2018年12月13日木曜日

深沢克己さん、松浦純さん


 朝刊で日本学士院会員に西洋史(近世社会経済史)で深沢克己さん、ドイツ文学(ルター・聖書研究)で松浦純さんが選任されたとのこと。おめでとうございます。
(学士院のニュースぺージ)↓
 http://www.japan-acad.go.jp/japanese/news/2018/121201.html
 お二人とも、世間の(表面的な)流行とは一歩離れて、しかし学問的には大きな潮流に棹さし、意義ある研究に専念され、ご自分の世界を築き、良いお仕事を公刊なさってこられた。日本学士院のためにも明るい展開だと思います。
 個人的な点では、深沢さんはとくに史学会の公益財団法人化のために、松浦さんはとくに東大の Gateway 認証(高輪Gateway ではありません!)によるデータベース利用の継続性のために尽力された、そうした成果の恩恵にぼくも浴しています。大塚久雄、丸山眞男、内田義彦、村川堅太郎、水田洋‥‥といった世代からの戦後学問の良き伝統を継承するだけでなく、その世代と違ってコンピュータ・リテラシを備えておられるので(!)、21世紀の日本の学問のために新しく寄与なさる姿を期待しています。

2018年12月11日火曜日

『近世ヨーロッパ』(世界史リブレット)続 3


I'さん「‥‥各国史に軸足を置きつつ、つまり自分の研究地域の事をいつも想起しながら、近世ヨーロッパの一体的な歴史展開を考えるようになっている。真に議論すべき論点は何かを簡潔に提示するというのは『イギリス史10講』と同様の姿勢であると思いますが、規模がヨーロッパと広くなったことで、『10講』よりもいっそうシャープに著者の問題意識が表明されることになったのではないか。」

¶ ご指摘のとおりです。ぼくにとってイギリス史は派生的・副次的なもので、(高校時代はもっぱらドイツ・オーストリア音楽でしたし)本郷進学時にはドイツ史ないしドイツ語圏と北イタリアあたりの都市史をやろうかと考えていたのですから、今回のような範囲で論述できるのは、故郷に帰ってきたような気分!
イングランド史およびフランス史をヨーロッパ史のなかで相対化しつつ議論できるのは喜びでした。【ですから Brexit は狂気の沙汰と考えています!】
もちろん『イギリス史10講』のために先史から(!)十分に勉強したこと、そして近年の「礫岩」や「コスモポリタニズム」や「主権」、そして「ジャコバン」をめぐる科研の共同研究から学習したことは無限にあり、ここに生きています。【このジャコバン科研でなにを問うているか、5月の西洋史学会大会@静岡の小シンポジウムでご報告します。】

I'さん「‥‥私自身がこれから考えて行かなければならないのは、「それでは、近世の主権国家と近現代の国民国家とはどう違うのか」(p.50)という問いであると感じています。
[中略]ある意味で停滞した伝統社会を描いてしまうという問題、これを克服するためには、本書(p.52)が16世紀後半のポリティーク派や神授王権について行ったように、私の時代と文脈において、すなわち当時のグローバル化された社会・経済・思想文化において再検討する必要があるのだと感じます。現地行政官が抱く「混乱(無秩序)の恐れから生まれた徳と国家理性、公共性と主権の考え‥‥」、とても重要なフレーズだと思います。本書が示唆する方法論を意識しつつ(それは C.A.ベイリーが、そして B.ヒルトンが共有した研究視角と思われます)、自分の研究を振り返ってみようと思います。」

¶ このあたり(p.50~)については、別の分野のK'先生も似たことを記してくださり、「‥‥50~53頁の主権にかかわる記述はインパクトのある、とてもいい内容だと感じました。」
その上で、「ついでですが、18世紀の啓蒙思想家たちは、共和政をパトリ(patrie)と重ねて論じており、またこの時期には国王への忠誠か、それともパトリへの忠誠かが議論となっています。近世におけるパトリ観念はもっと論じられていいテーマだと思います。この問題は二宮さんの1969年論文(『二宮宏之著作集』4、370~372頁)にも少し出てきます。」
と書き添えてくださった。パトリは中東欧史とアメリカ史の専売特許じゃありませんよ、ということですね。【ちなみに『フランス アンシァン・レジーム論』(2007)ですと、pp.40-42. パトリには「祖国」「愛国」等の訳語があてられていますが。】

2018年12月9日日曜日

『近世ヨーロッパ』(世界史リブレット)続 2


H先生「[長い文の最後に]‥‥私は18世紀末までを「近世」とし、以後を「近代」とするのはフランス革命の過大評価ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。」

¶‥‥フランス史のH先生にしてこのコメント! そうでした。時代区分という点では、迷ったあげく『近世ヨーロッパ』では完全に割愛しましたが、宗教改革でもなくフランス革命でもなく、歴史をきわめて長期でとらえて18世紀半ばくらいを「鞍のような時代」(Sattelzeit)と考え、その前後を分けるドイツ史の議論を、もうすこし討論すべきでした。
想い起こせば、旧『岩波講座 世界歴史』(1968年刊行開始)でも、おそらくは柴田先生の提唱で、18世紀末のフランス革命・産業革命ではなく、18世紀初めの啓蒙/カルロヴィッツ後の東西関係でもって「近代世界の形成」(第16巻まで)と「近代世界の展開」(第17巻以降)とを分けようとしていたのでした。アジア史との連結部でちょっとズレが残っていますが。

Kさん「‥‥本書の語り口は、『民のモラル』ではなく、『イギリス史10講』のそれであると思いました。‥‥『イギリス史10講』において非常に顕著だった用語・訳語の原理的な解説と言い換えは、本書でも随所にちりばめられていて(近世、近代=今様/当世風、新旧論争、人文主義、カトリック、公共善、イギリス革命、諸国家システム、啓蒙=文明開化)、また、世界史教科書の諸項目を相当に意識した構成とあいまって、想定読者の多くを占めるであろう高校世界史・日本史教員にとって親しみやすくかつ非常に有益な副読本として、この上ない仕上がりだと感じました。
世界史の「常識」を硬軟取り混ぜて、さらりと転倒させる筆致も『10講』以来のものだと思われます(ヘンリ8世は「セクハラ君主」ではない、『君主論』は「なんでもあり」の推奨本ではない、など)。
歴史の用語(訳語)の深い反省そのものが問題発見的な意義を持つものであるとの確信から書いておられるであろうことがひしひしと伝わってきました。そして、(『10講』でも感じたことですが)お書きになるものから、一種の歴史哲学的志向が透けて見えてくるようになってきているとの印象を抱いています(グローバル状況を背景/ネガにして可視化される、モラルと秩序を軸にしたヨーロッパ近世的なるもの)。
 今ちょうど、時代区分に関して考えている最中で、なおのこと本書の歴史哲学的な面を深読みしすぎたのかもしれません。」

¶「歴史の用語(訳語)の深い反省そのものが問題発見的な意義を持つ」ということは、内田義彦『社会認識の歩み』(岩波新書)あたりから学んだ大事なことだと今も思います。それが歴史哲学といえるほどの質を備えているかどうか分かりませんが、歴史的に考えるよすがであり、調べるに値することです。(およそ言葉に鈍感な人の文章は、読むにたえませんね。)
 なおマキャヴェッリの思想史的重要性とともに、その議論にジェンダー的含意が隠されているというヒント【運命という女神の髪は前にしか付いていない;(virtu)とは本来、男らしさ、男気、力強さ‥‥】をくれたのも、内田の『社会認識の歩み』でした。

 皆さんのおかげで少し自分を相対視できます。ありがとうございました。

『近世ヨーロッパ』(世界史リブレット)続


 この本が出来上がったことにより、ぺージをめくって速やかに前後を参照しながら読みやすくなって初めて気付かされる欠点・難点も、じつはあります。校正中に気付かなかったのは恥ずかしいですが、にもかかわらず、良き読者の良き評に恵まれて、幸せです。以下の方々ばかりでなく、皆さんに感謝しています。

Yさん「‥‥「高校世界史」の近世の前半と後半の2つの章にあたるヨーロッパ世界を、もっと大きな視野をもって、また、高校教科書では許されないと思われるような大胆な筆致と、個別事例の印象的な使い方で描いておられます。」

Hさん「‥‥私はリブレットのようなものをまだ書いたことがありませんが、なるほどこのような筆致で書くものなのか、と惹き付けられながら読んでいるところです。ときに先生の肉声が聞こえてくるような一節もあり、楽しみながら読んでいます。」

K先生「‥‥いろいろな出来事が重なりあいながら15・6世紀からフランス革命期まで発展してゆくヨーロッパ史をこれだけのわずかな紙幅にうまく収めるのは大変ご苦労があったことと思います。そこで、目次はきわめて簡潔に抽象的な語彙を並べて構成されることになったのだと思いますが、これを見て全体構想を掴み取るには、ある程度の歴史の素養が必要だろうという気がします。これだけ見ると難しい本だという印象を与えると思います。
中身を見れば、多くの固有名詞や礫岩国家というような新しい概念が出て来はしますが、かなり具体性があります。が、これを読みこなすのにはやはりある程度の素養が必要だろうという気がします。全体的にはかなり高度な書物だと思います。
でもよく書けているのではないでしょうか。これは紹介程度ではなく、真っ向からの書評に値する書物でしょう。」

Iさん「‥‥まずは表紙の絵に強い衝撃を受けました。じっくり拝読いたしますが、政治社会をめぐるこれまでの考察にくわえ、ヨーロッパ規模のみならず、世界規模の時代像についての議論も打ち出され、全体として組み合わされているようで、実に密度の濃い本であるとの印象を受けています。表紙の図版、さらには『百科全書』の日本語アルファベットの写真など、これまで私たちが見てきたナショナルな文化空間に閉じこもった日本像自体、近代以降のナショナルヒストリーの語りでつくられてきたものだということなのだと思います。それを解体して新しい像を提示するという使命は、日本史研究者だけではなく、むしろ西洋史研究者こそが担わねばならない、という気概のようなものを感じました。」

2018年12月1日土曜日

レパントの戦い

Mさん、
『近世ヨーロッパ』(山川出版社)について、早速にご関心をもっていただいてありがとうございます。
ご指摘のとおり、表紙には「レパントの戦い」の屏風絵を用いました。10年ほど前に Biombo (屏風)という展覧会がサントリー美術館であり、見てビックリしたものです。同時に展示されていたカール5世やフランソワ1世(かもしれない)武将の群像も含め、それ以来、いつかどこかで利用したいと考えていた材料です。

ヨーロッパ(ろうまの王)軍とオスマン帝国(とるこ)軍の戦闘を、1600年前後の日本で屏風絵として製作していたという事実がまず興味を惹きます。また戦国から徳川最初期の日本において、屏風絵という美術品がもっとも価値ある贈り物、輸出品だった、ということも、あまり広くは知られていない。家康のブレーン以心崇伝の『異国日記』を読んで気付かされることです。1613年、イギリス東インド会社のセーリスにたいして「日本国 源家康」が「イカラタイラ国主」への御朱印状とともに(おみやげとして)もたせたのは「押金屏風 五双」でした【『ヨーロッパ史講義』p.103】。

世界史リブレットですから(本文はたったの88ぺージです)、あまり立ち入って詳しく書き込めないのですが、
1) 近世という時代それじたいを問題として呈示し、
2) 各国史の叙述、とりわけフランス史中心史観を相対化し、
(副次的に、帝国礼賛史観にももの申し、)
3) またヨーロッパ史とアジア史・日本史との関係性(の大転換)を明示する、
(そうしてはじめてポンパドゥールのインド更紗画、そして産業革命が理解可能となる!)

というのが、本書に自ら課したミッションでした。

本体価格たったの729円で、近年の研究動向をふまえた政治社会史・(躍動する)国制史・文明史の成果を簡便に示す。しかも、引用されている歴史家は、ランケ『ロマンス系諸国民とゲルマン系諸国民の歴史』に始まり、ホブズボーム『革命の時代』で締める、というのも、ちょっとだけ、おもしろいでしょ!

2018年11月24日土曜日

大久保の街路樹は まだ青々


 23日(金)午後、大久保(北新宿3丁目)の柏木教会、大庭健さんの告別式に参りました。
 キリスト教(プロテスタント)の式と、告別の辞のアカデミックな弁論が、微妙な関係だなと思うのは、ぼくが無信仰(「祭天の古俗」派)だから? おぼろげな記憶ですが、まだ駒場時代のある夕刻のこと、ウェーバー『古代ユダヤ教』を読み合わせていた会で、霊や信仰をめぐって「不条理なるがゆえにわれ信ず」という立場をもちだした(年長の)あるキリスト者にたいして、大庭さんは慎重に言葉を選びながら「ぼくたちは啓蒙より後の合理主義的信仰だから‥‥」と語ったのが想い起こされます。 最期の日には、聖書の一節を読み、賛美歌を歌って、夜静かに死を迎えられたということです。
 おそらくは60代半ばの遺影がすばらしくて(ぼくの知っている大庭さんです)、悲しさより嬉しさが募りました。
 ご本を26冊も出版なさったと今日うかがいましたが、最後の書は執筆8割ほどで筆を折るしかなかったとのこと。無念だったでしょう。
 階下の懇親会では『私はどうして私なのか』『善と悪』を担当したという岩波書店の編集者とお話ししました。遅筆のぼくとしてはなおさらに、お約束の『映画と現代イギリス』も含めて、せめてあと4冊を書き終わらないまま時間切れ、アウト、というのは、耐えがたい。きっと見苦しい臨終となってしまうでしょう。

 若者とエスニシティの溢れる大久保駅界隈ですが、柏木教会の中は静か、脇の街路樹は11月下旬というのに青々していて、生命力をうかがわせます。初冬のおだやかな午後、そのまま帰路に就く気持になれず、百人町の住宅地からグローブ座、高層マンション群、西戸山公園から高田馬場まで、ゆったりと歩いてみました。

2018年11月23日金曜日

コングロマリット(国際複合企業)のゆくえ


ゴーン・ショックと言ったらオヤジ・ギャグめいた響きもありますが、なんと NHK World では
Nissan's Ghosn is gone
といった見出しで報じています!
歴史における礫岩のような政体をテーマとしてきたぼくとして、今回の conglomerate「日産・ルノー・三菱自」の事案、そしてこれからの展開には大いに想像力を刺激されます。
オクスフォード大学の博物館に展示されている礫岩の標本を『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社、2016)のカバー表紙に用いましたが、これはポルトガルで採取された岩の断面でした。それで、「ポルトガルから独立したブラジルに生まれ、レバノンで育ったフランス人、カルロス・ゴーンが社長を務める国際複合企業「ルノー=日産」をみる場合にも、示唆的」なんて文をしたためています(p.16)。当時はまだ三菱自は加わっていませんでした。しかも、彼の学歴をみると、パリで Ecole Polytechnique (1974) についで Ecole des Mines de Paris (1978) を修了しているというのが、なんとも礫岩的でおもしろい。

