2011年12月26日月曜日

『二宮宏之著作集』の「解説」

『二宮宏之著作集』最後の配本、第3巻が到来。編集の方々、お疲れさま。

 計5巻の編者「解説」をならべてみると、筆者それぞれの人柄と現況が反映している、あるいは、ごまかしようもなく表現されています。
 最終配本=第3巻では、1) 例の「統治構造」論文をめぐって、「上向過程」「下向過程」とは、「背景は実は高橋史学なんです」と、たしかに二宮さんご本人は言っておられた。しかし、それをまた p.430で口移しに繰りかえされるのを読むと、うれしくはない。
2) なおまた p.431には喜安さんの発言として、「‥‥二宮氏は師たる高橋氏が踏み込むことをしなかった権力秩序の問題に取り入れていき、師の論理構成をそこに生かしている」と引用しています。どちらについても、ぼくは初出以来とても落ち着かない気持で読んでいました。
 1) の「上向」「下向」とは、高橋より先に、たとえば大塚『近代欧州経済史序説(上)』(1944)の序でも言われていることです。しかも大塚の場合は「これが先例のないことではない」と、読者の常識を試し、また特高検閲官に挑戦していたんです。
 若者たちのためには、あらためて記したほうがよいでしょうか。マルクス『経済学批判序説』の「方法の問題」なのですよ。そして、そうと二宮さんが言わないことにどういう意味があるのか、と読者は再考すべきなのではないでしょうか? 新宿高校時代からマルクスを読んでいたという二宮‥‥。
 2) 権力秩序の問題は、ホッブズやロックや18世紀の moral philosophy の主要課題です。高橋学派=講座派は距離を保っていたかもしれないが、日本では戦前から市民社会派の学者が取り組んでいました。【別の文脈で水田洋が、丸山真男は結局ホッブズ問題を理解していなかった、と喝破しています。】
 なんだか、ぼくは『二宮宏之著作集』の編集についても、喜安さんについても、「大丈夫? お元気ですか?」 と尋ねたい気分です。

 添えられた「月報」もまた情報ゆたかです。合庭惇さんがブロック『封建社会』の翻訳をめぐって堀米・二宮(歳の差は15歳)の信頼関係を例示してくださったのは、すごくいい。
 しかし、「月報」のいろいろなところで大塚史学末期の忠臣たちにも似た口ぶりを耳にし眼にするのはつらい。西永さんの言うとおり「間違っても失言、放言、暴言などは口から出ない」とは真実だけれども、二宮さんは、お釈迦様でもイエス様でもない。人間として敬愛はしても、神仏の「福音」か「託宣」のように上げ奉るのは、ご本人が望むところではないでしょう。
 p.436 には「われわれは、二宮社会史が成し遂げてきたことをあらためてしっかりと噛みしめながら、われわれ自身の思索の歩みを続けて行く糧としたいものである」とあるが、これは他人事ではありませんよ。ただの「挨拶」としてでなく、文字どおり、本当に我々に課された課題と受けとめて邁進すべきです。「‥‥としたいものである」とか「‥‥具体的な研究成果の登場が待たれる」といったスタイルで書いていて良いのだろうか。
 ‥‥というのが、ぼくの卒読 第一印象です。
 じつはすでに2007年には外語大の Quadrante によせて、こんなことを認めていました。
→ http://coocan.jp/bbs/Quadrante

 歳を重ねて、二宮、遅塚、柴田という順の死を迎えて、ぼくは友人、信頼する知己に(友情と信頼あればこそ)遠慮なく公言すべだきと考えるようになりました。妄言多謝です。

 なお、ちなみに『岩波講座 世界歴史』第16巻(1999)では、上品に(気どって!?)書いた大事な箇所について、文意が取れなかった読者から「両論併記、どっちつかず」などという感想が伝わってきて、びっくりしたことがあります。
→ http://coocan.jp/bbs/NON SUFFICIT
単刀直入に言わないと、わかってもらえないことが増えましたね。
 

