ついに1月31日(日本時間では2月1日)連合王国(UK)はヨーロッパ連合(EU)から離脱。その最後のヨーロッパ議会で Auld Lang Syne (蛍の光)が合唱されたことは日本のメディアでも伝えられましたが、その前に EU 委員長≒大統領の von der Leyen (写真の手前左の女性)が、優しく(あるいは respectable な教養人としては当然の礼儀として)次のような詩を朗読したことは、日本で伝えられたのでしょうか? 女性作家ジョージ・エリオットの詩ですが、
"Only in the agony of parting, do we look into the depths of love.
We will always love you, and we will never be far."
「つらい別れのときに、ようやくわたしたちは愛の深さ[複数形! あれこれの強烈な想い出!]を見つめる。
これからもずっとあなたを愛しています。遠い所に行ってしまうわけではないので。」
しかもこれに加えて、United in diversity といった青いバナー(横幕)が掲げられては、もぅ感涙するしかないじゃありませんか。
こうした優しい配慮と友情にたいして、感謝を知らないウツケ者ファラージ(Brexit党)は、
「1534年に我々はローマ教会から抜けて自由になった[首長法のこと]。いま我々はローマ条約[1957年の条約によるEEC結成]から自由になるのだ」
などと公言して悦に入っている。ローマカトリック信徒への差別、みずから国家主権の亡者であることを包み隠さぬポピュリストです。
【ちなみにポピュリスト・ポピュリズムをマスコミは大衆迎合主義(者)と訳していますが、これは不十分です。大衆に迎合するようなこと[フェイクも含む]を言って扇情的に政治権力を執ろう[維持しよう]とする政治手法ですし、そういう政治家です。「デマゴーグ」と昔は呼んでいました。ファラージもジョンソンも、トランプもヒトラーも。大衆受けを狙うだけなら、そう悪いことじゃない。芸能人は(かつてのトランプも)それが商売です。しかし、デマゴーグの扇情的=分断的=反知性的手法でポリティックスをやられては、地獄か煉獄です。ナチス政権は、12年間続きましたね。】
2020年2月2日日曜日
2019年4月7日日曜日
SPQR
「文明」を代表具現した(と自称した)ローマの SPQR の印は、神聖ローマ帝国の印でもあった。『近世ヨーロッパ』のカバー写真でも、それは当てはまります。
アルプスないし黒森に淵源をもつドナウ川が東に向かい、ハンガリーの大平原に出る直前に地峡部を縫って、流れを南に90度かえる、そのあたりが古代から軍事的な要点になっていたようです。ローマ帝国の後継を僭称した神聖ローマ帝国に異議を申し立てる、もう一つの普遍主義オスマン帝国によるモハーチ戦(1526)、ブダペシュト陥落にともなうハンガリー王国のブラティスラヴァへの遷都(1541-1784)‥‥そしてバルカンの東西関係を変える1699年のカルロヴィツ条約。
このようにドナウ沿岸のブラティスラヴァ≒ウィーンあたりからカルロヴィツ≒ベオグラードあたりまでがボーダー(境界地帯)をなしていて、ブダペシュトがほぼその真ん中だったのか。アウステルリツ戦のあとの条約(1805)もプレスブルク(ブラティスラヴァ)の大司教館で締結されたのですね。
2017年6月1日木曜日
長谷川博隆先生 1927-2017
長谷川博隆先生はご闘病中のところ、31日、肺炎で亡くなったとのことです。89歳。第一報の電話をいただいて、混乱しました。
1977年~88年に名古屋大学で公私ともにお世話になりました。ぼくは生意気な最年少教授会メンバーでしたが、自由にさせてくださり、見守っていただきました。
じつは東大西洋史の成瀬助手時代(1950年代なかば)に、長谷川博隆・遅塚忠躬・今井宏といった院生たちがたいへん仲が良かった、遅塚さんが名古屋の長谷川家まで泊まりに来た、といったことをお二人ご一緒の折に聞いたことがあります。
さらに印象的なのは、1991年の日本西洋史学会大会@名古屋で、例の「古代史におけるパトロネジ」のシンポジウムが開かれた翌朝です。宿の朝食をぼくは二宮さんとご一緒することになっていて、そこへ降りてゆくと、村川堅太郎・長谷川博隆両先生がご一緒にいらしたのですが、二宮さんの姿を認めて、村川さんは「やぁ二宮さん」と満面の笑みで、4人は同じテーブルに着席することになりました。とはいえ、話題は南フランスを一緒に旅行なさった60年代のある日々のことに尽き、車を運転した○○さんのことも含めて、昨日のことのように懐かしんでおられた。ぼくと長谷川さんは部外者として、楽しい回想をただ拝聴しているだけでした。村川主任教授時代の西洋史助手は、成瀬 → 長谷川 → 二宮 → 直居淳 → 西川正雄 → 伊藤貞夫、とつづき、黄金時代だったのですね(ぼくの知らないアンシァン=レジームです。まだ定員は一人。伊藤さんの任期中に定員二人となり、城戸さんが後任助手に就きました。1968年4月、村川先生の定年とともにお二人が同時に辞めて、北原敦・木村靖二助手の時代となり、ぼくにとっての「同時代」史が始まります)。