報じられているところでは、
a.個人的な報酬や利権といった法律的な問題とならんで、b.ルノー・日産・三菱自の間の「アライアンス」(連携・関係)のありかたについて(こちらは法的には問題なし)、ルノーおよびフランス政府から現在よりも一体化した経営への転換が示唆されていたとのこと。概念図は、22日深夜の www.nikkei.com によります。 

だとすると、今回の事案は、
a.ただ経営者(会長)としての私利私欲や背任の問題にとどまらず、むしろ b.現在の同君連合的なコングロマリット(礫岩アライアンス)を、ルノーないしフランス政府主導の中央集権(一君万民の単一国家)へと転変させる動きにたいして、日産側から造反した、ということなのではないでしょうか。
b.のほうが日産にとっては、いったい良い日産車をつくって売る、利益を上げるのはフランス国庫およびフランス国民の為なのか、という気持的に重要な問題なのだが、しかしこの論法はグローバルな取締役会でも日本の司法においても、見解の相違(好き嫌いの問題)として片付けられてしまう。より法律的に責任追及しやすい a.を前面にたてて司法にタレコミ、(ゴーン、ケリ以外の2人のフランス人を含む)取締役会に解任を提議して通した、ということでしょう。

あたかも豊かで勤勉なカタルーニャ人が、なんで高慢ちきで口ばっかりのカスティーリャ人と同じ国で一緒にやってゆかねばならんのだ、と異議を申し立てているのと同じ問題ですね。礫岩のようなアライアンスで微妙なバランスをとってきた礫岩君主ゴーンが monarch (ただひとりの君主)として会長職を務めていること自体は、ことがうまく機能しているかぎりだれも問題にしません。しかし、a.ゴーン会長は、日産という企業が製品や品質管理上の瑕疵でマスコミの矢面に立たされているときに我関せずで家族レジャーにいそしんでいた;さらには b.フランス政府ないしルノー側の意向を体現してアライアンス(連邦主義)ならぬ一体化(中央集権)に向かっているようだとすると、これにはクーデタでも司法取引でも可能な手段で抵抗するしかないのですね。

日産はスペインにおけるカタルーニャ、連合王国におけるスコットランド(をいま少し強くした存在)、
ルノーはカスティーリャ、あるいはイングランドのような存在とたとえれば良いでしょうか(三菱自は北アイルランド?)。今秋から、そのルノーがあたかも imperial な意思(支配欲)を内々に表明した or そうした動きを日産の幹部が感知したことで、一挙に事態が動き出した‥‥。不十分な情報ながら、そう推測しました。

2018年11月18日日曜日

絶対王政? アンシァン・レジーム? 近世という時代の主権国家

 『史学雑誌』10号で山﨑耕一さんの仲松優子『アンシァン・レジーム期フランスの権力秩序』(有志舎、2017)にたいする書評を読みましたが、最後の近くに(p.98)「いわゆる「コップの水が半分なくなったか、半分残っているか」の論争に近いように思われる」という名言がありました。これでちょっと重たい書評文が明るく締まりました。
その直前直後に入江幸二『スウェーデン絶対王政研究』(知泉書館、2005)を読んでいて、こちらはカール12世の即位儀礼(1697年)の特異性を明らかにしていておもしろい。しかし13年前のお仕事ということもあって(?)「主権」の主張が即「絶対主義」に結びついてしまう趣き。p.14における「絶対王政(絶対主義)」の定義も、いわば「君主政をとる近世主権国家」の特徴を述べているに過ぎないような気がします。
 かくも山田盛太郎の『日本資本主義分析』における absolutism/absolutisme/Absolutismus/天皇制絶対主義[という語が使えないので、様々の形容を用いる]の範式=のろいが、そうと自覚しない若い世代にも、戦後民主教育によって血肉化しているのです! コミンテルン・日本共産党とともに(隠れ)二段階革命戦略をとる方々ならともかく、そうでない立場から自由に、歴史的に考えようとする人なら、「絶対主義」「絶対王政」のいずれの語も、自己欺瞞か目潰しの効果があると意識したほうが良い。
 とか思いながら『史学雑誌』の巻末・出版広告を眺めていたら、なんと、一番最後の左下に、近世ヨーロッパの広告があるではないですか。96頁、本体729円とのこと。ただし、ぺージはどこからどこまで数えるのか、ぼくの見たところ92ぺージというのが正しいような気がします。宣伝文句も3行ばかり見えますが、これはぼくがしたためた文のほぼ半分の短縮形。元来は(縦書きで)こうでした。
 ≪表紙の絵は一五七一年、レパントにおけるスペインなど連合軍(左)とオスマン帝国海軍(右)との戦いを、想像により描いた日本の屏風絵である。裏表紙の肖像画は一七六四年、インド更紗を着たフランス貴婦人を描く。十六世紀から十八世紀の間に、ヨーロッパの政治・経済・文化は、そしてアジアに対する関係はどう変わったのか。ルネサンスと大航海の時代から、戦争と交流と学習を重ね、啓蒙と産業革命にいたる近世の三〇〇年を、ヨーロッパだけでなく世界史の変貌として見てゆこう。
 というわけで『近世ヨーロッパ』は写真のような装丁です。まもなくお目にかかります。

2018年11月8日木曜日

東大闘争 50年目のメモランダム:安田講堂、裁判、そして丸山眞男

和田英二『東大闘争 50年目のメモランダム:安田講堂、裁判、そして丸山眞男』(ウェイツ ISBN 978-4-904979-27-3)という本が到来。

和田といえば、中学・高校・大学と一緒だった男だ。かっこいいヤツで、裕次郎どころじゃない、言ってしまえば、日本のアラン・ドロン。高校の世界史で「人権宣言」を習った直後には、兄貴に教わったに違いないが、フランス語で
Déclaration des droits de l'homme et du citoyen
と手書きしたシャツを着て校舎内を闊歩して注目されたりした。そもそも白や薄青じゃないデザインしたシャツを着用すること自体が問題だった! だが、60年代の高校は不思議なところで、彼がそのような格好をしたり、ぼくが体育の授業をずっとさぼって図書館にいたり、Kという男が、学校の授業は意味がないというだけの理由で年間100日以上出校しなくても、一言注意されるくらいで、学業成績さえ問題なければ、黙認されていたのだ。学業主義のもたらす自由!(Kのほうは、B. ラッセルのような数学者になるつもりで東大理Ⅰに入学。しかしまもなく佐世保、羽田、三里塚と駆け回る活動家になった。東大闘争では党派の指導部にいたから、あまり本郷に顔は出さなかったと思われる。)

和田は東大文Ⅰに入学してからも、やはりノンポリのアラン・ドロン風の生活を送っていたが、1968年(法学部3年)のある日から法闘委(全共闘)に加わり、翌69年1月19日に安田講堂内で逮捕され、起訴され、裁判で有罪判決をうけた。刑務所を出るとき、高倉健の出所のようにかっこよくはいかないな、と考えていたら、なんと「門の向こうに、黄色いハンカチを手にして、K子が立っていた」p.161 とまるで映画みたいな場面がいくつもあります。

本は2部に分かれ、第一部「安田講堂戦記」はぼくも知っていること、体験したことが少し、知らないことが沢山。「文スト実」と「法闘委」のちがいはあまりに大きい。
具体的には、またいつか分析的に述べますが、たとえば19日午後の安田講堂の中で、闘いも止み、いよいよ逮捕される直前に、法闘委のメンバー20名(と周辺の学生)には
「すぐに機動隊がきます。若い隊員は興奮しているでしょう。殴られたり蹴られたりするかもしれません。しかし、そのうち上級の隊員が来て収めます。それまで抵抗してはいけません。彼らは殺気だち、諸君はますますやられます。」
「逮捕されてから48時間以内に送検されますが、そこで釈放されることはないでしょう。検察官は必ず24時間以内に裁判官に勾留の請求をします。それから勾留裁判がありますが、そこでも釈放されないでしょう、裁判官は必ず10日間の勾留を決定します。そしてまた10日間延長するでしょう。身柄の拘束は全部で23日、それでも終わらないかもしれません‥‥」(pp.93-94)
といった正確なインストラクションが司法試験勉強中の学生からあったという。自分がどうなるか、予測がついて長期勾留されるのと、いったいどうなるのか霧の中、というのとは全然ちがいます。
その後の「司法制裁」の具体相と、警官や司法役人との出会いについても印象的な記述があります。和田本人については、司法側のかなりイージーな予断と誤認によって地裁で実刑判決をうけ、控訴審=高裁でも認定はそのまま本質的に継承され(地裁判決を否定することなく)、執行猶予を付けてケリとしたという。

第二部は、「丸山教授の遭難」と題して、例の1968年12月23日、法学部研究室封鎖のときの丸山眞男の言説をめぐる伝説の真偽、そしてこれが虚偽でなくとも不正確なことは明らかなのに、なぜ誤報が友人や弟子たちによって異議申したてられないままなのか、この不思議を分析します。
「‥‥「軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ」と言う丸山教授たちを他の教官がかかえるようにして学生たちの群れから引き離した。」(毎日新聞、翌日朝刊) ⇔ 他の新聞にはない記事! しかも、『毎日』は他のニュースソースから文章を流用したうえ、「ファシスト」を「ナチ」に変えてしまった(pp.203-209)。
吉本隆明によれば、「新聞の報道では‥‥丸山真男は‥‥〈君たちのような暴挙はナチスも日本の軍国主義もやらなかった。わたしは君たちを憎しみはしない、ただ軽蔑するだけだ〉といったことを口走った。」(『文芸』3月号) ⇔ 『毎日』と伝聞にのみ依拠した記述。

じつは当時から(ぼくの場合、毎日新聞か吉本か、どっちを読んだのか判然としないけれど)「ナチもしなかった」という表現に強い違和感がありました。ナチスは大学研究室の封鎖や狼藉にとどまらず、ユダヤ人や自由主義者を肉体的に殺害し、その出版物を焚書したのだから、そしてそのことは歴史をちょっと学んだ人なら誰でも周知の事実なのに、本当に丸山教授はそんなナイーヴな発言をしたのだろうか、そこまで激情にかられて(?)基本的な知識まで吹っ飛んでしまったのか、と。むしろ報道側が扇情的にフライイングをした、と考えるのが合理的、ということに、ぼくたちの間では落ちついたように記憶しています。

そうだとしたら、何故、丸山本人およびその友人や愛弟子たちが、『毎日』と吉本の可笑しな記事に異議を申し立てなかったのか、という疑問が残ります。そのあとの推論は、和田くんが分析しているとおり(pp.212-258)だったろうと思われます。

なおちなみに、丸山眞男は父が『毎日新聞』記者で、戦後もいろいろな機会に『朝日新聞』でなく『毎日』を優先して対応していた。学生内藤國夫を推薦した先も『毎日』だった。それが70年代からは変わって、(他に褒章のない[固辞していた?]丸山が)1985年に朝日賞は受賞した、というのも、この『毎日新聞』12月24日記事への憤りが影響しているのだろうか。知りたいところです。

この本は第一部も第二部も、法廷弁論を聞いているようで、明快な「力」があります。体験と文献史料の分析とがあいまって、読むに足る「メモランダム」ができました。元来 memorandum とは、記憶や覚書より以上に、(フォーマルではないが)記憶しておくべきこと、忘れてはいけないこと、という意味ですね。

ちなみに、先にも触れた 小杉亮子『東大闘争の語り』(新曜社)には、この和田くんは登場しません。

2018年11月5日月曜日

真剣度

 こんなメールや電話が、年に一度くらい(?)の割で到来します。

 「突然ご連絡、大変申し訳ございません。
テレビ**の○○という番組を担当しております△△と申します。
私どもが放送する○○という番組の中に、□□を紹介させていただくコーナーがあります。本日は、‥‥ の雑学についていくつか取り上げるにあたり、いろいろ調べておりましたところ、イギリスを中心に、‥‥という記事を見かけました。
つきましては、この記事内容について詳しいことを近世イギリス史を専攻されている先生に直接お話を伺えればと思っております。
まだ、企画の段階で、‥‥大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。」

 どこでどう間違えたか、インターネット検索でぼくの名が引っかかったので、慇懃無礼な挨拶文をしたためて、立正大学のアドレスあてに出してみたわけでしょうね。
「いろいろ調べて、‥‥という記事を見かけました」
といっても、その記事がどこのどういう記事か特定することのないままでは、この人がどの程度の「リサーチ」をしたうえで問い合わせてきたのか、「検索サーチ」で一発ヒットしただけか、要するに「真剣度」が伝わってきません。そのうえ、こちらは「トリビア」に関心がありません。「お相手できません」とご返事する以前的な、そのまま無視、という対応しかできません。ついでにテレビ局って、こんなにも無意味なことを取材、放映して利益を上げてるの! とビックリします。

 こういったことがあると想い出すのは、世間もバブリーで、出版界も学生たちも、いささか浮いていた1990年前後のことです。東大のある女子学生が進学したばかりで「‥‥本で読んだんですけど」と問いかけてきたので、「なんていう本? 著者は?」と聞くと、彼女は答えられなかったのです。かわいくて知的な家庭の出身で幸せそうな様子、大学院を志望していたようですが、読んだ「本」を特定できないのでは話になりません。ぼくとの会話はそれで途切れました。
 2年後、その子は語学ができたので大学院に合格したけれど、数ヶ月もしないうちに授業に出てこなくなっちゃった。指導教授が(ぼくではありません!)張り切って関連文献の実物を見せながら指導していた場面に、たまたま居合わせたことがありました。
 複数の情報を特定しながら、そのズレにこだわり、相互の違いから、事実の割れ目にテコを差し込んで、新しい発見に迫る。その出発点は「疑問」「違和感」です。そこに問うに足る問題がある、と直観するからこそ、力業(ちからわざ)を続けることができる。

 むかしこのことを、黒田寛一は「否定的直観」と呼びました。ノーベル賞の本庶佑さんは「教科書を疑うことから始まる」とおっしゃっています。そうした直観、疑問を特定し(分析し)、考察を継続する(リサーチする)ためには、それだけの情熱が必要です。テレビのディレクターに、そしてただかっこいい職業として大学教員を志望していた女の子に(男の子も同様に)、それだけの「真剣度」はなかったな。張り切っていた指導教授はひどくガッカリして、端で見ていても気の毒なくらいでした。

2018年10月24日水曜日

両論併記? 文章の明晰さ

(承前)
 大庭さんおよび折原ゼミということで、トレルチの名が出ました。また、かつて戦後史学で大いに議論された「ルネサンスか宗教改革か」といった問題についても一言。

