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2024年12月20日金曜日

ナベツネと東京高校

 19日にナベツネ=渡辺恒雄さんが亡くなりました。1926年生まれ、98歳。
 2011年に亡くなった柴田三千雄さんと同い年です。そればかりか、旧制東京高校で同級生、学徒援農で、信州の農家に泊まり込み、なにかでお腹を壊して苦しんでいたところ、ナベツネに背負われてその農家まで帰ったことがある、というエピソードを聞いたことがあります。
昭和20年春に二人とも東京帝大文学部に入学、ただちに徴兵されて、ナベツネは茨城へ、柴田さんは習志野へ。8月に敗戦、生きて大学に戻り、ナベツネは哲学、柴田さんは西洋史。二人とも共産党に入って、やがて抜けた、という経歴も同じです。(しかしその後は、交遊があったとは聞いていません。)
 東京高等学校(東高)は、第一高等学校(一高)と同じく戦前のエリート校ですが、1921年に設立された比較的新しい(大正デモクラシーの)旧制高校で、戦後の学制改革により、一高と東高はともに東大教養学部として(人も資産も)統合されました。
 俗に「官僚になって出世するには一高、学者・インテリになるには東高」と語られたようで、シティボーイの通う「ジェラルミン高校」という渾名があったようです。
 渡辺、柴田以外に、有名どころの卒業生には、清水幾太郎、森有正、星新一、朝比奈隆、黒田寛一、生松敬三、城塚登、伊東俊太郎、南博、家永三郎、永原慶二、網野善彦、佐々木潤之介、山本達郎、二宮敬、高橋康也、糸川英夫、江上不二夫、小宮隆太郎、矢野健太郎、串田孫一‥‥などがいました。戦後日本を背負った、錚錚たる群像!
 東高で英語の教授、松浦嘉一に教わったというのが、柴田・松浦高嶺の友情の始まりのようです。

2024年2月12日月曜日

『ボクの音楽武者修行』その2

そういうわけで、中3(1962)の8月には3・4日かけて音楽室でベートーヴェンの全交響曲をスコアを見つつ聴く、といったこともやりました。学校にあったのはブルーノ・ワルター(コロンビア交響楽団)のステレオ録音全集。音楽室の音響環境を十分に生かすにはモノラル録音は不足、ということで、これを聴いたのですが、この点、今になってみれば、異議ありと言いたいところ。ぼくたちはフルトヴェングラー、トスカニーニ、クレンペラーなどのモノラル録音を聴き、しだいにフルトヴェングラーに圧倒されるようになっていたのです。
翌1963年4月に千葉高校に入ると、念願の音楽部に所属し、ここでさまざまの楽器に触り、ひとと合奏することの喜びを知りました。中3の悪ガキたちはほとんど全員、一緒でした。11月23日、県内の高校演奏会の朝に、ケネディ大統領暗殺の報が入り、落ち着かない空気の会場で演奏したことについては『いまは昔』(2012)にも記しました。高1の1年間は、フルトヴェングラーのベートーヴェン、そしてヴァーグナーと向きあった1年でした。ドイツ語を勉強したいと思いました。
そのころ『指揮法入門』という本を KK*と一緒に購入し、勉強を始めました。(ぼくとは違う)中学のブラスでクラリネットをやっていた彼は、本気で芸大に進むつもりでしたから、高1の途中からピアノの先生に付いて楽理も勉強し始めた。ぼくはといえば、アマチュアのまま、『ジャン・クリストフ』を読むのと同じ構えで総譜を開いていたに過ぎないので、すぐに付いて行けなくなった。音楽ではない領域で武者修行するしかないと認識します。高2になると同時に音楽部は退部して、別の勉強を(ドイツ語の基礎も)始めました。
【* このKKは、前記の高梨先生を訪ねていったK とはちがう男で、現役で芸大の指揮科に入学しました。その前後から個人的つきあいはなくなってしまったけれど - 1982年秋にぼくが留学から帰ってきてみると、NHKFMでマーラー、ブルクナーの放送があると、必ずのように登場してコメントする人になっていました。 ちなみに、Kというイニシャルは日本人にはたいへん多くて - 加藤も木村も工藤も近藤も - 一対一識別は困難です。この芸大に行った楽理の同級生は KKとします。むかし『ハード・アカデミズム』(1998)という本で高山さんは、K先生、K教授、K助教授といった区別をしていましたが、ほとんどナンセンスな識別法でした。正解は順に木村尚三郎、城戸毅、樺山紘一で、刊行時には3人とも先生で教授でした!】

小澤征爾という方とはお話したこともないし、その人柄は報道でしか知りません。『朝日新聞』がウェブで再掲載している、1994年9月、サイトウ記念オーケストラのヨーロッパ公演後の上機嫌のインタヴュー(59歳、4回連載)
https://digital.asahi.com/articles/ASS296F34S29DIFI00X.html
では、彼のフランクな発言が引き出されています。昨11日朝の『朝日新聞』オンライン版では、村上春樹が天才肌の小澤の晩年のエピソードをいくつか紹介しています。
https://digital.asahi.com/articles/ASS2B5223S29ULZU00L.html
小澤征爾ほどの才能もエネルギーも持ちあわせなかったぼくとして、羨ましいかぎりですが、それにしても、生涯をかけてヨーロッパ近代文明の本質に(別の面から)接することになった者として、参考になることばかりです。
ずいぶん前のNHKの番組は、ボストンの小澤が(二人の子どもの成長を気にかけながら)早朝からスコア研究にたっぷり日時をかけている様子を描いていて、とても好ましい印象でした。印刷総譜だけでなく、ベートーヴェン自筆譜(の大きなファクシミリ)になにか書込みながら探究している様子は、調べ究める人(ギリシア語の histor)の好ましい姿に見えて、以前よりも好きになりました。

