8月も今日で終わり。午後は、12月の都市史学会オンライン大会(http://suth.jp/event/convention2020/)へ向けての勉強会で、熱い4時間あまり。6時半に外を見ると、すでに暗くなっていて、河面をわたる風は涼しく、さすが盛夏も終わりか、と感じさせます。
この夏は、コロナ禍(と日差し)を避けてほとんど毎夜に散歩してきました。歩くコースは四方にあるとはいえ、やはり湾岸らしく、潮の香りがして展望もひらける所に惹きつけられ、この写真にあるような光景を歩くことが多いです。
東京港の入口、芝浦と台場をつなぐレインボーブリッジを遠望し、右手は「パークタワー晴海」と「晴海タワーズ」。紛らわしいけれど、三井不動産と三菱地所が競争的に共存しています(晴海2丁目)。この3棟の先、(ここからはほとんど見えない)オリンピック選手村に直結する一帯(晴海4丁目・5丁目)を Harumi Flag と呼ぶことにしたようです。タワマンの住み心地が良いかどうか、ぼくの好みではないけれど、ただ、周辺の緑地・遊歩道はよく整備されて、気持のよい空間です。むかしはセメント工場があり、はるか亀戸から貨物線が通じていました。
その Harumi Flag の写真を撮った場所を振り返ってみると、こんな具合です(豊洲2丁目・3丁目)。
左から三井不動産が再開発したタワマンと複合商業施設ららぽーと、青く光るのは豊洲の波止場で、かつてすべて石川島播磨造船( → 現 IHI)の敷地でした。それを記念したモニュメントが随所に残っています。右手の明るく大きな建物は、この夏にオリンピックを見込んで完成したばかりの三井のホテル+オフィス棟。
つまり真ん中に(夜は黒く光る)豊洲波止場前の海面をはさんで、三菱地所と三井不動産が対峙する配置です。どちらも海に接する遊歩道に、「ここの標高は5.5m」という同様の道標があり、緑地にはさらに丘のように盛り土した箇所もあり、人工の快適空間。
ぼくは、こういうのが嫌いじゃない。小学2年で千葉の新宿小学校に転校して以来、場所は移動しつつも、日本の高度経済成長と近隣の住環境の大転換とをずうっと目撃してきた世代です。40歳で湾岸は東京商船大学の脇に転居してきたのですが、このときも1988年(バブル最中で)佃の超高層マンションがニョキニョキと建てられ、地下鉄有楽町線が開通したのでした。湾岸の大変貌の画期でした。
2020年8月2日日曜日
さみだれを集めて‥‥
先週のことですが、NHKニュースで河川工学の先生が
「さみだれを集めて早し 最上川」
と朗じて、このさみだれとは梅雨の長雨のことで、流域が広く、盆地と狭い急流のくりかえす最上川は増水して怖いくらいの勢いで流れているんですね‥‥と解説しているのを聞いて、忘れていた高校の古文の教材を想い出しました。
さみだれを集めて早し 最上川 (芭蕉、c.1689年)
さみだれや 大河を前に家二軒 (蕪村、c.1744年)
明治になってこの二句を比べ論じた正岡子規の説のとおり、芭蕉の句には動と静のバランスを描いて落ち着いた絵が見える。しかし、蕪村の句は、増水した大河に飲み込まれそうな陋屋2軒に注目したことによって、危機的な迫力が生じる。蕪村に分がある、というのでした。
しかしですよ、子規先生!
