みなさんは、服部春彦『フランス革命と絵画 イギリスへ流出したコレクション』(昭和堂、今年2月刊)を見ましたか? 先に『文化財の併合 フランス革命とナポレオン』(知泉書館、2015)がありました。これに続く、フランス革命・ナポレオン・美術品の移動というテーマだな、と軽い気持で読みはじめて、驚嘆しました。
明快な問題設定のもと、研究史と(回顧録や売立てカタログ‥‥からイギリス政治史のオーソドックスな史料 Hansard 議会議事録にいたる!)多様な史料を渉猟し分析した、374ぺージの研究書です! 今回はフランス史というより、イギリスの美術品取引史です。フランス革命期に大量の絵画が、フランス・ネーデルラント・イタリア各地から大量にイギリスへ移動したプロセス ~ 1824年、ロンドンに国立美術館(National Gallery)が設立されるまでの、オークションから私的契約売買まで、美術品取引の実際が具体的に解明され、迫力があります。
イギリス史をやっている者にとって、18世紀前半のホウィグ体制において枢軸をなしたウォルポール家(Houghton Hall)とタウンゼンド家(あの農業改良の Turnip Townshend)の今日にいたるまでの家運の転変はおもしろいものです。両家は同じノーフォーク州でほとんど隣接した大所領をもって、たがいに交際していました。しかし世紀後半の代になるとHorace Walpole は放漫な家政で、結局、せっかくのコレクションをロシアのエカチェリーナに売却するしかなかったばかりか、19世紀にはロスチャイルド家と縁組みし、今日も観光客を迎えて入場料を取り、一般向けのイヴェントをくりかえして所領を維持しています。他方のタウンゼンド家は代々、堅実な農業経営のおかげで、今も一般客を入れることなく所領を維持しています。
1770年代にあの急進主義の風雲児 ジョン・ウィルクスが、そのウォルポールの Houghton collectionを国内に留めるための議会演説を行ったこと( → その効なくロシア宮廷に売却)から始まり、ナショナルな絵画館の設立運動をめぐるLinda Colley 説の批判、そして1824年にようやく National Gallery 創立、38年の新館開館にいたる政治社会史には、感服しました。脱帽です。
たしかノーリッジのEdward Rigby(1747-1821)の娘 Elizabethは Charles Eastlakeとかいう NGの初代館長に嫁したのではなかったかな? この時代のチャリティ、農業改良、医療をはじめとする公共プロジェクト、そして大陸旅行記が父・娘ともにありますね。NG の1824年設立/38年の新館までで本書は終わりますが、それにしても、多くの登場人物、そして
「公衆(the public)なる語にどのような意味がこめられていたか」p.335
といった議論に刺激されます。服部春彦さんによるイギリス近代史の研究書です!
1934年4月生まれの服部さんは、遅塚、二宮、柴田(この順)と同じころパリに留学していた方ですが、名古屋大学西洋史におけるぼくの先任助教授でした。こういう方が元気でしなやかに生産的でいらっしゃるので、こちとらも呆けることはできません。
2025年2月4日火曜日
2020年8月2日日曜日
さみだれを集めて‥‥
先週のことですが、NHKニュースで河川工学の先生が
「さみだれを集めて早し 最上川」
と朗じて、このさみだれとは梅雨の長雨のことで、流域が広く、盆地と狭い急流のくりかえす最上川は増水して怖いくらいの勢いで流れているんですね‥‥と解説しているのを聞いて、忘れていた高校の古文の教材を想い出しました。
さみだれを集めて早し 最上川 (芭蕉、c.1689年)
さみだれや 大河を前に家二軒 (蕪村、c.1744年)
明治になってこの二句を比べ論じた正岡子規の説のとおり、芭蕉の句には動と静のバランスを描いて落ち着いた絵が見える。しかし、蕪村の句は、増水した大河に飲み込まれそうな陋屋2軒に注目したことによって、危機的な迫力が生じる。蕪村に分がある、というのでした。
しかしですよ、子規先生!
