ラベル 明治 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 明治 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年11月15日日曜日

天皇像の歴史

 夏から以降はハラハラどきどきの連続でしたが、そうした間にも、あわてず騒がず仕事を処理してくださる方々のおかげで、『史学雑誌』129編の10号(11月刊)ができあがりました。感謝です。

 「特集 天皇像の歴史を考える」 pp.76-84 で、ぼくはコメンテータにすぎませんが、「王の二つのボディ」論、また両大戦間の学問を継承しつつ、   A. 君主制の正当性根拠    B. 日本の君主の欧語訳について の2論点に絞って議論を整理してみました。

 じつは中高生のころから、大学に入ってもなおさら、いったい「日本国」って君主国なの?共和国なの?何なの? という謎に眩惑されましたが、だれもまともに答えてくれませんでした。いったい自分たちの生きる政治社会の編成原理は何なのか、中高でならういくつかの「国制」で定義することを避けたあげく、あたかも「人民共和国」の上に「封建遺制」の天皇が推戴されているかのようなイメージ。「日本国」という語で、タブー/思考停止が隠蔽されています!

 この問題に歴史研究者として、ようやく答えることができるようになりました。E. カントーロヴィツや R. R. パーマや尾高朝雄『国民主権と天皇制』(講談社学術文庫)およびその巻末解説(石川健治)を再読し反芻することによって、ようやく確信に近づいた気がします。

 拙稿の pp.77, 83n で繰りかえしますとおり、イギリス(連合王国)、カナダ連邦、オーストラリア連邦とならんで、日本国は立憲君主制の、議会制民主主義国です。君主制と民主主義は矛盾せず結合しています。ケルゼン先生にいたっては、アメリカ合衆国もまた大統領という選挙君主を推戴する monarchy で立憲君主国となります。君主(王公、皇帝、教皇、大統領)の継承・相続のちがい - a.血統(世襲・種姓)か、b.選挙(群臣のえらみ、推挙)か - は本質的な差異ではなく、相補的であり、実態は a, b 両極の間のスペクトラムのどこかに位置する。継承と承認のルール、儀礼が歴史的に造作され、伝統として受け継がれてきましたが、ときの必要と紛糾により、変容します。

 『史学雑誌』の註(pp.83-84)にあげた諸文献からも、いくつもの研究会合からも、示唆を受けてきました。途中で思案しながらも、 「主権なる概念の歴史性について」『歴史学研究』No.989 (2019) および 「ジャコバン研究史から見えてくるもの」『ジャコバンと王のいる共和政』(共著・近刊) に書いたことが、自分でも促進的な効果があったと思います。研究会合やメールで助言をくださったり、迷走に付き合ってくださった皆さん、ありがとう!

2019年11月8日金曜日

明日のシンポジウム

既報の再録ですが、明日、史学会大会の公開シンポジウムは〈天皇像の歴史を考える〉です。

史学会大会・公開シンポジウム http://www.shigakukai.or.jp/annual_meeting/schedule/
日時: 11月9日(土)13:00~17:00 

会場: 文京区本郷 東京大学・法文2号館 1番大教室

公開シンポジウム 〈天皇像の歴史を考える

<司会・趣旨説明>
  家永 遵嗣(学習院大学)・ 村 和明(東京大学)

<報 告>
  佐藤 雄基(立教大学)「鎌倉時代の天皇像と院政・武家」
  清水 光明(東京大学)「尊王思想と出版統制・編纂事業」
  遠藤 慶太(皇学館大学)「歴史叙述のなかの「継体」」

<コメント>
  近藤 和彦

<討 論>

 日本史の古代・中世・近世の3研究にたいして、西洋史で政治社会・国制・主権などをテーマに勉強している立場から、問いかけと若干の提言をいたします。君主制および天子・天皇・皇帝・Emperor という語についても。
 翌10日(日)午後には日本史部会で〈近代天皇制と皇室制度を考える〉というシンポジウムがあります。これと呼応して、おもしろい議論が出てくるといいですね。

2019年9月17日火曜日

後ろを見つめながら未来へ


暑さをなんとか凌いだところで、ちょっと振り返りますが、

・5月19日(静岡大学)の西洋史学会大会・小シンポジウムは、ぼくにとっては3月18日のブダペシュトのつづきで、フランス革命におけるジャコバン独裁の研究、他国のジャコバン現象の研究、共和政と民主主義の歴史といったことを考えることができて良かったのですが、文章にしないとなかなか定着しませんね。パーマの『民主革命の時代』の学問的な前提にあった両大戦間の corporatist の研究からなにを学ぶかという点で、二宮史学を相対化できたのも、思わぬ成果でした。