第1に、そもそも蕪村は尊敬する芭蕉の歩いた道を数十年後にたどり歩き、芭蕉の句を想いながら自分の句を詠んだわけで、後から来た者としての優位性があって当然です。ないなら、凡庸ということ。
第2に、句人・詩人なら、完成した句だけでなく、
「さみだれを集めて涼し 最上川」
とするかどうか迷い再考した芭蕉の、そのプロセスにこそ興味関心をひかれるでしょう。蕪村はそうしたことも反芻しながらおくの細道を再訪し、自らを教育し直したわけです。
さらに言えば、第3に正岡子規(1867-1902)もまた近代日本の文芸のありかを求めて先人芭蕉、蕪村、明治のマスコミ、漱石との交遊、‥‥を通じて自らの行く道を探し求めていたのでしょう。そのなかでの蕪村の再発見だとすると、高校古文での模範解答は、論じる主体なしの芭蕉・蕪村比較論にとどまって、高校生にとっては「はぁそうですか」程度の、リアリティに乏しいものでした。教える教員の力量ももろに出ちゃったかな。
たとえれば、ハイドンの交響曲とベートーヴェンの交響曲を比べて、ベートーヴェンのほうがダイナミックに古典派を完成しているだけでなく、ロマン派の宇宙をすでに築きはじめていると言うのは、客観的かもしれないが、おこがましい。ハイドンが楽員たちと愉快に試みつつ完成した形式を踏襲しながら、前衛音楽家として実験を重ねるベートーヴェン。啓蒙の時代を完成したハイドンにたいして敬意は失うことなく、しかし十分な自負心をもって新しい時代を切り開いてゆく。(John Eliot Gardiner なら)révolutionnaire et romantique ですね。
両者を論評しつつ自らの道を追求したシューマン(1810-56)が、上の子規にあたるのかな。優劣を評定するだけの進化論や、それぞれにそれぞれの価値を認めるといった相対主義ではつまらない。自らの営為と関係してはじめて比較研究(先行研究)は意味をもつ、と言いたい。
2020年7月10日金曜日
雨と『次郎物語』
未知の新型コロナウィルスに続いて、これまで経験したことがないような雨が連続。「線状降水帯」という語はしばらく前から使われて、理解しやすいのですが、それにしても同じような所で長雨が続くのは勘弁してほしい。
これから書くのは、水害地のみなさんには申し訳ない、九州と雨にかかわる悠長な想い出です。
大分・福岡・佐賀を貫く筑後川(筑紫次郎)。少年時代(中一でしたか?)に読んだ、下村湖人『次郎物語』のいくつかのエピソードをおぼろげに覚えています。イカダを組んで少年たちが川下り、にわか雨で走るかどうか、‥‥。
雨のなかを走るかどうかについては、納得のいかない「算数」あるいは「ギリシア的詭弁」の問題で、もしや以後(日本の)文人たちの論法への不審が芽生えた最初だったかもしれない。
こういうことです。少年たちがたむろしていたあるとき、にわか雨が降り出し、(だれも傘は持たず)何人かは急ぎ駅だか学校だかへ向かって走りだしたのだが、年長の@くんは「走っても歩いてもあびる雨の量は同じだから、走るのは無駄」といって悠然と雨中を歩き通した、というエピソード。そのとき、ぼくにはなぜこれが違うのかは言えなかったけれど、納得ゆかず、以後、雨の日のたびにこの問題が再浮上して悩ましかったのです。
@くんの論法は、(たとえば)学校と駅の間が1000mだとして、100mあたりの単位雨量が u だとすると、この間を走っても歩いてもあびる雨の量は u×10 で変わらない、というもの。
→ もし、雨の量が「単位×移動する距離」で決まるなら、亀さんのようにノロノロ歩いても(たとえ24時間かかっても)u×10 で同じ。古代ギリシアの詭弁家みたい!
そのときのぼくは、あびる雨の量は移動距離でなく(停止していても雨をあびるのだから)、「単位×雨中の滞在時間」で決まるといった反証ができずに、悶々としていたわけです。1分あたりの雨量を r とすると、(たとえば)学校と駅の間を歩いて12分かかる(r×12)のと、2分で疾走する(r×2)のとでは、顕著な差が出ます。【駅前商店街に屋根付きのアーケードとかはない、雨中に走って転倒する事故もなし、という前提。】
下村湖人(1884-1955)は、佐賀で生まれ育ち、帝大英文をでた教育者らしいですが、わがナイーヴな少年時代を悩ませた作家でした。その後もにわか雨で傘を持ちあわせない折には、いつも想い起こされた逸話です。
2020年6月26日金曜日
川勝 の 勝!