 ちなみに『岩波講座 世界歴史』16巻(1999)p.16 でぼくは、
‥‥「ハイデルベルク大学の神学教授トレルチはこういう。「‥‥ルネサンスは結局、生成しつつある絶対主義と抱き合うにいたり、この絶対主義国家の理論の建設をたすけ、その王権と宮廷の後光となる。ルネサンスはまた再建されたカトリック教会と抱き合い、総じて反宗教改革の文化としてはじめて、その世界史的影響はあらゆるものに浸透するにいたる。」 
要するに[トレルチによれば]「ルネサンスは社会学的には完全に非生産的なのである。」ルネサンスの目標とした人間は、‥‥、プロテスタンティズムが育成した職業人と専門人の正反対であった、と力強い。」
としたためました。同時にその20行ほどあとでは、
「‥‥[じつは]「反宗教改革」も「絶対主義」も近世的現象そのものだととらえなおすなら、トレルチの見解は党派的にさえみえる。非ヨーロッパとの関係を含めて時代の構造を考えるなら、なおさらである。」(p.17)と記しています。

 刊行後まもなく、これを読んだある人が、近藤は両論併記しているだけでどっちつかずだ、自分の見解はどこにあるのかと批評してくれたのには驚きました。自分のレトリックは通じない、とようやく自覚したのです。このとき1999年のぼくにとって、トレルチはプロイセン的・ハイデルベルク的な反カトリックのイデオロークであることは[折原ゼミでも東大西洋史でも知られていたとおり]読者にも共有されているはずで、その(福音主義的)偏見をこれだけ自己満足的に語っているのがおもしろくて、引用したのですが‥‥。こんなにもはっきり呈示された≒力強い偏見、と。
 しかし、99%の学生がウェーバーもトレルチも(もしかしたら岩波文庫も)読んでいない時代に、気取ってレトリックを弄してもナンセンス。むしろ素直な学生たちにもストレートにわかる文章を、という心構えは、ただの読者サーヴィスというのではない。より積極的に自分自身の思考を simple & clear に表現する、結局なにを言いたいのか、自他ともに誤解なく明らかにするために必要な心構えなのだ、と自覚したのは、まだしばらく後のことでした。
 そもそも近代の契機は「ルネサンスか宗教改革か」といった問題設定じたいに、無理があったのです。

 センテンスをできるだけ短く、論を明晰に、といったことは、欧文をいわゆる「逐語訳」≒後ろから「正確に」訳して満足するのでなく、むしろ可能なかぎり構文の順に -著者の頭に語・フレーズが浮かんだ順に- 訳すという心がけに通じます。欧語 → 日本語という翻訳だけでなく、日本語 → 欧語という翻訳、そして(ぼくの場合は)英語での発言、討論の経験を重ねるにつれて、これは実際的な知恵でもあり、枢要な姿勢にもなります。
 こうした、ことば(と文法)への繊細な感覚は、大庭さんからも、また後に続く尊敬に値するあらゆる学者からも学んだことでした。

2018年10月23日火曜日

大庭 健さん、1946-2018

 厳しい夏のあとには悲報、と覚悟はしていましたが、このたびは大庭健さんの死を専修大学の関係者から知らされ、落胆しています。
そもそもの始めは、1967年、駒場2年生の春から折原先生のウェーバーゼミでした。1年生の「社会学」(数百人の大教室が一杯になる講義)でマルクス、ウェーバー、デュルケームの手ほどきを受けたあと、2年の4月には秀才たちの多い折原ゼミに編入してもらって(授業科目としてはなんという題だったのか)、とにかくウェーバー『経済と社会』のなかの「宗教社会学」を英訳で読みつつ、あらゆることを討論する集いでした。68年、3年生の夏まで、ぼくの毎週の生活の頂点でした。大庭さんは1学年上ですが留年中で、ウェーバーの読み方から、詳細な報告レジュメの切り方(ガリ版です!)、討論の仕方にいたるまで、手本として教えられました。関連して、当然ながら『宗教社会学論集』も読む必要がありましたし、なにを隠そう、「大塚久雄という Weber学者は、昔は西洋経済史なんてことを研究していたらしい」といった知識もここで得たのです。

 今のぼくは西洋史の研究者ということになっていますが、英語やドイツ語の読みかた、学問の基礎・本質のようなものは、この駒場における折原ゼミと大庭さんによって学び鍛えられたのです。1968年夏にはウェーバーの『古代ユダヤ教』を野尻湖や駒場の杉山好先生の部屋で一緒に読んだりしました。内田芳明というドイツ語に問題のある方のみすず書房訳が出ましたが、これの不適訳、理解不足などを指摘して喜ぶ、といった倒錯した喜びも覚えました。トレルチの内田訳『ルネサンスと宗教改革』(岩波文庫)はすでに出ていたかな。こちらのプロテスタント史観は60年代の日本の進歩主義的学問には適合していたかもしれません。ウェーバーがそれよりはスケールの大きな問題意識をもった人だということくらい、すぐに分かりました。

 大庭さんはいろいろ考えたうえで本郷の倫理学に進学なさいましたが、西洋史の大学院で成瀬先生がハーバマスを読むと聞くと、これに出席して、しかし「西洋史のゼミって静かだね」という言葉とともに出てこなくなった! その後も広く人倫・社会哲学にかかわる積極的な発言を続けておられました。最後に直接にお話したのは、2007年、図書館長としてのご多忙中、専修大学で「人文学の現在」といった企画を考えておられ、お手伝いをしました。その折には連絡メールのやりとりのなかで、「相変わらずのスモーカーなので、たいした風邪でもないのですが、長引きます」といった発言があり、気になりました。その後も毎年、写真入りのお年賀状を頂いていましたが、今年はその写真がなく「リタイア生活は病院ではじまりました」という一句に心配しておりました。
 たくさんの本を出版して、倫理学会会長もつとめ、ぼくが存じ上げているだけでも「大庭兄」に私淑しているという方はいろいろな方面で何人もいらっしゃいます。やり残したお仕事、心残りもあったでしょう。しかし、知的な影響力という点では実り豊かな人生だったのではないでしょうか。別の分野に進みましたが、ぼくもそうした「弟分」の一人なのです。
11月23日に葬儀告別式とのことで、これに馳せ参じます。

2018年10月14日日曜日

『近世ヨーロッパ』

土曜日に山川出版社の山岸さんに『近世ヨーロッパ』の再校ゲラ戻し、図版初校戻しを渡して、この世界史リブレットについて基本的にぼくの仕事はほとんど片付きました。今の時点の奥付には11月20日刊行*とあります。【*念校にてこれは、11月30日刊行、となりました。 → 実際の製品、カバー写真については こちら。】

専門書ではないので、想定読者は高卒~大学に入学したばかりの一般学生から専門外の先生方です。ですから、序の「近世ヨーロッパという問題」は、高校世界史の筋書、またテレビ番組の語りから説きおこし、「中世と近代の合間に埋没していた16~18世紀という時代が問題なのだ」と提起します。「1500年前後の貧しく貪欲なヨーロッパ人は荒波を越えて大航海に乗り出したのだ」がその理由は、何だったのか。「アジアとヨーロッパの関係は1800年までに(本書が対象とする期間に)大変貌をとげた」、どのように? なぜ?

想い起こすに、2000年前後の二宮さんは個人的な場で、当時勢いのあったアジア中心史観に不満を洩らし、「いろいろ言っても結局、ヨーロッパ人がアジアに出かけたので、アジア人がヨーロッパに来たのではない」と呟かれました。社会史・文化史・「‥‥的転回」の旗手も、やはり戦後史学(あるいはフランス人のヨーロッパ史)の軛(くびき)というか轍(わだち)というか、大きな枠組のなかで考えておられた。ぼくの二宮さんにたいする違和感の始まりは、1) フランス人的なドイツ的・イギリス的なものへの(軽い)偏見でしたが、続いて、2) 日本もアジアも遅れているという「感覚」でした。

『近世ヨーロッパ』は、こうした二宮史学(が前提にしていたもの)を十分に評価した上での批判、そしてフランス史(およびフランス中心主義)の再評価と相対化の試みです。
もう二つ加えるとすれば、α.ピュアな人々(ピューリタン、原理主義者、革命家)の相対化、中道(via media)と jus politicum を説いた「ポリティーク派」、徳と国家理性を論じた人文主義者たちの再評価ですし、またβ.じつは近世史の戦争と迷走の結果的な知恵としてとなえられる、議会政治の再評価、です。

だからこそ、ヨーロッパ近世史の転換期(含みのある変化のあった)17世紀を危機=岐路として描きました。よく言われる「30年戦争」「ウェストファリア条約」もそうですが、さらに決定的なのは、1685年のナント王令廃止 → ユグノー・ディアスポラ → 九年戦争 → 名誉革命(戦争)という経過ではないでしょうか? これはオランダ・フランス・イングランドの間の競合と同盟にもかかわり、p.56~p.68まで使って、本文は全88ぺージですので、かなり力を入れて書いています。
「イギリスは‥‥世紀転換期の産業革命に一人勝ちすることになる」(p.86)とか、「近代の西欧人は、もはや遠慮がちにアジア経済の隙間でうごめくのでなく、政治・経済・軍事・文明における世界の覇者としてふるまう。その先頭にはイギリス人が立っていた」(p.88)といった締めのセンテンスに説得力をもたせるには、17世紀の経済危機ばかりでなく政治危機をもどのように対策し、教訓化し、合理化したのか。「絶対主義」的な特権システムなのか、議会主権的な公論・合意システムなのか。この点を明らかにしておく必要がありました。

たしかに20代のぼくが読んだら、これは驚くべき中道主義、議会主義史観で、唾棄すべし、とでも呟いたかもしれない。それはしかし、青く、なにも歴史を知らない、観念論(イデオロギー)で世界をとらえていた、ナイーヴな正義観の表明でしかなかったでしょう。We live and learn.

2018年10月10日水曜日

靖国問題 と 両陛下

 靖国神社の小堀宮司が「問題発言」の責任をとって辞職、との読売オンラインのニュース、さらには週刊ポスト』の記事もウェブで読みました。
 小堀宮司はもしや確信犯で、今上天皇と皇后への批判、文明的に教育された皇太子への不満を公言して、警世・憂国の士として辞するというおつもりかもしれない。だが、そもそも靖国神社の存在理由は危うい。あの西郷どんは逆賊だから祀られていないし、とくに1978年にはひそかにA級戦犯が合祀され、それが知られてからは、昭和天皇も参拝しなくなりました。常識ある人なら当然です。
 日本国を絶望的な戦争に引きづりこんだだけでなく、とくに東京・大阪などほとんどの都市の空襲、沖縄戦があっても止めようとしなかった - 広島・長崎でようやく目が覚めた - 愚鈍な責任者たち(の英霊?)に向かって、静かに頭を垂れて参拝せよというのは、ありえない。

 今回の問題発言は、靖国神社の将来をめぐっての「教学研究委員会」において、他の議題のあと、合祀やそれについての昭和天皇の不快の表明(富田メモ)に関連した出席者の発言があって、これにたいして洩らされたむしろ攻撃的で、戦略的な発言らしい。要するに、神社側としては、
 「平成の御代のうちに天皇陛下にご参拝をいただくことは、私たち靖国神社からすると悲願なのです。小堀宮司は、“平成の御代に一度も御親拝がなかったらこの神社はどうするんだ”と口にしていました。そうして宮内庁に対し、宮司自らが伺って御親拝の御請願を行なうための交渉を内々にしているのですが、まだ実現の目処は立っていない」(『週刊ポスト』)

 そうしたことを真面目に考えているのなら、なにより靖国神社が、自己正当化と欺瞞でなく、内外に向かって静謐で敬虔な気持にさせる場となりえているかどうか、ゆっくり反省する必要があるのではないだろうか。
 むしろ天皇皇后両陛下は「公務」として、そうしたことを実現されてきた。まことに尊敬すべき方々、国民統合の象徴だと思います。

2018年10月1日月曜日

退院の一報、励みになります


10月1日、台風一過で32度を超える暑さはかなわないけれど、それにしても洗濯日和です。2回も洗濯機を回しましたよ。ついでに風呂掃除も。

昨夜は大阪からの大移動と、台風対策で気疲れして、強風の音を聞きつつ早く寝てしまいました。
今朝起きてみたら、気にかけていた友人からメールが来ていて、彼の入院手術について、無事、昨日退院したとのこと。養生やリハビリでこれからも大変でしょうが、まずは安堵しました。
こういうニュースは、嬉しいだけでなく、ぼく自身にとっても励みになるのだと自覚しました。

2018年9月30日日曜日

新幹線「ひかり」最終

(承前)
旅行者で、ぼく以外にもそう考えていた人は少なくないと思われます。
ゆったり朝食を摂り、電車を乗り継いで10時過ぎに新大阪駅についてみると - 構内の土産品など売店がキヨスク以外はすべて閉まっていること、改札口からすでに大勢の人が滞留していることを目撃して、これは「もしやヤバイかも」と考えが変わりました。

いつもの25番・26番の二つだけでなく27番も合わせて上りホームを三つ使っていること、職員を多数ホーム上に配置していること、電光掲示にあきらかに急造りの最新情報を伝える英語表記も出ていることなどからは JR東海が本気で取り組んでいるのが伝わりました。
で、災害時なので予約した夜ののぞみ指定席(全便不通)でなく、来た便の自由席のどれにも乗れることを確認してから、戦略的に考えました。
10:20発のぞみ、10:40発のぞみ、いずれの場合も待ち行列は各乗車口ごとに40m、50m以上。広く長いホームは一杯です。要するにだれでものぞみの自由席に乗りたいと考えるでしょうが、のぞみの自由席は1・2・3号車のみ。しかも指定席を臨時に自由席に開放するといった策はとらない。であれば、指定席車両に乗り込んで、立って2時間半揺られるという選択肢も含めて、これ以上、のぞみのために行列するのは愚か。
ひかりを狙おう。ひかりは3時間あまりかかるが、自由席は1・2・3・4・5号車で、すこし余裕があるし、東京までは行かない客も多いはず。
というわけで、10:20発のぞみ4号車のための行列の最後尾に付いて、その次に来る10:43発ひかりを狙いました。10:20発のぞみ、10:40発のぞみのいずれについても積み残しがあり、JR職員は指定席車両に乗車するよう勧誘する、という方針のようでした。こういう時に、機敏に動ける人とそうでない人との差は大きく、見ていても気の毒なほどです。
ぼくの場合は、狙い通り、10:20発のぞみの出たあと、43発ひかりのために残った短い行列の前のほう(10人目くらい?)に位置することができましたが、向かい側では、10:40発のぞみのための行列がさらに蛇行していました。しかも、なんとひかりは、ぼくの乗る10:43発が最終なので、その後はぼくのような戦略を採ることができなくなったわけです! 
実際に来たひかり10:43発はそれなりに(一両100人中40人分くらい?)空席はあって、ドタバタせずに座れたのですが、京都から先は、車中のデッキに立つ人たちが溢れることとあいなりました。東京までのあいだに、浜松や静岡で後発ののぞみに抜かれながら、東京駅にはすこし遅れて13:50に到着しました。途中は校正刷りのコピーを見直したり、居眠りしたりできて、個人的には賢明な選択だったと思いますが、それにしても、新幹線はもうすこし後の時間まで、たとえば2時間ほど余分に、運行できなかったのでしょうか。

もちろんJR経営体として、万が一にも新幹線車両が暴風雨で立ち往生したうえ、最悪のケースとしては(むかし山陰線の鉄橋であった事故のように)暴風にあおられて新幹線車両が脱線転覆するといった大事故があったりしてはいけないと、そこは慎重に判断した、ということでしょうか。
東京駅も混雑していましたが、雨風はなく、嵐の前の静けさ? 今晩20時に山手線など首都圏の在来線も運行停止と予告されています。(大阪行きの前に、すでに自宅ベランダに置いていた植木や、洗濯物干しフレームや、ガラクタの類いは室内にしまって置きました。)
これまで読まれたように、ぼくはいろいろと楽観的で、良いほうにしか物事を考えない傾向があります。皆さま、どうぞ楽天家の近藤をよろしくご善導くださいませ!

