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2024年2月11日日曜日

『ボクの音楽武者修行』その1

小澤征爾さんが亡くなった(1935-2024)。
特別の感懐‥‥というと、中学3年で『ボクの音楽武者修行』に出会い、オーケストラの指揮者という職業! なんてカッコいいんだ! と思ったことでしょうか。
今、手元に音楽之友社、1962年4月初版の本がなく、中3のぼくが自分で購入して読んだのか、それとも一緒に音楽室に出入りしていたNくんあたりから借りたのか、不明です。
中学校の坂の下にあった本屋にたむろして立ち読みしたあげく、時々本を買うこともしていたので、自分で所持したのかもしれない。ぼくの本やノートの類は、結婚後、引っ越しを繰りかえしたぼくの代わりに、母がそのまま大切に保存してくれていたので、千葉の実家をよく探せば見つかるのかもしれないのですが。
Nくんにしても彼自身で購入したのではなく、むしろ賢兄の本をぼくに貸してくれたのかもしれない。中学・高校でぼくの付き合った友人たちは、ほとんど例外なく(!)兄貴をもつ次男・三男で、ぼくは学友たち経由で、何歳か上の聡明な兄貴たちのさまざまの知恵を伝授された、と言ってもいいくらいです。
『ボクの音楽武者修行』の直前に、ちょうど小田実の『何でも見てやろう』(河出書房、1961)が出ていました(河出ぺーパーバックは1962年7月)。アメリカやヨーロッパで活動的に生きた20代の才能ある青年たちの体験談は、ぼくたちの世界観をひろげて、やはり次男のWなぞは、いずれ貨物船で皿洗いでもしながら南米に渡る‥‥(その先は、牧場でカウボーイ? ゲバラの仲間に入れてもらう?)とか夢のようなことを口にしていました。結局は、東大法学部を出て有能な弁護士になったのですが。Nのほうは病理でノーベル賞を取り損ない、どこかの病院の理事長です。
中3になったぼくたちは『ボクの音楽武者修行』を手にしたときに重大な事実を認識しました。(どちらが先か後か詳らかでないのだが、本の初版が1962年4月1日でないかぎり、事実認識が先にあって、読書が後でしょう。)その学年から新しい音楽の先生が来たのです。新卒のキレイな高梨先生
それまで音楽の担任はパチという渾名の不愉快極まる中年男でした。パチはなんらかの野心をもち(昇任試験の準備?)、授業などやってられない、ということかどうか(真相は生徒たちには不明)、とにかく彼の授業は週1コマだけ、別のコマは、大学でピアノを専攻していた高梨先生に丸投げしたのです。高梨先生はいつでも音楽室にいて(3学年計9クラスの授業の準備はたいへんだったでしょう)悪ガキの相手をしてくれたので、もぅ中3の放課後はいつも音楽室に男子生徒5・6人がたむろしていました。(芸大附属高校に進学する女子も同級にいたけれど、彼女は音楽室には出入りしなかった。彼女はすでに学外の先生から専門的歌唱指導を受けていたに違いない。)
音楽室(独立した別棟)では当時としては良質のステレオ装置でレコードをかけてもらい、大音響でベートーヴェンのまずは「運命」「第7」、チャイコフスキーの「悲愴」、ブラームスの「第1」あたりから始まり、ジャケットの裏のライナーノーツや音楽之友社の『名曲解説全集』を頼りに、音楽を聴くよろこび/感動/もっと知りたいという願望を覚えたのです。指揮棒を振るまねごともしました。一人ではなく数名の少年の共通体験として。
(いまNiiで『名曲解説全集』を検索すると第1・2巻『交響曲』が1959年、最後の器楽曲補=第18巻が1964年。全国の大学所蔵館が今でも230前後で、すごい普及率です!ぼくたちはその続巻が出るたびにむさぼるように読んでいたわけで、なんだか哀愁に近いものを感じます。)
やがて高梨先生の助言で「スコア」(総譜)なるものを見ながら聴くようになり、あるいは楽曲の分析、演奏の論評モドキを試みる‥‥といった深みにはまることになりました。音楽室で終わらない話は、街中の - ちょうど国鉄千葉駅と京成千葉駅への帰路の交差点にあった - 松田楽器店で「新譜を試聴する」、楽譜も探すといったことへと連続して、これは高校1年でもほとんど同じメンバーで繰りかえされるのでした。生意気な/キザな少年たち。でも楽器店としては、この少年たちはときどき1500円から2300円のLPレコードを買ってくれるので、集団としては上客だったのです。高校・大学の授業料が月々1000円の時代でした。
このうち3人(MとKとぼく)が中3の終わりの春休みに高梨先生のお宅に呼ばれ、紅茶をいただき、彼女のピアノを聴き、バックハウスの演奏との違いについて問いかけられるということもありました。まともな答えはできなかった。なにしろ15歳、ピアノ教則本もなにもやってないナイーヴな少年でした。音楽を観念的に知っていただけ。
‥‥これには後日談があって、高校に入ってからもぼくは通学路が一部同じなので、朝しばしば高梨先生と一緒になって、なにかにと熱心に話をしました。2年後に大学の音楽仲間と結婚した先生は、彼の実家の信州に行ってしまったのですが、なんとMはその信州の婚家まで訪ねていったと、大学生になってからぼくに告げたのです。それだけではない。これは還暦を過ぎてから(すでに死去したMはこういう男だったと話題にするうちに)なんとKも信州まで訪ねていったのだと、告白した。ぼく一人が置いてけぼりを喰っていたのでした!

