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2021年1月3日日曜日

謹 賀 新 年

   新年をいかがお迎えでしょうか。

 1年前には想像もしなかった変事つづきの旧年でしたね。アタフタと対応しているうちに時は経過し、季節は移ろい、いつの間にかお正月。(雪国と違って)関東平野は寒いけれど無風の快晴がつづきます。パンデミックは収まらないどころか、ますます猛威をふるっています。この1年間の行動は自宅から約30kmくらいの範囲内にとどまり、飛行機を利用しての旅行など遠い昔のことのようです。

 そうした中でもITのおかげで遠隔の知友の顔を拝みながら対話したり、会合に参加したりできるのは、小さな幸せです。授業も学会もかえって便利になったかなという印象もありますが、しかし失われたものも少なくない。無駄なソシアビリテやちょっとした所作も大事だったんですね。

 そうしたグローバルな非日常のなかでも、古今の書物を読み、書きながら考え、ときには分かった!という気持になれるのは、職業の恵みでしょうか。幸運な人生なのかもしれません!

 加齢とともに、時折の知友のやさしさがいとおしく、身にしみますし、家族の生活と健康に思いをめぐらし、‥‥毎日散歩しています。この写真の横綱力士碑の左手にたつ横書の碑には「安政四年正月」とあります。

 みなさまも どうぞご健勝に!

 2021年正月     近藤 和彦

2020年8月27日木曜日

朋あり 遠隔より談ず、また楽しからずや


このブログへの登載が間遠ではないかと心配するメールなどいただいています。コロナ禍と盛夏のただなかですが、いちおう元気です。ケアを要する家族も、皆みなさまの助力で、大きな変化はなく、なんとかやっています。

そうしたなかで、喜びといえば Zoomミーティング ですかね。
同一空間に会して歩く姿を見つめたり、全身が丸くなったとか、縮んだとか(?)いった印象とともに談笑することは今はできないけれど、リモートの画面で、ふだんは見ない書斎の背景を見せてもらったりしながら、久しぶりに談論風発‥‥、また楽しからずや。

たとえ(ご本人の嗜好で)リモート画面は伴わなくても、メールや電話で優しく細やかな配慮をいただいたりすると、これもうれしいですね。人は一人では生き続けられない、という真理にも想いいたります。

2020年1月5日日曜日

謹 賀 新 年

 新しい年をいかがお迎えでしょうか。

 旧年は、おかげさまで身辺にあまり大きな変化もなく過ぎました。それでも沖縄で首里城などぐすくを歩き(10月末の炎上には驚き悲しみました)、ブダペシュトやブラティスラヴァ、対馬、青森、水戸に遊びました。それぞれ良き先達のおかげで印象深い経験となりました。なにより古くからの師友に再会し、またいくつもの研究集会で報告者やコメンテータをつとめ、討論に参与できる機会が続いたのは、嬉しいことでした。

 華麗ならぬ加齢のすすむにつれ、折々の交わりがいとおしく、このブログに所感をしたためています。

 今年も どうかご健勝にお過ごしください。

 2020年正月                近藤 和彦

(写真[クリックすると拡大]は晴れて寒い今日、晴海大橋から遠望した豊洲の海辺です。
 正面にやや低く4・5層で横に広がるのが「ららぽーと」で、その真ん中に波止場の跳ね橋が見えます。
 豊洲の新市場は、画面の右端「ゆりかもめ」の軌道を右手前に延伸した先にあります。)

2019年1月4日金曜日

亥年のご挨拶

 新しい年をいかがお迎えでしょうか。
 亥年、年男です。昨年に大学勤めをおえて、年金生活者となりました。時間はたっぷりあるかと思いきや、あれこれと心が動かされ、考えていたよりずっと落ち着かない毎日です。「感極まる」ということが増えました。

 小冊『近世ヨーロッパ』を仕上げたうえで、年末には都市史学会で北九州・小倉に参りました。駅前から商店街、紫川、城の周り、松本清張記念館、そして西日本工業大学と連結した「リバーウォーク」という複合施設あたりしか歩いていませんが、それにしても活気があります。市内にたつ鴎外碑や、記念館の清張旧居などを見ながら、この二人、全然異質な才人だが、多作だという点では共通する、その生を想い、自らの微力を恥じました。

