2024年12月20日金曜日
ナベツネと東京高校
2011年に亡くなった柴田三千雄さんと同い年です。そればかりか、旧制東京高校で同級生、学徒援農で、信州の農家に泊まり込み、なにかでお腹を壊して苦しんでいたところ、ナベツネに背負われてその農家まで帰ったことがある、というエピソードを聞いたことがあります。
昭和20年春に二人とも東京帝大文学部に入学、ただちに徴兵されて、ナベツネは茨城へ、柴田さんは習志野へ。8月に敗戦、生きて大学に戻り、ナベツネは哲学、柴田さんは西洋史。二人とも共産党に入って、やがて抜けた、という経歴も同じです。(しかしその後は、交遊があったとは聞いていません。)
東京高等学校(東高)は、第一高等学校(一高)と同じく戦前のエリート校ですが、1921年に設立された比較的新しい(大正デモクラシーの)旧制高校で、戦後の学制改革により、一高と東高はともに東大教養学部として(人も資産も)統合されました。
俗に「官僚になって出世するには一高、学者・インテリになるには東高」と語られたようで、シティボーイの通う「ジェラルミン高校」という渾名があったようです。
渡辺、柴田以外に、有名どころの卒業生には、清水幾太郎、森有正、星新一、朝比奈隆、黒田寛一、生松敬三、城塚登、伊東俊太郎、南博、家永三郎、永原慶二、網野善彦、佐々木潤之介、山本達郎、二宮敬、高橋康也、糸川英夫、江上不二夫、小宮隆太郎、矢野健太郎、串田孫一‥‥などがいました。戦後日本を背負った、錚錚たる群像!
東高で英語の教授、松浦嘉一に教わったというのが、柴田・松浦高嶺の友情の始まりのようです。
2024年2月12日月曜日
『ボクの音楽武者修行』その2
翌1963年4月に千葉高校に入ると、念願の音楽部に所属し、ここでさまざまの楽器に触り、ひとと合奏することの喜びを知りました。中3の悪ガキたちはほとんど全員、一緒でした。11月23日、県内の高校演奏会の朝に、ケネディ大統領暗殺の報が入り、落ち着かない空気の会場で演奏したことについては『いまは昔』(2012)にも記しました。高1の1年間は、フルトヴェングラーのベートーヴェン、そしてヴァーグナーと向きあった1年でした。ドイツ語を勉強したいと思いました。
そのころ『指揮法入門』という本を KK*と一緒に購入し、勉強を始めました。(ぼくとは違う)中学のブラスでクラリネットをやっていた彼は、本気で芸大に進むつもりでしたから、高1の途中からピアノの先生に付いて楽理も勉強し始めた。ぼくはといえば、アマチュアのまま、『ジャン・クリストフ』を読むのと同じ構えで総譜を開いていたに過ぎないので、すぐに付いて行けなくなった。音楽ではない領域で武者修行するしかないと認識します。高2になると同時に音楽部は退部して、別の勉強を(ドイツ語の基礎も)始めました。
【* このKKは、前記の高梨先生を訪ねていったK とはちがう男で、現役で芸大の指揮科に入学しました。その前後から個人的つきあいはなくなってしまったけれど - 1982年秋にぼくが留学から帰ってきてみると、NHKFMでマーラー、ブルクナーの放送があると、必ずのように登場してコメントする人になっていました。 ちなみに、Kというイニシャルは日本人にはたいへん多くて - 加藤も木村も工藤も近藤も - 一対一識別は困難です。この芸大に行った楽理の同級生は KKとします。むかし『ハード・アカデミズム』(1998)という本で高山さんは、K先生、K教授、K助教授といった区別をしていましたが、ほとんどナンセンスな識別法でした。正解は順に木村尚三郎、城戸毅、樺山紘一で、刊行時には3人とも先生で教授でした!】
小澤征爾という方とはお話したこともないし、その人柄は報道でしか知りません。『朝日新聞』がウェブで再掲載している、1994年9月、サイトウ記念オーケストラのヨーロッパ公演後の上機嫌のインタヴュー(59歳、4回連載)
→ https://digital.asahi.com/articles/ASS296F34S29DIFI00X.html
では、彼のフランクな発言が引き出されています。昨11日朝の『朝日新聞』オンライン版では、村上春樹が天才肌の小澤の晩年のエピソードをいくつか紹介しています。
→ https://digital.asahi.com/articles/ASS2B5223S29ULZU00L.html
小澤征爾ほどの才能もエネルギーも持ちあわせなかったぼくとして、羨ましいかぎりですが、それにしても、生涯をかけてヨーロッパ近代文明の本質に(別の面から)接することになった者として、参考になることばかりです。
ずいぶん前のNHKの番組は、ボストンの小澤が(二人の子どもの成長を気にかけながら)早朝からスコア研究にたっぷり日時をかけている様子を描いていて、とても好ましい印象でした。印刷総譜だけでなく、ベートーヴェン自筆譜(の大きなファクシミリ)になにか書込みながら探究している様子は、調べ究める人(ギリシア語の histor)の好ましい姿に見えて、以前よりも好きになりました。
2024年2月11日日曜日
『ボクの音楽武者修行』その1
特別の感懐‥‥というと、中学3年で『ボクの音楽武者修行』に出会い、オーケストラの指揮者という職業! なんてカッコいいんだ! と思ったことでしょうか。
今、手元に音楽之友社、1962年4月初版の本がなく、中3のぼくが自分で購入して読んだのか、それとも一緒に音楽室に出入りしていたNくんあたりから借りたのか、不明です。
中学校の坂の下にあった本屋にたむろして立ち読みしたあげく、時々本を買うこともしていたので、自分で所持したのかもしれない。ぼくの本やノートの類は、結婚後、引っ越しを繰りかえしたぼくの代わりに、母がそのまま大切に保存してくれていたので、千葉の実家をよく探せば見つかるのかもしれないのですが。
Nくんにしても彼自身で購入したのではなく、むしろ賢兄の本をぼくに貸してくれたのかもしれない。中学・高校でぼくの付き合った友人たちは、ほとんど例外なく(!)兄貴をもつ次男・三男で、ぼくは学友たち経由で、何歳か上の聡明な兄貴たちのさまざまの知恵を伝授された、と言ってもいいくらいです。
『ボクの音楽武者修行』の直前に、ちょうど小田実の『何でも見てやろう』(河出書房、1961)が出ていました(河出ぺーパーバックは1962年7月)。アメリカやヨーロッパで活動的に生きた20代の才能ある青年たちの体験談は、ぼくたちの世界観をひろげて、やはり次男のWなぞは、いずれ貨物船で皿洗いでもしながら南米に渡る‥‥(その先は、牧場でカウボーイ? ゲバラの仲間に入れてもらう?)とか夢のようなことを口にしていました。結局は、東大法学部を出て有能な弁護士になったのですが。Nのほうは病理でノーベル賞を取り損ない、どこかの病院の理事長です。
中3になったぼくたちは『ボクの音楽武者修行』を手にしたときに重大な事実を認識しました。(どちらが先か後か詳らかでないのだが、本の初版が1962年4月1日でないかぎり、事実認識が先にあって、読書が後でしょう。)その学年から新しい音楽の先生が来たのです。新卒のキレイな高梨先生!
