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2020年3月2日月曜日

「東アジアとイタリア」から来る人


新型コロナ感染症をどう制御するか/できるか、という観点から、よくわかる説明をしてくれているのが、大阪大学の専門家お二人で、もしまだなら是非、お読みください。自分が感染するかどうかより、もっと大きな目で警戒すべきことがある。ということはパンデミックにさえならなければ、身の回りに1人や2人の患者が出てもパニクる必要はない、冷静に構えるべし、ということでもありますね。
https://gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/14/091100031/022600659/

当方もいろいろ情報を集めたり、研究会予定について考えたりしているうちに、ケインブリッジのクレアホール学寮から、こんなメールが到来しました。

The rapid spread of coronavirus into Europe as well as East Asia raises questions about policy on offering apartments and guestrooms to Visiting Fellows or Life Members who come from infected areas. We will for the time being, not offer accommodation to Visiting Fellows or Life Members who come from high risk areas (as defined by Public Health England, Categories 1 and 2[1]).
(つまりぼくたち日本から来訪するメンバーは中韓伊からの方たちと同じで、学寮宿泊を当面は謝絶いたします、という通知です。)
(ちょっと微妙なこの方針について若干の正当性(理屈)は必要と考えるんでしょう。このように言います。↓)
In part this is to protect the college from a possible source of infection, but equally it is to protect the visitor from the problems which they would face in the event that they had to be quarantined within college.
We have therefore instituted a practice of asking those who wish to book guestrooms whether they are travelling from an infected area, and if they are, to refuse the booking with apologies.

で、その英国政府の定めたカテゴリー1と2なるぺージを見ますと、↓こんな具合。
https://www.gov.uk/government/publications/covid-19-specified-countries-and-areas/covid-19-specified-countries-and-areas-with-implications-for-returning-travellers-or-visitors-arriving-in-the-uk

2018年10月14日日曜日

『近世ヨーロッパ』

土曜日に山川出版社の山岸さんに『近世ヨーロッパ』の再校ゲラ戻し、図版初校戻しを渡して、この世界史リブレットについて基本的にぼくの仕事はほとんど片付きました。今の時点の奥付には11月20日刊行*とあります。【*念校にてこれは、11月30日刊行、となりました。 → 実際の製品、カバー写真については こちら。】

専門書ではないので、想定読者は高卒~大学に入学したばかりの一般学生から専門外の先生方です。ですから、序の「近世ヨーロッパという問題」は、高校世界史の筋書、またテレビ番組の語りから説きおこし、「中世と近代の合間に埋没していた16~18世紀という時代が問題なのだ」と提起します。「1500年前後の貧しく貪欲なヨーロッパ人は荒波を越えて大航海に乗り出したのだ」がその理由は、何だったのか。「アジアとヨーロッパの関係は1800年までに(本書が対象とする期間に)大変貌をとげた」、どのように? なぜ?

想い起こすに、2000年前後の二宮さんは個人的な場で、当時勢いのあったアジア中心史観に不満を洩らし、「いろいろ言っても結局、ヨーロッパ人がアジアに出かけたので、アジア人がヨーロッパに来たのではない」と呟かれました。社会史・文化史・「‥‥的転回」の旗手も、やはり戦後史学(あるいはフランス人のヨーロッパ史)の軛(くびき)というか轍(わだち)というか、大きな枠組のなかで考えておられた。ぼくの二宮さんにたいする違和感の始まりは、1) フランス人的なドイツ的・イギリス的なものへの(軽い)偏見でしたが、続いて、2) 日本もアジアも遅れているという「感覚」でした。

『近世ヨーロッパ』は、こうした二宮史学(が前提にしていたもの)を十分に評価した上での批判、そしてフランス史(およびフランス中心主義)の再評価と相対化の試みです。
もう二つ加えるとすれば、α.ピュアな人々(ピューリタン、原理主義者、革命家)の相対化、中道(via media)と jus politicum を説いた「ポリティーク派」、徳と国家理性を論じた人文主義者たちの再評価ですし、またβ.じつは近世史の戦争と迷走の結果的な知恵としてとなえられる、議会政治の再評価、です。

