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2021年4月6日火曜日

山陽路

昔むかし、学齢前に住んでいた松山から、母の実家・広島県の(今は尾道市に合併した)向島に行くには、瀬戸内の今治=尾道間の連絡船で、しまなみの大きな島小さな島の間を抜けながら、次々に変わる景色のなかを船に揺られました。
その後、住居が京都、千葉に移ってからは、母とともに山陽本線で神戸から須磨の浦、舞子の浜の美しい松林を眺め、姫路の次「相生」から岡山平野へ抜けるまでの山あいの蛇行する鉄路は、機関車がナンダ坂コンナ坂‥‥とあえぎながら上るのですが、この光景は小学生には忘れられないものでした。そして岡山、福山を過ぎて、しばらく海が見えなくなったあと、「松永」から左にカーヴして、まもなく家並みの合間に、尾道水道の海面と造船所のクレーンなどが目に入ってくる。
   海が見えた、海が見える。
   五年振りに見る尾道の海はなつかしい。
   汽車が尾道の海にさしかかると
   煤けた小さい町の屋根が
   提灯のように拡がってくる。
   赤い千光寺の塔が見える。
   山は爽やかな若葉だ。
   緑色の海の向こうに[向島の]
   ドックの赤い船が帆柱を空に突きさしている。
   私は涙があふれていた。
といった林芙美子の文章を染めた(観光用の)手拭いを、千葉に住む母は部屋にずうっと飾っていました。林芙美子は、母と同じ「尾道高女」の卒業なのです。いまは無人の家に、まだ垂れ飾ったまま。母ほどではないが、ぼくにとってもささやかな原風景のひとつです【新幹線の「新尾道」経由だと、この感動は味わえません。福山で在来線に乗り換えるにかぎります】。
この向島にいま二人の叔父が90歳を過ぎて在住です。

その尾道からさらに西へ行った隣町、三原市では   〈古民家しみず〉再生プロジェクト  というのが始まったということです。叔父が『中國新聞』の切り抜きを送ってくれました。
  → http://www.kominkashimizu.net/
 「西国街道の古民家を 民泊&土蔵ギャラリー&カフェ として再生し 地域に活気を取り戻す!」という謳い文句で、古民家カフェがこの春から始まるのです。
まもなくパンデミックが収まって、ご無沙汰の二人の叔父に会い、この古民家カフェにも訪ねて行けますように。

2020年8月13日木曜日

空蝉に ‥‥

特別に長い梅雨のあと、急に盛夏の猛暑がつづきます。みなさんお変わりありませんか。
わが集合住宅の敷地にもようやく蝉時雨(せみしぐれ)が襲来して、「滝もとどろに鳴く蝉」は部分的には深更にもやまず(例年はうるさいなぁと感じることもあったのですが)今年は、それがなんだか嬉しい。

7年間は地中の幼虫としてのいのち。つまり2013年の夏(『イギリス史10講』仕上げの夏!)に産み落とされ、地中にもぐって成長し、ようやく暑くなったので、夕刻、地上に這い出て見たことのない母の産んでくれた樹木にのぼり、夕闇のなか脱皮して、大きな羽根をえて、身体も一回り大きくなり、翌朝に飛び立つ。飛ぶ昆虫としての7日間くらいのいのち‥‥。考えるといとおしくなります。
昼間に(大学のリモート授業のあいまでしたが)郵便ポストまで投函しに行った折にふと大きな街路樹の足元をみると、小さな(1cm未満の)丸い穴がいくつもあることに気づきました。これは何だ、と思いつつ見上げると、高さ2m~3mくらいのところに蝉の抜け殻がいくつもあります。そぅか! 日が暮れてから来ると、あれをふたたび観察できるかもしれない! 小学生時代にはカメラなんて持っていなかったけれど、今はいくらでも写真が撮れる! 
というわけで、結局、晩には次に書くようなことを回想しながら、何匹もの脱皮の写真を撮りました。