第1に、そもそも蕪村は尊敬する芭蕉の歩いた道を数十年後にたどり歩き、芭蕉の句を想いながら自分の句を詠んだわけで、後から来た者としての優位性があって当然です。ないなら、凡庸ということ。
第2に、句人・詩人なら、完成した句だけでなく、
「さみだれを集めて涼し 最上川」
とするかどうか迷い再考した芭蕉の、そのプロセスにこそ興味関心をひかれるでしょう。蕪村はそうしたことも反芻しながらおくの細道を再訪し、自らを教育し直したわけです。
さらに言えば、第3に正岡子規(1867-1902)もまた近代日本の文芸のありかを求めて先人芭蕉、蕪村、明治のマスコミ、漱石との交遊、‥‥を通じて自らの行く道を探し求めていたのでしょう。そのなかでの蕪村の再発見だとすると、高校古文での模範解答は、論じる主体なしの芭蕉・蕪村比較論にとどまって、高校生にとっては「はぁそうですか」程度の、リアリティに乏しいものでした。教える教員の力量ももろに出ちゃったかな。
たとえれば、ハイドンの交響曲とベートーヴェンの交響曲を比べて、ベートーヴェンのほうがダイナミックに古典派を完成しているだけでなく、ロマン派の宇宙をすでに築きはじめていると言うのは、客観的かもしれないが、おこがましい。ハイドンが楽員たちと愉快に試みつつ完成した形式を踏襲しながら、前衛音楽家として実験を重ねるベートーヴェン。啓蒙の時代を完成したハイドンにたいして敬意は失うことなく、しかし十分な自負心をもって新しい時代を切り開いてゆく。(John Eliot Gardiner なら)révolutionnaire et romantique ですね。
両者を論評しつつ自らの道を追求したシューマン(1810-56)が、上の子規にあたるのかな。優劣を評定するだけの進化論や、それぞれにそれぞれの価値を認めるといった相対主義ではつまらない。自らの営為と関係してはじめて比較研究(先行研究)は意味をもつ、と言いたい。
2020年7月30日木曜日
Pandemic
お変わりありませんか。パンデミックの脅威はなおこれからという勢いです。
1918年に合衆国から始まったインフルエンザ(スペイン感冒)について歴史人口学の速水融さんの『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店、2006)が有名です。去年3月にブダペシュトの博物館で印象的だったのは、第一次世界大戦とのかかわりで一室ぐるっと具体的にこの Spanish Flu の脅威が展示されていることでした。(ウィーンにおける)ヴェーバー、クリムト、シーレ、(パリの)アポリネールなど、‥‥そしてぼくの知らない多くの名が列挙されていて、そうだったんだ、と認識をあらたにしました。パンデミックへの先見の明というわけではなく、むしろ第一次大戦(the Great War)への問題意識の強さの証だったのでしょう。
これらとは別に、今春になってから美術史的な観点で執筆された、この記事
→ https://news.artnet.com/art-world/spanish-flu-art-1836843
はムンク(罹患したときの自画像、ただし1944年まで生き延びた)、たった28歳で逝ってしまったシーレ、そして55歳にして基礎疾患の塊みたいなクリムトの、それぞれの自画像を大きくとりあげて、一見の価値があります。もしまだなら、どうぞ。
ぼくたちに近い知識人たちでいえば、辰野金吾が64歳で1919年3月の第二波で、マクス・ヴェーバーが56歳で1920年6月の第三波で急逝したという事実があり、厳粛な気持になります。それぞれ人生の盛りともいうべき時に、無念の死だったでしょう。
とはいえ、こうした人たちと違ってずっと無名のまま生き死んだ何千万の犠牲者たち‥‥は、戦争でなくパンデミックで亡くなった「無名戦士」たちでした。現今の Covid-19 と違って、若年層も容赦なく重症化するのでした。
1918年に合衆国から始まったインフルエンザ(スペイン感冒)について歴史人口学の速水融さんの『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店、2006)が有名です。去年3月にブダペシュトの博物館で印象的だったのは、第一次世界大戦とのかかわりで一室ぐるっと具体的にこの Spanish Flu の脅威が展示されていることでした。(ウィーンにおける)ヴェーバー、クリムト、シーレ、(パリの)アポリネールなど、‥‥そしてぼくの知らない多くの名が列挙されていて、そうだったんだ、と認識をあらたにしました。パンデミックへの先見の明というわけではなく、むしろ第一次大戦(the Great War)への問題意識の強さの証だったのでしょう。
これらとは別に、今春になってから美術史的な観点で執筆された、この記事
→ https://news.artnet.com/art-world/spanish-flu-art-1836843
はムンク(罹患したときの自画像、ただし1944年まで生き延びた)、たった28歳で逝ってしまったシーレ、そして55歳にして基礎疾患の塊みたいなクリムトの、それぞれの自画像を大きくとりあげて、一見の価値があります。もしまだなら、どうぞ。
ぼくたちに近い知識人たちでいえば、辰野金吾が64歳で1919年3月の第二波で、マクス・ヴェーバーが56歳で1920年6月の第三波で急逝したという事実があり、厳粛な気持になります。それぞれ人生の盛りともいうべき時に、無念の死だったでしょう。
とはいえ、こうした人たちと違ってずっと無名のまま生き死んだ何千万の犠牲者たち‥‥は、戦争でなくパンデミックで亡くなった「無名戦士」たちでした。現今の Covid-19 と違って、若年層も容赦なく重症化するのでした。
2019年11月24日日曜日
コートールド家
コートールド美術館といえば、1980年代末に現在のストランド Somerset House に移転するより前、ブルームズベリの Woburn Square(Senate House および IHR の裏手、 Gordon Square に向かって歩き始めた所)にあって、有名な Warburg Institute と隣接していたころです。81・82年に訪れたときには、両者が一緒の茶色い建物にあって、階段をどんどん登っていった気がします。
それより前に Courtauld という名を初めて知ったのは、ユグノ由来の繊維業ブルジョワ、その社史を書いた Donald Coleman という繋がりでした。
