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2025年2月19日水曜日

『読書アンケート 2024』

みすず書房より『読書アンケート 2024』(単刊書、2月刊、800円)が到来。
https://www.msz.co.jp/book/detail/09759/ 
ぼくも短かいながら5件の出版について感想を述べました(pp.175-178)。掲載の順番は、おそらく原稿がみすず書房に着いた順で、この本文180ぺージのうち、ぼくはビリから4番です。
月刊誌『みすず』は紙媒体ではなくなり、今はウェブ配信ですが、毎年2月号に載っていた読書アンケートだけで単刊書とすることになり、毎年の年初の楽しみは保たれます。むしろ前より厚くなった観があります。
ぼくの場合は、
1.二宮宏之『講義 ドラマールを読む』(刀水書房、2024)
2.木庭顕『ポスト戦後日本の知的状況』(講談社選書メチエ、2024)
3.松戸清裕『ソヴィエト・デモクラシー 非自由主義的民主主義下の「自由」な日常』(岩波書店、2024)
4.Lawrence Goldman, The Life of R.H.Tawney: Socialism and History (Bloomsbury Academic, 2013)
5.『みすず』168号~177号(1973-74)に連載された、越智武臣「リチャード・ヘンリー・トーニー あるモラリストの歴史思想」
を挙げてコメントしました。
4,5については、今書いている本『「歴史とは何か」の人びと』のなかの一つの章にもかかわり、また著者ゴールドマンが、E・H・カーの世代のインテリ男性の性(さが)について明示的に問うているので、響きました。
巻末の奥付に (c) each contributor 2025 とあり、著作複製権についてはぼくにあるのでしょうが、出たばかりの本ですので、ここには言及するだけで、文章は引用しません。

2025年2月4日火曜日

卒寿の著書

 みなさんは、服部春彦フランス革命と絵画 イギリスへ流出したコレクション』(昭和堂、今年2月刊)を見ましたか? 先に『文化財の併合 フランス革命とナポレオン』(知泉書館、2015)がありました。これに続く、フランス革命・ナポレオン・美術品の移動というテーマだな、と軽い気持で読みはじめて、驚嘆しました。
 明快な問題設定のもと、研究史と(回顧録や売立てカタログ‥‥からイギリス政治史のオーソドックスな史料 Hansard 議会議事録にいたる!)多様な史料を渉猟し分析した、374ぺージの研究書です! 今回はフランス史というより、イギリスの美術品取引史です。フランス革命期に大量の絵画が、フランス・ネーデルラント・イタリア各地から大量にイギリスへ移動したプロセス ~ 1824年、ロンドンに国立美術館(National Gallery)が設立されるまでの、オークションから私的契約売買まで、美術品取引の実際が具体的に解明され、迫力があります。
 イギリス史をやっている者にとって、18世紀前半のホウィグ体制において枢軸をなしたウォルポール家(Houghton Hall)タウンゼンド家(あの農業改良の Turnip Townshend)の今日にいたるまでの家運の転変はおもしろいものです。両家は同じノーフォーク州でほとんど隣接した大所領をもって、たがいに交際していました。しかし世紀後半の代になるとHorace Walpole は放漫な家政で、結局、せっかくのコレクションをロシアのエカチェリーナに売却するしかなかったばかりか、19世紀にはロスチャイルド家と縁組みし、今日も観光客を迎えて入場料を取り、一般向けのイヴェントをくりかえして所領を維持しています。他方のタウンゼンド家は代々、堅実な農業経営のおかげで、今も一般客を入れることなく所領を維持しています。
 1770年代にあの急進主義の風雲児 ジョン・ウィルクスが、そのウォルポールの Houghton collectionを国内に留めるための議会演説を行ったこと( → その効なくロシア宮廷に売却)から始まり、ナショナルな絵画館の設立運動をめぐるLinda Colley 説の批判、そして1824年にようやく National Gallery 創立、38年の新館開館にいたる政治社会史には、感服しました。脱帽です。
 たしかノーリッジのEdward Rigby(1747-1821)の娘 Elizabethは Charles Eastlakeとかいう NGの初代館長に嫁したのではなかったかな? この時代のチャリティ、農業改良、医療をはじめとする公共プロジェクト、そして大陸旅行記が父・娘ともにありますね。NG の1824年設立/38年の新館までで本書は終わりますが、それにしても、多くの登場人物、そして
公衆(the public)なる語にどのような意味がこめられていたか」p.335 
といった議論に刺激されます。服部春彦さんによるイギリス近代史の研究書です!
 1934年4月生まれの服部さんは、遅塚、二宮、柴田(この順)と同じころパリに留学していた方ですが、名古屋大学西洋史におけるぼくの先任助教授でした。こういう方が元気でしなやかに生産的でいらっしゃるので、こちとらも呆けることはできません。

2024年12月25日水曜日

『講義 ドラマールを読む』

 クリスマス直前に、二宮宏之さんの遺著『講義 ドラマールを読む』(刀水書房、2024年12月)が到来! 知る人ぞ知る、ながらく話題になっていた、二宮さんの東大文学部における1984年度の講義全23回分が、そして講義中に配布された資料も一緒に、二宮素子さんのたゆまぬ努力、刀水書房=中村さんの全面サポートにより、ついに本になったのですね。
 B5の横組2段で iv+466ぺージ! 一般書店には置かず、刀水書房のサイトから直接注文する方式です。
http://www.tousuishobou.com/tankoubon/4-88708-487-2.html
https://tousui-online.stores.jp/
 ずしりと重い、存在感のある大著です。横組2段ですから、見開きで4段となり、視野の中心に左右にひろく拡がりますが、案外に目に優しく、読みやすい。 録音が忠実に起こされているので、数々の歴史家や研究史についてのコメント、また(完成本であれば割愛されたかもしれない)言い直しや言い淀みまで再現され、二宮さんのお話をそのまま聴いているような気持になります。そして配布資料に加えられた手書きの文字! 彼の口吻と、お顔や姿勢まで再生されるかと想われるようなご本ですが、なにより17-18世紀フランスをめぐる学識の厚み、熱い意気込みが読む人に伝わります。17-18世紀の書物を探す苦労、辞書を読む楽しさとともに、「ポリース」(← ギリシアのpoliteia、ローマの res publica、ドイツのPolizei)から始まってアンシァン・レジーム[あるいは近世ヨーロッパ]のキーワードが時代の用法としてよみがえる。
 (ちょうど同じ頃に名古屋大学文学部でも集中講義をなさいましたが、こちらは「フランス王権の象徴機能」でした。計4日、12コマの集中では『ドラマール』をやるのは困難ですね。)
 これは生前の二宮宏之さんがくりかえし口になさっていた、(最後の著作となさりたかった)すばらしい名講義で、多くの人を感動させる本ではないでしょうか。さぞやご本人はこれをご自分の手で、最後までしっかり推敲したうえで公けになさりたかったでしょう。
 何人もの協力でようやく世に出た由です。関係なさった皆々さんに感謝いたします。

2024年12月6日金曜日

『社会運動史』は研究誌か?

