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2020年2月2日日曜日

つらい別れのときに エリオット

 ついに1月31日(日本時間では2月1日)連合王国(UK)はヨーロッパ連合(EU)から離脱。その最後のヨーロッパ議会で Auld Lang Syne (蛍の光)が合唱されたことは日本のメディアでも伝えられましたが、その前に EU 委員長≒大統領の von der Leyen (写真の手前左の女性)が、優しく(あるいは respectable な教養人としては当然の礼儀として)次のような詩を朗読したことは、日本で伝えられたのでしょうか? 女性作家ジョージ・エリオットの詩ですが、
   "Only in the agony of parting, do we look into the depths of love.
   We will always love you, and we will never be far."
  「つらい別れのときに、ようやくわたしたちは愛の深さ[複数形! あれこれの強烈な想い出!]を見つめる。
   これからもずっとあなたを愛しています。遠い所に行ってしまうわけではないので。」

 しかもこれに加えて、United in diversity といった青いバナー(横幕)が掲げられては、もぅ感涙するしかないじゃありませんか。

 こうした優しい配慮と友情にたいして、感謝を知らないウツケ者ファラージ(Brexit党)は、
1534年に我々はローマ教会から抜けて自由になった[首長法のこと]。いま我々はローマ条約[1957年の条約によるEEC結成]から自由になるのだ」

などと公言して悦に入っている。ローマカトリック信徒への差別、みずから国家主権の亡者であることを包み隠さぬポピュリストです。

 【ちなみにポピュリスト・ポピュリズムをマスコミは大衆迎合主義(者)と訳していますが、これは不十分です。大衆に迎合するようなこと[フェイクも含む]を言って扇情的に政治権力を執ろう[維持しよう]とする政治手法ですし、そういう政治家です。「デマゴーグ」と昔は呼んでいました。ファラージもジョンソンも、トランプもヒトラーも。大衆受けを狙うだけなら、そう悪いことじゃない。芸能人は(かつてのトランプも)それが商売です。しかし、デマゴーグの扇情的=分断的=反知性的手法でポリティックスをやられては、地獄か煉獄です。ナチス政権は、12年間続きましたね。】

2019年9月22日日曜日

大庭健さんを偲ぶ会 

 今日22日(日)、専修大学の眺望の良い部屋で大庭健さんを偲ぶ会が催されました。遺された原稿を編集した『人-間探究としての倫理学 - 遺稿』というA4の冊子(付録と一緒で計160ぺージ)もいただき、また回想や逸話を聞いて充実した夕べでした。
倫理学・哲学関係のみなさんに続いて、ぼくも旧友として4番目に挨拶をしました。他にもっと適切な方が(とくに折原先生とか、八木さんとか)おられるはずですが、その代わりのようなつもりで、また弟分のような気持でお話ししました。要点は以下のとおりです[一部割愛します]。

¶ 昨年10月に大庭健さんが亡くなり、11月23日、柏木教会の葬儀告別式に参りました。
 → http://kondohistorian.blogspot.com/2018/11/blog-post_24.html
ほぼ1年後の今日は「偲ぶ会」に来ているわけですが、残念ながら、じつはどちらの会でも存じ上げないお顔ばかりです。これは、大庭さんの人倫の交わりの広がりのうち、近藤がクリスチャンでなく、哲学・倫理学関係でもなく、専修大学関係でもない、マージナルな所に位置しているため、と思われます。Odd man out ではありますが、大庭さんの死を悼み、お人柄を偲ぶという点では人後に落ちないつもりです。機会をいただきましたので、1960年代後半、大庭さんが倫理学者・大学教師になるより前のエピソードをお聞きください。

