ラベル 立正大学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 立正大学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年4月16日金曜日

立正大学のR

 水曜には大崎の立正大学まで授業に行って参りました。教室で授業をするのはじつに2020年1月から15ヵ月ぶり! 大学事務に顔を出すのは、20年3月の年度末処理以来でした。 学生もそれなりに居ますが、しかし Covid前に比べると、やはり空いています。
 峰原坂の正門から入ると変化に気付きませんが、6号館食堂・図書館の脇から山手通りの通用口へ下ると、2019年以来の大工事がすべて完了して、きれいになっています! 11号館と新13号館を合体させて一つの建物であるかのように見せているのですね。

 左隣は大崎警察署。あいにくの天気でしたが、違和感のない連続性が示されています。
大学のロゴもいつのまにか「緑のR」から「青のRデザイン」に替わりました(校舎の左壁、そして1階の中ほど)!

2020年5月4日月曜日

石川憲法学


(承前)さて、その『朝日新聞デジタル』のインタヴューで石川健治さんは、客観的緊急事態(ぼくの言葉で言い換えると constitutional emergency)と主観的緊急事態(dictatorial emergency)を対比して論じています。ただし彼は、ローマの dictator については何故か(朝日の編集が介入した?)触れていません。共和制ローマ、革命フランスから登場する「独裁」あるいは「ジャコバン主義」は、ただの歴史的なエピソードではなく、自由民主主義の非常事態における緊急避難的な措置の正当性/不当性という問題です。憲法学者も、歴史学者も真剣に考えなくてはならぬ、主権と民主主義、非常事態[革命的な情況]と執行権力、危機と学問といったイシューではないでしょうか。
【日本語では非常事態緊急事態が区別されているようにも聞こえますが、英語ではどちらも (state of) emergency で、通常ではない=extraordinary な情況です。私権やふだんの生活習慣が制限されてもしかたない「非常な」事態です。ローマ共和制でも respublica の存亡の危機には dictator (独裁官/執権) を「6ヶ月に限って」任命しました。「危機」はありうる。コロナ禍の後始末もできないうちに大地震・大津波が襲来することだってありうる。そうしたときに、強力なリーダーシップを発揮できる民主的制度を構築することは重要だと思います。】

 石川さんの書くものは
「八月革命・70年後」『「国家と法」の主要問題』(日本評論社、2018)をみても、また
尾高朝雄国民主権と天皇制』(講談社学術文庫、2019)の巻末解説(長い評注)をみても、
知的迫力があって、ドキドキします。仮に「‥‥の証拠が出てきてくれると「丸山眞男創作説」を打破できて大いに面白かったのだが、残念ながら‥‥」といったサスペンスも込められた文章を書く人です。東大法学部の憲法学の教授なのに!
それが浮ついた文にならない一つの根拠として、東大駒場の尾高朝雄文庫;国立ソウル大学校中央図書館古文献資料室(!);立教大学宮沢俊義文庫;早稲田大学のシュッツ・アルヒーフ;京都大学のハチェック文庫といった学者の蔵書・アルヒーフの踏査研究(evidence!)がある。20世紀の前半、戦間期に蓄積された知的資産をきちんと受け継ぐという「学問の王道」の観点からも、石川さんの言動はしっかり注目しておきたい。
 先の『朝日新聞』のインタヴューの場合は(記者の自粛のため?/理解をこえたため?)ちょっと知的迫力が足りないのは残念ですが。
おかげで、勉強することは次から次へ現れて、「自粛疲れ」なぞするヒマがありません! 

2018年7月7日土曜日

さよならの挨拶

 例年より早い梅雨明け、ということでしたが、天の配剤か、記録的な豪雨が長く西日本を襲っています。どうぞ慎重にご行動ください。七夕です。

 そうした鬱陶しいなかに、『立正史学』123号が到着。奥付には2018年3月とありますが、それはタテマエで、本当はこの7月です。
 日本史とともに、西洋史関係では、北原敦さん、大西克典さん、近藤遼平さんとイタリア史がならび、ぼくの「さよならの挨拶:イギリス人とフランス人」が掉尾に位置する、計250ぺージあまりの充実した巻。
 刊行が遅れた責任の一半はぼくにあります。「さよならの挨拶」は3月31日の会のお話をもとに改稿したもので、それだけ皆様をお待たせしてしまいました。典拠の辞書を引き直し、読み直して論理をしっかりさせたのと、もう一つはなんと、プルーストの失われた英訳初版を求めて、東大の書庫を探し回ったからです。
 当日ご出席の皆様には、抜刷が出来てからお送りしますので、まだしばらくお待ちください。

2018年2月26日月曜日

教師 冥利

 寒い夕に3年生ゼミの惜別会がイタリアン食堂で催されました。
両手に余る贈り物をいただいてしまいましたが、なによりも「先生のもとで卒業論文を書きたかった!」という言、そして ← こんな肖像イラストには驚き、嬉しく、感極まりました。みなさん、ありがとう!

