ラベル 風景 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 風景 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年12月10日火曜日

阿智村と湾岸

 土・日は長野県 下伊那郡 阿智村(あちむら:清内路、駒場、昼神温泉)にて、都市史学会大会+山里科研総括シンポジウム「山里の都市性」でした。
 寒かった! 清内路(せいないじ)・駒場など guided tour の最中にも、みぞれか雪か、という具合でしたが、夜の懇親会は村長さんとご一緒。その翌朝、早めに起きて窓外をみると、阿智川の上を雪が舞っています。今季の初雪とのこと。


 2日目は充実した報告・討論を聞いて、夕刻の恵那山の上に半月を見て、高速バス・新幹線を乗り継ぎ、日曜遅くに帰宅。翌月曜に外に出ると、こんなにまぶしい陽光。隅田川大橋から永代橋、佃の高層住宅群をのぞむ光景ですが、信州と東京湾岸の違いは大きい。

2024年9月11日水曜日

虹の根本

ただ今、ハイランドを探訪旅行中。幸運にも虹の根本(ねもと、こんぽん)に遭遇。
車を降りて、撮影しました。

2024年7月6日土曜日

美浜区 打瀬(うたせ)

 今日も - 太平洋側では - 暑かったですね。お変わりありませんか?
 そうしたなか、前々から予定されていた用件で京葉線「海浜幕張」まで参りました。昔「放送大学」の番組制作で何度か訪れた駅ですが、そちらとは反対の、南口(海の側)に出て、幕張メッセや千葉ロッテのスタジアムの方角、しかし直近の超高層ビルへ。その25階でのお話と手続はトントン拍子で運び、11時半にはすべて終了して、解散とあいなりました。
 支障なくことが運んだのは良いのですが、ちょっと拍子抜けで、商業地区、そして広い帯状の海浜公園を抜けて、美浜区打瀬の、これぞ「幕張ベイタウン」という街区を歩いてみることにしました。
 ぼくが京成電車で中学、高校に通っていたころは、このあたりは遠浅の海岸で、アサリ取りと海水浴(と海苔養殖)しかなかった! 60年代、70年代に埋め立てが進んで、成田空港ができてからは(途中にあたるこの辺には)高速道路と京葉線が計画され、80年代には幕張はその要、「副都心」とする構想が唱えられるようになりました。京葉線の沿線の北半分(市川、船橋)はおもに工業・倉庫・物流の拠点となり、南半分(千葉市内)は住宅地が広がり、「海浜幕張」は両者の要というか狭間というか、商業・情報・教育の拠点となってゆくプロセスはぼくの知らぬまに過ぎ、いつのまにか、バブル期が終わってみたら、そうなっていたんだ、という認識です。
 1996年正月に日本に帰ってきてから - そのころは両親と一緒に住むことも展望して - しばらく広い範囲で(多摩や国立まで含めて)住宅/住宅地を捜したのですが、新聞広告にくりかえし出ていた幕張ベイタウンの集合住宅は魅力的で、その写真や図面は今でも記憶に残っています。
 多摩ニュータウンは傾斜地が前提の街造りでしたが、幕張は平坦な埋立地で、商業地や放送大学、アジア経済研究所と近接しながらの地割りも計画的に行なわれて、街の真ん中および海側の緑地も十分に設けられています。 
 最高気温35度にもなる真昼だったので、ベイタウンの目抜き通り(美浜プロムナード)も歩行者が少ない。しかし街路樹もたっぷり、目抜きの1階は(雪国の雁木通りみたいに)回廊のようになっているので、雨ばかりか日射しも避けられる構造です。小さな商いやブティクも並んで、悪くない街並みだなと思いました。駅の近くの超高層は別にして、たいていの集合住宅は6階ないしは5階までとして統一感があり、間隔を十分にとった(上から見ると)ロの字型、コの字型の住宅。なんだか西ドイツかオランダの都市住宅みたい、と連想しました(高度成長期の日本の団地住宅とは大違いです)。
 そういえば、わが高校の同窓生たちの現住所で、美浜区打瀬とか磯辺といったのが少なくない‥‥。京葉線快速を利用して、東京駅近辺まで通勤するには便利ですね。ここはまた定期借地権での分譲という手法も活用された、革新的な住宅地でした。