川勝平太といえば、オクスフォードでもマンチェスタでも聞こえた男でした。ぼくより1歳若いが、小松芳喬先生と日本の社会経済史学会で鍛えられてアジア史をふまえ、イギリスでは Peter Mathias先生(そして Douglas Farnie先生)の薫陶のお蔭で、良い仕事をまとめることができたのです。早稲田大学では British Parliamentary Papers (いわゆるブルーブック)の購入決定に理事会が反対したというので、タンカを切って辞職して、国際日本文化研究センターに移動。そのころすでに環境史には一家言あり、1997年の日英歴史家会議(AJC, 慶応)ではスマウト先生の環境史報告へのコメンテータをつとめました。【じつは川勝とぼくの共著もあります!『世界経済は危機を乗り越えるか:グローバル資本主義からの脱却』(ウェッジ選書*、2001)】
それからは静岡芸術文化大学(木村尚三郎後任)をへて政治にコミットしたようで、2009年の静岡県知事選挙で、(自民党・民主党の支持者を分裂させながら)当選、以後、2選、3選は圧倒的に勝利しています。
一方のJR東海の金子慎社長は、といえば東大法卒、国鉄・JRの人事・総務畑で出世してきたかもしれないが、内向きの能吏で、- そもそも歴代首相とやりあい、英語での交渉もでき、皇室との個人的なつきあいもある川勝知事を相手に -、太刀打ちできるタマではない。
今晩のNHK-TV、7時のニュースでも、川根の水で入れたおいしいお茶を供されて、金子社長が完全に手玉にとられてしまった場面が放映されました【この部分を、9時のニュースでは繰りかえさなかった。NHK幹部の独自の政治的判断≒配慮が介在したと想像されます!】。
問題は、大井川や南アルプスだけではありません。
コロナ禍で「リモート仕事」「Zoom会議」の快感を知ってしまった国民が、はたして、東京-名古屋は40分、東京-大阪は67分、といった恐怖のトンネル続きの「利便性」をこれからも支持しつづけるだろうか。ここは、むしろ東京オリンピックの中止、Aegis Ashoreの中止(河野防衛相の英断)、につづいて、never too late to mend! 電磁気によるリニア新幹線計画じたいを中止するという英断が待たれます。東京首都圏への過度の集中、通勤・出張を再考する好機ですよ、金子社長!
* ウェッジ選書とは、すなわち JR東海きもいりの出版でした! なんという皮肉/めぐり合わせ!
それからは静岡芸術文化大学(木村尚三郎後任)をへて政治にコミットしたようで、2009年の静岡県知事選挙で、(自民党・民主党の支持者を分裂させながら)当選、以後、2選、3選は圧倒的に勝利しています。
一方のJR東海の金子慎社長は、といえば東大法卒、国鉄・JRの人事・総務畑で出世してきたかもしれないが、内向きの能吏で、- そもそも歴代首相とやりあい、英語での交渉もでき、皇室との個人的なつきあいもある川勝知事を相手に -、太刀打ちできるタマではない。
今晩のNHK-TV、7時のニュースでも、川根の水で入れたおいしいお茶を供されて、金子社長が完全に手玉にとられてしまった場面が放映されました【この部分を、9時のニュースでは繰りかえさなかった。NHK幹部の独自の政治的判断≒配慮が介在したと想像されます!】。
問題は、大井川や南アルプスだけではありません。
コロナ禍で「リモート仕事」「Zoom会議」の快感を知ってしまった国民が、はたして、東京-名古屋は40分、東京-大阪は67分、といった恐怖のトンネル続きの「利便性」をこれからも支持しつづけるだろうか。ここは、むしろ東京オリンピックの中止、Aegis Ashoreの中止(河野防衛相の英断)、につづいて、never too late to mend! 電磁気によるリニア新幹線計画じたいを中止するという英断が待たれます。東京首都圏への過度の集中、通勤・出張を再考する好機ですよ、金子社長!
* ウェッジ選書とは、すなわち JR東海きもいりの出版でした! なんという皮肉/めぐり合わせ!