・5月26日(立教大学)の歴史学研究会大会・合同部会は、主権国家再考 Par 2 ということで、昨年(Part 1、早稲田大学)のつづきでした。すでに『歴史学研究』976号(2018)に昨年の合同部会における研究発表・コメントと討論要旨が載っていて、「‥‥公共的で批判的な学問/科学の要件」『イギリス史10講』p.165 が満たされています! 今年の大会増刊号のために「主権なる概念の歴史性について」という小文を書いて、すでに初校ゲラも戻しました。秋の終わり頃には公になっているでしょう。それにしてもぼくは、皆川卓氏と岡本隆司氏の引き立て役にすぎません。
この間、合衆国のトランプ、連合王国のジョンスンばかりではない、中華人民共和国の習近平、大韓民国のムンジェイン、日本国の安倍晋三、等々の政治家たちはみな「主権の亡者」のごとく、マスコミもまた国家主権の強迫観念を客観視できないようです。

・今秋の11月9日(東京大学)ですが、史学会大会シンポジウムでは〈天皇像の歴史〉という共通論題で日本史3名の研究報告があり、なぜかコメンテータは近藤です。
すでに準備会などで討論していますが、ぼくとしては第1に、君主の位の正当性根拠(3つの要件)*といったことから、「万世一系」を正当性のなによりの根拠としているらしい日本の天皇という制度の独自性を際立たせたいと思います。第2には、江戸時代から明治時代への転換において、いかにして欧語 emperor の指す権力が征夷大将軍(imperator)から天皇(総帥権をもつ皇帝)へと変わるのか、維新の政治家たちの判断(決断)理由を問います。エンペラーという語がカッコイイというのもあったでしょう。19世紀半ばという時代性を際立たせたいと思います。
なお大日本帝国憲法について、その絶対性ばかり指摘されがちですが、じつはその第4条に「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬し、此ノ憲法ノ条規ニヨリ之ヲ行フ」とあるように、モンテスキュにならって、君主制は即、法の支配の下にあると明記していました。だから美濃部「天皇機関説」こそ正しい解釈だったのですね。
それをファシストたちが崩していったときから日本帝国は法治国家でなくなり、いわゆる「天皇制絶対主義」という解釈の余地が生じてきます。安丸良夫、丸山眞男の見識を再評価したいと思います。他方で、講座派およびその優等生・大塚久雄は、ここの転換のデリカシーを受け容れない、硬い解釈を採っています。

* 君主位の正当性の3要件とは、『イギリス史10講』を貫く理屈のひとつの柱でした。p.33 から p.274まで。

2019年2月3日日曜日

『みすず』読書アンケート


 2日(土)は大阪にて研究会。会として充実していたけれど、わが頭脳は前夜からの睡眠不足で、条件反射より以上の意味ある発言はなかなか困難。睡眠にはふだん気をつけていますが、前1日に到来したお二方からの信書とメールの内容に励起されて、即答しつつ、時間の経過を忘れてしまいました。
研究会にはお一人の重要メンバーがインフルエンザで欠席。今年は1919年、第一次大戦の終戦にともない「スペイン風邪」と恐れられたインフルエンザが猛威をふった年からちょうど百年。マクス・ヴェーバーも翌1920年、56歳で命を落としました。アラフィフ、アラ還の皆さんはとくにご自愛ください!

 本日落手した『みすず』678号には、例年どおり(140名の)「読書アンケート」が載っています。昨年から 1968-9年ないし東大闘争関連の出版がたくさんあったのに、それらへの言及はほとんどないのに驚きました。執筆者の世代ということなのでしょうか? いまさら言及の価値なしということ?
 ぼくが挙げたのは(pp.69-70)、
小杉亮子『東大闘争の語り』、
和田英二『東大闘争 50年目のメモランダム』、
折原浩『東大闘争総括』、[ここまで3冊はこのブログでも論及しました]
 そしてイギリスの友人イニスたちが編集した Re-Imagining Democracy in the Age of Revolutions: America, France, Britain, Ireland 1750-1850 (OUP, 2014);
Re-Imagining Democracy in the Mediterranean 1780-1860 (OUP, 2018)
という2巻本の共同研究です。
 5冊に限定されていますから、これ以外は割愛するほかありませんでした。むしろ
山﨑耕一『フランス革命 「共和国」の誕生』(刀水書房、2018)
三浦信孝・福井憲彦(編著)『フランス革命と明治維新』(白水社、2018)
E.メンドサ(立石博高訳)『カタルーニャでいま起きていること』(明石書店、2018)
といった良書を挙げるべきだったでしょうか。