¶ そもそもぼくが大庭さんに出会ったのは、1967年の春、折原浩先生の一般教育ゼミでした。大庭さんが東京大学に入学なさったのは1965年で、ぼくはその1年下です。なにか人文社会系の学問みたいなことをやりたいと思っていましたが、焦点は定かでなく、大教室で聴いた3つの講義がおもしろいな、と思っていたころでした。
 と申しますのは、第1に城塚 登 先生の社会思想史、第2は京極純一先生の政治学、第3が折原先生の社会学でした。デュルケムの自殺論からアノミーを論じ、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』や『経済学批判』から唯物史観の考えかたを説き、ヴェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』から信仰・社会層・生活規範の分析をやってみせる。大学に入学したばかりの者に、岩波文庫の何ぺージ、何行目と指示しながら学問のイントロダクションをやってくださったのです。圧倒されました。2年生になる前に直訴して、講義とは別に開講されていた小人数のゼミに出席させてくださいとお願いしたのです。
 折原先生はまだ31歳で、駒場の教員になって3年目。ヴェーバーの『宗教社会学論集』を踏まえながら、テキストとしてはあの『経済と社会』のなかの「宗教社会学」という章、まだ翻訳がなく、英訳を用いてこれをしっかり読んでゆく演習でした。このゼミを仕切っていたのが(駒場で3年目の)大庭さんだったのです。読み進むにつれて、パーソンズの弟子フィショフの英訳にはいろいろ問題があるというので、結局ドイツ語のテキストを参照することになりますが、そのドイツ語の読み方から、報告レジュメの切り方、討論の仕方にいたるまで、リードしてくれたのは大庭さんでした。折原先生も、大庭さんを右腕のように頼もしく思っておられたのではないでしょうか。

¶ 翌68年度に、大庭さんは熟慮のうえ(何度も和辻哲郎の名をあげていました)倫理学へ、ぼくは西洋史へ進学しました。同時に折原先生の駒場のゼミには2人とも毎週欠かさず通いましたし、文学部では「宗教社会学」という講義を始められたので、これも出ました。さらに大庭さんに誘われて、駒場の杉山 好先生のお部屋で隔週でしたか、夕方からヴェーバーの『古代ユダヤ教』を読みました。みすず書房の内田芳明訳がすでに出ていたのですが問題が多い翻訳で、原文を読んで、誤訳や不適訳を見つけて腐(くさ)す、という会でした。ドイツ語については杉山先生の学識に大いに啓発されましたが、その信仰心には付いて行けず、居たたまれなくなることもありました。『古代ユダヤ教』については、その後も(杉山先生抜きで)68年夏に野尻湖のある人の別荘で合宿して読み合わせました。
 少し前後しますが、折原先生も書いておられるように、68年の学年始めまで「約3年間[余り]は、講義と演習の準備に追われ、学問の季節‥‥」(『東大闘争総括』p.134)だったということですが、その学問の季節をぼくたちも、大庭健、社会学の八木紀一郎、舩橋晴俊、経済史の八林秀一といった人たちとご一緒できたのは幸せなことでした。今のぼくの学問の基礎力・エッセンスのようなものは、折原ゼミと大庭さんによって学び、鍛えられたと考えています。

¶ そうこうするうちに、68年6月17日に本郷キャンパスに機動隊が導入されて、学内の空気は一変し、学科討論やゼミ討論、そして無期限ストライキへと向かいました。ナイーヴなぼくにとってはエキサイティングな政治の季節の始まりでしたが、大庭さんの場合は落ち着いて運動も学問も積極的にこなしておられたようで、だからこそ無期限ストライキのさなかに大庭提案による『古代ユダヤ教』合宿もありえたわけです。68年6月に始まった文学部の無期限ストライキは、1年半後の69年12月まで続きます。
 急いで付け加えますが、この18ヶ月におよぶ学園闘争中に政治と学問は別のものではなく、一つのことの二つの面でした。だからこそ、マルクスやヴェーバーといった古典から、大塚久雄や丸山眞男を読み、さらにルソーやスミス、内田義彦や平田清明『社会主義と市民社会』を読み合わせる会のようなことをずっと続けていました。
若い世代、といっても今60歳未満の方々ということになりますか、この点ははっきり区別していただきたいのですが、一方で、東大執行部の権威主義的でパターナルな姿勢を批判する、ビラのガリ版を切り、謄写版で何百枚か刷り、食堂や教室の入り口で配る、立て看をきれいに仕上げて銀杏並木に立てかける、ヘルメットをかぶって街頭デモ行進をするといったことと、他方で、ゲバ棒を人に向かって打ちつけるとか、「帝大解体」を叫ぶとかいったことは、全然別のことでした。