 また年の瀬にかけて「東大闘争50年」をうたう出版が続きました。ぼくが手にしてこの半年間に読んだ新刊書は、
小杉亮子『東大闘争の語り 社会運動の予示と戦略(新曜社、2018)
和田英二『東大闘争 50年目のメモランダム(ウェイツ、2018)
折原浩『東大闘争総括 戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』(未来社、2018)
ですが、既刊の
山本義隆『私の1960年代』(金曜日、2015)
渡辺眸『東大全共闘 1968-1969』(新潮社、2007 → 角川ソフィア文庫、2018)
も含めて、歴史と語りに想いを致しています。
 折原さんの『東大闘争総括』p.155 で、ぼくは大庭、舩橋、八木、八林といった人たち(50音順。当時、4年、3年、2年でした)とともに「実存主義社会派 ・・・ 勉強家にして論客」として名が挙がっています。フルネームは5名だけですが、じつはあと何名もいました。関連して所感を『みすず』1-2月号にちょっと書きました。なお渡辺眸さんの写真集については、和田に指摘されるまで気付かなかったけれど、カメラマンが近接して撮影した場面も想い出しました。

 68年は世界的な現象だったというので、イタリアの逸品ワインCinquanta(五十年)をいただきました。そこにイタリア語と併記されている英語の説明には
May . . . celebrate their hope, their bravery, their intelligence.
とあります。ただし、この their とはワインを作った人々のことのようです。
 希望、勇気、知性。あらまほしきことなり、ですね。

2018年1月15日月曜日

戌年のごあいさつ

 新年、おめでとうございます。
 昨秋から家族の病気の一進一退でドタバタしています。
 年賀状には
 「‥‥ (れき)に伏して 志 千里にあり
などとしたためましたが、これは曹操の
 「驥老伏櫪 志在千里、烈士暮年 壯心不已」
の一部ですから、取りようによっては、「老驥」気取りの、かなり背負った発言と取られるかも知れません。ただし、ぼくとしては世に流布する「櫪に伏すとも」という読みでなく、むしろ素直に順接で、「櫪に伏して」、志だけは千里の遠くに在り、といった実情を謙虚に述べたつもりです。
 そこに老人の挫折をみるか、まだまだ終わっていませんという心情をみるか。

 抑制された心情は、型に約束があって枠のはまった定型句によってこそ表現しやすいような気がしています。

  小春日に 母と語りめづ 向島蜜柑
   
 向島とは広島県の旧御調(みつぎ)郡、尾道水道の向かいに見える「むかいしま」です。母は戌年、弟が向島に密柑山をもつ農民歌人です。先に老人ホームの誕生会で慰問の子どもたちが「みかんの花が咲いている‥‥」と歌ったら、ただちに母は「わたしの歌じゃよ」と申しました。
 尾道高女卒の母にとっては、林芙美子の「海が見えた。海が見える」や小津安次郎の「東京物語」などは、きわめてローカルに親近性を覚える作品です。

 皆さまも、ご健勝に。

2017年1月30日月曜日

公開講座の動画

ご無沙汰しています。

1月は大学関係者にとって1年で一番忙しい月ではないでしょうか? こちらも卒業論文提出にとなう面談や応急措置、その卒論審査・口頭試問、修士論文(2本)の審査、博士論文(1本)の審査、その他の業務の間を縫って、原稿「文明を語る歴史学」を『七隈史学』に送り、原稿「『悲劇のような史劇ハムレット』を読む」を『立正大学・文学部論叢』に提出しました。この土日には京都大学で竹澤先生の「複合国家論の可能性」という思想史のシンポジウムがあり、濃密な「対話」に参加いたしました。

そんなこんなで、いつ登載されたのか知りませんでしたが、品川区のサイトに、10月12日の公開講義の動画が見られるようになっています。前後50分あまり×2 の講演とスクリーンの画像がたっぷり。ちょっと長いかもしれません。
http://www.shina-tv.jp/pickup/index.html?id=983
http://www.shina-tv.jp/pickupindex/index.html?cid=95

