、1997年の日英歴史家会議(AJC, 慶応)ではスマウト先生の環境史報告へのコメンテータをつとめました。【じつは川勝とぼくの共著もあります!『世界経済は危機を乗り越えるか:グローバル資本主義からの脱却』(ウェッジ選書*、2001)】
それからは静岡芸術文化大学(木村尚三郎後任)をへて政治にコミットしたようで、2009年の静岡県知事選挙で、(自民党・民主党の支持者を分裂させながら)当選、以後、2選、3選は圧倒的に勝利しています。
一方のJR東海の金子慎社長は、といえば東大法卒、国鉄・JRの人事・総務畑で出世してきたかもしれないが、内向きの能吏で、- そもそも歴代首相とやりあい、英語での交渉もでき、皇室との個人的なつきあいもある川勝知事を相手に -、太刀打ちできるタマではない。
今晩のNHK-TV、7時のニュースでも、川根の水で入れたおいしいお茶を供されて、金子社長が完全に手玉にとられてしまった場面が放映されました【この部分を、9時のニュースでは繰りかえさなかった。NHK幹部の独自の政治的判断≒配慮が介在したと想像されます!】。
問題は、大井川や南アルプスだけではありません。
コロナ禍で「リモート仕事」「Zoom会議」の快感を知ってしまった国民が、はたして、東京-名古屋は40分、東京-大阪は67分、といった恐怖のトンネル続きの「利便性」をこれからも支持しつづけるだろうか。ここは、むしろ東京オリンピックの中止、Aegis Ashoreの中止(河野防衛相の英断)、につづいて、never too late to mend! 電磁気によるリニア新幹線計画じたいを中止するという英断が待たれます。東京首都圏への過度の集中、通勤・出張を再考する好機ですよ、金子社長!
* ウェッジ選書とは、すなわち JR東海きもいりの出版でした! なんという皮肉/めぐり合わせ!
2020年6月26日金曜日
川勝 の 勝!
ラベル:
21世紀,
Cambridge・Oxford,
Manchester,
NHK,
politics,
publication,
イギリス史,
この国の来し方行く末,
海・川,
経済,
健康,
交通,
東京
2020年6月15日月曜日
コロナ後 と 香港
すでに識者によって予言されているとおり、Covid-19(のパンデミック)のもたらす変化は、過去からの断絶ではなく、すでに始まっていた変化の顕著な促進でしょう。よくは見えなかった兆候が、この危機によって誰にも明らかな時代の転換として現れます。危機、すなわち生死を分けるような分岐点、転換点です。
イギリスを代表する、もしやヨーロッパ一の金融企業(銀行)HSBC が驚くべき発言をしました。BBCの報道によると、
HSBC "respects and supports all laws that stabilise Hong Kong's social order," it said in a post on social media in China.
「香港の治安を安定させるあらゆる法律を尊重し支持する」と。
現今の金融資本主義を代表する企業が、中国政府の治安優先、というより習近平の独裁体制=権威的全体主義体制を尊重し支持する、と。これは天地もひっくり返るほどのことですよ。
ちなみに BBC は同じ記事のなかで、日本のノムラ(investment bank Nomura)が香港への関与を再点検する(修正する)と報じて、対照しています。
資本主義は、あるいは18世紀のヒュームやスミス、そしてブラックストンに言わせれば「商業社会」は、自由と所有権(と法の支配)によって成り立つ「文明社会」でした。以後、この自由と所有権と文明の間の比重にはニュアンスはあれど、これを旗印にする自由主義者と、これを否定する(競争と搾取の元凶と考える)社会主義者は、19世紀の前半から対立してきました。
20世紀前半には、ケインズのように、政府の政策によって野放図な資本主義をコントロールしようとする経済学者、そして福祉国家(大きな政府)を唱える「新自由主義者」(ネオリベラルではありません!)が現れ、1970年代まで西側先進国の民主主義を支える政策体系でした。しかし、民主と福祉は、ナチスや、ソ連や中国の共産党独裁とは相容れないと考えられていた。政治家は、イギリス労働党も日本社会党も「政治的判断」によって海外の共産党独裁を許容することはあったけれど。
上の BBC は含蓄をこめてこう言います。
The bank's full name is the Hongkong and Shanghai Banking Corporation and it has its origins in the former British colony.