2023年10月21日土曜日

巨人の足跡‥‥想像力はふくらむ

9月のアイルランド・ブリテン旅行から帰国してすでに1ヵ月。今日は、木枯らしのような風に落ち葉が舞っています。いつまでも呆けているわけには参りません。
いずれしっかり具体化しますが、印象の強烈度からしても、ベルファストから北上して北端の海岸にある Giant's Causeway (巨人の土手道/踏み固めた道)こそ、圧倒的で、写真で見ていたのとは迫力が違い、それこそ百聞は一見にしかず、でした。
地質学的には、何百万年(何千万年?)前の火山/マグマ活動の結果が今、柱状節理(columnar jointing)として残っている所です。北大西洋の海嶺から東へと地殻が変動するうちに、吹き出したマグマが地表で冷却し、また雨水の浸食を受けて、6角形の柱のようにヒビが入り、それが壮大な絶壁の風景としてアイルランドの北端に連なっているわけです。
NHKの「ぶらタモリ」では紀伊半島南端の大火山跡の柱状節理を訪ねたことがありました。予算さえつけば、タモリさんも本当はここに来てみたいでしょうね。スケールが違います。
先史のアイルランド人(Scots)は、ほんの30kmほどの海峡を渡ってブリテン島の北端に移住したので、今はそちらがスコットランドと呼ばれています。古代人の想像力の世界では、この6角形の節理の連なりこそ、アイルランド島からブリテン島に渡った巨人の通路=足跡、というわけです。
Amphitheatre(半円形の劇場・盆地)という渾名の付いている湾の入口まで歩いて、向こうを見上げると、断崖絶壁の上に豆粒より小さく、上半身裸の男が(あまりのスケールに怖いので!)座り込んで、北の海を眺望しているのが見えました。同じ写真の上右の細部を拡大してご覧に入れます。
『イギリス史10講』p.31  このあたりは中世前半のキリスト教の重要地点でもあり、ヴァイキングの常用航路帯(sea-lane)でもあり、17世紀には逆にスコットランドからプロテスタントのアルスタ移民が渡った海峡です。ウィリアム3世の足跡も。フランス軍の上陸作戦も。またロマン主義の時代には、メンデルスゾーンの「スコットランド旅行」もかくや、と想像力をかき立てられます。18世紀の亜麻産業からグラスゴー、マンチェスタの産業革命へ、そして20世紀にはベルファストの造船・タイタニック‥‥ぼくが若かったら(40歳以前だったら!)この地域/海域に焦点を合わせて壮大な歴史を書けたかも‥‥

2022年8月25日木曜日

真夏の大雪山国立公園

8月も下旬。みなさま、いかがお過ごしでしょう。
ぼくは母の新盆の後は、北海道に飛び、札幌から道東へ。十勝平野の北、大雪山の南の秘湯めぐりと洒落込んだのですが、警報が出るほどの強雨で、通行止めにも遭遇しました。 でも翌日にはカァーっと晴れて、たっぷり紫外線を浴びるとか。相客もそれなりに居て、(みんなマスクをしていますが)パンデミックも終局に向かいつつある、という空気でした。

然別(しかりべつ)湖糠平(ぬかびら)湖といった名は初耳のような気がするけれど、帯広から糠平を経由して十勝三俣にいたる士幌線については、中学の人文地理で習ったな、とあやふやな記憶がよみがえり、糠平のひがし大雪自然館の脇からおりて廃線跡を歩き、左手の橋梁跡へ、右手の鉄道博物館まで行ってみました。