 というわけで、こちらも参照してください(2013年3月 京都・大阪にて)。

2011年12月25日日曜日

モンブランかシャモニか

金曜土曜には、琵琶湖と伊吹山をのぞむ長浜で、密度ある合宿をしました。お江の里は、ほとんどモンブランかシャモニか、といった光景。しかも土曜朝には積雪で街が真っ白、伊吹山は見えなくなっていました。

 4人の方々の近世からソ連までをめぐる研究報告も良かったけれど、パトリアと礫岩をめぐって、ほとんどブレイン・ストーミングに近い討論ができて、おおいに頭脳が「励起」されました。知的で複合的な集いのよろこび。
 じつは大塚・高橋史学の一番弱かった、政治秩序にかかわる思想史・制度史(究極の history of ideas)に、今のぼくの頭は向いています。だれかが牽制してくれたヘーゲル的 Geist の流出ではなく、ホッブズ的な問題です。詳しくは『10講』で。
 長浜については、食べ物がおいしいというのも嬉しい発見。この街をよく知らない/自分の無知を知るというのも、60代の身には励みになります。

 帰宅すると、『二宮宏之著作集』の最終配本が待っていました。こちらについては、また別途。

2011年12月19日月曜日

新館竣工

博物館に近い懐徳門を毎日利用している者としては、学士会分館敷地跡の小島ホールにつづく、分館解体 → 新棟建築工事には不便を強いられました。赤門から経済学部の手前を通って博物館・懐徳門に抜ける道が封鎖されて、大きく医学部本館の前、そして理学部生物学科の脇を迂回するしかなかった。
 それがようやく16日(金)にご覧のような状態で、竣工し、塀が撤去されたので、まだ内装に3カ月かかるとしても、直近を通ることが可能になりました。

 新館の正しい名称は何と言いましたっけ。
 カメラを構えつつ通りぞめをしていたら、『関東大震災』の鈴木さんに見つかってしまい、赤門脇の1923年以前の赤煉瓦造り(中野重治『甲乙丙丁』に出てくる、近代日本のちゃちな建物)がうまく生かされてますね、‥‥情報学環のコンクリートとちがって違和感がない, etc. などと話しつつ、‥‥図書館前の大ブロッコリまで来ました。

2011年12月16日金曜日

岩波新書

今年度は立正大学の2年生演習で、内田義彦『社会認識の歩み』と、柳父章『翻訳語成立事情』を読んでいます。ついでに東大の3・4年生の演習では、カー『歴史とは何か』とその Evans/third edition (2001) を読んでいます。
ずいぶん前の岩波新書ですが、学生の買ってきた版をみると、
  『社会認識の歩み』が初版いらい40年間で51刷;
  『翻訳語成立事情』が 29年間で34刷;
  『歴史とは何か』が 49年間で79刷!

それぞれすごいロング・セラーですね。
今となっては、いささか問題点なきにしもあらずとはいえ、出版されたときのインパクトを考えれば(imagine the past)すばらしい本だったことは明らかです。新しい古典というに値する新書。

 ただし、内田義彦にして、「断片を読む」、結節点、結節点‥‥、そして「個体発生は系統発生を繰りかえす」、と大事なことを印象的、効果的に言いながら、でも、あれっと思うほど、権威主義的で定向進化的な話の枠組が見え透きます。これは今のわれわれからすると驚くほど。
大塚のような近代主義者でなく、むしろ近代そのものを問題意識化していた内田にしてこうなのだ、と昭和の知識人たちの存在被拘束性に、思いいたります。

 柳父章の新書は、具体的なのがおもしろい。
部分的に同じような議論もしながら、これを『文明の表象 英国』(1998)で引用しなかったのはなぜか? その理由は今となっては定かでありません。80年代に名古屋で読んでいたのに(前谷くんと一緒に、加藤周一的なフレームで)、そして「近代」とか「舶来の言葉」とか、いくらでも使える部分があるのに、why not?
単純に、そのとき忘れていたんでしょう。『近代の超克』論について、また漱石が「今代」という当て字を使っている点の指摘などでも、ぼくのほうに利がある部分もあります。