じつはぼくが1980年にイギリスに渡って直ちに British Council から四半期ごとに給費を振り込む銀行口座は Midland Bank と指定されました(バーミンガム起源の歴史的な銀行です)。これがしかし、80年代半ばに HSBC に吸収されて、以後ぼくの小切手や Bank Card は HSBCのものとなりました。
後年、上海に行ってそこでバンドの威容を誇る建物群のうちでもHSBCが一番であること[そこまでは事前に写真で承知していました]、それが革命後、共産党政権により接収されて上海共産党本部になったことは、感銘深い、共産党側の論理としては理解可能な事実です。
ところで、香港の気のいい若者たちとマンチェスタで交流したのは1990年前後のことでした。Oxford Road をずっと南に下った所の YMCAに泊まっていて、留学生たちと仲良くなったのです。若者たちといっても30歳前後(?)で Manchester Polytechnic(その後 Manchester Metropolitan Universityへと改組改称)に研修で来ていた様子。
中国名とは別に Bob とか John とか自称していました。戦後の日本で「フランク永井」「ジェームズ三木」と言っていたのと似てるなと受けとめました。ぼくがイギリスのしかもマンチェスタの歴史を研究しているというのを珍しがると同時に、香港での現実問題は「汚職」(corruption)だということで、香港政庁の汚職特別委員会ではたらく、明るい正義漢が印象的でした。
まだeメールなどの普及する前だったので、その後、連絡は取れなくなってしまったのが残念です。彼らもすでに60代でしょう。イギリスの植民地支配から自由になったのはいいけれど、中華人民共和国のきびしい統制下に、今どのような日夜を送っているのだろう。たとえ汚職が蔓延していても、自由で、冗談の言える社会のほうが、よほどマシです。
革命独裁政権が、政敵を腐敗している(corrupt)として追放する/粛清するのは、フランス革命中からの常でしたね。
イギリスを代表する、もしやヨーロッパ一の金融企業(銀行)HSBC が驚くべき発言をしました。BBCの報道によると、
HSBC "respects and supports all laws that stabilise Hong Kong's social order," it said in a post on social media in China.
「香港の治安を安定させるあらゆる法律を尊重し支持する」と。
現今の金融資本主義を代表する企業が、中国政府の治安優先、というより習近平の独裁体制=権威的全体主義体制を尊重し支持する、と。これは天地もひっくり返るほどのことですよ。
ちなみに BBC は同じ記事のなかで、日本のノムラ(investment bank Nomura)が香港への関与を再点検する(修正する)と報じて、対照しています。
資本主義は、あるいは18世紀のヒュームやスミス、そしてブラックストンに言わせれば「商業社会」は、自由と所有権(と法の支配)によって成り立つ「文明社会」でした。以後、この自由と所有権と文明の間の比重にはニュアンスはあれど、これを旗印にする自由主義者と、これを否定する(競争と搾取の元凶と考える)社会主義者は、19世紀の前半から対立してきました。
20世紀前半には、ケインズのように、政府の政策によって野放図な資本主義をコントロールしようとする経済学者、そして福祉国家(大きな政府)を唱える「新自由主義者」(ネオリベラルではありません!)が現れ、1970年代まで西側先進国の民主主義を支える政策体系でした。しかし、民主と福祉は、ナチスや、ソ連や中国の共産党独裁とは相容れないと考えられていた。政治家は、イギリス労働党も日本社会党も「政治的判断」によって海外の共産党独裁を許容することはあったけれど。
上の BBC は含蓄をこめてこう言います。
The bank's full name is the Hongkong and Shanghai Banking Corporation and it has its origins in the former British colony.