それまで音楽の担任はパチという渾名の不愉快極まる中年男でした。パチはなんらかの野心をもち(昇任試験の準備?)、授業などやってられない、ということかどうか(真相は生徒たちには不明)、とにかく彼の授業は週1コマだけ、別のコマは、大学でピアノを専攻していた高梨先生に丸投げしたのです。高梨先生はいつでも音楽室にいて(3学年計9クラスの授業の準備はたいへんだったでしょう)悪ガキの相手をしてくれたので、もぅ中3の放課後はいつも音楽室に男子生徒5・6人がたむろしていました。(芸大附属高校に進学する女子も同級にいたけれど、彼女は音楽室には出入りしなかった。彼女はすでに学外の先生から専門的歌唱指導を受けていたに違いない。)
音楽室(独立した別棟)では当時としては良質のステレオ装置でレコードをかけてもらい、大音響でベートーヴェンのまずは「運命」「第7」、チャイコフスキーの「悲愴」、ブラームスの「第1」あたりから始まり、ジャケットの裏のライナーノーツや音楽之友社の『名曲解説全集』を頼りに、音楽を聴くよろこび/感動/もっと知りたいという願望を覚えたのです。指揮棒を振るまねごともしました。一人ではなく数名の少年の共通体験として。
(いまNiiで『名曲解説全集』を検索すると第1・2巻『交響曲』が1959年、最後の器楽曲補=第18巻が1964年。全国の大学所蔵館が今でも230前後で、すごい普及率です!ぼくたちはその続巻が出るたびにむさぼるように読んでいたわけで、なんだか哀愁に近いものを感じます。)
やがて高梨先生の助言で「スコア」(総譜)なるものを見ながら聴くようになり、あるいは楽曲の分析、演奏の論評モドキを試みる‥‥といった深みにはまることになりました。音楽室で終わらない話は、街中の - ちょうど国鉄千葉駅と京成千葉駅への帰路の交差点にあった - 松田楽器店で「新譜を試聴する」、楽譜も探すといったことへと連続して、これは高校1年でもほとんど同じメンバーで繰りかえされるのでした。生意気な/キザな少年たち。でも楽器店としては、この少年たちはときどき1500円から2300円のLPレコードを買ってくれるので、集団としては上客だったのです。高校・大学の授業料が月々1000円の時代でした。
このうち3人(MとKとぼく)が中3の終わりの春休みに高梨先生のお宅に呼ばれ、紅茶をいただき、彼女のピアノを聴き、バックハウスの演奏との違いについて問いかけられるということもありました。まともな答えはできなかった。なにしろ15歳、ピアノ教則本もなにもやってないナイーヴな少年でした。音楽を観念的に知っていただけ。
‥‥これには後日談があって、高校に入ってからもぼくは通学路が一部同じなので、朝しばしば高梨先生と一緒になって、なにかにと熱心に話をしました。2年後に大学の音楽仲間と結婚した先生は、彼の実家の信州に行ってしまったのですが、なんとMはその信州の婚家まで訪ねていったと、大学生になってからぼくに告げたのです。それだけではない。これは還暦を過ぎてから(すでに死去したMはこういう男だったと話題にするうちに)なんとKも信州まで訪ねていったのだと、告白した。ぼく一人が置いてけぼりを喰っていたのでした!
2024年2月5日月曜日
「68年世代」の修業時代
「「68年世代」の修業時代」 → https://ywl.jp/view/cIqWX という、回想をしたためました。
山川出版社のサイトで『歴史PRESS』のNo.17(12月号)、計4ぺージ。ダウンロードなどできます。かつて「70年代的現象としての社会運動史研究会」を『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013)に寄稿しましたが、それと対をなすものです。
こんなものを書いた動機の一つは『歴史PRESS』誌から依頼があったからですが、もう一つは、昨夏の終わりにある人と同道した列車中の会話でした。
彼は、「今の学生たちは、"全共闘とかいって暴れていた学生たちは何も勉強せずに卒業していった" と考えているようです」と話を持ちかけ、ぼくを挑発して(?)きたのです。
『いまは昔 年譜・著作ノート』(2012年3月)と合わせて読んでくださると、年次が分かりやすいかと思います。1969年12月に「文スト実」の最後の会議で、無期限ストライキの解除決議をした後のことですが、70年の春だったか、再開された柴田三千雄先生の授業2コマの期末の課題として2つのレポートを提出しました。ことの顛末は、2013年12月『10講』の刊行時の柴田家にまで及びますが、こんなことをしたためたのは、上の会話への答えといった意味もあります。
ところで、その69年12月に最後の「文スト実」を招集して筋を通した委員長Yは、その後、卒業論文「戦前における社会科学の成立」を70歳になった2017年に復刻自費出版し、さらに -「初心を忘れることは一度もなかった」と本人は言う - それを飛躍的に展開したような実証研究を2021年に公刊しました。グローバルにわたるフランクフルト学派の社会思想史/学問史です。
この1・2週にわたって新聞紙上では、「東アジア反日武装戦線」とかいうテロ組織の Leftoverメンバー、桐島聡のこと、その近辺にいたかもしれない「連合赤軍」の男女の惨劇などを想い出したように書きたてています。1974年~75年に三菱重工・三井物産‥‥大成建設・間組をはじめとする海外進出企業をねらった爆破・襲撃を繰りかえしていた秘密集団です。ぼくもYも、こういった悲しくニヒルな小宇宙とは全然別の世界、対話も成り立たない所にいて、思考し議論していたのでした。ミリゥ(milieu)が違った、と「総括」するほかありません。
50年余をへると、昭和も遠くなりにけり。「語り部」としてきちんと語り明かしておかねばならないことも少なくありません。
2020年12月26日土曜日
奇蹟が起こったのか?
