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2020年1月2日木曜日

Ghosn's gone!


 大晦日の年賀状作成作業が佳境に入っているときに飛び込んできたのが、Ghosn's gone! という速報。アクション映画かなにかで見たような、あるいはフランス革命の重要局面に似ていなくもない逃亡劇です。(日本の当局もマスコミも、年末年始で、この突発事件にすみやかに対応できないまま!)
 この事件を考えるさいに2つのイシューがあり、混同することはできません。

1.日本の司法における人権無視。
 これはぼくたちが学生のころからまったく変わっていません。日本(や東アジア、また他の中進国で)の刑事訴訟法では(疑わしきは無罪、とは大学の授業でのみ唱えられるお題目で)、逮捕時点から被告・容疑者は有罪を想定されていて、しかも実際の運用で、有罪と自白するまで、執拗な取り調べがつづき、釈放されず、外の人々との接触も制限される。【「証拠隠滅のおそれ」という口実で、じつは非日常の空間に長期間拘束された】本人がよほどの忍耐心と自尊心をもちあわせていないと、「楽になりたいばかりに」、真実とずいぶんズレても「自白」とされる検事の用意した調書(彼の構築したストーリ)の最後に署名捺印して釈放される、ということがどれだけ繰りかえされてきたことか。あいつぐ冤罪事件は、ほとんどこれでしょう。「冤罪」ほどでなくとも、正確には違うのだけれど、もぅ疲れた、もぅ終わりにしたい、というケースがどんなに多いか!
 もと厚労事務次官・村木厚子さんのたたかいを、みなさん覚えているでしょう。
 人権の国フランスで教育されたカルロス・ゴーンおよびその周囲の人々は、これを耐えがたい人権侵害と受けとめて、それには屈しなかった。たいする日本の司法官僚たちは、「法治国家日本」のメンツをかけても、現行刑事訴訟法にもとづく作法と手続を駆使して、「外圧」なにするものぞ、と挑んだのでしょう。
 こうした日本の「近代的」文化にもとづく刑事訴訟法(とその実際)にたいする異議申し立てに、ぼくは賛成です。この点にかぎり、ゴーンおよびその弁護団を支持していました。

2.それと今回の逃亡劇とは、まったく別問題です。
 あのソクラテスにとっても、悪法といえども法は法。手続上はそれにしたがい、有能な弁護士と全面的に協力して戦略戦術をたて、具体的に論駁し、たたかうべきだった。ましてやソクラテスの場合とは違って死罪ではなく、経済犯容疑で時間的猶予はあったのだから、何年かけてもたたかって人権のチャンピオンになることすら可能だった。【随伴的に、日本の刑事訴訟法の改正に向かう道が切り開かれるかもしれなかった!】
 それなのに逃亡しては、しかも妻の進言か手引により、クリスマス音楽会を催して大きな楽器ケースに紛れて(?)家を出たうえ、パスポート偽造か偽名を使って日本を出国し、トルコ経由でベイルートへという茶番! (フランス・パスポートは2通目をもっていた!)Extradition treaty (これぞ今、香港でたたかわれている問題!) のないレバノンで、日産と日本の司法の非を鳴らしつつ、これから一生過ごすおつもりですか?
 下手なアクション映画にありそうな筋立てですが、こうした偽装逃亡劇をやってしまうと、日本の世論も欧米の世論も急転直下、ゴーンの人格・品位を疑い、支持しなくなるでしょう。弁護チームもお手上げです。ご本人のベイルートからのメッセージは、このとおり ↓
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54000320R31C19A2I00000/?n_cid=DSREA001
「わたしは裁き・正義(la justice)から逃れたのではなく、不正・権利侵害(injustice)と政治的迫害から自由になったのだ」という主張ですが、これは通りません。たしかに Wall Street Journal だけは
It would have been better had he cleared his name in court, but then it isn’t clear that he could have received a fair trial.
と仮定法で擁護しています。clear のあとの that は if と読み替えたいところ(https://www.wsj.com/articles/the-carlos-ghosn-experience-11577826902?mod=cx_picks)。辣腕投資家・経営者の味方・WSJ らしい論法で、歴史的に考えない無知の表明です。
 フランスで高等教育をうけたカルロス君のよく知るとおり、革命から2年、1791年6月、ルイ16世が王妃マリ=アントワネットとともに変装して逃亡し、国境近くで阻止されて、パリに召喚され、さんざ嘲られた事件を想い出してほしい。もしやカルロス君は理工系だから、このヴァレンヌ事件なんて知らない、とは言わせない。このときまで立憲君主制(イギリス型の近代)という落とし所が用意されていたフランス革命は、もう止める堰もなく、王なしの共和国、人民主権の革命独裁に突き進むしかなくなったのです。