じつはぼくが1980年にイギリスに渡って直ちに British Council から四半期ごとに給費を振り込む銀行口座は Midland Bank と指定されました(バーミンガム起源の歴史的な銀行です)。これがしかし、80年代半ばに HSBC に吸収されて、以後ぼくの小切手や Bank Card は HSBCのものとなりました。
後年、上海に行ってそこでバンドの威容を誇る建物群のうちでもHSBCが一番であること[そこまでは事前に写真で承知していました]、それが革命後、共産党政権により接収されて上海共産党本部になったことは、感銘深い、共産党側の論理としては理解可能な事実です。
ところで、香港の気のいい若者たちとマンチェスタで交流したのは1990年前後のことでした。Oxford Road をずっと南に下った所の YMCAに泊まっていて、留学生たちと仲良くなったのです。若者たちといっても30歳前後(?)で Manchester Polytechnic(その後 Manchester Metropolitan Universityへと改組改称)に研修で来ていた様子。
中国名とは別に Bob とか John とか自称していました。戦後の日本で「フランク永井」「ジェームズ三木」と言っていたのと似てるなと受けとめました。ぼくがイギリスのしかもマンチェスタの歴史を研究しているというのを珍しがると同時に、香港での現実問題は「汚職」(corruption)だということで、香港政庁の汚職特別委員会ではたらく、明るい正義漢が印象的でした。
まだeメールなどの普及する前だったので、その後、連絡は取れなくなってしまったのが残念です。彼らもすでに60代でしょう。イギリスの植民地支配から自由になったのはいいけれど、中華人民共和国のきびしい統制下に、今どのような日夜を送っているのだろう。たとえ汚職が蔓延していても、自由で、冗談の言える社会のほうが、よほどマシです。
革命独裁政権が、政敵を腐敗している(corrupt)として追放する/粛清するのは、フランス革命中からの常でしたね。
2018年6月5日火曜日
映画「マルクス・エンゲルス」
今朝、岩波ホールで映画「マルクス・エンゲルス」を見ました。朝から行列ができて、若いのも退職世代も一杯なのには驚きました。
フランス語原題は Le jeune Marx (若きマルクス)で、1840年代のケルン、パリ、ブリュッセルにおける妻イェニ(ジェニ)との生活、エンゲルスとの出会いと社会主義者たちとの論争。1848年2月の共産党宣言で終わる映画というので、あまり多くは期待できないな、と思いながら行ったのですが、案の定。
(ほとんどレーニン・スターリンの教科書にも出てきそうな)ドイツのヘーゲル哲学、フランスの労働運動、イギリスの経済学という3つの伝統(資産!)の合体したところに生まれる正しい理論・運動としてのマルクス主義。その生成過程をカール、イェニ、フレッド(エンゲルス)の信頼と友情と協力関係で描くという構えです。
監督ラウル・ペックさんは1953年、ハイチ生まれとのことですが、ちょっと勉強が足りないのではないかと思わせるほど、図式的な(共産党の)マルクス主義理解です。そもそも若きマルクスの学位論文 -マルクスは19世紀前半の「大学は出たけれど」どころか、オーバードクター=アルバイターのハシリです- からのつながりは一切触れられないし、(『経済学哲学草稿』にも、いや後年の『資本論』の価値論にも現れていた)ヒューマンな人間論、むしろ実存哲学的な考察はオクビにも出てこない。
映画の最初に森林伐採法・入会権にかかわる場面があるけれど、これもプロイセン政府の暴虐ぶりを表現するエピソードというだけの意味づけ? プルードンとの論争も、(字幕では)「所有」か「財産」か、といった無意味な訳になってしまった。Propriété も Eigentum も、自分自身(proper/eigen)であることと領有する(appropriation)ことにも掛けたキーワードです。
平田清明の『市民社会と社会主義』(岩波書店、1969)を読んでから出直すべきかも。これは、往時のベストセラー、もしや「岩波現代文庫」に入れるべき一つかもしれません。
この映画で唯一、映画らしい説得力があったのは、ことばの運用です。マルクス、エンゲルス、イェニともに場面に応じて、相手と感情のままにドイツ語、フランス語を用い、ときにチャンポンでも通じた。むしろ19世紀前半はまだ英語がマイナーな言語であったのだとわかる作りです。そしてマルクスは、経済学を勉強するために、必要に応じて、英語を習得してゆく。メアリはアイリッシュ系の英語。
他党派にたいするマルクス・エンゲルスの容赦のなさは、この後、ますますひどくなり、また48年議会におけるドイツ周辺部を代表して出てくる議員のドイツ語(の発音)にたいするエンゲルスの差別発言たるや、恐るべきものがありました。ぼくは『マルエン全集』で48年前後の赤裸々な表現を見て以来、エンゲルスをこれっぽっちも好きになれない。これほどの証言を全部収録して全訳する「全集刊行委員会」は何を考えていたのだろう‥‥。冷めた心でマル・エンに接しましょう、とか?