2017年2月13日月曜日

しながわネットTV

品川区公式チャンネル 「しながわネットTV」というサイトに、すでに今月初めから搭載されて、インターネット配信されているとのことです。
こちらからアクセスしてください ↓ ↓
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000030400/hpg000030327.htm
近藤和彦:「インテリ王子ハムレット」と「学者王ジェイムズ」

これと同じコンテンツが youtube でも見られるということです。
前半 → (56分)

後半 → (42分)


なお、近藤の顔と声を見聞きしたくない方には、文章化したテクストだけを読めるようになっています。PDFで前半9ページ、後半7ページ。ダウンロードもできるはずですが、ただし、こちらには写真など図像は載っていません。

前編 pdf
後編 pdf

前から申しておりますとおり、これを学問的に再構成して根拠も明記した論文としては
「『悲劇のような史劇ハムレットを読む」を『文学部論叢』のために書きましたので、こちらをご覧ください(3・4月に公刊)。

2017年1月30日月曜日

公開講座の動画

ご無沙汰しています。

1月は大学関係者にとって1年で一番忙しい月ではないでしょうか? こちらも卒業論文提出にとなう面談や応急措置、その卒論審査・口頭試問、修士論文(2本)の審査、博士論文(1本)の審査、その他の業務の間を縫って、原稿「文明を語る歴史学」を『七隈史学』に送り、原稿「『悲劇のような史劇ハムレット』を読む」を『立正大学・文学部論叢』に提出しました。この土日には京都大学で竹澤先生の「複合国家論の可能性」という思想史のシンポジウムがあり、濃密な「対話」に参加いたしました。

そんなこんなで、いつ登載されたのか知りませんでしたが、品川区のサイトに、10月12日の公開講義の動画が見られるようになっています。前後50分あまり×2 の講演とスクリーンの画像がたっぷり。ちょっと長いかもしれません。
http://www.shina-tv.jp/pickup/index.html?id=983
http://www.shina-tv.jp/pickupindex/index.html?cid=95

論文「『悲劇のような史劇ハムレット』を読む」は、この講演をもとに、EEBO からカール・シュミットから最近の出版まで含めて、まとめて勉強した成果でもあります。3月末~4月初に刊行予定です。

2016年12月31日土曜日

シェイクスピアの歴史意識

 10月に立正大学でやりました公開講演の要録がパンフレットになりました。表紙を写真でご覧に入れますが、しゃれたデザインです。立正大学、品川区のどちらからこんなアイデアが湧いてきたのでしょう?
 ぼくは例のとおり、悲劇のような史劇として「長い16世紀」のなかに『ハムレット』を読み解きます。
いろいろ読み直してみると、なんとヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』(最初は1961)や、カール・シュミット『ハムレットあるいはヘクバ』(1956)といった先学の直観の後塵を拝した議論に過ぎないのかもしれません。彼らがポーランド人、ドイツ人といった具合に英語国民でないうえに、政治的・精神的な緊張のただなかで発言していたという事実は、重要でしょう。20世紀英・米そして日のインテリがぬるま湯のなかで、『ハムレット』はノンセンス劇だ、実存的危機がテーマだなどとのたまって収まっていたのが、可笑しくなる。

2016年10月14日金曜日

悲劇的な史劇 or 悲劇の形をとった史劇


【承前】 そもそも『ハムレット』の正規の題は The tragical history of Hamlet, Prince of Denmark です。高貴のプリンスは、ルターのヴィッテンベルク大学をちゃんと卒業したのか留年中なのか、むしろNIETなのか、よくわからない状態で実家のエルシノール城に戻ったのです。
あたかも実存哲学的な科白と筋を展開しつつ、1600年前後の〈諸国家システム〉における王位継承のあやうさと王殺し、母子の関係のアクチュアリティを埋め込むことによって、『ハムレット』は多義的で近世的な作品として呈示されています。おそらくシェイクスピアは相当の自負心をもって、ロンドンの観衆・聴衆・読者にむけて、ヨーロッパ事情と寓意に満ちた作品を見せつけました。それは「悲劇の物語(history)」でもあり、「悲劇の形をとった史劇(history)」でもあり、歴史的な悲劇でもある。