 日仏会館で14日(土)に催される〈近代日本の歴史学とフランス――日仏会館から考える〉については、先に述べましたが、こちらは22日(日)一橋大学における催しです。ブログを転写しますと → http://blog.reki-nin.org/

「歴史と人間」研究会 シンポジウム
研究誌『社会運動史』(1972-1985)とは何だったか ― 史学史的に考える ―〉
 2024年12月22日(日) 13:30-17:00
 一橋大学国立東キャンパス 第3研究館3F 研究会議室
 国立キャンパス地図 http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/campus/index.html
13:30-13:40 司会(見市 雅俊)による趣旨説明
13:40-14:30 原 聖 報告
  休憩
14:45-15:05 コメント1 加藤 晴康
15:05-15:25 コメント2 近藤 和彦
15:25-15:45 コメント3 成田 龍一
  休憩
16:00-17:00 質疑応答

 この集会のテーマは、ぼく自身も関係者ですので、話は具体的になります。
『社会運動史』を研究誌としてだけとらえると、さらにまた『社会史研究』とならべて論じると、その本来の意味はかなり違ってきてしまうのではないか。おそらく加藤さんもそうお考えでしょう。
 『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013)の第一部、第二部をご覧になれば、1968年ころ以後の青年インテリゲンチア(!)がどんな空気を呼吸していたか、見えてくるでしょう。70年代の『社会運動史』は、1982年に出現したエレガントな第一線の学者たちの(商業的な)『社会史研究』とは異質です。もっと先行きの見えない暗中模索で、ウゾームゾーの来し方行く末の可能性があったことは、加藤さんの部分も含めて、各執筆者はかなり率直に書いています。ぼく自身はというと、執筆時にはあまり意義を感じていなかった(むしろ拙速だという思いがあった)出版ですが、いま読み直すと、時代の/世代の証言集として意味があった/出てよかった本だと思います。
 22日(日)には、(喜安さんは別格として)社会運動史研究会の一番上の世代=加藤と、一番若い世代=近藤の二人が、「後から来た」「外から観察する」原さん、成田さんとどういった対話ができるでしょうか。

2024年12月5日木曜日

日仏文化講座

すでにみなさんご存知かもしれませんが、12月14日(土)に日仏会館でたいへん有意義な催しが企画されています。 → https://www.fmfj.or.jp/events/20241214.html
日仏会館 日仏文化講座
近代日本の歴史学とフランス――日仏会館から考える〉
2024年12月14日(土) 13:00-17:30(12:40開場予定)
日仏会館ホール(東京都渋谷区恵比寿3-9-25)
定員:100名
一般1000円、日仏会館会員・学生 無料、日本語
参加登録:申込はこちら(Peatix) <https://fmfj-20241214.peatix.com/>

日仏会館の案内をそのまま転写しますと ↓
 日仏会館100年の活動を幕末以降の歴史の中に置き、時間軸の中でこれを反省的に振り返り、次の100年を展望します。フランスとの出会い、憧憬、対話、葛藤は、日本語世界に何をもたらしたのでしょう。フランスに何を発信したのでしょう。100年前に創設された日仏会館は、そこでどのような役割を果たしたのでしょうか。本シンポジウムは、この問題を日本の歴史学の文脈で考えます。その際、問題観の転換と広がりに応じて、大きく四つの時期にわけ、四人の論者が具体的テーマに即して報告します。
【プログラム】
司会:長井伸仁(東京大学)・前田更子(明治大学)
 13:00 趣旨説明
 13:05 高橋暁生(上智大学)
 「二人の箕作と近代日本における「フランス史」の黎明」
 13:35 小田中直樹(東北大学)
 「火の翼、鉛の靴、そして主体性 - 高橋幸八郎と井上幸治の「フランス歴史学体験」」
  休憩
 14:15 高澤紀恵(法政大学)
 「ルゴフ・ショックから転回/曲がり角、その先へ - 日仏会館から考える」
 14:45 平野千果子(武蔵大学)
 「フランス領カリブ海世界から考える人種とジェンダー - マルティニックの作家マイヨット・カペシアを素材として」
  休憩
 15:30 コメント1 森村敏己(一橋大学)
 15:45 コメント2 戸邉秀明(東京経済大学)
  休憩
 16:10 質疑応答ならびに討論
 17:25 閉会の辞

主催:(公財)日仏会館
後援:日仏歴史学会

NB〈近藤の所感〉: 「近代日本の歴史学」を考えるにあたってフランスにフォーカスしてみることは大いに意味があります。プログラムから予感される問題点があるとしたら、
第1に、箕作・高橋・井上・二宮のライン(東大西洋史!)が強調されているかに思われますが、これとは違う、法学・憲法学の流れ、京都大学人文研のフランス研究がどう評価されるのか。
第2に、20世紀の学問におけるドイツアカデミズムの存在感(とナチスによるその放逐 → 「大変貌」)の意味を考えたい。箕作元八も、九鬼周造もフランス留学の前にドイツに留学しました。柴田三千雄も遅塚忠躬もフランス革命研究の前に、ドイツ史/ドイツ哲学を勉強しました(林健太郎の弟子でした)! さらに言えば、二宮宏之の国制史は(初動においては)成瀬治の導きに負っていました!!

2024年11月17日日曜日

山の上ホテルの記憶

 駿河台の「山の上ホテル」(英語では Hill Top Hotel)を明治大学が取得した、という新聞記事を読みました。16日の『日経』よりも、15日の『読売』のほうが1937年創建という史実、もともと明治大学の施設であったのが、1945年、GHQに接収され、占領終了後、独立して民間ホテルになり、場所柄から、文人がしばしば「館詰め」されるホテルに転じた、ということも明記して要をえた記事でした。テレビドラマ「火宅の人」では、ロケーションに使われました。
 1960年代に、学生のぼくにとっては、御茶の水駅から明大ブントの大きな立看群をすりぬけて、駿河台下・神保町の古書店街に下るその前に、右手にのぼる坂道があって、その奥に見える独特の洋館、不思議な、縁のない建物でしかなかった。
 初めてその建物に入ったのは、正確にいつだったか覚えていません。でも、1987年にある出版社の編集部長と取締役が、(まだ名古屋にいた)ぼくを招いて企画にオルグしようとしたときの現場が、このホテルのロビーだったことは、そのときのお二人の表情までふくめて確かに覚えています。文人のホテルということは、そのころまでに認識していて、まさかここで将来、館詰めにされるんじゃないだろうな、と半分マジメに思ったものです。
【幸か不幸か、流行作家ではないので、その後にも、他の旅館もふくめて「館詰め」の上げ膳下げ膳で原稿執筆したとかいった経験は、ありません。あるのは、大学の自分の研究室で、原稿についてのヤリトリの後、編集者が「わたしは他の仕事を片づけながら待ちますから」と言って鞄からなにか書類を持ちだして、ぼくに背を向けて仕事を始め、数時間すわりこんでしまった。ぼくは机のパソコンに向かって文章をひねり出すほかなかった‥‥といった程度の経験です。】
 次に覚えているのは、1989年9月の「フランス革命200年」の研究集会の折です。(組織責任者の遅塚さんが、ランチは「山の上」の中華、と指定なさって)柴田、二宮、樋口、ヴォヴェル、ルーカス、ハントといった先生方と一緒に、本郷からタクシーに分乗して、Hill Top 1階の中華料理に行って着席したのですが、遅塚さんは実務関連かなにかで到着がかなり遅れました。まぁよい、先に注文、乾杯だと柴田さんの音頭で、英仏チャンポンの談笑が始まったのですが、壁の大きな水墨画に添えられた漢詩には何が表現されているのか、とたしかリン・ハントから質問されて、日本人全員で四苦八苦、冷や汗をかいたのです。しばらくしてようやく遅塚さんが到着。白文を読む遅塚さんにとっては何でもない漢詩で、一挙に解決‥‥、といったこともありました。
 この経験から後は、なんとなく気取った二次会には最適な場所、ということで、ワインを飲むためだけに数人で「山の上」のバーに行く、といったことも90年代にはありましたね。2000年をこえると、そうした luxury は縁遠くなったような気がします。他にもいろんな場所ができたから、ということもあるかな。
 1937年創建の建物が、2024年にもとの明治大学に戻って改装、再利用されるというのは、めでたいことです。機会があれば、再訪してみますか?