 とりわけ、近年のフランス革命史で一冊だけ挙げるなら山﨑『フランス革命』です。長年の研究教育をふまえ、「正統」か「正当」かといったレベルも含めて、ことばの意味を反芻しながら書き進められる。同じ patriot が1789年の前後で「愛国派」と「革命派」に訳し分けられるといった苦しい方便も、正直に告白なさる。研究史の展開を十分に踏まえておられるのは言うまでもなく、たいへん好感のもてる執筆姿勢です。
 最近のぼくなら、これに R. R. Palmer, Twelve Who Ruled: The Year of Terror in the French Revolution (Princeton U. P., 1941; Princeton Classics paperback, 2017) を加えたい。同じ著者の The Age of the Democratic Revolution がダイナミックな国制史だとすると、こちらはダイナミックな革命家列伝。第一章の題はなんと Twelve terrorists to be: 将来のテロリスト12名! ロベスピエールたち公安委員会の採りえた「狭い道」を描いて、国制的前提/思想的な資産と、革命情況の進展、友情と決断を浮き彫りにする。ご免なさい、ぼくは遅塚『歴史の劇薬』より、ずっとパーマのほうに共感できます。
 『フランス革命と明治維新』は、タイトルからすると、あの高橋幸八郎的な問題意識なのか、と身構えさせるが、大丈夫、日仏会館の催しで P.セルナ三谷博渡辺浩といった論客が、それぞれ言いたいこと/言わねばならぬことをポジティヴに述べたスピーチが収録されています。
 『カタルーニャでいま起きていること』はきれいごとでは済まない、ナショナリズムの現状。立石学長さん、多忙ななかで良い仕事をなさいますね。

2018年8月27日月曜日

<帝国>と世界史


(ちょっと日にちが空きましたが)『日経』郷原記者の「アジアから見た新しい世界史 -「帝国」支配の変遷に着目」の続きです。第1の論点について異論はありません。特別に新規の説ではなく、多くの読者に読まれる新聞の文化欄8段組記事ということに意味があります。

 第2の論点、帝国となると、そう簡単ではありません。郷原記者は平川新『戦国日本と大航海時代』(中公新書)を引用しつつ、16~17世紀に「日本は西欧から帝国とみなされるようになった」「太閤秀吉や大御所家康は西欧人の書簡で「皇帝」、諸大名は「王」とされた」と紹介します。
 それぞれ empire, emperor, king にあたる西洋語が使われていたのは事実ですが、そもそも中近世の empire を帝国、emperor を皇帝と訳して済むのか、という問題があります。近藤(編)の『ヨーロッパ史講義』(山川出版社、2015)pp.93-105 でも言っていることですが、emperor はローマの imperator 以来の軍の最高司令官のことで、近世日本では征夷大将軍や大君(ないし政治・軍事の最高支配者)を指します。京のミカドというのはありえない。
 また empire はラテン語 imperium に由来する、最高司令官の指令のおよぶ範囲(版図)、あるいはその威光(主権)を指していました。だから吉村忠典も早くから指摘していたとおり、帝政以前の共和政ローマにも imperium (Roman empire の広大な版図)は存在したのです。『古代ローマ帝国の研究』(岩波書店、2003)および『古代ローマ帝国』(岩波新書、1997)。
 たしかに近現代史では emperor は皇帝、 empire は帝国と訳すことになっていますが、その場合でも emperor は武威で権力を手にした人、というニュアンスは消えないので、神か教会のような超越的な存在による正当化が必要です。中国の皇帝が天命により「徳」の政治をおこなったように。
 1868年以後の日本では将軍から大政を奉還されたミカド、戊辰の内戦に勝利した薩長の官軍にかつがれた天皇に Emperor という欧語をあてましたが、これはフランスの帝政をみて、また71年以降はドイツのカイザーをみて「かっこいい」と受けとめたからでしょう。ただし、武威で権力(統帥権)を手にしただけでは御一新のレジームを正当化するには不十分なので、神国の天子様という「祭天の古俗」に拠り所をもとめ、89年の憲法でも神聖不可侵としました。そうした神道の本質をザハリッヒに指摘した久米邦武を許さないほど、明治のレジームは危うく、合理的・分析的な学問をハリネズミのように恐れたのですね。

2017年3月22日水曜日

熊楠と孫文

 和歌山に来たら和歌浦にゆかずんばあらず、と雨のなか、皆さまのご協力をえて行って参りました。
近世につくられた歌枕としての「わかの浦」、玉津島神社の和合の松、とかいったことも興味深いけれど
個人的には、話に聞いた南方熊楠と孫文が再会して遊んだ地、というのが印象的。
「世界一統」というコスモポリタンなフレーズ(→ お酒)が、ここから生まれた、と聞くと、なおさら。
 このあと、夏目漱石も同じ所に来たのだとか。
 熊楠と漱石は同じ1867年生まれ、全然ちがうタイプですが、ロンドンでもニアミスし、和歌浦でもニアミス。漱石は早く死に、熊楠は明治の人としては古稀をこえて生き、昭和天皇にご進講などしたんですね。和歌山駅の前にミナカタ・ビルというのがありました。