だからこそ、ヨーロッパ近世史の転換期(含みのある変化のあった)17世紀を危機=岐路として描きました。よく言われる「30年戦争」「ウェストファリア条約」もそうですが、さらに決定的なのは、1685年のナント王令廃止 → ユグノー・ディアスポラ → 九年戦争 → 名誉革命(戦争)という経過ではないでしょうか? これはオランダ・フランス・イングランドの間の競合と同盟にもかかわり、p.56~p.68まで使って、本文は全88ぺージですので、かなり力を入れて書いています。
「イギリスは‥‥世紀転換期の産業革命に一人勝ちすることになる」(p.86)とか、「近代の西欧人は、もはや遠慮がちにアジア経済の隙間でうごめくのでなく、政治・経済・軍事・文明における世界の覇者としてふるまう。その先頭にはイギリス人が立っていた」(p.88)といった締めのセンテンスに説得力をもたせるには、17世紀の経済危機ばかりでなく政治危機をもどのように対策し、教訓化し、合理化したのか。「絶対主義」的な特権システムなのか、議会主権的な公論・合意システムなのか。この点を明らかにしておく必要がありました。

たしかに20代のぼくが読んだら、これは驚くべき中道主義、議会主義史観で、唾棄すべし、とでも呟いたかもしれない。それはしかし、青く、なにも歴史を知らない、観念論(イデオロギー)で世界をとらえていた、ナイーヴな正義観の表明でしかなかったでしょう。We live and learn.

2016年12月18日日曜日

大阪歴史博物館


今月10-11日には大阪歴史博物館で都市史学会大会、17日には大阪大学中之島センターで関西中世史研究会と古谷科研の合同研究会。2つの週末に連続して(帯状疱疹の痣をさらしつつ)歴史的な大阪の空気を呼吸しました。

大阪はぼくの両親(松山と尾道)が1945年2月4日に結婚して住んだ所です。その3月に大阪大空襲で焼け出されて松山に戻りましたが、戦後1953年にふたたび大阪に出て働きました(戦後に住んだのは阪急沿線・桂の住宅で、こどものぼくには大阪市はよくわからない広大な都会でした)。
このたびの都市史学会大会は、大阪城と難波宮跡にはさまれた歴史博物館で、なぜかNHKと礫岩のようにくっついた建物にて。
古代から近代までの大坂・大阪史の問題の豊かさを具体的に示していただき、また合間に博物館の展示を拝見しました。閉会後の夕刻には難波宮のあとを歩いてみました。
古代からの歴史の長さという点でも、水運による瀬戸内海・東アジアとの接続という点でも、大坂は(江戸より)はるかロンドンに近い存在かなと考えました。
もし1868年に東京でなく大阪に遷都していたとしたら、ロンドンとの類似性はさらに増した、というより複雑になったかな。
午後のブルッゲ・ベルゲン・ヴェネチア・カイロ・アムステルダム・長崎における商人集団と多文化のありかたをめぐるシンポジウムでも、いろいろと示唆をいただき、なお考えを深めてゆきたいと思いました。
みなさま、ありがとうございます。

2015年8月7日金曜日

首相の有識者会議

 毎日 暑いですね。
 例年、その暑い8月には20世紀史の史料や史実が公開されて目を覚まされますが、この夏は、8月14日録音の「大東亜戦争終結に関する詔書」(玉音放送)の原盤発表にかかわり「御文庫付属室」の写真、そしてなにより安倍首相諮問の有識者会議「21世紀構想懇談会」の報告書が各新聞に載りました。この16名の「有識者」の選定にどういう力が働いたか存じませんが、北岡伸一さんのイニシアティヴは明らかで、9割方は現実的で穏当な委嘱だったと思われます。林健太郎も中曽根康弘も「侵略戦争」と認めているアジア・太平洋戦争ですが、なかには冴えない先生も交じっていて「国際法上定義が定まっていないなどの理由で「侵略」という語を用いることに異議が表された」とのことです。これがだれなのか、簡単に同定できますね。
 じつは靖国神社について論及していないのも不満ですが、とはいえ、まずは現首相に「読む気」になってもらわなくてはならず、そこは一種のレトリックとして、必要不可欠、絶対に踏まえるべきことを明記し訴えた、という位置づけでしょうか。

 ぼくの側では、もっと卑小なレヴェルでの発言ですが、『週刊読書人』7月24日号に〈上半期の収穫〉をしたためています。今年の3点は、
T.ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)、
J.ウァーモルド【どうしてワーモルドじゃないの?】『ブリテン諸島の歴史 17世紀 1603-1688』(慶応義塾大学出版会:Langford 監修の SOHBIの翻訳)、
そして
服部春彦『文化財の併合』(知泉書館)です。

2015年5月29日金曜日

Christopher Bayly (1945-2015)

By Paul Lay < History Today, posted 13th May 2015

Paul Lay offers a few words on the eminent historian, who died in April.

The sudden, unexpected death last month of the distinguished historian Christopher Bayly, one of the pioneers of global history and a remarkable scholar of India in particular, came as a tremendous shock to those many who knew him, indeed anyone who had admired and absorbed his innovative, brilliant works.