大学院に入ってすぐの柴田ゼミのテキストは、1864年ロンドンの「第1インター」の議事録(英・仏・独語)でした。そこでの少数派=マルクス・エンゲルスの党派的で強引な動きもまた印象的で、柴田先生はどういうつもりでぼくたちにこのテキストを読ませているのだろう(そろそろセクト主義から足を洗うように‥‥とか?)、とにかく愉快でない経験でした。そして権威的マルクス・エンゲルス主義者であることから気持が確実に離れるきっかけにもなりました。『社会運動史』のメンバーへの援護射撃というおつもりだった?
70年代半ばの柴田先生は19世紀フランス社会主義の歴史に集中しようと考えておられたようで、西川正雄さんと院ゼミを合同で持たれたこともありました。
2017年5月24日水曜日
Manchester 追伸
https://www.theguardian.com/uk-news/2017/may/23/theresa-may-condemns-sickening-cowardice-of-manchester-attack
The Guardian (元来は The Manchester Guardian)によると、容疑者捜査などは市の南側、まさしくOくん在住の大学南側の住宅地区でおこなわれているらしい。このあたり、19世紀のブルジョワ住宅地は、ぼくが(大学から借りて)1982年夏に住んでいたころには、すでにムスリム・コミュニティに転じていました。
マンチェスタは『ガーディアン』紙にとって、大阪が『朝日新聞』にとって占めるのと同じで、1820年、発祥の地です。だから、今日の『ガーディアン』の社説は、こうです。
A bomb that strikes at the heart of Manchester’s civil life is something felt acutely at the Guardian. This is where the newspaper was founded, as the Manchester Guardian, almost 200 years ago, out of a distinctive Mancunian radical tradition, in the aftermath of the Peterloo massacre in 1819 when 15 people were killed in protests over parliamentary reform.
Throughout Manchester’s history, its people have campaigned for what they thought was right. It is a city that has never been afraid to challenge received wisdom; its capacity for innovation stretches from what may be the world’s first free public library and the first passenger railways, to the suffragette movement, vegetarianism and graphene. It is a special place, with a historic sense of confidence. It is a testament to the city that an attempt to divide a people only brought them closer together: doors were opened to strangers and meals offered to worried parents. Hotels and cabs provided services for free.
As one taxi driver put it: “We’re glue. We stick together when it counts.”