"事態は悪い方ばかりに向かい、この年末・年始のイギリスは、 Brexit+Covid → 大破局 を迎えるのかもしれません。(救いがありうるとしたら、EU側から差し伸べられるかもしれない友情の手のみ!) ヨーロッパで団結して事にあたらねばならない時に、「国家主権の亡者」の言いなりで余分な負荷を負ってしまった連合王国。Brexitを撤回しないかぎり、確実に三流国への道をたどるように見えます。"
世を悲観して、なにごとにも消極的で、憂鬱でした。
それがイギリス・ヨーロッパの24日の午後(日本の日付が変わるころ)には、あたかもクリスマスプレゼント(Surprise!)として計ったかのように、イギリス側・EU側ともに合意できる Deal が成立し、ジョンソン首相(UK)とフォンデァライエン大統領(EU)が笑顔で記者会見したのです。奇蹟としか言いようがない。【以下、情報は https://www.bbc.com/news/uk-politics の数々のウェブぺージより】 President of the European Commission ですからマスコミは「委員長」と訳していますが、日本語の「委員長」は中間管理職的で、かなり弱い。Von der Leyen の権限は文字どおりEUの首長 =「大統領」です。
カナダ型の自由貿易で合意したとジョンソン首相。フォンデァライエン大統領は It was a long and winding road. ‥‥ It is now time to turn the page and look to the future. とにこやかに公言しました。UK は信頼できるパートナだ、とも。
約定書は 1246ぺージ、付録や註が約800ぺージ! そのうち政府のサイトに公開されているのはその要旨のみ、ということでヌカ喜びはまだ早いのかもしれない。労働党のスターマ党首は、しかし、「最悪の No Deal よりはまし」という理由で、早々と議会の批准に反対しない、と意思表示しました。 逆にスコットランド首相のスタージョンは、そもそもブレクシットはスコットランドの意志に反するのだから反対。むしろ "It's time to chart our own future as an independent, European nation." とヨーロッパ国民としての(イングランドからの)独立、を唱えています。 BBCのデスクも大急ぎの速読をへて、ヨーロッパの Erasmus プロジェクトによる大学生の交換交流からの離脱は既定方針、と憂慮しています。
要するにジョンソン政権には、イギリス ⇔ ヨーロッパの貿易に free trade(無関税取引)の原則を堅持する、ということが譲れない原則で、それ以上に商品の検認、人の交流・雇用については自由でなくなる、つまりEU政府の/UK政府の時どきの干渉により、実質的な制限が加わる、ということらしい。主権と経済優先。移行期間を終えて2021年にヨーロッパ統合から抜けることには変わりない。
はたして主権に固執してきたジョンソン首相の勝利なのか? 否。むしろフォンデァライエンの友情のおかげで最悪の事態が避けられたに過ぎないのかも。想い起こすのは、今年1月末のEU議会におけるUK離脱を惜しむ Aulde lang syne の合唱、United in diversity の横幕(→ https://kondohistorian.blogspot.com/2020/02/blog-post.html)、のただなかでジョージ・エリオットの詩を朗読したのは彼女でした。
"Only in the agony of parting, do we look into the depths of love. We will always love you, and we will never be far."
今回の声明でも、ビートルズを引用して a long and winding road と語りだしました。彼女がイギリス(あるいは英語文化)に親しみと愛情を持ちつづけていることは明らかで、もし交渉相手のトップが彼女でなくマクロンだったら、こうは展開しなかったでしょう。
はたして最後の最後に、最悪の事態だけは避ける(山積みのイシューには、来年になってから取り組む)というのは、アメリカ合衆国におけるバイデン大統領選出と同じ構図です! 2016年からの4年間、いったい英米両国は、なにをしていたのか。無駄な言説とエネルギーの費消。
新型コロナウィルスの来襲、パンデミックの収まらない脅威によって「主権の亡者」たちも正気を取り戻した、ということであれば、これは「天からもたらされた賜物」かもしれません。そういえば、トランプも、ジョンソンも、マクロンも Covid に罹患しました。
Memento mori! 死を畏れよ! この世には「主権」より大事なことがある。あなどることなく、まじめに考えて行動せよ、と。
2020年12月16日水曜日
ベルリンより
朋あり遠方より来信、また楽しからずや。
それにしてもドイツの都市景観は、このカレンダーとは別の所でも、明るい雰囲気の似た場が少なくないような気がします。2005年にリサーチに行ったハノーファも [戦災による全滅後に建て直したようですが]これに似たよい雰囲気の住宅街の一角に泊まりました。Rathaus の前を通り、小川のほとりの Hannah-Arendt-Weg を歩き、Archiv に通ったのです。ずうっと後に行ったミュンヘンも含めてドイツの印象はいいことばかりです。
2020年7月20日月曜日
Pasmoの履歴 → Zoomで代行?
先日まったく久しぶりに雑草の繁茂する実家(空き家)にゆき、さらに老母のくらす老人ホームに往復しました。庭ではぼくの背丈より高くなったブタクサなど雑草を掻き分けながら、それにしても雨の多い今年の梅雨。晴れの続くころに庭木や雑草と奮闘することにして、先延ばし。
前よりさらに痩せたように見える母ですが、ホームの方々が良くしてくださり、食欲もあります。広島県の弟二人も90歳を越えて、ついに姉・弟三人が90代とあいなり、めでたいといえばめでたい。とはいえ、三人とも遠出は不可能で、互いに相まみえることはできません。ぼくのケータイ電話で姉弟が会話した折には広島弁まる出しで、「江奥小学校の卒業生でわたしが一番[年上]じゃ」とか、ぼくの知らない「[母の母の実家の]○さんのせがれは元気かのぅ」とかいった話題を何度もくりかえすのです。
で、帰途に Pasmo に入金したついでに「利用明細・残額履歴」(100件)をプリントしてみて驚きました。3月14日以来ぼくは電車・バスをほとんど使わなかったのです。
4月には計12回(都営・メトロ・バスと乗り継いだら、それで3回、往復で6回という記録方式です)
5月には計4回
6月には計2回(妻の通院に同行した日の往復だけ!)
7月には歯医者と、この実家・老人ホーム往復だけ(後者は乗換が多いので、回数が増えます)。
なにも忠良なる都民として「ステイホーム」、「自粛」を厳守したわけではありません。自転車や徒歩で移動できる範囲では毎日(外気のもとではマスクなしで)、雨でも出歩いていました。スーパー特売日の買い出しも(時間帯を考慮しつつ)積極的に。それにしても、これほど公共交通機関を利用しなかった月日なんて、東京生活では珍しい。そういえば、外食もしていません。
代わりに、5月11日の初体験から以後、Zoomを利用して、毎週水曜は2コマの大学院授業、不定期に学会の企画委員会や研究会、また N先生の最終講義、早稲田WINE のウェビナーといった催しが続きます。従来からの電子メールの交信も含めると、知的 sociabilité という点では、それなりの刺激は維持しています。とはいえ、face-to-face のあまり合目的でもない挨拶・ヤリトリ、すなわち雑談がないままでは味気なく、さびしいですね。
2019年11月12日火曜日
平田清明著作 解題と目録
史学会大会から帰宅したら、『平田清明著作 解題と目録』『フランス古典経済学研究』(ともに日本経済評論社)が揃いで待ってくれていました。
どちらも「平田清明記念出版委員会」の尽力でできあがったということですが、知的イニシアティヴは名古屋の平田ゼミの秀才:八木紀一郎、山田鋭夫にあることは明らかです。
『フランス古典経済学研究』は平田39歳の(未刊行)博士論文。http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2537
『平田清明著作 解題と目録』は、刊行著書のくわしい解題と、略年表、著作目録。http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2538
こうした形で出版されことになった事情も「まえがき」にしたためられています。
「門下生のあいだでしばしば浮上した平田清明著作集の構想の実現が、現在の出版事情から困難であったからである。‥‥しかし、図書館の連携システムや文献データベース、古書を含む書籍の流通システムが整備されている現在では、一旦公刊された文献であれば、労を厭いさえしなければ、それを入手ないし閲読することがほとんどの場合可能である。‥‥そう考えると、いま必要なのは、著作自体を再刊することではなく、それへのガイドかもしれない。‥‥それに詳細な著作目録が加わればガイドとしては完璧であろう。‥‥
そのように考えて、著作集の代わりに著作解題集・著作目録を作成することになった」と。
まことに、現時点では合理的な判断・方針です。1922年生まれ、1995年に急死された平田さんの『経済科学の創造』『市民社会と社会主義』『経済学と歴史認識』から始まって、すべての単著の概要・書誌・反響・書評が充実しています。また「略年表」とは別に、なんと143ぺージにもわたる「著作目録」があります。見開きで「備考」が詳しい! 「追悼論稿一覧」も2ぺージにおよびます!
