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2022年4月17日日曜日

見田宗介さん 1937-2022

 駒場で見田さんの授業は1度だけ出てみました。評判どおりのおもしろい/おもしろすぎる授業。世間の流行をよく知り、シャープに分析して、息もつかせない。うわ面の評論でなく、該博な学識がベースにあることは、一般学生にも十分に想像できました。1966-7年ですから、まだ cultural studies とかいう言葉もなく、Stuart Hall といった名は知られてなかった(と思う)けれど、すでに見田さんはそうした構えと方法を自家薬籠中のものとされていた。Raymond Williams は早くから知られていましたが。
 わかくカッコいい先生で、1937年生まれということだから、あの授業の時は、29歳の専任講師だったわけです! この朝日新聞の写真は2009年撮影とのことですが[本当でしょうか]、あのころの見田さんの雰囲気が十分に残っています。

 しかしぼくがとった社会学の授業は、折原浩先生。1935年生まれで、66年度=ぼくが1年のときは専任講師から助教授になったばかり。(もしや2歳下の見田さんの人気に煽られて?)講義中に 「ひょっこりひょうたん島」を分析して見せたり、ということもないではなかったが、基本は、マルクス、デュルケーム、ヴェーバー、オルテガ・ガセット、そしてアーノルド・トインビーといった社会科学の基本文献を紹介し、東大の1年生に必要な学知を授けるものでした。とりわけマルクスとヴェーバーについては岩波文庫を持参させて該当ぺージを指示しながら読んでゆくといった丁寧な講義で、定員800人の「2番大教室」を一杯にしての授業。1列目・2列目くらいの座席は早々と席取りのコートや鞄が置いてあった。後方の座席では双眼鏡を使う学生が何人もいた。1列目では常に首を上に向けていなくてはならず辛いので、ぼくは前から6~10列目くらいに座して、一言ももらさじと構えました(コンサート会場と同じ!)。
 社会調査の分野については、松島先生が分担していたようです。想えば、東大社会学の黄金時代の始まりだったのかな。
 いざ2年生、進学振り分けの季節には、さんざ迷ったあげく、社会学はあきらめました。理由としては、
1) 見田さん的なカッコいい学問は、ぼくのタイプではないと考えた、というよりは
2) 社会学に進学する学生たちに、ぼくは伍して行けるだろうか、という不安
3) 案外、西洋中世史(堀米先生)もおもしろそう。ヴェーバー、そして大塚久雄を読んでいることが生きてくることは確実、という判断がありました。
 その後(1970年代から)、見田さんは、次々に刊行される本の著者名として、見田宗介と真木悠介と二つを使い分けておられて、当時から説明はあったのですが、結局のところ、何故二本立てなのか、よく分からなかった。父君、見田石介との確執、といったことは風聞で耳にしましたが。
 1980年代の『朝日新聞』文化欄なぞ、ほとんど見田宗介と高橋康也(英文)と山口昌男(文化人類学)に席巻されていました。 → 『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社、1987)。ケインブリッジから帰国したばかりのぼくも名古屋の自由な雰囲気のなかで、シャリヴァリ・文化・ホーガースを初めとして、社会文化史に首まで漬かった日々でした。

 その後、ずいぶんたった2019年、ある方から見田宗介自身の才能についての自負、メキシコ行きの経緯、などを聞いて、そういうことだったのかと驚き、合点がいったことでした。

2021年6月11日金曜日

集団接種に参りました

暑い6月の金曜午後でしたが、江東区の公共施設でのワクチン集団接種に行って参りました。

5月17日から予約期間が始まり、区の通知で「ワクチンの安定的な供給が見込まれたことから」65歳以上の集団接種は「最大予約可能人数46,400人分」と明記されていたので、慌てることなく5月18日にPCに向かい、拍子抜けするくらい簡単に予約できました。ただちに自動的に確認メールも来たので、実際の接種まで3週間あまり待ちましたが、安心していました。前日にはリマインド・メールも到来。
これに続き区内医療機関での「個別接種」が始まり、さらにマスコミは政府の大規模接種センター(大手町・自衛隊)による接種を大きく報じました。選択肢が増えたこと自体はよいことですが、これで「浮気して」or「浮き足だって」大規模センターに押しかけ、地域自治体の接種予約をネグレクトする人々の気が知れないと思っています。最近の報道だと、その大規模接種センターがガラガラだというのも問題ですね。早く65歳未満にも接種対象を広げるべきです。

