2019年10月25日金曜日
ノートルダム大聖堂 と 時代
10月19日(土)にはパリ・ノートルダム大聖堂の炎上 → 再建・修復をめぐってのシンポジウムが上智大学であり(司会・問題提起は坂野さん)、問題は単純ではないということが具体的に示されて有意義でした。http://suth.jp/event/20191019/ 「つくられた伝統」という観点からも。ただし、多くの報告者が建築の歴史を語るときに、フランス王国ないし共和国の枠組が自明のように前提されて、「美(うま)し国」のなかで歴史も文明も完結するかのごとく、縦の系譜がたどられて、ちょっと待ってくださいという気にもさせられました。
その点で、最後の松嶌さんの報告は、ケルンやシュトラースブルク、さらにはコヴェントリにも議論を拡げていました。「ゴシック様式」の起源がイル=ド=フランスだったらしいというのはいいとして、建築様式をはじめとする技能は(そもそも中世には薄弱な)国境を越えて遍歴する職人集団によって伝えられたし、そうでなくともアイデアやノウハウは真似られ、流行し、継承され、いずれ改変される。近現代においても技術やアートは、たやすくネーションや国境を越えて伝播しますよね。
また都市史の観点からも考えさせられる指摘があり、大聖堂とその周囲の街並みとの交わりについて、中島さんの図版に、18世紀前半までパリ・ノートルダム大聖堂のすぐ近くまで町家が建て込んでいたことが示されました。その後のクリアランスはパリやフランス諸都市に限らず、およそ啓蒙ヨーロッパに共通の改良(improvement)運動として展開するのが、おもしろい。イギリスでは18世紀が(道路や広場の)改良委員会の時代です。ロンドンの聖ポール大聖堂も、ケインブリッジのキングズ学寮チャペルも、周囲に(今あるような)公共空間ができるのは18世紀です。有名どころとしては、キャンタベリの大聖堂が「街並み改良」としては立ち遅れて、その結果、今日にいたっても建て込んで、ちょっと離れた位置から大聖堂全体の美しい写真を撮ることができませんね。観光絵ハガキでは、したがって、航空写真を使うのがふつうです!
18世紀が啓蒙だけでなく、新古典主義とバロック・ロココ、あるいは加藤さんの論じられた「良き趣味」の拡がりという点からも、画期なのだ;ドイツでコゼレクたちの論じてきた Sattelzeit がここにも認められる、と思いました。このシンポジウムでは、ヴィクトル・ユゴーやル=デュクの中世趣味的な「修復」の観点を強調することによって、19世紀の中世=ロマン主義の時代性、それに先行した the age of enlightenment の普遍性みたいなことが浮き彫りにされたのかもしれません。
音楽演奏では、ブリュッヘンたちの Orchestra of the eighteenth century,
専従指揮者のいない Orchestra of the age of enlightenment,
そして J E ガードナ(Gardiner)の Orchestre révolutionnaire et romantique
が競合し共存した時代をへて、今はまたすこし変貌しているかに見えますが。
2019年4月18日木曜日
寺院? 大聖堂!
パリのノートルダムの大火災は驚くばかりで、痛ましい事件です。
ただし、CNNによれば、精緻な計測とディジタル記録が残っているとのことで、再建の望みはそれなりにあるわけですね。
→ https://www.cnn.co.jp/world/35135896.html
日本の報道では、あいかわらず「ノートルダム寺院」という呼び方で、いかに仏蘭西(!)とはいえ、仏の教えの痕跡はどこにもないでしょう。法隆寺や本願寺ではないのだから、そしてカテドラルには「大聖堂」または「司教座聖堂/大司教座聖堂」という定訳があるのだから、こちらを使ってください!
