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2025年2月19日水曜日

『読書アンケート 2024』

みすず書房より『読書アンケート 2024』(単刊書、2月刊、800円)が到来。
https://www.msz.co.jp/book/detail/09759/ 
ぼくも短かいながら5件の出版について感想を述べました(pp.175-178)。掲載の順番は、おそらく原稿がみすず書房に着いた順で、この本文180ぺージのうち、ぼくはビリから4番です。
月刊誌『みすず』は紙媒体ではなくなり、今はウェブ配信ですが、毎年2月号に載っていた読書アンケートだけで単刊書とすることになり、毎年の年初の楽しみは保たれます。むしろ前より厚くなった観があります。
ぼくの場合は、
1.二宮宏之『講義 ドラマールを読む』(刀水書房、2024)
2.木庭顕『ポスト戦後日本の知的状況』(講談社選書メチエ、2024)
3.松戸清裕『ソヴィエト・デモクラシー 非自由主義的民主主義下の「自由」な日常』(岩波書店、2024)
4.Lawrence Goldman, The Life of R.H.Tawney: Socialism and History (Bloomsbury Academic, 2013)
5.『みすず』168号~177号(1973-74)に連載された、越智武臣「リチャード・ヘンリー・トーニー あるモラリストの歴史思想」
を挙げてコメントしました。
4,5については、今書いている本『「歴史とは何か」の人びと』のなかの一つの章にもかかわり、また著者ゴールドマンが、E・H・カーの世代のインテリ男性の性(さが)について明示的に問うているので、響きました。
巻末の奥付に (c) each contributor 2025 とあり、著作複製権についてはぼくにあるのでしょうが、出たばかりの本ですので、ここには言及するだけで、文章は引用しません。

2025年2月4日火曜日

卒寿の著書

 みなさんは、服部春彦フランス革命と絵画 イギリスへ流出したコレクション』(昭和堂、今年2月刊)を見ましたか? 先に『文化財の併合 フランス革命とナポレオン』(知泉書館、2015)がありました。これに続く、フランス革命・ナポレオン・美術品の移動というテーマだな、と軽い気持で読みはじめて、驚嘆しました。
 明快な問題設定のもと、研究史と(回顧録や売立てカタログ‥‥からイギリス政治史のオーソドックスな史料 Hansard 議会議事録にいたる!)多様な史料を渉猟し分析した、374ぺージの研究書です! 今回はフランス史というより、イギリスの美術品取引史です。フランス革命期に大量の絵画が、フランス・ネーデルラント・イタリア各地から大量にイギリスへ移動したプロセス ~ 1824年、ロンドンに国立美術館(National Gallery)が設立されるまでの、オークションから私的契約売買まで、美術品取引の実際が具体的に解明され、迫力があります。
 イギリス史をやっている者にとって、18世紀前半のホウィグ体制において枢軸をなしたウォルポール家(Houghton Hall)タウンゼンド家(あの農業改良の Turnip Townshend)の今日にいたるまでの家運の転変はおもしろいものです。両家は同じノーフォーク州でほとんど隣接した大所領をもって、たがいに交際していました。しかし世紀後半の代になるとHorace Walpole は放漫な家政で、結局、せっかくのコレクションをロシアのエカチェリーナに売却するしかなかったばかりか、19世紀にはロスチャイルド家と縁組みし、今日も観光客を迎えて入場料を取り、一般向けのイヴェントをくりかえして所領を維持しています。他方のタウンゼンド家は代々、堅実な農業経営のおかげで、今も一般客を入れることなく所領を維持しています。
 1770年代にあの急進主義の風雲児 ジョン・ウィルクスが、そのウォルポールの Houghton collectionを国内に留めるための議会演説を行ったこと( → その効なくロシア宮廷に売却)から始まり、ナショナルな絵画館の設立運動をめぐるLinda Colley 説の批判、そして1824年にようやく National Gallery 創立、38年の新館開館にいたる政治社会史には、感服しました。脱帽です。
 たしかノーリッジのEdward Rigby(1747-1821)の娘 Elizabethは Charles Eastlakeとかいう NGの初代館長に嫁したのではなかったかな? この時代のチャリティ、農業改良、医療をはじめとする公共プロジェクト、そして大陸旅行記が父・娘ともにありますね。NG の1824年設立/38年の新館までで本書は終わりますが、それにしても、多くの登場人物、そして
公衆(the public)なる語にどのような意味がこめられていたか」p.335 
といった議論に刺激されます。服部春彦さんによるイギリス近代史の研究書です!
 1934年4月生まれの服部さんは、遅塚、二宮、柴田(この順)と同じころパリに留学していた方ですが、名古屋大学西洋史におけるぼくの先任助教授でした。こういう方が元気でしなやかに生産的でいらっしゃるので、こちとらも呆けることはできません。

