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2024年4月18日木曜日

マウリツィオ・ポッリーニ、その2

 じつはポッリーニ(ぼくの5歳上)の演奏については、感動していただけではありません。とりわけ近年は、おやっ、と思うことがなきにしもあらずでした。
 バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は、なんといってもS・リヒテルの録音(ザルツブルク、1972年~73年)があって、これがそれ以前の演奏すべてを上書きし(無にした!)、以後の演奏者はリヒテルとどう差別化するかで苦闘してきました。なにしろザルツブルク郊外のSchloss Klessheimでは、録音演奏中のリヒテルのピアノに感動した雀たちがリヒテルに唱和していっしょに歌ってしまった(!)、そのような歴史的な演奏です。
【ぼくにこの演奏の魅力=迫力を教えてくれたのは、名古屋の土岐正策さんでした。1990年代以降の再版CDでは鳥の唱和を雑音として消去してしまったので、聞こえません! ぼくはもとのLPレコードから、白黒デザインのEurodisk、瀟洒な日本ヴィクター、美しくない肖像写真のalto、RCA Victor Gold Seal とCDだけでも4つの版を持っていますが(同一の演奏なのに!)、それもこれも雀の唱和を求めてのことでした。ディジタル処理が容易になってしまった時代に、きれいに処理される以前のヴァージョンを求めての、むなしい探索でした。ちなみにグレン・グールドの我が道を行く演奏も、リヒテルという偉大な「敵」あればこその試行だったのでしょう。こんなことをいうと、天国の木村和男くんが嗤うかもしれない。】
 ですから、2009年にポッリーニの演奏で「平均律クラヴィーア曲集」の第1巻だけ、ドイツグラモフォンからCD2枚組が出たときには、ただちに買って期待して聴きました。しかし、なぜか先を急ぐような演奏で(リヒテルの正反対)、あまりくりかえし聴きたいという録音ではなかった。
 そして2019年6月、ミュンヘンにおけるベートーヴェン最後の3つのソナタ(2020年ドイツグラモフォン発売)です。先の日曜夜にNHK-E tvでポッリーニの死を悼んで再放送したのは2019年9月のミュンヘンにおける公演ですから、同年6月の演奏録音と基本的に同じ解釈・表現と受けとめてよいでしょう。 
これはしかし、77歳、ポッリーニ円熟の演奏というよりは、なにかに憤っているのか、時代を諫めるというか、厳しい表現行為です。テレビ画面で見ていても、表情はずっと硬くて、最後にも笑顔はない。あたかもリヒテルの(ロシア的?)ロマン主義に対抗し、グレン・グールドの(アングロサクスン的?)ego-historyを諫め、これこそベートーヴェンの理性と構成主義なのだ、と息せき切って説いているかのようです。彼の遺言でもあったのでしょうか。