論文「『悲劇のような史劇ハムレット』を読む」は、この講演をもとに、EEBO からカール・シュミットから最近の出版まで含めて、まとめて勉強した成果でもあります。3月末~4月初に刊行予定です。

2017年1月3日火曜日

謹賀新年

 みなさま、酉の年をいかがお迎えでしょうか。
 こちらは 69歳とあいなりました。ときに医者の世話にならないでもないですが、なぜかアイデアは以前よりもさかんに泉のごとく湧いてくるのですね! アイデアをどうやって人に見せられる文章までもってゆくかが問題です。

 2016年盛夏に数年来の共編著『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社)ができあがり、これを持ってケインブリッジ(と北ウェールズ)に参りました。話す人すべてEUリメイン派でした! ただし『図書』の新年1月号への寄稿を機会に調べなおして、ポピュリズムやナショナリズムだけでなく、イギリスにおける「議会主権」(あるいは議会絶対主義)という政治文化については等閑にできないなと再考しました。ケーニヒスバーガの卓見にも思いいたりました。イギリス最高裁の判決は1月早々に出るはずです。
 シェイクスピア没後400年にちなむ公開講演へのお誘いがあり、高校以来棚上げにしていた『ハムレット』に再び取り組み、10代では想像もしなかった 解 に到りました。近世史あるいは『礫岩のようなヨーロッパ』を勉強してきた結果として付いてきた賜物です。 「天地のあいだには君の学問では想いもよらぬことがあるのだよ」と言い放たれたホレイショくんとしても、それが「長い16世紀」の states system の秩序問題だとは、想いもよらなかったでしょう。「『悲劇のような史劇ハムレット』を読む」として『立正大学・文学部論叢』(2017年春)に発表します。
 今年はロシア革命100年ということもあり、多くの出版が予定されているようです。議論はますますおもしろくなりそう。ぼくの側では、コミンテルン史観(そのソフト版も含めて)の批判として「文明を語る歴史学」を『七隈史学』(2017年春)に寄稿してこれまでの議論を整理します。

 2017年正月    近藤 和彦

2016年7月12日火曜日

立正大学のPR

 昨夕、山手線の電車に乗り込んで、自然とドアの上方に目がゆき、びっくり。わが目を疑いました。立正大学の広告があるではないですか!

これまで地下鉄でもJRでも、新聞でも、他大学の(かならずしもよいとは限らない)広告を見るたびに、なぜわが立正大学はこういったPRに消極的なのだろう、と不思議に思っていました。東急・池上線の電車には車内広告があるらしいですが、あまりにもローカル。ぼく自身はまだ見たことがありません。

立正大学は今から30年ほど(?)前に経営的な失敗に遭遇してからは、アツモノに懲りて、「石橋をたたいて渡らない」経営方針で来ました。今では毎年発表される私学の財政収支の番付で、ベストテンどころかベスト3くらいにいつも着けているほどの黒字なのに、それを有効に使わないでいたのです。「カネの使い方を知らないコガネ持ち」。1968年まで学長をつとめた石橋湛山(1884-1973)に顔向けできない大学経営陣でした。
なにしろ日本で一番古いかもしれない高等教育機関(日蓮宗・飯高檀林、1580年)で、しかも立地は抜群。JR「大崎」駅には、山手線だけでなく、湘南新宿ラインが走り、隣の「品川」乗り換えで、東海道新幹線および総武線快速、上野東京ラインにも便利、ということで、神奈川県、埼玉県、千葉県からのアクセスは抜群によいのです。静岡県、茨城県、群馬県から毎日通学している学生も少なくありません! 山手線沿線の私学というだけなら、いくつもありますが、立正ほどにアクセスのよい大学は他にあるでしょうか? これに都営浅草線の「五反田」、池上線の「大崎広小路」も加えてみると、徒歩数分の駅が3つあって、これは他もうらやむ「資源」です。
さらに去年から、付属中高の移転にともない、品川キャンパスが広く、きれいになりました。山手通りも歩道がたいへん広く歩きやすくなっています(自転車道が独立)。
これらが生かされることなく「知る人ぞ知る」で経過していたのです。