2025年1月5日日曜日

謹 賀 新 年

 戦禍や災害がうち続き、政治も危うげな昨今です。みなさま、いかが新年をお迎えでしょう。
 こちらの直近の最優先課題は
「歴史とは何か」の人びと - E・H・カーと20世紀知識人群像』(岩波書店)
の仕上げです。中澤(編)『「主権国家」再考』(岩波書店)は共著者とともに校正中です。その次の仕事『デモクラシー像の更新』も、自分の勉強として、公けの出版として、今から楽しみが一杯です。
 これらにも関連して、昨3月にはオクスフォード、バーミンガム等、9月にはスコットランド(ハイランド)、バーミンガム、ケインブリッジ等に参りました。ワークショップや人びととの再会懇談、文書リサーチとともに、1689年~1746年のジャコバイトの関連史跡を見て歩き、エディンバラでは一つの史料の細部を確かめることができました。ECCOなどディジタル化された画面では(いくら拡大しても)判別不能の、現物を見て触って、はじめて確かめられる特徴や細部など、喜びです。これはカーのいう「史料フェティシズム」でしょうか。
 それにしてもスコットランドのうち、ハイランドとロウランドの違いは、車で巡行してあらためて印象づけられます。北西部の氷期の痕跡、rough で tough な地理・天候とジャコバイトの心性は、無関係ではありませんね!(スコットランド王国には歴史的な大学が4つありましたが、グラスゴー以外は東海岸に偏っています。)
写真はインヴァネス(ジャコバイト最後の戦地 Cullodenの最寄り都市)のあるパブに刻まれていたエピグラムです。
 今年もお元気にお過ごしください。
 2025年正月     近藤 和彦

2024年9月15日日曜日

グレンコウの宿恨

はるばるスコットランドのハイランドも西海岸、コウの大渓谷(Glencoe)に参りました。
すごく険しく、ものすごく広大で、これは写真でなく実際に来てみないとその迫力はわからない。と言いながらここは写真でご覧に入れるしかありません。
訪ねあてたのは、マクドナルド氏族の末裔が19世紀末に建てた1692年の虐殺の顕彰碑。
これより前に Campbell, Duke of Argyll家の居城 Inveraray にも参りました。別の大渓谷(glen)を抜けて、潮の満ち干のいちじるしい深い入り江(loch)に面した立派な居城です。
対立したジャコバイトとホウィグと両方に挨拶したわけです。
そもそもこんなにも大渓谷で隔てられた各氏族、交際・連絡は険しい陸路よりも、リアス式に奥まで切り込んだ Loch の水路によるところが大きかったろうと、十分に想像できました。それだけ陸路をたどるのは大変でした・・・ その夕刻、太陽を背にして走るうちに、虹の根本に遭遇したのでした。 
ついでにスコットランドの loch とは湖だけでなく、海の入江についてもいうのだと認識しました。ドイツ語の See も海と湖と両方を指しますね。日本の古語でも「うみ」は琵琶湖だったり、瀬戸内海や日本海だったり・・・

2024年9月11日水曜日

虹の根本

ただ今、ハイランドを探訪旅行中。幸運にも虹の根本(ねもと、こんぽん)に遭遇。
車を降りて、撮影しました。

2024年4月6日土曜日

マーチモント街

3月、ロンドンの宿の近くには Marchmont Street というのがあって、学生、インテリ、外国人向きの空気があります。初めてここに馴染んだのは1981年でした。ロンドン大学歴史学研究所(IHR)で4泊5日の院生セミナー「ロンドン史料指南」があり、この通りの北、Cartwright Gardensにある学生寮 Hughes Parry Hallに泊まり、南西の Russell Square を経由してIHR、つまりセネットハウスまで通ったのが始まり。
その後も、交通の便がよく、安宿、古本屋、ある時期はコピー屋、貸しPCといった便宜のためによく来たものです。バングラデシュをやってた人文地理の人に連れられてベンガル料理の店に来たこともあるし、そもそもロンドン大学の先生方御用達の North Sea もこの北にあります。フィッシュ&チップスといっても、労働者用の持ち帰り[take away]と中産階級用のテーブルで食べる尾頭付きとは、入口も違うのだとは、ここで初めて教えられました!
Cartwright Gardens にはその名の由来の John Cartwright(1740-1824)の立像と、さらにこの地域の来歴を示すボードができています。

今回、ぼくがこのマーチモント街を急ぎ足で通過して、北のBL(国立図書館)に向かうところをNさんが目撃したとのことです。また別の日曜には周辺を早足で散歩した折に、「日本人だろうか、いや見覚えがあるような‥‥」と悩みつつ通り過ぎてから振りかえると、先方も振りかえって、「なんだM先生ではないか!」といったこともありました。
地下鉄ラッセル・スクウェア駅と旧国鉄 St Pancras/Kings Cross駅にはさまれた地区なので、日本人の利用者も少なくないのでしょう。近代史をやっている者には限りなくおもしろい地区です。
その一つの例として(先のカートライト兄弟のこともありますが)マーチモント街から一つ筋違いの Judd Streetの61-63番には、1848年後に亡命してきたゲルツェン/ヘルツェンの居所として青い銘板=ブループラークがあります。【このプラークという語は日本語では「歯垢」という意味しかない!というので、『図書』では使用を牽制 → 抑制されてしまいました!】
今は Marchmont Stにあって営業しているJudd Booksという古書店も、20世紀には元来のJudd Stにあって広く、行くたびに収穫があったものです。今、その跡は全然別のカフェ - Half Cup Cafe, Kings Cross - になっていました。
【ちなみに、以前はマーチモント街/あるいはUCLまでUSBを持っていって紙にプリントしたものですが、今やそうしたPCやプリントの店は見あたらない。じゃあどうするんだ、と心配していたら、今では宿の受付にメールでPDFを添付して頼めば(10数枚までなら、カラーでも)無料でやってくれるのでした。時代も変わりました。】