2022年12月2日金曜日

毎日新聞 夕刊〈特集ワイド〉

世間はFIFAワールドカップで沸き立っています。他方で、宮台さんの襲撃事件で厳粛な気持にさせられています。
個人的には、先月に毎日新聞社であった取材をもとに、今日の夕刊に〈特集ワイド〉の記事が載っています。オンラインと紙媒体の記事の異同は、まだ確認していません。引用されている発言はぼくのものですが、それをもとにあくまで福田記者が構成した文章です。
 予想していたよりもぼくの顔写真が大きいのと、タイトル「この国はどこへ これだけは言いたい 歴史を顧みる姿勢大事 E・H・カー新訳 近藤和彦さん 75歳」には、ビックリしました。老人が世の中から消えてゆく前に「これだけは言っておかねば‥‥」と遺言しているかのような雰囲気? 
でも(家人に、ぼくの顔ってこんなもんだ、と言われて)もう一度落ち着いて読み直すと、まぁたしかにカー先生や『歴史とは何か 新版』のことばかりでなく、こんな話もしたな、ということを、有能な記者さんが上手に誘導して上手にまとめてくれているのかもしれない。
https://mainichi.jp/articles/20221202/dde/012/040/005000c
皆さんが読むと、どう受けとめられるのでしょうか。

2022年9月18日日曜日

エリザベス女王からチャールズ王へ

今夕配信の『朝日新聞』オンライン版 ↓
https://digital.asahi.com/articles/ASQ9J6581Q9HUCVL044.html
で拙稿が公開されました。印刷版では、女王の葬儀(文字どおりの国葬です)の19日(月)朝刊に載るはずのものですが、ウェブでは半日早く公開されるのですね。
他の識者・先生方とはちょっとちがう議論をしています。『イギリス史10講』も『歴史とは何か 新版』も『王のいる共和政 ジャコバン再考』も著している者として、短いスペースながら言うべきことは言いました。
ウェブですとカラー写真で、かつ「紙媒体では所定のスペースから溢れ出てしまい、ボツになったチャリティ法についてのパラグラフ」が甦りました! ここにこそ、ウェブ版のメリットあり、ということですが、しかし、これでは紙離れ、ウェブ志向が、ますます進行してしまいます! ちょっと心配。

2022年8月25日木曜日

『日経』と『朝日』

北海道も暑かったとはいえ、30度以下でした。東京に戻ってあらためて気付いたのは「蝉しぐれ」です。
21日(日)『日本経済新聞』The Style の「文化時評」に掲載されたのは、深田記者のエッセイ風「『歴史とは何か』とは何か」でした。
24日(水)『朝日新聞』夕刊の1面は北海道・富良野の鉄道についてでしたが、2面「考える read & think 」というぺージには、大内記者の「問いかける知識人 新たなカー像」というインタヴュー記事が見えます。ぼくの顔写真までも。
どちらも市松模様の写真とともに、たっぷり書いてくださって、有難いことです。

2022年7月3日日曜日

書評ふたつ

 きのう(土)の『毎日新聞』書評欄には、加藤陽子さんの『歴史とは何か 新版』評が載っていました。いろいろなことの分かっている加藤さんですから、本の装丁から全体の構成について特徴を指摘しつつも、ナゾリでなく、具体的なイメージの湧く紹介をと心がけておられる。註についての言及に続いて、訳文における[笑]の挿入についても「余裕ある理性には、笑いがふさわしい」と言ってくださって、ホッとします[笑]
https://mainichi.jp/articles/20220702/ddm/015/070/020000c
 「「無人島に一冊だけ持って行くなら」という問い方がある。‥‥断言してしまおう。上半期ではこの新版がそれだと。ただ、原作と清水訳の新書も持っては行きたい。」
 これは最高級のお誉めの言葉です。たしかに原文の英語はどうだったのか、それに清水幾太郎はどう訳していたのか、その違いと how を確かめたくなりますよね。
 最後の締めの文は -「カーは常に新しい。」でした。

 ウェブでは匿名のコメント評が多数あるようですが、ここでは署名ブログから:
http://www.kai-workshop.com/diary/diary.cgi?move=202206
 筆者・難波和彦さんとは、まったく存じ上げない方ですが、「界工作舎」という建築設計社の代表のようです。文中に鈴木博之とか陣内秀信といった知らないではない方々の名前も出てくるので、どこかですれ違っていたのでしょうか。
 東奔西走のお忙しい仕事の合間に、6月10日から21日までかけて1講づつ丁寧に読んでくださいました。最初の10日のコメントは、「‥‥同じタイトルの第1版の『歴史とは何か』(E.H.カー著 清水幾太郎訳 岩波新書)は古典的名著であり大学時代に読んだ。‥‥自叙伝、詳細な補註が加えられている。講義自体も新訳なので、NHKラジオでの話の仕方を念頭に置きながら読んでみよう。」と始まります。ラジオでのトークもなさる方なのか。
その最後の言葉(21日)は、「‥‥たまたま手にした本書からは、実に沢山のことを学び、さまざまなことを考えさせられた。久しぶりに充実した読書だった。」とのこと。 訳者冥利に尽きるものです。ありがとうございました。

 ところで、建築士/建築家 architect とは近世・近代のイギリスで gentleman's profession であるということは20歳くらいまでのナイーヴなぼくは知識としても知らなかったのでした。心底そうだったのだと理解したのは、恥ずかしながら、1981年にロンドンの Sir John Soane 邸(Lincoln's Inn Fields)に訪れたときです。つまり33-4歳まで、ぼくは「何も知らなかった」!
 『歴史とは何か 新版』の2箇所(pp.11, 276)で建築家(大工の棟梁)についての訳註をくりかえしていますが、そうした昔の自分を省みての慚愧の訳註です。