 この第2点により、ぼくも弁護団も、コングロマリットの普遍君主カルロス・ゴーンを、いささかも擁護できなくなってしまいます。http://kondohistorian.blogspot.com/2018/11/blog-post_23.html
コングロマリットとは『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社、2016)pp.14-16 でも喩えた、ヨーロッパの政治的なまとまり、国際複合企業の様態をさす専門用語です。これは礫岩とも「さざれ石」とも訳せますが、ここでは明治天皇の行幸した武蔵の大宮(現さいたま市)の氷川神社にある「さざれ石」を見ていただきます。
 いかに経年変化により「‥‥いわおとなりて、苔のむすまで」にいたっても、本質的にこういった脆い結合体ですから、「一撃」があれば、容易にくだけ散ります。

2019年6月4日火曜日

ジャコバン・シンポジウム反芻


 5月19日西洋史学会大会小シンポジウム〈向う岸のジャコバン〉と、26日歴研大会の合同部会〈主権国家 Part 2〉における討論は、人的にも内容的にも連続し重なるところが多いものでした。文章化するまですこし余裕があるので、メール交信にも刺激されながら、反芻し考えています。とりあえず3点くらいに整理すると:

1.Res publica/republic/commonwealth にあたる日本語の問題
 これは古代由来の「公共善を実現すべき政体」ですが、politeia でもあり、「政治共同体」「政治社会」とも訳せますね。 cf.『長い18世紀のイギリス その政治社会』(山川出版社)pp.7-11 でも初歩的な議論を始めていました。
岩波文庫でアリストテレス『政治学』と訳されている古典は、ギリシア語で Ta Politika, ラテン語版タイトルは De Republica です。その訳者・山本光雄は訳者注1で、本書のタイトルにつき「もともと「国に関することども」というぐらいの意味で‥‥むしろ『国家学』とする方が当っているかも知れない」(岩波文庫、p.383)としたためています。また巻末の「解説」では同じ趣意ながら、「字義通りにとれば、「ポリスに関することども」という意味になるかと思う」(p.443)と言いなおしている。
 宗教戦争中に刊行されたボダンの De République は『国家論』と訳され、共和政下に刊行されたホッブズ『リヴァイアサン』の副題は「聖俗の Commonwealth の素材・形態・力」でした。それぞれ「あるべき国のかたち」を求めての秩序論でした。
これが、しかし、ジャコバン言説(を結果的に生んだ18世紀第4四半期)あたりから「君主政を否定した政治共同体」=「王のいない共和政」を主張する republicanism の登場により、19世紀にはこちらが優勢となり、福澤諭吉の『西洋事情』(1867)では、「レポブリック」が即(モナルキアリストカラシと並び区別された)デモクラシの意味で紹介されるに至るわけです。
 とはいえ、共和政・共和国という表現は、今にいたるまで(自称・他称のいずれも)ある種の「理想的な政治共同体」「当為の公共善(へ向かうもの)」を指して、使われるようです。フランス共和国も、朝鮮人民共和国も、主観的には理想郷(をめざす運動体)なのですね! ここで共和主義と祖国 patrie への愛がポジティヴに語られるのが、おもしろい。何故?