複合君主政のイギリスはステュアート家による代替わり(1603)の直前直後でした。しかもジェイムズの母は「淫乱のメアリ」! 父(夫)殺しに積極的に関与していました。 ロンドンの観衆は、複合君主政(しかも選挙王制)の「デンマーク・ノルウェイ王国」における王位継承の悲劇を人ごとでなく受けとめたでしょう。「淫乱の母」とその一人王子も含めてハムレット家は劇の終わるまでに全滅し、その宰相ポローニアス家も死に絶える。いったい王位はどうなるのか。
ハムレット王子が息絶える前の最後の言葉は、1) 学友ホレイショにむけて、見たこと my story をしっかり伝えてくれ、2) election があればノルウェイ王子フォーティンブラスが勝つだろう、he has my dying voice、と言って死ぬのです。父王フォーティンブラスと父王ハムレットのあいだの古き意趣がここで想起され、1524/36年~1660年のあいだ、選挙王制をとる「デンマーク・ノルウェイ」の複合君主政がここで機能し始めます。
劇末にてフォーティンブラスが盛大に葬式を執り行うのは、王位継承を受けての喜びの、公的行事なのでした。

そもそも父ハムレットが死んでその一人王子ハムレットが王位を継承しなかったのは、臣民の賛同が得られないから[人望がないから]、ということが含意されています。(まだ学生だから、ではありません。事実、メアリはほとんど生後まもなく1542年に、ジェイムズは1歳に満たずして1567年に王位を継承したのですから。)

12日夕の公開講演は、この間、ケインブリッジのワークショップから、福岡大学の七隈史学会も、映画論も含めて、スキッツォ的に拡散しがちなわが関心事が、近世的・礫岩的に連結した瞬間でした! いらしてくださった皆さん、ありがとう。 いらっしゃらなかった皆さん、いずれ録画配信、あるいは書き物で。

2016年10月13日木曜日

『ハムレット』


ご無沙汰しました。学期の始まりと、「東奔西走」とまでは言わないが、いろいろなことが続き、blogに書き込む気になれない、という日夜でした。

昨12日夕には、立正大学の公開講座(品川区共催)で、没後400年 シェイクスピアを視る という企画の一環(第3回)として、
「インテリ王子ハムレット」と「学者王ジェイムズ」
という話をしました(品川区から録画チームが来て無事収録できたようですから、いずれインターネット公開されることになると思われます)。

ロンドンからデンマーク、この間いろいろと撮りためた写真も使いながら、 -当然ながら、ズント海峡、エルシノールのクロンボー城、地の神の像の写真も見ていただきました- 文学研究の作品論とは異なる観点から『ハムレット』を見直し、1600年前後のロンドンの観衆・聴衆・読者がどう受けとめただろうか、論じてみました。一般むけで楽しく、しかしやや論争的なお話としました。
『デンマーク王子ハムレットの悲劇の物語』(1599から上演、刊本は1603~23に数版でます)が、じつに「礫岩のようなヨーロッパ」を地でゆく悲劇的史劇であることを最近に「再発見」したぼくの、エキサイトしたお話でした。
『ハムレット』を翻訳で読んだのは高校生のとき、さらに高校の図書館で研究社の対訳叢書(市河三喜監修)を見つけて、対訳註釈の付いた版で英語を読むよろこびを知りました。
To be or not to be: that is the question. から始まる一種実存哲学的な雰囲気と、言葉、言葉、言葉‥‥の溢れる警句的、寓話的な近世の宇宙を(今おもえば)このとき垣間見たのですね。16・7歳の少年が同年配の乙女にたいしてもつ、不安定な感覚もあいまって Frailty, thy name is woman. とか;時代にたいするカッコをつけたスタンスとして The time is out of joint. とか暗唱して悦に入っていたものです。もっとも
There are more things in heaven and earth, Horatio, than are dreamt of in your philosophy. というのは気取っているが、しかし青い高校生にとっては心底は理解できないままの科白でした。
‥‥のちのち大学院教師となって、ほとんど常識のつもりで『ハムレット』の科白を(日本語で)言ってみても、まるで反応のない院生が過半だと知ったときほどの驚愕(宇宙を共有していない!?)は、ありませんでしたね。それ以後またしばらく経って、『イギリス史10講』でシェイクスピアを引用するときにも、ちょっとだけ考えこみましたよ。結論は、「妥協しない」。著者として現実的に貫きたいことは貫く、というわけで、『イギリス史10講』には、(巻末索引に 37, 111 ページが採られているだけでなく)シェイクスピアに限らず、高校生にも読める英語のセンテンスが重要な論理展開の場面で、いくつか訳なしで書き込まれているわけです。