江東区は広いので、集団接種会場は区のスポーツセンター6カ所。接種時間は予約の段階で15分ごとに別けられていますが、到着した人は検温のあと全員屋内の待機室に案内されて、予約時刻が1時間以内の人から奥のホール(アリーナ)へ。老人たちは1時間以上前からやってきたりするので、そのための待機室だったわけです。
ざっと見たところ(撮影は禁止でした!)広いホールでは、15分枠ごとに15人が座って(1人1分という計算)順を待つように椅子が整然とならび、4列×15=60席ではなく、余裕をみて6列用意されていました。うち2列は全空席として、次に受付する該当列とそうでない列とを視覚的にはっきり区別しつつ、同時に席のアルコール消毒や忘れ物確認などをゆっくり施すという方針のようです。
会場には「事務」「責任者」「看護師」といったゼッケンをつけた係員がたくさん。
 (郵送された)「接種券」「予診票
  そして本人確認書類
の計3点の必須アイテムを携行しているかどうかは、最初の入館時から、くりかえし再確認されました。実際は順に
受付」(であらためて本人確認と予診票記載の遺漏がないかどうか形式的に確認)
→ 「予診」(予診票をみながら医師が問診) *
→ 「接種」(別の医師と言葉を交わしつつ) *
→ 接種後の経過観察(15分~30分)
→ 「最終受付」(体調確認と接種券の済証へのシール貼りなど)
と進みました。(2回目の接種予約は1回目に済ませています。)
【* この2つのプロセスのみ個室的に囲ったブースで、他はオープンな空間でした。】

ここまでの人のフローをいかに確実に間違いなく実現するか。これが枢要で、要するに Operations Research (大学一年・林周二先生の授業でやりました)をきちんと具体的に・集団的にやっているかどうかで運用は決まり、ときに報道されているような事故・混乱は防げるはずですね。
なお大学や事業所で集団接種をするというのは、たいへん良いことだと思います。社会的免疫状態(collective immunity)という観点から考えると、なによりも公共的な業務に従事している人、活動的に飛び回っている人からドンドン接種していただくべきでしょう。横並びの順番、平等主義がじつはあまり合理的でない無責任主義だったかもしれない、と再考しておく必要があります。

2019年3月1日金曜日

折原浩先生と大庭健さん


 折原浩先生は、亥年でぼくの一回り上ですが、これまで特定の若い人の名を挙げてどんなに交友を楽しんだかを公言することは控えておられたと思われます。
 今回、個人ホームぺージで、
「1967-68年当時、東大教養学部の一般教育ゼミ「マックス・ヴェーバー宗教社会学講読」に参加していた駒場生で、拙著155ページで触れた五人」
のうち、亡くなった八林秀一舩橋晴俊、そしてとりわけ大庭健を悼む文章が公開されました。
→ http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/tenkai2.htm
「5人のゼミ生のうち、残るは2人となってしまいました」と言われるその2人とは、八木紀一郎とぼくのことですが、彼とぼくが暮から新年にかけて期せずして折原先生に長い私信を送って、それをきっかけに、この長い、細部まで分析的な文章(A4に印刷して6枚!)をしたためてくださったのです。5人についてそれぞれ温かい思いが刻印されていますが、なかでも「大庭節」への懐かしさと哀悼は感動的です。
 11歳年長の折原先生に愛され信頼された大庭さん。当然ながら、1年下のぼくに対する影響も決定的で、- こんなことを言うと生意気そのものですが - 駒場の折原ゼミで鍛えられ、大庭(→ 倫理学)、八木(→ 社会学)と同じ空気を呼吸したぼくは、本郷の西洋史に進学して「不安」は全然感じなかった。本郷の先生方や先輩たちを侮っていたのではありません。むしろその学知を100%学習し吸収する用意(基盤)が既にできていると自覚できたのです。
 昨年にもしたためましたとおり、大庭さんを慕う後輩は多く、(そのケツをまくった口吻にもかかわらず)たしかな学識と誠実さはただちに感得されました。編集者たちにも、そのことはすぐに分かったでしょう。
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2018/10/19462018.html
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2018/11/blog-post_24.html