このリベラルな伝統をメイ内閣の時代にも維持できるか。正念場です。
マンチェスタのOくん
マンチェスタ大学の院生Oくんから、迫真のメール、到来。
「‥‥大惨事があったことにも全く気づきませんでした。当該事件についてネットニュースで知りましたし、パトカーの音なども特に聞こえません。‥‥」
とのこと。
まずは無事で良かったと思います。大学は、事件現場と街の中心部をはさんで反対の南側、Oxford Road、全然環境のちがう界隈ですから、何も聞こえなくて不思議はありません。
現場付近は18世紀ころまではマンチェスタの真ん中で(なかば暗渠になっていますが)川の合流点。歴史的な Cathedral や Chetham's Library、そしてマーケットがありました。Victoria Station はマンチェスタから北へ (Wigan, Preston, Lancaster, Glasgow) 行く場合に利用するターミナル駅で、ロンドン方面にゆく Piccadilly Station とは何キロか離れています。今ではトラムで繋がっていますが、むかしはタクシーかなにかで急ぐしかなかった。
マンチェスタでは1996年6月に IRA の爆発事件がありました。それもやはりCathedral, Market, Arndale の付近で、これはあまりにも大規模な破壊だったので、何年もかけて近辺を再開発せざるをえないほどでした。後年に行って付近の景観が一新されたのを見て驚きました。MEN Arena というのは、その再開発の一環として Manchester Evening News が建設した興行スポーツ大建築ですね。いまは経営が替わって、名も Manchester Arena になったのか。ぼくのこの写真では、まだMENでした。
多数の死傷者が出ましたが、こちらで動画などを見るかぎり、爆発の威力だけでなく、
狭い場所の雑踏で stampede したことで事態が悪化したように思われます。
こうした事件があったからといって、過敏に警戒して街中に出かけないというのは賛成できません。万が一にも似たような状況に出くわしたら、慌てず落ち着いて行動してください。
ぼくも1981-2年ころ、サッチャ政権でロンドンの治安が悪化し、IRA 関連事件で都心の雑踏の中、家族と合流できず焦ったことを思い出します。ケータイなどない時代でした。
泣いても叫んでも(慌てて走り出しても)意味がないので、
「今の条件のなかで何をしなくてはならないのか/なにが可能なのか」
を第一に考えて、行動してください。
ドタバタ、うろうろしないというのが、人生の教訓ですね。
「‥‥大惨事があったことにも全く気づきませんでした。当該事件についてネットニュースで知りましたし、パトカーの音なども特に聞こえません。‥‥」
とのこと。
まずは無事で良かったと思います。大学は、事件現場と街の中心部をはさんで反対の南側、Oxford Road、全然環境のちがう界隈ですから、何も聞こえなくて不思議はありません。
現場付近は18世紀ころまではマンチェスタの真ん中で(なかば暗渠になっていますが)川の合流点。歴史的な Cathedral や Chetham's Library、そしてマーケットがありました。Victoria Station はマンチェスタから北へ (Wigan, Preston, Lancaster, Glasgow) 行く場合に利用するターミナル駅で、ロンドン方面にゆく Piccadilly Station とは何キロか離れています。今ではトラムで繋がっていますが、むかしはタクシーかなにかで急ぐしかなかった。
マンチェスタでは1996年6月に IRA の爆発事件がありました。それもやはりCathedral, Market, Arndale の付近で、これはあまりにも大規模な破壊だったので、何年もかけて近辺を再開発せざるをえないほどでした。後年に行って付近の景観が一新されたのを見て驚きました。MEN Arena というのは、その再開発の一環として Manchester Evening News が建設した興行スポーツ大建築ですね。いまは経営が替わって、名も Manchester Arena になったのか。ぼくのこの写真では、まだMENでした。
多数の死傷者が出ましたが、こちらで動画などを見るかぎり、爆発の威力だけでなく、
狭い場所の雑踏で stampede したことで事態が悪化したように思われます。
こうした事件があったからといって、過敏に警戒して街中に出かけないというのは賛成できません。万が一にも似たような状況に出くわしたら、慌てず落ち着いて行動してください。
ぼくも1981-2年ころ、サッチャ政権でロンドンの治安が悪化し、IRA 関連事件で都心の雑踏の中、家族と合流できず焦ったことを思い出します。ケータイなどない時代でした。
泣いても叫んでも(慌てて走り出しても)意味がないので、
「今の条件のなかで何をしなくてはならないのか/なにが可能なのか」
を第一に考えて、行動してください。
ドタバタ、うろうろしないというのが、人生の教訓ですね。
2010年11月29日月曜日
