2022年6月11日土曜日
中学生から知りたい ウクライナのこと
「ロシアによるウクライナ侵略を非難し、ウクライナの人びとに連帯する声明」なるものを京都大学有志の会が2月26日に発表したようですが、その声明が巻頭に引用されています。この有志のうちの二人、近世ポーランド史の小山さん、現代ドイツ史の藤原さんがそれぞれの専門で長年考え感じてきたことをふまえながら、ウェブや新聞で発言している、それをもとにここに整えて一書としたものと受けとめました。
表題のうち「中学生から知りたい」についてのみ、ちょっと留保したい気持は残りますが、しかし(写真入りで)ポーランドのバルシチ(スープ)からウクライナのバルシチ(スープ)を見ると、どれほど具だくさんで「すごく豊かで滋養があるけど、ちょっと見た目が不思議な感じ」というイメージから、すごく大切なことが説きはじめられる。中学生だって知りたい。大人だって知りたい。高齢者だって知りたいです。
ですから「中学生から知りたい」というタイトルの修辞のみ留保して、あとは全面的に推薦したい。
細かい活字で補われている註も - 固有名詞の表記を含めて - 大事なことを教えてくれます。
(株)ミシマ社、6月10日刊。http://www.mishimasha.com/
2022年4月18日月曜日
カー『歴史とは何か 新版』 予告の2
◇ [訳者解説のつづき]
本書の読者は、カーの講演の様子を想像しながらウィットのきいた冗談に笑い、皮肉にため息をつき、豊かで具体的な議論の一つ一つから自由にインスピレーションをえることができる。ただ、本書は論争の書でもあり、どのような筋書きで成り立っている書なのか、その柱と梁だけでも確認しておくのは余計ではないであろう。
第一講「歴史家とその事実」は、冒頭の謎のようなアクトンは別にすると、その展開のまま素直に読めるであろう。大海原に生息する魚類にたとえられる「事実」と歴史家のあつかう歴史的事実なるものの区別、シュトレーゼマン文書にみる史料のフェティシズム、クローチェとコリンウッドの歴史論。巧みなたとえを用いながら話は進み、結びは、こうまとめられる。歴史家のあぶない陥穽として、一方には事実(過去)の優位をとなえるスキュラの岩礁のような史料の物神崇拝が、他方には歴史家の頭脳(現在)の優位をとなえるカリュブディスの渦潮のような解釈主義/懐疑論、今日のいわゆるポストモダニズムが存在する。しかし、カーとともにある歴史家は、史料/事実に拝跪して座礁するのでなく、主観的な解釈、構築という渦潮に翻弄されて沈没するのでもなく、二つの見地のあいだを巧みに航行する。そうした最後に導かれるのが、よく知られている「歴史家とその事実のあいだの相互作用」「現在と過去のあいだの対話」である。全体を通読した後にもう一度読みかえすなら、「読むのと書くのは同時進行です」といったノウハウ - 論文執筆のヒント - も含めて、第一講に込められた意味はさらによく見えてくるであろう。
ところで冒頭の欽定講座教授(補註c)アクトンであるが、じつはアクトンの名も彼の『ケインブリッジ近代史』(補註e)も、日本の読者にはあまりなじみがないのではないか。カーは、「アクトンは後期ヴィクトリア時代のポジティヴな信念‥‥から語り出しています」、「ところがですね、これはうまく行かんのです」と否認するかに見える。読者は一読して、アクトン教授とはこの本で最初に否とされる古いタイプの歴史家の役回りなのかと受けとめるであろう。博学なコスモポリタンで、講義でも会話でも人々を知的に高揚させながら、生前に一冊も歴史書を著すことのないまま心筋梗塞(過労死)で亡くなり、せっかくの野心的な企画も挫折した、魅力的で不運な歴史家。「なにかがまちがっていたのです」とカーは畳みかける。しかし、そのアクトンは本書のあらゆる講でくりかえし登場し、論評されるのである。索引を見ても、アクトンはマルクスと並ぶ双璧である。なぜか。片付いたはずの後期ヴィクトリア時代の「革命=リベラリズム=理念の支配」(256, 261ぺージ)の亡霊のようなアクトンが、それぞれの文脈でカーの議論をつないでいる。『歴史とは何か』を解読する一つの鍵はアクトンにある。この点はデイヴィスもエヴァンズも渓内謙も看過している。
[以下 5ぺージほど中略]
◇