2021年12月31日金曜日

『歴史とは何か 新版』

 2021年もあわただしく終わろうとしています。いろいろと欠礼してしまったことはご容赦ください。
 学問的には充実した1年で、中澤達哉(編)『王のいる共和政 - ジャコバン再考』の1章も仕上げましたが、それとは別に春から、E・H・カー『歴史とは何か 新版』の翻訳に取り組みました。両方とも岩波書店です。

「歴史とは、歴史家とその事実とのあいだの相互作用の連続するプロセスである」とか、
「歴史とは、現在と過去のあいだの終りのない対話である」といった、印象的で上手な説は人口に膾炙していますが、それで終わる本ではない。もっと深い学識と、未来への理性的な投企が宣言された書でもあります。カーが講演の依頼を受けてただちに、最初の粗稿をアメリカへのリサーチ旅行の船上でしあげ、その後、1年半にわたって熟成し、十分に準備して、ケインブリッジ大学の講義棟を一杯にして行われた講演です。
 BBCラジオでも放送され、『リスナ』誌に連載され、その年内に公刊した、勢いある講演録でした。新聞の論説委員もBBCの講演も十分に経験しているカーですから、そして言いたいことが一杯あるカー先生でしたから、そのこと(頭のなかでバズっていること)が読み取れないままでは、なんだか古今の引用の多い - ときにはラテン語の詩やフランス語の科学論まで、訳されないまま出てくる - 難解な書という印象しか残らないのではないでしょうか。
 ぼくは名古屋大学でも東京大学でも立正大学でも、それぞれ1年分だけ演習で読んだことがあります。いずれも(一部の)学生の反応はたいへん良かった。しかし、難しい(よく分からない)という反応も必ずありました。ぼく自身もよく読めているのかどうか自信を持てない箇所がいっぱい。

 コロナ禍で鬱々とする日夜がつづく間に、思い立って、前々から話のあった『歴史とは何か』の第二版をきちんと正確に(講演なのだから)よくわかる日本語にしよう、という気持をかためて岩波書店と話をしてゴーサインが出たのが、今年の3月。以来、考えていたより時間はかかりましたが、今は初校ゲラを抱えています。
 しっかり読み込むと、クローチェをアメリカに紹介した Carl Becker がコーネル大学であの R. R. Palmer を研究指導した(!)といった関係も発見し、なにより巻頭に出てくる『ケインブリッジ近代史』のアクトン教授が、最初だけでなく何度も何度も、数え方では17回も言及されるのは何故か、今回はじめて分かった気になりました! 嬉しい(再)発見の多い本です。1961年12月に刊行されて、ちょうど60年ですが、全然古くなっていないどころか、あらためて69歳のカーの意志の強さに感銘します。当然ながら執筆刊行中だった『ソヴィエト=ロシアの歴史』をいったん停止してまで取り組んだ What is History? ですから、内容にふさわしい訳本とします。訳註もたっぷり付けます。見開き左註で、見やすい版面にします!
 あす元日の『朝日新聞』に出る岩波書店の広告に、『歴史とは何か 新版』の2・3行も引用されるそうです。どんなデザインか、ぼくもまだ知りません!

2020年11月4日水曜日

American democracy? 

みなさんと同じく、テレビの米大統領選挙の開票速報にクギ付け、ときにインターネットで米紙の速報を見たりしています。

それにしても、4年前に続いてまたもや世論調査はまちがって、民主党支持率を多めに、トランプ支持率を低めに見積もってしまいました。開票してみると、かつての激戦州では、今回トランプが予想以上に伸び、バイデンが勝つ場合も差は僅差です。これが悪意のデータ操作でないことを祈りますが、根本的に方法的な問題がありませんか?

世論調査を指揮している専門家が、そして実際の対質者が(自分たちはバカじゃない、エゴイストじゃないという立場から)、こんなにも非合理な共和党・トランプ支持者をバカか、エゴイストかと見て/見えてしまう‥‥といった具合に、観察者の観点が対象に反映して、調査の結果を左右していないでしょうか。 薬の治験や、社会調査における中立性の保証(ダミー薬も投与する、or「Youの意見・投票について尋ねるのでなく your friend の意見・投票について尋ねる」)といった手法は厳守されているのでしょうか?

これまでゴア候補もヒラリ・クリントン候補も微妙な負けかたをしたけれど、最終的には潔く敗北を公に認めて政治ゲームを終わらせました。 あることないこと出まかせに言って4割のコア支持者を固め、「私は敗北を認めない」と公言する現職大統領(!)は、スポーツマンシップにももとる! こんな政治手法で権力を維持しようという「ジャイアン」を歓喜して支持する4割の有権者。こんなことがまかり通るなんて、まるで16世紀内戦中のフランスや現代アフリカの部族国家みたい。

 

この4割のコア支持者に訴えあおりながら権力政治を操作してゆく手法が、これからほかの国々でも定着してゆくのだとすると、恐ろしいことです。 テレビの視聴率4割だったら、モンスター番組でしょう。でもこれは大国の政治です。4割の硬い支持を根拠に(浮動・無関心が2割)面罵し、分断をあおりつつワンマンが強権的に「指導」してゆくのだとすると、これはナチスとどこが違うんですか?