 かねてから中澤さんの指摘なさる「王のいる共和政」については、中東欧だけの問題ではなく、イングランドの研究史でも Patrick Collinson (ケインブリッジの近代史欽定講座教授、Q.スキナの前任者) による The monarchical republic of Queen Elizabeth I (1987) という覚醒的な論文があり、さらにその影響を20年後に再評価する論文集
The monarchical republic of early modern England: essays in response to Patrick Collinson, ed. by J. McDiarmid (2007) も出ています。

2.近世 → 近現代
 こうした republic の用語法(の変化)にも、近世(前近代)から近現代への飛躍架橋か、といった問いを立てる意味があるわけですが、これについて、ぼくの立場は折衷的です。まず、もし「近世」なるものと「近現代」なるものの実体化(平坦なピース化)に繋がる議論だとしたら危ういものがあります。ジャコバンについて、(静岡で申しましたように厳密な a であれ、向う岸の b現象であれ)いろんな議論が可能ですが、結局は飛躍と連続の両面があるといった結論に帰着しそうです。
 なおまた次に述べることですが、フランス革命もジャコバンも、社団的編成論(二宮、Palmer)や複合革命論(Lefebvre)といったこれまでの理論的な達成をパスしたまま議論するのは空しい。革命はアリストクラートの反動から始まり、情況によってロベスピエールもサンキュロットたちも変化・成長するのです。

3.国制史の躍動
 2にもかかわることですが、近藤報告は「「大西洋革命」論を冒頭において、その意義を論じようとした‥‥」と受けとめられた方もあったようですので、補います。ぼくの主観的ねらいは違いました。
 第1報告の本論冒頭においたのはロベスピエールの2月5日演説であり、(切迫した情況における)徳、恐怖、革命的人民政府、正義、暴政、République といったキーワードを集中的に呈示し、共同研究のイントロにふさわしいものにしたつもりでした(ブダペシュトでも、静岡でも)。研究史として「大西洋革命」やパーマが出てくる前に、国制史の意義をとき、成瀬治と Verfassungsgeschichte、二宮宏之とコーポラティストやモンテスキュに論及し、そのあとにようやく広義のジャコバン研究&社団的編成論として R.パーマの The age of the democratic revolution(とこれを早くに評価した柴田三千雄)が登場します。これにより一方でロベスピエールないし厳密なジャコバンを相対化する(歴史的コンテクストに置く)と同時に、他方で成瀬、二宮、柴田を再評価する、随伴してスキナたちケインブリッジ思想史の偏りを指摘し、イニスたちの近業の可能性を讃える、といった筋(戦略)で臨んだつもりでした。

 むしろ広汎な各地で、若くして啓蒙の republic of letters に遊んだ人々が、1790年代の高揚した情況のなかで élan vital を共有し、当為の宇宙に夢を見た(それを E.バークたちは冷笑した)、それぞれの運命をもっともっと知りたい、と思いました。