2024年2月2日金曜日

みすず『読書アンケート2023』

みすず書房から【WEBみすず】を定期的にいただいていますが、
https://magazine.msz.co.jp/backnumber/
【お知らせ】月刊雑誌『みすず』新年の号に恒例の特集として掲載してまいりました「読書アンケート」は、本年から書籍『読書アンケート2023』として2月16日に刊行予定です。全国の書店を通してご注文になれます。
ということです。例年のことになりましたが、ぼくも執筆しています。
1.M・ウェーバー『支配について』 I、II 野口雅弘訳(岩波文庫、2023-24)
2.嘉戸一将『法の近代 権力と暴力をわかつもの』(岩波新書、2023)
3. E. Posada-Carbo, J. Innes & M. Philp, Re-imagining Democracy in Latin America and the Caribbean, 1780-1870 (Oxford U P, 2023)
4.R・ダーントン『検閲官のお仕事』 上村敏郎ほか訳(みすず書房、2023)
5.大澤真幸『私の先生』(青土社、2023)
についてしたためました。
じつは原稿を送ってから、「そうだ、この本も逃してはいけない重要なお仕事だったのに」と気付きました。その本については、また別途、きちんと論じなくては。

2020年12月4日金曜日

折原浩先生のホームぺージ

みなさま、コロナ禍でもお変わりないことを希望します。 こちらはあまり変わりなく静かな生活ですが、久しぶりに折原浩先生のぺージを読もうと思い、

http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/ をクリックしたところ

「指定されたページがみつかりませんでした。  以下の項目をご確認のうえ、再度アクセスしてください。  ホームページのアドレスをもう一度ご確認ください。  アドレスが正しい場合は、ページが削除されている可能性があります。」

というメッセージが出てしまいました。

今日昼に、わが集合住宅のインターネット設備のメインテナンス工事があったためか、と時間をおいて、再起動のうえ、再度クリックしてみましたが、変わりません。Google 検索では「アドレス変更のお知らせ(11月18日)」という断片が垣間見えますが、その先は辿れません。

いささか焦りました。慌てて、よくご存知のはずの方に問い合わせてみると、SONET側の事情で gyaoのサイトが閉鎖される、ということのようですが、現在のことは不詳と。あらためて、落ち着いて検索しなおし、 https://max-weber.jp/archives/1438 (Moritzさん)から確かな情報をえました。そこから

http://hkorihara.com にたどり着いて、先生ご自身の挨拶文を拝見し、ほっとしています。

11月後半には移動の予告があったようですが、今はすでに旧アドレスから辿れない状態になっていますので、慌てる人が他にもいらっしゃるかもしれません。

2020年8月2日日曜日

さみだれを集めて‥‥


先週のことですが、NHKニュースで河川工学の先生が
さみだれを集めて早し 最上川
と朗じて、このさみだれとは梅雨の長雨のことで、流域が広く、盆地と狭い急流のくりかえす最上川は増水して怖いくらいの勢いで流れているんですね‥‥と解説しているのを聞いて、忘れていた高校の古文の教材を想い出しました。

さみだれを集めて早し 最上川 (芭蕉、c.1689年)
さみだれや 大河を前に家二軒 (蕪村、c.1744年)

 明治になってこの二句を比べ論じた正岡子規の説のとおり、芭蕉の句には動と静のバランスを描いて落ち着いた絵が見える。しかし、蕪村の句は、増水した大河に飲み込まれそうな陋屋2軒に注目したことによって、危機的な迫力が生じる。蕪村に分がある、というのでした。
 しかしですよ、子規先生! 
第1に、そもそも蕪村は尊敬する芭蕉の歩いた道を数十年後にたどり歩き、芭蕉の句を想いながら自分の句を詠んだわけで、後から来た者としての優位性があって当然です。ないなら、凡庸ということ。
第2に、句人・詩人なら、完成した句だけでなく、
さみだれを集めて涼し 最上川
とするかどうか迷い再考した芭蕉の、そのプロセスにこそ興味関心をひかれるでしょう。蕪村はそうしたことも反芻しながらおくの細道を再訪し、自らを教育し直したわけです。
 さらに言えば、第3に正岡子規(1867-1902)もまた近代日本の文芸のありかを求めて先人芭蕉、蕪村、明治のマスコミ、漱石との交遊、‥‥を通じて自らの行く道を探し求めていたのでしょう。そのなかでの蕪村の再発見だとすると、高校古文での模範解答は、論じる主体なしの芭蕉・蕪村比較論にとどまって、高校生にとっては「はぁそうですか」程度の、リアリティに乏しいものでした。教える教員の力量ももろに出ちゃったかな。

 たとえれば、ハイドンの交響曲とベートーヴェンの交響曲を比べて、ベートーヴェンのほうがダイナミックに古典派を完成しているだけでなく、ロマン派の宇宙をすでに築きはじめていると言うのは、客観的かもしれないが、おこがましい。ハイドンが楽員たちと愉快に試みつつ完成した形式を踏襲しながら、前衛音楽家として実験を重ねるベートーヴェン。啓蒙の時代を完成したハイドンにたいして敬意は失うことなく、しかし十分な自負心をもって新しい時代を切り開いてゆく。(John Eliot Gardiner なら)révolutionnaire et romantique ですね。

 両者を論評しつつ自らの道を追求したシューマン(1810-56)が、上の子規にあたるのかな。優劣を評定するだけの進化論や、それぞれにそれぞれの価値を認めるといった相対主義ではつまらない。自らの営為と関係してはじめて比較研究(先行研究)は意味をもつ、と言いたい。