ぼくはコア支持者よりもっと広く、なんらか公共性普遍理念に訴えるスピーチを聞きたい。  すべては、投票に行かない有権者の責任でもあります。  愚かな民には愚かな政府がふさわしい。

2020年11月1日日曜日

まともな発言

 この間の日本学術会議問題に現れた政治文化、マスコミや有権者のより深い問題、反知性主義について、こんな文章もあります。

 たとえば『日経ビジネス』における小田嶋隆さんの「ア ピース オブ 警句」 https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00090/

は辛口で、ジャーナリストおよび国民を(臆病な)チキンないし小学生程度とこきおろします。チキンではなかった NHKクロースアップ現代の国谷裕子キャスターがなぜ降板させられたか、という問題にも説きおよびます。小田嶋氏の結論は、次のとおり:

≪ そして、[チキンたちは]学者から学問の自由を奪い、研究者を萎縮させ、10億円ばかりの税金を節約することで、何かを達成した気持ちにさせられるわけだ。で、われわれはいったい何を達成するのだろうか。たぶん、役人から安定を奪った時と同じ結果になる。  安定した生活を営む役人をこの国から追放することで、われわれは、めぐりめぐって自分たちの生活の安定を追放する仕儀に立ち至っている。おそらく、自由に研究する学者を駆逐することを通じて、われわれは、自分たち自身の自由をドブに捨てることになるだろう。  昔の人は、こういう事態を説明するために、素敵な言葉を用意しておいてくれている。 「人を呪わば穴二つ」というのがそれだ。  他人の自由を憎む者は、いずれ自分の自由を憎むことになる。≫

 なおまた学者知識人の発言としては、三島憲一さんが『論座』で↓

https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020102100003.html https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020091400003.html https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020102200007.html

まともな議論をしています。とりわけ「人事だからこそ、その理由を言わねばならない」と説き、ムッソリーニやヒトラーのいない「日本型のファシズムを考え」ようとしているのは、異議なし。

 ときを同じくして恒木・左近(編)『歴史学の縁取り方』(東京大学出版会)が公刊されました。恒木氏、そして最後の章の小野塚氏が冴えている。きわめて刺激的でおもしろい本。これについては、また後日に。

2020年10月29日木曜日

記者会見

 学術会議会員の不任命とその後の菅総理大臣および加藤官房長官の説明にならない言い逃れ、といった事態から、じつは学術会議がどうこう、というよりもずっと深刻な情況が明らかになって来つつあると思われます。権力者の意思は黙って貫き、異論は無視して -「人のうわさも75日」だから - やがて、くどくどと同じ対質をくりかえす連中は孤立し、結局は内閣官房の思いどおりに世の中は動き定まる‥‥。その内閣官房の意思は、どのようにして(どんな理由いつだれが言い出して、可能な別の選択肢は不採用として)決まったのか、については「最終的な決済」以外はゴミなので破棄して記録は残さない‥‥。

 このような、法治国家や市民社会にあるまじき、権威主義的な集権国家がいつのまにか登場し、通用し、こうしたことに「おかしい」とか「気持が悪い」とか言うひとはたしかに一定数いるが、それが国民の、あるいはマスコミの大多数にはならない、という情況。これが不気味です。いつこうなったのでしょう?

 古川さんと鈴木さんの始めた change.org の署名活動が、14万人以上の署名を短時間で集めたこと、そして10月13日にこれを内閣府に提出したことはNHKなどで報じられました。 → https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201013/k10012661631000.html

 さらに26日には日本記者クラブで記者会見が行われ、古川さん、鈴木さん、瀬畑さんの発言、質疑の様子が Youtube で(計1時間17分)見られます。組織的でも党派的でもない、3人の誠実さと真意が現れた、よい記者会見だったと思います。まだなら、どうぞ → https://www.youtube.com/watch?reload=9&v=5W71tY9IqBY&feature=youtu.be

 古川さんのキーワードは不公正(アンフェア)、鈴木さんの場合はわたし個人の考え、瀬畑さんの場合は、政府も自信をもって理由を公けにしてください、でした。

2020年10月22日木曜日

〆切は今日22日(木)

菅政権の反知性主義的で、強権的というより陰険な政治のやり方への抗議の署名キャンペーンが続きます。「西洋史研究者の会」の呼びかけたものは今晩で〆切です。 → https://seiyoushi-kenkyusha-kai.org/

賛同署名者は西洋史研究者に限定していません。あくまで個人的に賛同してくださった方々です。そのご氏名(匿名希望者は除く)は、こちら → https://seiyoushi-kenkyusha-kai.org/index.php/home/sandousha/

携帯の自由競争、前例打破‥‥といった受けの良い政策提言で支持率を維持しつつも、都合の悪い文書記録は残さない/廃棄するという、近代法治国家としてはありえない官房の(断固たる!)方針に支えられた知性攻撃ですから、恐ろしい。

「総合的・俯瞰的」という管理者的で上から目線の言い逃れだけで、なにも理由を説明しない、「木で鼻をくくった」応答に終始するのではいくらなんでもまずいだろう、という発言が自民党議員のなかにもチラホラ出ています。その名は記憶しておきたい。 → 岸田文雄(前政調会長)、稲田朋美(元防衛相)、村上誠一郎(元行革担当相)! こうした議員までもが「説明責任を果たしていない/乱暴ではないか」と言明する事態なのです。

なお、10月2日のぼくの発言もご覧ください。 → https://kondohistorian.blogspot.com/2020/10/blog-post_37.html 

2020年10月14日水曜日

日本史の14万人余り署名

今夕のNHKニュースで14万人余りの署名をもって内閣府へ提出しに行った鈴木淳さん古川隆久さんの勇姿を拝見しました。日本史の近現代史ゼミの元院生の皆さんが見せた結束力。すばらしい。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201013/k10012661631000.html

それから一歩遅れて始まった「西洋史研究者の会」ですが、 → https://seiyoushi-kenkyusha-kai.org/index.php/shomei/

「今回の任命拒否の6人に宇野重規さんの名前が。えっ誤爆じゃないの‥‥」 という声もあります。ぼくもそう思いました。 宇野さんはそもそも自由な人で、その立場を貫いて安倍政権のいくつかの施策に反対を表明していたにすぎない。菅義偉およびその取り巻きたちは、「諫言」(かんげん)という言葉を知らず、「甘言」のパンケーキに囲まれていたい人々なのか。 これでは、自由民主主義の政治家としての未来はありません。