2024年4月17日水曜日

マウリツィオ・ポッリーニ(1942-2024)、その1

 3月、イギリスから帰国した直前直後、衝撃の報はポッリーニ死去というニュースでした。
NHKの日曜夜の番組では、先週には初来日時のブラームス・ピアノ協奏曲1番(N響)、今週は30代の録画の断片いくつかに吉田秀和のコメントを加えて、最後に、なんと2019年ミュンヘンの演奏会における最後のピアノソナタを放送しました!
先に「ボクの音楽武者修行(1・2)にも書いたとおり、わが音楽人生は何も自慢できることのない、恥じらいで一杯のものです。演奏会にもさほど熱心に通っているわけではない。
 それがしかし、1994年の10月には幸運が重なり、テムズ南岸の Queen Elizabeth Hall におけるポッリーニ演奏会に行きました。曲目は、ベートーヴェンの最後のソナタ3つ。
10代には「悲愴」とか「熱情」とか「ワルトシュタイン」といった渾名のついた曲に惹きつけられていたけれど、年齢とともにそうした「若い」曲よりは、もっと成熟して、かつ知的に構成された曲を好んで聴くようになっていました。最後のピアノソナタ3曲は、晩年の弦楽四重奏曲の場合と似てなくもなく、ベートーヴェンの知的構成力と幻想的な心情(ロマン派の前衛!)が十分に表現されて、聴く人の心を揺さぶり、慰める。
(人生を70年+やっていると、こうした経験に恵まれているわが人生は、幸運に満たされている、と静かに想いいたります。)
 この夜の演奏会より前にぼくはポッリーニの「後期ピアノソナタ集」(1975年~77年に録音)のCDを持っていて、ロンドンにも携行していたのでした。
録音から17年を経て、52歳のポッリーニがどういった演奏をするのか。その夜の演奏会は、満場の期待を静かに十分な感動に変えたと思います。すでに30番(op.109)、31番(op.110)の後の休憩時間に洩れ聞こえてきた他の聴衆の反応もそうだったし、最後の32番(op.111)は、着席するやただちに力強いMaestosoが始まり、それまで穏やかに感傷的になっていた気持を揺さぶって、ハ短調(運命!)の最後のソナタ(といっても形式的にかなり自由な大曲)の宇宙にわたしたち聴衆を浸したのでした。
満場の拍手に促されるように、憑かれたように、ぼくは舞台脇から楽屋へと向かい、マウリツィオ・ポッリーニにつたない英語で感動を伝え、握手しました。
公演のあと楽屋まで押しかける、あるいはせいぜい廊下でご本人に挨拶する、といったことはあまりできないぼくですが、このときは何故か自然に突き動かされるようにそうしたのでした。
 じつはその半年後、1995年の初夏、今度はアルフレート・ブレンデルがやはりテムズ南岸の Queen Elizabeth Hall で、同一のプログラムで演奏しました。やはり知的なピアニストで 1970年~75年の録音CDを持っているぼくとしては、大きな期待をもって出かけたのですが、なぜでしょう。長い日照に邪魔されて(?)、会場もぼくも集中できず、やや散漫な印象に終わってしまった夜でした。むしろメンデルスゾーン的な「夏至の夜の夢」でした。
 先の吉田秀和さんの評によると、ポッリーニは知的な構成力が勝ちすぎて、たとえばシューベルトの幻想的なソナタを弾くときには(吉田さんの求める)即興性・幻想性に不満が残る、ということらしい。そこには知性と感性の二律背反が前提されているかに見えますが、どうでしょう。少なくともベートーヴェンにあっては、両者は背反しない、理知と感情が矛盾なく合わさって表現されるのではないか。ポッリーニこそ、その点で最適の演奏者=表現者なのではないか、と思います。

2024年2月12日月曜日

『ボクの音楽武者修行』その2

そういうわけで、中3(1962)の8月には3・4日かけて音楽室でベートーヴェンの全交響曲をスコアを見つつ聴く、といったこともやりました。学校にあったのはブルーノ・ワルター(コロンビア交響楽団)のステレオ録音全集。音楽室の音響環境を十分に生かすにはモノラル録音は不足、ということで、これを聴いたのですが、この点、今になってみれば、異議ありと言いたいところ。ぼくたちはフルトヴェングラー、トスカニーニ、クレンペラーなどのモノラル録音を聴き、しだいにフルトヴェングラーに圧倒されるようになっていたのです。
翌1963年4月に千葉高校に入ると、念願の音楽部に所属し、ここでさまざまの楽器に触り、ひとと合奏することの喜びを知りました。中3の悪ガキたちはほとんど全員、一緒でした。11月23日、県内の高校演奏会の朝に、ケネディ大統領暗殺の報が入り、落ち着かない空気の会場で演奏したことについては『いまは昔』(2012)にも記しました。高1の1年間は、フルトヴェングラーのベートーヴェン、そしてヴァーグナーと向きあった1年でした。ドイツ語を勉強したいと思いました。
そのころ『指揮法入門』という本を KK*と一緒に購入し、勉強を始めました。(ぼくとは違う)中学のブラスでクラリネットをやっていた彼は、本気で芸大に進むつもりでしたから、高1の途中からピアノの先生に付いて楽理も勉強し始めた。ぼくはといえば、アマチュアのまま、『ジャン・クリストフ』を読むのと同じ構えで総譜を開いていたに過ぎないので、すぐに付いて行けなくなった。音楽ではない領域で武者修行するしかないと認識します。高2になると同時に音楽部は退部して、別の勉強を(ドイツ語の基礎も)始めました。
【* このKKは、前記の高梨先生を訪ねていったK とはちがう男で、現役で芸大の指揮科に入学しました。その前後から個人的つきあいはなくなってしまったけれど - 1982年秋にぼくが留学から帰ってきてみると、NHKFMでマーラー、ブルクナーの放送があると、必ずのように登場してコメントする人になっていました。 ちなみに、Kというイニシャルは日本人にはたいへん多くて - 加藤も木村も工藤も近藤も - 一対一識別は困難です。この芸大に行った楽理の同級生は KKとします。むかし『ハード・アカデミズム』(1998)という本で高山さんは、K先生、K教授、K助教授といった区別をしていましたが、ほとんどナンセンスな識別法でした。正解は順に木村尚三郎、城戸毅、樺山紘一で、刊行時には3人とも先生で教授でした!】