2019年1月29日火曜日

R. R. パーマ『民主革命の時代』


 The Age of the Democratic Revolution, 1959-64年の2巻本(Princeton U. P.)で、アメリカ独立およびフランス革命をそれぞれの「祖国愛の史観」から一歩はなれて、1760~1800年くらいの「大西洋史」のダイナミックな動きのなかで捉えなおした「古典」ですが、皆さん、(その本があることは知っていますよ、といった具合に)言及するだけで、しっかり読んでないんじゃないかと思われます。
 かくいうぼくは、名古屋大学に赴任して2年目、1978年、- 隣の南山大学に青木くんが赴任してきたし、ちょうどフランス革命の天野さんが大学院に進学した、イギリス急進主義の松塚くん、アメリカ(Oberlin)留学から帰ってきた高木くんも院に在籍している - といった環境で、輪読にふさわしいテクストとして選定し、この2巻本を相手に奮闘しました。アメリカ史のさかんな名古屋という土地柄、院生たちの勉強と知恵にも支えられて、1980年夏にイギリスへ飛び立つ直前の鳥羽合宿まで続きました。アメリカの「自由の息子たち」や、ポーランド人コシチューシコについて基本的な知識をえたのも、パーマのこの本のお陰です。
 1970年代の日本では、パーマも大西洋革命もいささか不評で、理由を憶測してみますと、
1) 冷戦体制のなかで「右寄り」かリベラル(当時は「反共」という意味)の歴史家とみなされ、フランス革命の人類史におけるユニークな意義をパスして、18世紀末の国制史に議論をフォーカスしてゆく、「反動」ではないが主流でもない歴史家、相対主義者という位置づけだったのではないでしょうか。日本学界でも、ましてやフランス学界でも不人気だったようです。日本のフランス革命研究者では、柴田三千雄さんが注目していましたが、これはかなりレアで、今思えば勇気ある立場でした。
 ぼくはフランス革命では、その前に(75~76年) Richar Cobb, The Police and the People を読んで、おもしろい本だけれど、(ちょっと E. P. トムスンに似て)細部にこだわりすぎ;コッブの議論はこの10分の1くらいの量でも証明できそう、なんて思っていました。だからパーマの、経験的な叙述でありつつ「構造」を鮮明に打ち出す論理に、一種の爽快感を覚えました。成瀬先生の授業で「身分制議会史国際委員会」というのがあるのだと聞き知っていたし、それが新版のp.23の註1と2に挙がっているのをみると、それだけでも「えっ」という興味関心を励起されますよね。そういった感想を申しましたら、柴田先生もなにか曖昧な共感めいたことを言ってくれた覚えがあります(考えてみれば、早くも星雲状態ながら『近代世界と民衆運動』を構想されていた時期ですね)。遅塚さん、二宮さんの場合は、ほとんど反応ゼロでした!
 1989年に来日したリン・ハントとフランス革命関連で読んだ本という話題となり、まず Palmer, Age of Democratic Revolution と申しましたら、反応はネガティヴで、パーマでおもしろいのは Twelve Who Ruled だ、Age of Democratic Revolution は広い学識は示されているが、いささか退屈、ということでした。ジャコバン史家の面目躍如でした。
2) また、アメリカ史学界では「古いヨーロッパ」から自己を解放したはずの独立革命について、ヨーロッパ史と同一の動きと構造を指摘するパーマ教授は、やはりアメリカ史の世界史的なユニークさを捉えきれない学者という評価でしょうか。1960年代から以降の「新しい歴史学」になると、なおさら中途半端で退屈な仕事という受け止めかな。

 この二つの理由で、第2版の前言(2014)を書いているアーミテジの表現では「その後ほとんど40年ほど、古典であって、崇拝はされても読まれることのない本」に落とし込まれたと言います。1955年の 国際歴史学会議@ローマ におけるパーマとゴドショによる「大西洋革命」論の提唱と、それはNATO(北大西洋条約機構)擁護論だ、といった強い批判をよくは知らなかったぼくが、「ホッブズ的秩序問題」「躍動する国制史」といった問題を意識するよりはるか前に、なんとルースをはじめとする「社団的な社会編成」をキーワードとするコーポラティストを理論的な指針としたパーマ先生の主著に取り組んでいた。これは「偶然」というよりは、幸せな contingency (複数の契機からなる時代情況)の賜物、というしかありません。

2018年11月23日金曜日

コングロマリット(国際複合企業)のゆくえ


ゴーン・ショックと言ったらオヤジ・ギャグめいた響きもありますが、なんと NHK World では
Nissan's Ghosn is gone
といった見出しで報じています!
歴史における礫岩のような政体をテーマとしてきたぼくとして、今回の conglomerate「日産・ルノー・三菱自」の事案、そしてこれからの展開には大いに想像力を刺激されます。
オクスフォード大学の博物館に展示されている礫岩の標本を『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社、2016)のカバー表紙に用いましたが、これはポルトガルで採取された岩の断面でした。それで、「ポルトガルから独立したブラジルに生まれ、レバノンで育ったフランス人、カルロス・ゴーンが社長を務める国際複合企業「ルノー=日産」をみる場合にも、示唆的」なんて文をしたためています(p.16)。当時はまだ三菱自は加わっていませんでした。しかも、彼の学歴をみると、パリで Ecole Polytechnique (1974) についで Ecole des Mines de Paris (1978) を修了しているというのが、なんとも礫岩的でおもしろい。