とにかく、ぼくが大学に入学した1966年から『思想』には毎年、数本(!)平田清明の論文が載り、『世界』に載った文章も含めて『市民社会と社会主義』が刊行されたのは1969年10月。東大闘争の収拾局面、ベトナム戦争の泥沼、プラハの春の暗転。こうしたなかで平田『市民社会と社会主義』が出て、ぼくたちが熱烈に読み、話題にしはじめて3ヶ月もしないうちに、日本共産党は大々的に平田攻撃を開始して『前衛』『経済』を湧かせ、労農派も平田の反マルクス主義性をあげつらう、という具合で、鈍感なぼくにも、誰が学ぶに値し、どの雑誌や陣営がクズなのか、よーく見通せることになった。
そうしたなかで、わが八木紀一郎は驚くべき行動をとりました。東大社会学・福武直先生のもとで「戦前における社会科学の成立:歴史意識と社会的実体」というすばらしい卒業論文(1971年4月提出)を執筆中の八木が、東大でなく名古屋大学の経済学大学院を受けて(当然ながら文句なしに*)合格して、卒業したら名古屋だよ、と。すごい行動力だと思った。
*じつは受け容れ側の名古屋大学経済学研究科の先生方は、筆記試験も卒業論文も抜群の東大生がどうして名古屋を受験するのか、なにか秘密があるのか、戦々恐々だった、と後年、藤瀬浩司さんから聞きました。平田先生のもとで学びたい、というだけの理由だったのです! ただし、その平田先生は73年に在外研究、78年に京都大学に移籍します。八木もドイツに留学します。
ぼくも西洋史の大学院に入ったばかりのころ、八木の紹介で、本郷通りのルオー【いまの正門前の小さな店ではなく、菊坂に近い現在のタンギーにあった、奥の深い喫茶店】で平田先生と面談し、わが卒業論文(マンチェスタにおける民衆運動:1756~58年)の要点をお話ししただけでなく、1972年3月には滋賀県大津の三井寺で催された名古屋大学・京都大学合同の経済原論合宿の末席を汚して、経済学批判要綱やヘーゲル法哲学批判などを読み合わせたりしたものです。そこには奈良女の学生もいました。
マルクス主義者というより、内田義彦に通じる、経済学と人間社会を(言葉にこだわりつつ)根底的に考えなおす人、としてぼくは平田清明に惹きつけられたのでした。
68-9年からこの『平田清明著作 解題と目録』の刊行にいたるまで、現実に与えられた諸条件のなかで「筋を通す」という生きかたを貫いておられる、「畏友」八木紀一郎に敬意を表します。
2019年9月22日日曜日
大庭健さんを偲ぶ会
倫理学・哲学関係のみなさんに続いて、ぼくも旧友として4番目に挨拶をしました。他にもっと適切な方が(とくに折原先生とか、八木さんとか)おられるはずですが、その代わりのようなつもりで、また弟分のような気持でお話ししました。要点は以下のとおりです[一部割愛します]。
¶ 昨年10月に大庭健さんが亡くなり、11月23日、柏木教会の葬儀告別式に参りました。
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2018/11/blog-post_24.html
ほぼ1年後の今日は「偲ぶ会」に来ているわけですが、残念ながら、じつはどちらの会でも存じ上げないお顔ばかりです。これは、大庭さんの人倫の交わりの広がりのうち、近藤がクリスチャンでなく、哲学・倫理学関係でもなく、専修大学関係でもない、マージナルな所に位置しているため、と思われます。Odd man out ではありますが、大庭さんの死を悼み、お人柄を偲ぶという点では人後に落ちないつもりです。機会をいただきましたので、1960年代後半、大庭さんが倫理学者・大学教師になるより前のエピソードをお聞きください。
¶ そもそもぼくが大庭さんに出会ったのは、1967年の春、折原浩先生の一般教育ゼミでした。大庭さんが東京大学に入学なさったのは1965年で、ぼくはその1年下です。なにか人文社会系の学問みたいなことをやりたいと思っていましたが、焦点は定かでなく、大教室で聴いた3つの講義がおもしろいな、と思っていたころでした。
と申しますのは、第1に城塚 登 先生の社会思想史、第2は京極純一先生の政治学、第3が折原先生の社会学でした。デュルケムの自殺論からアノミーを論じ、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』や『経済学批判』から唯物史観の考えかたを説き、ヴェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』から信仰・社会層・生活規範の分析をやってみせる。大学に入学したばかりの者に、岩波文庫の何ぺージ、何行目と指示しながら学問のイントロダクションをやってくださったのです。圧倒されました。2年生になる前に直訴して、講義とは別に開講されていた小人数のゼミに出席させてくださいとお願いしたのです。
折原先生はまだ31歳で、駒場の教員になって3年目。ヴェーバーの『宗教社会学論集』を踏まえながら、テキストとしてはあの『経済と社会』のなかの「宗教社会学」という章、まだ翻訳がなく、英訳を用いてこれをしっかり読んでゆく演習でした。このゼミを仕切っていたのが(駒場で3年目の)大庭さんだったのです。読み進むにつれて、パーソンズの弟子フィショフの英訳にはいろいろ問題があるというので、結局ドイツ語のテキストを参照することになりますが、そのドイツ語の読み方から、報告レジュメの切り方、討論の仕方にいたるまで、リードしてくれたのは大庭さんでした。折原先生も、大庭さんを右腕のように頼もしく思っておられたのではないでしょうか。
¶ 翌68年度に、大庭さんは熟慮のうえ(何度も和辻哲郎の名をあげていました)倫理学へ、ぼくは西洋史へ進学しました。同時に折原先生の駒場のゼミには2人とも毎週欠かさず通いましたし、文学部では「宗教社会学」という講義を始められたので、これも出ました。さらに大庭さんに誘われて、駒場の杉山 好先生のお部屋で隔週でしたか、夕方からヴェーバーの『古代ユダヤ教』を読みました。みすず書房の内田芳明訳がすでに出ていたのですが問題が多い翻訳で、原文を読んで、誤訳や不適訳を見つけて腐(くさ)す、という会でした。ドイツ語については杉山先生の学識に大いに啓発されましたが、その信仰心には付いて行けず、居たたまれなくなることもありました。『古代ユダヤ教』については、その後も(杉山先生抜きで)68年夏に野尻湖のある人の別荘で合宿して読み合わせました。
少し前後しますが、折原先生も書いておられるように、68年の学年始めまで「約3年間[余り]は、講義と演習の準備に追われ、学問の季節‥‥」(『東大闘争総括』p.134)だったということですが、その学問の季節をぼくたちも、大庭健、社会学の八木紀一郎、舩橋晴俊、経済史の八林秀一といった人たちとご一緒できたのは幸せなことでした。今のぼくの学問の基礎力・エッセンスのようなものは、折原ゼミと大庭さんによって学び、鍛えられたと考えています。