台風24号 最接近

週末に台風24号最接近! 21号に続き、全国的に警戒状態。
というのは存じていましたが、まぁ、大丈夫、と構えていました。

ですから、土日の大阪・中之島センターでの研究会は土曜のみ、日曜は中止/延期、という主催者の方針を聞いて、ぼくとしては、慎重なのはよいが大事のとりすぎかな、という受け止め方でした。なにしろJR東海で予約した出張パックが「宿も列車の座席も指定で、変更不能」という設定なので、面倒だな、というのが正直なところ。
で、金曜午後のぼくの返信は【 28 Sep 2018 15:41 】
「拝復、心配してくださって、ありがとう。日曜なので、美術館、図書館巡りも良いかな、と考えています。いま、出版社にて再校の交渉に向かう車中です。秋晴れの素晴らしい午後です。」
といった呑気なものでした。

これには主催者も慌てたようで【 28 Sep 2018 15:49 】
「‥‥日曜日の昼間は暴風雨が懸念されます(美術館・図書館の閉館も含めて)。もし外出が厳しいということになれば、‥‥[これこれという代案も考えてくれて‥‥]明日はお気をつけていらしてください。」
さらには続伸で【 28 Sep 2018 18:31 】
「‥‥夕方の関西圏のニュース&天気予報を注視しています。JR西日本などは山陽新幹線を含め30日昼から1日にかけて運休の可能性を発表しました。(東海道新幹線はわかりませんが。)こちらのニュースによれば30日夕〜夜が大阪で最も暴風雨の強まる時間帯となり、鉄道・自動車を含め移動が困難になることが見込まれます。一案として「パックで予約されている分は30日朝の宿泊までとし、帰りの新幹線のチケットは事実上”捨てて”もらう」→「あらためて30日朝の新幹線の「新大阪→東京」の片道チケットを予約してもらう(片道分の旅費は主催校でなんとかできないか聞きます)」ことを提言します。」
とまで提案してくれました。
この段階では、西日本ではそうでしょうが、東海道新幹線は大丈夫。なにしろ九州に上陸して四国・中国と経由するうちに台風の威力は弱まるのだから、と公言さえしていました。この間の自然災害について、東京ないし南関東の被害は比較的少なく、徳川家康の江戸立地センスのすばらしさ、なんてことさえ東京の親しい仲では口にしていました!

実際、土曜に大阪について、雨ではあったけれど、とくに風がどうとかいうわけでもなく、午後の研究会は時間とともに討論も充実しました。「礫岩のような国家」をどう見るか、から「近世ヨーロッパ」をどう見るか、さらに今一度、「ウェストファリア体制を再考する」とかいう問題設定から一歩先へ進んで、
・主権概念の生成プロセスにおける類似用語の併存・重なり;
・主権者の家産領や、特権的な社団の編成を越えて「国家/主権国家っていったい何なんだ」という問題への回帰 -
という所まで確認できました。神聖ローマ帝国(Reich)および皇帝(Kaiser)、ドイツ王、ローマ王のなんとも絶妙な用語法も!
5月27日の早稲田における歴史学研究会大会、合同部会「主権国家 再考」およびその特別号での刊行(晩秋)が、おそらく西洋史研究および世界史研究にとってひとつの画期になりそうな予感も共有して、とても良かったのですが、それだけに2日目が先に延期というのが残念至極。
遠方から来て夜の会食後に大阪に泊まるのはぼく一人(他はみな今晩中に帰途へ)、と分かり、さんざ脅かされ、帰宿して、日曜午前は、新大阪発11:40 → 東京着14:13(のぞみ16号)が最終、という報道とJR新幹線サイトも確認しました。そのあと、書いたのは【 29 Sep 2018 23:14 】
「いろいろとありがとう。‥‥テレビおよびインターネット情報で、午前中の新大阪発上りは大丈夫ということで、早めに帰宅します。今日の研究会は、佳境に入って時間切れというのがもったいなかったね。」
という具合に呑気でした。朝食もゆったり摂って、宿は交通至便なところなので、JRを乗り継いで新大阪に11時前に着けば楽々‥‥と。

2018年9月27日木曜日

木谷勤さん、1928-2018

木谷先生が亡くなったと、昨日、知らされました。
1928年4月生まれですから、90歳。

名古屋大学文学部で、北村忠夫教授の後任としていらっしゃり、1988年3月まで同僚でした。そのときの名大西洋史は4人体制(教授二人、助教授二人)で、年齢順に、長谷川博隆、木谷勤、佐藤彰一、近藤、そして助手は土岐正策 → 砂田徹と替わりました。志摩半島や、犬山ちかくの勉強合宿にもご一緒していただきました。
それよりも、名大宿舎が(鏡池のほとり、桜並木の下の)同じ建物の同じ階段、3階と1階の関係とあいなりましたので、その点でもお世話になりました。お宅でモーゼルのすばらしく美味しいワインを頂いたこともあります。福井大学時代の Werner Conze 先生のこととか、いろいろ伺いました。

何度も聞いた、忘れられない逸話は、戦争末期のやんちゃな木谷少年のことで、高等学校に入ったばかりだったのでしょうか。高松の名望家のぼっちゃんで、成績もよく、理系でした。空襲警報が鳴ると、いつもお屋敷の屋根に上って、阪神方面に向かう高空の米軍機を遠望し、「グラマン何機飛来」とか、今日は「B29何機」と大声で下の人に向けて告げるのを常としていた、といいます。
ところがある日、ふだんと違って飛行編隊の高度があまり高くなく、こっちに向かってくるではありませんか。爆撃機が機銃射撃しながら近づいてきたと認識した途端、身体に痛みを感じ、屋根から転落した木谷少年は、その後、数日間意識不明だったといいます。気付いてみるとみんなが心配してのぞき込んでいた、そして左腕は切断されていた。
木谷少年も、こうして高松空襲の犠牲者で、さいわい命はとりとめましたが、両手を使っての実験はできないので理系の道はあきらめ、戦後、文系、しかも西洋史・ドイツ近代史を専攻することになったわけです。(「花へんろ」の早坂暁と1歳違いですね。松山と高松という違いもありますが。)

山川出版社の旧『新世界史』の改訂版、および『世界の歴史』を出すための編集会議(2000年ころ)でご一緒して、そうです、ぼくの原稿が従来の謬見のまま、プロイセンおよびドイツ帝国について権威主義・軍国主義の中央集権国家*、と書いてるのを、そうではなく連邦主義の複合国家だと言ってくださり、誤りの再生産を防いでいただきました。
なおロンドンのベルサイズ(ハムステッドの手前)にはお嬢さん一家が滞在中のところ、ご夫妻で寄寓ということでしたが、ニアミスで残念でした。
ご夫妻と直接お話ししたのは、2008年の松江が最後だったでしょうか。いただいたお年賀状は去年のものが最後となりました。

* 近代ドイツを中央集権国家というイメージで語りたがるのは、いつの誰からでしょう? 伊藤博文・大久保利通以来、明治~昭和のオブセッション? 関連して「30年戦争」以来、ドイツはバラバラで荒廃した、といった定型句もありました。坂井榮八郎さんの『ドイツ史10講』(2003)が徹頭徹尾、こうした中央集権(を目標とする)史観に反対しています。

2018年8月28日火曜日

ことばの歴史性


 話はあちこち逸れましたが、16・17世紀にもどって、もし大航海時代の冒険商人たちが(日本列島でなく)現代のアメリカ合衆国に遭遇したなら、軍の最高司令官=大統領のことは emperorと呼び、合衆国の国のかたちについては邦 state を50個も束ねる empire だと形容したでしょう。だからといって、今日の政治学者も歴史学者も、大統領は「皇帝」だ、合衆国は「帝国」だと呼ぶわけにはゆきません(そう言いたくなる折々はあっても!)。
 むしろ現代のアメリカ合衆国は連邦制の imperium「主権国家」で、大統領は imposterならぬ imperator「国家元首」で、議会や司法の掣肘をうける存在でしょう。上記の平川『戦国日本と大航海時代』の引用部分について確認するなら、大航海時代のポルトガル人やイエズス会士は、日本列島を統一途上の imperium「主権国家」、秀吉や家康を(フェリーペ2世やジェイムズ1世のような)imperator「強大な君主」「主権者」と認めた、というのに他なりません。

 16世紀末と19世紀末は異なる時代です。300年の歴史をはさんで、近世・近代のヨーロッパの政治用語は 1648年のウェストファリア体制、1815年のウィーン体制の〈諸国家システム〉を前提にしたものに転じ、用法が異なります。同時に単語としての継続性も残る。歴史研究者なら、言葉の継承と、その意味の転変とのデリケートなバランスを捉えないとなりませんね。
 ユーラシア史の大きな展開。これを十分に把握するためには、アジアだけでなくヨーロッパ史の新しい展開も看過できない、ということです。西洋史も、2・30年前に高校世界史で習ったのとは違うのですよ!

2018年8月27日月曜日

<帝国>と世界史


(ちょっと日にちが空きましたが)『日経』郷原記者の「アジアから見た新しい世界史 -「帝国」支配の変遷に着目」の続きです。第1の論点について異論はありません。特別に新規の説ではなく、多くの読者に読まれる新聞の文化欄8段組記事ということに意味があります。

 第2の論点、帝国となると、そう簡単ではありません。郷原記者は平川新『戦国日本と大航海時代』(中公新書)を引用しつつ、16~17世紀に「日本は西欧から帝国とみなされるようになった」「太閤秀吉や大御所家康は西欧人の書簡で「皇帝」、諸大名は「王」とされた」と紹介します。
 それぞれ empire, emperor, king にあたる西洋語が使われていたのは事実ですが、そもそも中近世の empire を帝国、emperor を皇帝と訳して済むのか、という問題があります。近藤(編)の『ヨーロッパ史講義』(山川出版社、2015)pp.93-105 でも言っていることですが、emperor はローマの imperator 以来の軍の最高司令官のことで、近世日本では征夷大将軍や大君(ないし政治・軍事の最高支配者)を指します。京のミカドというのはありえない。
 また empire はラテン語 imperium に由来する、最高司令官の指令のおよぶ範囲(版図)、あるいはその威光(主権)を指していました。だから吉村忠典も早くから指摘していたとおり、帝政以前の共和政ローマにも imperium (Roman empire の広大な版図)は存在したのです。『古代ローマ帝国の研究』(岩波書店、2003)および『古代ローマ帝国』(岩波新書、1997)。
 たしかに近現代史では emperor は皇帝、 empire は帝国と訳すことになっていますが、その場合でも emperor は武威で権力を手にした人、というニュアンスは消えないので、神か教会のような超越的な存在による正当化が必要です。中国の皇帝が天命により「徳」の政治をおこなったように。
 1868年以後の日本では将軍から大政を奉還されたミカド、戊辰の内戦に勝利した薩長の官軍にかつがれた天皇に Emperor という欧語をあてましたが、これはフランスの帝政をみて、また71年以降はドイツのカイザーをみて「かっこいい」と受けとめたからでしょう。ただし、武威で権力(統帥権)を手にしただけでは御一新のレジームを正当化するには不十分なので、神国の天子様という「祭天の古俗」に拠り所をもとめ、89年の憲法でも神聖不可侵としました。そうした神道の本質をザハリッヒに指摘した久米邦武を許さないほど、明治のレジームは危うく、合理的・分析的な学問をハリネズミのように恐れたのですね。

2018年8月22日水曜日

世界史と帝国


 このところ『日経』の記事にあらわれた現代史および今日的な情況について発言を繰り返していますが、じつはその動機/促進要因は、8月11日(土)の文化欄、
アジアから見た新しい世界史 -「帝国」支配の変遷に着目」にありました。
 これは郷原信之さんの久しぶりの署名記事で、2つほど大事な論点(の混乱)があって、そのことを明らかにするのは簡単ではない、一つの論文が必要なくらい、と思ったのです。しばらく対応できないでいるうちに、次々に周辺的な、簡単にコメントできる問題が続いたので、そちらに対応してうち過ごしていた、というわけです。

 帝国や世界史といったテーマで、長い研究史をふまえた話題の出版物が続いていますが、これはじつは郷原さんの東大大学院における研究関心でもあった。彼が修士を終える2001年春までに『岩波講座 世界歴史』は完結し、イスラーム圏をはじめとする「東洋史」の勢いもあたりを払うほどのものとなり、加えてイギリス史における「帝国史」研究グループもミネルヴァ書房の5巻本の企画を進めていたころでしょう。
【それまで関西の人たちの愛用していた「大英帝国」という語が - 木畑さんの語「英帝国」を経て - 中立的な「ブリテン帝国」ないし「イギリス帝国」に替わるのも、これ以後です。まだまだ大英帝国が大日本帝国と同様に右翼の用語だということを知らないナイーヴな人たちばかりでした。スポーツ大会の開会式で、右腕をまっすぐ伸ばして宣誓するスタイルがヒトラー・ユーゲントの作法だと知らないまま、指摘されて「別にそんな邪悪な意図があったわけじゃありません」と釈明するのと同じ。歴史的に無知な公共の言動は罪です。】