2024年3月24日日曜日

またもやカメラ問題

3月のイギリスは案の定、天気は悪いがあまり寒くはなく、水仙も桜も咲きそろい、朝夕にブラックバードは歌い、リサーチおよびワークショップには悪くない環境でした。
帰国したばかりで、まだ時差呆けです。これからいろいろと書こうと思いますが、まずは昨9月に続いて、またもやカメラで冷や汗をかいた話を。話は長くなります。

帰国の直前の3日間はケインブリッジ。大学図書館の文書室、稀覯本室でじつに効率的に仕事ができました。文書室ではアクトン文書と、Peter Laslett文書。とにかく写真を何百枚と撮ると、半日で充電は切れてしまうので、小型軽量のキャノンを2器、それにスマホ、と計3台のカメラを携行していました。
最終日は、夜にはLHR出立なので、時間を有効に使うため、文書はすでに前日に注文し、閲覧できるものを特定。稀覯本は夜に(CULでは iDiscover というあだ名!)インタネットシステムで注文。
どちらも朝イチに行っても、これから作業開始ですとか言われかねないので、まずは開架(North Front)にある3冊ほどのアクトン書簡集の所へ急ぎ、特定ぺージを撮影。 次いで、西1階の稀覯本室でメアリ・グラッドストン関連の稀覯本とご対面。ここで予期を越えて貴重な写真を発見し、撮影しました。
最後に西3階の文書室に移動して、待っていてくれたラスレット文書のファイルを速読。この人は(日本の学界ではいささか低い評価ですが)、ロック研究・17世紀研究で失意の経験をしたあと、1964年からケインブリッジ・人口家族史グループの創建にあたるより前の時点では、BBC放送と学内政治にかなり関与していたようです。70年代の日本来訪のことも記録されています。そのとき松浦先生たちと一緒にぼくも会いました。
ただ今のぼくとしては、そういったラスレットの学問遍歴よりも、1961-62年のケインブリッジ歴史学Tripos(学位修得コース)改革にかかわる論議こそ見たかったのです。9月に旧友JWが、何かあるかもしれないよと示唆してくれたので、今回、見てみたのですが、大収穫。
『歴史とは何か 新版』ではあたかもカーの講演と出版がカリキュラム改革の先鞭をつけたかのような傍註を付けましたが(pp.139, 252-255)、むしろ1960年から歴史学部を賑わしていた改革論議が前提にあって、カーは経済史や非イギリス史系の人びととともに改革派の旗色を鮮明にした、これに対してエルトンを先頭にイングランド史の先生方の国史根性が顕著になる、ということのようです。カーも62年に長い意見書を提出していますが、エルトンはやはり長い意見書を2度も出して、イングランド史以外を必須にすることは有害で、なんの益もない、と力説します。
ちなみにハスラムのカー伝(Vices of Integrity, 1999)にもこのカリキュラム論議は出てきますが、まだ Laslett Papersは寄託されてなかったので(ラスレットの死は2001年)、史料典拠は明示されぬまま伝聞知識として述べられています。まだ未整理で not available な部分が大半のラスレット文書ですが、これから大いに利用価値のある集塊だといん印象です。

昼食にはJWから呼ばれているので、後ろ髪を引かれる思いながら、今回の調査探究=historiaは12時過ぎに中断。荷を置いていた Clare Hall に急ぎ戻り、タクシーでJW宅へ。
庭に面する明るい部屋に、おいしい北欧風ランチとウォトカ(!)が待っていました。
彼は学部はケインブリッジ、大学院はクリストファ・ヒルのもとで学びたく、ヒル先生には面談して受け入れてくれたのだが、オクスフォードの大学院委員会を仕切っていたのは欽定講座教授 Trevor Roperで、ラディカル学生として知られたJWを容認せず、「ラディカル活動家の鼻面をぶんなぐり」『新版』p.263、不合格としたのでした。【学部生の入学は学寮、大学院生の入学は全学委員会で決めるので、こういうことになるのですね。】
その後は、JWが駅まで送ってくれて、夫人はプールへ泳ぎに。
14:14発の快速で Kings Cross、パディントンから Elizabeth Line 15:54発でヒースロウ3へ、と順調に移動できました。チェックインも問題なし。面倒な securityも通過して、ふーっ、2時間も余裕があるぞ、と免税店に向けて歩き始めて、気がついたのです。腰のカメラがないではないか!