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2020年2月22日土曜日
水際作戦からパンデミックへ
いま中国、日本だけでなく、韓国、その他においても「市中感染」の段階に進んでしまった新型コロナウィルス(WHO の正式名称は COVID-19)ですが、これについてぼくは疫学もその歴史も知りませんから、特別なことは指摘できない。また不安やパニックを煽ったりしたくありません【当面、12日から個人的には花粉症で苦しみ始めました!】。ただ二つほどのことは言えます。
¶1.NHKテレビにもしばしば登場される賀来 満夫 教授(東北医科薬科大)がすでに2月前半には指摘なさっていたとおり、政府も医療チームもできること分かっていることはやっている、ただしこれは SARS や MERS と違って「はじめに劇症が出ない感染症だから、やっかいだ」ということです。つまり COVID-19のキャリアでありながら(とくに若くて元気な人は)ほとんど軽症で、肺炎の症状は出ない。だから普通の生活を送りながらウィルスを拡散しているかもしれない。糖尿病や循環器に疾患をもつ人、そして高齢者が罹患すると重症化してニュースになるが、その周囲にもっと多くの(軽症の)感染者がウィルスを拡げてゆく可能性を警戒すべきだ、とおっしゃっていました。事態はそのとおりに展開しています。【3月6日加筆:同じく東北大学の押谷 仁 教授が、大学のぺージでよく分かるように説明してくださっています。 → https://www.med.tohoku.ac.jp/feature/pages/topics_217.html】
WHO はもう少し早めに、この病気の世界的な拡がりの脅威を警告すべきでした。そうすることによって、各国政府に早めで真剣な取組をうながすことになったでしょう。
¶2.もう一つの問題は、横浜港に停泊している Diamond Princess 号の国際法的な位置と船長の指揮権です。(日本政府は、船内の感染者数を日本国内の症例とは別にカウントしています!)
・外国籍の船が、感染症とともに、3700人もの多国籍・多言語の人々を乗せて寄港してしまった場合(しかも、入国手続は全員未履行)に、どうすべきかというノウハウはなかった。だから日本政府は毅然たる/明快な方針を立てなかったということでしょうか。官僚主義的で、どこか真剣さが足りないような気がしました。
・それにしても、船のなかのとりわけ緊急の問題は、船長(とそのスタッフ)に権限・リーダーシップがあるはずですが、今回の事態からはそれがさっぱり見えてこない。乗客にたいするコミュニケーション、乗員従業員にたいする指示・指導‥‥大きな問題を残しました。
グロティウスから大沼保昭、金澤周作にいたる賢者も即答できない、歴史的で急を要する事態が発生したわけです。そうした認識が1月の時点では(だれにも?)不足していた。
「水際作戦」とか quarantine (昔は40日!今は14日)といった、近世・近代的な対策では、スペイン風邪(WWI 直後のインフルエンザ pandemic)以後の現代的感染症 - しかも、はじめは劇症でなくソフトに始まる新型感染症 - には対処できない。これに英語発信の立ち後れという「日本的」問題も加わって(Ghosn 事案の場合と同じ)、この2020年は疫病史だけでなく、世界史に刻みこまれる年になりそうです。
‥‥これによって、付随的に、2020年真夏のオリンピック強行という愚行が、なんとか延期・修正されるかな?