小学生時代に母の実家(広島県)に行くと、夏は「クマンゼミ」と呼ばれた大きく透明な羽根をもつ蝉が、うじゃうじゃといて、網など使うまでもなく子どもの手でも一度に2・3匹づつ捕まえることができました。そして夕刻になると、樹木の幹を登る幼虫の何匹かを捕獲して、窓や縁側の手すりなどに置いたのです。彼らとしては違和感があったに違いないのですが、いささか体勢を整えなおしてから覚悟を決めて動かなくなり、やがて背中が割れ、美しい青緑の肉体、そして透明な羽根をゆったりと露出します。この間、自分の体重で、殻の割れ目に尻をはさむような形で逆立ちし大きな頭が下にくるのですが、6本の脚を上手に使いつつ体操選手のように屈伸して体位を180度変えて、頭が上、二枚の羽根がすなおに下向きに伸びるような位置に収まると、‥‥柔らかい身体が堅牢さを獲得し、なにより地上に出てから木登り・脱皮の重労働を完了するまで(3時間以上?)の疲労から回復するために動かなくなります。
明朝(鳥たちが動き始めるより前に)元気に飛び立てるよう、また(人にうるさいと思われながら)元気に歌い回れるよう、体力のみなぎるのを待つのでしょう。小学生だったぼくには、夏休みの良い観察(observation)課題でしたが、ただ夜8時~9時くらいに蝉の動きが静止してしまうと、もうすることがなく、寝るしかない。(すごく早起きしてみるほどの根性もなく)明朝は飛び立ったあとの抜け殻(うつせみ)を確認するだけでした。

「クマンゼミ」は瀬戸内ならぬ東京では見られませんが、基本は同じかな。
こんな句を見つけました。
空蝉に 朝日さしこむ 過去未来 (小枝 恵美子)

2018年9月27日木曜日

木谷勤さん、1928-2018

木谷先生が亡くなったと、昨日、知らされました。
1928年4月生まれですから、90歳。

名古屋大学文学部で、北村忠夫教授の後任としていらっしゃり、1988年3月まで同僚でした。そのときの名大西洋史は4人体制(教授二人、助教授二人)で、年齢順に、長谷川博隆、木谷勤、佐藤彰一、近藤、そして助手は土岐正策 → 砂田徹と替わりました。志摩半島や、犬山ちかくの勉強合宿にもご一緒していただきました。
それよりも、名大宿舎が(鏡池のほとり、桜並木の下の)同じ建物の同じ階段、3階と1階の関係とあいなりましたので、その点でもお世話になりました。お宅でモーゼルのすばらしく美味しいワインを頂いたこともあります。福井大学時代の Werner Conze 先生のこととか、いろいろ伺いました。

何度も聞いた、忘れられない逸話は、戦争末期のやんちゃな木谷少年のことで、高等学校に入ったばかりだったのでしょうか。高松の名望家のぼっちゃんで、成績もよく、理系でした。空襲警報が鳴ると、いつもお屋敷の屋根に上って、阪神方面に向かう高空の米軍機を遠望し、「グラマン何機飛来」とか、今日は「B29何機」と大声で下の人に向けて告げるのを常としていた、といいます。
ところがある日、ふだんと違って飛行編隊の高度があまり高くなく、こっちに向かってくるではありませんか。爆撃機が機銃射撃しながら近づいてきたと認識した途端、身体に痛みを感じ、屋根から転落した木谷少年は、その後、数日間意識不明だったといいます。気付いてみるとみんなが心配してのぞき込んでいた、そして左腕は切断されていた。
木谷少年も、こうして高松空襲の犠牲者で、さいわい命はとりとめましたが、両手を使っての実験はできないので理系の道はあきらめ、戦後、文系、しかも西洋史・ドイツ近代史を専攻することになったわけです。(「花へんろ」の早坂暁と1歳違いですね。松山と高松という違いもありますが。)

山川出版社の旧『新世界史』の改訂版、および『世界の歴史』を出すための編集会議(2000年ころ)でご一緒して、そうです、ぼくの原稿が従来の謬見のまま、プロイセンおよびドイツ帝国について権威主義・軍国主義の中央集権国家*、と書いてるのを、そうではなく連邦主義の複合国家だと言ってくださり、誤りの再生産を防いでいただきました。
なおロンドンのベルサイズ(ハムステッドの手前)にはお嬢さん一家が滞在中のところ、ご夫妻で寄寓ということでしたが、ニアミスで残念でした。
ご夫妻と直接お話ししたのは、2008年の松江が最後だったでしょうか。いただいたお年賀状は去年のものが最後となりました。