ところで、そうした「引用文に満ち溢れた」『ハムレット』という作品ですが、なぜかデンマーク宮廷にイングランドだけじゃなく、ノルウェイだかの使節や軍人が出入りしている;ドイツ留学やフランス留学が前提されているのは国際性の現れとしていいかもしれないが、劇の結末は、ノルウェイ王子が登場して、これから立派な葬式を執り行なおう、と宣言して終わる。‥‥これは、いかにも取って付けたというか、変なエンディング、という印象でした。しかし、高校生には手に余る問題で、以来、思考停止していました。

ローレンス・オリヴィエ監督・主演の『ハムレット』が、ぼくの受容原型で、それ以外は余分な粉飾(!?)のような気さえしていました。
こうした50年前(!)から棚上げしていたぼくの疑問と思考停止は、礫岩のようなヨーロッパ、複合君主政という視点をとることによって、眼からウロコが落ちるように氷解するのです! to be continued.

2016年9月14日水曜日

ヒトゴロシにもイロイロある


シェイクスピアの生まれはエリザベス1世の治政、1564年。ジェイムズ王への代替わり時には39歳で、創作力の頂点。亡くなるのは徳川家康と同じ1616年。ということは「真田丸」の同時代人でもあり、おもしろい話はたくさんあります。
立正大学文学部の公開講座ですが、ご案内申しあげます。
http://letters.ris.ac.jp/aboutus/koukaikouza/idkqs4000000293w.html
詳しくは↓
http://letters.ris.ac.jp/aboutus/koukaikouza/idkqs4000000293w-att/28kokaikoza.pdf
申し込み期日は厳密に考える必要があるのかどうか? むしろ数百人の湛山講堂が満杯であふれるといった事態を避けるためでしょう。

2016年7月12日火曜日

立正大学のPR

 昨夕、山手線の電車に乗り込んで、自然とドアの上方に目がゆき、びっくり。わが目を疑いました。立正大学の広告があるではないですか!

これまで地下鉄でもJRでも、新聞でも、他大学の(かならずしもよいとは限らない)広告を見るたびに、なぜわが立正大学はこういったPRに消極的なのだろう、と不思議に思っていました。東急・池上線の電車には車内広告があるらしいですが、あまりにもローカル。ぼく自身はまだ見たことがありません。

立正大学は今から30年ほど(?)前に経営的な失敗に遭遇してからは、アツモノに懲りて、「石橋をたたいて渡らない」経営方針で来ました。今では毎年発表される私学の財政収支の番付で、ベストテンどころかベスト3くらいにいつも着けているほどの黒字なのに、それを有効に使わないでいたのです。「カネの使い方を知らないコガネ持ち」。1968年まで学長をつとめた石橋湛山(1884-1973)に顔向けできない大学経営陣でした。
なにしろ日本で一番古いかもしれない高等教育機関(日蓮宗・飯高檀林、1580年)で、しかも立地は抜群。JR「大崎」駅には、山手線だけでなく、湘南新宿ラインが走り、隣の「品川」乗り換えで、東海道新幹線および総武線快速、上野東京ラインにも便利、ということで、神奈川県、埼玉県、千葉県からのアクセスは抜群によいのです。静岡県、茨城県、群馬県から毎日通学している学生も少なくありません! 山手線沿線の私学というだけなら、いくつもありますが、立正ほどにアクセスのよい大学は他にあるでしょうか? これに都営浅草線の「五反田」、池上線の「大崎広小路」も加えてみると、徒歩数分の駅が3つあって、これは他もうらやむ「資源」です。
さらに去年から、付属中高の移転にともない、品川キャンパスが広く、きれいになりました。山手通りも歩道がたいへん広く歩きやすくなっています(自転車道が独立)。
これらが生かされることなく「知る人ぞ知る」で経過していたのです。