2013年5月13日月曜日

小シンポジウム3 & 林志弦


¶ 昨12日(日)は五月晴れで、百周年時計台記念館の学会よりは北山・東山へと出かけてしまった方々も少なくなかったのではないでしょうか。

 ぼくはというと、午前中、A3で2枚×200部のレジュメ・複写に手間取りました。街中のコンビニは、コピーを数枚とるには便利至極ですが、うけつけるのは最大限99枚まで。お金も千円札1枚かぎり。したがってちょうど200部+自分用1部をコピーするためには、どんなに工夫しても、3回の設定、それを2度繰りかえす、という羽目に。途中で、トナー交換、用紙の補充。コンビニの不慣れな店員より、ぼくにやらせてくれたら、もっとすみやかにできるのに‥‥と思いながら待ちました。こういうことは大学で済ませなくちゃいけないんだな。

 というわけで、他のメンバーをやきもきさせながらも、昼食をかっ込んで、定刻に開始することはできました。お一人からの深夜のメールを無断部分引用しますと、
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「「礫岩」という共通のテーマが多面的に、かつ凝集力をもって報告され、問題提起も
含めて5本の報告が、惑星系のようにそれぞれ響き合っていましたが、この種のシンポジウムとしては希有なことではないでしょうか。」
「‥‥私が刺激を受けたのは、「礫岩(状態)」が静態的なものではなく、政治的主体間の多様な「交渉の結果として」「可塑的」に成立しながら、一つの秩序をなしている、という論点でした。それぞれの事例研究は、その様態を非常に説得的に提示していたと思います。」
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 ありがとうございます。当然ながら、登壇した者だけでなく、科研メンバー全員、そして他の研究会と合同でやりとりを繰りかえした成果であり、皆さんとの共鳴関係のお陰だと思います。

 フランス史、ドイツ史の方々との討論も、これからの課題となるでしょう。それより前に、東欧も北欧もイベリア半島もブリテン諸島も、「ヨーロッパ周縁世界」として位置づけられ、かつそこに注目することがヨーロッパ(近世)の本質を見やすくする、ということが本科研グループの呈示する vantage point として、会衆のみなさんにアピールできたかと思います。

 ひとまず3年間の共同研究としては成功したと見てよいのではないでしょうか。ここまでの中間報告として共著の公刊、さらなる新研究への発展、‥‥と楽しいアイディアが次々に湧いてきます。

¶ それから、11日の林志弦(Lim JieHyun)の講演は盛り沢山でおもしろかった。彼の有能さと自負も感得されました。

 なお、ぼくが『現代の世界史』および『世界の歴史』(世界史A)の共編著者だとは、ご認識がなかったようで、山川出版社の担当編集者とともに挨拶しておきました。

2012年12月21日金曜日

桜井由躬雄さん


 今夕、本郷の集まりに参加して、飛びこんできたのは桜井さんが急死なさった報。驚きました。つい11月1日(木)には、「文化交流研究懇談会」で並んですわっていたのですから。「一時調子悪かったんだが、いや今は元気だ、飛び回っている」とのこと。全然変わらない、という印象を受けたばかりだったので。

 由躬雄さんの記憶の最初は、1968-9年のある夜です。こちらは法文2号館1階、西洋史の研究室に寝泊まりしていたのだが、廊下の向こうの東洋史からずいぶん距離があるのに一人の声が大きくて、いつまでもうるさい、眠れない。翌日聞くと、院生(人文闘争委)の桜井という人の声だというので、認識しました。昼間も声が大きかった。西洋史では岡本さんと同学年でしょうか。いやその一つ上か。白にオレンジのテープを貼ったヘルメットをかぶっておられました。
 ぼくは3学年下で、学部の3年生でした。

 ずうっと後になって、桜井さんが京都の東南アジア研究センターで活躍しておられると耳にしました。さらに後になって東大文学部の助教授に迎えられましたが、ある夜、図書館の脇でたいへんな美女と腕を組んで歩いておられるのを目撃してしまったときは、困りました。しかも悪びれることなく、近づいてこられて「女房です」とおっしゃったので、驚愕しました(ご免なさい)。

 そのころ丸ノ内線の電車内で、ぼくは遅塚さんと一緒にいたのだが、桜井さんが近づいてきて、「先生とぼくの名前、躬の字が同じです」と。遅塚さんも上機嫌で「そうですなぁ」と、楽しそうな話が始まった。ひとと知り合うきっかけを作るのがお上手だと思いました。

 さらにいろんなことがありましたが、それは全部飛ばして‥‥、何年もたった春の夜、赤門脇・経済学部棟の一番上の階に確保なさった広い桜井「主任教授室」で、岸本さん、石井さん、吉澤さんと一緒に「東大最後の夜」を遅くまで過ごしました。結局、その夜は、みんな帰りの電車は無くなって、徒歩で帰れる方々はいいけれど、遠い人は本郷の各部屋に泊まったり、ぼくの場合は大枚をはたいてタクシーで帰宅しましたね。
 すでに5年半前の3月末でしたか。なんと速く時はすぎるのか!