もともとテレビでアップされた菅の「眼」には(安倍晋三にはない?)暗さ・悲しさのようなものを感じていました。おぼっちゃま安倍晋三くんより、実力と運で這い上がってきた菅義偉くんのほうが狭量(非寛容)で、陰険(危険)なのかもしれません。 それが就任時のご祝儀高支持率を背景にして、菅イカロスのように、冷たく結論だけ表明して、「分かるでしょ」「よく考えなさい」という路線を押し出してきたようです。これはモンテスキュのいう専制政治、- 法も徳も名誉もなく - 君公の勝手な都合と「恐怖」によって統治するデスポティスムです(『法の精神』岩波文庫、上、pp. 51, 82-3)。

9日の「3社グループインタヴュー」における「105人のリストは見ていない」という発言は、学者を小馬鹿にしたものでした。万が一にも(見てもだれとは分からないから)「テキトーに5・6人削っといて‥‥」ということだったとしたら、不勉強すぎます。秘書官などに選別をまかせた、即 総理大臣以外の判断結果をみて「99名任用」がなされたということなら、違法性はさらに増しますよ。法学部卒業者なら、そこは分かるでしょ。

このところ、日本も合衆国も連合王国も中国も(!)それぞれの現れ方には政治文化のちがいがありますが、それにしてもそれぞれ大変な時代(great transformation!)に居合わせたものですね。 こちとらも、老いぼれてはいられません!

2018年8月27日月曜日

<帝国>と世界史


(ちょっと日にちが空きましたが)『日経』郷原記者の「アジアから見た新しい世界史 -「帝国」支配の変遷に着目」の続きです。第1の論点について異論はありません。特別に新規の説ではなく、多くの読者に読まれる新聞の文化欄8段組記事ということに意味があります。

 第2の論点、帝国となると、そう簡単ではありません。郷原記者は平川新『戦国日本と大航海時代』(中公新書)を引用しつつ、16~17世紀に「日本は西欧から帝国とみなされるようになった」「太閤秀吉や大御所家康は西欧人の書簡で「皇帝」、諸大名は「王」とされた」と紹介します。
 それぞれ empire, emperor, king にあたる西洋語が使われていたのは事実ですが、そもそも中近世の empire を帝国、emperor を皇帝と訳して済むのか、という問題があります。近藤(編)の『ヨーロッパ史講義』(山川出版社、2015)pp.93-105 でも言っていることですが、emperor はローマの imperator 以来の軍の最高司令官のことで、近世日本では征夷大将軍や大君(ないし政治・軍事の最高支配者)を指します。京のミカドというのはありえない。
 また empire はラテン語 imperium に由来する、最高司令官の指令のおよぶ範囲(版図)、あるいはその威光(主権)を指していました。だから吉村忠典も早くから指摘していたとおり、帝政以前の共和政ローマにも imperium (Roman empire の広大な版図)は存在したのです。『古代ローマ帝国の研究』(岩波書店、2003)および『古代ローマ帝国』(岩波新書、1997)。
 たしかに近現代史では emperor は皇帝、 empire は帝国と訳すことになっていますが、その場合でも emperor は武威で権力を手にした人、というニュアンスは消えないので、神か教会のような超越的な存在による正当化が必要です。中国の皇帝が天命により「徳」の政治をおこなったように。
 1868年以後の日本では将軍から大政を奉還されたミカド、戊辰の内戦に勝利した薩長の官軍にかつがれた天皇に Emperor という欧語をあてましたが、これはフランスの帝政をみて、また71年以降はドイツのカイザーをみて「かっこいい」と受けとめたからでしょう。ただし、武威で権力(統帥権)を手にしただけでは御一新のレジームを正当化するには不十分なので、神国の天子様という「祭天の古俗」に拠り所をもとめ、89年の憲法でも神聖不可侵としました。そうした神道の本質をザハリッヒに指摘した久米邦武を許さないほど、明治のレジームは危うく、合理的・分析的な学問をハリネズミのように恐れたのですね。

2018年8月22日水曜日

世界史と帝国


 このところ『日経』の記事にあらわれた現代史および今日的な情況について発言を繰り返していますが、じつはその動機/促進要因は、8月11日(土)の文化欄、
アジアから見た新しい世界史 -「帝国」支配の変遷に着目」にありました。
 これは郷原信之さんの久しぶりの署名記事で、2つほど大事な論点(の混乱)があって、そのことを明らかにするのは簡単ではない、一つの論文が必要なくらい、と思ったのです。しばらく対応できないでいるうちに、次々に周辺的な、簡単にコメントできる問題が続いたので、そちらに対応してうち過ごしていた、というわけです。

 帝国や世界史といったテーマで、長い研究史をふまえた話題の出版物が続いていますが、これはじつは郷原さんの東大大学院における研究関心でもあった。彼が修士を終える2001年春までに『岩波講座 世界歴史』は完結し、イスラーム圏をはじめとする「東洋史」の勢いもあたりを払うほどのものとなり、加えてイギリス史における「帝国史」研究グループもミネルヴァ書房の5巻本の企画を進めていたころでしょう。
【それまで関西の人たちの愛用していた「大英帝国」という語が - 木畑さんの語「英帝国」を経て - 中立的な「ブリテン帝国」ないし「イギリス帝国」に替わるのも、これ以後です。まだまだ大英帝国が大日本帝国と同様に右翼の用語だということを知らないナイーヴな人たちばかりでした。スポーツ大会の開会式で、右腕をまっすぐ伸ばして宣誓するスタイルがヒトラー・ユーゲントの作法だと知らないまま、指摘されて「別にそんな邪悪な意図があったわけじゃありません」と釈明するのと同じ。歴史的に無知な公共の言動は罪です。】