セキュリティに入るとき、身ぐるみ、電子機器、時計、財布、金属的な携行品など、トレイは3つに分けられてしまって、こういうのは混乱のもとで、嫌だなと思ったのが、そのとおりになったわけです。急ぎ戻って係員に交渉しても、どこのレーンだったか、と尋ねられ、似たようなレーンばかりで、何番なんて記憶していません。係員は、そもそもぼくが勘違いしているんじゃないかと疑う態度で、ぼくの背の鞄をスキャンさせろ、という。
ほら鞄の中にカメラがあるじゃないか、と彼はいうのだが、あなたね、ぼくはリサーチのために小型カメラを2台、スマホを1台、携行しているのですよ。そのうちの1台、腰の黒い小ポーチに入れたキャノンが、ポーチごと、見えなくなっているから声をあげているのです。この2週間のリサーチの収穫の大部分がこのカメラの中に収まっているわけで、-- たしかに「万が一」に備えて、じつは数日前にカメラのSDカードをコンピュータの記憶装置にコピーしたけれど、しかし、この3日ほどの撮影部分はまだコピーしていない。すなわちケインブリッジでの収穫は無に帰してしまう!
20分ほど押し問答して、こんなことありえない!と絶望しかけて喉はからから。そこに、 Hey. Is this yours? とおばちゃんが黒い小ポーチを掲げてきた。どこかに紛れていたようです。
皆さんも空港の security では、どうか最大限に集中して、ご注意を!

2024年3月10日日曜日

バーミンガムの誇るもの

(そもそも最初に家族で訪問したのは82年でしたが)去年9月に来たときも再認識せざるをえなかったのは、バーミンガムって起伏の多い/多すぎる街だ、ということです。それが運河網とあいまって、丘の上の非国教徒の街(「丘の上のデモクラシ」!)、を形成する地理的根拠になったのでしょう。
そのバーミンガム市の誇るのが、市長にして19世紀自由党の大物チェインバレン(日本で誤ってチェンバレインなどと表記されていますが)、グラッドストンの盟友、ビアトリスの恋人でした。
バーミンガム市の Victoria Squareに次ぐ広場には彼の記念碑が雄々しく建っています。
大学の初代名誉総長(Chancellor)でもあったので、大学駅に大きな写真と碑文があっても当然ですね。ビアトリスは結婚前だけでなく結婚してベアトリス・ウェブとなってからも、彼のことを想うと、胸を焦がしてしまった。そのことを正直に日記に告白しています。今でも知的女性にとって、魅力的な中年男性でしょうか? 彼の息子オースティンがロカルノ条約でノーベル平和賞、もう一人の息子ネヴィルが宥和政策の首相となりました。
さらにバーミンガムは現代都市としての diversityを表明したいのでしょう。黒人やインド人、ムスリムばかりでなく中国人も定着していることの一つの証に、China town(唐人街)があります。

→ 帰国しました。写真をアプロードできる環境になり、遅まきながら、バーミンガム関連で2葉、ご覧に入れます。

2024年1月31日水曜日

『イギリス史10講』ハングル版

『イギリス史10講』(岩波新書)の初版は2013年12月20日に出ましたので、まる10年を越えたところです。さいわい今も増刷を重ねて、去年春には第16刷が刊行されています。第2刷から以後、ごく微少ながら訂正・改良を重ねてきました。
2021年に中国語版が中国工人出版社から刊行され、そのことについては、こちらにもしたためました。
今年の2月中旬にハングル版が出るとのことで、そのカバーデザインが呈示されています。ご覧のとおり、出版社はAKコミュニケーションズ、書名タイトルは『イギリス史講義』とのことです。
  ブリテン諸島のうち海峡諸島やオークニ、シェトランドは消えて、若きエリザベス2世のイメージの中抜きでユニオンジャックが現れる、というのはいささかproblematicではあります。とはいえ、訳書を出してくださるということ自体に深謝しております。
そもそもは初版、第1講の終わり(p.16)に、
「イギリス史はけっしてブリテン諸島だけで完結することなく、広い世界との関係において展開する。‥‥海の向こうからくる力強く新しい要素と、これを迎える諸島人の抵抗と受容、そして文化変容。これこそ先史時代から現代まで、何度となくくりかえすパターンであった。こうしたことをくりかえすうちに、やがてイギリス人が外の世界へ進出し、他を支配し従属させようとする。その摩擦と収穫をはじめとして、さまざまの経験を重ねつつ、競合し共存し、それぞれに学びあい、新しい秩序が形成される。」
と記しましたとおり、そうしたことを具体的にるる述べた本です。
他に例のみられる、王と妃のゴシップを書き連ねたものとも、議会制民主主義の手本となる「国史」の道筋をかたったものとも違います。とくに「現代史」の知的な群像については、『「歴史とは何か」の人びと』であらためて表現してみようと目論んでいます。