2019年11月12日火曜日

平田清明著作 解題と目録


 史学会大会から帰宅したら、『平田清明著作 解題と目録』『フランス古典経済学研究』(ともに日本経済評論社)が揃いで待ってくれていました。
どちらも「平田清明記念出版委員会」の尽力でできあがったということですが、知的イニシアティヴは名古屋の平田ゼミの秀才:八木紀一郎、山田鋭夫にあることは明らかです。
 『フランス古典経済学研究』は平田39歳の(未刊行)博士論文。http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2537
 『平田清明著作 解題と目録』は、刊行著書のくわしい解題と、略年表、著作目録。http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2538

 こうした形で出版されことになった事情も「まえがき」にしたためられています。
 「門下生のあいだでしばしば浮上した平田清明著作集の構想の実現が、現在の出版事情から困難であったからである。‥‥しかし、図書館の連携システムや文献データベース、古書を含む書籍の流通システムが整備されている現在では、一旦公刊された文献であれば、労を厭いさえしなければ、それを入手ないし閲読することがほとんどの場合可能である。‥‥そう考えると、いま必要なのは、著作自体を再刊することではなく、それへのガイドかもしれない。‥‥それに詳細な著作目録が加わればガイドとしては完璧であろう。‥‥
 そのように考えて、著作集の代わりに著作解題集・著作目録を作成することになった」と。
 まことに、現時点では合理的な判断・方針です。1922年生まれ、1995年に急死された平田さんの『経済科学の創造』『市民社会と社会主義』『経済学と歴史認識』から始まって、すべての単著の概要・書誌・反響・書評が充実しています。また「略年表」とは別に、なんと143ぺージにもわたる「著作目録」があります。見開きで「備考」が詳しい! 「追悼論稿一覧」も2ぺージにおよびます!
 とにかく、ぼくが大学に入学した1966年から『思想』には毎年、数本(!)平田清明の論文が載り、『世界』に載った文章も含めて『市民社会と社会主義』が刊行されたのは1969年10月。東大闘争の収拾局面、ベトナム戦争の泥沼、プラハの春の暗転。こうしたなかで平田『市民社会と社会主義』が出て、ぼくたちが熱烈に読み、話題にしはじめて3ヶ月もしないうちに、日本共産党は大々的に平田攻撃を開始して『前衛』『経済』を湧かせ、労農派も平田の反マルクス主義性をあげつらう、という具合で、鈍感なぼくにも、誰が学ぶに値し、どの雑誌や陣営がクズなのか、よーく見通せることになった。
 そうしたなかで、わが八木紀一郎は驚くべき行動をとりました。東大社会学・福武直先生のもとで「戦前における社会科学の成立:歴史意識と社会的実体」というすばらしい卒業論文(1971年4月提出)を執筆中の八木が、東大でなく名古屋大学の経済学大学院を受けて(当然ながら文句なしに*)合格して、卒業したら名古屋だよ、と。すごい行動力だと思った。
 *じつは受け容れ側の名古屋大学経済学研究科の先生方は、筆記試験も卒業論文も抜群の東大生がどうして名古屋を受験するのか、なにか秘密があるのか、戦々恐々だった、と後年、藤瀬浩司さんから聞きました。平田先生のもとで学びたい、というだけの理由だったのです! ただし、その平田先生は73年に在外研究、78年に京都大学に移籍します。八木もドイツに留学します。

 ぼくも西洋史の大学院に入ったばかりのころ、八木の紹介で、本郷通りのルオー【いまの正門前の小さな店ではなく、菊坂に近い現在のタンギーにあった、奥の深い喫茶店】で平田先生と面談し、わが卒業論文(マンチェスタにおける民衆運動:1756~58年)の要点をお話ししただけでなく、1972年3月には滋賀県大津の三井寺で催された名古屋大学・京都大学合同の経済原論合宿の末席を汚して、経済学批判要綱ヘーゲル法哲学批判などを読み合わせたりしたものです。そこには奈良女の学生もいました。
 マルクス主義者というより、内田義彦に通じる、経済学と人間社会を(言葉にこだわりつつ)根底的に考えなおす人、としてぼくは平田清明に惹きつけられたのでした。

 68-9年からこの『平田清明著作 解題と目録』の刊行にいたるまで、現実に与えられた諸条件のなかで「筋を通す」という生きかたを貫いておられる、「畏友」八木紀一郎に敬意を表します。

2019年3月1日金曜日

折原浩先生と大庭健さん


 折原浩先生は、亥年でぼくの一回り上ですが、これまで特定の若い人の名を挙げてどんなに交友を楽しんだかを公言することは控えておられたと思われます。
 今回、個人ホームぺージで、
「1967-68年当時、東大教養学部の一般教育ゼミ「マックス・ヴェーバー宗教社会学講読」に参加していた駒場生で、拙著155ページで触れた五人」
のうち、亡くなった八林秀一舩橋晴俊、そしてとりわけ大庭健を悼む文章が公開されました。
→ http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/tenkai2.htm
「5人のゼミ生のうち、残るは2人となってしまいました」と言われるその2人とは、八木紀一郎とぼくのことですが、彼とぼくが暮から新年にかけて期せずして折原先生に長い私信を送って、それをきっかけに、この長い、細部まで分析的な文章(A4に印刷して6枚!)をしたためてくださったのです。5人についてそれぞれ温かい思いが刻印されていますが、なかでも「大庭節」への懐かしさと哀悼は感動的です。
 11歳年長の折原先生に愛され信頼された大庭さん。当然ながら、1年下のぼくに対する影響も決定的で、- こんなことを言うと生意気そのものですが - 駒場の折原ゼミで鍛えられ、大庭(→ 倫理学)、八木(→ 社会学)と同じ空気を呼吸したぼくは、本郷の西洋史に進学して「不安」は全然感じなかった。本郷の先生方や先輩たちを侮っていたのではありません。むしろその学知を100%学習し吸収する用意(基盤)が既にできていると自覚できたのです。
 昨年にもしたためましたとおり、大庭さんを慕う後輩は多く、(そのケツをまくった口吻にもかかわらず)たしかな学識と誠実さはただちに感得されました。編集者たちにも、そのことはすぐに分かったでしょう。
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2018/10/19462018.html
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2018/11/blog-post_24.html