報じられているところでは、
a.個人的な報酬や利権といった法律的な問題とならんで、b.ルノー・日産・三菱自の間の「アライアンス」(連携・関係)のありかたについて(こちらは法的には問題なし)、ルノーおよびフランス政府から現在よりも一体化した経営への転換が示唆されていたとのこと。概念図は、22日深夜の www.nikkei.com によります。 

だとすると、今回の事案は、
a.ただ経営者(会長)としての私利私欲や背任の問題にとどまらず、むしろ b.現在の同君連合的なコングロマリット(礫岩アライアンス)を、ルノーないしフランス政府主導の中央集権(一君万民の単一国家)へと転変させる動きにたいして、日産側から造反した、ということなのではないでしょうか。
b.のほうが日産にとっては、いったい良い日産車をつくって売る、利益を上げるのはフランス国庫およびフランス国民の為なのか、という気持的に重要な問題なのだが、しかしこの論法はグローバルな取締役会でも日本の司法においても、見解の相違(好き嫌いの問題)として片付けられてしまう。より法律的に責任追及しやすい a.を前面にたてて司法にタレコミ、(ゴーン、ケリ以外の2人のフランス人を含む)取締役会に解任を提議して通した、ということでしょう。

あたかも豊かで勤勉なカタルーニャ人が、なんで高慢ちきで口ばっかりのカスティーリャ人と同じ国で一緒にやってゆかねばならんのだ、と異議を申し立てているのと同じ問題ですね。礫岩のようなアライアンスで微妙なバランスをとってきた礫岩君主ゴーンが monarch (ただひとりの君主)として会長職を務めていること自体は、ことがうまく機能しているかぎりだれも問題にしません。しかし、a.ゴーン会長は、日産という企業が製品や品質管理上の瑕疵でマスコミの矢面に立たされているときに我関せずで家族レジャーにいそしんでいた;さらには b.フランス政府ないしルノー側の意向を体現してアライアンス(連邦主義)ならぬ一体化(中央集権)に向かっているようだとすると、これにはクーデタでも司法取引でも可能な手段で抵抗するしかないのですね。

日産はスペインにおけるカタルーニャ、連合王国におけるスコットランド(をいま少し強くした存在)、
ルノーはカスティーリャ、あるいはイングランドのような存在とたとえれば良いでしょうか(三菱自は北アイルランド?)。今秋から、そのルノーがあたかも imperial な意思(支配欲)を内々に表明した or そうした動きを日産の幹部が感知したことで、一挙に事態が動き出した‥‥。不十分な情報ながら、そう推測しました。

2018年10月14日日曜日

『近世ヨーロッパ』

土曜日に山川出版社の山岸さんに『近世ヨーロッパ』の再校ゲラ戻し、図版初校戻しを渡して、この世界史リブレットについて基本的にぼくの仕事はほとんど片付きました。今の時点の奥付には11月20日刊行*とあります。【*念校にてこれは、11月30日刊行、となりました。 → 実際の製品、カバー写真については こちら。】

専門書ではないので、想定読者は高卒~大学に入学したばかりの一般学生から専門外の先生方です。ですから、序の「近世ヨーロッパという問題」は、高校世界史の筋書、またテレビ番組の語りから説きおこし、「中世と近代の合間に埋没していた16~18世紀という時代が問題なのだ」と提起します。「1500年前後の貧しく貪欲なヨーロッパ人は荒波を越えて大航海に乗り出したのだ」がその理由は、何だったのか。「アジアとヨーロッパの関係は1800年までに(本書が対象とする期間に)大変貌をとげた」、どのように? なぜ?