2023年10月31日火曜日

『図書』11月号休載 → 最終回は「E・H・カーと女性たち」

 岩波書店の『図書』に連載しています「『歴史とは何か』の人びと」ですが、申し訳ありません、11月号(899)はお休みとさせていただきます。
 第1回(2022年9月号)<https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/6074>にも記しましたとおり、三面六臂どころか、90歳まで執筆を続けたE・H・カー(1892-1982)ですが、その謎をすこしでも解き明かすために、20世紀のエリート群像の生きざまのなかで人物カーを脱特権化=相対化してみるという目論見でした。見開き6ぺージ(約6000字弱)の essay(試論)とはいえ、毎回、読むべきもの/確認すべきことが多くて、大変でした。肖像写真の選定にも苦労しました。しかし、それに見合う新しい発見/気付きもあり、充実した連載でした。
 元来は12回連載ということで始まりましたが、途中で15回に延伸できるかとの打診があり、やや充実させることができました。とはいえ、9月のアイルランド・イングランド旅行は(その準備段階も含めて)強烈で、連載原稿を仕上げることはできず、11月号は休載。12月号で第15回=最終回「E・H・カーと女性たち」をご覧に入れるということにさせてください。写真も含めて、それなりに印象的な最終回(有終の美!)とさせていただきます。(すでに最終回のゲラ校正も戻して、執筆者としての仕事は済んでいます。)
 ご愛読の方々、そして感想や声援を寄せて下さったみなさん、ありがとうございました。

2023年10月21日土曜日

巨人の足跡‥‥想像力はふくらむ

9月のアイルランド・ブリテン旅行から帰国してすでに1ヵ月。今日は、木枯らしのような風に落ち葉が舞っています。いつまでも呆けているわけには参りません。
いずれしっかり具体化しますが、印象の強烈度からしても、ベルファストから北上して北端の海岸にある Giant's Causeway (巨人の土手道/踏み固めた道)こそ、圧倒的で、写真で見ていたのとは迫力が違い、それこそ百聞は一見にしかず、でした。
地質学的には、何百万年(何千万年?)前の火山/マグマ活動の結果が今、柱状節理(columnar jointing)として残っている所です。北大西洋の海嶺から東へと地殻が変動するうちに、吹き出したマグマが地表で冷却し、また雨水の浸食を受けて、6角形の柱のようにヒビが入り、それが壮大な絶壁の風景としてアイルランドの北端に連なっているわけです。
NHKの「ぶらタモリ」では紀伊半島南端の大火山跡の柱状節理を訪ねたことがありました。予算さえつけば、タモリさんも本当はここに来てみたいでしょうね。スケールが違います。
先史のアイルランド人(Scots)は、ほんの30kmほどの海峡を渡ってブリテン島の北端に移住したので、今はそちらがスコットランドと呼ばれています。古代人の想像力の世界では、この6角形の節理の連なりこそ、アイルランド島からブリテン島に渡った巨人の通路=足跡、というわけです。
Amphitheatre(半円形の劇場・盆地)という渾名の付いている湾の入口まで歩いて、向こうを見上げると、断崖絶壁の上に豆粒より小さく、上半身裸の男が(あまりのスケールに怖いので!)座り込んで、北の海を眺望しているのが見えました。同じ写真の上右の細部を拡大してご覧に入れます。
『イギリス史10講』p.31  このあたりは中世前半のキリスト教の重要地点でもあり、ヴァイキングの常用航路帯(sea-lane)でもあり、17世紀には逆にスコットランドからプロテスタントのアルスタ移民が渡った海峡です。ウィリアム3世の足跡も。フランス軍の上陸作戦も。またロマン主義の時代には、メンデルスゾーンの「スコットランド旅行」もかくや、と想像力をかき立てられます。18世紀の亜麻産業からグラスゴー、マンチェスタの産業革命へ、そして20世紀にはベルファストの造船・タイタニック‥‥ぼくが若かったら(40歳以前だったら!)この地域/海域に焦点を合わせて壮大な歴史を書けたかも‥‥

2023年9月30日土曜日

バーミンガム大学にて

 今回の旅行は、ダブリンに2泊したあとは北アイルランドで4泊、ロンドンで2泊、バーミンガムで1泊、ロンドンで6泊、とたいへん忙しく機動的に動きました。
 バーミンガムは1982年以来です。New Street駅の近く、Town Hall(ヘレニズム様式!)やミュージアムのまわりは新しい建物が増えたとはいえ、基本は40年前と同じ。丘あり沢ありで起伏の多い街に、運河が行き渡っているのが印象的。全国的な運河網のハブだ、という歌いこみで、歩くにも飲食するにも楽しい環境を整備しています。
 今回の目的は大学図書館の Special Collection 所管の Papers of E H Carr です。New St.駅から University Stationへの鉄路も、他ならぬウスタ運河に沿って建設されています。産業革命の運輸は鉄道ではなく、運河だったという事実をみなさん、忘れがちです。18世紀後半から運河建設・改良は進み、鉄道建設は1825年/30年から始まる、というのは厳然たる事実です。ウェジウッドの陶磁器を鉄道でガタゴト運ぶわけにはゆきません。運河網を利用してリヴァプールにもロンドンにも、またその先の海外にも安全確実に運送できたのです。『イギリス史10講』pp.189-191.
 