2022年7月15日金曜日

7月14日に思ったこと

 35度をこえる暑い日が続いたかと思うと、豪雨が全国的に展開。Covid-19 も第7波入り、というだけでも大変ですが、参院選最終盤の7月8日(金)にあった凶行とその報道、その後の参院選の結果(弔い合戦?)には、暗然とします。
直ちにいろいろと考えましたが、身辺のことに紛れ、ブログ登載はかないませんでした。ここに遅まきながら、すこし書いてみます。
 7月8日昼に奈良であった安倍元首相襲撃/暗殺について、直後の報道や政党の発言の多くは、a.「民主主義への挑戦だ」「暴力による言論封殺は許せない」といったものでした。まもなく b.「特定の宗教団体へのうらみ」という捜査陣からのリーク情報が加わりました。
 後者(b)のリークについては、まず正規の記者会見報道でなくリークであることがけしからんと思いましたが、やがて海外メディアでのみこれが Moonies (文鮮明から始まった世界統一神霊教会)のことだと報じられたのには、怒りに近いものを感じました。日本のマスコミ業界の自主規制はここまで極まっているのです。こういった自主規制≒事なかれ報道に甘んじているマスコミでは、いざという時に信用されませんよ。
 そもそも世界統一神霊教会のことを、今どう名を変えているとしても、「特定の宗教団体」と呼ぶべきなのか、ただの「カルト」ではないか、という付随的な疑問もありますが、こちらは(今日のところは)問題にしません。
 ◇
 むしろ大問題なのは、(a)今回の事件は「民主主義への挑戦」や「暴力による言論封殺」のたぐいなのか、ということです。Oh, No! それ以前の、より深刻な問題ではないでしょうか。
 41歳の容疑者は、民主主義や議会制民主主義に不満をもらしたことはあったのか。あるいは自分の凶行が、国政の基本(国のかたち)にある「効果」をもたらすことを期待して -政治的テロリズムとして- 手製銃の引き金を引いたのか。否でしょう。
 彼はもっと別のレベルの、しかし本人にとっては深刻な不幸(母のこと、失意の人生、誰かの不用意な発言, etc.)について繰りかえし悩み、その不幸の原因を「これ」と思い詰めて、「これ」を解決する/消すためにどうするか執拗に考えた。それが母を奪ったカルトの代表を襲うこと、それが実行不可能となると、第2目標として安倍晋三元首相を襲うことだった。‥‥
 そこには論理の飛躍があり、分析も検証もないままの思いつきで、それを直線的に実行するための情報とノウハウを集積したのでしかありません。しかし、そもそも複合的な事態を調査探究したり、友人や同輩と対話し討論しながら、考えを具体化してゆくという訓練も経験も、彼は -学校でも自衛隊でも- していないのではないでしょうか。そもそも「話し相手」「グチ友だち」といえるほどの人は居なかったのかもしれない。
 TVなどで中学高校の同級生や、職場の同僚が「あんなにおとなしい人が‥‥」「いつも人に合わせる人で、暴力をふるうなんて想像もできない」とコメントするのを聞かされると、そもそも取材する側の無知と想像力の浅さに唖然とします。おとなしすぎる人こそ危険なのです。自分の意見を言ったことのない人こそ(いざとなれば)凶暴になるのです。
 こうしたことは民主主義や議会制よりはるか以前の、人間の社会性、あるいは文明/市民性の大前提ではないでしょうか。
 学校教育で、また社会で、こうした事態や証言の分析、人前での報告、ディベートやディスカッション、そして紙の上での文章化‥‥要するに以前から問われていた公民教育/文明的経験を欠いたまま、やれ「民主主義を守る」だの「言論の自由」だの言ってみても、ただのお題目にすぎないのではないでしょうか。  ◇
 じつは9日(土)午後8:00-8:45のNHKスペシャル「安倍元首相 銃撃事件の衝撃」と題する番組の後半で、御厨(みくりや)さんがコメントしていました。【まだ土曜まで NHK plus での視聴は可能です。】
「‥‥災害、疫病、戦争と続いて、人心が惑った。この国もテロを呼びこむのか。みんなが何でも言える社会になった。これはいい。しかし(イエス or ノーの)二値論理の対立になっちゃっている。これはまずい。自分の要求(思い)が通らない時にどうするか。内容のある議論を尽くして、これなら許せるという妥協点を見つける。このマリアージュが大事です。」
「妥協できる合意」を見つけて実行しよう、という立場です。
 ◇
 1789年7月14日から、フランス革命は時々刻々と展開しますが、1792年、93年と緊迫した情勢で、いわゆるジャコバン派(山岳派)が勢いをもち、93~94年のいわゆる「革命独裁」を国民公会が支持することになります。
 この苛烈な革命独裁は、味方と敵、パトリオットと反革命、徳と悪徳、純粋と腐敗といったシャープな対置、二項対立を是とし、異論をとなえる者、迷い、曖昧なままでいる者を許さず、さらには「まちがえる権利」も許さなかった。『王のいる共和政 ジャコバン再考』(岩波書店、2022)p.14.
 これをかつての「ジャコバン史学」は、歴史の必然とするか、あるいはせいぜい「歴史の劇薬」として是認していた。ロベスピエールやサンジュストの93~94年のメンタリティを、純粋で高貴と受けとめるか、悲劇的に狂っていると受けとめるか。革命史にかかわる人は、全員、この問題に正気で取り組むべきでしょう。
 御厨さんの立場は、必然や劇薬ではない。イギリスの首相ピットも、89年に始まったフランス革命には賛同し(バークとはちがいます)、92年の急転には唖然とし、93年1月のルイ14世処刑には意を決して、2月に対仏大同盟を結成します。はっきりと識別しておきたい。巻末の「関連年表」も活用してください。

2022年6月16日木曜日

王のいる共和政 ジャコバン再考 詳しい目次

先日も言及した中澤達哉(編)『王のいる共和政 ジャコバン再考』(岩波書店、6月28日刊)ですが、いつのまにか岩波書店のウェブサイトに、以下のようなぺージが載っています。
編者名や本のタイトルだけなら、他の広告でも見られますが、
かなり詳しい目次 → https://www.iwanami.co.jp/book/b606557.html
そして何より、
立ち読み(試し読み) → https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0615440.pdf
のコーナーがあるというのは、すばらしい! どうぞ、ご一瞥を。