 なおぼくの場合、折原先生と同じ猪鼻台の千葉大教育学部付属中学に通った(校長は同じ飯田朝先生=憲法学)というのは、かなり恵まれた「初期条件」でした。ぼくの親は地域ブルジョワでも教育界でも転勤族でもなく、また受験界にも無知で、ただ小学校6年の後半(初冬?)に担任に勧められて、子どもの受験手続きをしてみたに過ぎませんが。

2015年10月3日土曜日

遅塚先生

『日本経済新聞』には有名な「私の履歴書」とともに、そのマイナー版のような交友録のコラムがいくつもあり、それぞれ良いのですが、
9月29日(火)の「交遊抄」には立石博高さんが「青銅の気持ちで」と題して遅塚忠躬先生のことを書いておられます。東京都立大学時代(1969-87)に大学院生にどう接しておられたのか、ぼくの知らない世界ですが、でも立石さんが書いておられることは十分に想像できる。ぼくの知っている遅塚さんです!

ぼくが遅塚さんに初めて出会ったのは何年何月何日かいまとなっては言えないけれど、しかし、たしかに東大の授業再開後、ぼくは院生で、おそらく1971・2年のある日の本郷の西洋史研究室、今では談話室と呼んでいる、あの大きな机を囲む部屋でした(名誉教授たちの肖像写真はまだなかった)。遅塚さんのほうから、「あなたが近藤くんですか。遅塚です」とにこやかに明朗に、声をかけてこられたのです。
→ 写真
以後、本郷に非常勤講師でいらしたころ(1975-76年)にぼくは助手で授業を聴講する権利はなかったけれど、3・4学年ほど下の青木康や深沢克己などと一緒に講義を欠かさず聴いてしっかりノートに取ったものです。一言一句逃すまいと、可能なかぎり速く筆記する術を身につけました。そのころの深沢くんは目黒区のアパートと遅塚家とが案外に近隣だというのを発見して、ぼくたちにその喜びを語ったものでした。1976年10月、土地制度史学会の高知大会にまで一緒に出かけたのは、そうしたことの延長でしょう。みんな遅塚ファンだったのです(藤田さん、高澤さん、岩本さんをはじめとする女子学生だけではありません)。
その後もあらゆることでお世話をかけっぱなしで、パリのモンパルナスでの会食、サンドゥニへの珍道中とか、名古屋の研究会とか、たくさん楽しいこともありましたが、『過ぎ去ろうとしない近代』(1993年3月)以降、晩年は、むしろ先生とぼくとの距離感がはっきりしてしまいました。最後は、本郷構内でお一人でおられるところに遭遇したのですが、2010年の春、『史学概論』公刊の直前だったでしょうか、弱っておられました。
告別式で棺のなかの御遺体と、その脇に添えられていたものを見て、感極まり嗚咽したぼくにたいして、ある男が「近藤さん、泣いちゃだめだよ」と言いました。

先生の大きくて優しい声は、いつも心のなかに響いている。

「交遊抄」を読み、立石さんとぼくは近いところにいるのだと思いました。

2014年12月10日水曜日

社会史・社会運動史: reflexions III

 承前
 岡田先生の遺著『競争と結合 - 資本主義的自由経済をめぐって』の心柱は、いうまでもなく「営業の自由」は人権か、公序か、そして(国家 ⇔ 個人だけでなく)中間団体からの自由、といった議論なのですが、その pp.156-165 には「革命的群衆の社会史的研究について」という『歴史学研究』No.520(1983)に載った書評論文が再録されています。ルフェーヴル(二宮訳)『革命的群衆』とリューデ(古賀訳)『歴史における群衆』という2冊の訳書を素材として、「‥‥民衆運動史の特徴と問題を若干考察し、社会史への一つの希望を述べてみたいと思う」と、これまたアーギュメントとしてしたためられた試論でした。

 「ところで、「民衆」とは、‥‥ひとつの抽象である」から始まる段落(p.158)で、岡田さんはこう述べられます。
「社会科学的に無意味で抽象的な「民衆」という用語は、歴史のなかでは、具体的効果を産み出す実体的機能をもつことがある。‥‥「民衆」というこの曖昧な用語、またそれで漠然と表象されているものの歴史的な意味や役割を問う必要はないか、このような問題意識を、旧来のマルクス主義的歴史学は無視ないし軽視しすぎていないか、さらにはそれを妨害することになってはいないか、こういう問いかけが、今日の社会史の問題提起の一つであるように思われる。」

 二宮さんを含み、また『社会運動史』(1972~85)を念頭においた議論であることは明らかです。【現在、『歴史として、記憶として』の巻末にある「略年表」では割愛されていますが、ワープロ原稿では、東大社研、岡田という固有名詞が見えました。また、1970年代のある日に岡田先生が、だれかすでに[ぼくが]名を忘れた左翼の教授にぼくを紹介なさる折に「近藤くんは民衆運動史をやっているんだ」と短く言われたときの空気というか、ある独特のムードを覚えています。】