 なおぼくの場合、折原先生と同じ猪鼻台の千葉大教育学部付属中学に通った(校長は同じ飯田朝先生=憲法学)というのは、かなり恵まれた「初期条件」でした。ぼくの親は地域ブルジョワでも教育界でも転勤族でもなく、また受験界にも無知で、ただ小学校6年の後半(初冬?)に担任に勧められて、子どもの受験手続きをしてみたに過ぎませんが。

2019年1月4日金曜日

亥年のご挨拶

 新しい年をいかがお迎えでしょうか。
 亥年、年男です。昨年に大学勤めをおえて、年金生活者となりました。時間はたっぷりあるかと思いきや、あれこれと心が動かされ、考えていたよりずっと落ち着かない毎日です。「感極まる」ということが増えました。

 小冊『近世ヨーロッパ』を仕上げたうえで、年末には都市史学会で北九州・小倉に参りました。駅前から商店街、紫川、城の周り、松本清張記念館、そして西日本工業大学と連結した「リバーウォーク」という複合施設あたりしか歩いていませんが、それにしても活気があります。市内にたつ鴎外碑や、記念館の清張旧居などを見ながら、この二人、全然異質な才人だが、多作だという点では共通する、その生を想い、自らの微力を恥じました。

 また年の瀬にかけて「東大闘争50年」をうたう出版が続きました。ぼくが手にしてこの半年間に読んだ新刊書は、
小杉亮子『東大闘争の語り 社会運動の予示と戦略(新曜社、2018)
和田英二『東大闘争 50年目のメモランダム(ウェイツ、2018)
折原浩『東大闘争総括 戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』(未来社、2018)
ですが、既刊の
山本義隆『私の1960年代』(金曜日、2015)
渡辺眸『東大全共闘 1968-1969』(新潮社、2007 → 角川ソフィア文庫、2018)
も含めて、歴史と語りに想いを致しています。
 折原さんの『東大闘争総括』p.155 で、ぼくは大庭、舩橋、八木、八林といった人たち(50音順。当時、4年、3年、2年でした)とともに「実存主義社会派 ・・・ 勉強家にして論客」として名が挙がっています。フルネームは5名だけですが、じつはあと何名もいました。関連して所感を『みすず』1-2月号にちょっと書きました。なお渡辺眸さんの写真集については、和田に指摘されるまで気付かなかったけれど、カメラマンが近接して撮影した場面も想い出しました。

 68年は世界的な現象だったというので、イタリアの逸品ワインCinquanta(五十年)をいただきました。そこにイタリア語と併記されている英語の説明には
May . . . celebrate their hope, their bravery, their intelligence.
とあります。ただし、この their とはワインを作った人々のことのようです。
 希望、勇気、知性。あらまほしきことなり、ですね。

2018年10月23日火曜日

大庭 健さん、1946-2018

 厳しい夏のあとには悲報、と覚悟はしていましたが、このたびは大庭健さんの死を専修大学の関係者から知らされ、落胆しています。
そもそもの始めは、1967年、駒場2年生の春から折原先生のウェーバーゼミでした。1年生の「社会学」(数百人の大教室が一杯になる講義)でマルクス、ウェーバー、デュルケームの手ほどきを受けたあと、2年の4月には秀才たちの多い折原ゼミに編入してもらって(授業科目としてはなんという題だったのか)、とにかくウェーバー『経済と社会』のなかの「宗教社会学」を英訳で読みつつ、あらゆることを討論する集いでした。68年、3年生の夏まで、ぼくの毎週の生活の頂点でした。大庭さんは1学年上ですが留年中で、ウェーバーの読み方から、詳細な報告レジュメの切り方(ガリ版です!)、討論の仕方にいたるまで、手本として教えられました。関連して、当然ながら『宗教社会学論集』も読む必要がありましたし、なにを隠そう、「大塚久雄という Weber学者は、昔は西洋経済史なんてことを研究していたらしい」といった知識もここで得たのです。