Virtual reality とはこんなもんか
0. 世の中にはよくわからないことがありますが、以下は、単純にして怠慢なアウトソーシングと copy & paste の結果をだれも確かめてなかった、というお粗末な始末記です。
1. Manchester workhouse 関連で、新しくアプロードされた史料か文献はあるかな、とインターネットを探した折に、信じがたい発見をしたのです。
何番目かのヒットに次のようなものがありました。
------------------------------------------------------------
Title: The Workhouse Issue at Manchester Selected Documents, 1729-35
Author: 近藤, 正治 Kondo, Shoji
Issue Date: 31-Mar-1987
Publisher: 名古屋大学文学部
Citation: 名古屋大学文学部研究論集史学. v.33, 1987, p.1-96
URI: http://hdl.handle.net/2237/9791
ISSN: 0469-4716
------------------------------------------------------------
おいおい、近藤正治さんよ、これはあなたではなくぼくの仕事だよ。あなたがどんな方か知らないが、名古屋大学文学部に所属したことはないだろうに。
そもそも、Nagoya Repository という、名古屋大学の紀要類をディジタル・アーカイヴにする企画の一部らしいが、
http://hdl.handle.net/2237/9791 をクリックしてみると、正しく『研究論集』でぼくが編纂した史料集が PDF で出てきます。PDFなので 最初のページの著者名は Kazuhiko Kondo のまま。 → だったら問題ないじゃないか、と言いたいところですが、そうではない。
2. そもそも著作権は著者=近藤和彦にあるはずだが、その仕事が、①本人の関知しないまま、②著者名が変えられて、③ヴァーチャル世界に登載されている、という問題です。
① じつは何年か前に、名大図書館から同じく『名古屋大学文学部研究論集』に載ったぼくの Town and county directories in England and Wales, 1677-1822 という article について名大リポジトリに掲載してよいかどうか、郵便で問い合わせが来ました。これに OK した覚えはあります。同時に、1985年のこの article だけについて問い合わせが来て、翌々87年の workhouse issue について来ないのはどうしてか。リポジトリの年度区切りとか、著作権25年といった考え方とか、ありうるのかと想像しましたが、それ以上は深く考えないままで打ち過ごしていたのです。
‥‥いずれ材料を補充しつつ、この第2版を制作しなくてはいけない、と考えていました。Workhouse issue は英米ではそれなりに引用・参照されている史料集なので [→ Handley 1990; Horner 2001; Innes 2005; Langford 1991; Speck 1999]。→ http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/Quoted.htm
3. 大学の知的資源の公共的アクセス・情報公開の推進といったことが数年前から話題になりました。大学の図書を市民に開放するとか‥‥。そもそも公共図書館の不備・未成熟をどうするかという問題と、官公庁の情報公開とが一緒になっての動きだと思われますが、しかし大学の人的資源はギリギリだという与件もあり、 じゃぁ SOLUTION はアウトソーシング、ということでにわか情報業者がもうかる構図です。
そうしたアウトソーシングの意味を全否定するつもりはありませんが、競争入札で、かつ新規業者を優先する方針でやった結果が、ここに出ています。
なにかの contingency の結果として、名大工学部の近藤正治先生の論文をPDF化した直後に、近藤和彦の番になって、そのままコピー&ペイストして「いっちょ上がり」だったのでしょう。
仕上がりを再確認するのはいったい同じオペレータか、職制か知りませんが、いずれにしても sine ira et studio、たんたんと作業を進めたのでしょう。
著作権許諾を問われた近藤正治先生の側も、多数のペーパーについて、PAが(?) たんたんと「承諾」という返事を繰りかえしたに違いない。
4. 上の3に書いたのは、憶測 a plausible conjecture に過ぎませんが、これに随伴して
②近藤和彦の仕事として検索した場合にはヒットせず、
③しかし、本人の知らぬまにインターネットの世界では利用が繰りかえされてきた、
という問題があります。英米の歴史研究者で Kondo Shoji という名は知られていないでしょう。 Google などで検索・ヒットしてもパスする(内容を見ない)、というケースがほとんどだったでしょう。