想い起こすに、2000年前後の二宮さんは個人的な場で、当時勢いのあったアジア中心史観に不満を洩らし、「いろいろ言っても結局、ヨーロッパ人がアジアに出かけたので、アジア人がヨーロッパに来たのではない」と呟かれました。社会史・文化史・「‥‥的転回」の旗手も、やはり戦後史学(あるいはフランス人のヨーロッパ史)の軛(くびき)というか轍(わだち)というか、大きな枠組のなかで考えておられた。ぼくの二宮さんにたいする違和感の始まりは、1) フランス人的なドイツ的・イギリス的なものへの(軽い)偏見でしたが、続いて、2) 日本もアジアも遅れているという「感覚」でした。

『近世ヨーロッパ』は、こうした二宮史学(が前提にしていたもの)を十分に評価した上での批判、そしてフランス史(およびフランス中心主義)の再評価と相対化の試みです。
もう二つ加えるとすれば、α.ピュアな人々(ピューリタン、原理主義者、革命家)の相対化、中道(via media)と jus politicum を説いた「ポリティーク派」、徳と国家理性を論じた人文主義者たちの再評価ですし、またβ.じつは近世史の戦争と迷走の結果的な知恵としてとなえられる、議会政治の再評価、です。

だからこそ、ヨーロッパ近世史の転換期(含みのある変化のあった)17世紀を危機=岐路として描きました。よく言われる「30年戦争」「ウェストファリア条約」もそうですが、さらに決定的なのは、1685年のナント王令廃止 → ユグノー・ディアスポラ → 九年戦争 → 名誉革命(戦争)という経過ではないでしょうか? これはオランダ・フランス・イングランドの間の競合と同盟にもかかわり、p.56~p.68まで使って、本文は全88ぺージですので、かなり力を入れて書いています。
「イギリスは‥‥世紀転換期の産業革命に一人勝ちすることになる」(p.86)とか、「近代の西欧人は、もはや遠慮がちにアジア経済の隙間でうごめくのでなく、政治・経済・軍事・文明における世界の覇者としてふるまう。その先頭にはイギリス人が立っていた」(p.88)といった締めのセンテンスに説得力をもたせるには、17世紀の経済危機ばかりでなく政治危機をもどのように対策し、教訓化し、合理化したのか。「絶対主義」的な特権システムなのか、議会主権的な公論・合意システムなのか。この点を明らかにしておく必要がありました。

たしかに20代のぼくが読んだら、これは驚くべき中道主義、議会主義史観で、唾棄すべし、とでも呟いたかもしれない。それはしかし、青く、なにも歴史を知らない、観念論(イデオロギー)で世界をとらえていた、ナイーヴな正義観の表明でしかなかったでしょう。We live and learn.

2013年3月26日火曜日

京都・大阪にて


23(土)は京都大学で、24(日)は千里中央で、それぞれたいへん充実した会合がつづきました。東京よりちょっと寒いと思いましたが、高揚しました。

・京都(土)は近世史研究会。二宮宏之さんの仕事をどう継承し発展させるか、ということで、余所者ながら押しかけて発言してしまいました。中世や近現代、それからあまり関係ないかに見える方々もたくさんいらして、二宮さんの影響力というか啓発力をあらためて再認識しました。

小山さん、佐々木さんの進行の妙もあり、具体的な論点もそうですが、皆さんの誠意と相互の信頼関係が伝わって、すばらしい unforgettable な会合となりました。
二次会、三次会も含めて、* * さんを緊張させ、興奮させたのも、レアな機会でした!!
Ringo, the Beatles という店には初めて行きました。

・千里中央(日)は古谷科研で、ぼくは「礫岩政体(conglomerate polity) と普遍君主(universal monarch)」という問題提起。

じつは科研プロジェクトの3年めの小括でもあり、5月12日の西洋史学会大会小シンポジウムのための準備会でもありますが、ぼく個人としては勤務先の必要もあって、荒削りの覚書をすでに『立正史学』113号(2013年5月刊)に書きました。

土曜の討論と連続する部分を集団的に反芻しつつ、さらにわれわれ的に先を見すえて、近世的秩序について議論できて、たいへん効果的でした。教会(君主の司祭性)や概念史の重要性、同時代的競合、世界史的広がり‥‥、The world is not enough.