 今のぼくは西洋史の研究者ということになっていますが、英語やドイツ語の読みかた、学問の基礎・本質のようなものは、この駒場における折原ゼミと大庭さんによって学び鍛えられたのです。1968年夏にはウェーバーの『古代ユダヤ教』を野尻湖や駒場の杉山好先生の部屋で一緒に読んだりしました。内田芳明というドイツ語に問題のある方のみすず書房訳が出ましたが、これの不適訳、理解不足などを指摘して喜ぶ、といった倒錯した喜びも覚えました。トレルチの内田訳『ルネサンスと宗教改革』(岩波文庫)はすでに出ていたかな。こちらのプロテスタント史観は60年代の日本の進歩主義的学問には適合していたかもしれません。ウェーバーがそれよりはスケールの大きな問題意識をもった人だということくらい、すぐに分かりました。

 大庭さんはいろいろ考えたうえで本郷の倫理学に進学なさいましたが、西洋史の大学院で成瀬先生がハーバマスを読むと聞くと、これに出席して、しかし「西洋史のゼミって静かだね」という言葉とともに出てこなくなった! その後も広く人倫・社会哲学にかかわる積極的な発言を続けておられました。最後に直接にお話したのは、2007年、図書館長としてのご多忙中、専修大学で「人文学の現在」といった企画を考えておられ、お手伝いをしました。その折には連絡メールのやりとりのなかで、「相変わらずのスモーカーなので、たいした風邪でもないのですが、長引きます」といった発言があり、気になりました。その後も毎年、写真入りのお年賀状を頂いていましたが、今年はその写真がなく「リタイア生活は病院ではじまりました」という一句に心配しておりました。
 たくさんの本を出版して、倫理学会会長もつとめ、ぼくが存じ上げているだけでも「大庭兄」に私淑しているという方はいろいろな方面で何人もいらっしゃいます。やり残したお仕事、心残りもあったでしょう。しかし、知的な影響力という点では実り豊かな人生だったのではないでしょうか。別の分野に進みましたが、ぼくもそうした「弟分」の一人なのです。
11月23日に葬儀告別式とのことで、これに馳せ参じます。

2018年7月31日火曜日

東大闘争の語り

災害と猛暑が交替で襲来します。お変わりありませんか。
小杉亮子『東大闘争の語り-社会運動の予示と戦略』(新曜社)が出たことを、塩川伸明さんから知らされ、購入しました。

読んでみると、pp.38-39に聞き取り対象者44名の一覧が(許諾した場合は)本名とともにあり、最首助手、長崎浩助手、石田雄助教授、折原浩助教授、から大学院の長谷川宏さん、匿名の学部生がたくさん、そして当時仏文だった鈴木貞美にいたるまで挙がっています。匿名ではあれ、話の内容(と学部学年)からダレとわかる場合も。ふつうは東大闘争の抑圧勢力として省かれる共産党(当時は「代々木」とか「民」とか呼んでいた)関係の証言もあり、叙述に厚みがあります。何月何日ということを極めつつ歴史を再構成して行くのも好感がもてます。45年~50年前の集団的経験について、インタヴューに答えつつどう語るか。当事者の証言を史料としてどう扱うか、方法的にも価値があると思われます。

ただし、方法的に社会学であることに文句はないが、当時の東大社会学関係者の証言が偏重されています。いくらなんでも東大闘争の関係者として、和田春樹さんや北原敦さん(そして塩川伸明さん)を含めて、歴史学関係者の証言がゼロというのは、どうかと思います。
(『文学部八日間団交の記録』を録音からおこして編集した史料編纂者はぼくですし‥‥)文学部ストライキ実行委員会の委員長は西洋史のK(Kは69年に全学連委員長になってしまったので、下記のFFに交替)、学生会議を仕切っていたのは仏文のF、あまり知的でなく行動派のSも西洋史でした(このイニシャルは本書のなかの証言者の記号とはまったく別)。東洋史院生の桜井由躬雄さんは亡くなってしまったので、ここに登場しないのは仕方ないとしても。69年1月10・11・12日に安田講堂や法文2号館に泊まり込んでいた西洋史の学生で後に重要な学者になった人は何人もいる。
哲学の長谷川さんの言として、「白熱した議論を哲学科と東洋史と仏文はやってて‥‥」(p.259)、また学部3年のFのことを紹介しつつ社会学科ではノンセクトの学生が活発に活動しており(p.262)といった一面的な語りは、大事ななにかが抜けていませんか? と問いただしたくなる。本書全体の導き手のような福岡安則の好みによるのだろうか。
そうした偏りはあるとしても、これまでの類書に比べると、相対的に信頼できる出版です。いろいろとクロノロジーの再確認を促されます。
社会学だと運動が予示的(≒ユートピア的)か、戦略的かという問題になるのかもしれません。しかし、『バブーフの陰謀』(1968年1月刊!)とグラムシを読んでいた歴史学(西洋史)の者にとって、「ジャコバン主義とサンキュロット運動」という枠組、そしてカードル(中堅幹部)の決定的な役割、といったことの妥当性を追体験するような2年間でした。

