2014年12月19日金曜日

ついに British Library も!

こんな通知メールが到来しました。朗報です。
むずかしい相手でもあきらめずに要望し続けるものですね。
以下引用:

December 2014
Reader Service message
Self-service Photography

Dear Kazuhiko,

Over the past few years, many people who use our Reading Rooms have asked us
to consider introducing a self-service photography facility so that Readers
can use their own devices to photograph items for personal research purposes.

We are now pleased to announce that we are extending our current self-service
copying facilities to include photography. The new arrangements will take
effect from 5 January 2015 in the following Reading Rooms:

Boston Spa Reading Room
Humanities – Floor 1 & 2
Newsroom
Science – Floor 1 & 2
Social Sciences

We will review and assess the feedback we receive from Readers and staff,
before introducing self-service photography in the following Reading Rooms in
March 2015:-

Asian & African Studies
Business & IP Centre
Maps
Manuscripts
Philatelic
Rare Books & Music

You will be able to photograph all physical collection items which you can
currently copy using our self-service copying facilities. Because of license
restrictions that apply to some of our electronic resources, you will not be
able to photograph computer screens.

You may use compact cameras, tablets and mobile phones to photograph material.
Any copies made may be used for personal reference purposes but must not
be used for a commercial purpose. As with our current copying services, copy
right and data protection/privacy laws must still be adhered to.

Before using your device to take photographs, we kindly ask that you view
our guidelines on self-service photography
http://email.bl.uk/In/72187364/0/44CotTs5F9XtT7EDGk7xUssbuwClh4a4fgMbENZPiJm/

2014年12月10日水曜日

社会史・社会運動史: reflexions III

 承前
 岡田先生の遺著『競争と結合 - 資本主義的自由経済をめぐって』の心柱は、いうまでもなく「営業の自由」は人権か、公序か、そして(国家 ⇔ 個人だけでなく)中間団体からの自由、といった議論なのですが、その pp.156-165 には「革命的群衆の社会史的研究について」という『歴史学研究』No.520(1983)に載った書評論文が再録されています。ルフェーヴル(二宮訳)『革命的群衆』とリューデ(古賀訳)『歴史における群衆』という2冊の訳書を素材として、「‥‥民衆運動史の特徴と問題を若干考察し、社会史への一つの希望を述べてみたいと思う」と、これまたアーギュメントとしてしたためられた試論でした。

 「ところで、「民衆」とは、‥‥ひとつの抽象である」から始まる段落(p.158)で、岡田さんはこう述べられます。
「社会科学的に無意味で抽象的な「民衆」という用語は、歴史のなかでは、具体的効果を産み出す実体的機能をもつことがある。‥‥「民衆」というこの曖昧な用語、またそれで漠然と表象されているものの歴史的な意味や役割を問う必要はないか、このような問題意識を、旧来のマルクス主義的歴史学は無視ないし軽視しすぎていないか、さらにはそれを妨害することになってはいないか、こういう問いかけが、今日の社会史の問題提起の一つであるように思われる。」

 二宮さんを含み、また『社会運動史』(1972~85)を念頭においた議論であることは明らかです。【現在、『歴史として、記憶として』の巻末にある「略年表」では割愛されていますが、ワープロ原稿では、東大社研、岡田という固有名詞が見えました。また、1970年代のある日に岡田先生が、だれかすでに[ぼくが]名を忘れた左翼の教授にぼくを紹介なさる折に「近藤くんは民衆運動史をやっているんだ」と短く言われたときの空気というか、ある独特のムードを覚えています。】

 全体に岡田さんのルフェーヴルへの評価は高く、その結論部では、「結局、実証的な史実研究の積み重ねだけからではなく、‥‥人間の歴史についての彼自身の特定の見方=観点によって、選択された」ルフェーヴルの立場を強調なさる。そしてリューデについては、‥‥「これがこの大著の結語である。さびしすぎはしないか。」というものでした。
 刊行直後に名古屋でこれを読んだときの気持も覚えています。あまりに率直な岡田さんの評言にたいして、ぼくの反応は、同じGeorge(s) であっても、Rudé はさほどのすごい学者というより、社会民主主義的なリベラルであるし、またThe Crowd in History は「大著」というほどの仕事でもなく、過大な期待をしてもネ、といったものでした。
 「さびしすぎはしないか」というのは、George Rudé に対してよりも、むしろ「社会構成史が情熱的に問題とし、追究したもの」と無縁なところで史料と遊んで/溺れている70年代からの日本の社会史、社会運動史の人びとにむけられた批判だ、ということは誰にも明白だったでしょう。岡田さんの批判はちょっと違うな、と思いながら、ぼくは、まもなく「シャリヴァリ・文化・ホゥガース」『思想』740号(1986年)を執筆し、抜刷をご覧に入れた岡田先生から、ほとんど別離宣言のようなお返事をいただいた(と受けとめていました)。

 ところが、7日(日)夜の奥様はぼくに対して、まるで別のことをおっしゃった。どう受けとめてよいのか、にわかには分からないので引用しませんが、想い起こすに、2000年3月14日、米川伸一さんをしのぶ会のあと、東京駅近くの地下の店での懇談(吉岡さんも二宮さんもおられた)と、岡田先生の最後の言、「これも米川くんが引き合わせてくれたお陰だな」の含意も変わってきます。
 ゆっくり再考することにします。