Courtaulds: An economic and social history. i) The nineteenth century - silk and crape; ii. Rayon; iii. Crisis and change 1940-1965 (OUP, 1969/1980)
経営史の和田さんから、すでに1979-80年に、ケインブリッジの経済史といえば(今ではポスタンではなく)コールマン先生、といってそのときは2巻本を見せられました。
→ https://www.independent.co.uk/news/people/obituary-professor-d-c-coleman-1600207.html
そもそも Courtaulds ってどう読めばいいんだ? ユグノは高校世界史でやったのより、もっと広く深い難題かも。しかも18世紀末にはユニテリアンになった‥‥。戦後歴史学の小宇宙とは別個に展開している深い世界をほんの少しのぞき込んで、おののくような感覚。同時に、だからこそ留学する意味があるという期待。
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Courtauld_(industrialist,_born_1761)
https://en.wikipedia.org/wiki/Samuel_Courtauld_(industrialist)
そのケインブリッジで社会経済史のセミナーに出てみたら McKendrick, Brewer, Styles などを集めて、ツイードのジャケットが似合い、パイプをくゆらせる理知的な紳士でした。81-82年ころには、Gentlemen and players といった問題を立てながらも、ゼミの報告にたいして「 Social history なんて学問として成り立つのかい」といった発言があり、ぼくのような若造から見ると、保守的なのかリベラルなのか、よくわからなかった。それは、彼の代表作ともされるコートールド社史3巻本における分析と叙述の統一といった点に表れ、かつイギリス学界で高く評価されたのとも不可分の、イギリス経験主義だったのでしょう。 → to be continued.
2016年8月24日水曜日
先行作品 と 自分の道
National Gallery にて Painters' Paintings という特別展をやっていますね。
→ http://www.nationalgallery.org.uk/whats-on/exhibitions/painters-paintings
要するに、ヴァンダイク以来、リュシアン・フロイトにいたる画家が、先行画家の作品をどのように意識しながら創作し、自分を模索したか、ということがテーマで、ほんのすこしでも「蔵書」をもちつつ仕事をするわれわれ学者・研究者・物書きにとって、他人事ではない展示。考えさせる企画です。
歴史は科学か騙(かた)りか、といった抽象的な問題の建てかたにはぼくは反対です。文句なしの学問であり、アートです。じつは先週のケインブリッジでもワークショップが終わってから、日本人6名の間で、先行研究と自分の仕事との「継承と差別化」、言い換えると「先生」を尊重しつつしかし独自の道を歩む、という点で盛り上がりました。驕慢になるというのとは違いますよ。「絶対主義」 → 「市民革命」 → 「民族独立」といったコミンテルン史観粉砕!ということでも。
研究史とか intellectual history とか特殊化することなく、自分の問題として考えるべき論点だと思いました。
→ http://www.nationalgallery.org.uk/whats-on/exhibitions/painters-paintings
要するに、ヴァンダイク以来、リュシアン・フロイトにいたる画家が、先行画家の作品をどのように意識しながら創作し、自分を模索したか、ということがテーマで、ほんのすこしでも「蔵書」をもちつつ仕事をするわれわれ学者・研究者・物書きにとって、他人事ではない展示。考えさせる企画です。
歴史は科学か騙(かた)りか、といった抽象的な問題の建てかたにはぼくは反対です。文句なしの学問であり、アートです。じつは先週のケインブリッジでもワークショップが終わってから、日本人6名の間で、先行研究と自分の仕事との「継承と差別化」、言い換えると「先生」を尊重しつつしかし独自の道を歩む、という点で盛り上がりました。驕慢になるというのとは違いますよ。「絶対主義」 → 「市民革命」 → 「民族独立」といったコミンテルン史観粉砕!ということでも。
研究史とか intellectual history とか特殊化することなく、自分の問題として考えるべき論点だと思いました。
2013年1月24日木曜日
Holly Cole Trio in Tokyo
http://www.youtube.com/watch?v=72Ts84JLG5c
しばらくぶりに NZD よりメールにて、Aaron Davis の東京公演のおしらせ。
息子をおもう母の心情です。
Holly Cole は 例の Calling You で知られているでしょうか。そのキーボードを担当しているのが Aaron なのです。いつも冬の、大学教員がもっとも忙しい季節にやってきます!
Holly Cole and the band will be performing in Tokyo on January 25-30. Here are the show times in case you or any friends want to attend performances.
Blue Note Tokyo, 6-3-16 Minato-ku Minamiaoyama Raika Bldg. B1-2
Friday, Jan. 25, open 5:30 p.m. show time 7 p.m;
second show: open 8:45 p.m. show time 9:30
Jan 26 open 3:45 p.m. show time: 5 p.m.;
second show :open 7 p.m. show time 8 p.m
Cotton Club Tokyo, Tokyo Building 3F, 2-7-3 Marunouchi Chiyoda-ku
Jan 29 and Jan. 30: first show open 5 p.m. show time 6:30 p.m
second show: open 8 p.m. show time 9 p.m.