今年4月から新学長・齊藤昇さん(英米文学)に替わって、なにか変わるかな、と思っていたら、
1) だれもが知る看板教授をゲット:吉川洋さんを経済学部に、冨山太佳夫さんを文学部に迎えました。従来から心理学、社会学、有職故実で活躍なさっている方々は、いつもどおり、テレビ画面にご登場です。
2) 研究支援課を改組して「研究支援・地域連携課」とし、品川区とのコラボが増えました。ぼくの場合も、去年のある市民講座は条件が合わず辞退しましたが、今年秋のシェイクスピア公開講座には講師をつとめます。「<学者王ジェイムズ>と<インテリ王子ハムレット>」は10月12日(水)です。よろしく!
3) こうしたことの一環として、山手線の電車広告があったわけですね。内向きからの脱皮です。
とはいえ次の戦術がほしい! 中長期的には、なにより若手教員を大切に育てることかな。

ところで、立正大学と創価学会(創価大学)、そして立正佼成会とは、無関係です。非公式の交流さえないようです。ときに誤解もありますので、念のため。

2016年6月28日火曜日

@nifty掲示板

「@niftyレンタル掲示板」という名の掲示板 blog ですが、1999年末にHPを開設した当初から利用して参りました。今では「イギリス史 Q&A」に特化したサイトとして、細々と維持しています。 → http://kondo.board.coocan.jp/bbs/
ところがこのたび、@nifty側の都合で、今秋10月にてこれを閉鎖するとの通告を受けました。
 今こちらのサイト http://kondohistorian.blogspot.com/ が一方的発信を主目的としたブログである(メンバーおよび許可を受けた者のコメントが事後的に採用される)のと違って、あちらの coocan掲示板(bbs)は相互発信≒交流型で、それが2000年代半ばには楽しいフォーラムとして機能したと思います。最初のインストールからすでに16年、インタネット社会の定着局面における無料サーヴィス掲示板の使命は果たしたということでしょうか。
 ぼく自身は広告の介在、そしてスパムの処理を煩わしいと思っていましたから、その歴史を懐かしみつつも、coocan掲示板の消滅はしかたないかな、という気分です。
 閲覧の皆さま、ありがとうございました。

 こちら kondohistorian.blogspot.com については、変わりなく、よろしく!
 サイトへのアクセス数、特定投稿へのアクセス数などが分かるシステムになっていますが、最近では『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社)のページへの閲覧が22日昼からほんの5日で700アクセスです! この書への、そしてヨーロッパ史への、礫岩EUへの、関心の広さを印象づけられました。出版社も、イギリスのEUレファレンダムが「幸か不幸か、絶妙のタイミングになってしまいました」との所感とともに精勤してくださっています。

2016年1月4日月曜日

謹 賀 申 年

 
 年の始まりをいかがお迎えでしょうか。

 今年度の卒論演習では多めの21名を見守っています(1月9日が提出〆切、29日が口頭試問です)。授業以外で各方面にご心配をかけていますが、昨年は
  2月に編著『イギリス史研究入門』の第3刷(細部がたくさん更新されています!)、
  5月に編著『ヨーロッパ史講義』、
  8月に編著 History in British History: Proceedings of the 7th AJC, 2012
を刊行することができました。それぞれ強力な支援チームのお陰です。他にも同時にいくつも楽しい仕事に取り組んで、礫岩のような日々!
 11月には 頸椎症性神経根症 で苦しみ悶えましたが、よき鍼灸師に巡りあい、通い続けて、なんとか過ごしております。
 暮れには句をひねる人の気持が分かったような気になりました!

  極り月 老いたる母の爪を切る

 皆さま、ご健勝にお過ごしください。

 2016年正月    近藤 和彦

2015年6月14日日曜日

立正大学 史学科の Facebook

紙媒体ではなく IT 空間で発信しようという方針です。

史学科の若手教員たちの奮闘により、このようなフォーラムが生まれました。
よろしく!
https://www.facebook.com/RisshoShigaku

2014年5月2日金曜日

美しき五月に

 花と新緑の季節ですね。爽快にゆきたいところですが、いろいろなことが滞っていて、緑風に身を任せるとはゆかず、困っています。ただ旧柴田蔵書のことで茗荷谷のお茶の水女子大に訪れて、キャンパス内外の花の美しさには心おちつきますが。