¶ 70年代に入ると大庭さんの口からベンサムの pleasure & pain、 分析哲学、そして廣松渉といった名がしばしば出てきて、なにか大きな展開が始まったな、とぼくにも感じられました。その後、ご存じのとおり、大庭さんは倫理学者として、広く人と社会にかかわる発言に積極的に取り組むことになります。ぼくの最初の単著は『民のモラル』というタイトルで、大庭さんにも送りましたが、人倫を問い続けていた大庭さんの感想はまた独特でした。
 最後にお目にかかってお話したのは2007年で、図書館長として多忙ななか、専修大学で「人文学の現在」といった講座を企画して、ぼくにも加わるよう誘ってくださったのでした。これは残念ながら実現しなかったのですが、その折のメールのやりとりで、「相変わらずのスモーカーなので、たいした風邪でもないのですが、長引きます」といった発言があり、心配していました。
 たくさんの本を出版なさり、倫理学会会長もつとめ、漏れ聞いているだけでも「大庭兄」に私淑している方は何人もいらっしゃいます。やり残したお仕事、心残りもあったと思いますが、知的な影響力という点で実り豊かな人生だったのではないでしょうか。別の分野に進みましたが、ぼくもそうした影響を享受した「弟分」の一人です。
 大庭さん、ありがとうございました。

2019年4月18日木曜日

寺院? 大聖堂!


 パリのノートルダムの大火災は驚くばかりで、痛ましい事件です。
ただし、CNNによれば、精緻な計測とディジタル記録が残っているとのことで、再建の望みはそれなりにあるわけですね。
https://www.cnn.co.jp/world/35135896.html

 日本の報道では、あいかわらず「ノートルダム寺院」という呼び方で、いかに仏蘭西(!)とはいえ、仏の教えの痕跡はどこにもないでしょう。法隆寺や本願寺ではないのだから、そしてカテドラルには「大聖堂」または「司教座聖堂/大司教座聖堂」という定訳があるのだから、こちらを使ってください!
 ロンドンの場合ですと、Cathedral Church of St Paul's が「セントポール寺院」、Collegiate Church of St Peter at Westminster が「ウェストミンスタ寺院」と呼び習わされているのも、イージーというか、混濁的ですね。

2019年3月6日水曜日

『大塚久雄から‥‥』

昨5日(火)は青山学院大学における合評会
大塚久雄から資本主義と共同体を考える』(日本経済評論社)
https://www.freeml.com/kantopeehs/69/latest
に参りました。主催者(政治経済学・経済史学会 関東部会)からはレジュメは30人分とか指示されていましたが、それよりずっと多い人数。団塊の世代以上が半数?

オファをいただいても、率直に言って、あまり気乗りのしない話でしたが、小野塚さんから上手に持ちかけられて
言うべきことを言えばよいか、と参加いたしました。

大塚久雄は(丸山眞男も)両大戦間期に自己形成した、憂国の知識人として並みいる戦間期の学問のうち最高級のものをプロデュースした。【念のため、当日の一人の発言について申します。ナチズムや太平洋戦争に言及したからといって、その賛同者ということにはなりません。たとえば、近藤がアクチュアルな問題としてトランプや習近平に立ち入って言及したら、70年後の一知半解の「若い研究者」が、近藤は心底はその信奉者だったのだ、と解釈するのでしょうか? AIレベルのアホです。】
問題はむしろ、大塚・丸山とは全然ちがう条件を与えられた情況に生きるわれわれとして、どう向きあうか、という問題だろうと思います。

「資本主義と共同体を考える」というより、大塚の資本主義論(過程と型)と共同体論(ゲルマン共同体・ローカル市場圏・民富)の有効性を理解したうえで批判する;要するに20世紀前半の歴史学から学び反芻しつつ、現在の研究水準で超えてゆく、ということではないでしょうか。
よく知らなかった論点を指摘してくださる方もいらしたし、逆に歴史学がいま動いている、ということをあまり意識せずに、ご自分の学生時代の理解のままの枠組で「老人の繰り言」をリフレインする方もいらっしゃるようです。
敬意を失わないよう自戒しつつ参加したつもりですが、いかがでしたでしょうか。
個人的には、これまであまりご縁がなくて十分親しくできていなかった方々のお考えがよく分かり、それは収穫でした。