ロンドンの場合ですと、Cathedral Church of St Paul's が「セントポール寺院」、Collegiate Church of St Peter at Westminster が「ウェストミンスタ寺院」と呼び習わされているのも、イージーというか、混濁的ですね。
2018年11月24日土曜日
大久保の街路樹は まだ青々
23日(金)午後、大久保(北新宿3丁目)の柏木教会、大庭健さんの告別式に参りました。
キリスト教(プロテスタント)の式と、告別の辞のアカデミックな弁論が、微妙な関係だなと思うのは、ぼくが無信仰(「祭天の古俗」派)だから? おぼろげな記憶ですが、まだ駒場時代のある夕刻のこと、ウェーバー『古代ユダヤ教』を読み合わせていた会で、霊や信仰をめぐって「不条理なるがゆえにわれ信ず」という立場をもちだした(年長の)あるキリスト者にたいして、大庭さんは慎重に言葉を選びながら「ぼくたちは啓蒙より後の合理主義的信仰だから‥‥」と語ったのが想い起こされます。 最期の日には、聖書の一節を読み、賛美歌を歌って、夜静かに死を迎えられたということです。
おそらくは60代半ばの遺影がすばらしくて(ぼくの知っている大庭さんです)、悲しさより嬉しさが募りました。
ご本を26冊も出版なさったと今日うかがいましたが、最後の書は執筆8割ほどで筆を折るしかなかったとのこと。無念だったでしょう。
階下の懇親会では『私はどうして私なのか』『善と悪』を担当したという岩波書店の編集者とお話ししました。遅筆のぼくとしてはなおさらに、お約束の『映画と現代イギリス』も含めて、せめてあと4冊を書き終わらないまま時間切れ、アウト、というのは、耐えがたい。きっと見苦しい臨終となってしまうでしょう。
若者とエスニシティの溢れる大久保駅界隈ですが、柏木教会の中は静か、脇の街路樹は11月下旬というのに青々していて、生命力をうかがわせます。初冬のおだやかな午後、そのまま帰路に就く気持になれず、百人町の住宅地からグローブ座、高層マンション群、西戸山公園から高田馬場まで、ゆったりと歩いてみました。
2017年9月14日木曜日
南西アイルランド
帰国してみたら、No sooner had I arrived in Tokyo than . . . というわけで、暑いだ涼しいだと言ってる間もなく、母の看病モードに移行してしまいました。
それにしても8月のアイルランド紀行で、もう一つ書いておかねばならないのは、南西地方の海港の豊かさでした。
海路でフランスやスペインと往来するのは案外近い。Kinsale の海の料理がおいしいのは、あきらかにその影響でしょう。旧デズモンド家の城は今ではワイン博物館になっていました。コーク市の評判の大聖堂ばかりでなく、コーヴ(Cobh)でも、ヨール(Youghal)でも、立派な教会堂が迎えてくれました。
18世紀コークがバターの生産と輸出で栄えたとか、Wolfe Tone が手引きしたフランス軍の上陸(の失敗)とか、そういえばどこかで読んだなぁという史実も、その舞台に立って改めてモニュメントとともに見ると、甦ります。
R. R. Palmer, The Age of the Democratic Revolution, II (Princeton, 1964) pp.271-2 における1796年、バントリ湾の上陸策の不首尾について昔(1979-80年、名古屋でした!)に読んだときには、リアリティのない逸話でした。今回、寒冷前線と虹に迎えられてバントリ湾に降りたち、細身のウルフ・トーン像に挨拶し、また丘を登ってホワイト(Viscount Bantry)の邸宅の庭から旧式の大砲とともに湾を遠望して、
「強者どもが夢のあと」
という思いを強くしました。パーマによると、トーンはパリで孤独で、バブーフの陰謀については知らされないまま執政政府に全幅の信頼をおいていたのでした。p.250.
内陸部と海港との違いは、他でもそうだが、アイルランドの場合にとくに甚だしいということでしょうか? 近世・近代以前にも、トリスタン・イズーの伝説の時代から、このビスケー湾(ブルターニュ)、イギリス海峡(コーンウォル)、聖ジョージ海峡(ウェールズ、アイルランド)の繋がりはきわめて重要でした。中世前半のキリスト教伝来も、ジャコバイトの移動路としても、そしてカトリック避難民が醸造酒・蒸溜酒のノウハウとともに大陸へ逃れる(wild geese ならぬ wine geese の)経路としても、この南西の海の道が決定的でした。キンセールのワイン博物館が雄弁に語っているとおりです。
それにしても8月のアイルランド紀行で、もう一つ書いておかねばならないのは、南西地方の海港の豊かさでした。
海路でフランスやスペインと往来するのは案外近い。Kinsale の海の料理がおいしいのは、あきらかにその影響でしょう。旧デズモンド家の城は今ではワイン博物館になっていました。コーク市の評判の大聖堂ばかりでなく、コーヴ(Cobh)でも、ヨール(Youghal)でも、立派な教会堂が迎えてくれました。
18世紀コークがバターの生産と輸出で栄えたとか、Wolfe Tone が手引きしたフランス軍の上陸(の失敗)とか、そういえばどこかで読んだなぁという史実も、その舞台に立って改めてモニュメントとともに見ると、甦ります。
R. R. Palmer, The Age of the Democratic Revolution, II (Princeton, 1964) pp.271-2 における1796年、バントリ湾の上陸策の不首尾について昔(1979-80年、名古屋でした!)に読んだときには、リアリティのない逸話でした。今回、寒冷前線と虹に迎えられてバントリ湾に降りたち、細身のウルフ・トーン像に挨拶し、また丘を登ってホワイト(Viscount Bantry)の邸宅の庭から旧式の大砲とともに湾を遠望して、
「強者どもが夢のあと」
という思いを強くしました。パーマによると、トーンはパリで孤独で、バブーフの陰謀については知らされないまま執政政府に全幅の信頼をおいていたのでした。p.250.