 で、その運河脇の University駅に着くと、ホームで迎えてくれたのは、このジョーゼフ・チェインバレン。「エネルギーと人間的磁力」にあふれた美男、あの富裕ブルジョワのお嬢さんビアトリス・ポタの胸を焦がした「一言でいうと最高級の男性」です。バーミンガム市長、選挙権が拡大する時代の自由党の「将来の首相」。『イギリス史10講』pp.239-240.しかしベアトリスと別れ、1886年にグラッドストン首相と対立して自由党を割って出たチェインバレンは、civic pride のバーミンガム大学の初代総長にも就いていたんですね。市中でも大学内でもチェインバレンの存在感は大きい。
 広い空が広がるバーミンガム大学のキャンパスは、なぜか名古屋大学のキャンパスを連想させるところがあります。名大より広く、緑も多く、モニュメントも多いけれど。
 その北寄りの Muirhead Tower(ULとは別の新建築)に Cadbury Research Libraryと称する特別コレクション、手稿、稀覯本の部門があり、前週にインターネット予約をしたうえで参りました。最初の手続、確認を済ませたうえでアーキヴィストに導かれ、おごそかにドアの中に入ると、すでに予約した手稿の箱3つが待っていました。
 
 そこでは、こんな鉛筆書きのメモ(Last chapter / Utopia / Meaning of History)やタイプの私信控え etc., etc.を(座する間もトイレに行く間もなく)立ったまま、次から次に読み、写真に撮り、ということでした。各紙片に番号は付いていないし、また(私信や新聞雑誌の切抜きを除くと)日付もないので、取り急ぎのサーヴェイでは、全体的にきちんとした印象はむずかしい。それにしても、『歴史とは何か』第2版(M1986, P1987)における R W Davies の「E・H・カー文書より」(新版 pp.265-311)はかなりデイヴィス自身の問題意識に沿った引用・まとめであり、それとは違うまとめ方も十分にありうると思われます。たとえば、新版 pp.288-295では、70年代のカーの社会史・文化史への関心は十分に反映していませんでした!

2023年9月20日水曜日

往路と帰路

フライトは、来たときと同じ北極海経路を逆にたどるのかと思いきや、ヒースロウを出て、一路東へ。しかもFlight Mapなるものには、その後北上してモスクワ方面に向かうかの表示です。これは危ない!
Mapを見つめていましたら、イスタンブル、アンカラあたりの上空に達し、これは大丈夫かも、というので、睡魔に身を任せることにしました。数時間後に目覚めてみると、なんと飛行機は北京・天津・大連あたりを飛んでいます。
結局は、西ヨーロッパからイスタンブル経由で、東へ東へと向かうというのは「一帯一路」というイメージでしょうか。イギリスでも中国人のプレゼンスは色濃かった!
最後は、房総半島からぐるっと回って、東京の北から山手線に沿って、新宿・渋谷・大崎の真上を飛んで羽田に着陸しました。
蒸し暑い! でも想像したほどひどくはない。
というわけで、また日本時間の生活に復帰しました。

2023年9月17日日曜日

怖かった! → 反省

忙しかった2週間も実り豊かに終わり、今日(土)は宿からすぐ北の Regents Canal を歩いて、すぐに産業革命期の運河拠点 Coal Drop Yard へ。St Pancras駅の裏手、今日のロンドンのもっともfashionable なエリアかもしれない。東京の湾岸再開発と似て非なのは、新しい建物が東京では超高層で、あいだが空きすぎ。ロンドンではせいぜい10階建てなので、隣りが近く、また上からの圧迫感がない。ガスタンクを模したcondominiumなど、パンデミック前からあった景観ですが、住宅も店も広場もふえて、今日は土曜ということもあり、家族やカップルの人出がたいへん多い。
通りにこんな掲示板が続いていました。一連の関係するメッセージですが、手前の板には queer generation、3枚目の板には Queer Joyという語が明記されています。
そのあとBLへ。ほんの数時間滞在して、出ようかと思ったら出口近くにて Magna Carta特別展。簡潔で良いト書きとともに、要領の良い史料展示、そして専門的なコメントを中世史家だけでなく、近現代史家もヴィデオでやっています。リンダ・コリ先生、ジャスティン・チャンピオン先生にも久方ぶりに対面したような気になりました! 土曜なので、5時閉館。

といった具合で、夕方は観光客より生活者のたむろする所へ。South Kensington-Gloucester Road あたりをうろつき、イタリアンで軽い夕食とワイン2杯。上機嫌で地下鉄に乗りました。自分では酔っていたつもりはないのだが、空いた夜の電車で男4人、女2人の若者の着衣とふるまいに引きつけられ、彼らが降りるところを撮影しました。(顔は写らないようにしたが、一種の隠し撮りではあった。)
それをただちに咎められ、大柄の4人+2人に攻囲され、追及され、カメラを取り上げられ、destroy it とか‥‥。ぼくとしてはカメラそのものより、この2週間の記録が台無しになるのを恐れ、中身の保全第一に考えました。
このお兄さんたちにまずは謝り、I'm sorry では軽いので、I apologize. いろんなことを叫ぶ彼らのスピードに付いてゆきつつ、どうするか、なにができるか‥‥ぼくは station staff と何度も繰り返し(そのうちに口の中がカラカラになり)、若者たちもstaff だ、policeだと口にするようになった。
改札の中年女性、そして中年の男性が中立的に落ち着いて対処してくれて、ぼくのカメラの該当画像1枚をdeleteしたうえ、他の画像もざっと確認して(なんだかよくわからぬ文書や、町並ばかり‥‥)、若者計6名はぼくを威嚇しつつ消えていった。そもそも警官とは接したくない人びとでしょう。
Station staffは怪我をしなくて幸運だったと慰めてくれつつ、車内の撮影はいけません、ときっぱり明言。たしかに観光客に興味本位で撮られちゃ、愉快ではない。
ぼくが一種の文化人類学者気取りでカメラを向けたのに怒って、‥‥最後はカメラの操作画面をのぞきこみつつ、Chinese や Kantoneseじゃなく英語にしろ、とか叫ぶ気持は分からないではない。怖かったと同時に、済まなかったという気です。I apologize again.
(40年以上前にケインブリッジで同時に留学していたイスラエル人の文化人類学者夫妻が東京に来て、街頭でも地下鉄内でも人びとの様子を無遠慮にパチパチ撮りはじめたので、ぼくが不愉快になったのを今、思い出しました。動物園の珍獣か、原住民をみるまなざし‥‥。)
みなさんも、旅先ではどうぞ慎重に。