今年4月から新学長・齊藤昇さん(英米文学)に替わって、なにか変わるかな、と思っていたら、
1) だれもが知る看板教授をゲット:吉川洋さんを経済学部に、冨山太佳夫さんを文学部に迎えました。従来から心理学、社会学、有職故実で活躍なさっている方々は、いつもどおり、テレビ画面にご登場です。
2) 研究支援課を改組して「研究支援・地域連携課」とし、品川区とのコラボが増えました。ぼくの場合も、去年のある市民講座は条件が合わず辞退しましたが、今年秋のシェイクスピア公開講座には講師をつとめます。「<学者王ジェイムズ>と<インテリ王子ハムレット>」は10月12日(水)です。よろしく!
3) こうしたことの一環として、山手線の電車広告があったわけですね。内向きからの脱皮です。
とはいえ次の戦術がほしい! 中長期的には、なにより若手教員を大切に育てることかな。

ところで、立正大学と創価学会(創価大学)、そして立正佼成会とは、無関係です。非公式の交流さえないようです。ときに誤解もありますので、念のため。

2016年1月23日土曜日

樺山弘盛さん(アメリカ文学)

 訃報が立正大学の事務長から参りました。
 樺山さんは闘病が長く、心配しておりましたが、今日22日に亡くなったとのことです。ご家族も悲しみにくれておられることでしょう。

 4年前に立正大学文学部に赴任したところ、とても似た雰囲気のアメリカ文学の先生がいらっしゃるので、もしや、と伺ったら、そのとおり「有名な樺山先生」の遠いご親戚とのこと。鹿児島生まれで、体形もお顔も、にこやかな表情も、そっくり。学内の委員などでたいへん忙しくしておられて、気の毒なほどでした。
あまり学問的なお話をする機会もないまま、昨年度の夏に倒れられて、それ以来、病院生活が続きました。残念です。
 つつしんでお悼みを申しあげます。

2015年12月27日日曜日

卒業論文 指導

 この季節、12月の半ばを過ぎると東大ではさすがに学内校務はなくなって、論文審査と(もしあるなら)学外の公務を片づけ、期日を超過した原稿の執筆に入るといったパターンでした。「卒業論文指導」みたいなことは、在任中にやったことなかったような気がする‥‥。そもそも教師にとって学部生の指導は一番の業務ではなく、卒業論文のためにはTAがサブゼミを開いているのだから、こちらが余計な口出し手出しをする必要はなかった。また学生の立場からすると、むしろ積年の自分の読書と先輩の助言によって獲得したリサーチ力と執筆力を示す(自分は「アホやない」ことを証す)、というのが卒業論文であったし、今でもそうあり続けるのではないでしょうか。
 ところが、どうも私立大学の文学部では事情がちがうようで、教師がなにからなにまで教えこんで、手とり足とり指導するのが普通のようです。毎年度、たとえば
  段落は大事だよ、何故かわかるかな? 最初は1字下げるんだ。小学校の国語で習ったね。句読点もよく考えてつけよう。もし行末に来たら欄外にはみ出す約束、「ぶら下げ」ってんだ。よく見てご覧、ひとの論文は、章ごとに新しいページの頭から始まっているね。‥‥
  読んだ文献を使いながら議論に筋道をたてる。根拠を示すために、それぞれの箇所に註が必要だね。 1), 2), 3) って番号を上付に振ってゆくんだよ。好みで括弧なしでも (1), (2), (3) でもいい。脚註でも章末註でもいいよ。‥‥
  最後に参考文献表が必要不可欠。重要文献で、じつは読めなかったというものも挙げていい。ただし * とか # とか印をつけて区別するんだよ。
といったことを「卒論演習」の教室で言うだけでなく、個人面談でも(この子にこれで何度目だと思いながら)一人一人くりかえし「教える」というのは、じつに新鮮な経験です。そもそも『卒業論文作成の手引き』という5月に配布したパンフレット(計21ページ)に99%は書いてあることなのに! 大事なことは何度でも言う、根気が肝要、Teaching is learning という格言を再帰法的に実践しています。
 昨年の4年生ゼミは13名で個人面談を12月26日(金)までやっていましたが、今年は21名、最後は28日(月)です! もしや1月4日にも追加面談‥‥。
 この暮は、連夜の学外公務をようやく終了して、25日に4年生全員に宛てて送信した一斉メールで、次のように述べました。長文の一部で、ちょっと推敲してあります。