【 → この91年の12月に村川先生は亡くなるので、その半年前の、幸運で愉快な時間だったのでしょう。なお、先生と愛弟子はちょうど20歳違いというのが良いのだとは、長谷川先生の説です。村川・長谷川のご両人は20歳違い。柴田先生とぼくは21歳違うなぁ、とそのとき感じ入ったものです。】
なお、今春には國原吉之助先生も亡くなっていたとのことです。ぼくは名古屋大学文学部3階で、研究室が隣り同士でした。國原先生と長谷川先生は尊敬しあう関係だったようで、ある時点まで両先生の学恩を浴びるように享受していたのが、土岐正策さんです。週末夕刻から始まるラテン語の学習会は、國原先生よりも、むしろ土岐さんが仕切っておられた。
長谷川(編)『ヨーロッパ: 国家・中間権力・民衆』(名古屋大学出版会、1985)が出版された折には、ぼくが英語 mob の語源は mobile vulgus で、17世紀末にはただの mobile という形で使われていた時期もあるとしたためたのに目を留めた國原先生は、誉めてくださいました。お人柄は、『古典ラテン語辞典』(大学書林、2005)のまえがきにも現れているとおりです。
名古屋の古代ローマ関係のお三方は、ともに今は亡く、さびしい。
【2日(金)の晩は浦和でお通夜でした。しみじみと語りあいました。なおまた、このブログ記事につき、欠けるところを指摘してくださった方、ありがとうございます。】
2017年4月26日水曜日
〈歴史のフロンティア〉は今
1993年11月から刊行の始まった山川出版社の〈歴史のフロンティア〉。最初だけ2冊配本で、近藤『民のモラル』と森田安一『ルターの首引き猫』が出ました。それから、松本宣郎『ガリラヤからローマへ』、喜安朗『夢と反乱のフォブール』、荻野美穂『生殖の政治学』、石井規衛『文明としてのソ連』、山本秀行『ナチズムの記憶』‥‥と続き、90年代半ば、歴史学の一風景をなしたのではないかと思います。
結局、出版環境の変化と担当編集者の退職により、計20巻、本村凌二『帝国を魅せる剣闘士』(2011年)が最後となってしまいました。
四六判の立派な装丁による定価2600円~2700円の本には一般学生が手を伸ばさないという時代になって、それならと、文庫に形をかえて出版されるのは、歓迎すべきことでしょう。文庫版として出た順で並べると、
・近藤和彦『民のモラル - ホーガースと18世紀イギリス』 ちくま学芸文庫 2014年(364 pp.) 1300円
・谷川 稔『十字架と三色旗 - 近代フランスにおける政教分離』 岩波現代文庫 2015年(306 pp.) 1240円
・松本宣郎『ガリラヤからローマへ - 地中海世界をかえたキリスト教徒』 講談社学術文庫 2017年(341 pp.) 1130円
それぞれの出版社・文庫担当者の方針と見識が現れているかと思われます。講談社はずいぶん安く仕上げましたね。ただし、1ページに18行つめこんでいます。
この次に文庫版で出るのは何でしょう。すでに準備されているのでしょうか。ぼくが出版者ならただちに「これ」と推せるものがありますが‥‥。
2015年5月14日木曜日
酒都を歩く(英国編)
読売新聞 Online からこのような通知がきました。
>‥‥本村凌二先生の記事を今朝ほどアップしました。
>以下のURLです。
>http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/20150507-OYT8T50159.html
>2回にわけて掲載予定です。‥‥
関連ページがふえて、やや錯綜してきましたが、2月のぼくのインタヴューも含む、全体の「もくじ」はこうなっています。
→ http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/
>‥‥本村凌二先生の記事を今朝ほどアップしました。
>以下のURLです。
>http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/20150507-OYT8T50159.html
>2回にわけて掲載予定です。‥‥
関連ページがふえて、やや錯綜してきましたが、2月のぼくのインタヴューも含む、全体の「もくじ」はこうなっています。
→ http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/
2011年3月24日木曜日
宮城学院・学院長より