Chandler and I went to the Holly Cole concert here in Toronto last night, a warm up for the Tokyo performances. It was really terrific! Many new songs and wonderful new arrangments.
しばらくぶりに NZD よりメールにて、Aaron Davis の東京公演のおしらせ。
息子をおもう母の心情です。
Holly Cole は 例の Calling You で知られているでしょうか。そのキーボードを担当しているのが Aaron なのです。いつも冬の、大学教員がもっとも忙しい季節にやってきます!
Holly Cole and the band will be performing in Tokyo on January 25-30. Here are the show times in case you or any friends want to attend performances.
Blue Note Tokyo, 6-3-16 Minato-ku Minamiaoyama Raika Bldg. B1-2
Friday, Jan. 25, open 5:30 p.m. show time 7 p.m;
second show: open 8:45 p.m. show time 9:30
Jan 26 open 3:45 p.m. show time: 5 p.m.;
second show :open 7 p.m. show time 8 p.m
Cotton Club Tokyo, Tokyo Building 3F, 2-7-3 Marunouchi Chiyoda-ku
Jan 29 and Jan. 30: first show open 5 p.m. show time 6:30 p.m
second show: open 8 p.m. show time 9 p.m.
Chandler and I went to the Holly Cole concert here in Toronto last night, a warm up for the Tokyo performances. It was really terrific! Many new songs and wonderful new arrangments.
2012年4月9日月曜日
山手線・車体広告
「英国政府観光庁」による山手線の車体広告と駅の壁面広告、気付きましたか?
いつもながら即応性に欠けるところがあって、カメラを抱えて出かけたころには、有楽町駅の壁面広告は剥がされてステンレスがむき出しになっていました。
あきらめてプラットフォームに出たら、なんとその電車が来ました! ボディ外面だけなので、乗車すると見ることも写真を撮ることもできない。大崎駅に着いて、大急ぎでシャッタを切りましたが、せいぜい 2 shots くらい。次の電車を待ちましたが(反対方向の電車も見ましたが)いざ構えていると当該電車は来ない。
じつは「ジェイアール東日本企画」というウェブページに解説があるのを、今夜、探しあてました。2月19日~3月31日、2編成のみだったんですね。http://www.jeki.co.jp/transit/train/body/number.html
つまり、もう3月末に終わっているはずのところ、きのうは間違えて1編成が走っていたということなのでしょうか。それとも「うどんこの定理」のための施し?
なんでこんなことにこだわるかというと、中学校で鉄道少年だったから、ではなく、この4月からの「史料講読」の授業で使いたいからなのです。史料といっても図像も景観も含むので、「英国政府観光庁」の表象は、じつに良いイントロになるのです。
いつもながら即応性に欠けるところがあって、カメラを抱えて出かけたころには、有楽町駅の壁面広告は剥がされてステンレスがむき出しになっていました。
あきらめてプラットフォームに出たら、なんとその電車が来ました! ボディ外面だけなので、乗車すると見ることも写真を撮ることもできない。大崎駅に着いて、大急ぎでシャッタを切りましたが、せいぜい 2 shots くらい。次の電車を待ちましたが(反対方向の電車も見ましたが)いざ構えていると当該電車は来ない。
じつは「ジェイアール東日本企画」というウェブページに解説があるのを、今夜、探しあてました。2月19日~3月31日、2編成のみだったんですね。http://www.jeki.co.jp/transit/train/body/number.html
つまり、もう3月末に終わっているはずのところ、きのうは間違えて1編成が走っていたということなのでしょうか。それとも「うどんこの定理」のための施し?
なんでこんなことにこだわるかというと、中学校で鉄道少年だったから、ではなく、この4月からの「史料講読」の授業で使いたいからなのです。史料といっても図像も景観も含むので、「英国政府観光庁」の表象は、じつに良いイントロになるのです。
2011年11月23日水曜日
神里優姫さんのコンサート
「下落合」(高田馬場から西武線で一駅)、徒歩1分 TACCS1179 にて、
23日(水)13:00 open です ↓
http://blog.goo.ne.jp/yuuki6256/e/3cbae929c43a91928f9b343712dcdbde
どうしてぼくが、横浜市立大学卒の美人シャンソン歌手を知っているか?
それは『パンと民衆』〈歴史モノグラフ〉の著者の新妻だから。
23日(水)13:00 open です ↓
http://blog.goo.ne.jp/yuuki6256/e/3cbae929c43a91928f9b343712dcdbde
どうしてぼくが、横浜市立大学卒の美人シャンソン歌手を知っているか?