皆さまには、請うご期待、としか今は言えませんが、まもなく/やがてホームページを開設するとのことで、パブリックな討論もできるかと思います。

念のために申しますが、ときにドラスティックな批判・飛躍とみえるときもあるかもしれない学問も、継承的にしか発展しない。マンタリテやソシアビリテや社団的編成や etc. の時代は終わって、いまや礫岩政体論の時代だ、といった(新商品の)販拡キャンペーンではけっしてありません。

ヨーロッパ近世史の資産を継承しつつ、フランス中心主義を相対化し、もうすこし広いパースペクティヴ、もうすこし(focusを深く)長い時間軸で〈秩序問題〉を再考したいのです。そうすることによって二宮さんの知的洗練もあたらしい意味をもつでしょう。

三間堂という店も悪くなかった!

2013年3月16日土曜日

二宮史学の不思議


 3月23日(土)に京都大学で開かれるコロクにも、5月12日(日)の西洋史学会大会シンポジウムにもかかわりますが、関連して、二宮宏之(1932~2006)さんのお仕事について、「礫岩政体と普遍君主:覚書」(『立正史学』 2013年5月刊で二言したためました。その最後の段をちょっと抜粋させてください。

【前略】
A. 「フランス絶対王政の統治構造」およびこれと不可分の「社団的編成と「公共善」の理念」が一揃いになって、フランス社会史および国制史の研究蓄積を知悉した二宮による近世王国の社団的編成と理念的統合の議論であり、これがまた、「六角形のフランス」というフランス史の人びとを拘束し続けた枠組への批判にもつながるものであったことは、いまさら言うまでもないでしょう。編著『深層のヨーロッパ』(山川出版社、1990)もその一つです。

B. しかし、1990年代以降になると、こうした多様で複合的で可塑性の政治社会や政治文化にはあまり論及することなく、からだとこころ、地域/家族の(顔のみえる)共同体に沈潜されたようにみえます。たしかに『マルク・ブロックを読む』(岩波書店、2005)では アルザス人、フランス人、共和主義者としてのブロックの重層的アイデンティティが語られていますが、エトノスの複合性をふまえたうえでの res publica 論やホッブズ的秩序問題、あるいは思想史・概念史(history of ideas)にかかわる議論は棚上げされたかにみえます。その理由については、宿痾のことがあるから軽々には憶測できませんが、それにしても、晩年の二宮の文化史的な内向の磁力が、追随する若手研究者におよぼす抑制的影響力をわたしは懸念しています。

 二宮は今でもすばらしい。その文章は人を魅惑します。だが、「六角形の枠組」をこえなければならないとくりかえされながらも、2000年代の内省的二宮は、六角形をこえて内外に浸透した秩序問題、そして概念史、世界史へと研究を広げようとする者にたいする抑止力でもありました。あたかも高橋幸八郎(1912~82)の理論的かつ個人的な魅力/呪縛が、1960年代・70年代の二宮と遅塚忠躬の自由な飛翔を抑止したのと似ているかもしれない。

 二宮はまた、G.ルフェーヴルの「革命的群衆」論文が集合心性の研究への橋渡しとしていかに枢要だったかを強調しますが、なぜか同じルフェーヴルの「複合革命」論には言及しません。柴田とも遅塚とも違って、二宮は革命の情況性にも国際的条件にも言及しないといった不思議が、わたしたちの前に残されています。 【中略】

 ‥‥根本的なところで、二宮宏之と E.P.トムスン(1924~93)には共通点があります。わたしは両者を批判的に継承したい。『二宮宏之著作集』第2巻「解説」(岩波書店、2011)にも書いたとおり、偉大な先達のたおれたあと、未完の課題を引き継いで前へ進もうというのが、わたしの立場です。
(C) 近藤和彦