小澤征爾という方とはお話したこともないし、その人柄は報道でしか知りません。『朝日新聞』がウェブで再掲載している、1994年9月、サイトウ記念オーケストラのヨーロッパ公演後の上機嫌のインタヴュー(59歳、4回連載)
https://digital.asahi.com/articles/ASS296F34S29DIFI00X.html
では、彼のフランクな発言が引き出されています。昨11日朝の『朝日新聞』オンライン版では、村上春樹が天才肌の小澤の晩年のエピソードをいくつか紹介しています。
https://digital.asahi.com/articles/ASS2B5223S29ULZU00L.html
小澤征爾ほどの才能もエネルギーも持ちあわせなかったぼくとして、羨ましいかぎりですが、それにしても、生涯をかけてヨーロッパ近代文明の本質に(別の面から)接することになった者として、参考になることばかりです。
ずいぶん前のNHKの番組は、ボストンの小澤が(二人の子どもの成長を気にかけながら)早朝からスコア研究にたっぷり日時をかけている様子を描いていて、とても好ましい印象でした。印刷総譜だけでなく、ベートーヴェン自筆譜(の大きなファクシミリ)になにか書込みながら探究している様子は、調べ究める人(ギリシア語の histor)の好ましい姿に見えて、以前よりも好きになりました。