¶ そうこうするうちに、68年6月17日に本郷キャンパスに機動隊が導入されて、学内の空気は一変し、学科討論やゼミ討論、そして無期限ストライキへと向かいました。ナイーヴなぼくにとってはエキサイティングな政治の季節の始まりでしたが、大庭さんの場合は落ち着いて運動も学問も積極的にこなしておられたようで、だからこそ無期限ストライキのさなかに大庭提案による『古代ユダヤ教』合宿もありえたわけです。68年6月に始まった文学部の無期限ストライキは、1年半後の69年12月まで続きます。
急いで付け加えますが、この18ヶ月におよぶ学園闘争中に政治と学問は別のものではなく、一つのことの二つの面でした。だからこそ、マルクスやヴェーバーといった古典から、大塚久雄や丸山眞男を読み、さらにルソーやスミス、内田義彦や平田清明『社会主義と市民社会』を読み合わせる会のようなことをずっと続けていました。
若い世代、といっても今60歳未満の方々ということになりますか、この点ははっきり区別していただきたいのですが、一方で、東大執行部の権威主義的でパターナルな姿勢を批判する、ビラのガリ版を切り、謄写版で何百枚か刷り、食堂や教室の入り口で配る、立て看をきれいに仕上げて銀杏並木に立てかける、ヘルメットをかぶって街頭デモ行進をするといったことと、他方で、ゲバ棒を人に向かって打ちつけるとか、「帝大解体」を叫ぶとかいったことは、全然別のことでした。
¶ 70年代に入ると大庭さんの口からベンサムの pleasure & pain、 分析哲学、そして廣松渉といった名がしばしば出てきて、なにか大きな展開が始まったな、とぼくにも感じられました。その後、ご存じのとおり、大庭さんは倫理学者として、広く人と社会にかかわる発言に積極的に取り組むことになります。ぼくの最初の単著は『民のモラル』というタイトルで、大庭さんにも送りましたが、人倫を問い続けていた大庭さんの感想はまた独特でした。
最後にお目にかかってお話したのは2007年で、図書館長として多忙ななか、専修大学で「人文学の現在」といった講座を企画して、ぼくにも加わるよう誘ってくださったのでした。これは残念ながら実現しなかったのですが、その折のメールのやりとりで、「相変わらずのスモーカーなので、たいした風邪でもないのですが、長引きます」といった発言があり、心配していました。
たくさんの本を出版なさり、倫理学会会長もつとめ、漏れ聞いているだけでも「大庭兄」に私淑している方は何人もいらっしゃいます。やり残したお仕事、心残りもあったと思いますが、知的な影響力という点で実り豊かな人生だったのではないでしょうか。別の分野に進みましたが、ぼくもそうした影響を享受した「弟分」の一人です。
大庭さん、ありがとうございました。
2019年5月16日木曜日
近代社会史研究会(1985-2018)
ぼく自身も書いていて「1986~98年の近社研」との個人的かかわりをしたためていますが(pp.172-175)、別に何人かの方々の証言のなかで一寸言及されていたり、また(川北・谷川論争の翌月なのに、何もなかったかのごとき)ぼく自身の「報告要旨:民衆文化とヘゲモニー」(pp.330-331)が採録されていたり、‥‥そうだったなぁ、という感懐をもよおす出版です。
近社研の運営にはいっさいかかわることなく、ゲスト・一出席者としてのみ関係したわたくしめなので、漏れ聞いていた諸々と、今回の編集出版のご苦労には頭が下がります。
歴史学方法論ということでは、記憶と記録の交錯、ひとの記憶や記録と出会い、それが繰りかえされることによる「上書き」、そして「フェイク・ヒストリー」の可能性にまで谷川さんの「あとがき」は言及しています。金澤「あとがき」では「史料編纂‥‥、非常に貴重な体験」と表現されています。たとえば1987年初夏に名古屋で、福井憲彦さんの『新しい歴史学とは何か』の書評会をやって、若原憲和さんとヤリトリがあった事実などは、ぼくは完全に忘れていました!
この出版の企画を最初に聞いて執筆を依頼されたときには、「いまさら」という気もないではなかったのですが、一書として公刊されてみると、やはり出てよかった、と思います。谷川稔という人、そして色々あっても彼を盛り立ててきた良き友人たちのこと(そして、そうした時代)を理解するよすがにもなります。関係者の皆さん、ありがとう!
2019年5月9日木曜日
Queen Elizabeth と三内丸山遺跡
遅い桜花を見るためにではなく、旧友に会うためでした。諸々の話をすることができて良かった。
初日は雨模様でしたが、2日目はなにより天気にも恵まれ、ちょうど Queen Elizabeth 号が青森に初めて寄港するという特別の日だったようで、港では「メルバン」から来てヴァンクーヴァに向かうという老夫婦とお話をし、また波止場の展望台の上から俯瞰しました。反対側に雪の八甲田連峰および岩木山も遠望できました。
午後は三内丸山遺跡に同行して(これは1994年『中学歴史』[東京書籍]の編集執筆をして以来の宿題!)ボランティア説明者とのやりとりが有益でした。栗の大木6本の建築物の下方から、はるか八甲田山を遠望できます。
なおまた隣接する青森県立美術館では、棟方志功の若き無名時代のエピソードも聞くことができて、楽しかった。
2018年11月24日土曜日
大久保の街路樹は まだ青々
23日(金)午後、大久保(北新宿3丁目)の柏木教会、大庭健さんの告別式に参りました。
キリスト教(プロテスタント)の式と、告別の辞のアカデミックな弁論が、微妙な関係だなと思うのは、ぼくが無信仰(「祭天の古俗」派)だから? おぼろげな記憶ですが、まだ駒場時代のある夕刻のこと、ウェーバー『古代ユダヤ教』を読み合わせていた会で、霊や信仰をめぐって「不条理なるがゆえにわれ信ず」という立場をもちだした(年長の)あるキリスト者にたいして、大庭さんは慎重に言葉を選びながら「ぼくたちは啓蒙より後の合理主義的信仰だから‥‥」と語ったのが想い起こされます。 最期の日には、聖書の一節を読み、賛美歌を歌って、夜静かに死を迎えられたということです。
おそらくは60代半ばの遺影がすばらしくて(ぼくの知っている大庭さんです)、悲しさより嬉しさが募りました。
ご本を26冊も出版なさったと今日うかがいましたが、最後の書は執筆8割ほどで筆を折るしかなかったとのこと。無念だったでしょう。
階下の懇親会では『私はどうして私なのか』『善と悪』を担当したという岩波書店の編集者とお話ししました。遅筆のぼくとしてはなおさらに、お約束の『映画と現代イギリス』も含めて、せめてあと4冊を書き終わらないまま時間切れ、アウト、というのは、耐えがたい。きっと見苦しい臨終となってしまうでしょう。
若者とエスニシティの溢れる大久保駅界隈ですが、柏木教会の中は静か、脇の街路樹は11月下旬というのに青々していて、生命力をうかがわせます。初冬のおだやかな午後、そのまま帰路に就く気持になれず、百人町の住宅地からグローブ座、高層マンション群、西戸山公園から高田馬場まで、ゆったりと歩いてみました。
2018年11月8日木曜日
東大闘争 50年目のメモランダム:安田講堂、裁判、そして丸山眞男
和田といえば、中学・高校・大学と一緒だった男だ。かっこいいヤツで、裕次郎どころじゃない、言ってしまえば、日本のアラン・ドロン。高校の世界史で「人権宣言」を習った直後には、兄貴に教わったに違いないが、フランス語で