立正大学大学院紀要・文学研究科』30号は、無事4月に刊行されました。「註釈『イギリス史10講』(上)- または柴田史学との対話 -」が掲載されています(pp.71-87)。ただし、その抜刷は想定部数をこえて必要となり、しかたない、きれいに複写をとってホッチキスで留めたコピーを制作することとしました。

そうこうしているうちに、出版社から「近影を」などと請われて、こんなのもあったなと想い出して、いくつかのウェブページ(まだ消えていない)を再訪してみました。

http://cengage.jp/ecco/2007/07/post-2.html
【この ECCO を立正大学ではトライアル利用中です】
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/personage/2232.html
【このQ & Aで「いま書いている本」とは『イギリス史10講』のことでした】
http://letters.ris.ac.jp/department/history/professor.html
【こちらは、立正大学史学科の同僚たちのプロフィールとともに】

2014年1月7日火曜日

謹賀新年

 新年をいかにお迎えでしょうか。
東京地方はおだやかで、すでに大学も平常の日々が始まっています。卒業論文・修士論文の提出をサポートすべく、ぼくも連日出勤しています。

 おかげさまで昨年末には
・『歴史学の将来』(監修: みすず書房、11月)
・『イギリス史10講』(単著: 岩波新書、12月)
の2冊の刊行まで漕ぎ着けることができました。年来の知友の叱咤激励、編集担当者の奮闘努力のおかげです。ありがとうございます。どちらもそれなりに好評のようで、うれしいことです。
 なお、とくに『イギリス史10講』については、双方向の討論のしやすい掲示板として
http://kondo.board.coocan.jp/
を用意してあります。どうぞご利用ください。

 じつは他にも長年の「負債」のように持ちこしている課題は少なくなく、「註釈:イギリス史10講」や日英歴史家会議(AJC)の出版、そして 『民のモラル』 (ちくま学芸文庫版) をはじめとして、順々に、ポジティヴに実現してゆきます。

 旧臘に上野で「ターナー展」、神保町で映画「ハンナ・アーレント」を続けて見たことも、とても知的に励まされるよい経験でした。時代のなかで創造的な知識人がどう生きるか。どちらも立正大学の西洋史の院生と一緒に見ることができて幸せでした。

2013年11月15日金曜日

D くん

拝復

 多色彩の初校ゲラ 306 pp. を戻したら、再校ゲラは 310 pp.になって帰って来ました。つまりどこかで行がはみ出してしまったのでしょう。もとの306ページに戻さないと、索引のページが無くなります!

 ところで、Dくんの御メールのとおり、たしかに『10講』で礫岩という用語を数度つかいますが、それにしてもこれは conglomerate のみを視点にした単純な本ではありません。たしかに(イギリス史については明示的に)絶対主義という語の使用に反対しています。関連して、アメリカ史における「巡礼の父祖」伝説や、独立宣言における absolute despotism/tyranny への攻撃は、ためにするゾンビへの攻撃と考えています。
とはいえ、これらは『10講』の多くのイシューのうちの1つに過ぎず、他にもおもしろい論点は親と子、男と女といったことも含めてたくさん展開しています。

 御メールはさらに、次のように続きます。

>「歴史的ヨーロッパにおける複合政体のダイナミズムに関する国際比較研究」は、人間集団の政治性獲得のモメントを重視し、中世から近代へ「政体」のダイナミックな変遷をおうものと理解しています。
> 例えば、‥‥あたりで、それぞれの時代における「帝国的編成」との比較でコメントを頂くのも一興です。

 うーん、「帝国的編成」となると、ますます「ある重要な一論点」でしかないな。
通時的には「ホッブズ的秩序問題」を心柱にして叙述し、
同時代的には、たとえば1770年代のアメリカ独立戦争をアイルランドのエリートたちが注視し、
19~20世紀転換期アイルランド自治の問題をスコットランド人もインド人も注視していた、といった論点は出していますが。

 研究者の顔を意識した「問いかけ」もあります。一言でいうと、そもそも『イギリス史10講』は、二宮史学、柴田史学との批判的対話の書なのです!(これまで小さく凝り固まっていた分野の諸姉諸兄には、奮起をお願いします。)

>‥‥composite state や composite monarchy といった議論がまずは
> イギリスの学界で展開された議論だったことに関心を払う必要もあるようです。