2024年2月11日日曜日

『ボクの音楽武者修行』その1

小澤征爾さんが亡くなった(1935-2024)。
特別の感懐‥‥というと、中学3年で『ボクの音楽武者修行』に出会い、オーケストラの指揮者という職業! なんてカッコいいんだ! と思ったことでしょうか。
今、手元に音楽之友社、1962年4月初版の本がなく、中3のぼくが自分で購入して読んだのか、それとも一緒に音楽室に出入りしていたNくんあたりから借りたのか、不明です。
中学校の坂の下にあった本屋にたむろして立ち読みしたあげく、時々本を買うこともしていたので、自分で所持したのかもしれない。ぼくの本やノートの類は、結婚後、引っ越しを繰りかえしたぼくの代わりに、母がそのまま大切に保存してくれていたので、千葉の実家をよく探せば見つかるのかもしれないのですが。
Nくんにしても彼自身で購入したのではなく、むしろ賢兄の本をぼくに貸してくれたのかもしれない。中学・高校でぼくの付き合った友人たちは、ほとんど例外なく(!)兄貴をもつ次男・三男で、ぼくは学友たち経由で、何歳か上の聡明な兄貴たちのさまざまの知恵を伝授された、と言ってもいいくらいです。
『ボクの音楽武者修行』の直前に、ちょうど小田実の『何でも見てやろう』(河出書房、1961)が出ていました(河出ぺーパーバックは1962年7月)。アメリカやヨーロッパで活動的に生きた20代の才能ある青年たちの体験談は、ぼくたちの世界観をひろげて、やはり次男のWなぞは、いずれ貨物船で皿洗いでもしながら南米に渡る‥‥(その先は、牧場でカウボーイ? ゲバラの仲間に入れてもらう?)とか夢のようなことを口にしていました。結局は、東大法学部を出て有能な弁護士になったのですが。Nのほうは病理でノーベル賞を取り損ない、どこかの病院の理事長です。
中3になったぼくたちは『ボクの音楽武者修行』を手にしたときに重大な事実を認識しました。(どちらが先か後か詳らかでないのだが、本の初版が1962年4月1日でないかぎり、事実認識が先にあって、読書が後でしょう。)その学年から新しい音楽の先生が来たのです。新卒のキレイな高梨先生
それまで音楽の担任はパチという渾名の不愉快極まる中年男でした。パチはなんらかの野心をもち(昇任試験の準備?)、授業などやってられない、ということかどうか(真相は生徒たちには不明)、とにかく彼の授業は週1コマだけ、別のコマは、大学でピアノを専攻していた高梨先生に丸投げしたのです。高梨先生はいつでも音楽室にいて(3学年計9クラスの授業の準備はたいへんだったでしょう)悪ガキの相手をしてくれたので、もぅ中3の放課後はいつも音楽室に男子生徒5・6人がたむろしていました。(芸大附属高校に進学する女子も同級にいたけれど、彼女は音楽室には出入りしなかった。彼女はすでに学外の先生から専門的歌唱指導を受けていたに違いない。)
音楽室(独立した別棟)では当時としては良質のステレオ装置でレコードをかけてもらい、大音響でベートーヴェンのまずは「運命」「第7」、チャイコフスキーの「悲愴」、ブラームスの「第1」あたりから始まり、ジャケットの裏のライナーノーツや音楽之友社の『名曲解説全集』を頼りに、音楽を聴くよろこび/感動/もっと知りたいという願望を覚えたのです。指揮棒を振るまねごともしました。一人ではなく数名の少年の共通体験として。
(いまNiiで『名曲解説全集』を検索すると第1・2巻『交響曲』が1959年、最後の器楽曲補=第18巻が1964年。全国の大学所蔵館が今でも230前後で、すごい普及率です!ぼくたちはその続巻が出るたびにむさぼるように読んでいたわけで、なんだか哀愁に近いものを感じます。)
やがて高梨先生の助言で「スコア」(総譜)なるものを見ながら聴くようになり、あるいは楽曲の分析、演奏の論評モドキを試みる‥‥といった深みにはまることになりました。音楽室で終わらない話は、街中の - ちょうど国鉄千葉駅と京成千葉駅への帰路の交差点にあった - 松田楽器店で「新譜を試聴する」、楽譜も探すといったことへと連続して、これは高校1年でもほとんど同じメンバーで繰りかえされるのでした。生意気な/キザな少年たち。でも楽器店としては、この少年たちはときどき1500円から2300円のLPレコードを買ってくれるので、集団としては上客だったのです。高校・大学の授業料が月々1000円の時代でした。
このうち3人(MとKとぼく)が中3の終わりの春休みに高梨先生のお宅に呼ばれ、紅茶をいただき、彼女のピアノを聴き、バックハウスの演奏との違いについて問いかけられるということもありました。まともな答えはできなかった。なにしろ15歳、ピアノ教則本もなにもやってないナイーヴな少年でした。音楽を観念的に知っていただけ。
‥‥これには後日談があって、高校に入ってからもぼくは通学路が一部同じなので、朝しばしば高梨先生と一緒になって、なにかにと熱心に話をしました。2年後に大学の音楽仲間と結婚した先生は、彼の実家の信州に行ってしまったのですが、なんとMはその信州の婚家まで訪ねていったと、大学生になってからぼくに告げたのです。それだけではない。これは還暦を過ぎてから(すでに死去したMはこういう男だったと話題にするうちに)なんとKも信州まで訪ねていったのだと、告白した。ぼく一人が置いてけぼりを喰っていたのでした!

2020年9月2日水曜日

菅だけは止めてほしい


自民党の総裁選、かねてから意欲を示していた石破茂、岸田文雄についで、菅義偉官房長官が立候補表明しました。
各政治家それぞれの政治傾向や能力, etc.ということ以前に、この2・3日で判明したのは、安倍晋三総理総裁の「任期の残余をつとめるだけだから+現政権の連続性」という2つの論理で党内派閥間の力学をうまく収め、その既定方針を崩さないために自民党の党大会は省いて、予定調和の菅に決しようということでしょう。
現政権の安倍=麻生=菅枢軸のうち麻生太郎は80歳ですし、高慢な失言も多いので、もはや出番はなし。これまで官邸をまとめ官僚を統率してきた実務派官房長官の経験に頼り、その奮闘努力をねぎらって残余1年間の総理総裁職を贈与する、という理屈が自民党の中で浸透するというのは、分からないではない。
それにしても、菅はイカン。
なによりいけないのは、菅義偉の記者会見にも現れる滑舌の悪さ。原稿を読んでいるにもかかわらず、前のめりでカンでしまう発音の悪さ。しっかり息を継ぎ、キーワードはゆっくり明快に発音しなければ、公人として失格です。もう一つ、政治家として内向きすぎます。河野太郎の対局かな。国際感覚ゼロの人が No.1 になってはいけない。この2つの理由で、総理総裁=首相になるべからざる人です。