2022年6月6日月曜日

王のいる共和政 - ジャコバン再考

 5月は歴史とは何か 新版でご挨拶いたしました。おかげさまで、今かなりの反響があります。
 6月28日には、やはり岩波書店で中澤達哉さん(編)の共著『王のいる共和政 ジャコバン再考』が出ます。このところ似た意匠の共著論集がないではないようですが、こちらはいささか ambitious な共同研究、中澤科研の成果です。この公刊により学界の景色、そのトーンもすこし変わるかと期しています。
 ぼく個人にとっても数年かけて自分自身と先生方の研究をふりかえり、この何十年来に学び模索してきたことを総括する文章とすることができて、爽やかな快感をともなう仕事でした。序章「研究史から見えてくるもの」(pp.1-27)を執筆しています。ただし「市民革命」という語は用いていません。
中澤さん、近藤の他に、共著者は:森原隆、小山哲、阿南大、正木慶介、古谷大輔、小原淳、小森宏美、池田嘉郎、高澤紀恵のみなさん。巻末の関連年表もぜひご覧ください。 → https://www.iwanami.co.jp/book/b606557.html

2022年4月18日月曜日

カー『歴史とは何か 新版』 予告の2

◇ [訳者解説のつづき]

 本書の読者は、カーの講演の様子を想像しながらウィットのきいた冗談に笑い、皮肉にため息をつき、豊かで具体的な議論の一つ一つから自由にインスピレーションをえることができる。ただ、本書は論争の書でもあり、どのような筋書きで成り立っている書なのか、その柱と梁だけでも確認しておくのは余計ではないであろう。

 第一講「歴史家とその事実」は、冒頭の謎のようなアクトンは別にすると、その展開のまま素直に読めるであろう。大海原に生息する魚類にたとえられる「事実」と歴史家のあつかう歴史的事実なるものの区別、シュトレーゼマン文書にみる史料のフェティシズム、クローチェとコリンウッドの歴史論。巧みなたとえを用いながら話は進み、結びは、こうまとめられる。歴史家のあぶない陥穽として、一方には事実(過去)の優位をとなえるスキュラの岩礁のような史料の物神崇拝が、他方には歴史家の頭脳(現在)の優位をとなえるカリュブディスの渦潮のような解釈主義/懐疑論、今日のいわゆるポストモダニズムが存在する。しかし、カーとともにある歴史家は、史料/事実に拝跪して座礁するのでなく、主観的な解釈、構築という渦潮に翻弄されて沈没するのでもなく、二つの見地のあいだを巧みに航行する。そうした最後に導かれるのが、よく知られている「歴史家とその事実のあいだの相互作用」「現在と過去のあいだの対話」である。全体を通読した後にもう一度読みかえすなら、「読むのと書くのは同時進行です」といったノウハウ - 論文執筆のヒント - も含めて、第一講に込められた意味はさらによく見えてくるであろう。

 ところで冒頭の欽定講座教授(補註c)アクトンであるが、じつはアクトンの名も彼の『ケインブリッジ近代史』(補註e)も、日本の読者にはあまりなじみがないのではないか。カーは、「アクトンは後期ヴィクトリア時代のポジティヴな信念‥‥から語り出しています」、「ところがですね、これはうまく行かんのです」と否認するかに見える。読者は一読して、アクトン教授とはこの本で最初に否とされる古いタイプの歴史家の役回りなのかと受けとめるであろう。博学なコスモポリタンで、講義でも会話でも人々を知的に高揚させながら、生前に一冊も歴史書を著すことのないまま心筋梗塞(過労死)で亡くなり、せっかくの野心的な企画も挫折した、魅力的で不運な歴史家。「なにかがまちがっていたのです」とカーは畳みかける。しかし、そのアクトンは本書のあらゆる講でくりかえし登場し、論評されるのである。索引を見ても、アクトンはマルクスと並ぶ双璧である。なぜか。片付いたはずの後期ヴィクトリア時代の「革命=リベラリズム=理念の支配」(256, 261ぺージ)の亡霊のようなアクトンが、それぞれの文脈でカーの議論をつないでいる。『歴史とは何か』を解読する一つの鍵はアクトンにある。この点はデイヴィスもエヴァンズも渓内謙も看過している。
 [以下 5ぺージほど中略]

 カーが未完の第二版で意図していたのは「過去をどう認識するかについての哲学論議」(9ぺージ)ではなかった。この点は重要であるがデイヴィスが立ち入らないので、訳者として補っておきたい。もしそうした認識論談義を求められたならば、たとえば『マルク・ブロックを読む』(岩波書店、2005, 2016)における二宮宏之と同じく、思弁的な方法論に淫する人々に向けて弁じたリュシアン・フェーヴルの「そんなことは方法博士にまかせておけばよい」という台詞をカーもくりかえしたのではないか。フェーヴルやブロックについて二宮が明言したのと同様に、カーもまた「歴史を探究し記述するとはいかなる営みなのかを研究の現場に即しながら根本から考え直すような書物を書きたいと希っていた」(二宮、193ぺージ)‥‥[以下1ぺージあまり中略]
 こうしたことより、現役歴史家にとって大きな問題と思われるのは、たとえばしばしば言及されるフランス革命について、G・ルフェーヴルの名はあがってもその複合革命論、ましてやR・R・パーマの同時代国制史への言及がないことである。カーは「歴史家稼業であきなうのは諸原因の複合性です」(146ぺージ)と述べるのにとどまらず、因果(why)だけでなくいかに(how)を考えるという示唆もあった。その因果連関論を縦の系列のつながりに留めることなく、同時的な複合情況(contingency)へと視角を広げ、さらにはアナール派や Past & Present の社会文化史と交流し、啓発しあう可能性もないではなかっただろうが、これは展開されないままに留まった。‥‥[中略]このようにカーの到達点からさらに具体的な「過去を見わたす建設的な見通し」へとつなげてゆくのが、今日の課題なのではないか。「今、わたしたちこそ、さらに一歩先に進むことができる」(333ぺージ)という自叙伝の一文は、わたしたち自身の言明とすることができるであろう。
 その自叙伝は‥‥1980年、88歳にして自分の人生と著作を省みた語りで、そこに反省的な自己正当化が働いていないとは言えない。父のこと以外には家族関係に言及しないという心機が働いているかのようである。それにしても、ここでのみ開示される「秘密」もあり、巻頭の「第二版への序文」と合わせて、晩年のカーの貴重な証言である。エヴァンズを初めとして多くのE・H・カー論の依拠する情報源でもある。
 巻末におく略年譜は、自叙伝ではパスされている事実婚を含む3度の結婚、不如意に終わったロンドン大学の教授ポストへの応募、7年間の失業といった「事実」を補い、‥‥訳者が作成した。激動の20世紀をそのただなかで生き、考え、書いたE・H・カーの姿が浮かびあがる。
 [後略。以下3ぺージあまり]

 5月の刊行を、お楽しみに! → 岩波書店 twitter

2021年11月21日日曜日

ジャコバンと共和政(12月11日)

