2018年5月31日木曜日

東京大学出版会の歴史書

 渡邊 勲(編)『37人の著者 自著を語る』(知泉書館、2018)が到来。読み始めると止まらない。

 残念ながら、縁の薄かった東大出版会、そして歴史学研究会でした。ぼくの東大時代に、渡邊さんはすでに偉くなっていて、その下の高橋さん、高木さんから声がかからなかったわけではなかったのですが。もっぱら近年のぼくの怠慢のために「単著」はまだ日の目を見ていません。

 「渡邊編集長への献呈エッセイ集」ともいうべき、440ぺージをこえる書。部分的には、じつは「老人の繰り言」という箇所分もないではないが、むしろぼくの知らなかったいくつもの事実(坂野潤治、色川大吉‥‥)、そして研究史的な変遷や史料についての明快なコメント(権上康夫、高村直助‥‥)がおもしろい。
 なんと椎名重明先生が立正大学時代に研究室に置いた鞄を盗まれ、カネ目のものは失ったが、犯人にとって無意味なロンドンで書きためた史料ノート2冊はキャンパス裏手の有刺鉄線に引っかかっているのを五反田警察がみつけた! といった事件は知りませんでした。このノートが奇跡的に見つからなかったら、『近代的土地所有』(1973)はこの世に生まれなかったのですね。
 西洋史では、ほかに和田春樹、城戸毅、油井大三郎、増谷英樹、南塚信吾、木畑洋一、伊藤定良といった方々。

 というわけで、渡邊さんが東大出版会の編集者になった1968年4月(ぼくが本郷に進学した春!)から定年退職なさる2005年まで。そのうちでも主には70年代、80年代の、歴史学と出版をめぐるエピソードが一杯。最後の色川『北村透谷』は、出版契約からなんと30年以上かかって、1994年にできあがったのだという。

 とはいえ、たとえば石井進さんや西川正雄さんといったキーパーソンの証言がないと、重要な出版企画がどのように実現していったのか、あるいは消えていったのかの全体像は見えず、画竜点睛を欠く観があります。この本の編集は、もうすこし早めに始めてくださったら良かったのに、と思います。

2018年5月23日水曜日

広島にて


 19-20日に日本西洋史学会大会がありましたが、ぼくの宿は、このように元安川のほとり、広島平和記念資料館をすぐ左下に見て、原爆ドームを右正面に遠望する所にありました。
 こういう立地に立つと、かつての秋葉忠利・広島市長を想い起こします。
 秋葉さんは、例の秋葉京子さんの兄上。ぼくの中学の大先輩で、高校は教育大附属、AFSをへて東大理学部へ、そしてMITに留学して、アメリカで活躍する数学者でした。それが、あるときから日本社会党の議員になり、そして広島市長選挙に立候補して当選、3期を勤められました。
 数学者が政治家になった経緯については存じません。それにしても社会党内で村山富市に対抗し、東京と千葉とアメリカしか知らなかった彼が広島に根付いて、3度の市長選挙に勝利し、平和都市宣言を貫き、オバマ大統領を招致し、今あるような活気ある地方中核都市の建設に奮闘した、というのは生半可なことではないでしょう。

 高校の優等生としてAFS留学を経験したこと、コスモポリタンな学問=数学を専門としたこと(彼のあと数学者になる人/なろうとするヤツが、ぼくたちの学年まで何人も続きました!)、などもポジティヴな要因だったでしょうか。
 「そらには若葉かがやきて
  胸には燃ゆる自由の火‥‥」
といった中学の校歌を、ぼくたちは歌っていました。

 ‥‥そんなことを考えていた広島の宿に、なんと中学の高梨先生から電話をいただきました。伊那谷で秋葉京子のリサイタルをやろうという企画の話です。
 念のために秋葉忠利さんのブログを探してみたら、今日は日大アメフット部の問題を論じておられました。
http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/

2018年5月13日日曜日

承前:古稀の認識


 昨日、中学の同期会で心に刻み込まれた第2の点は、70歳の元生徒たちの生活に根づく認識です。
 親の介護といった件はあまりに多くの人の共通経験で、とくにどうということもないほど。
 それが配偶者のこととなったとたんに、とくに男子ですが、生活と世界観の大きな転変に至ることもある。‥‥ それでも前を向いてポジティヴに生きるヤツが何人もいたのだと遅まきながら知って、これは想定外のたいへんな収穫でした。
 ひとは一人で生きているわけではない/一人だけで生きようとしてはならない、だれの支援でもありがたい(すなおに受けとめよう)、といった真理に心いたるのも、老境に入ってこそです。
 千葉駅で別れ際にいただいた、ちょっとした一言で目頭が熱くなったりしました。

2018年5月12日土曜日

美しき五月に

承前
 申し遅れましたが、ぼくの音楽的環境を語るにあたって、もう一人の重要な人物、秋葉京子さんについては、前にも書きました。
 今日も最後にぼくが小さな声で Im wunderschönen Monat Mai, とつぶやいたら、直ちにしっかりと、やさしい声で als alle Knospen sprangen,
da ist in meinem Herzen die Liebe aufgegangen. と続けてくださいました。
なんて美しい響きだろう。
 同級でしたが、すでに中学を卒業するときには声楽家になると決めておられましたから、別の道を歩み、1970年代からはドイツでご活躍でした。カルメン、マーラー、バッハ‥‥ 最後は国立音楽大学。今日集まったなかでも国際派の代表格です。