そもそも本人の研究計画のなかで The workhouse issue at Manchester: selected documents は緊急性の低い課題だったのでよかったとは言えますが、もし緊要な仕事だったらどうするのでしょう。損害賠償の訴訟‥‥といったこともありえますよ。
これを書くためにまさか、と思いながら検索したら
長谷川 博隆 の読みが Hasegawa, Kazuhiko
となっています!(Ciceroの法廷弁論にあらわれるcolonus と clientela)
ふざけるな、と言いたい。リポジトリを構築する図書館の担当者さん、委託された業者さん、どうぞ堅実に仕事してください。
【上の Workhouse Issue at Manchester の author にかぎって、名大図書館はすでに修正してくださいました。12月3日追記】
1. Manchester workhouse 関連で、新しくアプロードされた史料か文献はあるかな、とインターネットを探した折に、信じがたい発見をしたのです。
何番目かのヒットに次のようなものがありました。
------------------------------------------------------------
Title: The Workhouse Issue at Manchester Selected Documents, 1729-35
Author: 近藤, 正治 Kondo, Shoji
Issue Date: 31-Mar-1987
Publisher: 名古屋大学文学部
Citation: 名古屋大学文学部研究論集史学. v.33, 1987, p.1-96
URI: http://hdl.handle.net/2237/9791
ISSN: 0469-4716
------------------------------------------------------------
おいおい、近藤正治さんよ、これはあなたではなくぼくの仕事だよ。あなたがどんな方か知らないが、名古屋大学文学部に所属したことはないだろうに。
そもそも、Nagoya Repository という、名古屋大学の紀要類をディジタル・アーカイヴにする企画の一部らしいが、
http://hdl.handle.net/2237/9791 をクリックしてみると、正しく『研究論集』でぼくが編纂した史料集が PDF で出てきます。PDFなので 最初のページの著者名は Kazuhiko Kondo のまま。 → だったら問題ないじゃないか、と言いたいところですが、そうではない。
2. そもそも著作権は著者=近藤和彦にあるはずだが、その仕事が、①本人の関知しないまま、②著者名が変えられて、③ヴァーチャル世界に登載されている、という問題です。
① じつは何年か前に、名大図書館から同じく『名古屋大学文学部研究論集』に載ったぼくの Town and county directories in England and Wales, 1677-1822 という article について名大リポジトリに掲載してよいかどうか、郵便で問い合わせが来ました。これに OK した覚えはあります。同時に、1985年のこの article だけについて問い合わせが来て、翌々87年の workhouse issue について来ないのはどうしてか。リポジトリの年度区切りとか、著作権25年といった考え方とか、ありうるのかと想像しましたが、それ以上は深く考えないままで打ち過ごしていたのです。
‥‥いずれ材料を補充しつつ、この第2版を制作しなくてはいけない、と考えていました。Workhouse issue は英米ではそれなりに引用・参照されている史料集なので [→ Handley 1990; Horner 2001; Innes 2005; Langford 1991; Speck 1999]。→ http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/Quoted.htm
3. 大学の知的資源の公共的アクセス・情報公開の推進といったことが数年前から話題になりました。大学の図書を市民に開放するとか‥‥。そもそも公共図書館の不備・未成熟をどうするかという問題と、官公庁の情報公開とが一緒になっての動きだと思われますが、しかし大学の人的資源はギリギリだという与件もあり、 じゃぁ SOLUTION はアウトソーシング、ということでにわか情報業者がもうかる構図です。
そうしたアウトソーシングの意味を全否定するつもりはありませんが、競争入札で、かつ新規業者を優先する方針でやった結果が、ここに出ています。
なにかの contingency の結果として、名大工学部の近藤正治先生の論文をPDF化した直後に、近藤和彦の番になって、そのままコピー&ペイストして「いっちょ上がり」だったのでしょう。
仕上がりを再確認するのはいったい同じオペレータか、職制か知りませんが、いずれにしても sine ira et studio、たんたんと作業を進めたのでしょう。