Déclaration des droits de l'homme et du citoyen
と手書きしたシャツを着て校舎内を闊歩して注目されたりした。そもそも白や薄青じゃないデザインしたシャツを着用すること自体が問題だった! だが、60年代の高校は不思議なところで、彼がそのような格好をしたり、ぼくが体育の授業をずっとさぼって図書館にいたり、Kという男が、学校の授業は意味がないというだけの理由で年間100日以上出校しなくても、一言注意されるくらいで、学業成績さえ問題なければ、黙認されていたのだ。学業主義のもたらす自由!(Kのほうは、B. ラッセルのような数学者になるつもりで東大理Ⅰに入学。しかしまもなく佐世保、羽田、三里塚と駆け回る活動家になった。東大闘争では党派の指導部にいたから、あまり本郷に顔は出さなかったと思われる。)
和田は東大文Ⅰに入学してからも、やはりノンポリのアラン・ドロン風の生活を送っていたが、1968年(法学部3年)のある日から法闘委(全共闘)に加わり、翌69年1月19日に安田講堂内で逮捕され、起訴され、裁判で有罪判決をうけた。刑務所を出るとき、高倉健の出所のようにかっこよくはいかないな、と考えていたら、なんと「門の向こうに、黄色いハンカチを手にして、K子が立っていた」p.161 とまるで映画みたいな場面がいくつもあります。
本は2部に分かれ、第一部「安田講堂戦記」はぼくも知っていること、体験したことが少し、知らないことが沢山。「文スト実」と「法闘委」のちがいはあまりに大きい。
具体的には、またいつか分析的に述べますが、たとえば19日午後の安田講堂の中で、闘いも止み、いよいよ逮捕される直前に、法闘委のメンバー20名(と周辺の学生)には
「すぐに機動隊がきます。若い隊員は興奮しているでしょう。殴られたり蹴られたりするかもしれません。しかし、そのうち上級の隊員が来て収めます。それまで抵抗してはいけません。彼らは殺気だち、諸君はますますやられます。」
「逮捕されてから48時間以内に送検されますが、そこで釈放されることはないでしょう。検察官は必ず24時間以内に裁判官に勾留の請求をします。それから勾留裁判がありますが、そこでも釈放されないでしょう、裁判官は必ず10日間の勾留を決定します。そしてまた10日間延長するでしょう。身柄の拘束は全部で23日、それでも終わらないかもしれません‥‥」(pp.93-94)
といった正確なインストラクションが司法試験勉強中の学生からあったという。自分がどうなるか、予測がついて長期勾留されるのと、いったいどうなるのか霧の中、というのとは全然ちがいます。
その後の「司法制裁」の具体相と、警官や司法役人との出会いについても印象的な記述があります。和田本人については、司法側のかなりイージーな予断と誤認によって地裁で実刑判決をうけ、控訴審=高裁でも認定はそのまま本質的に継承され(地裁判決を否定することなく)、執行猶予を付けてケリとしたという。
第二部は、「丸山教授の遭難」と題して、例の1968年12月23日、法学部研究室封鎖のときの丸山眞男の言説をめぐる伝説の真偽、そしてこれが虚偽でなくとも不正確なことは明らかなのに、なぜ誤報が友人や弟子たちによって異議申したてられないままなのか、この不思議を分析します。
「‥‥「軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ」と言う丸山教授たちを他の教官がかかえるようにして学生たちの群れから引き離した。」(毎日新聞、翌日朝刊) ⇔ 他の新聞にはない記事! しかも、『毎日』は他のニュースソースから文章を流用したうえ、「ファシスト」を「ナチ」に変えてしまった(pp.203-209)。
吉本隆明によれば、「新聞の報道では‥‥丸山真男は‥‥〈君たちのような暴挙はナチスも日本の軍国主義もやらなかった。わたしは君たちを憎しみはしない、ただ軽蔑するだけだ〉といったことを口走った。」(『文芸』3月号) ⇔ 『毎日』と伝聞にのみ依拠した記述。
じつは当時から(ぼくの場合、毎日新聞か吉本か、どっちを読んだのか判然としないけれど)「ナチもしなかった」という表現に強い違和感がありました。ナチスは大学研究室の封鎖や狼藉にとどまらず、ユダヤ人や自由主義者を肉体的に殺害し、その出版物を焚書したのだから、そしてそのことは歴史をちょっと学んだ人なら誰でも周知の事実なのに、本当に丸山教授はそんなナイーヴな発言をしたのだろうか、そこまで激情にかられて(?)基本的な知識まで吹っ飛んでしまったのか、と。むしろ報道側が扇情的にフライイングをした、と考えるのが合理的、ということに、ぼくたちの間では落ちついたように記憶しています。
そうだとしたら、何故、丸山本人およびその友人や愛弟子たちが、『毎日』と吉本の可笑しな記事に異議を申し立てなかったのか、という疑問が残ります。そのあとの推論は、和田くんが分析しているとおり(pp.212-258)だったろうと思われます。
なおちなみに、丸山眞男は父が『毎日新聞』記者で、戦後もいろいろな機会に『朝日新聞』でなく『毎日』を優先して対応していた。学生内藤國夫を推薦した先も『毎日』だった。それが70年代からは変わって、(他に褒章のない[固辞していた?]丸山が)1985年に朝日賞は受賞した、というのも、この『毎日新聞』12月24日記事への憤りが影響しているのだろうか。知りたいところです。
この本は第一部も第二部も、法廷弁論を聞いているようで、明快な「力」があります。体験と文献史料の分析とがあいまって、読むに足る「メモランダム」ができました。元来 memorandum とは、記憶や覚書より以上に、(フォーマルではないが)記憶しておくべきこと、忘れてはいけないこと、という意味ですね。
ちなみに、先にも触れた 小杉亮子『東大闘争の語り』(新曜社)には、この和田くんは登場しません。
2018年10月23日火曜日
大庭 健さん、1946-2018
そもそもの始めは、1967年、駒場2年生の春から折原先生のウェーバーゼミでした。1年生の「社会学」(数百人の大教室が一杯になる講義)でマルクス、ウェーバー、デュルケームの手ほどきを受けたあと、2年の4月には秀才たちの多い折原ゼミに編入してもらって(授業科目としてはなんという題だったのか)、とにかくウェーバー『経済と社会』のなかの「宗教社会学」を英訳で読みつつ、あらゆることを討論する集いでした。68年、3年生の夏まで、ぼくの毎週の生活の頂点でした。大庭さんは1学年上ですが留年中で、ウェーバーの読み方から、詳細な報告レジュメの切り方(ガリ版です!)、討論の仕方にいたるまで、手本として教えられました。関連して、当然ながら『宗教社会学論集』も読む必要がありましたし、なにを隠そう、「大塚久雄という Weber学者は、昔は西洋経済史なんてことを研究していたらしい」といった知識もここで得たのです。