糠平川橋梁の下では前日の強雨のためものすごい濁流(↓)を間近にみて危険を感じ、鉄道博物館の士幌線関連の展示は、モータリゼイション≒高度成長期の前までの林業と鉄道を想わせ、そこはかとなく懐かしいものでした。

2022年7月1日金曜日

梅雨明けの日射し

 いつのまにか夏至を過ぎたと思う間もなく、6月というのに関東は早々と梅雨明け。しかも今日からは7月! 今年は季節の移ろいが速い。
 このところ連日最高は35℃前後で、昼間に散歩に出かけるのは勇気を要します。
 この日当たりの良い通りで、左手の緑と花はとても爽やかで良いのですが、それを愛でる余裕はなく、みなさん右手の欅の並木がつくる日陰を選んで歩いています。

2022年5月22日日曜日

池袋のジュンク堂では

土曜の午前は所用で池袋に行った帰りに、雨でしたが、西武百貨店の南向こうのジュンク堂へ、まったく久しぶりに訪れました。1階角の入口で濡れた傘の処理をして、書店に入ったとたんに、わが目を疑うというか、恥ずかしくなるような、半端ない陳列です。 ↓
赤白の市松模様だけではつまらないから(?)、青緑の岩波新書を混ぜて並べているのでしょうか。ほんの少しイタリア的な色模様。2022年の新版と1962年の旧版とを比べてご覧なさい、といった趣向でしょうか。

ところで、岩波書店のサイトには、このような「試し読み」コーナーもあります。
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0256740.pdf これは1ぺージずつの表示ですが、実際の見開きの表示だと、もっと効果的ですね。

なおまた、すでに手に取ってくださった少なからぬ読者が、本にさわった感触、ぺージをくる心地よさ、etc.を伝えてくださいます。工学部のI先生のおっしゃる「書籍の人間工学的な形態論」でしょうか。ほんの少し厚めの紙質、柔軟でしっかりした製本、ほんの少し大きめの本文活字。それからもちろん、本文から左に目を移せば読める原註、訳註‥‥。デザイナと岩波書店の心意気に感謝です。

2021年8月4日水曜日

還暦を過ぎた桜並木

暑い盛りですね。みなさま、どうぞ無理せず、平常心でお過ごしください。

いまは無人の実家に行き、樹木も雑草も蔓延放題なのですが、隣家や公道に覆いかぶさるような枝葉だけは刈り込んで、多少の手当てをして参りました。
南北の窓をすべて開け放つと、それなりに涼風が通って、爽やかな気持ちになります。蛇口から直接、冷たい水道水を飲むと、小中高校生のころの感覚がよみがえります。
自宅にも学校にも冷房などなかった当時、夏休みは学校に行って級友と遊ぶか、自宅でなにかやっていた。島崎藤村 → 夏目漱石 → ヘルマン・ヘッセ、そして『ジャン・クリストフ』を読むか、ブラームスを聴くか。高校1年の一時期は、ベートーヴェンやブラームスの総譜を見ながら、(作曲ではなく)編曲の真似事などをやっていたこともある‥‥。大学2年の夏は ヴェーバー『宗教社会学論集』との格闘(みすず書房の『論選』翻訳が出るのは何年か後でした)。
暑さをあまりつらいとは思わなかったのは、若かったから? それとも実際いまほど暑くはなかった?
それにしても、この南の庭から北の隣家へと抜ける緑陰の涼風の感覚は、なぜか(60年くらいの時を隔てて!)なつかしく想い起こされました。

近くの公園です。もちろん遊具も道路との境界柵なども、全部入れ替わっていますが、60年を越えた桜の並木は、ぼくの9歳から23歳くらいまでの成長を見知っています。
1956年、県が開発したこの住宅団地に我が家はすぐに入居したのですが、なにもなかった公園には1・2年して遊具が置かれ、桜並木が植樹されたのだと記憶します。ですからこの桜木たちは64歳くらい‥‥。