著作権許諾を問われた近藤正治先生の側も、多数のペーパーについて、PAが(?) たんたんと「承諾」という返事を繰りかえしたに違いない。
4. 上の3に書いたのは、憶測 a plausible conjecture に過ぎませんが、これに随伴して
②近藤和彦の仕事として検索した場合にはヒットせず、
③しかし、本人の知らぬまにインターネットの世界では利用が繰りかえされてきた、
という問題があります。英米の歴史研究者で Kondo Shoji という名は知られていないでしょう。 Google などで検索・ヒットしてもパスする(内容を見ない)、というケースがほとんどだったでしょう。
そもそも本人の研究計画のなかで The workhouse issue at Manchester: selected documents は緊急性の低い課題だったのでよかったとは言えますが、もし緊要な仕事だったらどうするのでしょう。損害賠償の訴訟‥‥といったこともありえますよ。
これを書くためにまさか、と思いながら検索したら
長谷川 博隆 の読みが Hasegawa, Kazuhiko
となっています!(Ciceroの法廷弁論にあらわれるcolonus と clientela)
ふざけるな、と言いたい。リポジトリを構築する図書館の担当者さん、委託された業者さん、どうぞ堅実に仕事してください。
【上の Workhouse Issue at Manchester の author にかぎって、名大図書館はすでに修正してくださいました。12月3日追記】
2010年6月14日月曜日
John Rylands University Library of Manchester
1980年代にここで仕事をしていたころは独立の民間法人(charity)でしたが、今では上のような名前のマンチェスタ大学総合図書館の稀覯本(& 文書)部。
John Rylands の生涯については「ジョン・ラィランヅと〈プロテスタントの倫理と資本主義の精神〉」『思想』714号(1983)に書きました。彼の莫大な遺産は「ジェントルマン資本主義論」への反証となる、19世紀マンチェスタ実業資本の力強さを語るものです。未亡人の意志で聖書研究の殿堂が構想され、歴史的な繁華街 Deansgate に Victorian Gothic の大聖堂のような図書館=文書館ができました。開館はちょうど1900年とのことですが、読書デスクに各々電灯というのは、当時最新鋭の設備とのこと。30年ちかく前に来たときは80年余り前の(漱石と同時代の)水洗トイレ、というので感激したものです。そのころと入口は変わって、正面から入れなくなりました。
John Rylands 本人は質実剛健で、この建築が彼の趣味にあったかどうかは分かりません。すでに設計段階から、彼は故人でした。本人についても未亡人についても、ODNB の執筆者は Farnie さんです。
なお、マンチェスタの重要で個性的な3つの図書館については、武居良明『産業革命と小経営の終焉』(未来社、1971)に記事がありました。武居先生はまだお元気なのでしょうか?
2010年6月13日日曜日
Manchester: John Rylands Library
マンチェスタに行って参りました。
改装なったジョン・ライランヅ図書館(Deansgate)にて「長い18世紀史」セミナー。
Robert Poole, Bill Speck, そして Frank O'Gorman 先生はもとより、Dan Szechi, Tony Claydon もいました。エディンバラから Emma という女性が来て、Harry Dickinson 先生に習った、というのは良いとしても、Hisashi をよく知ってると!! おや。*
Peter Nockles は高教会史の専門家ですが、ふたりとも忘れていて、話しているうちに1995年に大学美術館でランチをともにしながら話をしたことを思い出した。The Church & politics in disaffected Manchester (HR, 2007) も送ってないのでした。済みません。
ライランヅ図書館の外で写真を、ということになりました。若いのは早々と帰っちゃったし、カメラを構えているのは Tony Claydon. したがって残念ながら彼は写っていません。
このあとパブへ。そして Mediterranean をうたう食所へ。談論風発、食い過ぎ、飲み過ぎでした。
【* よき友人 Craig Horner が欠席。PhD を取り、妻子もあり、
The Diary of Edmund Harrold, Wigmaker of Manchester 1712-15 (2008)
が長年かけて良い本になったというのに、常勤の職はないのです。翌土曜に彼のパート勤務する People's History Museum に訪ねてゆきましたが、この日は勤務日ではなく残念。現代史の社会史ミュージアムと受けとめました。】
登録:
投稿 (Atom)