 こうした昭和の学者たちに比べて、オクスブリッジのソシアビリテに寄りかかりすぎとはいえ(イギリスの知識人にはこれ以外の frame of reference はなかった)、E. H. カーは毫も古くなっていない。70年代の内田よりも新しい。どうしてでしょう。
 19世紀的近代とはちがう「現代」を考えるにあたって、ソ連の歴史はパスできない。それはカーの強みですが、しかし彼はアジアのことをじつは分かっていない。Yet,「‥‥それでも地球は動く」と進歩主義的な楽観で締めくくっています。He remembers the future.
 究極的には「底が浅くない」経験主義の強み、といえるでしょうか。考え書くのは自分一人なのだが、しかし、それは孤立した個人の営みではない、という文化。

【なお岩波新書については、しばらく前にこんなことをしたためました。
→ http://岩波新書・加藤周一

2011年12月15日木曜日

『教養学部報』12月7日

目ざとい読者は、もうとっくに読んでいるでしょう。ぼくが学生のころから同じスタイルで刊行されています。
→ http://www.c.u-tokyo.ac.jp/gakunai/gakubuhou/
 543号は、なんと1947年度生まれ、たいていは1966・67年に大学入学の方々の定年退職の弁が並んでいます。しかも、7人のうち4名 - 黒田玲子さん、池田信雄さん、本村凌二さん、山内昌之さん - は個人的なお付き合いのあった方々です。
 感慨深い、と言わずしてなんと言おう。

 黒田さんは、ぼくがお話ししたことのあるひとの、世界で一番か二番に美しく聡明な方。(もう一人の二番か一番の方は、ケインブリッジで James Raven に引き合わされたネパール人とイギリス人の間に生まれた女性で、その穏やかなお話に感銘しました。とはいえこちらの方はたった一度会ったきり、再会をはたしてない!)黒田さんには、新地球学の例会で会えるのをいつも楽しみにしていますが、ただしお忙しくなさっているので、毎回というのは無理。残念。

 池田さんは、名古屋大学でご一緒しました。しかも大学の幸川町宿舎でご近所どうし、子どもも同じ小学校、というので家族まみれのお付き合いでした。前後してそれぞれ東大に移ったのに、こちらではなかなか同道できませんね。

 本村さんは、本郷の大学院以来ですから機会は少なくなかったはずなのに、専門の違いということもあって、あまり深い付き合いとはならなかったね。

 山内さんは、最初のうちはぼくのほうで失礼が続いてしまいました。ようやく近年ご一緒して、いい感じになってきたところ。

 というわけで、皆さん、じつは同い年なのでした。
 これからあと何十年の付き合いになるのでしょう。これまでにも増して、お元気で!

2011年12月11日日曜日

戦後知 と 社会運動史、要するに70年代とは‥‥

昨日(土)の東洋大学でのセミナー、驚くほどの人が集まって、‥‥西洋史の学部学生も2人ほど見かけました。ぼくが誘ったわけでもないのに、自主的なネットワークで参集したとのこと。むかしの言葉でいえば、autogestion. 岩波書店、山川出版社、せりか書房の方も見えました。

 岡本さんの設営のお陰で現出した、『社会運動史』と近社研をめぐる久々の谷川節、円熟した喜安さんの語り、クールな北原さんの話‥‥。無理をしてでも来てよかったな、と思いました。

 ところが、せっかくの機会なのに、残念ながらぼくはやむをえず中座、帰途を急ぎました。言いっぱなしにするつもりはありませんが、それにしても失礼いたしました。

2011年12月2日金曜日

朗報

しばらくgmail を開けていなかったら、こんなメールが到来していた。
「2週間前ほど前になりますが,博士論文
The politics of the people in Glasgow and the west of Scotland, 1707-c.1785
を提出しました.ずいぶんと長引いてしまい,提出まで4年と2ヵ月かかりました.
‥‥この4年と2ヵ月,Dickinson先生に本当にお世話になりました.」

O, great! Congratulations!
偉大な先生のもとで、よくも頑張ったね。
いま、君がどんな顔をしているのか、見たくなった。