 全体に岡田さんのルフェーヴルへの評価は高く、その結論部では、「結局、実証的な史実研究の積み重ねだけからではなく、‥‥人間の歴史についての彼自身の特定の見方=観点によって、選択された」ルフェーヴルの立場を強調なさる。そしてリューデについては、‥‥「これがこの大著の結語である。さびしすぎはしないか。」というものでした。
 刊行直後に名古屋でこれを読んだときの気持も覚えています。あまりに率直な岡田さんの評言にたいして、ぼくの反応は、同じGeorge(s) であっても、Rudé はさほどのすごい学者というより、社会民主主義的なリベラルであるし、またThe Crowd in History は「大著」というほどの仕事でもなく、過大な期待をしてもネ、といったものでした。
 「さびしすぎはしないか」というのは、George Rudé に対してよりも、むしろ「社会構成史が情熱的に問題とし、追究したもの」と無縁なところで史料と遊んで/溺れている70年代からの日本の社会史、社会運動史の人びとにむけられた批判だ、ということは誰にも明白だったでしょう。岡田さんの批判はちょっと違うな、と思いながら、ぼくは、まもなく「シャリヴァリ・文化・ホゥガース」『思想』740号(1986年)を執筆し、抜刷をご覧に入れた岡田先生から、ほとんど別離宣言のようなお返事をいただいた(と受けとめていました)。

 ところが、7日(日)夜の奥様はぼくに対して、まるで別のことをおっしゃった。どう受けとめてよいのか、にわかには分からないので引用しませんが、想い起こすに、2000年3月14日、米川伸一さんをしのぶ会のあと、東京駅近くの地下の店での懇談(吉岡さんも二宮さんもおられた)と、岡田先生の最後の言、「これも米川くんが引き合わせてくれたお陰だな」の含意も変わってきます。
 ゆっくり再考することにします。

2014年6月25日水曜日

岡田与好先生

 悲報です。岡田与好先生が5月27日に亡くなったと、Yさんから知らされました。旧臘『イギリス史10講』をお送りしても何の反応もなく、覚悟はしておりましたが。1925年のお生まれで、88歳でした。

 1971年7月、留年後に大学院に入ったばかりのぼくは、西洋史では柴田三千雄、成瀬治、経済学研究科では高橋幸八郎、岡田与好と4つの演習をとりました。高橋ゼミについては「美女逸話」以上に、なにひとつ学びませんでしたが、岡田ゼミでは鍛えられました。同期に森、梅津といったICU組、奥田、八林といった秀才組がいたのも良かったけれど、先生からはイギリス経済史よりも、「ゆらぎ/隙のない文章を書く」ということを教えられました。リベラルな西洋史の温暖な空気のなかだけで育った人とは、ちょっと違うトレーニングを受けたと思います。
 かくいうぼくはいい気なもので、修士2年のとき、卒論そのままの「産業革命期の民衆運動(上)」『社会運動史』2号(1973年1月)をご覧に入れたら、「読んでから」とのことで、1・2週間後、社研2階の先生の研究室にうかがいました。
その午後にわが慢心は打ち砕かれ、社研の玄関を出て、冬の日没後の欅並木を仰ぎみて、身体から力が抜けました。なにしろセッションの終わりの先生の言は「なお、道遠し、だな」というのでした。齢25歳、まだ人生の「日は暮れて」いなかったし、この時点で早々と根拠のない自信を打ち砕かれておいて良かったのだ‥‥、と振り返るのはずっと後年のこと。ぼくはしばらく何をしてよいのか、勉強が手に付かなかった。でも、とにかく「産業革命期の民衆運動(下)」『社会運動史』4号(1974年9月)については、全面的に書き改めました。そして社研の助手になりたい、と心底思ったものです。
 それから10年あまり、イギリス留学から帰国したぼくが社会文化史的な論文をドンドン書くようになってからは、先生との距離は広がってしまいました。とりわけ「シャリヴァリ・文化・ホゥガース」『思想』740号(1986年2月)には先生は否定的で、ぼくの側はふたたび自信家に戻っていたので(!)、いつだか本郷の飲み屋「大松」に同行して以後、親しくお話しすることはなくなってしまいました。

 最後にお話しできたのは、2000年3月14日、米川伸一さんをしのぶ会東京国際フォーラムで開かれたあと、新幹線で仙台に帰る吉岡昭彦さんを送りがてら、東京駅の手前の地下の小さな店に入って軽食を摂ったときです。吉岡昭彦・岡田・二宮宏之・渡辺格といった方々の末席をぼくが汚すという陣容でしたが、(ふつうなら会食しないメンツです)楽しく懇談して、最後に岡田先生が「これも米川くんが引き合わせてくれたお陰だな」と言ってくださって散会したのです。
 厳しくもやさしい先生でした。

2014年5月15日木曜日

Im wunderschönen Monat Mai. . . .

過労にて、体調不良、公私ともみなさまにご迷惑とご心配をかけました。

本日から戦線復帰しました(実はすでに昨日から、都内の匿名委員会に出席、その後、老母の所に参りました。二日遅れの母の日でした)。
今日はさっそくに学内の一会議で年間計画決定。
また図書館にて ECCO 導入のための話し合いが実現しました。
こちらは案ずるより産むが安し、といった感触。2007年の Cengage のインタヴューのプリントなどが出回っています。

ところで、
Im wunderschönen Monat Mai,
Als alle Knospen sprangen. . . .
と5月の美しさは年齢に関係なく(あるいは加齢とともに)十分に感じ取っているつもりですが、悲しいかな、「想いや憧れ」をだれかに告白するといった気持にはなりませんね。
もうすこし普遍的に表現し形にしたい、という気持は強く、はっきりしています。身体と頭脳の衰えを意識すればこそ、よけいに。
ぼくの先生方が60代だったころのことをしばし想起します。
自分が成熟したのか、枯れたのか、よく分かりませんが、これはたしかに何十年も前とは違う感覚です。

2013年12月22日日曜日

岩波新書 『イギリス史10講』 をもって


 お待たせしました。ほんとに刊行されました。
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?head=y&isbn=ISBN4-00-431464
→ この画面で、右下の More Info をクリックしてください。
編集担当者によるメッセージと目次のページが開きます。