 郷原さんの論点の第1は、西欧中心史観ではない世界史、ということで、岡本隆司羽田正といった方々の著作によりながら、いまや学界のコンセンサスと思われることが確認されます。西ヨーロッパがグローバルな勢いをもつのは、15・16世紀の貧弱なヨーロッパの冒険商人が、豊かなアジア(インド)の通商に交ぜてもらうことを求めて大航海に乗り出してから、かつ(偶然が重なって)アステカおよびインカの文明(帝国?)を簡単に滅ぼしてしまってからです。アジアに対して傍若無人・蛮行は通用せず、その豊かな経済と文化に遅参者として交ぜてもらうしかなかった。その結果は、対アジア貿易の赤字の累積です。なんとかせねばならない。
 18世紀からいろんなことが重なって、ユーラシアの東西関係は激変し、なぜかオスマンもムガルも清も、ヨーロッパ人に対する関係が弱腰になる。イギリス・フランスの植民地戦争がグローバルに展開するのも同じ18世紀です。戦争と啓蒙と産業革命の18世紀の結果として、近代西欧はわたしたちの知る近代ヨーロッパとなった。1800年の前と後とで世界史の姿はまるで違います。そして、これは今日の歴史学のコモンセンスで、『日経』の記事がその点を、別の筋から確認したことには意味があります。
【念のため、古代ギリシアをオリエント文明の辺境として捉えるのは今に始まったことではなく、『西洋世界の歴史』(山川出版社、1999)pp.4, 8 などにもすでに明記されています。大航海の動機や産業革命の始まりを合理的に説明するには、西欧中心史観では不可能、ということは、拙著『イギリス史10講』(岩波新書、2013)でも、今秋に出る『近世ヨーロッパ史』(山川リブレット、2018)でも繰り返しています。】

ただし、第2の論点、帝国となると、そう簡単ではない。そもそも empire を帝国と訳してよいのか、という問題から始まります。

2018年8月21日火曜日

教養と新聞記者

 
 このところちょっと『日経』をほめすぎたようですから、今日は苦言を。
歴史や哲学 手軽な教養書ヒット」という『日経』8月13日(月)夕刊の記事。
「教養書ブームの歴史」という横組の年表(?)も添えられていますが、1954年のカッパブックスに次いで1968年の吉本隆明『共同幻想論』、その次は1976年、渡辺昇一『知的生活の方法』、そして1983年浅田彰『構造と力』‥‥、といった選択の基準がわからない。テキトーに10年に一つを選んだということかもしれないが、それにしても戦後の高度成長期に「世界文学全集」のたぐいが各社から出て、戦前からの岩波新書の好調に続き(この記事にも言及された光文社「カッパブックス」の後には)、中公新書、講談社現代新書の創刊が続いたこと、そして60年代半ばから90年代まで『岩波講座』が大学生市場を席巻したという事実をうかがわせる兆候は示してほしい。
 本文では、野本某の言「いずれ古びるハウツー本を読むより、古典的な教養に触れた方が自分が高まると感じる人が多いのではないか」という引用。その2段下には、歴史学者(?)與那覇某の言として「教養を通じて、無限に広がる世界へアクセスしたいと思っている読者は、そう多くない。‥‥昔から伝わってきたものに宿る本物らしさに、安心を求めているのでは」と引用されている。
 これでは、できの悪い大学生のレポートみたいなもので、「教養」というものに触れたい人が多いのか少ないのか、いったいどっちなんだ、と詰め寄りたくなる。両者の意味する「教養」の内実が違うと示唆しているわけでもなさそう。だれがどう言っていますという引用センテンスを並べるだけなら、キッザニアで「記者ごっこ」をして遊ぶ孫たちにもできる。

 さらにいえば、戦後の高度経済成長にともない、大学進学率が(1950年代の)8%くらいから(70年代に)20%を越え、(2000年代には)40%を越えました(男女計)。2010年以後進学率は50%を越えたとはいえ、停滞しています(当然でしょう!)。そもそも若年人口も総人口も大卒人口も「団塊の世代」の250万人/年が押し上がるとともに増えてきたわけで、教養主義の盛衰は、大学生( → 大卒者)の絶対数および総人口比とあきらかに相関しているでしょう。
文科省の発表数値を西暦に書き直した表(4大について)
大学への進学率グラフ(第6図が4大について)
年次統計.com(短大を含む進学率)

 そうしただれでも思いつく事実の示唆さえないのは、担当記者(2人)の取り組みのええかげんさを示しています。つまり、これは「盆休みの[スペースを埋めるためだけの]消化記事」だった、ということなのかとさえ疑われる。
デスクにも責任があります。「しっかり事態を観察して、背景を調べ分析し、立体的な論理をたて、こうだという説得性のある文章にして、初めて大卒の書いた記事になるのだ」とかいって原稿を突っ返す、デスクはいなかったのか。

2018年8月18日土曜日

堪え/がたきを堪え 忍びがたきを忍び


 「平成最後の夏(上)」のつづきです。『日経』の同じぺージに「終戦の詔書」の原本の写真があります。記者は詔書の日付が8月14日だということの確認のつもりで添えたのかもしれませんが、この写真はそれ以上に雄弁で、「玉音放送」を朗読した昭和天皇の「間」の悪さというか、演説の下手さかげんの根拠のようなことがようやく見えてきました。

 大きな字で清書してあるのはよいけれど、(昔の正しい国語らしく)句読点がまったくないばかりか、なにより行の切れ目と意味の切れ目が一致しない。
【以下、写真のとおり詔書を転写するにあたって、行の切れ目に/を補います。それから文の終わりに、原文にはないが「。」を補います。カナに濁点もありません。こんな原稿を手にして、なめらかに、リズミカルに朗読せよ、というのが無理というもの。】

【前略】  ‥‥爾臣民ノ衷情モ朕 善/
ク之ヲ知ル。然レトモ 朕ハ時運ノ趨ク所 堪へ/
難キヲ堪へ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ/
太平ヲ開カムト欲ス。/
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾 臣/
民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ。/  【後略】