 このかんのパンデミックのもたらした「副反応」、明らかな革新の一つは、Zoom Meeting をはじめとするオンライン会議や授業の普及です。こんなにも便利な会談やセミナーのツールを知ってしまうと、パンデミックが収まった後にもお払い箱どころか、利用する機会は維持されるでしょう。
逆に、この流れに乗りきれなかった方々は、こうした関係性から(意図せずも)排除されてしまうわけで、以前から云々されていた IT divide はますます進行するのでしょうか。
 昨日(土)午後は、12月に予定されている早稲田の WIAS 公開シンポジウム「ジャコバンと共和政」のための準備会があり、十分な緊迫感をともなう研究会となりました。 初めての方とお話する場合も、対面なら1メートル~ときには数メートル以上の距離を保っての会話ですが、ウェブ会議ですと数十センチのところに据えたスクリーンで向かいあうわけで、(自分の)髪やシワなども含めて、クロースアップのTVを見るような感覚です。 自室の文献などをただちに参照できるのも便利。
 ところで、「ジャコバンと共和政」というタイトルのシンポジウムに、よくも大きな顔をして出てこれるな、という声もあるかもしれません。
じつはぼくの指導教官は柴田三千雄さんですから、「ジャコバンとサンキュロット」という問題も「複合革命」という論点もしっかり刻まれています。Richard Cobb を読んでから E・P・トムスンに向かった、というのは日本人では(英米人でも?)珍しい経路でしょう。コッブの人柄については、柴田さんから60年代前半にパリでソブールのもと付き合った逸話など聞いていました。ずっと後年になって、オクスフォードの歴史学部の廊下で歴代教授の肖像として比較的小さなペン画に対面しました。 → その後任がコリン・ルーカスでした。
どこかでも申しましたとおり、1950年代のおわりに、コッブ、トムスン、そしてウェールズの Gwyn Williams の3人はフランス革命期の各地のサンキュロット(patriot radicals)を発掘する研究をそれぞれ出し揃えて比較するのもいいよね、と話合い、その一つの結果が『イングランド労働者階級の形成』という名の radical republican 形成史だったのです。

 もう一つの共和政/respublica 論については、成瀬治さんの国制史(そしてハーバマス!)を経路として、時間的にはやや遅れましたが、ナチュラルにぼくの中に入ってきました。

その12月11日の WIAS催しの案内はこちらです。↓
https://www.waseda.jp/inst/wias/news/2021/10/29/8504/ 
ポスターは https://bit.ly/3bHG3cr 
無料ですが、予約登録が必要です。 ただし、【グローバル・ヒストリー研究の新たな視角】とかいった謳い文句は、ぼくの与り知らぬものです。

2020年2月5日水曜日

ピート市長!


アイオワ州の民主党コーカスで、途中経過ながら、まさかの38歳 Pete Buttigieg が第1位!
政治手腕は未知数ですが、若さと落ち着きの好青年、democratic capitalism を支持する、カトリック≒アングリカンというので、案外これから他州でも支持を拡げるかも。Gay であると公言したうえでの出馬ですから、今後は右翼からの攻撃・揶揄はすごいでしょう(警備はしっかりやってほしい)。

長い大統領選挙キャンペーンで、ぼくが考える第1の基準は「トランプに勝てるか」です。サンダーズやウォレンがどれだけ正しいことを主張しても、最終的に全国で勝てない選挙戦をつづけるのは、トランプ再選に手を貸すことになる。今のアメリカ合衆国で50%以上の有権者を獲得できる、かつ理性的な政策・政治姿勢はなにか、という観点から考えるべきです。
想うに、16世紀フランスの血で血をあらった宗教戦争(36年間におよんだ)の最後に出現したポリティーク派(正しい信仰かどうかよりも、公共善/国家の存立を優先した人文主義者たち)の選択を、いまも実際的で賢明だと思います。「パリはミサに値する」。プロテスタントのナヴァル王アンリは、みずからの信仰を曲げてまで、内戦の終結、フランス王国の安泰、各信教の自由を優先しました。近世フランス、ブルボン朝の繁栄の始まりです。

ところで CNN も言うとおり、
  But while Buttigieg will struggle with building national name recognition,
  voters will likely struggle with pronouncing his name.
マルタ系の氏名らしいですが、日本のマスコミの「ブティジェッジ」という表記には無理がある。ゲルマン風には「ブティギーク」となりますが、これでは硬い。最初の音節 Butt に強勢をおいて、後半の -gieg をどう流すか、がポイントですね。弱く「ジッジ」ないし曖昧母音で「ジャッジ」かな。
https://edition.cnn.com/2019/01/23/politics/how-to-pronounce-pete-buttigieg/index.html
↑ こんなサイトがあります。すでに1年前にCNNの質問に答えて本人が「ブティジッジ」(後半は弱く曖昧)と発音しています。でも笑って「ピート」でいいんだよ、とのこと。

2020年1月2日木曜日

Ghosn's gone!


 大晦日の年賀状作成作業が佳境に入っているときに飛び込んできたのが、Ghosn's gone! という速報。アクション映画かなにかで見たような、あるいはフランス革命の重要局面に似ていなくもない逃亡劇です。(日本の当局もマスコミも、年末年始で、この突発事件にすみやかに対応できないまま!)
 この事件を考えるさいに2つのイシューがあり、混同することはできません。

1.日本の司法における人権無視。
 これはぼくたちが学生のころからまったく変わっていません。日本(や東アジア、また他の中進国で)の刑事訴訟法では(疑わしきは無罪、とは大学の授業でのみ唱えられるお題目で)、逮捕時点から被告・容疑者は有罪を想定されていて、しかも実際の運用で、有罪と自白するまで、執拗な取り調べがつづき、釈放されず、外の人々との接触も制限される。【「証拠隠滅のおそれ」という口実で、じつは非日常の空間に長期間拘束された】本人がよほどの忍耐心と自尊心をもちあわせていないと、「楽になりたいばかりに」、真実とずいぶんズレても「自白」とされる検事の用意した調書(彼の構築したストーリ)の最後に署名捺印して釈放される、ということがどれだけ繰りかえされてきたことか。あいつぐ冤罪事件は、ほとんどこれでしょう。「冤罪」ほどでなくとも、正確には違うのだけれど、もぅ疲れた、もぅ終わりにしたい、というケースがどんなに多いか!
 もと厚労事務次官・村木厚子さんのたたかいを、みなさん覚えているでしょう。
 人権の国フランスで教育されたカルロス・ゴーンおよびその周囲の人々は、これを耐えがたい人権侵害と受けとめて、それには屈しなかった。たいする日本の司法官僚たちは、「法治国家日本」のメンツをかけても、現行刑事訴訟法にもとづく作法と手続を駆使して、「外圧」なにするものぞ、と挑んだのでしょう。
 こうした日本の「近代的」文化にもとづく刑事訴訟法(とその実際)にたいする異議申し立てに、ぼくは賛成です。この点にかぎり、ゴーンおよびその弁護団を支持していました。