内陸部と海港との違いは、他でもそうだが、アイルランドの場合にとくに甚だしいということでしょうか? 近世・近代以前にも、トリスタン・イズーの伝説の時代から、このビスケー湾(ブルターニュ)、イギリス海峡(コーンウォル)、聖ジョージ海峡(ウェールズ、アイルランド)の繋がりはきわめて重要でした。中世前半のキリスト教伝来も、ジャコバイトの移動路としても、そしてカトリック避難民が醸造酒・蒸溜酒のノウハウとともに大陸へ逃れる(wild geese ならぬ wine geese の)経路としても、この南西の海の道が決定的でした。キンセールのワイン博物館が雄弁に語っているとおりです。
2017年8月22日火曜日
風のアイルランド
アイルランド探訪のなかでも、いくつか重要な側面があり、まずは ancient Ireland とされてきたもの(invented traditionかもしれない)の最たるスポットを訪ねました。順不同です。
¶「タラの丘」は太古の王(high kings)の居所だったと伝えられる丘。古墳から遠からぬ所に、シャムロックを手にもつ聖パトリックの立像も据えられ、シンボリズムは十分ですが、近代史ではオコネルの1843年「百万人集会」の場にもなりました。
『風と共に去りぬ』でもタラはアメリカ南部の Irish American の心の支えで、この映画のライトモチーフになっています。最後の場面ではスカーレットの Tomorrow is another day が「明日は明日の風が吹く」と訳されて、名訳か迷訳か、ひとしきり議論されましたが、現場に立ってみて、そうか、この強風のことなのだ、と妙に納得しました。緑、緑、緑のただなか、たえまなく吹きつける風に、全身で耐えている4人の写真です。
¶ カシェルの岩山はマンスタ王の居城だったのが、1101年に教会領となり、修道院文化の繁栄の中心でした。1647年にクロムウェル軍の包囲攻撃で廃虚となり、1749年には屋根が除去されて、荒廃が進んだようです。大聖堂わきの十字架を撮りましたが、ここでも身の危険を感じるほどの強風。
誰かさんのようにこの廃虚で「運命の人とのめぐりあい」はなかったけれど、しかし、アイルランド史、ブリテン諸島史、ヨーロッパ史のことを再考しました。
Gone with the Wind も、The Wind that shakes the barley も、the wind をキーワードとしていたのでした。これが分かってなければ、アイルランド史は(アメリカ史も!)理解できないということか。
2010年8月10日火曜日
その3:ピューリタン史観?
イングランド南東部は、ピューリタンの強かった地域でもあり、だからこそクロムウェルもケインブリッジ大学の学生だったのですが、ピューリタン革命の痕跡は、写真のような「偶像破壊」にも残っています。 cf. Walter, Understanding popular violence in the English revolution (CUP, 1999).
日本の高校世界史におけるピューリタン史観(プロテスタント原理主義によるカトリックに対する偏見)がいかに一面的だったか、反省させられます。矢内原忠雄・大塚久雄といった「人格高潔な」先生方の世界観を、いつまでも崇め奉り、護持すべきか、ということでもあります。
なお、イングランド・プロテスタンティズムの拠点だったケインブリッジ大学の真ん中に位置するキングズ学寮チャペルは、現ブログの看板、および7月25日登載の写真のとおり。この華美にして popish な臭いのするステンドグラスを破壊すべく勢い込んでやってきたピューリタン兵士たちが、実際にチャペルに入ってその美しさに圧倒されて、これに手をかけることを止めた、という逸話が残っています。
王制復古期の宗教政策について、戦後史学(代表は浜林正夫さん)では反動的で陰謀的な性格が論じられていました。それで良かったのでしょうか。むしろ同時代人の感覚からは、「あのピューリタンの時代に戻るのは、かなわない」という、それなりの合理性と中道性があって、支持される政策だったのではないでしょうか。Hudibras の物語 が熱烈に迎えられた時代です。
1685年から急速にルイ14世にたいする警戒の念が強まる、というダイナミックスも忘れたくない。このナント王令後30年間のヨーロッパ情勢が、以後長期にわたってすべてを規定する祖型なのか、それとも1700年をはさむ±15年、すなわち1世代だけの問題だったのか。「太陽王」の時代の研究者はきちんと考えて明らかにしておくべき点でしょう。
ぼくの答えは、限定的です。すなわち、ヨーロッパ啓蒙の res publica を強調し、したがって(途中は省きますが)E・P・トムスンの parochialism を批判する立場です。今ケインブリッジでやってる仕事は、根本的なEPT批判です。
その2:国教会
さて昼食は写真のパブで摂りましたが、その入口の上に built circa 1756 とみえる。 circa というのは、根拠が危ういときに用いる便法でもあるんですが、まぁ18世紀をやってる者には話の種です。
村の教会には、なんと1763年のジェントルマン寄進の王家の紋章がかかっていました。パブが7年戦争の始まりの年、国教会の紋章がその戦勝の年、ということで、イギリス近代史にとっての7年戦争は、日本近代史にとっての日清日露だろうか、と考えました。
教区教会【国家=教会体制の末端、cf.「聖俗の結合」in『伝統都市』IV】にいかなる王家の紋章を掲げるか、が高教会派・低教会派の間の熾烈な争いの的になりうる、ということは、指昭博さんの文章にも暗示されていますし、ぼくの Church and politics in disaffected Manchester, pp.112-13 では明示的に論じています。
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