2014年12月9日火曜日

岡田与好先生(1925~2014): reflexions II

 12月7日(日)は東京大学経済学部で、岡田与好先生(1925~2014)を偲ぶ会、というつもりで参りましたら、『岡田與好先生を偲ぶ会』という67ページの冊子、と同時に、なんと当日刊行のご遺著『競争と結合 - 資本主義的自由経済をめぐって』(蒼天社出版、2014)もいただきました。刊行記念会でもあったのです。
 1952年、53年のころ(27歳前後)の写真を拝見すると、ほとんど芥川賞でも取りそうな青年文士のような、あるいは、いたづら小僧がそのまま東大の秀才助手になったような雰囲気があって、いいですね。初めて見る写真です。
 山田盛太郎(1952年に)、大塚久雄(1966年に)といった大先生にも学会でしっかり噛みついた、論争的な岡田先生の勢いが、世良晃志郎さんとの友好的交わりをへて、『社会科学の方法』における「営業の自由」論争≒法学批判に繋がるのだということが、この日の皆さんのお話と写真から、よく納得できました。
 当然ながら、参集された方々はイギリス経済史、土地制度史学会、社会科学研究所、経済学部の方々が多いですが、ぼくのように傍系ながら先生から20代(1971~74)にしっかり学び、やがて30代(1980年代)から道を別にした者もいたことは、忘れないでください。
→ http://kondohistorian.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html

 毛利健三さんのご挨拶、お嬢さんの最後のお話、また権上康男さんとの会話など、心に残るものがありました。樋口陽一、石井寛治といった方々の明晰な話っぷりは心地よかったけれど、とにかく(山田、大塚、高橋、世良といった大先生は当然として)、安良城盛昭、吉岡昭彦、柴田三千雄、二宮宏之、遅塚忠躬、山之内靖、西川正雄と、みんな向こうに行ってしまわれたんだから、‥‥考えこんでしまいます。
 奥様からは、信じがたい、身に余るお言葉をいただきました。
 つづく。

2014年12月8日月曜日

相良匡俊さん(1941~2013): reflexions I

 秋から冬へと、あっという間でした。
 しかも大学入試関連の仕事の合間に、亡くなった方々を偲び、著作を再考する会が続いたりしたものですから、しめやかな気持、そしてわが人生に reflexive な考察がせまられる機会でもありました。
 11月28日は法政大学ボアソナド・タワーで、昨年亡くなった相良匡俊さんの『社会運動の人びと - 転換期パリに生きる』(山川出版社、2014年9月)の出版記念会がありました。
 主催は田中優子総長率いる法政大学で、そこにモト社会運動史研究会のメンバーが便乗させていただくという形で、ちょっと hybrid な会合となりました。相良さんの80年代以降、ぼくたちがあまり知らないでいた側面も出て、そういった意味では有意義な催しでした。
 相良さんの書く姿勢、生きる姿勢における「再帰動詞的な」ところを指摘された福井さんの挨拶、また『社会運動の人びと』の刊行にいたる経緯(友人たちの協力)をきちんと報告してくださった北原さんの発言で、この夕は締まりました。
 谷川さんもスペイン旅行から帰ったばかりとのことで、元気なお姿。
 その後は市ヶ谷で、生き残った者の、現在の元気度の品定め‥‥。

 ぼく個人としては、『社会運動の人びと』p.180に
「けれども、これで終わらせようと思う。第1に、‥‥気の利いたお化けが引っ込んでしまった感じがするし、第2に、こういう種類の仕事にすっかり、あきがきたこともある。第3に、取り扱うべきテーマは近藤和彦氏の縄張りに属している。‥‥そして第5に、にもかかわらず、言いたいことは、ほかに、どこかで言えるだろう‥‥。」
としたためられているのを再読するのは、1979年以来、なんと35年ぶりで、それこそ気の利いたお化けに再会した思いですよ、相良さん。
 このあと1981年に「労働運動史研究の1世紀」と「フランス左翼出版物の系譜」を公になさってから、相良さんはもう歴史学的な発言はなさらないし、学会のたぐいにはほとんど出席なさらなかった。
 ですから『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013)における「暗中模索のころ」という相良さんの文には、新鮮というか、驚きというか、デジャヴュのような感覚を覚えました。
【そして、亡くなる2週間ほど前のメールです。彗星のごとく再び姿を見せて、そして居なくなりました。
http://kondohistorian.blogspot.jp/2013/07/blog-post.html

Downton Abbey

 NHK地上波、日曜夜にいよいよ第二部が再開しました。
「日の名残り」的な、upstairs における貴族の世界と、downstairs における家僕の世界との交錯が、1912年のタイタニック後、いまは大戦中のヨークシャ州を舞台に描かれています。そこに加えて3姉妹の Jane Austen 風の「婚活」と、他の何組かの男女の組み合わせがよりあわされた作り話!

 20世紀初めの貴族と upper middle class との融合や、ロイド=ジョージ内閣のことが、時代のイシューとしてたいへん重要なはずですが、限嗣相続(継承的不動産処分)と貴族的 patronage の問題以外はほとんど出てこないまま。ステレオタイプな保守貴族(と家僕たち)versus 進取の気象でことに臨む中産階級、といった図式をうちだして、21世紀の大衆(直接には英・米の)の好奇心と視聴率をねらう歴史ドラマ。--と厳しい評価もありえます。「わざと」盛りだくさんでドラマチックにした展開も気になるけれど、学生・初学者には、時代の印象的前提として勧められる歴史ドラマですね。ただし、学生にはこの the Great War のさなかにイギリスは志願兵制度から徴兵制度に移行・転換したのだ、ということは分かっただろうか?

 個人的には、昨夜 Lancashire Fusiliers という古めかしい名の歩兵連隊が言及されて、マンチェスタ史としていささか懐かしい気がしました。