2.それと今回の逃亡劇とは、まったく別問題です。
 あのソクラテスにとっても、悪法といえども法は法。手続上はそれにしたがい、有能な弁護士と全面的に協力して戦略戦術をたて、具体的に論駁し、たたかうべきだった。ましてやソクラテスの場合とは違って死罪ではなく、経済犯容疑で時間的猶予はあったのだから、何年かけてもたたかって人権のチャンピオンになることすら可能だった。【随伴的に、日本の刑事訴訟法の改正に向かう道が切り開かれるかもしれなかった!】
 それなのに逃亡しては、しかも妻の進言か手引により、クリスマス音楽会を催して大きな楽器ケースに紛れて(?)家を出たうえ、パスポート偽造か偽名を使って日本を出国し、トルコ経由でベイルートへという茶番! (フランス・パスポートは2通目をもっていた!)Extradition treaty (これぞ今、香港でたたかわれている問題!) のないレバノンで、日産と日本の司法の非を鳴らしつつ、これから一生過ごすおつもりですか?
 下手なアクション映画にありそうな筋立てですが、こうした偽装逃亡劇をやってしまうと、日本の世論も欧米の世論も急転直下、ゴーンの人格・品位を疑い、支持しなくなるでしょう。弁護チームもお手上げです。ご本人のベイルートからのメッセージは、このとおり ↓
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54000320R31C19A2I00000/?n_cid=DSREA001
「わたしは裁き・正義(la justice)から逃れたのではなく、不正・権利侵害(injustice)と政治的迫害から自由になったのだ」という主張ですが、これは通りません。たしかに Wall Street Journal だけは
It would have been better had he cleared his name in court, but then it isn’t clear that he could have received a fair trial.
と仮定法で擁護しています。clear のあとの that は if と読み替えたいところ(https://www.wsj.com/articles/the-carlos-ghosn-experience-11577826902?mod=cx_picks)。辣腕投資家・経営者の味方・WSJ らしい論法で、歴史的に考えない無知の表明です。
 フランスで高等教育をうけたカルロス君のよく知るとおり、革命から2年、1791年6月、ルイ16世が王妃マリ=アントワネットとともに変装して逃亡し、国境近くで阻止されて、パリに召喚され、さんざ嘲られた事件を想い出してほしい。もしやカルロス君は理工系だから、このヴァレンヌ事件なんて知らない、とは言わせない。このときまで立憲君主制(イギリス型の近代)という落とし所が用意されていたフランス革命は、もう止める堰もなく、王なしの共和国、人民主権の革命独裁に突き進むしかなくなったのです。

 この第2点により、ぼくも弁護団も、コングロマリットの普遍君主カルロス・ゴーンを、いささかも擁護できなくなってしまいます。http://kondohistorian.blogspot.com/2018/11/blog-post_23.html
コングロマリットとは『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社、2016)pp.14-16 でも喩えた、ヨーロッパの政治的なまとまり、国際複合企業の様態をさす専門用語です。これは礫岩とも「さざれ石」とも訳せますが、ここでは明治天皇の行幸した武蔵の大宮(現さいたま市)の氷川神社にある「さざれ石」を見ていただきます。
 いかに経年変化により「‥‥いわおとなりて、苔のむすまで」にいたっても、本質的にこういった脆い結合体ですから、「一撃」があれば、容易にくだけ散ります。

2019年11月12日火曜日

平田清明著作 解題と目録


 史学会大会から帰宅したら、『平田清明著作 解題と目録』『フランス古典経済学研究』(ともに日本経済評論社)が揃いで待ってくれていました。
どちらも「平田清明記念出版委員会」の尽力でできあがったということですが、知的イニシアティヴは名古屋の平田ゼミの秀才:八木紀一郎、山田鋭夫にあることは明らかです。
 『フランス古典経済学研究』は平田39歳の(未刊行)博士論文。http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2537
 『平田清明著作 解題と目録』は、刊行著書のくわしい解題と、略年表、著作目録。http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2538

 こうした形で出版されことになった事情も「まえがき」にしたためられています。
 「門下生のあいだでしばしば浮上した平田清明著作集の構想の実現が、現在の出版事情から困難であったからである。‥‥しかし、図書館の連携システムや文献データベース、古書を含む書籍の流通システムが整備されている現在では、一旦公刊された文献であれば、労を厭いさえしなければ、それを入手ないし閲読することがほとんどの場合可能である。‥‥そう考えると、いま必要なのは、著作自体を再刊することではなく、それへのガイドかもしれない。‥‥それに詳細な著作目録が加わればガイドとしては完璧であろう。‥‥
 そのように考えて、著作集の代わりに著作解題集・著作目録を作成することになった」と。
 まことに、現時点では合理的な判断・方針です。1922年生まれ、1995年に急死された平田さんの『経済科学の創造』『市民社会と社会主義』『経済学と歴史認識』から始まって、すべての単著の概要・書誌・反響・書評が充実しています。また「略年表」とは別に、なんと143ぺージにもわたる「著作目録」があります。見開きで「備考」が詳しい! 「追悼論稿一覧」も2ぺージにおよびます!
 とにかく、ぼくが大学に入学した1966年から『思想』には毎年、数本(!)平田清明の論文が載り、『世界』に載った文章も含めて『市民社会と社会主義』が刊行されたのは1969年10月。東大闘争の収拾局面、ベトナム戦争の泥沼、プラハの春の暗転。こうしたなかで平田『市民社会と社会主義』が出て、ぼくたちが熱烈に読み、話題にしはじめて3ヶ月もしないうちに、日本共産党は大々的に平田攻撃を開始して『前衛』『経済』を湧かせ、労農派も平田の反マルクス主義性をあげつらう、という具合で、鈍感なぼくにも、誰が学ぶに値し、どの雑誌や陣営がクズなのか、よーく見通せることになった。
 そうしたなかで、わが八木紀一郎は驚くべき行動をとりました。東大社会学・福武直先生のもとで「戦前における社会科学の成立:歴史意識と社会的実体」というすばらしい卒業論文(1971年4月提出)を執筆中の八木が、東大でなく名古屋大学の経済学大学院を受けて(当然ながら文句なしに*)合格して、卒業したら名古屋だよ、と。すごい行動力だと思った。
 *じつは受け容れ側の名古屋大学経済学研究科の先生方は、筆記試験も卒業論文も抜群の東大生がどうして名古屋を受験するのか、なにか秘密があるのか、戦々恐々だった、と後年、藤瀬浩司さんから聞きました。平田先生のもとで学びたい、というだけの理由だったのです! ただし、その平田先生は73年に在外研究、78年に京都大学に移籍します。八木もドイツに留学します。

 ぼくも西洋史の大学院に入ったばかりのころ、八木の紹介で、本郷通りのルオー【いまの正門前の小さな店ではなく、菊坂に近い現在のタンギーにあった、奥の深い喫茶店】で平田先生と面談し、わが卒業論文(マンチェスタにおける民衆運動:1756~58年)の要点をお話ししただけでなく、1972年3月には滋賀県大津の三井寺で催された名古屋大学・京都大学合同の経済原論合宿の末席を汚して、経済学批判要綱ヘーゲル法哲学批判などを読み合わせたりしたものです。そこには奈良女の学生もいました。
 マルクス主義者というより、内田義彦に通じる、経済学と人間社会を(言葉にこだわりつつ)根底的に考えなおす人、としてぼくは平田清明に惹きつけられたのでした。

 68-9年からこの『平田清明著作 解題と目録』の刊行にいたるまで、現実に与えられた諸条件のなかで「筋を通す」という生きかたを貫いておられる、「畏友」八木紀一郎に敬意を表します。