2023年9月16日土曜日

変わったもの、変わらぬもの

2日(土)夜にダブリンに着き、それからベルファストおよびアルスタの各地を歩き、ロンドン経由でバーミンガム大学、ロンドンでBEACHの初日(12日)だけ参加して、次の日からケインブリッジ大学、そして昨日(15日)はオクスフォードへ日帰りで91歳のO先生宅へ。 この間、ブログに書き込む暇もないくらい、タイトな2週間です。晴天に恵まれました。
バーミンガム大学ではカー文書を、ケインブリッジではアクトン文書を読んだというより、紙片や手帳やらをつぎつぎに閲覧してパチパチ写真を撮りまくりました。いろんなことが見えてくる!
オクスフォードのO先生はお元気で熱烈歓迎してくださいましたが、良い(revealing and moving)お話も聴き出せて、ものすごい収穫でした。こちらは日本人側4人の合力の成果です。いずれ活字にしたいものです。
ダブリンでもC先生、ケインブリッジではWさん、オクスフォードでO先生に再会したわけですが、それぞれ複合状況(contingency)の結果として親しくなれた人格者たち、わが人生を豊かにしてくれた方々です!
イギリス(とくにロンドン)の街並は、そして人びとは、4年前に比べてずいぶん変わったともいえるけれど、本質は変わってない。ただしEUからの逃避・脱落は、これからボディーブロウとして効いてくるでしょう。

2023年9月4日月曜日

フライトの不思議

いまダブリンです。海外に出るのは、2019年3月以来のこと。しかも戦争が進行中です。
東京から(シベリア・スカンディナヴィア経由で)ロンドンまでの直行便の飛行時間はかつて11時間(ロンドンから東京に向かう場合は偏西風に乗るので、もっと短かい)。それが戦争の影響で今では14時間半とのこと。
日本は戦争当事国ではないとしても、ウクライナ支持を明確にしている「敵性国」なわけだから、ロシア国家として、領空内の日本の民間機の航行の安全は保証しないのでしょう。どのように飛ぶのか、大いに関心がありました。
で、飛行中、(仮眠以外は)窓の外と、座席画面のFlight Mapを注視していました。
羽田を発って、千葉の幕張から霞ヶ浦を越えて、茨城の海岸から太平洋をずっと北上。以前のように日本海には向かわないのですね。それどころか、Flight Mapによると、千島列島の東を北上している! カムチャツカ半島の東側。
そこから、Flight Mapの表示は、信じがたい「奇行」を描きます↓
しばらくして、Mapは合理的な表示に戻り、アンカレッジから北極海へ
北極海からグリーンランドへ、そしてアイスランド上空(いつどのようにレイキャヴィクを通過したのかわかりませんでした)から荒々しい奇景を遠望して、なんとスコットランドへ。↓
要するに、昔のアンカレッジ航路を再利用して(ただしノンストップで)、ユーラシア大陸に触れることなく、カナダ・北大西洋を経由してブリテン諸島に到達する、という航路なのでした。ただし、ランカシャ・マンチェスタ・Midlandsは白いちぎれ雲が多く、いい写真は撮れませんでした。LHRには西から着陸。

2022年12月14日水曜日

チャールズ3世の即位と立憲君主制

 『世界』1月号(12月10日ごろ発売)No.965 に「チャールズ三世の即位と立憲君主制のゆくえ」という拙稿が載っています。
 エリザベス二世の国葬儀の朝(9月19日)に『朝日新聞』に載った「二人のエリザベス」を見た編集者が依頼してきたものですから、おお急ぎで、研究者にとっては既知のことを述べたにすぎません: pp.133-142.しかし、一般には常識・通念にはなっていない大事なこと、共有すべき知識というのは、少なくない。
 エリザベス二世の死、チャールズ新王の即位(5月に戴冠式)という代替わりに、国のかたち、権力のしくみが明示的に集約的に現れます。それは日本における1989年、2019年にも同様でした。歴史学や国家学の研究者を刺激してくれる良い機会です。
 ちょうど個人的にも礫岩のようなヨーロッパ(山川出版社)、天皇像の歴史を考える:コメント『史学雑誌』、王のいる共和政 ジャコバン再考(岩波書店)といった共同研究の成果をふまえて、十分に述べることができたと思います。いわゆるアウトリーチです。 → https://websekai.iwanami.co.jp/ 
 なお『世界』のこの号は、特集ではなくても加藤陽子さん、橋本伸也さん、藤原帰一さんなどなど、関係しないではない記事がいくつもあり、楽しめます。「アメリカの憂鬱」という up-to-date な特集もあります。

