2012年6月23日土曜日

9月11日~14日

AJC(日英歴史家会議)について進展がありましたのでお知らせします。

 予定どおり、9月11日から14日までケインブリッジ大学のトリニティホール学寮にて開催されます。共通論題は〈History in British History〉.
 まもなく(来週から?)Trinity Hall にて宿泊予約サイトが開きますが、委員はもちろん、プログラムに名のある方々は特別の事情がないかぎり、こうした手続きをとる必要はありません。

 ロンドン大学の IHR のサイトにも、下のとおりプログラムが登載されていますので、ご覧ください。ジュニアのセッションも含めて、請うご期待。
http://www.history.ac.uk/events/event/4290
美しいケインブリッジのなかでも gem と呼ばれる Trinity Hall でお会いしましょう。



2012年6月19日火曜日

吉田秀和さん



 なんと98歳! この人のハスキーな声は土曜のラジオ NHK FM「名曲のたのしみ」でごく最近まで聴いていました。ラフマニノフのアメリカ経験でした。5月末に亡くなっても、録音済のものをまだ放送するとのこと。

 しかし、吉田秀和といえば、なんといってもその文章です。1975年から刊行された『吉田秀和全集』(白水社)、そして『朝日新聞』の音楽時評は愛読しました。「British Museum ではどこの馬の骨かわからぬ訪問者にもベートーヴェンの自筆楽譜を触って調べることを許す、その大国の器量」といった文明論。そして、あまりにも平明な楽譜の解釈、あまりにも平明な演奏の批評(コンサート会場で演奏時間を計測している!)には、感銘するというより、こんなに分かって「いいのかしら」と思ったりした。【いま『吉田秀和全集』は段ボール箱に入ったまま出てこないので、記憶だけで認めています。ご容赦。】

 学生時代に初めて読んでから、忘れがたい文がいっぱいあるけれど、一つは戦後の日比谷公会堂で、当時の吉田青年がだれかに投げつけるつもりで礫を握りしめてコンサートに行き、演奏を聴いて、もうそんなことはどうでもよくなったという箇所。【このだれか、というのは小林秀雄だろうか? 】

 もう一つは1983年、ぼくは帰国して名古屋にいましたが、すでに『全集』を出して圧倒的な影響力をもつこの人が、来日したホロヴィッツの演奏について、「なるほどこの芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は ─ 最も控えめにいっても ─ ひびが入ってる。それも一つや二つのひびではない」という名言を吐いた。‥‥

 そうです。ただの骨董品かフェイクを世間が有り難がり続けているなら、(根拠を明らかにしつつ)よく分かるように明言したい。

 率直で事にそくした批判を、なぜ人は避けてきたのだろう。そして曖昧な「権威」にたいしても「風評」にたいしても、こんなに脆弱な「国民」。右であれ左であれ、変わらない。

 結局、吉田さんはただの音楽評論家やエッセイストだったのではなく、20世紀日本の産んだブルジョワ文明論者の代表の一人、そしてコスモポリタンだった。たとえばショパンの**を好きで堪まらない人が、彼のコンサート批評に不満で「吉田秀和ってそんなに偉いのか」と反発したりすることは一杯あっただろう。それは、文明論者と蓼喰う虫(オタク)の文化衝突だったにすぎない。

2012年6月16日土曜日

雨にけぶる超高層

大雨の災害に見舞われている地域の皆さんには、悠長な話で申し訳ありません。
 この近隣では、雨天は景観を変えて、好天なら見える超高層の建物を覆い隠してしまいます。今日のような天気だと、スカイツリーは何キロも先なので当然のように白い雲に覆われて、全く見えません。しかしかなり遠方の橋や構築物は、低い位置にあるかぎり見える。

 雨雲の高さが問題で、このオフィスから約500メートル離れている超高層マンションは上層部が見えません。10階で高さ約30メートルと概算すると、約33階以上≒約100メートル以上の部屋では、きっと窓外が真っ白で、なにも見えないのでしょう。じつはオフィスビルも含めると、100メートル以上の建物は全部で6棟見えるはずで、見えかた、すなわち雨雲の模様にムラがあることもこの写真から分かります。
 そもそもカラー写真なのに色彩が乏しくて、産業革命期の煤煙を示す歴史写真のごとき雰囲気です。

2012年6月5日火曜日

「‥‥歴史学」と「‥‥時代」

2日(外語大)、3日(東洋大)と続けて、研究会というべきかコローキアムというべきか、意義深い催しがありました。すなわち、「二宮宏之と歴史学」と「『社会運動史』の時代」。発言者の半分以上が重なっていた。
 2日のぼくの発言については、事後に賛成の意を表してくれた方もありましたが、二人から「話が長い」とか「ポイントは何だったんだ」とか難じられました。そもそも司会を困らせてしまいました。たしかに口頭でレジメ無しで語るときには、聞き手のことも考えて simple & clear でなくちゃいけません。反省します。
 で、要点は2つ。第1は、二宮宏之は一人だったのではない、同時代の交友のなかで考え発言していたということ。
 第2は、当日も引用しましたが、ジョルジュ・ルフェーヴルの言。
「‥‥[みずから探求することなく]他の研究者の成果を借用して仮説をたてる。それじたいが悪いわけではない。だが、歴史家はそれだけで終わるわけにはゆかない。‥‥歴史家は質問表をつくり、史料調査から始めて、史料の指し示すところを組み立てる。ドッブとスウィージは問題を定式化した。さあ、いまや歴史家の領域で仕事をしよう。」
 この文を朗読して着席すれば、必要十分だったのかな。もちろん史料なるものの問題性も論じないとしたら阿呆です。

 反省して翌3日の会合は、5分未満の発言で済ませましたよ。