カーが未完の第二版で意図していたのは「過去をどう認識するかについての哲学論議」(9ぺージ)ではなかった。この点は重要であるがデイヴィスが立ち入らないので、訳者として補っておきたい。もしそうした認識論談義を求められたならば、たとえば『マルク・ブロックを読む』(岩波書店、2005, 2016)における二宮宏之と同じく、思弁的な方法論に淫する人々に向けて弁じたリュシアン・フェーヴルの「そんなことは方法博士にまかせておけばよい」という台詞をカーもくりかえしたのではないか。フェーヴルやブロックについて二宮が明言したのと同様に、カーもまた「歴史を探究し記述するとはいかなる営みなのかを研究の現場に即しながら根本から考え直すような書物を書きたいと希っていた」(二宮、193ぺージ)‥‥[以下1ぺージあまり中略]
こうしたことより、現役歴史家にとって大きな問題と思われるのは、たとえばしばしば言及されるフランス革命について、G・ルフェーヴルの名はあがってもその複合革命論、ましてやR・R・パーマの同時代国制史への言及がないことである。カーは「歴史家稼業であきなうのは諸原因の複合性です」(146ぺージ)と述べるのにとどまらず、因果(why)だけでなくいかに(how)を考えるという示唆もあった。その因果連関論を縦の系列のつながりに留めることなく、同時的な複合情況(contingency)へと視角を広げ、さらにはアナール派や Past & Present の社会文化史と交流し、啓発しあう可能性もないではなかっただろうが、これは展開されないままに留まった。‥‥[中略]このようにカーの到達点からさらに具体的な「過去を見わたす建設的な見通し」へとつなげてゆくのが、今日の課題なのではないか。「今、わたしたちこそ、さらに一歩先に進むことができる」(333ぺージ)という自叙伝の一文は、わたしたち自身の言明とすることができるであろう。
その自叙伝は‥‥1980年、88歳にして自分の人生と著作を省みた語りで、そこに反省的な自己正当化が働いていないとは言えない。父のこと以外には家族関係に言及しないという心機が働いているかのようである。それにしても、ここでのみ開示される「秘密」もあり、巻頭の「第二版への序文」と合わせて、晩年のカーの貴重な証言である。エヴァンズを初めとして多くのE・H・カー論の依拠する情報源でもある。
巻末におく略年譜は、自叙伝ではパスされている事実婚を含む3度の結婚、不如意に終わったロンドン大学の教授ポストへの応募、7年間の失業といった「事実」を補い、‥‥訳者が作成した。激動の20世紀をそのただなかで生き、考え、書いたE・H・カーの姿が浮かびあがる。
[後略。以下3ぺージあまり]
5月の刊行を、お楽しみに! → 岩波書店 twitter
2021年11月8日月曜日
史学会大会 11月13-14日
東京大学(本郷)‥‥法文2号館一番大教室 にて
公開シンポジウム「世界主義の諸様相 - コスモポリタニズム・アジア主義・国際主義」
と予告されていました。13日(土)1時から勝田俊輔さんの司会・趣旨説明につづき、
川出良枝「普遍君主政の超克-18世紀ヨーロッパ」
中島岳志「アジア主義‥‥」
長縄宣博「静かなラディカリズム-20世紀ロシア」
後藤春美「‥‥国際連盟」
翌14日の部会については法文1号館113教室。
というわけで、久しぶりに本郷へと、期待していました。
ただしちょっとだけ心配で、念のためとウェブぺージを見て、びっくり ↓
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http://www.shigakukai.or.jp/annual_meeting/schedule/
開催方法は、ウェブ会議システム(Zoom)によるオンライン参加のみの実施となりました。事前登録が必要となりますので、こちらより参加申し込み・参加費のお支払いをお願いいたします。締め切りは11月4日(木)です。 PEATIXの利用方法はこちらをご参照ください。本システムでのお申し込みができない場合は、shigakukai.taikai■gmail.com(■を@に変えてください)へご連絡ください。
昨年度は臨時的措置として参加費を無料といたしましたが、本年度は例年通り参加費(2日間共通)をいただきます。一般1,000円、学生500円。会員・非会員の別はございません。
お申し込み・お支払いいただいた方には、大会前にプログラムを郵送いたします。また報告レジュメ、ZoomのURLは11月11日(木)頃ご連絡いたします。
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Zoom開催で、しかもすでに締め切りを過ぎている!