わが同期の桜より、近況のメールあり。以下に転載します。
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震災見舞いメールをありがとう。それほど大変でもなくなってきたので、返事します。
仙台市街地の揺れは1978年の地震よりやや大きかったが、さすがに耐震工事がほぼどこも出来ていて、建物倒壊はほとんどなく、死者けが人もわずか。ただ宮城学院でも天井板が落ち、書架・家具が倒れて研究室内はひどかった。
今回の深刻さは津波。‥‥
宮城学院でも大学生に死者が、今1人確認。学生生徒の対応はよくやっていると思う。‥‥
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震災見舞いメールをありがとう。それほど大変でもなくなってきたので、返事します。
仙台市街地の揺れは1978年の地震よりやや大きかったが、さすがに耐震工事がほぼどこも出来ていて、建物倒壊はほとんどなく、死者けが人もわずか。ただ宮城学院でも天井板が落ち、書架・家具が倒れて研究室内はひどかった。
今回の深刻さは津波。‥‥
宮城学院でも大学生に死者が、今1人確認。学生生徒の対応はよくやっていると思う。‥‥
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2010年11月29日月曜日
Virtual reality とはこんなもんか
0. 世の中にはよくわからないことがありますが、以下は、単純にして怠慢なアウトソーシングと copy & paste の結果をだれも確かめてなかった、というお粗末な始末記です。
1. Manchester workhouse 関連で、新しくアプロードされた史料か文献はあるかな、とインターネットを探した折に、信じがたい発見をしたのです。
何番目かのヒットに次のようなものがありました。
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Title: The Workhouse Issue at Manchester Selected Documents, 1729-35
Author: 近藤, 正治 Kondo, Shoji
Issue Date: 31-Mar-1987
Publisher: 名古屋大学文学部
Citation: 名古屋大学文学部研究論集史学. v.33, 1987, p.1-96
URI: http://hdl.handle.net/2237/9791
ISSN: 0469-4716
------------------------------------------------------------
おいおい、近藤正治さんよ、これはあなたではなくぼくの仕事だよ。あなたがどんな方か知らないが、名古屋大学文学部に所属したことはないだろうに。
そもそも、Nagoya Repository という、名古屋大学の紀要類をディジタル・アーカイヴにする企画の一部らしいが、
http://hdl.handle.net/2237/9791 をクリックしてみると、正しく『研究論集』でぼくが編纂した史料集が PDF で出てきます。PDFなので 最初のページの著者名は Kazuhiko Kondo のまま。 → だったら問題ないじゃないか、と言いたいところですが、そうではない。
2. そもそも著作権は著者=近藤和彦にあるはずだが、その仕事が、①本人の関知しないまま、②著者名が変えられて、③ヴァーチャル世界に登載されている、という問題です。
① じつは何年か前に、名大図書館から同じく『名古屋大学文学部研究論集』に載ったぼくの Town and county directories in England and Wales, 1677-1822 という article について名大リポジトリに掲載してよいかどうか、郵便で問い合わせが来ました。これに OK した覚えはあります。同時に、1985年のこの article だけについて問い合わせが来て、翌々87年の workhouse issue について来ないのはどうしてか。リポジトリの年度区切りとか、著作権25年といった考え方とか、ありうるのかと想像しましたが、それ以上は深く考えないままで打ち過ごしていたのです。
‥‥いずれ材料を補充しつつ、この第2版を制作しなくてはいけない、と考えていました。Workhouse issue は英米ではそれなりに引用・参照されている史料集なので [→ Handley 1990; Horner 2001; Innes 2005; Langford 1991; Speck 1999]。→ http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/Quoted.htm