 21日、穏やかな土曜の午後に、柴田家に参って小冊を献呈してきました。
御遺影と対面して座すると、万感あふれてしまいましたが、
ご夫人はぼくをそのまま一人にしておいてくださいました。

「これで[本が出て]楽になったでしょう」というお言葉ですが、そう、前向きになれます。
累積する未決課題は多いのですが、積極的な気持でいます。

 おみやげに、なんとぼくの学部5年のときのレポート2つ(1970年5月5日という日付)
・「パリ、2月革命期における蜂起主体の社会的構成」
・「1848-49年革命の敗北とマルクス・エンゲルスによる教訓化
  -プロレタリアート党の独自的運動・組織化の提起」
をいただきました。
出席回数ゼロでしたが、単位をいただいたものです。
どちらも脚註つきで横書き原稿用紙23ページの力作!?
それぞれ先生の手で「80°」という評点が付いています!
捨てずに取っていてくださったのですね。

2013年2月26日火曜日

柴田蔵書


 柴田三千雄先生が亡くなって、5月にははや2年となります。

 その蔵書については、いろいろなことがありましたが、結局、お茶の水女子大学の関係者の皆さんの奮闘で、その図書館に収まる方向で進んでいます。先に遅塚忠躬先生の蔵書がやはりお茶の水女子大学に寄贈されていますので、これと合体し、フランス革命史関連では、もしや日本で一番充実した図書館となるかもしれません。

 その作業の途上ですが、日曜に北原さんと一緒に柴田家に伺いました。2階の書斎の本はもう段ボール箱に収まっていました。1階西の書庫はほとんど手つかずで、洋書はフランス史ばかりでなく、イタリア史、イギリス史、ヨーロッパ史、そして方法論、とりわけ政治文化関連、またあらゆる分野の日本語文献が、ご本人独自の分類によって排架されています。すでに生前に、ロシア史関係はI氏へ、インターナショナル議事録関係はN氏へ、贈与されたとのことですが。

 昔日は手書きのフランス語で購入年月を記入されるだけで、蔵書印はほとんど使われなかったようですが、石は中国にいらした折に購入され、文字は日本で刻印された立派な物があります。お茶大で整理する際にこれを捺すことにしましょう、と方針が決まっています。
 とにかくお茶大関係の皆さん、ありがとうございます。

 この日、先生の蔵書から何冊かいただきましたが、蔵書印を記念に自分で捺して収めました。

2013年1月29日火曜日

教師冥利



昨日、34人の卒業論文の口頭試問をやって、【2・3年生の個別面談はまだ2月ですし、なにしろ今月末には修論、来週は博論の審査がありますが、】 学部生相手の行事は、峠をこえました。専任教員としては初年度ですが、昨年度に非常勤で演習をやりましたから、この春の卒業生は2年間もったことになります。

 (手間のかかる!)学生たちと2年間つきあい、卒論指導でさんざやりとりした結果ですから、それなりの情も移ってきて、全員が無事に卒論(正本も副本も)を提出して、また口頭試問もそれなりにこなしたのを見ると、いささかの感懐があります。 → 卒業式後の写真

 そうした折も折、次のようなメールが到来。
 「約2年間、演習ではお世話になりました。はじめは卒論を書くことに全く自信の無かった私が、卒論を無事書き上げることができたのも、先生のご指導のおかげです。ありがとうございました。
 その他にも授業や、教育実習での指導を受けて、とても強い刺激を受けました。先生の指導のおかげで、歴史学の奥深さを知り、沢山の勉強が必要とわかりました。
 先生を見て、森羅万象に興味を持ち、常に疑問を投げかけながら勉強していくことが大切なのだと思いました。もちろんそれは歴史に限らないことですが。
 これから働きながら、一生懸命勉強して、高校世界史の先生になりたいと思ってます。先生のゼミで本当に良かったと思っています。[後略]」
 こういうのをもらうと、‥‥ウルウルではないが、教師冥利に尽きる、という句を想い起こします。

 ところで、ぼくたちはぼくたちの先生にこうした感謝の念をしっかり伝えていただろうか? 先生の死後に遺稿を公刊するだけでは、償いとして乏しい。‥‥

 『イギリス史10講』
 (共著)『「社会運動史」 1972~1985 - 記憶として 歴史として -』
などをはじめとして、これからたっぷり「恩返し」をします。

2011年12月2日金曜日

朗報

しばらくgmail を開けていなかったら、こんなメールが到来していた。
「2週間前ほど前になりますが,博士論文
The politics of the people in Glasgow and the west of Scotland, 1707-c.1785
を提出しました.ずいぶんと長引いてしまい,提出まで4年と2ヵ月かかりました.
‥‥この4年と2ヵ月,Dickinson先生に本当にお世話になりました.」

O, great! Congratulations!
偉大な先生のもとで、よくも頑張ったね。
いま、君がどんな顔をしているのか、見たくなった。

2011年10月17日月曜日

遅塚さんとDNB

 今日、青山学院における遅塚先生を記念する会で、いろんな話題がありましたが、歴史的与件のなかでの人の生き方、その選択への強い関心は、だれしも持つところでしょう。伝記的叙述のおもしろく有意義なところです。伝記文学でなく、アカデミックな伝記的研究、DNBみたいな叙述のことを念頭において言っています。【ところで「生きざま」という表現は「死にざま」みたいで嫌だと遅塚さんはおっしゃっていました。】

 それにつけても想い出しますが、1990年代のお終いに遅塚さんから電話がかかってきて、「蔵書を少しづつ処理しているのだが、DNB (Dictionary of National Biography) は私はもう使うことはないだろう、君は要らんかね」という趣旨でした。
 イギリス史の基本文献とはいえ、全巻私物でお持ちだったのですね。
 ところがぼくは、心配りも挨拶もできない男ですので、条件反射的に、こう答えました。