 ご冥福を祈ります。

2012年8月28日火曜日

出典は『資本論』だけ?


 『イギリス史10講』の企画会議の最初は1997年夏でしたから、この銘品はすでに15年物。陰の伏線として古代から20世紀までのワイン(クラレット)の筋が要所要所で顔を出しますが、それにしても、この本はすごい銘酒か、開けてみたら(いじくり返しているうちに)酸化して酸っぱいだけの古酒か。

 通史・概説ではない。しかし通史的に大事なことはきちんと記し、しかもストーリと構造を印象的に、具体的なイメージが浮かぶような読み物としたい。どうしても長くなる。だが分量は限られている‥‥ということで、なかなかの力業<ちからわざ>となります。
 そうしたなかで、今日は、3行も(!)減らせる結果になった1論点のてんまつを。

 イギリス産業革命の結果、インドの綿業が壊滅する、そのことの世界資本主義システム的な意味みたいなことは、当然述べるつもりで、すでに『文明の表象 英国』p.154 や『近現代ヨーロッパ史』p.47 にも書いたことを数行くりかえしていました。

「‥‥こうして一八三四~五年、イギリス議会でインド総督は「[インドの織布工の]窮状は歴史的に比類のないものであり、木綿織布工の骸骨がインドの平原を真っ白にしております」と証言するほどの情況となった。」*(漢数字なのはタテ書きなので)
 これがしかし、読み返していてどうも落ち着かないのです。

 マルクス『資本論』ディーツ版、第一巻 S.454 からの引用(つまり孫引き)のままじゃおもしろくないし、せっかくアヘン戦争では『ハンサード』のグラッドストン演説を引用したんだから、インドでも同じ程度の敬意を表したい、というので『ハンサード』を検索してすでに長いのですが、なぜかヒットしないのですよ。

 そもそもマルクスは比較的多く固有名詞を出す人なのに、なぜここで「インド総督」といって時のベンティンク卿という氏名を出さなかったのだろう。それから、『資本論』における議会文書からの引用は英語のままがかなり多いのに(必ずというわけではない)、なぜかこの部分の原文はドイツ語です。. . . bleichen die Ebenen von Indien.

 なにかありそう。

 もしや1834-5年というのは書き違いかもしれない(したがってベンティンクに限定せずに検索した方が賢明)。で、驚くべきことを知りました!(聡明なる読者には、すでに周知のことだったでしょうか?)
 インタネットに載っている日本語の引用文は、*の異版で、すべて『資本論』か(そうと知らずに)受験界で出回っているそのコピー。恥ずかしくなるほど、例外無し。

 英語の場合は、引用例が減るけれども、でも結局は『資本論』の英訳から。

 The misery hardly finds a parallel in the history of commerce.
 The bones of the cotton-weavers are bleaching the plains of India.

しかし、Clingingsmith & Williamson の共著論文 (2005)に遭遇。このPDFにいくつかの異版があるというのも、おかしいが、そのp.13, n.12 には、なんとマルクスの典拠は疑わしい/存在しない、とある。これから芋づる式にいくつかウェブ上の文献をたどるうちに、ぼく自身が35年も前に購入して所有していた Sandberg, Lancashire in decline (1974), p.166 もあった。すべての本の背表紙が見えるようになったわが仕事場にて、瞬時に探し出してみると、そこにすでに Morris の先行研究に言及しつつ、a perplexing feature of this [Marx's] quotation を指摘しているではないか!