2021年6月3日木曜日

散歩の風景

健康管理の第一歩は散歩(a walk)ということで、近隣のあらゆる方角へ歩いています。湾岸のタワマン群を見上げたり
→ https://kondohistorian.blogspot.com/2020/08/blog-post_31.html
また伊能忠敬(彼もまた18世紀人!)の「始めの一歩」像を拝んだりもします。

こういった水鳥の姿になごむことも。(写真の右寄りに)異種の2羽があまりヒトを気にせず休息しているのか、餌を狙っているのか。鳥の動きがあまりないので、最初は姿を見つけて喜んでいた大人も子どもも、やがて飽きて次のなにかのために歩き出す、というのも可笑しい。

2021年4月16日金曜日

立正大学のR

 水曜には大崎の立正大学まで授業に行って参りました。教室で授業をするのはじつに2020年1月から15ヵ月ぶり! 大学事務に顔を出すのは、20年3月の年度末処理以来でした。 学生もそれなりに居ますが、しかし Covid前に比べると、やはり空いています。
 峰原坂の正門から入ると変化に気付きませんが、6号館食堂・図書館の脇から山手通りの通用口へ下ると、2019年以来の大工事がすべて完了して、きれいになっています! 11号館と新13号館を合体させて一つの建物であるかのように見せているのですね。

 左隣は大崎警察署。あいにくの天気でしたが、違和感のない連続性が示されています。
大学のロゴもいつのまにか「緑のR」から「青のRデザイン」に替わりました(校舎の左壁、そして1階の中ほど)!

2021年3月31日水曜日

はないかだ

 今春は花も若葉も早く、すでにソメイヨシノの盛りは過ぎました。
 この間ゆったりと花見をする心境ではなく、ようやく今日お昼に行ってみた大横川では、花筏(はないかだ)状態でした。

2021年3月20日土曜日

大横川の春

 すでに、ご無沙汰一ヶ月以上になりますか。
 パンデミックも日本政治も、世界政治も、気の滅入る現状。それに花粉症が加わって、じつに憂鬱。‥‥とはいえ、なにもせず内向しているわけではなく、いくつかの有意義な仕事を続けてはいます。これについては、もうすこし具体化してからお伝えします。

 今日は桜の開花宣言はあっても、まだまだ

  楽しさも中くらいなり 大横川の春

ということで、川面の光景をご覧に入れます(最寄り駅は門前仲町です)。

2021年2月2日火曜日

きさらぎの小春日和

「如月小春」という知的できれいな演劇人がいました。書評でも活躍していた。惜しくも20年前に立教大学の教室で、くも膜下出血のため亡くなりました。

今日はその名を想い起こすほど穏やかな日。運河の鵜3羽と鴎2羽が(争うことなく)日なたで昼休み中です。

2021年1月3日日曜日

謹 賀 新 年

   新年をいかがお迎えでしょうか。

 1年前には想像もしなかった変事つづきの旧年でしたね。アタフタと対応しているうちに時は経過し、季節は移ろい、いつの間にかお正月。(雪国と違って)関東平野は寒いけれど無風の快晴がつづきます。パンデミックは収まらないどころか、ますます猛威をふるっています。この1年間の行動は自宅から約30kmくらいの範囲内にとどまり、飛行機を利用しての旅行など遠い昔のことのようです。

 そうした中でもITのおかげで遠隔の知友の顔を拝みながら対話したり、会合に参加したりできるのは、小さな幸せです。授業も学会もかえって便利になったかなという印象もありますが、しかし失われたものも少なくない。無駄なソシアビリテやちょっとした所作も大事だったんですね。

 そうしたグローバルな非日常のなかでも、古今の書物を読み、書きながら考え、ときには分かった!という気持になれるのは、職業の恵みでしょうか。幸運な人生なのかもしれません!

 加齢とともに、時折の知友のやさしさがいとおしく、身にしみますし、家族の生活と健康に思いをめぐらし、‥‥毎日散歩しています。この写真の横綱力士碑の左手にたつ横書の碑には「安政四年正月」とあります。

 みなさまも どうぞご健勝に!