2019年10月25日金曜日

ノートルダム大聖堂 と 時代


 10月19日(土)にはパリ・ノートルダム大聖堂の炎上 → 再建・修復をめぐってのシンポジウムが上智大学であり(司会・問題提起は坂野さん)、問題は単純ではないということが具体的に示されて有意義でした。http://suth.jp/event/20191019/ 「つくられた伝統」という観点からも。ただし、多くの報告者が建築の歴史を語るときに、フランス王国ないし共和国の枠組が自明のように前提されて、「美(うま)し国」のなかで歴史も文明も完結するかのごとく、縦の系譜がたどられて、ちょっと待ってくださいという気にもさせられました。
 その点で、最後の松嶌さんの報告は、ケルンやシュトラースブルク、さらにはコヴェントリにも議論を拡げていました。「ゴシック様式」の起源がイル=ド=フランスだったらしいというのはいいとして、建築様式をはじめとする技能は(そもそも中世には薄弱な)国境を越えて遍歴する職人集団によって伝えられたし、そうでなくともアイデアやノウハウは真似られ、流行し、継承され、いずれ改変される。近現代においても技術やアートは、たやすくネーションや国境を越えて伝播しますよね。
 また都市史の観点からも考えさせられる指摘があり、大聖堂とその周囲の街並みとの交わりについて、中島さんの図版に、18世紀前半までパリ・ノートルダム大聖堂のすぐ近くまで町家が建て込んでいたことが示されました。その後のクリアランスはパリやフランス諸都市に限らず、およそ啓蒙ヨーロッパに共通の改良(improvement)運動として展開するのが、おもしろい。イギリスでは18世紀が(道路や広場の)改良委員会の時代です。ロンドンの聖ポール大聖堂も、ケインブリッジのキングズ学寮チャペルも、周囲に(今あるような)公共空間ができるのは18世紀です。有名どころとしては、キャンタベリの大聖堂が「街並み改良」としては立ち遅れて、その結果、今日にいたっても建て込んで、ちょっと離れた位置から大聖堂全体の美しい写真を撮ることができませんね。観光絵ハガキでは、したがって、航空写真を使うのがふつうです!
 18世紀が啓蒙だけでなく、新古典主義とバロック・ロココ、あるいは加藤さんの論じられた「良き趣味」の拡がりという点からも、画期なのだ;ドイツでコゼレクたちの論じてきた Sattelzeit がここにも認められる、と思いました。このシンポジウムでは、ヴィクトル・ユゴーやル=デュクの中世趣味的な「修復」の観点を強調することによって、19世紀の中世=ロマン主義の時代性、それに先行した the age of enlightenment の普遍性みたいなことが浮き彫りにされたのかもしれません。

 音楽演奏では、ブリュッヘンたちの Orchestra of the eighteenth century,
専従指揮者のいない Orchestra of the age of enlightenment,
そして J E ガードナ(Gardiner)の Orchestre révolutionnaire et romantique
が競合し共存した時代をへて、今はまたすこし変貌しているかに見えますが。

2019年5月20日月曜日

ジャコバン シンポジウム

 19日(日)午後、静岡大学においける小シンポジウム「革命・自由・共和政を読み替える - 向う岸のジャコバン」は、当日直前までハラハラしていたわりには、「案ずるより産むは易し」でした。有機的に連関して、かつ発展の芽がみえるセッションになったのではないでしょうか。ぼくも第1報告を担当しました。
 終了後にある先生から、チーム内の考え方の不一致というより多様性を指摘されました。それは認めますが、そうした点はネガティヴよりはポジティヴに受けとめてほしいと思いました。なにより
1) シンポジウムとして、各報告間とコメント間にたしかな共振・呼応関係があり、
2) (18世紀やモンテスキュはもちろん)いくつか重要で大きな論点が開示され、それを我々も出席者も持ち帰っていま再考=熟慮中という事実に、発展的な可能性をみるべきではないでしょうか。

 たとえばですが[古代からの継続・近世史のイシューについては、すでにいろんな方々が問うておられますので、近代以降を展望しますと]、
・厳密な「ジャコバン主義」は歴史家の概念として、(1793-4年の)山岳派・ロベスピエール(そしてバブーフも?)の言説・思想から抽出した理念型として、考え用いるべきでしょう。
・理念型としての「ジャコバン主義」においては18世紀から革命へと(近代的)断絶がみられますが、広汎な向う岸の「ジャコバン現象」においては res publica も君主政も19世紀へと連続しえた。しかも、こうした異質の両者が1790年代には共振する情況・関係がありました。
・19世紀にはイギリスが、ジャコバン主義的近代もウィーン体制も拒絶しつつ、経験主義的な改良を重ねて Pax Britannica の世界秩序を築きあげる。その国のかたちは君主政・貴族政・民主政の混合政体で、しかも自由放任です。
・こうしたイギリス型近代に対抗すべきフランス型近代は、清明な合理主義による統制をめざすとみえてもストレートには行きません。体制転換(革命やクー)を繰りかえしつつ、パリコミューンを鎮圧した第三共和政で、ようやく1789年/93年的なフランス革命が国是とされます。フランス史における contemporain=近現代=革命体制の遡及的措定ですね。
・上海租界地などで今も19世紀半ば以降のイギリス型近代とフランス型近代の競争的な共存を目撃し再確認できますが、共通の敵/市場に対峙する列強=英仏の協力関係、それを補完するようにナショナルな様式を顕示した建築やデザイン -

 こうした議論もいくらでも展開できるでしょう。
 ぼく個人としては
長い18世紀のイギリス その政治社会』に結実したシンポジウム(2001年@都立大)、
礫岩のようなヨーロッパ』に結実したシンポジウム(2013年@京都大)
を想い出しつつ、前を向いています。

2019年4月18日木曜日

寺院? 大聖堂!


 パリのノートルダムの大火災は驚くばかりで、痛ましい事件です。
ただし、CNNによれば、精緻な計測とディジタル記録が残っているとのことで、再建の望みはそれなりにあるわけですね。
https://www.cnn.co.jp/world/35135896.html

 日本の報道では、あいかわらず「ノートルダム寺院」という呼び方で、いかに仏蘭西(!)とはいえ、仏の教えの痕跡はどこにもないでしょう。法隆寺や本願寺ではないのだから、そしてカテドラルには「大聖堂」または「司教座聖堂/大司教座聖堂」という定訳があるのだから、こちらを使ってください!
 ロンドンの場合ですと、Cathedral Church of St Paul's が「セントポール寺院」、Collegiate Church of St Peter at Westminster が「ウェストミンスタ寺院」と呼び習わされているのも、イージーというか、混濁的ですね。

2019年4月11日木曜日

向う岸のジャコバン

 日本西洋史学会・静岡大会における小シンポジウム(きたる5月19日)ですが、
そのウェブサイトのどこを探しても、各小シンポジウムの趣旨説明と「目次」は見えますが、各報告の要旨は載っていません。昨12月末〆切で、準備委員会の定める厳密な書式設定で提出しました物はどうなっちゃったのでしょう? 例年の大会サイトでは各報告の要旨も掲載されて、どんなシンポジウムになるか、事前からよく想像できるようになっていました。

 中澤達哉さんの組織した小シンポジウム6「革命・自由・共和政を読み替える-向こう岸のジャコバン」は、このとおりです。

革命・自由・共和政を読み替える ― 向う岸のジャコバン ― 」

近藤 和彦 ジャコバン研究史から見えてくるもの
古谷 大輔 混合政体の更新と「ジャコバンの王国」― スウェーデン王国における「革命」の経験 ―
小山 哲  ポーランドでひとはどのようにしてジャコバンになるのか ― ユゼフ・パヴリコフスキの場合 ―
中澤 達哉 ハンガリー・ジャコバンの「王のいる共和政」思想の生成と展開 ―「中東欧圏」という共和主義のもうひとつの水脈 ―
池田 嘉郎 革命ロシアからジャコバンと共和政を振り返る