ぼくの場合は、大塚史学に限定することなく、歴史学の問題として
1) commonweal・respublica にかかわる中世末から(古代から!)の議論、そして革命独裁や帝国秩序へと議論が絞り上げられていった近現代史が問い直されるし - 早くは『深層のヨーロッパ』(山川、1990)における二宮・近藤対談がありました -
2) いささか観念的に(?)称賛されてきた association については、charity や公益法人といった制度的・財政的保証のある社団へと議論をフォーカスしてみてはいかが? - 「チャリティとは慈善か」(年報都市史研究、2007)そして北原敦ほか「フランス革命からファシズムまで」(クリオ、2016)があります -
と思います。
編者の方々、『大塚久雄から‥‥』というタイトルは、もしや大塚の祖述に甘んじるのでなく、大塚を卒業してその先へ、という含意でしたか? 

今後ともよろしく!

2018年11月24日土曜日

大久保の街路樹は まだ青々


 23日(金)午後、大久保(北新宿3丁目)の柏木教会、大庭健さんの告別式に参りました。
 キリスト教(プロテスタント)の式と、告別の辞のアカデミックな弁論が、微妙な関係だなと思うのは、ぼくが無信仰(「祭天の古俗」派)だから? おぼろげな記憶ですが、まだ駒場時代のある夕刻のこと、ウェーバー『古代ユダヤ教』を読み合わせていた会で、霊や信仰をめぐって「不条理なるがゆえにわれ信ず」という立場をもちだした(年長の)あるキリスト者にたいして、大庭さんは慎重に言葉を選びながら「ぼくたちは啓蒙より後の合理主義的信仰だから‥‥」と語ったのが想い起こされます。 最期の日には、聖書の一節を読み、賛美歌を歌って、夜静かに死を迎えられたということです。
 おそらくは60代半ばの遺影がすばらしくて(ぼくの知っている大庭さんです)、悲しさより嬉しさが募りました。
 ご本を26冊も出版なさったと今日うかがいましたが、最後の書は執筆8割ほどで筆を折るしかなかったとのこと。無念だったでしょう。
 階下の懇親会では『私はどうして私なのか』『善と悪』を担当したという岩波書店の編集者とお話ししました。遅筆のぼくとしてはなおさらに、お約束の『映画と現代イギリス』も含めて、せめてあと4冊を書き終わらないまま時間切れ、アウト、というのは、耐えがたい。きっと見苦しい臨終となってしまうでしょう。

 若者とエスニシティの溢れる大久保駅界隈ですが、柏木教会の中は静か、脇の街路樹は11月下旬というのに青々していて、生命力をうかがわせます。初冬のおだやかな午後、そのまま帰路に就く気持になれず、百人町の住宅地からグローブ座、高層マンション群、西戸山公園から高田馬場まで、ゆったりと歩いてみました。

2017年8月22日火曜日

風のアイルランド


 アイルランド探訪のなかでも、いくつか重要な側面があり、まずは ancient Ireland とされてきたもの(invented traditionかもしれない)の最たるスポットを訪ねました。順不同です。

¶「タラの丘」は太古の王(high kings)の居所だったと伝えられる丘。古墳から遠からぬ所に、シャムロックを手にもつ聖パトリックの立像も据えられ、シンボリズムは十分ですが、近代史ではオコネルの1843年「百万人集会」の場にもなりました。
『風と共に去りぬ』でもタラはアメリカ南部の Irish American の心の支えで、この映画のライトモチーフになっています。最後の場面ではスカーレットの Tomorrow is another day が「明日は明日の風が吹く」と訳されて、名訳か迷訳か、ひとしきり議論されましたが、現場に立ってみて、そうか、この強風のことなのだ、と妙に納得しました。
緑、緑、緑のただなか、たえまなく吹きつける風に、全身で耐えている4人の写真です。

¶ カシェルの岩山はマンスタ王の居城だったのが、1101年に教会領となり、修道院文化の繁栄の中心でした。1647年にクロムウェル軍の包囲攻撃で廃虚となり、1749年には屋根が除去されて、荒廃が進んだようです。大聖堂わきの十字架を撮りましたが、ここでも身の危険を感じるほどの強風。
誰かさんのようにこの廃虚で「運命の人とのめぐりあい」はなかったけれど、しかし、アイルランド史、ブリテン諸島史、ヨーロッパ史のことを再考しました。

 Gone with the Wind も、The Wind that shakes the barley も、the wind をキーワードとしていたのでした。これが分かってなければ、アイルランド史は(アメリカ史も!)理解できないということか。

2017年6月6日火曜日

ザビエル? シャボン玉? ぜめし帝王?