3. 大学の知的資源の公共的アクセス・情報公開の推進といったことが数年前から話題になりました。大学の図書を市民に開放するとか‥‥。そもそも公共図書館の不備・未成熟をどうするかという問題と、官公庁の情報公開とが一緒になっての動きだと思われますが、しかし大学の人的資源はギリギリだという与件もあり、 じゃぁ SOLUTION はアウトソーシング、ということでにわか情報業者がもうかる構図です。
そうしたアウトソーシングの意味を全否定するつもりはありませんが、競争入札で、かつ新規業者を優先する方針でやった結果が、ここに出ています。
なにかの contingency の結果として、名大工学部の近藤正治先生の論文をPDF化した直後に、近藤和彦の番になって、そのままコピー&ペイストして「いっちょ上がり」だったのでしょう。
仕上がりを再確認するのはいったい同じオペレータか、職制か知りませんが、いずれにしても sine ira et studio、たんたんと作業を進めたのでしょう。
著作権許諾を問われた近藤正治先生の側も、多数のペーパーについて、PAが(?) たんたんと「承諾」という返事を繰りかえしたに違いない。
4. 上の3に書いたのは、憶測 a plausible conjecture に過ぎませんが、これに随伴して
②近藤和彦の仕事として検索した場合にはヒットせず、
③しかし、本人の知らぬまにインターネットの世界では利用が繰りかえされてきた、
という問題があります。英米の歴史研究者で Kondo Shoji という名は知られていないでしょう。 Google などで検索・ヒットしてもパスする(内容を見ない)、というケースがほとんどだったでしょう。
そもそも本人の研究計画のなかで The workhouse issue at Manchester: selected documents は緊急性の低い課題だったのでよかったとは言えますが、もし緊要な仕事だったらどうするのでしょう。損害賠償の訴訟‥‥といったこともありえますよ。
これを書くためにまさか、と思いながら検索したら
長谷川 博隆 の読みが Hasegawa, Kazuhiko
となっています!(Ciceroの法廷弁論にあらわれるcolonus と clientela)
ふざけるな、と言いたい。リポジトリを構築する図書館の担当者さん、委託された業者さん、どうぞ堅実に仕事してください。
【上の Workhouse Issue at Manchester の author にかぎって、名大図書館はすでに修正してくださいました。12月3日追記】
1. Manchester workhouse 関連で、新しくアプロードされた史料か文献はあるかな、とインターネットを探した折に、信じがたい発見をしたのです。
何番目かのヒットに次のようなものがありました。
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Title: The Workhouse Issue at Manchester Selected Documents, 1729-35
Author: 近藤, 正治 Kondo, Shoji
Issue Date: 31-Mar-1987
Publisher: 名古屋大学文学部
Citation: 名古屋大学文学部研究論集史学. v.33, 1987, p.1-96
URI: http://hdl.handle.net/2237/9791
ISSN: 0469-4716
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おいおい、近藤正治さんよ、これはあなたではなくぼくの仕事だよ。あなたがどんな方か知らないが、名古屋大学文学部に所属したことはないだろうに。
そもそも、Nagoya Repository という、名古屋大学の紀要類をディジタル・アーカイヴにする企画の一部らしいが、
http://hdl.handle.net/2237/9791 をクリックしてみると、正しく『研究論集』でぼくが編纂した史料集が PDF で出てきます。PDFなので 最初のページの著者名は Kazuhiko Kondo のまま。 → だったら問題ないじゃないか、と言いたいところですが、そうではない。
2. そもそも著作権は著者=近藤和彦にあるはずだが、その仕事が、①本人の関知しないまま、②著者名が変えられて、③ヴァーチャル世界に登載されている、という問題です。
