クリスマス直前に、二宮宏之さんの遺著『講義 ドラマールを読む』(刀水書房、2024年12月)が到来! 知る人ぞ知る、ながらく話題になっていた、二宮さんの東大文学部における1984年度の講義全23回分が、そして講義中に配布された資料も一緒に、二宮素子さんのたゆまぬ努力、刀水書房=中村さんの全面サポートにより、ついに本になったのですね。
B5の横組2段で iv+466ぺージ! 一般書店には置かず、刀水書房のサイトから直接注文する方式です。
→ http://www.tousuishobou.com/tankoubon/4-88708-487-2.html
→ https://tousui-online.stores.jp/
ずしりと重い、存在感のある大著です。横組2段ですから、見開きで4段となり、視野の中心に左右にひろく拡がりますが、案外に目に優しく、読みやすい。 録音が忠実に起こされているので、数々の歴史家や研究史についてのコメント、また(完成本であれば割愛されたかもしれない)言い直しや言い淀みまで再現され、二宮さんのお話をそのまま聴いているような気持になります。そして配布資料に加えられた手書きの文字! 彼の口吻と、お顔や姿勢まで再生されるかと想われるようなご本ですが、なにより17-18世紀フランスをめぐる学識の厚み、熱い意気込みが読む人に伝わります。17-18世紀の書物を探す苦労、辞書を読む楽しさとともに、「ポリース」(← ギリシアのpoliteia、ローマの res publica、ドイツのPolizei)から始まってアンシァン・レジーム[あるいは近世ヨーロッパ]のキーワードが時代の用法としてよみがえる。
(ちょうど同じ頃に名古屋大学文学部でも集中講義をなさいましたが、こちらは「フランス王権の象徴機能」でした。計4日、12コマの集中では『ドラマール』をやるのは困難ですね。)
これは生前の二宮宏之さんがくりかえし口になさっていた、(最後の著作となさりたかった)すばらしい名講義で、多くの人を感動させる本ではないでしょうか。さぞやご本人はこれをご自分の手で、最後までしっかり推敲したうえで公けになさりたかったでしょう。
何人もの協力でようやく世に出た由です。関係なさった皆々さんに感謝いたします。
2024年12月25日水曜日
2015年11月14日土曜日
国制史は躍動するか?
昨夜、いろんな校務を終えて、さぁわが第1章「礫岩のような近世ヨーロッパの秩序問題」に復帰、いよいよこれを脱稿して送信するぞ、と意気込んで帰宅したところ、青天の霹靂!
池田嘉郎・草野佳矢子(編)『国制史は躍動する:ヨーロッパとロシアの対話』(刀水書房, 2015)
という本が待っていました。
編者をふくむ9名の共著ですが、池田さんが
序 論 「国制史の魅力-ヨーロッパとロシア」
第1章「ソヴィエト・ロシアの国制史家 石井規衛」
第7章「ロシア革命における共和制の探求」
そして「あとがき」、つまり計4箇所も執筆している。
独壇場とはいわないが、池田的博学とリーダーシップあってこその論文集です。
ブルンナー、成瀬治、鳥山成人、渓内譲、和田春樹といった研究史の大きな流れのなかに、国制史家=石井規衛の仕事が位置づけられて、読者は目を覚まされる。
しかも中近世史では、渋谷聡、根本聡、中堀博司、そして
ロシア史では田中良英、青島陽子、巽由樹子、草野佳矢子、松戸清裕といった皆さんの章がある!
いまこちらで準備している共著『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社, 2016)は、けっして『国制史は躍動する』に負けない論文集ですが、それにしても、ぼくの担当する第1章にかぎって、研究史的になにか対応が必要かと思い、急ぎ読みました。
『国制史は躍動する』について各論より前に、ただちに思いつく研究史的な瑕疵は、ブルンナーや国際歴史学会議にも関連して、
1.世良晃志郎と堀米庸三の間であった「法制史」「一般史」論争に言及がないこと。でも、これはごくマイナーな瑕疵。
2.「国家と社会の区分が可能となる以前のヨーロッパにおける文明の内部構造の総体」「国家と社会の対置が成立しない秩序の総体」(pp.6, 13) を問うことには大賛成で、「友軍」といった感覚をもちます。しかし、それを狭く「国制史」に収斂させてよいのか。
むしろ、これはヴェーバーもパーソンズもハーバマスも問うていた根本問題ではないのか。ブルンナーが第二次大戦後に「社会=構造史」といった用語を使った理由は、なにもナチス的な臭いの残る Verfassungsgeschichte を回避するだけでなく、彼自身の成長を反映した、ある広さ・構造性を意識していたのではないのか、といった疑問をもちます。
ぼく自身は、これを「ホッブズ的秩序問題」、そして18世紀啓蒙の政治社会(political society)という概念から学び、解決しているつもりです(たとえば『イギリス史10講』p.133)。今後とも丸山眞男的な国家と社会の区分とはちがう地点、また市民社会欠如論ではない発想で、議論を進めたいと考えています。【→ 次の発言】
3.「ある社会の歴史的個性を総体として捉えるという国制史の視角には、‥‥同時にまた類型をも提示するという、二面性がある」(p.19)という文は、それだけ読むと悪くはないかもしれないが、しかし比較社会経済史の人々なら笑い出してしまうでしょう。大塚久雄・高橋幸八郎・遅塚忠躬といった先生たちは、まさしく
「ある社会の歴史的個性(specificum: なぜかラテン語)を総体として捉える社会経済史は、また同時に類型(Typen: なぜかドイツ語・複数)を提示することによって、比較を可能にする」
と考え、営々とそのような学問を構築していたからです。せっかく序論 pp.3-4 で「社会全体の仕組みを捉えん」とする志において社会経済史と共通すると示唆していたのだから、ここも注意深く書いてほしかった。
それにしても、本書が共著出版として立派なものであることに異論はありません。
岡本隆司(編)『宗主権の世界史:東西アジアの近代と翻訳概念』(名古屋大学出版会, 2014)と併読すると、なおさら価値が高まるでしょう。
不意をつかれて慌てましたが、一晩たって、共著『礫岩のようなヨーロッパ』はこのままでも問題ない、しっかり公刊することが大事、と思えてきました!