* 近代ドイツを中央集権国家というイメージで語りたがるのは、いつの誰からでしょう? 伊藤博文・大久保利通以来、明治~昭和のオブセッション? 関連して「30年戦争」以来、ドイツはバラバラで荒廃した、といった定型句もありました。坂井榮八郎さんの『ドイツ史10講』(2003)が徹頭徹尾、こうした中央集権(を目標とする)史観に反対しています。

2018年8月16日木曜日

「花へんろ」ぞなもし


 猛暑と大雨ばかりでなく、驚くような事件も続きます。みなさんは、いかがお過ごしでしょう。
 7月末からほとんど10日間ちかく、「ウイルス性喉カゼ」というのにやられ、年齢のせいかもしれませんが、猛暑も加わり、かなり苦しみました。「喉が痛いな」という感覚から始まり、翌日からセキ、痰が出始め、(ウイルス性で投薬は効かないということなので)栄養と十二分の安眠で自力治癒を目指しましたが、そう簡単には回復しませんでした。

 その間、知的活動はあきらめ、BSの再放送をはじめ、いくつかの古いドラマや映画を見たりして過ごしました。とりわけ「花へんろ」と「新花へんろ」は愛媛県松山市の郊外「風早町」の「勧商場」とその近隣の人間模様を、関東大震災(1923)から敗戦(1945)、そして戦後のカオスにいたるまで定点観測した作品。そういえば、1985-88年、そして1997年に見たことを想い出しましたが、細部はずいぶん忘れています。早坂暁のライフワークでもあり、桃井かおりの「成長」を目撃する作品にもなりました。
 「昭和とは どんな眺めぞ 花へんろ」という早坂暁の句が毎回、最初と最後に詠まれ、時代を描きつつ、高度経済成長以前の地方の商家と、それぞれの理由で四国遍路に出かける人々の悲哀が語られます。

 じつは松山市中に生まれたとはいえ5歳までに四国を出たぼくにとって、お遍路さんはまったく馴染みのない存在ですし、また「‥‥ぞなもし」という言い回しも親類縁者の間で聞いたことがなく、大人になってからむしろ余所者感覚で認識することになります。
むしろ昭和の後半の松山の人々にとって、お遍路さんよりも瀬戸内、そして大阪とのつながりの方が大きかったと思われます。戦争を生き延びた父も叔父も、そして(尾道の)ぼくの母の父も人生の前半の重要局面で、大阪の学校や企業(日立製作所、大阪商船、東洋レーヨン)に関係していました。「新花へんろ」では東京のエノケンの偽物、大阪の「土ノケン」が登場して笑わせますね。

2018年1月15日月曜日

戌年のごあいさつ

 新年、おめでとうございます。
 昨秋から家族の病気の一進一退でドタバタしています。
 年賀状には
 「‥‥ (れき)に伏して 志 千里にあり
などとしたためましたが、これは曹操の
 「驥老伏櫪 志在千里、烈士暮年 壯心不已」
の一部ですから、取りようによっては、「老驥」気取りの、かなり背負った発言と取られるかも知れません。ただし、ぼくとしては世に流布する「櫪に伏すとも」という読みでなく、むしろ素直に順接で、「櫪に伏して」、志だけは千里の遠くに在り、といった実情を謙虚に述べたつもりです。
 そこに老人の挫折をみるか、まだまだ終わっていませんという心情をみるか。

 抑制された心情は、型に約束があって枠のはまった定型句によってこそ表現しやすいような気がしています。

  小春日に 母と語りめづ 向島蜜柑
   
 向島とは広島県の旧御調(みつぎ)郡、尾道水道の向かいに見える「むかいしま」です。母は戌年、弟が向島に密柑山をもつ農民歌人です。先に老人ホームの誕生会で慰問の子どもたちが「みかんの花が咲いている‥‥」と歌ったら、ただちに母は「わたしの歌じゃよ」と申しました。
 尾道高女卒の母にとっては、林芙美子の「海が見えた。海が見える」や小津安次郎の「東京物語」などは、きわめてローカルに親近性を覚える作品です。

 皆さまも、ご健勝に。