「先生、現行の DNB は増補をくりかえして、当該の人が何年に死んだか知らないと探し出せないし、不便なことこのうえない。そのコンサイス版は持っていますので、個人的にはそれで調べて、詳しくは図書館で見ます。そもそも根本的な改訂中で、あと2・3年もすればインターネットで全文検索できるようになります。
 場所塞ぎで、無用の長物ですね。なんなら、**くんとか、# # くんとかに聞いてくださってもいいですが、とにかく現役の研究者なら、要らないと言います。」

 電話の向こうで遅塚さんは、得心のゆかぬまま、諦められたようです。「あと2・3年もすれば‥‥」というのは早すぎで、結局、改訂版の DNB、すなわち ODNB は2004年まで刊行されず、インターネットにも載らなかったのですが。

 遅塚さんとぼくとの関係は、今日の記念会で発言なさったどなたよりも濃いのではないかと思われるほどですが、その分、あまりに遠慮なく甘えて、馬鹿のようなことを言い過ぎました。晩年には、あきらかにぼくとの距離を保っておられました【遅塚さんが電話で柴田さんを相手に、近藤の態度の悪さについて愚痴られたのは一度や二度ではない‥‥】。反省しています。

 いま『岩波西洋人名辞典』を全面改訂企画した『岩波世界人名辞典』が編集進行中ですが、遅塚さんに頭を垂れつつ謝意をこめて、ODNB を駆使しつつ、簡にして要をえた、しかもおもしろい、項目にするため、微力をつくします。

2011年7月17日日曜日

le quatorze juillet

 柴田先生をしのぶ会。‥‥あつかった。

 想定外に多いドタ参、思いの外にたっぷりしたお話、案外の音響効果も加わって、あわてました。とはいえ、集った皆さんは善意の人ばかり。
しめやかなのは密葬で済んでいますので、今夕は期待したとおりに、懐かしく楽しい集いとなり、よかった。
 最後の挨拶にもありましたように、柴田史学をこれから前向きに継承するのが、われわれの課題だと思います。あまりボヤボヤしておられません。
 『史学雑誌』7号に寄せた追悼文だけでは意を尽くせませんので、べつにも書きます。

2011年5月18日水曜日

クリオ 25号

 土曜に日本西洋史学会大会@日大文理学部 に行ってみたら、『クリオ』25号(2011) が新刊発売中。美女編集部の奮闘努力により、想定をこえる立派なものができていました。全88ページ、1000円也。
ロング・インタヴューというより、まるでアルバムのように写真が一杯というのも、一つのメリットかと。

 もとになった2月24日のインタヴューは、柴田先生がこんなに早く亡くなるとは想像もしないままの発言でした。じつは3時間というのは案外短かくて、たとえば 1967-8年の折原ゼミのことや70年代の『社会運動史』のことはいっさい言及されず、他にもいろんなことを言い落としているのですが*、柴田先生と二宮さん、そして Boyd Hilton について最低限の必要なことは明言していると思います。
 * たとえば、どんな文書館でどんなリサーチをしてどんな出来事があった;英語ペーパーの発表や論文投稿でどんな苦労をした;科研グループではこんなことをしている;教科書執筆の苦労と楽しさ;出会った編集者たちの個性と志、etc. といったことです。
 そもそも1960年代~80年の「ケインブリッジ歴史学の黄金時代」については、『スキャンダルと公共圏』(山川出版社、2006)pp.19-25 で述べたので、インタヴューで繰りかえすまでもないと考えました。またインターネット・リソースについては、複数のインタヴューや講演【 Cengage、東大TV 】がオンラインに載っているので、これも今回は立ち入っていません。

 それにしても、ご関心のむきは、ご覧ください。

2011年5月10日火曜日

柴田三千雄 先生

つつしんでお知らせいたします。

柴田三千雄先生(東京大学 名誉教授、フェリス女学院大学 名誉教授)は、
5月5日に肺炎のため亡くなりました。

1926年10月、京都・伏見のお生まれですから、享年84歳でした。
すでに近親者による密葬は済みました(ご遺族の意向を第一に考えて、広報は控えました)。

著書に『バブーフの陰謀』『近代世界と民衆運動』『フランス史10講』など。
他に旧『岩波講座 世界歴史』『世界史への問い』(いずれも岩波書店)の編集執筆、
そして高校の教科書『世界の歴史』『新世界史』『現代の世界史』(いずれも山川出版社)があります。
フランス共和国の学術文化功労勲章 Officier des palmes académiques を受勲。紫綬褒章も。

「しのぶ会」が 7月14日午後6時に東京大学・山上会館で予定されています。

2011年2月26日土曜日

2月は如月

 2月は逃げる月というけれど、何もなしに逃げるのではなく、1年のうち一番忙しくたくさんのことを成し遂げて、あっという間に4週間が過ぎる、という了解でいました。
 今年の2月は、そうです、例年より諸課題が集中する、ということは前から分かっていました。例年の大学院口述試験(M、D)および判定と、卒業論文口述が三大行事。これに文学部のシノプシスおよび成績入力が期日限定のオンライン入力です【想像したとおり、期日は数日延期となりました。こんなに教員が多いのに、首尾よく完了する人ばかりじゃない!】。これに加えて学外のやや重い公務、教科書の日程、招聘予定研究者とのやりとりの不首尾、『二宮宏之著作集』II関連、また身辺の諸々の行事と決定事項‥‥、そして昨日の『クリオ』インタヴューというわけで、やりがいのある仕事ばかり。もちろん東大入試の後始末も、ただちに始まります。
 日英歴史家会議(AJC)や『イギリス史研究入門』2刷りのための作業さえ、滞りがちになりました。

 昨日の『クリオ』インタヴューにかぎって言えば、(2.5度目ということでもあり)3時間あまりもあれば十二分だろうと思っていたら、案外に1994年(第1回AJC とロンドン大学)くらいから先は、慌ただしく駆け足になっちゃいました。晩の会食は新しい会場で、ゆったり楽しめて良かったかな。ただし、はからずも13人の晩餐になりました!