それは『パンと民衆』〈歴史モノグラフ〉の著者の新妻だから。
2010年9月23日木曜日
Salzburg-Wien-Praha
この9月には(も)いろんなことが続いたので、Catholic Europe の大旅行が大過去のことになってしまいそうですが、そうしないために--

【写真をクリックしてくださいな 】ザルツブルク(イギリス人にいわせればサルツバーグ)では「フニクラ」(!)で城に上ったらそれまで雨模様の空が晴れて、はるかにアルプスの氷河が望めました。モーツァルトの場合は、これをみて旅心を誘われたでしょう。氷河も向こうにはイタリア。「この街を出よう、大司教のもとから離れよう」と決めたときにも、やはりこの風景を見つめていたのか‥‥それは知りません。
ウィーンは大都会なので、もっとゆっくりしないと見尽くせないな、と思いながら、それにしても美術史博物館はハプスブルク家の威信をかけた、圧倒的な知と美の殿堂。

ここで画学生(?) が模写しているのは、ブリューゲルの「謝肉祭と大斎節との争い」(『民のモラル』pp.230-1)でした。ぼくも絵心があるなら、1週間くらいかけて模写したいくらい不思議な迫力にみちた、構成的な絵です。
木曜夜は9時まで開館ということで、館内のすばらしいホールでディナーをいただきました。
プラハ城では 1618年、窓外放擲事件の現場をみて満足し、城の敷地内に、別料金で入る Lobkowicz Palace についてはパスしようかな、と思いながら下のカフェに入ってビールを飲みました。そこで思いがけず一つのビラを目にすることがなかったら、Lobkowicz に入ってカナレットの「ロンドン市長就任式の水上パレード(テムズから望む聖ポール)」に遭遇することはなかったでしょう。これは『江戸とロンドン』p.230の原画です。

これを contingency というのか、天の配剤(oeconomy)というのか。思ってたより、ずっと大きな絵。
そもそもジェイムズ6世=1世の姫エリザベスは、ファルツ選帝侯フリードリヒに嫁するんだから、ブリテン内戦(イギリス革命)・ヨーロッパ大戦(30年戦争)の観点からも、この辺はきちんと観察しておかねばならないことでした。反省。
【写真をクリックしてくださいな 】ザルツブルク(イギリス人にいわせればサルツバーグ)では「フニクラ」(!)で城に上ったらそれまで雨模様の空が晴れて、はるかにアルプスの氷河が望めました。モーツァルトの場合は、これをみて旅心を誘われたでしょう。氷河も向こうにはイタリア。「この街を出よう、大司教のもとから離れよう」と決めたときにも、やはりこの風景を見つめていたのか‥‥それは知りません。
ウィーンは大都会なので、もっとゆっくりしないと見尽くせないな、と思いながら、それにしても美術史博物館はハプスブルク家の威信をかけた、圧倒的な知と美の殿堂。
ここで画学生(?) が模写しているのは、ブリューゲルの「謝肉祭と大斎節との争い」(『民のモラル』pp.230-1)でした。ぼくも絵心があるなら、1週間くらいかけて模写したいくらい不思議な迫力にみちた、構成的な絵です。
木曜夜は9時まで開館ということで、館内のすばらしいホールでディナーをいただきました。
プラハ城では 1618年、窓外放擲事件の現場をみて満足し、城の敷地内に、別料金で入る Lobkowicz Palace についてはパスしようかな、と思いながら下のカフェに入ってビールを飲みました。そこで思いがけず一つのビラを目にすることがなかったら、Lobkowicz に入ってカナレットの「ロンドン市長就任式の水上パレード(テムズから望む聖ポール)」に遭遇することはなかったでしょう。これは『江戸とロンドン』p.230の原画です。
これを contingency というのか、天の配剤(oeconomy)というのか。思ってたより、ずっと大きな絵。
そもそもジェイムズ6世=1世の姫エリザベスは、ファルツ選帝侯フリードリヒに嫁するんだから、ブリテン内戦(イギリス革命)・ヨーロッパ大戦(30年戦争)の観点からも、この辺はきちんと観察しておかねばならないことでした。反省。
2010年8月23日月曜日
Landed aristocracy その3:御当主夫妻と会見
じつは18世紀はじめのホウィグ貴族のもう一人の大物、turnip Townsend (すなわち「マンチェスタ騒擾とジョージ1世」の国務大臣タウンゼンド伯) の館も10キロほど離れたお隣さんですが、これは closed to the public.
夕刻、車で農地のあいだを20分ほど南に戻って、緑のなか、これまた closed to the public と明記してある15世紀の館へ、お茶しに寄りました。

こちらの当主 Sir John は Trinity Hall の卒業生、高級官僚・国際公務員でした。奥様が相続した館は、玄関のうえの家紋も崩れているように、ちょっとメインテナンス不足とはいえ、内部は16世紀くらいの板に描いた祖先の油絵肖像画が、こっちにもあっちにも掛けてある。【なにしろ奥様は、1770年代はノース首相の末裔でいらっしゃいます。】17世紀のタペストリもあちこちに。わたくしメ夫婦を案内してくださった2階のいくつもの寝室は、あきらかに何ヶ月も開けてない模様。隠れ階段もあるし、夜は怪しげな音も聞こえたりして、ちょっと怖いんではないだろうか。
Sir John は退職後は美術愛好家で、NPOの理事もしている模様。Who's who にも載っています。レノルズ描いた誰某の肖像画、と話題になると、ただちにそのレファレンスを持ってきて、会話を確かなものにしてくださった。
この陶磁器室には、サンドリンガムから Princess Anne がお茶しにいらっしゃいます!