 郷原さんの論点の第1は、西欧中心史観ではない世界史、ということで、岡本隆司羽田正といった方々の著作によりながら、いまや学界のコンセンサスと思われることが確認されます。西ヨーロッパがグローバルな勢いをもつのは、15・16世紀の貧弱なヨーロッパの冒険商人が、豊かなアジア(インド)の通商に交ぜてもらうことを求めて大航海に乗り出してから、かつ(偶然が重なって)アステカおよびインカの文明(帝国?)を簡単に滅ぼしてしまってからです。アジアに対して傍若無人・蛮行は通用せず、その豊かな経済と文化に遅参者として交ぜてもらうしかなかった。その結果は、対アジア貿易の赤字の累積です。なんとかせねばならない。
 18世紀からいろんなことが重なって、ユーラシアの東西関係は激変し、なぜかオスマンもムガルも清も、ヨーロッパ人に対する関係が弱腰になる。イギリス・フランスの植民地戦争がグローバルに展開するのも同じ18世紀です。戦争と啓蒙と産業革命の18世紀の結果として、近代西欧はわたしたちの知る近代ヨーロッパとなった。1800年の前と後とで世界史の姿はまるで違います。そして、これは今日の歴史学のコモンセンスで、『日経』の記事がその点を、別の筋から確認したことには意味があります。
【念のため、古代ギリシアをオリエント文明の辺境として捉えるのは今に始まったことではなく、『西洋世界の歴史』(山川出版社、1999)pp.4, 8 などにもすでに明記されています。大航海の動機や産業革命の始まりを合理的に説明するには、西欧中心史観では不可能、ということは、拙著『イギリス史10講』(岩波新書、2013)でも、今秋に出る『近世ヨーロッパ史』(山川リブレット、2018)でも繰り返しています。】

ただし、第2の論点、帝国となると、そう簡単ではない。そもそも empire を帝国と訳してよいのか、という問題から始まります。

教養主義とデモクラシー


 教養主義といえば、講談社現代新書(今年2月刊)の『京都学派』pp.224-226 には、教養主義について(も)恐るべく、ええかげんなことが記されています。著者、菅原某とはぼくの知らない人。
 そもそもこの新書には、近代日本の重要な思想家の氏名と生没年、経歴は列挙されているが、著者自身の表現によれば「言うなれば「師」を外側から観察して「師」の教えをつまみ食いして満足する手合いのもの」p.225、と。そこまで自分のことを認識して書いていたんですか!?
 この菅原某さんは哲学はかじっていても、そもそも歴史的に考えるということができない人のようで、せっかく『世界史的立場と日本』および『近代の超克』における高山岩男と鈴木成高と河上徹太郎の間の「二つの近代」あるいは「近世」と「近代」をめぐるズレ・対立に言及しながらも、なにか意味ある論理が構築されてゆくわけではない(pp.124-137)。長い引用が続くだけです。

 教養主義/教養を語るより前に、自分で観察して調べ、自分の頭で考える、といった習性が、まったく身についてない人、あるいは、そんなことに意味があるの? といった時代・世の中に、ぼくたちはいま包囲されているのだろうか。トランプ現象/フェイクニュース現象は、合衆国だけの問題ではありません。というより(教養市民の核なき)デモクラシーの危うさは、トクヴィル以来、早くから予言されていました。

2018年8月21日火曜日

教養と新聞記者

 
 このところちょっと『日経』をほめすぎたようですから、今日は苦言を。
歴史や哲学 手軽な教養書ヒット」という『日経』8月13日(月)夕刊の記事。
「教養書ブームの歴史」という横組の年表(?)も添えられていますが、1954年のカッパブックスに次いで1968年の吉本隆明『共同幻想論』、その次は1976年、渡辺昇一『知的生活の方法』、そして1983年浅田彰『構造と力』‥‥、といった選択の基準がわからない。テキトーに10年に一つを選んだということかもしれないが、それにしても戦後の高度成長期に「世界文学全集」のたぐいが各社から出て、戦前からの岩波新書の好調に続き(この記事にも言及された光文社「カッパブックス」の後には)、中公新書、講談社現代新書の創刊が続いたこと、そして60年代半ばから90年代まで『岩波講座』が大学生市場を席巻したという事実をうかがわせる兆候は示してほしい。
 本文では、野本某の言「いずれ古びるハウツー本を読むより、古典的な教養に触れた方が自分が高まると感じる人が多いのではないか」という引用。その2段下には、歴史学者(?)與那覇某の言として「教養を通じて、無限に広がる世界へアクセスしたいと思っている読者は、そう多くない。‥‥昔から伝わってきたものに宿る本物らしさに、安心を求めているのでは」と引用されている。
 これでは、できの悪い大学生のレポートみたいなもので、「教養」というものに触れたい人が多いのか少ないのか、いったいどっちなんだ、と詰め寄りたくなる。両者の意味する「教養」の内実が違うと示唆しているわけでもなさそう。だれがどう言っていますという引用センテンスを並べるだけなら、キッザニアで「記者ごっこ」をして遊ぶ孫たちにもできる。

 さらにいえば、戦後の高度経済成長にともない、大学進学率が(1950年代の)8%くらいから(70年代に)20%を越え、(2000年代には)40%を越えました(男女計)。2010年以後進学率は50%を越えたとはいえ、停滞しています(当然でしょう!)。そもそも若年人口も総人口も大卒人口も「団塊の世代」の250万人/年が押し上がるとともに増えてきたわけで、教養主義の盛衰は、大学生( → 大卒者)の絶対数および総人口比とあきらかに相関しているでしょう。
文科省の発表数値を西暦に書き直した表(4大について)
大学への進学率グラフ(第6図が4大について)
年次統計.com(短大を含む進学率)

 そうしただれでも思いつく事実の示唆さえないのは、担当記者(2人)の取り組みのええかげんさを示しています。つまり、これは「盆休みの[スペースを埋めるためだけの]消化記事」だった、ということなのかとさえ疑われる。
デスクにも責任があります。「しっかり事態を観察して、背景を調べ分析し、立体的な論理をたて、こうだという説得性のある文章にして、初めて大卒の書いた記事になるのだ」とかいって原稿を突っ返す、デスクはいなかったのか。

2018年8月18日土曜日

堪え/がたきを堪え 忍びがたきを忍び


 「平成最後の夏(上)」のつづきです。『日経』の同じぺージに「終戦の詔書」の原本の写真があります。記者は詔書の日付が8月14日だということの確認のつもりで添えたのかもしれませんが、この写真はそれ以上に雄弁で、「玉音放送」を朗読した昭和天皇の「間」の悪さというか、演説の下手さかげんの根拠のようなことがようやく見えてきました。

 大きな字で清書してあるのはよいけれど、(昔の正しい国語らしく)句読点がまったくないばかりか、なにより行の切れ目と意味の切れ目が一致しない。
【以下、写真のとおり詔書を転写するにあたって、行の切れ目に/を補います。それから文の終わりに、原文にはないが「。」を補います。カナに濁点もありません。こんな原稿を手にして、なめらかに、リズミカルに朗読せよ、というのが無理というもの。】

【前略】  ‥‥爾臣民ノ衷情モ朕 善/
ク之ヲ知ル。然レトモ 朕ハ時運ノ趨ク所 堪へ/
難キヲ堪へ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ/
太平ヲ開カムト欲ス。/
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾 臣/
民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ。/  【後略】

(わたしたちの感覚では)まるで清書した役人が意地悪だったのかとさえ憶測されるほど、パンクチュエーションもブレスも無視した原稿です。
 玉音放送のあの有名な「然レトモ 朕ハ時運ノおもむク所 堪へ[ここに1秒弱の空白]
がたキヲ堪へ 忍ヒがたキヲ忍ヒ‥‥[このあたりは順調に朗読]」
の読み上げで、音楽的にも文学的にもナンセンスな「間」が入ったのは、ご本人のせいではなく、じつは大書された原稿の行末から次の行頭へと縦に眼が移動する(Gに反する動きゆえの)物理的な「間」なのでした!
 詔書はマス目の原稿用紙ではないのだから、気の利く臣下だったら、(句読点の代わりに)数ミリの空白や文字の大小を上手に巧みにまじえて、行末で重要語のハラキリ、クビキリが生じないように清書できたでしょうに。【今日の NHKのアナウンサー原稿も大きな縦書きですが、句読点は明示し、なるべくハラキリ、クビキリの生じないように工夫しているでしょう。】
 陛下、まことにご苦労なさったのですね!

それにしても「爾(なんじ)臣民」のくりかえしが多い。上の6行だけで3回も!
 ポツダム3国(連合軍)の意向ににじり寄りつつ、「‥‥國體(こくたい)ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾 臣民ノ赤誠ニ信倚シ」、天皇制を維持してよいというかすかな保証をなんらかの筋からえて嬉しい。なんじ人民も蜂起や軍事クーデタを企てることなく、「赤誠」の志を示してくれるなら、共にやってゆこうと祈念していたわけですね。

8月15日ということ


 
 『日経』14日夕刊の「8月15日 ニュースなこの日」という記事は、簡潔でザハリッヒでした。1995年、村山首相の「終戦記念日にあたって」という談話。これは特に日本遺族会会長、橋本龍太郎の合意をとったうえで閣議決定、発表にもちこんだのでした。
 記事の最後、「‥‥戦後70年談話でも安倍晋三首相は、過去の談話でキーワードとなった「植民地支配」「侵略」「反省」「おわび」の文言を全て盛り込んだ。いずれの談話も閣議決定し、政府の公式見解となった」と締めているのが良い。

 ここから昭和天皇を怒らせた靖国神社のA級戦犯合祀(1978年)を撤回する決断までは、あと一歩かと思われますが、しかし、日本政治の決定的局面で、今なお「右翼バネ」が効いているわけです。
 同じ『日経』、14日(火)の社会面で「平成最後の夏(上)」という連載が始まりました。この日は、全国戦没者追悼式の変遷をたどり、これが最初に開催されたのは1952年5月2日、新宿御苑で、その後、空白がつづいたこと。1963年8月15日に日比谷公会堂で再開され、翌64年に靖国神社で、65年に日本武道館で開催、以後これを踏襲、という事実が確認されます。
 そのうえで、シンボリックな日付8月15日の根拠をあらためて問うているのが良い。「終戦の詔書」は8月14日(ポツダム宣言受諾日)付、降伏文書に調印して国際法的に戦争が終わった日は9月2日。では、なぜ8月15日が終戦=敗戦の日とされてきたのか? 一に「玉音放送」と「お盆」との重なりゆえで、なんとも内向きでガラパゴス的な invention of tradition なのでした!

 靖国の関連で、念のため、右翼であることと、保守であることは、同じではありません。保守(反革命)はバークやピールのように、ある普遍的な世界観に結びつきうる。それにたいして右翼(ナショナリズム)は、アメリカのKKKも、日本の軍部も遺族会も、普遍性への指向はなく、縦に連なるとされる(本質!?の)系譜にこだわり、これを相対化するような批判にはハリネズミのように身構える。井の中の蛙ですが、武力をもつと、こわい! 

2018年8月17日金曜日

ピンチはチャンス → 東ロボくん


 海辺の砂浜になにかを描く黒田玲子さんの大きな写真を日曜の『日経』でみました。なんと両面見開きの記事には、「右がダメなら左へ」とタイトルがついています。国文学のお父様、本に囲まれた仙台のお宅のことは何度か聞いていますが、70年代後半、ロンドン大学でのトンデモナイ初日の試練については初めてかも。
https://www.rs.tus.ac.jp/kurodalab/jp/Member.html
「ピンチはチャンスなんです」とか、「理不尽なことがあって不平を言うのはいい。でもそれきり行動しないのであれば同情しか(さえ?)買わない。あなたに本当にやりたいことがあるなら、まず自分で考え抜き、人のアドバイスも聞きなさい。必ず扉は開かれる。」という力強い助言で、この長いインタヴューは締められる。黒田さんはぼくと同じ年に東大教授を退職した方ですが、はるかに活動的な現役の先生です。

 国文学と無縁ではないが、国語力、読解力ということで、国立情報学研究所(NII)の新井紀子さん(AIロボットに東大入試を解かせて合格させる「東ロボくん」プロジェクトのリーダー)の前半生が、8月6日から『日経』の夕刊に連載で語られていました。
なんで一橋大学卒の数学者がAIを? という前々からのナイーヴな疑問は、どういった小中高の生活を送った人なのか、ということから氷解しました。(部分的には)上の黒田玲子さんと同じような行動力、動員力のある方なのですね。
 それから、一橋の授業では、新井さんもまた、数学の先生とともに、阿部謹也さんの授業に魅了された一人だったとのこと! アベキンの魔術的な魅力を語る人は、盗聴者もふくめて、多いですね。1980年代のことですが、阿部先生に名古屋大学の集中講義に来ていただきましたら、そのまま後を追って東京に行っちゃった院生がいました。

2018年8月16日木曜日

「花へんろ」ぞなもし


 猛暑と大雨ばかりでなく、驚くような事件も続きます。みなさんは、いかがお過ごしでしょう。
 7月末からほとんど10日間ちかく、「ウイルス性喉カゼ」というのにやられ、年齢のせいかもしれませんが、猛暑も加わり、かなり苦しみました。「喉が痛いな」という感覚から始まり、翌日からセキ、痰が出始め、(ウイルス性で投薬は効かないということなので)栄養と十二分の安眠で自力治癒を目指しましたが、そう簡単には回復しませんでした。

 その間、知的活動はあきらめ、BSの再放送をはじめ、いくつかの古いドラマや映画を見たりして過ごしました。とりわけ「花へんろ」と「新花へんろ」は愛媛県松山市の郊外「風早町」の「勧商場」とその近隣の人間模様を、関東大震災(1923)から敗戦(1945)、そして戦後のカオスにいたるまで定点観測した作品。そういえば、1985-88年、そして1997年に見たことを想い出しましたが、細部はずいぶん忘れています。早坂暁のライフワークでもあり、桃井かおりの「成長」を目撃する作品にもなりました。
 「昭和とは どんな眺めぞ 花へんろ」という早坂暁の句が毎回、最初と最後に詠まれ、時代を描きつつ、高度経済成長以前の地方の商家と、それぞれの理由で四国遍路に出かける人々の悲哀が語られます。

 じつは松山市中に生まれたとはいえ5歳までに四国を出たぼくにとって、お遍路さんはまったく馴染みのない存在ですし、また「‥‥ぞなもし」という言い回しも親類縁者の間で聞いたことがなく、大人になってからむしろ余所者感覚で認識することになります。
むしろ昭和の後半の松山の人々にとって、お遍路さんよりも瀬戸内、そして大阪とのつながりの方が大きかったと思われます。戦争を生き延びた父も叔父も、そして(尾道の)ぼくの母の父も人生の前半の重要局面で、大阪の学校や企業(日立製作所、大阪商船、東洋レーヨン)に関係していました。「新花へんろ」では東京のエノケンの偽物、大阪の「土ノケン」が登場して笑わせますね。