昭和天皇の「終戦のみことのり」(の録音)は聞いていて恥ずかしくなるほど下手なスピーチでした。ブレスを意識するとか、公的な〈朗読〉すなわちスピーチの基本の訓練がなかったのでしょう。日本の旧エリートはそれでも良かったのか。音楽的センスの問題でもある。朗読をあなどるなかれ。
菅官房長官が「順当に」継承するなら、日本国の首相のスピーチは、日本語の分からない人にも分かるほど下手くそで、どこかの省庁の局長の「木で鼻をくくった」答弁みたいなものを毎日聞かされることになるのです! 耐えがたい。

2020年8月2日日曜日

さみだれを集めて‥‥


先週のことですが、NHKニュースで河川工学の先生が
さみだれを集めて早し 最上川
と朗じて、このさみだれとは梅雨の長雨のことで、流域が広く、盆地と狭い急流のくりかえす最上川は増水して怖いくらいの勢いで流れているんですね‥‥と解説しているのを聞いて、忘れていた高校の古文の教材を想い出しました。

さみだれを集めて早し 最上川 (芭蕉、c.1689年)
さみだれや 大河を前に家二軒 (蕪村、c.1744年)

 明治になってこの二句を比べ論じた正岡子規の説のとおり、芭蕉の句には動と静のバランスを描いて落ち着いた絵が見える。しかし、蕪村の句は、増水した大河に飲み込まれそうな陋屋2軒に注目したことによって、危機的な迫力が生じる。蕪村に分がある、というのでした。
 しかしですよ、子規先生! 
第1に、そもそも蕪村は尊敬する芭蕉の歩いた道を数十年後にたどり歩き、芭蕉の句を想いながら自分の句を詠んだわけで、後から来た者としての優位性があって当然です。ないなら、凡庸ということ。
第2に、句人・詩人なら、完成した句だけでなく、
さみだれを集めて涼し 最上川
とするかどうか迷い再考した芭蕉の、そのプロセスにこそ興味関心をひかれるでしょう。蕪村はそうしたことも反芻しながらおくの細道を再訪し、自らを教育し直したわけです。
 さらに言えば、第3に正岡子規(1867-1902)もまた近代日本の文芸のありかを求めて先人芭蕉、蕪村、明治のマスコミ、漱石との交遊、‥‥を通じて自らの行く道を探し求めていたのでしょう。そのなかでの蕪村の再発見だとすると、高校古文での模範解答は、論じる主体なしの芭蕉・蕪村比較論にとどまって、高校生にとっては「はぁそうですか」程度の、リアリティに乏しいものでした。教える教員の力量ももろに出ちゃったかな。

 たとえれば、ハイドンの交響曲とベートーヴェンの交響曲を比べて、ベートーヴェンのほうがダイナミックに古典派を完成しているだけでなく、ロマン派の宇宙をすでに築きはじめていると言うのは、客観的かもしれないが、おこがましい。ハイドンが楽員たちと愉快に試みつつ完成した形式を踏襲しながら、前衛音楽家として実験を重ねるベートーヴェン。啓蒙の時代を完成したハイドンにたいして敬意は失うことなく、しかし十分な自負心をもって新しい時代を切り開いてゆく。(John Eliot Gardiner なら)révolutionnaire et romantique ですね。

 両者を論評しつつ自らの道を追求したシューマン(1810-56)が、上の子規にあたるのかな。優劣を評定するだけの進化論や、それぞれにそれぞれの価値を認めるといった相対主義ではつまらない。自らの営為と関係してはじめて比較研究(先行研究)は意味をもつ、と言いたい。