 2021年正月     近藤 和彦

2020年12月16日水曜日

ベルリンより

師走も中旬、いよいよ本当に寒いなぁと感じ入っていたら、予期せぬクリスマスプレゼントが到来! なんときれいなベルリンの住宅カレンダー。Charlottenburger Baugenossenschaft (シャルロッテンブルク住宅協同組合)とあり、毎月分 Shinichi 署名の景観水彩画です。
2000年の夏の終わりに Urban History の学会でベルリンに滞在したときは、工科大学に隣接し、クーダムからも遠くないホテルでした。このとき工科大学も本屋も運河もいろいろ案内していただき、楽しい想い出です。以後ちょうど20年も顔を合わせてないのではないでしょうか!

  朋あり遠方より来信、また楽しからずや。

それにしてもドイツの都市景観は、このカレンダーとは別の所でも、明るい雰囲気の似た場が少なくないような気がします。2005年にリサーチに行ったハノーファも [戦災による全滅後に建て直したようですが]これに似たよい雰囲気の住宅街の一角に泊まりました。Rathaus の前を通り、小川のほとりの Hannah-Arendt-Weg を歩き、Archiv に通ったのです。ずうっと後に行ったミュンヘンも含めてドイツの印象はいいことばかりです。

2020年8月31日月曜日

湾岸の夜景

8月も今日で終わり。午後は、12月の都市史学会オンライン大会(http://suth.jp/event/convention2020/)へ向けての勉強会で、熱い4時間あまり。6時半に外を見ると、すでに暗くなっていて、河面をわたる風は涼しく、さすが盛夏も終わりか、と感じさせます。

この夏は、コロナ禍(と日差し)を避けてほとんど毎夜に散歩してきました。歩くコースは四方にあるとはいえ、やはり湾岸らしく、潮の香りがして展望もひらける所に惹きつけられ、この写真にあるような光景を歩くことが多いです。

東京港の入口、芝浦と台場をつなぐレインボーブリッジを遠望し、右手は「パークタワー晴海」と「晴海タワーズ」。紛らわしいけれど、三井不動産と三菱地所が競争的に共存しています(晴海2丁目)。この3棟の先、(ここからはほとんど見えない)オリンピック選手村に直結する一帯(晴海4丁目・5丁目)を Harumi Flag と呼ぶことにしたようです。タワマンの住み心地が良いかどうか、ぼくの好みではないけれど、ただ、周辺の緑地・遊歩道はよく整備されて、気持のよい空間です。むかしはセメント工場があり、はるか亀戸から貨物線が通じていました。
その Harumi Flag の写真を撮った場所を振り返ってみると、こんな具合です(豊洲2丁目・3丁目)。
左から三井不動産が再開発したタワマンと複合商業施設ららぽーと、青く光るのは豊洲の波止場で、かつてすべて石川島播磨造船( → 現 IHI)の敷地でした。それを記念したモニュメントが随所に残っています。右手の明るく大きな建物は、この夏にオリンピックを見込んで完成したばかりの三井のホテル+オフィス棟。

つまり真ん中に(夜は黒く光る)豊洲波止場前の海面をはさんで、三菱地所と三井不動産が対峙する配置です。どちらも海に接する遊歩道に、「ここの標高は5.5m」という同様の道標があり、緑地にはさらに丘のように盛り土した箇所もあり、人工の快適空間。
ぼくは、こういうのが嫌いじゃない。小学2年で千葉の新宿小学校に転校して以来、場所は移動しつつも、日本の高度経済成長と近隣の住環境の大転換とをずうっと目撃してきた世代です。40歳で湾岸は東京商船大学の脇に転居してきたのですが、このときも1988年(バブル最中で)佃の超高層マンションがニョキニョキと建てられ、地下鉄有楽町線が開通したのでした。湾岸の大変貌の画期でした。