というわけで Sir は「平民」なのか? という問題にあらためて帰着します。今日訪問した3館の主、首相ウォルポールも、農業改良のクックも、もと国際公務員 Sir John も、平民最上位の Sir で、だからこそ庶民院(衆議院)の議員になれたのですが、House of Commons ははたして近藤の言うように「庶民院」でいいのか? むしろ青木さんの言うように、爵位貴族の上院(Lords)に準ずる、爵位なき貴族的下院(Commons)と呼ぶべきだ、というのも、たしかに一理ありますね。
ただし、Sir を「卿」と訳すのだけは止めたい。卿は正真正銘の爵位貴族にのみあてはまる呼称です。
夕刻、車で農地のあいだを20分ほど南に戻って、緑のなか、これまた closed to the public と明記してある15世紀の館へ、お茶しに寄りました。
こちらの当主 Sir John は Trinity Hall の卒業生、高級官僚・国際公務員でした。奥様が相続した館は、玄関のうえの家紋も崩れているように、ちょっとメインテナンス不足とはいえ、内部は16世紀くらいの板に描いた祖先の油絵肖像画が、こっちにもあっちにも掛けてある。【なにしろ奥様は、1770年代はノース首相の末裔でいらっしゃいます。】17世紀のタペストリもあちこちに。わたくしメ夫婦を案内してくださった2階のいくつもの寝室は、あきらかに何ヶ月も開けてない模様。隠れ階段もあるし、夜は怪しげな音も聞こえたりして、ちょっと怖いんではないだろうか。
Sir John は退職後は美術愛好家で、NPOの理事もしている模様。Who's who にも載っています。レノルズ描いた誰某の肖像画、と話題になると、ただちにそのレファレンスを持ってきて、会話を確かなものにしてくださった。
この陶磁器室には、サンドリンガムから Princess Anne がお茶しにいらっしゃいます!
というわけで Sir は「平民」なのか? という問題にあらためて帰着します。今日訪問した3館の主、首相ウォルポールも、農業改良のクックも、もと国際公務員 Sir John も、平民最上位の Sir で、だからこそ庶民院(衆議院)の議員になれたのですが、House of Commons ははたして近藤の言うように「庶民院」でいいのか? むしろ青木さんの言うように、爵位貴族の上院(Lords)に準ずる、爵位なき貴族的下院(Commons)と呼ぶべきだ、というのも、たしかに一理ありますね。
ただし、Sir を「卿」と訳すのだけは止めたい。卿は正真正銘の爵位貴族にのみあてはまる呼称です。
2010年8月20日金曜日
Whig aristocracy その2
車でノーフォク州の農地のあいだを20分?ほど飛ばして、Holkham Hall へ。
・17世紀初めののコモンロー司法官にして「権利の請願」の起草者の一人 Sir Edward Coke (クック 1552~1634)の所領でしたが、

・18世紀初めに Thomas Coke, first earl of Leicester (1697~1759) が 7年間のgrand tour でイタリア美術に目ざめ、買ってきた美術品を効果的に展示するために建てたという豪邸 Holkham Hallです。
・このレスタ伯と次代の放蕩息子ゆえに破産するところ、これを防ぐべく、1776年に所領を相続して農業改良を推進した甥 Thomas William Coke of Norfolk (のちに first earl of Leicester of second creation (1754~1842))はというと、Arthur Young と ノリッジのRigby のお友だち。

こうした3者の関係は、常識でしたでしょうか?
Walpole家では破産しそうになると3代目が絵をエカチェリーナ女帝に売却して凌いだ。∴エルミタージュ宮にウォルポール収集のコレクションがめだつ。 ⇔ これにたいして、Coke家では破産の危機に対処すべく、3代目が農業改良に専心する‥‥。ブルームやグレイとともに選挙法改革にもとりくむ‥‥。
仕入れたばかりの知識を、本日リグビの坂下さんあいてに開陳してみたら、釈迦に説法でした。
ホゥカム邸のご当主レスタ伯はいささか商業的で、日曜の午後ともなれば、庭や経営ホテルはひとで一杯。外も中も写真 OK。外装は質実剛健に力強く、内装は豪華絢爛、そこらの美術館・18世紀図書館に負けない備品。
そもそもあなた、所領は約100平方キロ(約10キロ×10キロ)! 北海の海岸線まで拡がります。東京の山手線のなかより広いかも。馬か自転車を借りなきゃ、周りきれません。
・17世紀初めののコモンロー司法官にして「権利の請願」の起草者の一人 Sir Edward Coke (クック 1552~1634)の所領でしたが、
・18世紀初めに Thomas Coke, first earl of Leicester (1697~1759) が 7年間のgrand tour でイタリア美術に目ざめ、買ってきた美術品を効果的に展示するために建てたという豪邸 Holkham Hallです。
・このレスタ伯と次代の放蕩息子ゆえに破産するところ、これを防ぐべく、1776年に所領を相続して農業改良を推進した甥 Thomas William Coke of Norfolk (のちに first earl of Leicester of second creation (1754~1842))はというと、Arthur Young と ノリッジのRigby のお友だち。
こうした3者の関係は、常識でしたでしょうか?