2022年9月18日日曜日

エリザベス女王からチャールズ王へ

今夕配信の『朝日新聞』オンライン版 ↓
https://digital.asahi.com/articles/ASQ9J6581Q9HUCVL044.html
で拙稿が公開されました。印刷版では、女王の葬儀(文字どおりの国葬です)の19日(月)朝刊に載るはずのものですが、ウェブでは半日早く公開されるのですね。
他の識者・先生方とはちょっとちがう議論をしています。『イギリス史10講』も『歴史とは何か 新版』も『王のいる共和政 ジャコバン再考』も著している者として、短いスペースながら言うべきことは言いました。
ウェブですとカラー写真で、かつ「紙媒体では所定のスペースから溢れ出てしまい、ボツになったチャリティ法についてのパラグラフ」が甦りました! ここにこそ、ウェブ版のメリットあり、ということですが、しかし、これでは紙離れ、ウェブ志向が、ますます進行してしまいます! ちょっと心配。

2022年9月9日金曜日

The Queen is dead

6日のバルモラル宮での首相認証式にはにこやかに臨んでいた Her Majesty the Queen でしたが、日本時間で今朝未明(8日午後 BST)に亡くなったということです。1926年の生まれで、96歳。心底、お疲れさまでした。
ヨーロッパの君主として例のとおり、間髪を入れず、
  The Queen is dead. Long live the King!
と宣告されたのでしょう。
新王「チャールズ3世」とは、ジャコバイトの呪われた歴史がありますが‥‥
イギリス史をやっていますから、いろいろと考えます。
今の時点では、立憲君主制あるいは「国のかたち」について、どこかに書いてみたいという気持になっています。
 かつて書いたもののうち、映画「クイーン」(2006)評、また中澤編『王のいる共和政』(岩波書店, 2022)にも関係します。

2022年9月8日木曜日

ラス ではなく ト

今回の党員投票で、英国保守党(の党員基盤)が、米共和党のそれに似た内向き・後向き集団であることがあまりにも明らかになりました。保守党議員投票による1位の Sunak(もと蔵相)が、エリート臭を嫌われて、党員投票では敗北しました。政策的になにか不合理なことがあったわけではありません。
逆に大学時代の労働党 → 自由民主党から保守党へと鞍替えし、EU堅持派から離脱派へと転換した(ようするに時流に乗るポピュリスト)flaky Liz(ハスっぱリズ)のトラスは、議員投票では2位止まりだったのに、一般党員の支持を集めました。理屈や合理性を問わない、したがって政策的有効性もわからない即効性のスローガンで勝利する、ジョンスン前首相と同じ手法です。
Liz Truss の発音ですがラスでなく、信頼の trust から t の足りないまま s を重ねた Truss ですからトスです。Trustworthy ではなく、Truss unworthy です。
ちなみにトラスのことを日本のマスコミは「サッチャ元首相を尊敬し「鉄の女2.0」とも呼ばれる」などと一知半解のことを言っています。これは2重の意味で失礼な話です。第1に Iron Lady は「鉄の女」ではなく「鉄の淑女」です。ゴルバチョフが名付けたと言われますが、「女」と見下しているのでなく「レイディ」と一定の敬意を表していました。
第2にサッチャは父も夫も保守党員で、父にも夫にも愛され、メソディスト(カトリック嫌い)で、ハイエク、フリードマンを勉強した筋金入りの Conservative & Unionist でした。トラスははるかに浮気で、上に書いたように党を左から右へ渡ったポピュリストであるばかりでなく、夫婦関係についてもサッチャ夫妻とは大違いです。
 いずれにしても Brexit の撤回、ヨーロッパ統合への(ベネルックス主導でない)イニシアティヴの回復がないと、連合王国(UK)の将来は暗い。北アイルランドの通商問題は全然解決していません。スコットランドの分離独立も行程表に上ってくるでしょう。しかも、たとえ次の総選挙で労働党政権になったとしてもEUへの復帰に舵を切れるかどうか。<左のグラフは『日経』より引用>

このままでは、われわれが知っている(幕末明治以来の)「英国」は、あと10年くらいのうちに解体してしまう運命でしょうか。イングランド人は、小さく「寄り添い、互いに平明な日常英語で語りあいつつ、「外の諸国や諸大陸はおかしな言動をするものだから、わが文明の恵みからも運からも孤立してしまったのだ」とかつぶやいているのです。」カー『歴史とは何か 新版』p.255  - これが61年前の連続講演の終わりに近い一句だとは、にわかに信じがたいほど、今に当てはまります。