2020年8月2日日曜日

さみだれを集めて‥‥


先週のことですが、NHKニュースで河川工学の先生が
さみだれを集めて早し 最上川
と朗じて、このさみだれとは梅雨の長雨のことで、流域が広く、盆地と狭い急流のくりかえす最上川は増水して怖いくらいの勢いで流れているんですね‥‥と解説しているのを聞いて、忘れていた高校の古文の教材を想い出しました。

さみだれを集めて早し 最上川 (芭蕉、c.1689年)
さみだれや 大河を前に家二軒 (蕪村、c.1744年)

 明治になってこの二句を比べ論じた正岡子規の説のとおり、芭蕉の句には動と静のバランスを描いて落ち着いた絵が見える。しかし、蕪村の句は、増水した大河に飲み込まれそうな陋屋2軒に注目したことによって、危機的な迫力が生じる。蕪村に分がある、というのでした。
 しかしですよ、子規先生! 
第1に、そもそも蕪村は尊敬する芭蕉の歩いた道を数十年後にたどり歩き、芭蕉の句を想いながら自分の句を詠んだわけで、後から来た者としての優位性があって当然です。ないなら、凡庸ということ。
第2に、句人・詩人なら、完成した句だけでなく、
さみだれを集めて涼し 最上川
とするかどうか迷い再考した芭蕉の、そのプロセスにこそ興味関心をひかれるでしょう。蕪村はそうしたことも反芻しながらおくの細道を再訪し、自らを教育し直したわけです。
 さらに言えば、第3に正岡子規(1867-1902)もまた近代日本の文芸のありかを求めて先人芭蕉、蕪村、明治のマスコミ、漱石との交遊、‥‥を通じて自らの行く道を探し求めていたのでしょう。そのなかでの蕪村の再発見だとすると、高校古文での模範解答は、論じる主体なしの芭蕉・蕪村比較論にとどまって、高校生にとっては「はぁそうですか」程度の、リアリティに乏しいものでした。教える教員の力量ももろに出ちゃったかな。

 たとえれば、ハイドンの交響曲とベートーヴェンの交響曲を比べて、ベートーヴェンのほうがダイナミックに古典派を完成しているだけでなく、ロマン派の宇宙をすでに築きはじめていると言うのは、客観的かもしれないが、おこがましい。ハイドンが楽員たちと愉快に試みつつ完成した形式を踏襲しながら、前衛音楽家として実験を重ねるベートーヴェン。啓蒙の時代を完成したハイドンにたいして敬意は失うことなく、しかし十分な自負心をもって新しい時代を切り開いてゆく。(John Eliot Gardiner なら)révolutionnaire et romantique ですね。

 両者を論評しつつ自らの道を追求したシューマン(1810-56)が、上の子規にあたるのかな。優劣を評定するだけの進化論や、それぞれにそれぞれの価値を認めるといった相対主義ではつまらない。自らの営為と関係してはじめて比較研究(先行研究)は意味をもつ、と言いたい。

2020年3月6日金曜日

神保町を歩く


コロナウィルス19とスギ花粉の時候がら、「不要不急の外出」は控えていますが、緊急必要のタスクがあれば、それなりの防備をした上で出かけざるをえません。大学にも、量販店にも。しかし一番良いものはやはり神田神保町の古書店街に、ということで、火曜・木曜には久方ぶりに出かけました。

靖国通りに面した2つの老舗店で良い買い物ができました。
 崇文荘書店は(坂巻助手、岡本先輩に教えられ)社会経済史も充実して、70年代にはお世話になったものです。書店側でも本の価値がよく分かっていて「ちょっと高め」の価格設定でしたね。今はどうかな。「日本の古本屋」kosho.or.jp というウェブぺージがあって、読者は歩き回らなくても相場がわかる(今では海外の古書店に注文するのも手軽にできる)ということもあり、それなりにリーズナブルな価格設定でなければ、売れません。