妄言多謝。
池田嘉郎・草野佳矢子(編)『国制史は躍動する:ヨーロッパとロシアの対話』(刀水書房, 2015)
という本が待っていました。
編者をふくむ9名の共著ですが、池田さんが
序 論 「国制史の魅力-ヨーロッパとロシア」
第1章「ソヴィエト・ロシアの国制史家 石井規衛」
第7章「ロシア革命における共和制の探求」
そして「あとがき」、つまり計4箇所も執筆している。
独壇場とはいわないが、池田的博学とリーダーシップあってこその論文集です。
ブルンナー、成瀬治、鳥山成人、渓内譲、和田春樹といった研究史の大きな流れのなかに、国制史家=石井規衛の仕事が位置づけられて、読者は目を覚まされる。
しかも中近世史では、渋谷聡、根本聡、中堀博司、そして
ロシア史では田中良英、青島陽子、巽由樹子、草野佳矢子、松戸清裕といった皆さんの章がある!
いまこちらで準備している共著『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社, 2016)は、けっして『国制史は躍動する』に負けない論文集ですが、それにしても、ぼくの担当する第1章にかぎって、研究史的になにか対応が必要かと思い、急ぎ読みました。
『国制史は躍動する』について各論より前に、ただちに思いつく研究史的な瑕疵は、ブルンナーや国際歴史学会議にも関連して、
1.世良晃志郎と堀米庸三の間であった「法制史」「一般史」論争に言及がないこと。でも、これはごくマイナーな瑕疵。
2.「国家と社会の区分が可能となる以前のヨーロッパにおける文明の内部構造の総体」「国家と社会の対置が成立しない秩序の総体」(pp.6, 13) を問うことには大賛成で、「友軍」といった感覚をもちます。しかし、それを狭く「国制史」に収斂させてよいのか。
むしろ、これはヴェーバーもパーソンズもハーバマスも問うていた根本問題ではないのか。ブルンナーが第二次大戦後に「社会=構造史」といった用語を使った理由は、なにもナチス的な臭いの残る Verfassungsgeschichte を回避するだけでなく、彼自身の成長を反映した、ある広さ・構造性を意識していたのではないのか、といった疑問をもちます。
ぼく自身は、これを「ホッブズ的秩序問題」、そして18世紀啓蒙の政治社会(political society)という概念から学び、解決しているつもりです(たとえば『イギリス史10講』p.133)。今後とも丸山眞男的な国家と社会の区分とはちがう地点、また市民社会欠如論ではない発想で、議論を進めたいと考えています。【→ 次の発言】
3.「ある社会の歴史的個性を総体として捉えるという国制史の視角には、‥‥同時にまた類型をも提示するという、二面性がある」(p.19)という文は、それだけ読むと悪くはないかもしれないが、しかし比較社会経済史の人々なら笑い出してしまうでしょう。大塚久雄・高橋幸八郎・遅塚忠躬といった先生たちは、まさしく
「ある社会の歴史的個性(specificum: なぜかラテン語)を総体として捉える社会経済史は、また同時に類型(Typen: なぜかドイツ語・複数)を提示することによって、比較を可能にする」
と考え、営々とそのような学問を構築していたからです。せっかく序論 pp.3-4 で「社会全体の仕組みを捉えん」とする志において社会経済史と共通すると示唆していたのだから、ここも注意深く書いてほしかった。
それにしても、本書が共著出版として立派なものであることに異論はありません。
岡本隆司(編)『宗主権の世界史:東西アジアの近代と翻訳概念』(名古屋大学出版会, 2014)と併読すると、なおさら価値が高まるでしょう。
不意をつかれて慌てましたが、一晩たって、共著『礫岩のようなヨーロッパ』はこのままでも問題ない、しっかり公刊することが大事、と思えてきました!
妄言多謝。
2013年6月30日日曜日
初版刊行後 50周年
E・P・トムスンの『イングランド労働者階級の形成』の初版がゴランツから刊行されたのは1963年。その後、アメリカ版、ペンギン版と出ましたが、いま出回っているのは、基本的に1968年のペンギン版(or その再版にあたる1980年ゴランツ版)でしょう。68年版はペーパー版であるだけでなく、初版に残っていたフランス語のフレーズなど、ちょっとだけインテリ向けだった表現が、ふつうの英語読者むけに改善され、また68年という時宜をえて、一般学生が競って購入する本になりました。日本でも(今でも)邦訳本より英語版を買った方がはるかに安価ですね。
初版から50年、あらゆる方面からの批判をふまえて、21世紀にどう継承されるのか。
The global E. P. Thompson という催しが企画されています。ぼくにも言いたいことがあり、せっかく声をかけていただいたので、10月3~5日にはハーヴァードでしゃべり交流してこようと思います。案内は、こちら ↓
http://wigh.wcfia.harvard.edu/content/global-ep-thompson-reflections-making-english-working-class-after-fifty-years
じつは Cambridge, MASS に行くのは初めてです!「世界史」の企画としても刺激をうけそう。
トムスンについては、『20世紀の歴史家たち』4(刀水書房、2001)などなどでコメントしました。ご覧ください。
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