2020年1月5日日曜日
謹 賀 新 年
新しい年をいかがお迎えでしょうか。
旧年は、おかげさまで身辺にあまり大きな変化もなく過ぎました。それでも沖縄で首里城などぐすくを歩き(10月末の炎上には驚き悲しみました)、ブダペシュトやブラティスラヴァ、対馬、青森、水戸に遊びました。それぞれ良き先達のおかげで印象深い経験となりました。なにより古くからの師友に再会し、またいくつもの研究集会で報告者やコメンテータをつとめ、討論に参与できる機会が続いたのは、嬉しいことでした。
華麗ならぬ加齢のすすむにつれ、折々の交わりがいとおしく、このブログに所感をしたためています。
今年も どうかご健勝にお過ごしください。
2020年正月 近藤 和彦
(写真[クリックすると拡大]は晴れて寒い今日、晴海大橋から遠望した豊洲の海辺です。
正面にやや低く4・5層で横に広がるのが「ららぽーと」で、その真ん中に波止場の跳ね橋が見えます。
豊洲の新市場は、画面の右端「ゆりかもめ」の軌道を右手前に延伸した先にあります。)
旧年は、おかげさまで身辺にあまり大きな変化もなく過ぎました。それでも沖縄で首里城などぐすくを歩き(10月末の炎上には驚き悲しみました)、ブダペシュトやブラティスラヴァ、対馬、青森、水戸に遊びました。それぞれ良き先達のおかげで印象深い経験となりました。なにより古くからの師友に再会し、またいくつもの研究集会で報告者やコメンテータをつとめ、討論に参与できる機会が続いたのは、嬉しいことでした。
華麗ならぬ加齢のすすむにつれ、折々の交わりがいとおしく、このブログに所感をしたためています。
今年も どうかご健勝にお過ごしください。
2020年正月 近藤 和彦
(写真[クリックすると拡大]は晴れて寒い今日、晴海大橋から遠望した豊洲の海辺です。
正面にやや低く4・5層で横に広がるのが「ららぽーと」で、その真ん中に波止場の跳ね橋が見えます。
豊洲の新市場は、画面の右端「ゆりかもめ」の軌道を右手前に延伸した先にあります。)
2019年10月31日木曜日
首里城 炎上
今朝、寝ぼけ眼でスマホをみると首里城の炎上する写真。にわかに信じられず、TVをみましたが、法務大臣の交代だの、マラソン開催地の変更だの、ちょっと二次的なニュースが続きました。マスコミ側もにわかに対応できなかったのでしょうか。
今年2月に島内をめぐり、首里城については見学もしたし、外から美しい写真もいろいろと撮れて(戦中の陸軍の陣地跡もふくめて)、良い印象をもっていたものですから、本当ににわかに信じがたい惨事です。
↓
http://kondohistorian.blogspot.com/2019/02/blog-post_13.html
先のパリ・ノートルダム大聖堂の「再建」案についてと同じく、中世以後、いつの首里城を復元・再建するのかという問題も、歴史家たちが参加して真剣に議論してほしいと思います。日本列島の歴史の本質に触れる重要なモニュメントです。21世紀にのこすべき歴史遺産なのですから、防火・防災についてはもちろん。再建資金については、ノートルダムに負けないくらいの民間寄付を集めても良いのではないか。
2019年5月9日木曜日
Queen Elizabeth と三内丸山遺跡
連休の最後に青森に参りました。
遅い桜花を見るためにではなく、旧友に会うためでした。諸々の話をすることができて良かった。
初日は雨模様でしたが、2日目はなにより天気にも恵まれ、ちょうど Queen Elizabeth 号が青森に初めて寄港するという特別の日だったようで、港では「メルバン」から来てヴァンクーヴァに向かうという老夫婦とお話をし、また波止場の展望台の上から俯瞰しました。反対側に雪の八甲田連峰および岩木山も遠望できました。
午後は三内丸山遺跡に同行して(これは1994年『中学歴史』[東京書籍]の編集執筆をして以来の宿題!)ボランティア説明者とのやりとりが有益でした。栗の大木6本の建築物の下方から、はるか八甲田山を遠望できます。
なおまた隣接する青森県立美術館では、棟方志功の若き無名時代のエピソードも聞くことができて、楽しかった。
遅い桜花を見るためにではなく、旧友に会うためでした。諸々の話をすることができて良かった。
初日は雨模様でしたが、2日目はなにより天気にも恵まれ、ちょうど Queen Elizabeth 号が青森に初めて寄港するという特別の日だったようで、港では「メルバン」から来てヴァンクーヴァに向かうという老夫婦とお話をし、また波止場の展望台の上から俯瞰しました。反対側に雪の八甲田連峰および岩木山も遠望できました。