コメント 高澤紀恵・正木慶介・小原 淳
(企画:中澤達哉)

 このうち近藤の発表要旨について、右上の Features で紹介します。

2019年1月31日木曜日

パーマ『民主革命の時代』旧版・新版いずれも


〈承前〉 というわけで、新版(2014)に不都合や瑕疵はあるとはいえ、しかし、ヤル気のある学生たちに手に入りやすい形と値段で、この20世紀の古典が再版されたのは、悪いことではない。
 礫岩のような国家とか、躍動する国制史とか、言ってきた者にとっての価値は無限です。このパーマの書物には conglomerate state とか composite monarchy といった用語こそないけれど、なんと
「ウィーンのハプスブルク君主政とは、一種の巨大持ち株会社のようなもの(a kind of vast holding company)で、その下であまたの従属的な社団の構造が生命を維持していた」(旧版 I: 103; 2014版では p.78)
といった文が次から次に出てきます。いったいアンシァン・レジームの絶対主義とか社団的編成とか唱えていた論者は、これを見過ごしていたのでしょうか? それとも、そもそも NATO 史観のアメリカ人の本など相手にしない、という姿勢だったのでしょうか? こういった「方法的ナショナリズム」こそ、パーマが反対したものでした。「比較国制史の試み」(p.3)なのだけれど、各国史を束ねて終わりではなく、
 The book attempts to deal with Western Civilization as a whole, at a critical moment in its history(p.6)
と宣言します。さらに第2巻の序では
 I have tried to avoid a country-to-country treatment, and to set forth . . . on the wider stage of Western Civilization (2014版では p.376)
と念を入れています。
 ヨーロッパおよびアメリカの monarchy and republicanism, aristocracy and an emerging democracy が本書のテーマだと言うんですから、「主権概念の批判的再構築」のグループにも、「向こう岸のジャコバン」のグループにも、およそ歴史学的に政治社会と取り組もうという方々には例外なく必読文献(再読文献)ではないでしょうか。国制史は躍動するとか、well-ordered state とか、ホッブズ的秩序問題とか語っていた人、そして18世紀「啓蒙」に取り組んできた識者にむかっては、あらためて言うも愚か、かな。

2019年1月30日水曜日

R. R. パーマ『民主革命の時代』第2版(2014)


〈承前〉 というわけで、今回、書き込みの一杯ある手元の Princeton U.P., 1959-64 のぺーパーバック2巻本と対照しつつ、アーミテジのお弟子さんであるWくんの進言にすなおに従い、Princeton Classics edition, 2014 の1巻本を購入して再読することにしました。旧2巻本には40年以上も自分のカバーをかけて大事に扱ってはきましたが、汗とほこりと経年変化で、いささか脆くなっています。新1巻本はソフトカバーだけれど材質(acid-free paper)に工夫があり、丈夫で触感も悪くない。
 R. R. Palmer (1909-2002) ご本人は亡くなって久しいので、この第2版の出版全体について学識ある責任者はだれだったのでしょう。アーミテジは「前言」を執筆して彼の仕事を歴史のなかに位置づけていますし、また息子 Stanley Palmer もテキサス大学の歴史学教授だとのことですが、はたして、内実的な編集を supervise したのはだれか、ということは明確ではありません。扉のうら、(c) 2014 の奥付ぺージに This book includes the complete text of the work originally published in two volumes .... と記されていますが、じつは以下のような特徴ないし問題があります。

 まずは物理的な特徴から。
① 旧版は I(The Challenge) 9 + 534 pp.

     II(The Struggle) 9 + 584 pp.

 新版はこれを1巻に合体して 22 + 853 pp. に収めています。
  
単純に比較してぺージ数で 1,136ぺージ → 875ぺージ、つまり77%に減量。
本文・註ともに省略せず100%生かすために、その分、各ぺージの版面は圧縮されていて、
  旧版は1ぺージに40行、概算で約428 words,
  新版は1ぺージに45行、概算で約652 words.
旧版でも1ぺージにほぼA4・1枚分より詰めた感じの(充実した!)仕上がりだったのに、その1.5倍以上に詰まった版面で、字のポイントも小さい。
しかも旧版では各章の始まりは改丁して贅沢に1枚の紙の表裏をつかい、余白の美が読者をほっとさせてくれていたのに、新版はさすが章の始まりこそ「改頁」としていますが(改丁ではない)、余白はできるだけ詰めようという方針らしく、中高年の読者にはつらい仕上がりです。一巻本で900ぺージ未満に、という出版社側のコスト圧縮への強い意志のようなものを感じます。

 さらには、(旧版と対照しつつ)読み始めてから気付くことですが、
② 旧版にあった段落の区切りを無視して、2つの段落を合体して1つにするといったこと(これは暴挙!)が無断でおこなわれています。cf.新版の pp.14, 19, 26, etc.
古典的なテクストがたいへん長い場合、モダンな版では段落を分けるといったことがしばしば慣行としておこなわれているのは承知していますし、それは意味の無いことではないと思います。が、この Princeton Classics でおこなわれているのは、その逆です。

③ 旧版ではフランス語のアクサン、ドイツ語のウムラウトをはじめとする語の修飾が丁寧になされていたのに、新版ではこれらを、ときに(!)無視する、という中途半端な方針。しかも、OCRで読み込んだ結果でしょうか(?)、like a girl, ... like a child とすべきところが life a girl, ... life a child となっちゃって意味不明(p.42)といった瑕疵もあります。こうしたことは、いかに globalization=Americanization=digitization の時代とはいえ、立派な出版社ならやっちゃいけないことですよね。

④ 索引について。新版は2つの巻の合体により、索引も合体されて便利になったばかりでなく、じつは旧版になかったいくつかの項目 absolutism, British Parliament, などが独立して、使いやすさが改善したと思われます。
 ただし constituted bodies, corporatist school, intermediate bodies, patriot, patria (patrie), prescription (自然権の反対), virtue, well-ordered state といったパーマのキーワードは、残念ながら索引として立項されていない。また sovereign/sovereignty という項目はあるけれど、人民主権でない意味で使われた箇所については採用しない、といった瑕疵があります。
 旧版において原著者が立項しなかったのだから‥‥という言い訳はあるかもしれないし、索引は読者が自分で必要に応じて補えばよろしい、といった考え方もないではないけれど、20世紀の「古典」を今のアカデミズムのなかで生かすためには、やはり著者のキーワードについては立項したい。
 それから、新版の索引には信じがたい過ちも新たに生じています。たとえば、プロイセン王国のフリードリヒ2世(大王)は当然ながら立項されて、英語表記で Frederick the Great なのですが、これがなんと、Frederick William II [king of Prussia] と合体されてしまった。編集者さん(あるいはアルバイトの院生さん)、Frederick II [king of Prussia] という項目が必要なのですよ! 旧版の索引ではそこは間違いなく独立していましたから、一知半解の索引アルバイターがやっちゃったのかな?