だれもが史学会のウェブぺージをいつも見ているわけではないでしょう!
それでも、とにかく13日のシンポジウムだけでも視聴したいので、Peatixなるぺージへ初めて入って手続を進めてみたら、締め切りは超過しているはずなのに、予約完了。その確認メールまで到来しました。
この事態は放置しておいてはいけないのでは、と考えて、司会・趣旨説明者と史学会事務にメールで連絡してみました。 すみやかに反応があり、
≪‥‥混乱をまねきましたことをお詫び申し上げます。
他に期限後の申し込み希望の方もいらっしゃいましたので、サイトからの申し込みは
11日(木)17時までということを明記いたしました。≫
ということです。[ただし、どこに明記されたのかは不詳。]
→ http://www.shigakukai.or.jp/
ご関心の皆様も、どうぞご覧になってください。
2017年8月9日水曜日
暗愚の真夏
日本の真夏に体調全開というインテリはあまりいないと思われますが、大学の繁忙が一息ついたかと、今月3日(木)に古い本(大河内‥‥社会政策学‥‥)を置く場所を移動したさいに(ここに入居して以来の)14年間のホコリや黴の胞子などを吸い込んだのでしょうか。喉の具合が悪い、などと言っていたら、2・3日のうちに完璧に風邪の症状となってしまいました。おかげで7日の書評会にはマスクをしていった次第。夕刻には台風ゆえの驟雨にやられて全身ずぶぬれとあいなりました。雨宿りの店で3時間余り懇談するうちに、なんとか元気回復。
池田嘉郎『ロシア革命:破局の8か月』(岩波新書、1月刊)
ですが、すばらしい。叙述力について言う人が多く、それは否定しないけれど、本書の意義はなにより、1917年ロシアの立憲自由主義者たち(カデット)の努力と挫折、大ロシアの民衆世界に入り込むどころか対峙してしまった近代文明派のエリートたちの無力を描きだしたところにある。その挫折・無力 → 破局があってこそ、ボリシェヴィキ・レーニンの断乎たる無理押し(「泥んこのなかで天衣無縫に遊ぶ幼児」p.97?)、なぜか自信満々の意志と行動力が功を奏するわけだ。じつに説得的です。
他派の欺瞞と不決断を排して正しい道をひた走る「(ボ)史観」、せいぜい乱暴なスターリンを憂慮していたレーニン、といった味付けの1967年(ロシア革命50周年)に育ったぼくたちの世代には、ナロードニキやトロツキーといったオールタナティヴはあっても、立憲自由主義という選択肢は、100%、想定外でした!
民衆の暗愚、とは高村光太郎を連想させる用語で、すこし留保を置きたいけれど、それにしても自由主義文明派の無力、文明開化の破局、ボリシェヴィキの強力な介入(ジャコバン主義的な「領導」)を説明するには分かりやすい。