Quote: ------------------------------------------------------------

II. よい卒業論文のポイントを確認します。

§ なにより次の3点が大事です。
 a. Question (問い、何を知りたいのか)を明記し、個人的動機も述べる。標準的な研究文献にもコメントがほしい。
 b. 文献を読み調べてわかったこと、目を開かれたことを論じ、典拠を註に明示する。論文なのだから、高校の教科書に書いてあるようなことはクドクド述べない。議論の筋道を意識する。複数の研究者や専門論文、その間の違い・ズレを註に記すだけでなく、その差異の意味を本文で論じていれば、つまり、分析的な文章になっていれば、すばらしい。
 c. Question にたいする答え(Answer)を述べる。

どこでどう述べるかは、人により違っていてよいし、力の見せどころだが、理想的には、
 a. → はじめに(序)でクリアに述べる。長くなくてよい。
 b. → 本論(1章、2章、3章)でダイナミックに展開する。これはどうしても長くなる。
 c. → おわりに(結)で述べる。短くてよい。

§ 原稿はプリントアウトして読み直し、筋の通った明快な日本語になっているかどうか確認し、みずから添削し改善する。
 最初から最後まで、根拠・典拠をしめす註をつける(註は多いほどよい;ウェブページなら URL を示す)。註のない文章は、卒業論文とは認められません。
 註と参考文献とは、別物です。それぞれ必要。
 巻末に参考文献リストをかかげますが、みずから読んでない文献には * ▼ † などの印を付して区別します。
 図版や表は、分かりやすい位置にあれば、本文中でも巻頭・巻末でも問題ありません。写真やコピーも可。学校内の教育・学術目的の使用ですから、著作権・複製権などは問題になりませんが、どこから取ってきたか(出典)は明示。
 念のため、出典をあきらかにした引用と、出典を隠した盗用=剽窃(ひょうせつ)とは全然ちがうものです。前者は学問、研究の本質。後者は窃盗であり、犯罪です。

 ------------------------------------------------------------ Unquote.(加筆、推敲)

2015年6月14日日曜日

立正大学 史学科の Facebook

紙媒体ではなく IT 空間で発信しようという方針です。

史学科の若手教員たちの奮闘により、このようなフォーラムが生まれました。
よろしく!
https://www.facebook.com/RisshoShigaku

2014年8月2日土曜日

註釈 『イギリス史10講』、リポジトリへ

 昨12月に刊行された『イギリス史10講』(岩波新書)ですが、文字どおり皆さまのおかげで、第5刷が出ます。これまでもそうでしたが、該当ページ内に収まるかぎりの修正をほどこしました。たとえば本文中に(p.267)のように参照ページを追加する、また索引の指示ページを若干ふやす、といったことも含めて、微細かもしれないがあきらかな改善と考えています。どうぞよろしく。

 なお、別のサイトですでにご案内したことですが、『イギリス史10講』p.304で予告しました「やや長い註釈」は、『立正大学大学院紀要・文学研究科』30号(2013年度)pp.71-87 に掲載されています。これがそのまま立正大学の学術リポジトリに登載されました。
http://repository.ris.ac.jp/dspace/handle/11266/5295

 Title: 註釈『イギリス史10講』(上)-または柴田史学との対話-
 Other Title: Ten Lectures of British History, annotated
 Author: 近藤 和彦 KONDO Kazuhiko
 Issue Date: 31-Mar-2014 (実際は4月)
 URI: http://hdl.handle.net/11266/5295

 どなたも PDF で読み、ダウンロードすることができます。お試しください。
岩波新書に書けなかった論拠や研究史的コメントなどはたいへん長くなり、1回では収まりませんので、今回は(上)として、同紀要の次号に(下)を発表することとします。

2014年5月2日金曜日

美しき五月に

 花と新緑の季節ですね。爽快にゆきたいところですが、いろいろなことが滞っていて、緑風に身を任せるとはゆかず、困っています。ただ旧柴田蔵書のことで茗荷谷のお茶の水女子大に訪れて、キャンパス内外の花の美しさには心おちつきますが。

立正大学大学院紀要・文学研究科』30号は、無事4月に刊行されました。「註釈『イギリス史10講』(上)- または柴田史学との対話 -」が掲載されています(pp.71-87)。ただし、その抜刷は想定部数をこえて必要となり、しかたない、きれいに複写をとってホッチキスで留めたコピーを制作することとしました。