 そうかもしれません。が、重要な方法的議論は英語で、という傾向が歴史学でも1980年代から以降、定着したということかな。
もっとも「1930代~40代のイギリス・アメリカ(とソ連)が旧ドイツ・オーストリアの知的資産をむさぼり領有した」こと、
「英語が真に知的なグローバル言語になったのは、このときから」といったことが、事柄の前提にあるわけですが。
イギリス史10講』では、戦後レジーム成立過程における人・もの・情報の「大移動」も指摘してみました。
S・ヒューズ『大変貌』にも示唆されていますが、1685年以後の名誉革命レジーム成立過程における(対ルイ太陽王)人材移動も視野において言っています。

 これまでの歴史学のアポリアが少しづつ解決してゆくのを、ともに参加観察するのはよろこびです。個人的にも、積年の「糞詰まり状態」を解消して、快食快便といきたいところです。単著ではないけれど、お手伝いしたルカーチ『歴史学の将来』(みすず書房)や『岩波世界人名大辞典』などが公になるのは、爽やかです。収穫の秋です!

2013年10月20日日曜日

『 イギリス史10講 』

秋らしく涼しい日々となりました。気温が下がって、しっかり着込まないと寒い!

ところで、ご心配の皆さまへ近況ですが、

『イギリス史10講』(岩波新書)はようやく脱稿し、
今、印刷所からばらばらと初校ゲラが到来している状態です。
あとがきは、ハーヴァードの図書館 H.E. Widener Library で10月1日に仕上げました。

16年越しの仕事になりましたので、ふりかえって感慨深いものがあります。1997年夏(というと、ナタリ・Z・デイヴィスを送り返した直後でした!)、岩波書店の企画会議に出された柴田先生のメモについても、あとがきで一部を引用させていただきます。
『10講』の基本的構成は『ドイツ史10講』『フランス史10講』と同じく、15世紀までで3講、16世紀以降で7講を用いるのですが、じつはいろいろな点で既刊の『10講』とは違う特徴があります。意図的に変えました。そのことについては、おいおい。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_toku/tku0302.html

岩波新書としては破格の厚さとなってしまいました!
12月20日発売という予定で進行中です。

ご心配をおかけしてきましたので、あらかじめお知らせしておきます。

2013年1月3日木曜日

謹 賀 新 年

 2013年をいかがお迎えでしょうか。
 12年3月に東京大学における24年間を終え、4月から立正大学史学科(大崎)に勤務しています。初年度でもあり、毎週毎週があらたな経験です。
 9月に実施したケインブリッジの日英歴史家会議(AJC)のあとも 新旧の企画が目白押しで、途中に難儀する苦しみと喜びには事欠きません。‥‥ すこし仕事を抱え込みすぎたかもしれません。

 健康第一と心しています。
 皆さんも ご健勝にお過ごしください。

 2013年正月                  近藤 和彦



2012年9月17日月曜日

オクスブリッジの学寮

日本に戻りました。

11時間の飛行のあと、今回は羽田着陸で、夜明け前の 4:40。手続き、荷物を受け取り、日の出たばかりの湾岸をモノレールから眺めながら帰宅しましたが、6:35着。公共交通機関で2時間かからず。これは快適ですね。おまけにすべてが空いている。
ただし、雨の後の早朝なのに暑くて、閉口。晴れても風の寒いイギリスのまま、ジャケットを着ているぼくが愚鈍にみえた。

とにかく、困難はなかったわけではないけれど、第7回日英歴史家会議(AJC)は、とりわけ将来のことを考えると、明るい希望のもてる国際研究集会となりました(写真の左下、矢印のあたりを拡大してみてね)。