 本日の『朝日新聞』オンライン版に
「聖ザビエル」じゃないの? 神父も困惑、君の名は
という記事があります。引用されている東京書籍の『中学社会』でザビエルのあたりを執筆したのは、じつはぼくですし、編集委員会の討議をへて(高校向けとは別に)「ザビエル」という表記でゆこうと合意したわけですので、このブログでも一言。
 アメリカの都市 San Francisco の由緒でもある、イエズス会の修道士 Francisco de Yasu y Javier (1506-52) の名を教科書でどうカタカナ表記するか、という問題と、元来どう発音されていたか、という問題は、二つの別問題です。
『朝日』の記事を書いた棚橋という記者の取材力、そしてデスクの知識にも問題がないではない。

 まず、 表記に “ が付いているかどうかと、歴史的に清音だったか濁音だったか、とは一対一対応しません。「さひえる」と書いて、サヒエルと発音したかどうか。むしろ『日葡辞書』(1603-4年刊)のローマ字表記などから推定されるのだが、「さしすせそ」は sha shi shu she sho ないしは ja ji ju je jo とも発音していたらしい。これは近代日本の九州から瀬戸内方面の老人たちの発音からも十分に想定できる。全然と書いて「じぇんじぇん」と発音しているし、「ゼネラル石油」とは General 石油。だから「せめし帝王」とは King James のことです。逆に savon は「シャボン玉」になります!
 歴史的に「しびえる」「ジヤヒエル」「娑毘惠婁」といった表記があることからも、16世紀の西日本にはシャビエル/ジャビエルといった発音が伝わった(それがさまざまに表記された)ということらしい。
 バスク生まれだからバスク発音シャヴィエルで表記すべし、というのは一見 politically correct で正しそうだが、それは適切とは言いがたい。フランシスコはバスク貴族の出だが、パリで勉学し、1534年にロヨラたちとイエズス会を創設し、ヴェネチアで叙任され、ローマでイエズス会士として勤務し、ポルトガル王の命で1541年にゴアに派遣されて以後マラッカ、モルッカ、ついで1549年に鹿児島に上陸し2年間、西日本で宣教するわけです。バスク人としてのアイデンティティがイエズス会士ないしクリスチャンとしてのアイデンティティより優ったか? これははっきりと否でしょう。16世紀の東アジアにおける共通語が(漢語および)ポルトガル語だったということも考慮すると、バスク発音に固執することは無意味です。なおまたフランシスコ自身が現地の言語と慣習を尊重して伝道した(典礼問題の祖!)ということも忘れたくない。

 ∴発音についての結論は、ポルトガル語なまりのラテン語で、それが現地で受けとめられた音が正しい、とすべきでしょう。

 もう一つ、中学教科書、高校教科書でどう表記するかという問題です。大学の学者がむやみに専門知識をふりかざして「正確な事実」を教科書に織り込もうとする近年の風潮を、ぼくは憂いています。歴史とりわけ外国史嫌いを増やしているだけではありませんか? 教科書や大学入試で細かく正確な事項の暗記を強いるのには反対! 

 ∴教科書表記についての結論は、中学でも高校でもザビエルないしサビエルがよい、と思います。ただし高校では Xavier という不思議な綴りも一緒に教えたい。中国人・日本人については漢字表記を教えているのですから、高校生には欧語にも慣れてほしい(試験に出題する必要はありません。優秀な学生に欧語表記に慣れてもらうことがポイントです。後のち -30代、40代の生活で- かならず役に立ちます)。

 念のため。先生方! 研究史を呈示して「中学・高校ではこう習ったね。でも今の研究水準では、こう考えたほうが良さそうなんだよ」といった講義は、無事(歴史嫌いにならずに)大学に入ってきた学生むけに語るまで取っておきましょう。