(わたしたちの感覚では)まるで清書した役人が意地悪だったのかとさえ憶測されるほど、パンクチュエーションもブレスも無視した原稿です。
 玉音放送のあの有名な「然レトモ 朕ハ時運ノおもむク所 堪へ[ここに1秒弱の空白]
がたキヲ堪へ 忍ヒがたキヲ忍ヒ‥‥[このあたりは順調に朗読]」
の読み上げで、音楽的にも文学的にもナンセンスな「間」が入ったのは、ご本人のせいではなく、じつは大書された原稿の行末から次の行頭へと縦に眼が移動する(Gに反する動きゆえの)物理的な「間」なのでした!
 詔書はマス目の原稿用紙ではないのだから、気の利く臣下だったら、(句読点の代わりに)数ミリの空白や文字の大小を上手に巧みにまじえて、行末で重要語のハラキリ、クビキリが生じないように清書できたでしょうに。【今日の NHKのアナウンサー原稿も大きな縦書きですが、句読点は明示し、なるべくハラキリ、クビキリの生じないように工夫しているでしょう。】
 陛下、まことにご苦労なさったのですね!

それにしても「爾(なんじ)臣民」のくりかえしが多い。上の6行だけで3回も!
 ポツダム3国(連合軍)の意向ににじり寄りつつ、「‥‥國體(こくたい)ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾 臣民ノ赤誠ニ信倚シ」、天皇制を維持してよいというかすかな保証をなんらかの筋からえて嬉しい。なんじ人民も蜂起や軍事クーデタを企てることなく、「赤誠」の志を示してくれるなら、共にやってゆこうと祈念していたわけですね。

8月15日ということ


 
 『日経』14日夕刊の「8月15日 ニュースなこの日」という記事は、簡潔でザハリッヒでした。1995年、村山首相の「終戦記念日にあたって」という談話。これは特に日本遺族会会長、橋本龍太郎の合意をとったうえで閣議決定、発表にもちこんだのでした。
 記事の最後、「‥‥戦後70年談話でも安倍晋三首相は、過去の談話でキーワードとなった「植民地支配」「侵略」「反省」「おわび」の文言を全て盛り込んだ。いずれの談話も閣議決定し、政府の公式見解となった」と締めているのが良い。

 ここから昭和天皇を怒らせた靖国神社のA級戦犯合祀(1978年)を撤回する決断までは、あと一歩かと思われますが、しかし、日本政治の決定的局面で、今なお「右翼バネ」が効いているわけです。
 同じ『日経』、14日(火)の社会面で「平成最後の夏(上)」という連載が始まりました。この日は、全国戦没者追悼式の変遷をたどり、これが最初に開催されたのは1952年5月2日、新宿御苑で、その後、空白がつづいたこと。1963年8月15日に日比谷公会堂で再開され、翌64年に靖国神社で、65年に日本武道館で開催、以後これを踏襲、という事実が確認されます。
 そのうえで、シンボリックな日付8月15日の根拠をあらためて問うているのが良い。「終戦の詔書」は8月14日(ポツダム宣言受諾日)付、降伏文書に調印して国際法的に戦争が終わった日は9月2日。では、なぜ8月15日が終戦=敗戦の日とされてきたのか? 一に「玉音放送」と「お盆」との重なりゆえで、なんとも内向きでガラパゴス的な invention of tradition なのでした!

 靖国の関連で、念のため、右翼であることと、保守であることは、同じではありません。保守(反革命)はバークやピールのように、ある普遍的な世界観に結びつきうる。それにたいして右翼(ナショナリズム)は、アメリカのKKKも、日本の軍部も遺族会も、普遍性への指向はなく、縦に連なるとされる(本質!?の)系譜にこだわり、これを相対化するような批判にはハリネズミのように身構える。井の中の蛙ですが、武力をもつと、こわい! 

2017年9月17日日曜日

記憶/記念の(発信の)場


歴史意識についてexplicit で象徴的なモニュメントは、前にも書いたとおり、ダブリンの場合、他の都市にもまして場所の記憶と結びついて顕著だと思われます。中央郵便局や聖スティーヴン公園に1916年関連のモニュメントが集中し、逆にトリニティ・カレッジ(大学)には18世紀ないし19世紀のリベラリズムが表象されているように。
ドイツ語では記念碑を Denkmal と言いますが(松本彰さんなど)、考えるよすが or 考えることをうながす存在ですね。経験的な感覚と思索をうながされました。

なおまた立像が横溢するロンドンのシンボリズムについては、The Evening Standard 紙に議論が載っているのを坂下史さんから教えられました。↓
https://www.standard.co.uk/comment/comment/simon-jenkins-it-s-time-to-have-the-argument-about-london-s-historic-statues-a3622161.html

 今日のアメリカ合衆国において、南軍 Confederatesはracistだ、として南軍関連の立像を攻撃しているグループの行動は、あたかも「民のモラル」の代執行のようです。The Evening Standard 紙の良識は、あくまで複合文化、競合する価値の併存をとなえる相対主義の立場です。その結論は London is a diverse and sometimes offensive city. I would rather it was both than neither.
ちょっと崩れた破格な英語ですが、でもロンドンには both diverse and sometimes offensive であってほしい。neither(どちらでもない)のは嫌、とはっきりしています。

2016年6月22日水曜日

EU, in or out?