今のぼくは西洋史の研究者ということになっていますが、英語やドイツ語の読みかた、学問の基礎・本質のようなものは、この駒場における折原ゼミと大庭さんによって学び鍛えられたのです。1968年夏にはウェーバーの『古代ユダヤ教』を野尻湖や駒場の杉山好先生の部屋で一緒に読んだりしました。内田芳明というドイツ語に問題のある方のみすず書房訳が出ましたが、これの不適訳、理解不足などを指摘して喜ぶ、といった倒錯した喜びも覚えました。トレルチの内田訳『ルネサンスと宗教改革』(岩波文庫)はすでに出ていたかな。こちらのプロテスタント史観は60年代の日本の進歩主義的学問には適合していたかもしれません。ウェーバーがそれよりはスケールの大きな問題意識をもった人だということくらい、すぐに分かりました。
大庭さんはいろいろ考えたうえで本郷の倫理学に進学なさいましたが、西洋史の大学院で成瀬先生がハーバマスを読むと聞くと、これに出席して、しかし「西洋史のゼミって静かだね」という言葉とともに出てこなくなった! その後も広く人倫・社会哲学にかかわる積極的な発言を続けておられました。最後に直接にお話したのは、2007年、図書館長としてのご多忙中、専修大学で「人文学の現在」といった企画を考えておられ、お手伝いをしました。その折には連絡メールのやりとりのなかで、「相変わらずのスモーカーなので、たいした風邪でもないのですが、長引きます」といった発言があり、気になりました。その後も毎年、写真入りのお年賀状を頂いていましたが、今年はその写真がなく「リタイア生活は病院ではじまりました」という一句に心配しておりました。
たくさんの本を出版して、倫理学会会長もつとめ、ぼくが存じ上げているだけでも「大庭兄」に私淑しているという方はいろいろな方面で何人もいらっしゃいます。やり残したお仕事、心残りもあったでしょう。しかし、知的な影響力という点では実り豊かな人生だったのではないでしょうか。別の分野に進みましたが、ぼくもそうした「弟分」の一人なのです。
11月23日に葬儀告別式とのことで、これに馳せ参じます。
2018年10月1日月曜日
退院の一報、励みになります
10月1日、台風一過で32度を超える暑さはかなわないけれど、それにしても洗濯日和です。2回も洗濯機を回しましたよ。ついでに風呂掃除も。
昨夜は大阪からの大移動と、台風対策で気疲れして、強風の音を聞きつつ早く寝てしまいました。
今朝起きてみたら、気にかけていた友人からメールが来ていて、彼の入院手術について、無事、昨日退院したとのこと。養生やリハビリでこれからも大変でしょうが、まずは安堵しました。
こういうニュースは、嬉しいだけでなく、ぼく自身にとっても励みになるのだと自覚しました。
2018年7月31日火曜日
東大闘争の語り
小杉亮子『東大闘争の語り-社会運動の予示と戦略』(新曜社)が出たことを、塩川伸明さんから知らされ、購入しました。
読んでみると、pp.38-39に聞き取り対象者44名の一覧が(許諾した場合は)本名とともにあり、最首助手、長崎浩助手、石田雄助教授、折原浩助教授、から大学院の長谷川宏さん、匿名の学部生がたくさん、そして当時仏文だった鈴木貞美にいたるまで挙がっています。匿名ではあれ、話の内容(と学部学年)からダレとわかる場合も。ふつうは東大闘争の抑圧勢力として省かれる共産党(当時は「代々木」とか「民」とか呼んでいた)関係の証言もあり、叙述に厚みがあります。何月何日ということを極めつつ歴史を再構成して行くのも好感がもてます。45年~50年前の集団的経験について、インタヴューに答えつつどう語るか。当事者の証言を史料としてどう扱うか、方法的にも価値があると思われます。
ただし、方法的に社会学であることに文句はないが、当時の東大社会学関係者の証言が偏重されています。いくらなんでも東大闘争の関係者として、和田春樹さんや北原敦さん(そして塩川伸明さん)を含めて、歴史学関係者の証言がゼロというのは、どうかと思います。
(『文学部八日間団交の記録』を録音からおこして編集した史料編纂者はぼくですし‥‥)文学部ストライキ実行委員会の委員長は西洋史のK(Kは69年に全学連委員長になってしまったので、下記のFFに交替)、学生会議を仕切っていたのは仏文のF、あまり知的でなく行動派のSも西洋史でした(このイニシャルは本書のなかの証言者の記号とはまったく別)。東洋史院生の桜井由躬雄さんは亡くなってしまったので、ここに登場しないのは仕方ないとしても。69年1月10・11・12日に安田講堂や法文2号館に泊まり込んでいた西洋史の学生で後に重要な学者になった人は何人もいる。
哲学の長谷川さんの言として、「白熱した議論を哲学科と東洋史と仏文はやってて‥‥」(p.259)、また学部3年のFのことを紹介しつつ社会学科ではノンセクトの学生が活発に活動しており(p.262)といった一面的な語りは、大事ななにかが抜けていませんか? と問いただしたくなる。本書全体の導き手のような福岡安則の好みによるのだろうか。
そうした偏りはあるとしても、これまでの類書に比べると、相対的に信頼できる出版です。いろいろとクロノロジーの再確認を促されます。
社会学だと運動が予示的(≒ユートピア的)か、戦略的かという問題になるのかもしれません。しかし、『バブーフの陰謀』(1968年1月刊!)とグラムシを読んでいた歴史学(西洋史)の者にとって、「ジャコバン主義とサンキュロット運動」という枠組、そしてカードル(中堅幹部)の決定的な役割、といったことの妥当性を追体験するような2年間でした。
なお69年12月に文スト実のFFが呼びかけて(代々木の破壊工作を避けて)検見川で集会をもち、議論のあげくに「ストライキ解除」決議をとった。これは敗北を確認し、ケジメをつけて前を見る、という点で、たいへん賢明な決断でした。その後のFFは立派な学者になっていますが、先には70歳を記念して、ご自分の卒業論文をそのまま自費出版なさった。尊敬に値する人です。
2018年4月24日火曜日
坂本龍一くんの父、坂本一亀
今晩のNHK「ファミリー ヒストリー」には感涙しました。中国東北から生還した父上にとっては「余生」、としての戦後をどう生きたか。生前はまともに話すことはおろか、正視することもできなかったという息子、龍一が、仕事人間、「人を愛することも、愛されることも下手だった父」を追悼する、ということ自体がドラマティックな結びでした。ご本人も「やばいですね‥‥」と涙を拭いていました。
とはいえ、ぼくの場合は、龍一くんよりもそのご両親、辣腕の父=一亀さんと美しい母=敬子さんの物語として(語られぬ部分にも)感極まるものがありました。ぼくは龍一くんが芸大に入学する前の夏、富士山麓の坂本家の別荘で数日間、一緒に生活していたのですよ。
1969年ですから、坂本くんは新宿高校(AFSの留学から帰ってきたばかり)の3年生、ぼくは東大の無期限ストライキ中。その前もその後も、生きる道の重ならないぼくと坂本くんが、なぜその夏に一緒に寝泊まりしていたかというと、68・9年という情況だったから、そして新宿高校3年生のK子さん、その姉のM子さんがそこにいたからです。M子さんは、ぼくとも、後年結婚する光明くんとも、中学・高校が一緒でした。ブログに書くより「小説」の材料になりそうなことが、その夏の富士山麓を舞台に、次々と展開しました。