 ぼくの目は節穴だったのか。

 今のところ、どの文献もハンサードや Parliamentary Papers を悉皆調査したとは述べてない(まだディジタル検索の時代ではなかったから)。それにしても、原著者のパトスと思い込みの名文を、そのパトスに参っちゃった後続の人びとが、何世代にもわたって無批判に再生産しつづけて、その回数だけで「古典的」になっちゃった例、と判断してよさそうです。

 E・P・トムスンの moral oeconomy についても、同類の現象ですよ。
 結局、疑わしきは用いず。かくして、かなりの日時を費やして、岩波新書では上の文は削除し、3行ほど減らすことができました‥‥というご報告です、大山さん。

 以上はしかし、学術性のある論点なので、いずれ秋に時間ができたら、一つ一つ確定しつつ、研究ノートにでもしましょう。

2011年4月12日火曜日

次高さんのこと

 あの佐藤次高さんが亡くなるとは、にわかに信じられない事実です。一晩あけると、いろいろな場面が想い出されます。
 ぼくが東大文学部に赴任した1988年には「助教授の会」というのがあって、佐藤次高、樺山紘一、青柳正規、藤本強といった大物たちがまだ助教授で、若々しくのさばっておられた。この方たちは教授になってからも、しばらくは「助教授の会」を牛耳っておられた。正確に言うと、彼らが「助教授の会」のメンバーでなくなると、この会そのものが無くなったのです。大学院重点化とともに多くのことが転変しました。

 佐藤という名は東大に多いので、「次高さん」と呼ばれていました。その次高さんには、大学の外でも、『現代の世界史』いらい高校教科書や各種の委員会で親しくお付き合いいただきました。右にしめす(著作権の関係でごく一部しかご覧にいれませんが)文章は、山川出版社の世界史教科書の販促パンフレットで、表紙の次、最初(p.2)に佐藤さん、その次(p.3)にぼくという担当でしたためたものです。ぼくは世界史教科書とか教育といったことを書きましたが、佐藤さんの場合は、むしろ日本におけるイスラーム研究の主導者のお一人としての自覚が正面に出た文章となっています。
 そうした編集委員会では、1991年、ぼくが『思想』にしたためた「世界史の教科書を書く」という短文について、「悲鳴をあげるより前に[本文の]原稿を‥‥」と戒められたり、ごく最近でも、ぼくが教科書の新稿で〈‥‥だった。〉〈‥‥だが、〉という文体で書いている数カ所をみて「やはりこれは教科書ですから、〈‥‥であった。〉〈‥‥であるが、〉にしませんか」というようにやんわりと、しかし妥協の余地なく方針をお示しになったり。
 穏やかだが、しかし原則をまげない人;そして原稿は(冗談まじりの言い抜けかもしれないことを口になさりながらも、たいていは)期日通りにできあがってくる;夕食の座談はもっぱら佐藤さんの逸話を中心にめぐる、というわけで、出版社の覚えは最高によかったのではないでしょうか。学問的な実力に裏づけられた、余裕の人でした。

 ぼく個人としては、それより先に、大きなご恩にあづかりました。1989年秋、Martin Daunton との出会いをアレンジしてくださったのが佐藤さんだったのです。
 Urbanism in Islam という、初めて聞いたときは、なんだかよく分からん企画だなと思わせる国家的プロジェクトで、板垣雄三さんや佐藤次高さんが中心になって、80年代から多数のイスラム研究者を招聘していました。
 そのなかに紛れて、イスラームなんか全然関心のない、しかしイギリス都市史の有望らしい研究者として「ダーントン」とかいうロンドン大学の若手教授が来ているんです、近藤さん お相手してくださる? というお声掛かりで、三鷹のホテルに行き、シンポジウムそのものはお呼びでなかったのですが、夕食は佐藤さんの基金で、しかし Martin とぼくの二人で会食したのが最初です。
 いやぁ、楽しかった。Martin はまだ30代の終わりで、初対面なのに、Jim Dyos や Asa Briggs や Theo Barker や Derek Fraser そして Vic Gatrell といった都市社会史の人びとのことで盛り上がりました。そのころはまだ日英歴史家会議(AJC)の生まれる気配さえなかったのですが、次にイギリスで長期滞在するなら、彼のいる UCL だな、と思いました。
→ これは両方とも1994年に実現することになります。

 次高さんに話は戻りますが、日本のイスラーム研究と東洋史をたばね、山川出版社、講談社、岩波書店、等々の多くの歴史書出版を表裏で学術的に支えてきた佐藤さんがいなくなって、これからどうなるのでしょう。
 それから、ウイグル自治区からの留学生トフティ君の問題は、結局、佐藤さんの元気なあいだには解決しなかったわけで、中国政府への憤りも増します。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~toyoshi/tohti.html

佐藤次高さん ご葬儀

昨夕、佐藤次高さんが亡くなりました。68歳でした。


通夜・葬儀告別式は次のとおり執り行われます。

   通 夜    4月14日(木) 午後6時より
   葬儀・告別式 4月15日(金) 午前11時より
   場 所    芝 増上寺(港区芝公園4-7-35)

謹んでお知らせいたします。