 ところで、『二宮宏之著作集』関連ですが、「月報」2 はご覧のとおり。4月刊です。ぜひ読んでください。ぼくの「解説」は、二宮さんの「豊穣の四〇代」を軸に「力のこもった」というべきか、「力みすぎ」というべきか、とにかく一所懸命に書きました。これが22/23日に*完了していたので、24日のインタヴューは心安く臨めた、というわけです。ぼくは、究極的に教師(授業のパフォーマー)ではなく、物書き(兼)対話者なんだという自己意識を30代からもっていました。2月4日、授業アンケートに厳しいコメントを記してくれた匿名の1学生さん、ご免ね。
 *なぜ完了日が2日にわたったかというと、岩波書店が一太郎を使わないからです。ワードでは行端処理が崩れてしまう;rtfではルビが飛んでしまう;txtではルビもアクサンも消えてしまう‥‥。やりとりを繰りかえしたあと、結局、PDFで完成態はこうなるのだと見てもらうしかありませんでした。でもね、日本の責任ある出版社なら、一太郎で作業ができるようにしておいてほしいな。本当の日本語は ATOK で作文し、日本語の表示・印刷は一太郎で、というのが、ほとんど自明の真理です。

2011年2月14日月曜日

a happy surprise

 日曜の朝。起床は遅く、しかも、なんだか怪しげな営業電話の相手をして、ちょっと機嫌の悪い状態で、またもや電話。‥‥ん、これも営業トークか、と思いきや
「‥‥中学のチョーノーです。近藤くん?‥‥」
えっ、張能正先生!! なんと『朝日新聞』の読書欄、岩波の広告(↓)に君の名前が出ているので、確かめたかった、と。「君はフランス文学が専門ですか」とは、ちょっと困ったが。
 中学卒業は1963年。その後、大学1年のとき千葉県庁でお会いして、また40歳のとき同期会でも再会しました。いま先生は84歳とのこと。あのころは30代でいらしたんですね。お元気な先生とお話しできて良かった。
 じつは、ぼくの英語力の半分は、この先生のおかげなのです。

 中学1年は New Tsuda Reader という教科書で、なんだか印象が薄かったのですが、2年になると、たしか三省堂の The Sun という教科書にいっせいに切り替わって、雰囲気が一気に新しくなった。きっと学習指導要領が変わったことに対応する新教科書だったのでしょう。1年では Have you a pen? と習っていたのに、2年からは Do you have a pen? が正しいとなりました。
 2年の最初の単元は The City という題で、都市なる存在の文明的意味みたいなメッセージのある本文。しかも奥付のページをみると、張能先生はその執筆者の一人として名を連ねておられるじゃないですか。先生はこれを活用しつつ、授業では簡単な和文英訳をどんどん出して、ぼくたちにやらせた。じつに簡単な問題で悩むところは一つもなかったけれど、これは要するに各単元をきちんと理解しているかどうかは、英文和訳でなく、和文英訳で確認できる、という信念にもとづく授業だったのでしょう。
 単純な言い回しを暗唱し、平叙文をただ否定文にしたり、疑問文にしたり。これは入門語学の最初の訓練ですね。

 これは中学の卒業写真。張能正先生は、前列右から4人目。ぼくは‥‥3列目のまん中でした。

 さらに張能先生の授業を補う形で(定年後の?)老先生と、もう一人どこかの大学院生(オーバードクター?)がおそらく非常勤で長文講読(和文英訳)のコマを持っておられた。老先生は完全にカタカナ英語なので、3年になると、発音の良い近藤が朗読しろ、などと命じられることが続きました。
 その老先生は発音は悪くても英語の分かった人で、別の似た表現について成り立つかどうか質問すると、二つの文をならべてどっちも意味の通る立派な英語だ、「アイザー ウィル ドゥーだ」とゆっくりいうのが決まり文句で、Either をイーザーと発音しない「古めかしさ」とともに、これは中学生の頭に刻みこまれた。

 こうした中学校の授業に加えて、NHKの「基礎英語」「英語会話」、そして文化放送の「百万人の英語」を聞くことによって、ぼくの英語の基礎能力は培われました。基礎英語は芹沢栄先生の教養主義的な(中1には高級すぎる)英語入門で、なんと
 The year's at the spring,
 And day's at the morn;
 Morning's at seven;
 The hill-side's dew-pearled;
 The lark's on the wing;
 The snail's on the thorn;
 God's in his Heaven -
 All's right with the world!
なんて暗唱させたのですよ! シャワートレーニングどころじゃない。

 Row, row, row your boat,
 Gently down the stream.
 Merrily, merrily, merrily, merrily;
 Life is but a dream.
というのもあった。なんて速くてむずかしい発音。なんて含蓄のある詩。

 発音とイントネーションこそ、大事。文法を暗記するのではなく、言い回しを暗唱すべし。迷ったときだけ文法に頼ればよい。‥‥1960~63年の国立中学という環境で考えると、なんて理想的な英語教育だったんでしょう!

 千葉高校に入ると、すぐに POD (Pocket Oxford Dictionary) の木村先生との出会いが待っていました。『文明の表象 英国』p.20 に書いたとおりです。