2018年7月31日火曜日

東大闘争の語り

災害と猛暑が交替で襲来します。お変わりありませんか。
小杉亮子『東大闘争の語り-社会運動の予示と戦略』(新曜社)が出たことを、塩川伸明さんから知らされ、購入しました。

読んでみると、pp.38-39に聞き取り対象者44名の一覧が(許諾した場合は)本名とともにあり、最首助手、長崎浩助手、石田雄助教授、折原浩助教授、から大学院の長谷川宏さん、匿名の学部生がたくさん、そして当時仏文だった鈴木貞美にいたるまで挙がっています。匿名ではあれ、話の内容(と学部学年)からダレとわかる場合も。ふつうは東大闘争の抑圧勢力として省かれる共産党(当時は「代々木」とか「民」とか呼んでいた)関係の証言もあり、叙述に厚みがあります。何月何日ということを極めつつ歴史を再構成して行くのも好感がもてます。45年~50年前の集団的経験について、インタヴューに答えつつどう語るか。当事者の証言を史料としてどう扱うか、方法的にも価値があると思われます。

ただし、方法的に社会学であることに文句はないが、当時の東大社会学関係者の証言が偏重されています。いくらなんでも東大闘争の関係者として、和田春樹さんや北原敦さん(そして塩川伸明さん)を含めて、歴史学関係者の証言がゼロというのは、どうかと思います。
(『文学部八日間団交の記録』を録音からおこして編集した史料編纂者はぼくですし‥‥)文学部ストライキ実行委員会の委員長は西洋史のK(Kは69年に全学連委員長になってしまったので、下記のFFに交替)、学生会議を仕切っていたのは仏文のF、あまり知的でなく行動派のSも西洋史でした(このイニシャルは本書のなかの証言者の記号とはまったく別)。東洋史院生の桜井由躬雄さんは亡くなってしまったので、ここに登場しないのは仕方ないとしても。69年1月10・11・12日に安田講堂や法文2号館に泊まり込んでいた西洋史の学生で後に重要な学者になった人は何人もいる。
哲学の長谷川さんの言として、「白熱した議論を哲学科と東洋史と仏文はやってて‥‥」(p.259)、また学部3年のFのことを紹介しつつ社会学科ではノンセクトの学生が活発に活動しており(p.262)といった一面的な語りは、大事ななにかが抜けていませんか? と問いただしたくなる。本書全体の導き手のような福岡安則の好みによるのだろうか。
そうした偏りはあるとしても、これまでの類書に比べると、相対的に信頼できる出版です。いろいろとクロノロジーの再確認を促されます。
社会学だと運動が予示的(≒ユートピア的)か、戦略的かという問題になるのかもしれません。しかし、『バブーフの陰謀』(1968年1月刊!)とグラムシを読んでいた歴史学(西洋史)の者にとって、「ジャコバン主義とサンキュロット運動」という枠組、そしてカードル(中堅幹部)の決定的な役割、といったことの妥当性を追体験するような2年間でした。

なお69年12月に文スト実のFFが呼びかけて(代々木の破壊工作を避けて)検見川で集会をもち、議論のあげくに「ストライキ解除」決議をとった。これは敗北を確認し、ケジメをつけて前を見る、という点で、たいへん賢明な決断でした。その後のFFは立派な学者になっていますが、先には70歳を記念して、ご自分の卒業論文をそのまま自費出版なさった。尊敬に値する人です。

2018年7月11日水曜日

夏草や‥‥


 放っておくと、母の家の庭もこんな具合。 Before.

 火曜の午後に二人がかりで、母屋と「書庫」と呼ぶも恥ずかしい小屋の間の庭に繁茂する雑草、とくに人の背丈くらいのセイタカアワダチソウを引き抜き、人が歩けるスペースを作りました。汗を1リットルくらい流して、腰痛も心配しましたが、こちらはなんとか。水分とともに、キウイフルーツ、そして水羊羹も食して生き返りました。 After. 撮影の角度は異なりますが。このとおり。
 玄関に吹き溜まっていた枯れ葉などを市指定のポリ袋に収めていたら、隣家のKくん(小学校の同級生でした、彼も70歳!)が帰宅し、声をかけてくれました。
 いろいろ未解決な問題は少なくないのですが、これですこしは爽やかな気持で陋屋をあとにしました。

2018年7月7日土曜日

さよならの挨拶

 例年より早い梅雨明け、ということでしたが、天の配剤か、記録的な豪雨が長く西日本を襲っています。どうぞ慎重にご行動ください。七夕です。

 そうした鬱陶しいなかに、『立正史学』123号が到着。奥付には2018年3月とありますが、それはタテマエで、本当はこの7月です。
 日本史とともに、西洋史関係では、北原敦さん、大西克典さん、近藤遼平さんとイタリア史がならび、ぼくの「さよならの挨拶:イギリス人とフランス人」が掉尾に位置する、計250ぺージあまりの充実した巻。
 刊行が遅れた責任の一半はぼくにあります。「さよならの挨拶」は3月31日の会のお話をもとに改稿したもので、それだけ皆様をお待たせしてしまいました。典拠の辞書を引き直し、読み直して論理をしっかりさせたのと、もう一つはなんと、プルーストの失われた英訳初版を求めて、東大の書庫を探し回ったからです。
 当日ご出席の皆様には、抜刷が出来てからお送りしますので、まだしばらくお待ちください。

2018年6月18日月曜日

大阪の地震


 今朝、起きぬけの大阪北部地震ですが、マグニチュード6.1。高槻、茨木、箕面あたりで震度6弱。ちょうど大阪大学のキャンパスおよび宿舎の広がる付近ですね。まだ正確なことを知らぬまま書くのははばかられますが、皆さん、どうぞ身の安全を第一にお考えください。
 85歳の男性が自宅で倒れかかってきた書棚に挟まれて死亡というのも、痛ましいニュースです。寝室に「腰より高い物は置くな」とよく言いますが、住宅事情からむずかしい場合もあるでしょう。
【さきの東日本大震災で、ぼくはたまたま自宅にいて難を逃れたのですが、翌日、大学に行ってみたら、部屋のドアはすなおに開かず、全身の力で押して入ってみると、書棚の本や書類が床に散乱していました。固定書棚とは別に、高さ2mのスチール書棚も16基くらいならんでいましたが、据え付けかたを以前から -初歩的な物理学の知恵で- 工夫していたのが幸いしたか、倒れたものは一つもありませんでした。】

 それにしても大都市の地震としては、被害は特別に甚大ではなく、耐震、耐火の対策がそれなりに効果があるのだと実感しました。不幸中の幸いです。
 フォーラム〈地球学の世紀〉ですでに2011年より前に(!)地震学者が警告していました。21世紀日本にとって、次から次と大地震が起こるのは避けられない。だから、都市とインフラの耐震化・津波対策は、ほとんど運命的に重要だと。
 → このフォーラムの全もくじは、https://honto.jp/netstore/pd-worklist_0629016704.html
 全会合の記録が、松井孝典監修全・地球学 1996-2017(ウェッジ、2018)というでかい本として出版されています。ぼくも2項ほど書いています。

2018年6月6日水曜日

階級闘争の歴史

 <承前>
 いま立正大学の院生たちと一緒に読んでいるテキストは、Gordon Taylor, A Student's Writing Guide (Cambridge U.P.). この p.10 に挙がっているエピソードを、昨日のラウル・ペック監督は味読すべきだと思いました。

... when I read those words by Karl Marx, 'The history of all hitherto existing society is the history of class struggles', childhood memories made me say 'and that's true!', just as years of reading and observation later were to fill in the details for that proposition and raise doubts about what it leaves out.

 そう、階級闘争は、ことの一面にすぎない。それ以外のことが人類史には一杯ある。読むべきこと、考察すべきことをネグレクトして、問題を単純に絞り上げて「敵」を示した上に、ナイーヴな大衆を扇動したマルクス・エンゲルスは、ほとんど文革の毛沢東と同罪、共和党のトランプと同じかもしれない。

 19世紀前半まではどうか知らないが、少なくとも1848年『共産党宣言』以後の社会主義運動にとって、ブルジョワ社会を倒したあと、どういった社会を創るのか、そして議会や国家、そして正しい者の「前衛党」といったものをどう機能させてゆくのか、こうした問題をきちんと考えることができないまま(棚上げにしたまま)、「批判的批判」に甘んじていた。これは、重大な欠損でした。

 というわけで、映画「マルクス・エンゲルス」は「カール・マルクス生誕200年記念作品」と銘打つには、足りない出来。責任の過半は、監督と制作スタッフの力量不足にあるかと見えます。
 いかに今の世がひどい、ネオリベラルが跳梁跋扈しているからといって、旧態依然たる共産党のプロパガンダでよしとするのは、人民への愚弄だと、ぼくは受けとめます。そう、ぼくはマルクス主義についても、ピューリタニズムについても、修正主義者です。悪しからず!

2018年6月5日火曜日

映画「マルクス・エンゲルス」


 今朝、岩波ホールで映画「マルクス・エンゲルス」を見ました。朝から行列ができて、若いのも退職世代も一杯なのには驚きました。

 フランス語原題は Le jeune Marx (若きマルクス)で、1840年代のケルン、パリ、ブリュッセルにおける妻イェニ(ジェニ)との生活、エンゲルスとの出会いと社会主義者たちとの論争。1848年2月の共産党宣言で終わる映画というので、あまり多くは期待できないな、と思いながら行ったのですが、案の定。
(ほとんどレーニン・スターリンの教科書にも出てきそうな)ドイツのヘーゲル哲学、フランスの労働運動、イギリスの経済学という3つの伝統(資産!)の合体したところに生まれる正しい理論・運動としてのマルクス主義。その生成過程をカール、イェニ、フレッド(エンゲルス)の信頼と友情と協力関係で描くという構えです。
 監督ラウル・ペックさんは1953年、ハイチ生まれとのことですが、ちょっと勉強が足りないのではないかと思わせるほど、図式的な(共産党の)マルクス主義理解です。そもそも若きマルクスの学位論文 -マルクスは19世紀前半の「大学は出たけれど」どころか、オーバードクター=アルバイターのハシリです- からのつながりは一切触れられないし、(『経済学哲学草稿』にも、いや後年の『資本論』の価値論にも現れていた)ヒューマンな人間論、むしろ実存哲学的な考察はオクビにも出てこない。

 映画の最初に森林伐採法・入会権にかかわる場面があるけれど、これもプロイセン政府の暴虐ぶりを表現するエピソードというだけの意味づけ? プルードンとの論争も、(字幕では)「所有」か「財産」か、といった無意味な訳になってしまった。Propriété も Eigentum も、自分自身(proper/eigen)であることと領有する(appropriation)ことにも掛けたキーワードです。
平田清明の『市民社会と社会主義』(岩波書店、1969)を読んでから出直すべきかも。これは、往時のベストセラー、もしや「岩波現代文庫」に入れるべき一つかもしれません。

 この映画で唯一、映画らしい説得力があったのは、ことばの運用です。マルクス、エンゲルス、イェニともに場面に応じて、相手と感情のままにドイツ語、フランス語を用い、ときにチャンポンでも通じた。むしろ19世紀前半はまだ英語がマイナーな言語であったのだとわかる作りです。そしてマルクスは、経済学を勉強するために、必要に応じて、英語を習得してゆく。メアリはアイリッシュ系の英語。

 他党派にたいするマルクス・エンゲルスの容赦のなさは、この後、ますますひどくなり、また48年議会におけるドイツ周辺部を代表して出てくる議員のドイツ語(の発音)にたいするエンゲルスの差別発言たるや、恐るべきものがありました。ぼくは『マルエン全集』で48年前後の赤裸々な表現を見て以来、エンゲルスをこれっぽっちも好きになれない。これほどの証言を全部収録して全訳する「全集刊行委員会」は何を考えていたのだろう‥‥。冷めた心でマル・エンに接しましょう、とか?

 大学院に入ってすぐの柴田ゼミのテキストは、1864年ロンドンの「第1インター」の議事録(英・仏・独語)でした。そこでの少数派=マルクス・エンゲルスの党派的で強引な動きもまた印象的で、柴田先生はどういうつもりでぼくたちにこのテキストを読ませているのだろう(そろそろセクト主義から足を洗うように‥‥とか?)、とにかく愉快でない経験でした。そして権威的マルクス・エンゲルス主義者であることから気持が確実に離れるきっかけにもなりました。『社会運動史』のメンバーへの援護射撃というおつもりだった?
 70年代半ばの柴田先生は19世紀フランス社会主義の歴史に集中しようと考えておられたようで、西川正雄さんと院ゼミを合同で持たれたこともありました。

2018年5月31日木曜日

東京大学出版会の歴史書

 渡邊 勲(編)『37人の著者 自著を語る』(知泉書館、2018)が到来。読み始めると止まらない。

 残念ながら、縁の薄かった東大出版会、そして歴史学研究会でした。ぼくの東大時代に、渡邊さんはすでに偉くなっていて、その下の高橋さん、高木さんから声がかからなかったわけではなかったのですが。もっぱら近年のぼくの怠慢のために「単著」はまだ日の目を見ていません。

 「渡邊編集長への献呈エッセイ集」ともいうべき、440ぺージをこえる書。部分的には、じつは「老人の繰り言」という箇所分もないではないが、むしろぼくの知らなかったいくつもの事実(坂野潤治、色川大吉‥‥)、そして研究史的な変遷や史料についての明快なコメント(権上康夫、高村直助‥‥)がおもしろい。
 なんと椎名重明先生が立正大学時代に研究室に置いた鞄を盗まれ、カネ目のものは失ったが、犯人にとって無意味なロンドンで書きためた史料ノート2冊はキャンパス裏手の有刺鉄線に引っかかっているのを五反田警察がみつけた! といった事件は知りませんでした。このノートが奇跡的に見つからなかったら、『近代的土地所有』(1973)はこの世に生まれなかったのですね。
 西洋史では、ほかに和田春樹、城戸毅、油井大三郎、増谷英樹、南塚信吾、木畑洋一、伊藤定良といった方々。

 というわけで、渡邊さんが東大出版会の編集者になった1968年4月(ぼくが本郷に進学した春!)から定年退職なさる2005年まで。そのうちでも主には70年代、80年代の、歴史学と出版をめぐるエピソードが一杯。最後の色川『北村透谷』は、出版契約からなんと30年以上かかって、1994年にできあがったのだという。