2019年10月25日金曜日

ノートルダム大聖堂 と 時代


 10月19日(土)にはパリ・ノートルダム大聖堂の炎上 → 再建・修復をめぐってのシンポジウムが上智大学であり(司会・問題提起は坂野さん)、問題は単純ではないということが具体的に示されて有意義でした。http://suth.jp/event/20191019/ 「つくられた伝統」という観点からも。ただし、多くの報告者が建築の歴史を語るときに、フランス王国ないし共和国の枠組が自明のように前提されて、「美(うま)し国」のなかで歴史も文明も完結するかのごとく、縦の系譜がたどられて、ちょっと待ってくださいという気にもさせられました。
 その点で、最後の松嶌さんの報告は、ケルンやシュトラースブルク、さらにはコヴェントリにも議論を拡げていました。「ゴシック様式」の起源がイル=ド=フランスだったらしいというのはいいとして、建築様式をはじめとする技能は(そもそも中世には薄弱な)国境を越えて遍歴する職人集団によって伝えられたし、そうでなくともアイデアやノウハウは真似られ、流行し、継承され、いずれ改変される。近現代においても技術やアートは、たやすくネーションや国境を越えて伝播しますよね。
 また都市史の観点からも考えさせられる指摘があり、大聖堂とその周囲の街並みとの交わりについて、中島さんの図版に、18世紀前半までパリ・ノートルダム大聖堂のすぐ近くまで町家が建て込んでいたことが示されました。その後のクリアランスはパリやフランス諸都市に限らず、およそ啓蒙ヨーロッパに共通の改良(improvement)運動として展開するのが、おもしろい。イギリスでは18世紀が(道路や広場の)改良委員会の時代です。ロンドンの聖ポール大聖堂も、ケインブリッジのキングズ学寮チャペルも、周囲に(今あるような)公共空間ができるのは18世紀です。有名どころとしては、キャンタベリの大聖堂が「街並み改良」としては立ち遅れて、その結果、今日にいたっても建て込んで、ちょっと離れた位置から大聖堂全体の美しい写真を撮ることができませんね。観光絵ハガキでは、したがって、航空写真を使うのがふつうです!
 18世紀が啓蒙だけでなく、新古典主義とバロック・ロココ、あるいは加藤さんの論じられた「良き趣味」の拡がりという点からも、画期なのだ;ドイツでコゼレクたちの論じてきた Sattelzeit がここにも認められる、と思いました。このシンポジウムでは、ヴィクトル・ユゴーやル=デュクの中世趣味的な「修復」の観点を強調することによって、19世紀の中世=ロマン主義の時代性、それに先行した the age of enlightenment の普遍性みたいなことが浮き彫りにされたのかもしれません。

 音楽演奏では、ブリュッヘンたちの Orchestra of the eighteenth century,
専従指揮者のいない Orchestra of the age of enlightenment,
そして J E ガードナ(Gardiner)の Orchestre révolutionnaire et romantique
が競合し共存した時代をへて、今はまたすこし変貌しているかに見えますが。

2018年5月12日土曜日

美しき五月に

承前
 申し遅れましたが、ぼくの音楽的環境を語るにあたって、もう一人の重要な人物、秋葉京子さんについては、前にも書きました。
 今日も最後にぼくが小さな声で Im wunderschönen Monat Mai, とつぶやいたら、直ちにしっかりと、やさしい声で als alle Knospen sprangen,
da ist in meinem Herzen die Liebe aufgegangen. と続けてくださいました。
なんて美しい響きだろう。
 同級でしたが、すでに中学を卒業するときには声楽家になると決めておられましたから、別の道を歩み、1970年代からはドイツでご活躍でした。カルメン、マーラー、バッハ‥‥ 最後は国立音楽大学。今日集まったなかでも国際派の代表格です。

古稀の同期会


 今日はなんと古来稀なのではなく(幹事の真ちゃんによると)首を回すとコキコキッていうから、千葉の中学の同期会。元生徒29人と先生方3人が集まりました。同期の母集団は男女127人でしたが、逝去者がすでに10人を越えたということで、出席率は1/4を越えています。
最近は2年に一度開いているようですが、ぼくは2014年以来。懐かしい顔や、どうやっても想い出せない顔や、いろいろありましたが、個人的にはとりわけ2つの点で感銘を受けました。久しぶりの晴天、土曜の昼に行ってよかった。
 