① じつは何年か前に、名大図書館から同じく『名古屋大学文学部研究論集』に載ったぼくの Town and county directories in England and Wales, 1677-1822 という article について名大リポジトリに掲載してよいかどうか、郵便で問い合わせが来ました。これに OK した覚えはあります。同時に、1985年のこの article だけについて問い合わせが来て、翌々87年の workhouse issue について来ないのはどうしてか。リポジトリの年度区切りとか、著作権25年といった考え方とか、ありうるのかと想像しましたが、それ以上は深く考えないままで打ち過ごしていたのです。
‥‥いずれ材料を補充しつつ、この第2版を制作しなくてはいけない、と考えていました。Workhouse issue は英米ではそれなりに引用・参照されている史料集なので [→ Handley 1990; Horner 2001; Innes 2005; Langford 1991; Speck 1999]。→ http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/Quoted.htm
3. 大学の知的資源の公共的アクセス・情報公開の推進といったことが数年前から話題になりました。大学の図書を市民に開放するとか‥‥。そもそも公共図書館の不備・未成熟をどうするかという問題と、官公庁の情報公開とが一緒になっての動きだと思われますが、しかし大学の人的資源はギリギリだという与件もあり、 じゃぁ SOLUTION はアウトソーシング、ということでにわか情報業者がもうかる構図です。
そうしたアウトソーシングの意味を全否定するつもりはありませんが、競争入札で、かつ新規業者を優先する方針でやった結果が、ここに出ています。
なにかの contingency の結果として、名大工学部の近藤正治先生の論文をPDF化した直後に、近藤和彦の番になって、そのままコピー&ペイストして「いっちょ上がり」だったのでしょう。
仕上がりを再確認するのはいったい同じオペレータか、職制か知りませんが、いずれにしても sine ira et studio、たんたんと作業を進めたのでしょう。
著作権許諾を問われた近藤正治先生の側も、多数のペーパーについて、PAが(?) たんたんと「承諾」という返事を繰りかえしたに違いない。
4. 上の3に書いたのは、憶測 a plausible conjecture に過ぎませんが、これに随伴して
②近藤和彦の仕事として検索した場合にはヒットせず、
③しかし、本人の知らぬまにインターネットの世界では利用が繰りかえされてきた、
という問題があります。英米の歴史研究者で Kondo Shoji という名は知られていないでしょう。 Google などで検索・ヒットしてもパスする(内容を見ない)、というケースがほとんどだったでしょう。
そもそも本人の研究計画のなかで The workhouse issue at Manchester: selected documents は緊急性の低い課題だったのでよかったとは言えますが、もし緊要な仕事だったらどうするのでしょう。損害賠償の訴訟‥‥といったこともありえますよ。
これを書くためにまさか、と思いながら検索したら
長谷川 博隆 の読みが Hasegawa, Kazuhiko
となっています!(Ciceroの法廷弁論にあらわれるcolonus と clientela)
ふざけるな、と言いたい。リポジトリを構築する図書館の担当者さん、委託された業者さん、どうぞ堅実に仕事してください。
【上の Workhouse Issue at Manchester の author にかぎって、名大図書館はすでに修正してくださいました。12月3日追記】
2010年8月10日火曜日
その4:shore
【写真はクリックすると拡大します】 こちらはエセクス州の海岸線にある Mersea という、満潮時には島となり、干潮時にはブリテン島と連結する地区。これでも2つの教区からなり、かつてはデーン人(ヴァイキング)の定住地となったよし。
今では余裕のある引退世代の安住の地でもありますが、また写真のようなヨット係留港でもある。干満の差が激しくて干潮時には、こんな具合です。ローマのカエサルが侵攻した折にはさぞや難儀したことでしょう。
英語の問題として shore とはただの海岸ではなく、高潮線と低潮線の間の土地を言うんだそうですね。coast とも beach ともすこしちがう、法律用語でもあるとのこと。
なおまた、この辺の河川はテムズもふくめて tidal river です。日本では隅田川、淀川の河口近くではたしかに潮の影響で水位が上下することはあっても、航行に影響するほどではないでしょう。テムズ川の河口から50キロ遡ったロンドンでも潮の干満によって shore が隠れたり露出したりするのは、日本的な感覚からすると驚くべき事実です。こちらのペン画は Canaletto.

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