イギリスが EUメンバーに留まるか、離脱するか。
歴史家として、これは自明の問いだったので、あまり本気で意見を言ってきませんでしたが、連合王国内で、ここまで離脱派の勢いが高まり、そして残留派の国会議員を殺傷する事件まで生じると、危機感をもちます。

日本のマスコミは、経済的効果、ブリュッセル・エリートへの反感、といったことに関心を集中させていますが(それだけ考えが浅い)、それらに加えて、人びとのアイデンティティをめぐる感情の問題も大きい。「政治国民」political nation とは歴史的に(19世紀半ばくらいまで)地域エリート以上のことでしたが、現代では一般有権者大衆です。

ところで第1に、そもそも referendum を「国民投票」と訳してよいのでしょうか。特定問題についての選択肢を明示した上での直接投票のことを中学社会で「レファレンダム」とならい、高校世界史や公民では「人民投票」plebiscite とならうのではないでしょうか? 2014年のスコットランド独立を問うレファレンダムは「住民投票」と訳して、今回は国民投票と訳して、マスコミ関係者は良心の呵責といわないまでも、小さな疑問くらいは感じないのですか?
第2に、人はソントクだけで判断し、動くわけではありません。いまの日本列島でいえば沖縄の人たちが感じている「憤り」とスコットランド人が覚えた感情は似ているでしょう。
今回のレファレンダムにあたって離脱派は、生活上の疑問・不満をあおって「憤怒」にまで高めようとしている。その明日は、内向きで分裂したイギリス(連合王国)です。ものつくりやサーヴィスよりも金もうけに執心する人びと。人類史・文明の来し方行く末を考えることより、直接的で感性的な小宇宙での充実がまさっているようです。

連合王国の新聞の論調ですが、その全国5大紙はちょうど日本の全国5大紙と類似しています。
     The Times読売新聞   Leave(保守本流), NATO堅持
   The Guardian* ~ 朝日新聞   Remain=「投票に行く、残留する」
The Financial Times日本経済新聞   Remain=世界資本主義の立場
  The Independent毎日新聞   唯一不明(?), 中立主義
The Daily Telegraph産経新聞   Leave(右翼)

* その日曜紙は The Observer で international, liberal and open Britainを主唱。
 この点は、たとえば1997年の「ゼノフォビアよ、さよなら」から一貫します。 cf.『文明の表象 英国』pp.218-9.

なぜか今のアメリカ合衆国の反知性主義キャンペーンに似てきたとすると、憂慮すべきことです。主権回復といった奇麗事、経済社会の問題を移民に絞りあげて人心を煽るのは、右翼の常套手段です。イギリスの有権者は不幸なコックス議員の殺害事件を機会に、落ち着いて知性を働かせるべきでしょう。もしブリュッセル官僚に問題があるなら、ヨーロッパ議会選挙にしっかり取り組むべきです。EUにおいても、立法が行政より上に立っているのだから。

というわけで、ぼくは民主主義、知性主義、ヨーロッパ文明、複合社会、そして反民族主義の立場から、EU堅持のうえでの改革派です。
Splendid Isolation とはパクス=ブリタニカの時代の自由主義外交の結果でしかない。イギリス人は「礫岩のようなヨーロッパ」のなかの一員であり、隣人と仲良くしないわけにゆきません。
イギリス(連合王国)がEUから抜けるなら、当然のように他の国々も続いて抜けようとするでしょうし、また連合王国からはスコットランド、ウェールズ、北アイルランドの独立運動が勢いづくでしょう。地域ナショナリズムの時代が賢明な時代とは、ぼくには思えません。The wise vote is for remain. ガーディアン紙も述べています。

2015年10月3日土曜日

遅塚先生

『日本経済新聞』には有名な「私の履歴書」とともに、そのマイナー版のような交友録のコラムがいくつもあり、それぞれ良いのですが、
9月29日(火)の「交遊抄」には立石博高さんが「青銅の気持ちで」と題して遅塚忠躬先生のことを書いておられます。東京都立大学時代(1969-87)に大学院生にどう接しておられたのか、ぼくの知らない世界ですが、でも立石さんが書いておられることは十分に想像できる。ぼくの知っている遅塚さんです!

ぼくが遅塚さんに初めて出会ったのは何年何月何日かいまとなっては言えないけれど、しかし、たしかに東大の授業再開後、ぼくは院生で、おそらく1971・2年のある日の本郷の西洋史研究室、今では談話室と呼んでいる、あの大きな机を囲む部屋でした(名誉教授たちの肖像写真はまだなかった)。遅塚さんのほうから、「あなたが近藤くんですか。遅塚です」とにこやかに明朗に、声をかけてこられたのです。
→ 写真
以後、本郷に非常勤講師でいらしたころ(1975-76年)にぼくは助手で授業を聴講する権利はなかったけれど、3・4学年ほど下の青木康や深沢克己などと一緒に講義を欠かさず聴いてしっかりノートに取ったものです。一言一句逃すまいと、可能なかぎり速く筆記する術を身につけました。そのころの深沢くんは目黒区のアパートと遅塚家とが案外に近隣だというのを発見して、ぼくたちにその喜びを語ったものでした。1976年10月、土地制度史学会の高知大会にまで一緒に出かけたのは、そうしたことの延長でしょう。みんな遅塚ファンだったのです(藤田さん、高澤さん、岩本さんをはじめとする女子学生だけではありません)。
その後もあらゆることでお世話をかけっぱなしで、パリのモンパルナスでの会食、サンドゥニへの珍道中とか、名古屋の研究会とか、たくさん楽しいこともありましたが、『過ぎ去ろうとしない近代』(1993年3月)以降、晩年は、むしろ先生とぼくとの距離感がはっきりしてしまいました。最後は、本郷構内でお一人でおられるところに遭遇したのですが、2010年の春、『史学概論』公刊の直前だったでしょうか、弱っておられました。
告別式で棺のなかの御遺体と、その脇に添えられていたものを見て、感極まり嗚咽したぼくにたいして、ある男が「近藤さん、泣いちゃだめだよ」と言いました。

先生の大きくて優しい声は、いつも心のなかに響いている。

「交遊抄」を読み、立石さんとぼくは近いところにいるのだと思いました。