なお69年12月に文スト実のFFが呼びかけて(代々木の破壊工作を避けて)検見川で集会をもち、議論のあげくに「ストライキ解除」決議をとった。これは敗北を確認し、ケジメをつけて前を見る、という点で、たいへん賢明な決断でした。その後のFFは立派な学者になっていますが、先には70歳を記念して、ご自分の卒業論文をそのまま自費出版なさった。尊敬に値する人です。

2017年5月13日土曜日

岩波文庫「青春の三冊」

(承前 5月9日)
 ちなみに、might-have-been (未練記事)ですが、当初ぼくが岩波文庫の「青春の三冊」として考えてみたのは、次の3つでした。

¶トーマス・マン『トニオ・クレエゲル』
 走る馬の連続写真、金髪のインゲ‥‥。高1の少年にはこちらのほうが『若きヴェルテル』よりも分かりやすかった。新潮、角川など他の訳もありましたが、岩波文庫のタイトル表記に惹かれました。

¶夏目漱石『三四郎』
 名古屋駅で一緒に降りた女性と同室に泊まり、翌朝「度胸のない方ですね」と言われて「両方の耳がほてり出した」三四郎と同レベルの、うぶなストレイシープ。巻末にいたっても三四郎は、「舌が上顎へひっついてしまった」という。なんという青春・恋愛小説家なんだ、漱石は。
 高校生のぼくは本郷の「御殿下運動場」や「三四郎池」に立って「現場追体験」(?)してみましたが、いま読み直すと、美禰子さん、よし子さんの両タイプ、書かない先生=「偉大なる暗闇」論もあって、現代的です。

¶マルクス『経済学・哲学草稿』
 これは東大駒場1年生の衝撃。訳者 城塚登先生の講義「社会思想史」でも、折原浩先生の講義「社会学」でもテキストに指定されて、大教室の何百人の受講生が熱気に引きずり込まれました。まだ木造2階建てのギシギシいう1階にあった生協書籍部に、朝、胸の高さまで山積みされた『ケーテツ・ソーコー』が夕方には残部わずか、という日が繰りかえされる時代でした。城塚先生のかっこよさに惹かれて、本郷で開講されたヘーゲル『精神現象学』の授業にも出ました。

 . . . という具合ですが、あまり懐古的では面白くないし、こうした青春の古典は、きっと他のだれでも挙げるだろうと考えて、止めにしたのです。

2011年12月15日木曜日

『教養学部報』12月7日

目ざとい読者は、もうとっくに読んでいるでしょう。ぼくが学生のころから同じスタイルで刊行されています。
→ http://www.c.u-tokyo.ac.jp/gakunai/gakubuhou/
 543号は、なんと1947年度生まれ、たいていは1966・67年に大学入学の方々の定年退職の弁が並んでいます。しかも、7人のうち4名 - 黒田玲子さん、池田信雄さん、本村凌二さん、山内昌之さん - は個人的なお付き合いのあった方々です。
 感慨深い、と言わずしてなんと言おう。