田村書店は、仏文の田村先生と関係あるのかないのか知りませんが、フランス文学や古典学に強い店。2階へ上がる階段にも古書が一杯で、階段幅は半分に狭まっている! そういうこともあって、これまでこの書店の2階に上がった覚えがない。今回は「日本の古本屋」で2巻本のラテン語辞典がかなり安く出ていたので、問い合わせたら、まだ在庫、というので飛んで行きました。ご主人とちょっとお話しできたし、なにより1階の和書は、今でも勉強家の学生にとって魅力的な掘り出し場です。

上の両店ではなく、別の古書店の前の歩道で、ちょうど荷車から降ろしているのを見かけたら、なんと西洋近世近代史の(ぼくの蔵書の一部、といっても通る)良い本ばかり複数の山を造っている! 思わず蔵書印かなにか手がかりをと思って手にとろうとしたら、「ダメです、店の中のものだけにしてください」と厳命されてしまった! 

春の晴れた午後。まだ日本の書籍市場も捨てたものではない、という気持にさせてもらいました。
(とはいえ、駿河台下交差点付近では、小川町ですが、昔むかしのエスワイルという洋菓子店も、またKKR・気象庁方面へ向かう千代田通りの左手・地下にあった鰻の店も、なくなっています。どちらも最初は柴田先生に連れて行ってもらった店。ずっとご無沙汰していたぼくもいけないのだが、悲しい。)

2020年1月5日日曜日

謹 賀 新 年

 新しい年をいかがお迎えでしょうか。

 旧年は、おかげさまで身辺にあまり大きな変化もなく過ぎました。それでも沖縄で首里城などぐすくを歩き(10月末の炎上には驚き悲しみました)、ブダペシュトやブラティスラヴァ、対馬、青森、水戸に遊びました。それぞれ良き先達のおかげで印象深い経験となりました。なにより古くからの師友に再会し、またいくつもの研究集会で報告者やコメンテータをつとめ、討論に参与できる機会が続いたのは、嬉しいことでした。

 華麗ならぬ加齢のすすむにつれ、折々の交わりがいとおしく、このブログに所感をしたためています。

 今年も どうかご健勝にお過ごしください。

 2020年正月                近藤 和彦

(写真[クリックすると拡大]は晴れて寒い今日、晴海大橋から遠望した豊洲の海辺です。
 正面にやや低く4・5層で横に広がるのが「ららぽーと」で、その真ん中に波止場の跳ね橋が見えます。
 豊洲の新市場は、画面の右端「ゆりかもめ」の軌道を右手前に延伸した先にあります。)

2019年12月31日火曜日

水戸へ

 年の瀬に、なぜか水戸へ1泊2日で参りました。
 茨城県立歴史館および駅前の会議室にて研究会討議。そのあと、水戸市の発行による「水戸学の道」という案内図も参照しながら、複数の名ガイドとともに、水戸城の土塁=空堀の構造がそのまま残っている所を歩きました。水戸は1945年のなんと8月2日に空襲されたのですね! → https://www.city.mito.lg.jp/001373/heiwa/heiwa/p002581.html

 快晴の冬空の下、義公(光圀、水戸黄門)生誕の地から、坂を登って旧本丸の県立第一高校、二の丸の白壁塀、大日本史編纂の地(格さん像)、師範学校跡、再建された大手門から大手橋をわたって、三の丸の弘道館へ。慶喜謹慎の場でもありました。
https://www.ibarakiguide.jp/kodokan/history.html
漢文の書式(作法)についても教えられましたが、戊辰戦争にともなう弘道館の戦い(天狗争乱)については、まったく知らなかった。後まで尾を引く、悲しい(むなしい)歴史です。
 梅園を通って、旧県庁の裏手、そして正面へ。
 ここで今井宏さんの生涯、そして遅塚家のことも思い浮かべ語りながら、銀杏坂へ。坂道を下りきったところにある大銀杏も、水戸空襲の忘れ形見なんですね。

 2日間ともに寒く、快晴。水戸を訪れるにはふさわしい日でした。