古稀の同期会


 今日はなんと古来稀なのではなく(幹事の真ちゃんによると)首を回すとコキコキッていうから、千葉の中学の同期会。元生徒29人と先生方3人が集まりました。同期の母集団は男女127人でしたが、逝去者がすでに10人を越えたということで、出席率は1/4を越えています。
最近は2年に一度開いているようですが、ぼくは2014年以来。懐かしい顔や、どうやっても想い出せない顔や、いろいろありましたが、個人的にはとりわけ2つの点で感銘を受けました。久しぶりの晴天、土曜の昼に行ってよかった。
 
 第1は、先生方のこと。熱血のクラス経営をしてくださった斉藤先生(教員として最初に受けもった学年から最後の学年まで、すべての生徒の顔と名を覚えていらっしゃる!)、中学で習うことは一生役に立つといいながらカンナの扱い、釘の打ち方を指導してくださった黒川先生、そしてなにより、わが青春の高梨先生がいらした! 高梨先生はぼくたちが中3の時に新卒で赴任されたわけだから、ぼくたちより8歳上?とても信じられない、きれいな女性です。ぼくより(同席のほとんどより)ずっと若く見える!
 この高梨先生は、ぼく一人のマドンナだったのではなくて、中学の音楽室を楽しい場にしてくださった。それまでの主任のパチ先生が教頭になって忙しすぎるとかで、急遽新米の先生にすべてが任されたわけですが、毎日、授業が終わると、松本、金子、西川、若井‥‥といった悪ガキたちが集って、勝手にLPレコードの「蔵出し」をすることが許されたのです。
 1962年の時点で考えると高水準のステレオ設備、音楽室の空間に、大音響でブラームスの第1交響曲、チャイコフスキーの悲愴、‥‥が響き、ぼくたちは、スコア(総譜)をみながら、指揮棒をふりながら、これらを次々に聴いたのです。夏休みには受験準備よりもベートーヴェンを第1番から9番まで連続で聴こう、ということになりました。このときは先生の選定で、ワルター+コロンビア交響楽団の交響曲全集でした。3・5・7・9といった奇数番の力強さとドラマ性に比べて、15歳の男子には、偶数番のシンフォニーはちょっと半端な印象だったりしましたが。
 ちょうど千葉大教育学部が猪鼻台から西千葉に移るにともなって、半分ゴミ扱いされたSPレコード(ブッシュ室内楽団のブランデンブルク協奏曲とか‥‥)を、廃棄処分でいただいたりしました。
 勢いあまって、夕刻は街にくりだして、ちょうど「国電」で帰る組と京成電車で帰る組とが分かれる交差点にあった「松田屋」楽器店では、なまいきにも新譜を「試聴させてください」なんて言って、アイーダを聴いたり、トリスタンの「愛の死」の和音についてああだこうだと言ったりしていたのです! 
【いや、落ち着いて考えると、トリスタンは中3ではなく、翌年、高1になってからだった‥‥ 仲間も通学路もほとんど同じだったので、混同しやすい。したがって、高校に進学してからも、高梨先生と朝夕の通学路でお話しすることができました! 高1が終わるとともに、先生は(25歳)結婚なさって信州に行ってしまいました。】
 怖いもの知らずのぼくは、高1のほんの一時、さ迷って作曲や指揮のまねごとなどをしていました。後にストレートで芸大の楽理に入学するようなヤツと一緒に『指揮法入門』の勉強を始めたり、‥‥さいわい、同学年に実力の差を知らしめてくれるヤツが居てくれて、まもなくそうした迷妄から覚めましたが。

 こういうセンチメンタルな回顧だけではありません。むしろこの音楽室と松田屋での経験が、ぼくの 時代と音楽(文化)という感覚(sense & sensibility)を育んだ、といえる。バッハとモーツァルトでは時代が全然違う。ベートーヴェンから近代が始まる、というより彼は近代の前衛だった。シューベルト、シューマン、ブラームスにとってのベートーヴェンの遺産・重み・桎梏。ワーグナ、ドビュッシの新しさ。そして、ショスタコヴィッチの苦闘‥‥武満の響き‥‥
 こうした音楽経験があったからこそ、18世紀以来の時代性・その転換ということを、ブッキッシュでなく体感的にわかるんだ、というのは、後々に認識するところです。

 つまり今、西洋史学なるものを、なにか新刊本や新しい研究動向を引用しつつ営むのでなく、自分の経験として語れる、文献以外の経験も分析的に論じてゆくことができるということが、もしぼくの強みだとしたら、それは高梨先生の音楽室から始まったのです。
今日は、ここに書いたことのごく部分的な断片だけを申し上げたので、十分に分かっていただけたかどうか。心から感謝しております。
【とにかくレアな経験だったことは、あまり考えなくても、直観できることでした。近藤くんはブラームスだったネと、とくに親しかったわけでもない今井さんに言われて、そこまで皆さん、互いを知っていたんだ、とそうした点についても認識を新たにしました。Danke schön! 】