 黒田さんは、ぼくがお話ししたことのあるひとの、世界で一番か二番に美しく聡明な方。(もう一人の二番か一番の方は、ケインブリッジで James Raven に引き合わされたネパール人とイギリス人の間に生まれた女性で、その穏やかなお話に感銘しました。とはいえこちらの方はたった一度会ったきり、再会をはたしてない!)黒田さんには、新地球学の例会で会えるのをいつも楽しみにしていますが、ただしお忙しくなさっているので、毎回というのは無理。残念。

 池田さんは、名古屋大学でご一緒しました。しかも大学の幸川町宿舎でご近所どうし、子どもも同じ小学校、というので家族まみれのお付き合いでした。前後してそれぞれ東大に移ったのに、こちらではなかなか同道できませんね。

 本村さんは、本郷の大学院以来ですから機会は少なくなかったはずなのに、専門の違いということもあって、あまり深い付き合いとはならなかったね。

 山内さんは、最初のうちはぼくのほうで失礼が続いてしまいました。ようやく近年ご一緒して、いい感じになってきたところ。

 というわけで、皆さん、じつは同い年なのでした。
 これからあと何十年の付き合いになるのでしょう。これまでにも増して、お元気で!

2011年3月17日木曜日

平成22年度学位記授与式・卒業式について

残念な決定ですが、全教員あての通知を以下に引用します。

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平成22年度学位記授与式・卒業式について、本日17日(木)午後に本学HP
に濱田総長から発表がありました。

URLは次のとおりです。http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/h15_07_j.html

これを受けて、誠に残念ですが、平成22年度の本研究科・学部における学位
記伝達式等は自粛することにいたしました。今後の対応どうかよろしくお願い
いたします。

修了生・卒業生に対する学位記の受け渡し、及び修了証明書・卒業証明書の発
行については、別添のとおり本研究科・学部HPに掲載します。
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2011年1月27日木曜日

『創文』と相川さん


 旧臘のことですが、創文社の月刊誌『創文』が終刊。いろいろなことを考えてしまいました。
http://www.sobunsha.co.jp/pr.html
 相川養三さんが『創文』の編集責任者になられたのはいつだったのでしょう。80年代から何度も「おみやげ」の本とともに訪問をうけ、執筆も依頼されていました。それというのも、紹介してくださったのは二宮さんで、ルフェーヴルの『革命的群衆』を美しい装丁で出版なさった直後。「本はきれいだけれど、高くて学生には買えないよ」などと勝手なことを口にしました。ゾッキ本ではなく、洗練された造本に値する内容の本を作りつづけて、何十年でしょう。

 そもそもぼくが学生として創文社という出版社を意識したのは、マックス・ヴェーバー〈経済と社会〉シリーズの翻訳、なかんづく世良晃志郎訳『支配の社会学』上下あたりが最初でしたか。高いかもしれないが、これだけ丁寧な訳注をつけてくれるのだから文句は言えない‥‥。まだ駒場の学生として、西洋中世・近世史、そして世界史の基礎知識はもっぱらこのウェーバー翻訳シリーズによって学びました。本郷に進学してからも役にたちました、ヴェーバーをちゃんと読んでる西洋史の学生なんてほとんどいなかったので。
 本郷に赴任してからは、ぼく自身が繁忙で『創文』への小文の寄稿、そしていただく本の書評はかなわなかったので、青木さん西川さんなどに手助けしてもらいました。John Brewer, Sinews of power の日本での最初の紹介は、青木さんによる『創文』だったんですよ。
『史学雑誌』や『思想』みたいに重くない、軽快な知的雑誌としての魅力はつづいて、そろそろぼく自身もなにか書かせてもらえるだろうか、などとぼんやり考えていたところ、昨秋に相川さんから留守電。
 以心伝心、とうれしい気持でようやくお話ししたら、なんとご病気で、年末に退職する、これまでの愛顧に感謝‥‥とのことで、絶句しました。
 相川さんの居ない『創文』はないので、終刊。なんとも明快で、かなしい結末です。

2009年8月7日金曜日

並木頼寿さん

 並木さんが病気を克服して復帰され(前よりも丸い顔で)にこにこと仕事をこなしておられるのを間近に見ていましたので、亡くなるなんて想像もしていませんでした。駒場と本郷と職場は違っても、ご一緒する機会は少なくなかったのです。
 九州に行っていて、知るのが遅れました。
 ご冥福を祈ります。