 とはいえ、たとえば石井進さんや西川正雄さんといったキーパーソンの証言がないと、重要な出版企画がどのように実現していったのか、あるいは消えていったのかの全体像は見えず、画竜点睛を欠く観があります。この本の編集は、もうすこし早めに始めてくださったら良かったのに、と思います。

2018年5月23日水曜日

広島にて


 19-20日に日本西洋史学会大会がありましたが、ぼくの宿は、このように元安川のほとり、広島平和記念資料館をすぐ左下に見て、原爆ドームを右正面に遠望する所にありました。
 こういう立地に立つと、かつての秋葉忠利・広島市長を想い起こします。
 秋葉さんは、例の秋葉京子さんの兄上。ぼくの中学の大先輩で、高校は教育大附属、AFSをへて東大理学部へ、そしてMITに留学して、アメリカで活躍する数学者でした。それが、あるときから日本社会党の議員になり、そして広島市長選挙に立候補して当選、3期を勤められました。
 数学者が政治家になった経緯については存じません。それにしても社会党内で村山富市に対抗し、東京と千葉とアメリカしか知らなかった彼が広島に根付いて、3度の市長選挙に勝利し、平和都市宣言を貫き、オバマ大統領を招致し、今あるような活気ある地方中核都市の建設に奮闘した、というのは生半可なことではないでしょう。

 高校の優等生としてAFS留学を経験したこと、コスモポリタンな学問=数学を専門としたこと(彼のあと数学者になる人/なろうとするヤツが、ぼくたちの学年まで何人も続きました!)、などもポジティヴな要因だったでしょうか。
 「そらには若葉かがやきて
  胸には燃ゆる自由の火‥‥」
といった中学の校歌を、ぼくたちは歌っていました。

 ‥‥そんなことを考えていた広島の宿に、なんと中学の高梨先生から電話をいただきました。伊那谷で秋葉京子のリサイタルをやろうという企画の話です。
 念のために秋葉忠利さんのブログを探してみたら、今日は日大アメフット部の問題を論じておられました。
http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/

2018年5月13日日曜日

承前:古稀の認識


 昨日、中学の同期会で心に刻み込まれた第2の点は、70歳の元生徒たちの生活に根づく認識です。
 親の介護といった件はあまりに多くの人の共通経験で、とくにどうということもないほど。
 それが配偶者のこととなったとたんに、とくに男子ですが、生活と世界観の大きな転変に至ることもある。‥‥ それでも前を向いてポジティヴに生きるヤツが何人もいたのだと遅まきながら知って、これは想定外のたいへんな収穫でした。
 ひとは一人で生きているわけではない/一人だけで生きようとしてはならない、だれの支援でもありがたい(すなおに受けとめよう)、といった真理に心いたるのも、老境に入ってこそです。
 千葉駅で別れ際にいただいた、ちょっとした一言で目頭が熱くなったりしました。

2018年5月12日土曜日

美しき五月に

承前
 申し遅れましたが、ぼくの音楽的環境を語るにあたって、もう一人の重要な人物、秋葉京子さんについては、前にも書きました。
 今日も最後にぼくが小さな声で Im wunderschönen Monat Mai, とつぶやいたら、直ちにしっかりと、やさしい声で als alle Knospen sprangen,
da ist in meinem Herzen die Liebe aufgegangen. と続けてくださいました。
なんて美しい響きだろう。
 同級でしたが、すでに中学を卒業するときには声楽家になると決めておられましたから、別の道を歩み、1970年代からはドイツでご活躍でした。カルメン、マーラー、バッハ‥‥ 最後は国立音楽大学。今日集まったなかでも国際派の代表格です。

古稀の同期会


 今日はなんと古来稀なのではなく(幹事の真ちゃんによると)首を回すとコキコキッていうから、千葉の中学の同期会。元生徒29人と先生方3人が集まりました。同期の母集団は男女127人でしたが、逝去者がすでに10人を越えたということで、出席率は1/4を越えています。
最近は2年に一度開いているようですが、ぼくは2014年以来。懐かしい顔や、どうやっても想い出せない顔や、いろいろありましたが、個人的にはとりわけ2つの点で感銘を受けました。久しぶりの晴天、土曜の昼に行ってよかった。
 
 第1は、先生方のこと。熱血のクラス経営をしてくださった斉藤先生(教員として最初に受けもった学年から最後の学年まで、すべての生徒の顔と名を覚えていらっしゃる!)、中学で習うことは一生役に立つといいながらカンナの扱い、釘の打ち方を指導してくださった黒川先生、そしてなにより、わが青春の高梨先生がいらした! 高梨先生はぼくたちが中3の時に新卒で赴任されたわけだから、ぼくたちより8歳上?とても信じられない、きれいな女性です。ぼくより(同席のほとんどより)ずっと若く見える!
 この高梨先生は、ぼく一人のマドンナだったのではなくて、中学の音楽室を楽しい場にしてくださった。それまでの主任のパチ先生が教頭になって忙しすぎるとかで、急遽新米の先生にすべてが任されたわけですが、毎日、授業が終わると、松本、金子、西川、若井‥‥といった悪ガキたちが集って、勝手にLPレコードの「蔵出し」をすることが許されたのです。
 1962年の時点で考えると高水準のステレオ設備、音楽室の空間に、大音響でブラームスの第1交響曲、チャイコフスキーの悲愴、‥‥が響き、ぼくたちは、スコア(総譜)をみながら、指揮棒をふりながら、これらを次々に聴いたのです。夏休みには受験準備よりもベートーヴェンを第1番から9番まで連続で聴こう、ということになりました。このときは先生の選定で、ワルター+コロンビア交響楽団の交響曲全集でした。3・5・7・9といった奇数番の力強さとドラマ性に比べて、15歳の男子には、偶数番のシンフォニーはちょっと半端な印象だったりしましたが。
 ちょうど千葉大教育学部が猪鼻台から西千葉に移るにともなって、半分ゴミ扱いされたSPレコード(ブッシュ室内楽団のブランデンブルク協奏曲とか‥‥)を、廃棄処分でいただいたりしました。
 勢いあまって、夕刻は街にくりだして、ちょうど「国電」で帰る組と京成電車で帰る組とが分かれる交差点にあった「松田屋」楽器店では、なまいきにも新譜を「試聴させてください」なんて言って、アイーダを聴いたり、トリスタンの「愛の死」の和音についてああだこうだと言ったりしていたのです! 
【いや、落ち着いて考えると、トリスタンは中3ではなく、翌年、高1になってからだった‥‥ 仲間も通学路もほとんど同じだったので、混同しやすい。したがって、高校に進学してからも、高梨先生と朝夕の通学路でお話しすることができました! 高1が終わるとともに、先生は(25歳)結婚なさって信州に行ってしまいました。】
 怖いもの知らずのぼくは、高1のほんの一時、さ迷って作曲や指揮のまねごとなどをしていました。後にストレートで芸大の楽理に入学するようなヤツと一緒に『指揮法入門』の勉強を始めたり、‥‥さいわい、同学年に実力の差を知らしめてくれるヤツが居てくれて、まもなくそうした迷妄から覚めましたが。

 こういうセンチメンタルな回顧だけではありません。むしろこの音楽室と松田屋での経験が、ぼくの 時代と音楽(文化)という感覚(sense & sensibility)を育んだ、といえる。バッハとモーツァルトでは時代が全然違う。ベートーヴェンから近代が始まる、というより彼は近代の前衛だった。シューベルト、シューマン、ブラームスにとってのベートーヴェンの遺産・重み・桎梏。ワーグナ、ドビュッシの新しさ。そして、ショスタコヴィッチの苦闘‥‥武満の響き‥‥
 こうした音楽経験があったからこそ、18世紀以来の時代性・その転換ということを、ブッキッシュでなく体感的にわかるんだ、というのは、後々に認識するところです。

 つまり今、西洋史学なるものを、なにか新刊本や新しい研究動向を引用しつつ営むのでなく、自分の経験として語れる、文献以外の経験も分析的に論じてゆくことができるということが、もしぼくの強みだとしたら、それは高梨先生の音楽室から始まったのです。
今日は、ここに書いたことのごく部分的な断片だけを申し上げたので、十分に分かっていただけたかどうか。心から感謝しております。
【とにかくレアな経験だったことは、あまり考えなくても、直観できることでした。近藤くんはブラームスだったネと、とくに親しかったわけでもない今井さんに言われて、そこまで皆さん、互いを知っていたんだ、とそうした点についても認識を新たにしました。Danke schön! 】

2018年4月24日火曜日

坂本龍一くんの父、坂本一亀


 今晩のNHK「ファミリー ヒストリー」には感涙しました。中国東北から生還した父上にとっては「余生」、としての戦後をどう生きたか。生前はまともに話すことはおろか、正視することもできなかったという息子、龍一が、仕事人間、「人を愛することも、愛されることも下手だった父」を追悼する、ということ自体がドラマティックな結びでした。ご本人も「やばいですね‥‥」と涙を拭いていました。

 とはいえ、ぼくの場合は、龍一くんよりもそのご両親、辣腕の父=一亀さんと美しい母=敬子さんの物語として(語られぬ部分にも)感極まるものがありました。ぼくは龍一くんが芸大に入学する前の夏、富士山麓の坂本家の別荘で数日間、一緒に生活していたのですよ。
1969年ですから、坂本くんは新宿高校(AFSの留学から帰ってきたばかり)の3年生、ぼくは東大の無期限ストライキ中。その前もその後も、生きる道の重ならないぼくと坂本くんが、なぜその夏に一緒に寝泊まりしていたかというと、68・9年という情況だったから、そして新宿高校3年生のK子さん、その姉のM子さんがそこにいたからです。M子さんは、ぼくとも、後年結婚する光明くんとも、中学・高校が一緒でした。ブログに書くより「小説」の材料になりそうなことが、その夏の富士山麓を舞台に、次々と展開しました。

 河出書房の黄金時代を支えた辣腕編集者として名の通った坂本一亀さん(1921-2002)は、三島由紀夫や野間宏や水上勉や丸谷才一もそうだけれど、それより、ぼくたちの世代にとっては高橋和巳(1931-71)の担当編集者として知られていて、どんな小さな逸話でも聞きたかった。そうした父上のこと、母上のこと、高校のこと、なぜかそのとき(お盆休みなので?)テレビでやっていたジェイムズ・ディーンの「エデンの東」、日の出の赤富士、「富士には月見草が似あう」という太宰の台詞‥‥。

 49年前の真夏を想い出し、また今は亡きご両親夫妻の老後の穏やかな様子を写真で見ることができて、この番組には心洗われました。【誤字を訂正し、ほんの少し言葉を補いました。指摘してくださった方、ありがとう!】

2018年4月23日月曜日

「られりろる」の入力

 先にも記した「られりろる」の入力というのは、こういう問題です。
一太郎ユーザは「ロンドン」とか「リスト」とかを入力する場合に、既成(デフォールト)モードでは rondonn とか risuto などと入力します。この(わざわざ L と R を間違って入力しなくちゃならない)ことで、不愉快極まる思いをしていませんか? 中学以来の L と R の区別、これがようやく苦労なくできるようになったあなたには、耐えがたい/屈辱的な感覚ですね。これを解決するには、
一太郎画面のテンプレートから
「ツール」 → 「オプション」 → 「入力モード設定」
とクリックして進むと、「ATOKプロパティ」という画面になります。
この画面で → 「キー・ローマ字・色」というタグをクリックすると
→ 「ATOK ローマ字カスタマイズ」
というぺージに入ります。ここで「設定一覧」をドンドン下へ行って、
下の写真の該当部分の「ローマ字」・「かな」の対応関係を変えればよいのです。
一太郎で悪さをしているのは L です。半死の L を本来の仕事をすべく、生き返らせましょう。
デフォールトの「設定一覧」で定められた
(la, le, li, lo, lu) → 小文字の(ぁ, ぇ, ぃ, ぉ, ぅ)
をば、
(la, le, li, lo, lu) → 通常の(ら, れ, り, ろ, る)
へと設定し直せば、すべて解決。
さらに、(lya, lye, lyi, lyo, lyu) → (ゃ, ぇ, ぃ, ょ, ゅ)をば、
(lya, lye, lyi, lyo, lyu) → (りゃ, りぇ, りぃ, りょ, りゅ)
へと設定すれば、明快になります。
かな小文字には l でなく x を添える方式がすでに設定されているので、問題は派生しません。

こうした結果、豊かで爽快な一太郎の沃野が拡がります。普通の単語登録に加えて、たとえば

 lo → ロンドン
 lago → ラテン語
 list → リスト
 ris → 立正大学

さらには『』(二重カギ)を出す煩わしさを解決し、また「し」 → 「史」への変換を一発で決めるために、
 riss → 『立正史学』
 s → 史

漢字変換・日本語作文で「一対一」対応の変換が効くというのは、爽やかで気持いいですよ!
もっと調子に乗って、「短縮読み」で
 141 → 東京都品川区大崎4-2-16
 iokou → 『イギリス史10講』
 iwanami → (岩波書店、)  この()と「、」のあるなしが書誌を記すとき、全然ちがってきます!
 kk → 近藤 和彦       わざと半角空けています!
 uk → 連合王国
 usa → アメリカ合衆国
 8c → 18世紀
 wp → ワープロ       
といった(それ以上、もっとすごい)快速のアクロバットもできます!

なお辞書登録にあたって、ワープロやメール、ローマといった、音引(ー)のためにブラインドタッチの両手の位置を浮遊させるのは、可能なかぎり避ける、というキーボード入力の鉄則も考慮しています。

こうして鍛えあげたATOKを使いこなすと、それ以外の日本語変換がバカみたいに見えてきます。振り返ると、ワープロ専用機「文豪」から、、ATOK、そして秀丸エディタの世界へと導いてくださったのは、1990年代の安成さん(と佐々木さん)でした。ご恩は忘れません。ありがとうございました。

2018年4月22日日曜日

Internet Explorer ではこのぺージは表示できません

 花も新緑もとてもテンポが早くて、味わう暇もない!