 第1は、先生方のこと。熱血のクラス経営をしてくださった斉藤先生(教員として最初に受けもった学年から最後の学年まで、すべての生徒の顔と名を覚えていらっしゃる!)、中学で習うことは一生役に立つといいながらカンナの扱い、釘の打ち方を指導してくださった黒川先生、そしてなにより、わが青春の高梨先生がいらした! 高梨先生はぼくたちが中3の時に新卒で赴任されたわけだから、ぼくたちより8歳上?とても信じられない、きれいな女性です。ぼくより(同席のほとんどより)ずっと若く見える!
 この高梨先生は、ぼく一人のマドンナだったのではなくて、中学の音楽室を楽しい場にしてくださった。それまでの主任のパチ先生が教頭になって忙しすぎるとかで、急遽新米の先生にすべてが任されたわけですが、毎日、授業が終わると、松本、金子、西川、若井‥‥といった悪ガキたちが集って、勝手にLPレコードの「蔵出し」をすることが許されたのです。
 1962年の時点で考えると高水準のステレオ設備、音楽室の空間に、大音響でブラームスの第1交響曲、チャイコフスキーの悲愴、‥‥が響き、ぼくたちは、スコア(総譜)をみながら、指揮棒をふりながら、これらを次々に聴いたのです。夏休みには受験準備よりもベートーヴェンを第1番から9番まで連続で聴こう、ということになりました。このときは先生の選定で、ワルター+コロンビア交響楽団の交響曲全集でした。3・5・7・9といった奇数番の力強さとドラマ性に比べて、15歳の男子には、偶数番のシンフォニーはちょっと半端な印象だったりしましたが。
 ちょうど千葉大教育学部が猪鼻台から西千葉に移るにともなって、半分ゴミ扱いされたSPレコード(ブッシュ室内楽団のブランデンブルク協奏曲とか‥‥)を、廃棄処分でいただいたりしました。
 勢いあまって、夕刻は街にくりだして、ちょうど「国電」で帰る組と京成電車で帰る組とが分かれる交差点にあった「松田屋」楽器店では、なまいきにも新譜を「試聴させてください」なんて言って、アイーダを聴いたり、トリスタンの「愛の死」の和音についてああだこうだと言ったりしていたのです! 
【いや、落ち着いて考えると、トリスタンは中3ではなく、翌年、高1になってからだった‥‥ 仲間も通学路もほとんど同じだったので、混同しやすい。したがって、高校に進学してからも、高梨先生と朝夕の通学路でお話しすることができました! 高1が終わるとともに、先生は(25歳)結婚なさって信州に行ってしまいました。】
 怖いもの知らずのぼくは、高1のほんの一時、さ迷って作曲や指揮のまねごとなどをしていました。後にストレートで芸大の楽理に入学するようなヤツと一緒に『指揮法入門』の勉強を始めたり、‥‥さいわい、同学年に実力の差を知らしめてくれるヤツが居てくれて、まもなくそうした迷妄から覚めましたが。

 こういうセンチメンタルな回顧だけではありません。むしろこの音楽室と松田屋での経験が、ぼくの 時代と音楽(文化)という感覚(sense & sensibility)を育んだ、といえる。バッハとモーツァルトでは時代が全然違う。ベートーヴェンから近代が始まる、というより彼は近代の前衛だった。シューベルト、シューマン、ブラームスにとってのベートーヴェンの遺産・重み・桎梏。ワーグナ、ドビュッシの新しさ。そして、ショスタコヴィッチの苦闘‥‥武満の響き‥‥
 こうした音楽経験があったからこそ、18世紀以来の時代性・その転換ということを、ブッキッシュでなく体感的にわかるんだ、というのは、後々に認識するところです。

 つまり今、西洋史学なるものを、なにか新刊本や新しい研究動向を引用しつつ営むのでなく、自分の経験として語れる、文献以外の経験も分析的に論じてゆくことができるということが、もしぼくの強みだとしたら、それは高梨先生の音楽室から始まったのです。
今日は、ここに書いたことのごく部分的な断片だけを申し上げたので、十分に分かっていただけたかどうか。心から感謝しております。
【とにかくレアな経験だったことは、あまり考えなくても、直観できることでした。近藤くんはブラームスだったネと、とくに親しかったわけでもない今井さんに言われて、そこまで皆さん、互いを知っていたんだ、とそうした点についても認識を新たにしました。Danke schön! 】