Walpole家では破産しそうになると3代目が絵をエカチェリーナ女帝に売却して凌いだ。∴エルミタージュ宮にウォルポール収集のコレクションがめだつ。 ⇔ これにたいして、Coke家では破産の危機に対処すべく、3代目が農業改良に専心する‥‥。ブルームやグレイとともに選挙法改革にもとりくむ‥‥。
仕入れたばかりの知識を、本日リグビの坂下さんあいてに開陳してみたら、釈迦に説法でした。
ホゥカム邸のご当主レスタ伯はいささか商業的で、日曜の午後ともなれば、庭や経営ホテルはひとで一杯。外も中も写真 OK。外装は質実剛健に力強く、内装は豪華絢爛、そこらの美術館・18世紀図書館に負けない備品。
そもそもあなた、所領は約100平方キロ(約10キロ×10キロ)! 北海の海岸線まで拡がります。東京の山手線のなかより広いかも。馬か自転車を借りなきゃ、周りきれません。
Whig aristocracy その1
15日(V J day!)にノーフォク州の貴族の館2つを訪問したのですが、そのあとの付録もふくめて、印象は圧倒的です。あまり理性的でないブログとなりますが--
10.00に4人で剣橋発、一路北へ。Houghton Hall(ハウトンです!)は日曜のみ11.30に gardens (複数形です!) が開場。
まずはかつての kitchen garden に、期待せずに入りました。なんといっても首相ウォルポールの邸宅を見るのが目的ですから、18世紀前半でないものは、あまり‥‥
野菜や果物、花などを栽培した所を、その機能も生かしながら、生垣でいくつもに囲い分けて性格のちがう遊びの空間を造ったものです。ごく最近の火炎を噴く噴水(water flame)といった際物もありますが、全体として安らぎと発見のある、楽しい空間。それぞれ囲いの中はちがう小世界をなすので gardens なのですね。
厩舎のあとを改造したレストランで軽い昼食。
1.20より本館開場。日本的感覚とちがって、西向きに(夏のディナーで長い夕刻の日射しを活かすために)こうした country house は建てられています。上の写真では館の西面を撮っていますが、撮影者の背面=西方には長ぁく植林されていない帯状の緑地が延びています。

館内は、残念ながら撮影禁止。パラディオ様式、イタリア趣味、ディナー室の奥に cabinet room がありました。史上最初の閣議は、ウェストミンスタはホワイトホールではなく、ここで開かれたのだ、と自慢げに語られていますが、実はそれはヒイキの引き倒しですよ。Downing Street より前に Cock Pit と18世紀人が呼んでいた所でやっていました。 cf. List & Index Society: Cabinet Meetings をご覧じろ。
ウォルポールが権力政治だけに専心していたとまで思いこんでいたわけではありません。
それにしても(客を招いて見せる≒魅せるだけでなく泊める)空間のシンボリズムにまずは感銘しました。
運転手の M.に急かされて、次の Holkham Hall へ。
10.00に4人で剣橋発、一路北へ。Houghton Hall(ハウトンです!)は日曜のみ11.30に gardens (複数形です!) が開場。
まずはかつての kitchen garden に、期待せずに入りました。なんといっても首相ウォルポールの邸宅を見るのが目的ですから、18世紀前半でないものは、あまり‥‥
野菜や果物、花などを栽培した所を、その機能も生かしながら、生垣でいくつもに囲い分けて性格のちがう遊びの空間を造ったものです。ごく最近の火炎を噴く噴水(water flame)といった際物もありますが、全体として安らぎと発見のある、楽しい空間。それぞれ囲いの中はちがう小世界をなすので gardens なのですね。
厩舎のあとを改造したレストランで軽い昼食。
1.20より本館開場。日本的感覚とちがって、西向きに(夏のディナーで長い夕刻の日射しを活かすために)こうした country house は建てられています。上の写真では館の西面を撮っていますが、撮影者の背面=西方には長ぁく植林されていない帯状の緑地が延びています。
館内は、残念ながら撮影禁止。パラディオ様式、イタリア趣味、ディナー室の奥に cabinet room がありました。史上最初の閣議は、ウェストミンスタはホワイトホールではなく、ここで開かれたのだ、と自慢げに語られていますが、実はそれはヒイキの引き倒しですよ。Downing Street より前に Cock Pit と18世紀人が呼んでいた所でやっていました。 cf. List & Index Society: Cabinet Meetings をご覧じろ。
ウォルポールが権力政治だけに専心していたとまで思いこんでいたわけではありません。
それにしても(客を招いて見せる≒魅せるだけでなく泊める)空間のシンボリズムにまずは感銘しました。
運転手の M.に急かされて、次の Holkham Hall へ。
2010年7月28日水曜日
2010年7月26日月曜日
King's College Chapel
2010年7月22日木曜日
2010年7月13日火曜日
National Gardens Scheme