 31日に立正大学から French leave でも filer à l'anglaise でもなく、日本的に挨拶して辞去し、荷も撤収したのが11日(水)、大学院の最初の授業の日でした。そこまでは遅めながら何とか進んでいたのですが、じつは、その翌12日の午後に、なんと2009年からずっと付き合ってくれていた富士通の FMV D5270 ですが、その Internet Explorer がついに働かなくなったのです。
富士通の名誉のためにいえば、その本体は9年物で、老体ながらも、なお堅実に仕事をしています。東大生協で購入した2009年初から、比較的安くて問題のないデスクトップ・マシーンでした。 写真の右端、こんな環境で駆使していました。 

 PCに通じた方なら、たとえ IE がダメでも他のブラウザがあるではないか、とお思いでしょう。問題はそんなことではなく、Google Chrome については既に数ヶ月どころか1年以上前から作動しません。おそらく根本は OS なのです。購入したとき、本来は Windows Vista だったのですが、XP に慣れ親しんでいたし、そちらにダウングレイドして使うのが、当時の多くのハードユーザの嗜好で、ぼくもそうしました。
 では先年、MS がXPの更新を止めてからどうしていたのか?
慎重に手動で Microsoft Security Essentials の更新を続け、他のPC(いずれも Windows 10 です)と併用していました。そんな危ないことを‥‥という方が多いでしょうが、じつは(目を付けられていないかぎり)大丈夫。日本語のメールで正確な文章が必要なときには、こちらのXPで;大事な用件で間違いなくインターネット・アクセスしなくてはならない折には Windows 10 の端末で、といった二本立てでした。
それだけ FMV は BenQ の大きなモニタ、Sanwa のスリムで白いキーボードと相性がよく、なにより年季をかけて鍛え上げた一太郎および秀丸(いずれもATOKで動きます)が軽快に反応してくれました。もしや一太郎(ATOK)と相性が悪いのかもしれない? Windows 10 では、文章の作成中に苛つくこともありました。

 といった最近年の経過をへて、ついにインターネット接続を完全に拒否されたのが12日(木)。一日置いて再び試みても、事態は変わらず。
  Internet Explorer ではこのぺージは表示できません
というメッセージがでて止まります。
 とはいえ、これは想定内のことですから、Windows 10 のマシーンは2台(Surface Pro も含めれば、計3台)待機していました。

 早速に解決しなくてはならなかったのが、一太郎・秀丸(ATOK)と 10 のマシーンとの相性問題。これはそれぞれ最新の「一太郎 2018」および「秀丸 ver.8.79」に更新してみたら、あっけなく解決。例の「られりろる」の入力方式を修正したうえで、辞書を日夜きたえるという課題は残りますが、これは淡々と進めるしかありません。既存の「一太郎 創2011」からは自動的に資産継承してくれるようです。

 といったことで、また家庭の事情も加わり、この数日間、インフラ整備にテマヒマとられました。結局のところ、9年勤続の FMV D5270 は栄誉の現役退任ということで、これからは、オフラインの作文と HDDのデータ倉庫がお仕事ということになります。

2018年4月7日土曜日

ルイ14世の死


寒い年度末、暖かく、大谷翔平の活躍であけた新年度。日夜の経過がとても速い!
まだ引っ越しも完了せず、立正大学に段ボール箱が積み残しです。済みません!

そうしたなか、『図説 ルイ14世』(河出書房新社, 2018)の著者・佐々木真さんから映画「ルイ14世の死」の試写会招待をいただき、今日、ようやく日時を合わせることができ、京橋の試写会場に参りました。

アルベルト・セラ監督、ジャン=ピエール・レオ主演、2016年の作品。5月に全国公開とのことです。

1715年夏の終わり、ほんの3週間あまりの病床の「太陽王」を描きます。カメラは(冒頭以外は)寝室から出ることなく、「一般受けはしない」映画かもしれない。
しかし、フランス史ないし近世ヨーロッパに関心のある人、それから近親に長患いの人、老衰した人を抱えている場合、愛する人が日にちをかけて亡くなった場合には、この「陳腐な死」を2時間かけて描く作品は、ジンとくるかと思いました。
ゆったり進行し、マントノン夫人をはじめ、人々は静かに理性的で、謀略らしき臭いもなく、感情的に盛り上がるのは、最後に近く、モーツァルトの「ハ短調ミサ曲」が歌い上げる部分だけ。淡々と、外界の鳥のさえずりが強調された音響世界で、これは、かなり勇気のある作品だと思いました。
(ハリウッド/ボリウッドでは不可能!)

帰宅してあらためて、佐々木さんの『図説 ルイ14世』を見かえしました。
このシリーズ、絵がたっぷりですが、細部にも十分に心遣いした本になっています。
同時に、イギリス史にかかわる部分は、従来の概説・通史がそうだからなのですが、ちょっとだけ問題が残ります。ここでは1点だけ。

p.48 図版キャプションとしてチャールズ2世について
「王政復古後には親カトリック政策を採ったこともあり、ルイ14世とは良好な関係を保った。」
→ これは、むしろ逆です。「親カトリック政策を採った」からではなく、
そもそも「親フランス政策を採った」から親カトリックとなる場合もあったが、本質的にイングランド国教会の立場(via media)です。『イギリス史10講』pp.135-9.
国教会路線のことを親カトリックと攻撃するのは、17世紀ピューリタンから20世紀日本の無教会派プロテスタントまで継承された偏見で、こうした原理主義の史観は、害のみあって益はない。

いずれにしても、「偉大な世紀」の太陽王、「国家とは朕のことなり」のルイ14世はただのフランス王=ナヴァル王だっただけでなく、ヨーロッパ1の君主でした。イギリス王家にとって、(イトコである)彼と同盟していれば安心だが、1688-9年の名誉革命のように彼を敵にまわす選択は、ほとんど生死をわける決断でした。単独ではなく、フランスを追われたユグノー=ディアスポラ、そしてオランダ連邦との同盟関係があったから、(plus 神の加護があったから!)なんとか生き延びた。そして、議会主導の「軍事財政国家」として国債、イングランド銀行、政党政治でもって、延命の「第二次百年戦争」に突入するわけです。

1714-15年のジャコバイト危機について、こうした国際舞台でしっかり論じてみたいですね。ワイン、酒造もこの wine geese の文脈に入ってきます。

2018年3月26日月曜日

満開の夜桜

あっという間にソメイヨシノも満開ですね。
千鳥ヶ淵とか大横川といった名所もありますが、ごく近所でもライトアップすると、こんなに、きれい。上に小さく見えるのは半ばの月です。

2018年3月22日木曜日

梅・桃・桜


桜の開花宣言のあとの寒い日々。今日からふたたび青空と暖気が戻りました。ぼくも睡眠負債の結果としての風邪から、ようやく回復途上です。
2月から慌ただしくしているうちに、いつのまにか3種の花がそれぞれのサイクルを見せています。
梅はもう散りどき。

桃は満開。

桜もソメイヨシノは一分咲きから勢いをつけて週末には満開でしょうか。

それぞれ近隣、そしてよく寄る道端で撮りました。

2018年3月14日水曜日

長崎にて

 長崎に参りました。
 世の中の転変からはちょっと距離を保って、歴史的な主権について討論し、新しい知識を得て、また「うまかもん」に感激する2日間。先週9・10・11日の東京における John と Michael のセミナーから連続していますので、疲労感とともに、満足感も。
 着いた日のランチは「長大」食堂でちゃんぽん、夜は五島列島の料理尽くし、今日昼は「一人前」の茶碗蒸し、今夕は波止場で中華料理。
 残念ながらぼくの場合は観光するヒマはゼロです。

2018年3月3日土曜日

ウィンストン・チャーチル

 原題は Darkest Hour. 1940年5月の政治的決断がテーマの映画。
 試写会の案内はすでに暮からいただいていました。しかし、大学の仕事や執筆や公務などで時間は自由にならず、ようやく今週の月曜に身を空けて半蔵門・麹町に駆け付けたところ、なんと「30分前からすでに満員でお断りしています」! 
あとは1日のみ、1時間前には来てください、と。トホホ。

 アカデミー賞候補というので前人気が高まっているとか。
パンフレットには木畑洋一さんが Essay を寄稿していて、「首相としての足場が定まらない時期のチャーチルを、エキセントリックといってよいその人物像を効果的に示しつつ、見事に描き出した」と評しておられます。

2018年3月2日金曜日

3月の研究集会

2月はアッと言うまに逃げ去り、すでに3月です!
ぼくにとって最後の大学勤めなのですが、同時に学問的にもたいへん有意義な催しが続きます。

すでにずいぶん前から準備されていましたが、この3月にイギリスからジョン・モリル(ケンブリッジ大学名誉教授)と一緒にマイケル・ブラディック(シェフィールド大学教授)が来日して、連続セミナーが開催されるのです。東京では、3月9日(金)に東京大学、10日(土)・11日(日)に東洋大学です。それぞれのオーガナイザからの案内を以下に転載します。

この3つのセミナーは事前登録不要ですが、【2】【3】の懇親会参加をご希望の方は、会場手配の都合上、下記までご一報ください、とのことです。
 東洋大学人間科学総合研究所(渡辺) [a]は半角@に換えてください。
ご関心のありそうな方に本案内を転送してよいとのことです。

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J・モリル/M・ブラディック氏 来日セミナー

【1】 3/9(金)18:30~20:30
東京大学(本郷)小島ホール1階 第2セミナー室
  Prof. John Morrill (with Prof. Michael Braddick), "How to spend a lifetime living with early modern Reformations and Revolutions"
https://politicaleconomyseminar.wordpress.com/ (近日更新予定)
※ポリティカル・エコノミー研究会(PoETS)主催、井上記念助成研究所プロジェクト「グローバル時代の歴史学」共催

【2】3/10(土)13:30~18:00
東洋大学(白山)10号館A301教室
<「民」と革命--17世紀イギリス史再考・2>
  Prof. John Morrill, "The Peoples' Revolution: Civil Wars within and between three kingdoms and four peoples 1638-1660"
  Prof. Michael Braddick, "The people in the English Revolution"
  コメント:山本浩司(東京大学), "The English Revolution and the politics of stereotyping"
※科研基盤A(大阪大学)「歴史的ヨーロッパにおける主権概念の批判的再構築」主催、井上記念助成研究所プロジェクト「グローバル時代の歴史学」共催

【3】3/11(日)11:00~16:00(13:00~14:00は昼食・懇親会)
東洋大学(白山)10号館3階A301教室
<社会史再考・2>
 Prof. John Morrill, "Revisionism and the New Social History"
 Prof. Michael Braddick, "Politics, language and social relations in early modern England"
 コメント:辻本諭(岐阜大学)
※井上記念助成研究所プロジェクト「グローバル時代の歴史学」主催

更新情報は、以下のサイトに随時掲示します。
 https://www.toyo.ac.jp/site/ihs/
 https://www.facebook.com/toyo.ihs/
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2018年2月26日月曜日

教師 冥利

 寒い夕に3年生ゼミの惜別会がイタリアン食堂で催されました。
両手に余る贈り物をいただいてしまいましたが、なによりも「先生のもとで卒業論文を書きたかった!」という言、そして ← こんな肖像イラストには驚き、嬉しく、感極まりました。みなさん、ありがとう!

2018年2月6日火曜日

みすず〈2017年読書アンケート〉

みすず』1・2月号(no.667)が到来したのは、先週末のこと。
例年のことながら、見始めると止まりません。立ったまま、あれこれ前後をひっくり返しながら読み耽って、就寝時間はますます遅くなる。
 かくして、いつも期して待つ〈読書アンケート〉特集号ですが、その唯一の欠点は、索引がないので、あ、この本、だれかも言及していた! といってそれを探し当てるのが大変。探してアチコチしているうちに、また別の本が目に入って、そちらに気が移り‥‥、といったことで、際限がないのです。
 そんなこと! 編集者の立場にたてば、年末の〆切日を無視して、年始の@日にもなって一太郎でデータを送りつける先生方(!)に対応するのを優先するなら、索引どころか、執筆者順をあいうえお順やABC順に整えることさえ不可能です。去年はビリから29番、今年もビリから16番の近藤の言う台詞ではありませんでした!
 新顔として、ブレイディみかこさん、草光俊雄さんの新規参加に気付きました。逆に常連のうち、ノーマ・フィールドさん、喜安朗さんの名が今年は見えなかった。

 それで、ぼくが〈2017年読書アンケート〉として挙げた書目を列挙しますと:
1. Koenigsberger, Mosse & Bowler, Europe in the Sixteenth Century, 2nd ed., 1989
2. Friedeburg & Morrill (eds), Monarchy Transformed: Princes & their Elites in Early Modern Western Europe, 2017
3. 池田嘉郎『ロシア革命 - 破局の8か月』2017
石井規衛『文明としてのソ連 - 初期現代の終焉』1995
4. 鈴木博之『建築 未来への遺産』2017
5. 松浦晋也『母さん、ごめん。- 50代独身男の介護奮闘記』2017
内実については、『みすず』本誌をご覧ください。

旧アンケートについては ↓ など。
http://kondohistorian.blogspot.jp/p/201516-413

2018年1月31日水曜日

bloody moon

ほんとに血のような(汚れた!)満月で、これを目撃したことは幸せというより、なにか不吉な予兆ともとれます。
ほんの10分ほど前に我が家のベランダから撮ったショットです。
満月で隠れていた星々もいくつか姿を現しました。

2018年1月30日火曜日

冬は寒い

 ご心配をかけているかもしれません。
 このところ大学内の試験や論文審査、学外の公的任務に追われて、
ブログ更新が滞っていますが、なんとか凌いでいますので、ご安心を!

 最近の寒さについては、とくにどうということはありません。
ケインブリッジもロンドンもこれ以上の厳冬だったり、むしろ雨雲で気分が滅入ったり‥‥。
栄養バランス、就床前の温かいお風呂、睡眠時間さえ保たれていれば、マルチタスクの日夜が続いても、なんとかなるものです。

2018年1月15日月曜日

戌年のごあいさつ

 新年、おめでとうございます。
 昨秋から家族の病気の一進一退でドタバタしています。
 年賀状には
 「‥‥ (れき)に伏して 志 千里にあり
などとしたためましたが、これは曹操の
 「驥老伏櫪 志在千里、烈士暮年 壯心不已」
の一部ですから、取りようによっては、「老驥」気取りの、かなり背負った発言と取られるかも知れません。ただし、ぼくとしては世に流布する「櫪に伏すとも」という読みでなく、むしろ素直に順接で、「櫪に伏して」、志だけは千里の遠くに在り、といった実情を謙虚に述べたつもりです。
 そこに老人の挫折をみるか、まだまだ終わっていませんという心情をみるか。

 抑制された心情は、型に約束があって枠のはまった定型句によってこそ表現しやすいような気がしています。

  小春日に 母と語りめづ 向島蜜柑
   
 向島とは広島県の旧御調(みつぎ)郡、尾道水道の向かいに見える「むかいしま」です。母は戌年、弟が向島に密柑山をもつ農民歌人です。先に老人ホームの誕生会で慰問の子どもたちが「みかんの花が咲いている‥‥」と歌ったら、ただちに母は「わたしの歌じゃよ」と申しました。
 尾道高女卒の母にとっては、林芙美子の「海が見えた。海が見える」や小津安次郎の「東京物語」などは、きわめてローカルに親近性を覚える作品です。

 皆さまも、ご健勝に。