それから副産物ですが、ケインブリッジの学寮(の学生の部屋)に合宿して Porter's Lodge や Master's Lodge、そして「ホール」でのディナーを皆さんで経験してもらったのは、なによりのことでした。Master Daunton の計らいあればこそ、でした。とにかく 『イギリス史研究入門』 pp.10, 12 などには控えめに記しましたが、オクスブリッジは他とははっきり違うのです。
「‥‥ともに素晴らしい人員と環境、‥‥」p.12 と書いた原稿を、共著者にはあらかじめ読んでもらいました。その一人が「どういうことですか?」と、あきらかに不審・不満を表されたのですが【私の留学した大学だって素晴らしい人員と環境がある‥‥】、これを口や文章で説明するには1年かかると考えて、やめました。観光旅行で行ってみてもよく分からないが、生活してみれば、ただちに分かる。
今回のディナーの「末席をけがした」院生が、いみじくも言いましたが(protocol を知っている人たちの所作を参加観察する)「鳥肌の立つような経験」。
じつに 『イギリスはおいしい』とは、『オクスブリッジはおいしい』という謂いでした。

2012年4月22日日曜日

オフィス ***

ご心配してくださる方がありましたので、昨日の一景をご覧に入れます。

 まだ段ボール箱を積み上げてるばかりでなく、左手に緑色の養生テープがだらりと垂れていたりして、いかにも構築途中です。じつは今日、写真の状態よりもすこし模様替えして--PC本体やプリンタ、Scansnap などを机上に置いては、本郷の二の舞になりそうなので--ちょっと工夫しました。使い勝手も改善されています。
 それにしても本郷の426室ではフロアさえほとんど見えなかった。そもそも何色だったのだろう? 今度のオフィスでは、このように床が見えます! 27平米の2倍以上を使用するわけだから当然といえば当然。
 ここを、3日には「鴎庵」と名づけましたが、OSによって鴎外のカモメの正字が出ないし、なんと読むのか、即時には分かりにくいというので、撤回します。 数年前まで K-Office を名のっておられた*先生が、水道橋・専大前の個人オフィスを「*研究室」と改名なさったので、わたくしメは「 オフィス *** 」を名乗らせていただくことにします。特定の数字 *** については、ウェブでなく個人的なおつきあいで、お知らせします。

2012年4月8日日曜日

立正大学 文学部 教授

 4月1日に辞令をいただき、上記のような身分となりました。どうぞよろしく。
 IT環境について変化はありますが、従来のメールアドレス( @nifty および @l.u-tokyo )を使用していますので、3月までと同様にお願いします。また、ris.ac.jp の kondo というのも使えます。
 3月30日にガイダンスのガイダンスというのを受け、4月1日からは本日まで一日も休まず精勤しております(すでに授業は4コマ済ませました)。

 今夕、ある老先生から東大西洋史の大事な行事に遅刻してはいけませんと叱られましたが、何をおっしゃる、本務校優先ですよ。5:40 pmまで立正大学の院生ガイダンスとTA手続きをしていて、本郷のファカルティ・クラブに駆けつけたのが 6:30 pm(しかも澤田先生をアシストしながら)なのですから、むしろ誉めていただきたいところです。
 それにしても、こちらは若い人がたくさん集ってよかったね。

2012年4月3日火曜日

鴎庵の設営

(承前)
 移転先のオフィスは、西窓ならぬ南の水面を見おろし、潮の干満も、水に映る季節感も直接感じることのできるところです。カモメや鵜なども見るので「鴎庵」かな。海面をはるかに望むのでなく、まぢかに臨むので、鴎外の「望潮楼」は、ちょっと当たらない。
 60平米あまりということで楽観していたら、じつは西窓亭(27平米)にはなかった風呂・手洗い・台所には本や書類は置けないわけだし、天井もやや低い。
 白木の書棚をあつらえて、床の見える、余裕のある知的空間としたい、という願望は、そう容易に実現するものではない、と気付くまで、しばらくかかりました。
 まず29日夕、引越業者が帰ったあとはこんな具合:

 31日(土)には、荒天にもめげず5人の若者が結集して、かなり段取りよく開箱・排架作業をしてくれました。書斎作りは人任せにできないというのは自明の理として、それにしても大きなアウトラインは機動的にやってもらったほうが、はかどる。意味ある細部は、これから時間をかけてたっぷり詰めます。
 壁の書棚は高さ25cm×奥行き20cmで統一しましたが、可動スチール書架の組み合わせで、合理的・機能的な空間とします。
 鴎外先生が机を二つ用意して、それを仕事によって替えた、といったことを聞いて/読んで、羨ましいと思ったのは何十年前。これからのぼくは、そうしたいものです。