そうこうしているうちに、出版社から「近影を」などと請われて、こんなのもあったなと想い出して、いくつかのウェブページ(まだ消えていない)を再訪してみました。

http://cengage.jp/ecco/2007/07/post-2.html
【この ECCO を立正大学ではトライアル利用中です】
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/personage/2232.html
【このQ & Aで「いま書いている本」とは『イギリス史10講』のことでした】
http://letters.ris.ac.jp/department/history/professor.html
【こちらは、立正大学史学科の同僚たちのプロフィールとともに】

2014年2月19日水曜日

註釈『イギリス史10講』- または柴田史学との対話(上)


 『イギリス史10講』のあとがき p. 304 でもお約束のとおり、岩波新書の「脚注」というよりは研究史的解題に近い「註釈」の原稿を、先月27日に提出しました。編集実務の担当者にかなり急かされて、学年末の校務のさなか、時間的余裕がなかったので、(上)ということで第4講まで(~ p.112)で中締めとさせていただきました。匿名の査読者2名のご意見も考慮しつつ、改訂原稿を出したのが2月7日です。校正刷りはまだ目にしていません。
立正大学大学院紀要』の刊行予定日は3月15日と言われていますが、もし順調にいったとしても抜刷などの出そろうのはいつでしょう? しばらくお待ちください。
 上にも書いたような事情で前半だけとはいえ 21,000字を越えていて、『イギリス史10講』の本文ではかなり切り詰めてコンパクトに記したことの背景ないし根拠を説明しています。もっぱら近現代だけに関心のある方にも、方法的な構えとしてどういうことなのか、わかるように書いたつもりです。副題から全体のトーンは伝わるでしょう。

 ちなみに 「学内紀要を活用せよ」というのは、黒田先生の置き土産のような助言でもあり、早速に去年の 『立正史学』113号(礫岩政体と普遍君主:覚書)から利用させてもらっています。これからもそうします。

追記: 立正大学リポジトリに登載されました。どなたでも利用できます。 → http://repository.ris.ac.jp/dspace/handle/11266/5295

2014年1月7日火曜日

謹賀新年

 新年をいかにお迎えでしょうか。
東京地方はおだやかで、すでに大学も平常の日々が始まっています。卒業論文・修士論文の提出をサポートすべく、ぼくも連日出勤しています。

 おかげさまで昨年末には
・『歴史学の将来』(監修: みすず書房、11月)
・『イギリス史10講』(単著: 岩波新書、12月)
の2冊の刊行まで漕ぎ着けることができました。年来の知友の叱咤激励、編集担当者の奮闘努力のおかげです。ありがとうございます。どちらもそれなりに好評のようで、うれしいことです。
 なお、とくに『イギリス史10講』については、双方向の討論のしやすい掲示板として
http://kondo.board.coocan.jp/
を用意してあります。どうぞご利用ください。

 じつは他にも長年の「負債」のように持ちこしている課題は少なくなく、「註釈:イギリス史10講」や日英歴史家会議(AJC)の出版、そして 『民のモラル』 (ちくま学芸文庫版) をはじめとして、順々に、ポジティヴに実現してゆきます。

 旧臘に上野で「ターナー展」、神保町で映画「ハンナ・アーレント」を続けて見たことも、とても知的に励まされるよい経験でした。時代のなかで創造的な知識人がどう生きるか。どちらも立正大学の西洋史の院生と一緒に見ることができて幸せでした。

2013年6月28日金曜日

立正大学 西洋史ゼミ



 高校生(の家族)および受験界むけの案内誌 ARCH 2014 というのがあって、昨冬に取材を受けましたが、いま、こんな形で出版されています。

 現4年生が3年生だったときの演習風景とインタヴューも掲載されています。ご笑覧あれ。

 ぼくも立正大学のために貢献しています。

2013年3月29日金曜日

立正大学 西洋史

27日(水)は冷雨のなか立正大学の卒業式でした。

あいにくの天気でしたが、「雨降って地かたまる」と言います。
これからの人生の門出としては、象徴的でよいかもしれません。

この卒論ゼミ17名の写真はTAの須藤さんが撮ってくれましたが、
無声だったので、後方でなにが起こっていたか、知りませんでした。

きれいな花束をありがとう。
28日からは桜も満開。
卒論を書きあげたことが、これからの人生の自信になるといいですね。
ゆうぽおとの会食(1月11日)写真は ← こちら。