11日(日)は、日本では参院選、グローバルにはFIFA world cup final(スペイン王国がカタルニアの力に依拠して、400年ほど前のオレンジ党ネーデルラントに意趣返しをした夜)といった人々の関心を集める出来事があったようです。ケインブリッジ近郊でローカルには National Gardens Scheme によって年に3度だけ開放される個人庭園をみる好機でした。なんと労働法の忍さんが借りている邸宅がその一つ Wild Rose Cottage ということで、斉藤さん、小峯さんと一緒に、Lode村を探訪することにしました。
ケインブリッジ市から東に車で20分ほど、16世紀、ヘンリ8世の修道院領払い下げの結果生まれた(rise of a gentry !)Anglesey Abbey という名(Abbey は invention!)の所領の近傍にある村 Lode. 写真のように静寂で、きっと豊かな中産階級の住む小さな村です。通過する車はなく、歩くのはわれわれ余所者 visitor ばかりなり。
開放された庭園の造りは各々さまざまで、ローマ風の folly を置くところあり、
また自然(wild)をテーマに、まるで手をかけてないように見えるよう、しっかり手入れしているところあり。Landscape gardening の長い18世紀をやってる者としては、もっときちんとリサーチした上で来るべきだったと後悔。
こちらの Wild Rose Cottage は奥が深くて、ぼうぼうの草に囲まれた池に向かって近隣のアーティストのオブジェがあるかと思えば、その視線の向こうには東屋(亭)がみえるではないか。東屋には椅子も茶器も揃っていて、「フィガロの結婚」の終幕の前提ともいうべき庭園!
ちなみに、National Gardens Scheme もまたチャリティ(公益団体)でしたよ、金澤さん!
2010年5月18日火曜日
日時計
どうしてイギリス人はこんなに日時計が好きなんだろう、と前々から不思議でした。
Dry とは(関東地方の冬のような)乾燥でなく、「雨が降っていない状態」つまり曇りのことを言い、毎日毎日、天気予報は sunny spells with scattered showers と言ってれば当たる、という国です。オクスブリッジのすべての学寮に備わっている日時計は、なんの役にたつのでしょう。
今日、わが Clare Hall の煉瓦の家と芝生とちょっとした木や花が連なる、こぢんまりしたgarden を散策して、こんな庭がわが集合住宅にもあると最高! と思った最後に、blackbird (日本語でクロウタドリって言うんですね!) に導かれて日時計に遭遇。
写真のとおり5時前を指していますが、いまは夏時間なので、じつは6時前。めずらしく快晴の im wunderschoenen Monat Mai, 花ひらき鳥うたう中で、小さき日時計にはこういう碑が刻んでありました。S方角の ∴ から文章が始まります。時計の反対回りに読んでください。
Let others tell of storms and showers ・
I'll only count your sunny hours
ふふふ。
日時計の真実を淡々と語りつつ、昔あるパブで見つけた
'A friend in need is a bloody nuisance'
といった正直な人間心理も、上品に伝える。How witty!
日時計って、時を伝えるためじゃなくて、一人歩くひと、語りあう二人に、真実=心理を突きつけて局面を展開させるための碑文として、設けられていたのか。【かつては必ずのようにラテン語、今ではたいてい英語です。こちらはラテン語リテラシの問題でしょうね。】 つまり一人か二人で歩くのが好きなイギリス人には、晴れでも曇りでも、日時計の碑文が memento として必要なのでした。
2009年12月25日金曜日
A merry Christmas!
2009年7月18日土曜日
2009年6月20日土曜日
The Saatchi Gallery
http://www.saatchi-gallery.co.uk/
↑ この Saatchi Online というのか The world's interactive art gallery というのか、ウェブページの最初に、3分弱にわたり、奇想天外、「美女の顔 尽くし」がつづきます。
今年開設された The Saatchi Gallery には5月に早速行ってみました。 もと Duke of York's Headquarters と呼ばれたチェルシの軍施設でした。東京・六本木の自衛隊あとが、新国立美術館や政策大学院になってるのと似ている、と言えなくはないけれど、根本的にちがうのは、もとの建物を生かすか殺すか。
ロンドンでは兵舎(しっかりした建物、高い天井、広い部屋)をそのまま生かし、東京ではすべて壊して新設計、ポストモダンの新建築にしてしまいました。Saatchi は民間で無料、新国立は有料というのも、可笑しな対照ですね。
Sloane Square 駅から歩いてすぐ。次にロンドンにいらしたときには、皆さまもどうぞ。
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