河出書房の黄金時代を支えた辣腕編集者として名の通った坂本一亀さん(1921-2002)は、三島由紀夫や野間宏や水上勉や丸谷才一もそうだけれど、それより、ぼくたちの世代にとっては高橋和巳(1931-71)の担当編集者として知られていて、どんな小さな逸話でも聞きたかった。そうした父上のこと、母上のこと、高校のこと、なぜかそのとき(お盆休みなので?)テレビでやっていたジェイムズ・ディーンの「エデンの東」、日の出の赤富士、「富士には月見草が似あう」という太宰の台詞‥‥。
49年前の真夏を想い出し、また今は亡きご両親夫妻の老後の穏やかな様子を写真で見ることができて、この番組には心洗われました。【誤字を訂正し、ほんの少し言葉を補いました。指摘してくださった方、ありがとう!】
2016年8月23日火曜日
礫岩のようなイギリス
今日午後に、BLのカフェにて旧知の3氏に遭遇しました。
Cambridge Workshop について質問がつづき、「礫岩」とは互いに異質だということじゃない、「Kさんとぼくは性格も出身も違うが、友人である。なぜか?」
という問題だ、と言ったら、半分わかってくれた模様です。
ぼくは学生時代から反nationalist です。「違うから独立したい」というのは1919年の論理で、21世紀の将来は見通せない。「礫岩のような」議論は、後ろ向きでなく、前向きの志から来ています。
『イギリス史10講』について2014年初めの『朝日』の書評欄が、イングランド・スコットランド・ウェールズの違いにも目配りした概説‥‥ といったふざけた紹介をしていました。結局は受け手の問題で、「こと」を理解できていない人には、なんともコメントのしようがなくて誤魔化したのでしょう。
なおまた 北ウェールズ行に関連しても質問がありました。
ウェールズとイングランドの関係は、琉球や台湾やでなく、関西と関東の関係だ、と言ってみたら、これまた半分納得してくれました。
景観も、文化と自尊心、言語と信教も異なる。このことを認めなくちゃ話は始まらない。しかし独立したいとは考えていない‥‥。
サイダー(Seidr)を昨日お昼に飲みました。
2015年8月29日土曜日
永栄 潔
『朝日新聞』を定年退職して大学非常勤講師や、高校同期会でも活躍している永栄。その著書『ブンヤ暮らし三十六年 回想の朝日新聞』で第14回新潮ドキュメント賞を受章と。おめでとう!
→ https://www.shinchosha.co.jp/prizes/documentsho/
千葉高校時代には陸上部でも生徒会でも活躍していた。女の子の心をときめかしてもいた。結局、結婚したのも同期の女子だ。ぼくたちが2年生の秋、翌年度から3年生を文系理系に分けて編成するという学校の告知にたいして、千葉高校の教養主義の終焉というので、ぼくたちはブツブツ言っていたのだが、全学集会で一人挙手して、教頭に質問があります、といった永栄は格好よかった。そのあと一人召喚されて、「はい」と言わされたらしい! ちょうどヴェトナム戦争、北爆の1964年だった。
今も体形を維持して格好いい68歳。どうぞお元気で!
2015年2月7日土曜日
工藤光一さん
彼が院生の頃からのつきあいで、いろいろな場面が想い起こされます。樺山先生のお宅で毎正月に開かれていた(らしい)「一斗会」のこととか、柴田先生と彼とのやりとりとか‥‥。外語大からの、自他ともに任じる二宮宏之さんの愛弟子の一人でしたから、『二宮宏之著作集』第3巻(岩波書店、2011)の「解説」も執筆しておられます。闘病生活が長いことは存じていましたが、そのころは復調していたようだし、ぼくとしてはこの文章のトーンに不満で、そのように伝えました。
ぼくが「礫岩政体と普遍君主:覚書」の最後を執筆したときに想い浮かべていた人の一人が彼であることを隠す必要はないでしょう。
彼とのメールのやりとりの最後は2013年6月13~14日でした。
工藤さんの長いメールには次のような部分がありました。
<以下引用>
‥‥「礫岩政体と普遍君主:覚書」は、スケールの大きな問題提起にうならされるとともに、「おわりに」の二宮先生のお仕事についてのご見解には、考えさせられました。確かに、1990年代以降の二宮先生については、エトノスの複合性をふまえたうえでの res publica 論やホッブス的秩序問題、思想史・概念史にかかわる議論は棚上げされたかにみえます。ルフェーヴルの「革命的群衆」論文が集合心性の研究への橋渡しとしていかに枢要だったかを強調される一方で、「複合革命」論には言及されなかったのもご指摘のとおりでしょう。からだとこころとソシアビリテを軸に「社会史」ないし「歴史人類学」を構想してゆくうえで、「複合革命」論を取り込むことは、さしあたって必要なかったということなのかもしれません。
ご高論の中で、二宮先生の「文化史的な内向の磁力が、追随する若手研究者におよぼす抑制的影響力」を懸念しておいでで、「2000年代の内省的二宮は、具体的にその〔六角形の〕枠組ををこえて内外に浸透した秩序問題、そして概念史、世界史へと研究を広げようとする者に対する抑止力でもあった」とおしゃっておいでですが、「抑制的影響力」や「抑止力」という二宮先生が一番嫌われた力が現にあとに続く者に働いているかというと、私にはそうは思えません。私の場合、確かに「六角形の枠組」を越えることなく、フランス農村世界の政治文化史に一貫してこだわってきましたが、これは二宮先生からの直接的な影響力によるものというよりは、アラン・コルバンの「感性と表象の歴史学」が政治史に新たな地平を拓いたことに触発を受けています。コルバンの研究によって、農村世界の政治文化史には、まだ広大な未開拓の領野が残されていることが明確に見えてきたと思っています(詳しくは、『歴史を問う4 歴史はいかに書かれるか』岩波書店、2004年に所載された拙稿「記録なき個人の歴史を書く―アラン・コルバンの試みが意味するもの」pp.105-106をご参照ください)。
この未開拓の領野を切り拓いてゆく方向性において、私は二宮先生の「呪縛」なるものを感じたことはありません。他の研究者の場合は分かりませんが、多くの人たちが「偉大な先達をおもいつづけ、そのたおれたあと、未完の課題を引き継いで前へ進もうとする」点では、近藤さんと同じ立場を採っているのではないでしょうか。二宮先生のあとに続く者たちの間に、大塚史学の場合のように、「護教論者の集団」ができるようなことはないと信じています。
自分の病に対する不安で、少々鬱々とした気分でいましたところに、近藤さんから喝を入れられた思いがいたしました。刺激を与えて下さったことに深く感謝いたします。
工藤光一
<以上引用>
これにたいして、ぼくは謝意を表すると同時に、「‥‥歴史学はなにより体力勝負のようなところがあります。ぼくも家族も壮健ではありませんが、どうぞお大切に。」
と書いて送ったのでした。そのあと1年半、ついにふたたび拝顔することはかないませんでした。
ご冥福を祈ります。