午後は三内丸山遺跡に同行して(これは1994年『中学歴史』[東京書籍]の編集執筆をして以来の宿題!)ボランティア説明者とのやりとりが有益でした。栗の大木6本の建築物の下方から、はるか八甲田山を遠望できます。
なおまた隣接する青森県立美術館では、棟方志功の若き無名時代のエピソードも聞くことができて、楽しかった。
2019年4月6日土曜日
境界 すなわち交流圏
ブダペシュト、そしてブラティスラヴァを訪れたのは科研(向こう岸のジャコバン)の企画ででした。帰国して直ちに対馬に赴いたのは科研(主権概念の再構築)の一環です。
対馬については、また後日ふれるとして、Border すなわち国境(線)ではなく境界(地帯)であり、交流のあらわになる圏域だなという認識を強くしたのは、ドナウ川、ローマ帝国の辺境、そしてオスマン帝国と神聖ローマ帝国のせめぎあい(また20世紀には東西冷戦)の現場に立ってのことです。
ドナウ川を南に見下ろすブラティスラヴァ城(現スロヴァキア)で撮った写真2葉をご覧に入れます。快晴ですが、遠くはすこし霞がかっています。
左手=東にはハンガリーの工場の煙突群が遠望され(ブダペシュトまで200キロ)、
右手=西にはオーストリアの風力発電群が遠望されます(50キロ余り先はウィーン)。
手前・川向こうの中高層は労働者の集合住宅です。国境の最前線に労働者街のコンクリート建築というのは、かつて東ベルリンでも見た風景ですね。
ドナウ川は西から東にかなりの水量≒速さで流れています。1838年3月の(雪解け)大洪水の水没線が、ブラティスラヴァでもブダペシュトでも記録・表示されているのが印象的でした。
2019年4月5日金曜日
ブダペシュトの市場にて
建築学的にブダペシュトはおもしろいと言い始めたら、都市史学会の面々は黙っちゃいないでしょう。
社会史的におもしろいのは、この中央市場です。タイル張りで1897年竣工。なかは2階建て。その活況が楽しい。それから隣接の Corvinus University (経済大学)はかつてポランニ先生がイギリスへ移る前にいた所と知ると、親しみが沸いてくる。すぐ脇が「自由橋」です。
ところで撮ってきた写真を眺めていて、ランチを摂った中央市場のテーブルに、白いビニールの掛けものがありました。
なんとこれを拡大してみると(真ん中やや上の部分)、こんなことが記してある。
サッチャ首相、ブッシュ大統領、ダイアナ妃は、さもありなんという方々だが、Emperor of Japan って今上陛下のこと?
美智子皇后もこの活気ある空間に立たれたのか! グーラシュを召し上がったのだろうか? そこで検索してみると、宮内庁のサイトに「平成14年7月16日(火)」ハンガリー大統領主催の晩餐会@国会議事堂(!)で述べられた「お言葉」が載っています。つまり2002年。そこでは、
1770年に来日し,長崎のオランダ商館に滞在したイェルキ・アンドラーシュから、
翌年,ハンガリー生まれの冒険家であったベニョフスキー・モーリツの来航に言及したうえで、
「オーストリア・ハンガリー帝国が成立した1867年は,私の曾祖父明治天皇がその父孝明天皇を継いだ年であり,二百年以上続いた徳川将軍を長とする幕府が廃された年でもあります。我が国が,諸外国との交流を深め,国の独立を守り,近代化を進めるための非常な努力を始めた時でありました。オーストリア・ハンガリー帝国と我が国との間に国交が開かれたのは,その翌々年になります。‥‥」そして
「ハンガリー語と日本語が共にウラル・アルタイ語族に属しているということから,20世紀初頭,語学研究のため,ハンガリーに滞在した白鳥庫吉のような東洋史学者‥‥」といったことまでディナースピーチは及んだのでした。引用は、http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/speech/speech-h14e-easterneurope.html#HUNGARY より。わが不明を恥じます。
社会史的におもしろいのは、この中央市場です。タイル張りで1897年竣工。なかは2階建て。その活況が楽しい。それから隣接の Corvinus University (経済大学)はかつてポランニ先生がイギリスへ移る前にいた所と知ると、親しみが沸いてくる。すぐ脇が「自由橋」です。
ところで撮ってきた写真を眺めていて、ランチを摂った中央市場のテーブルに、白いビニールの掛けものがありました。
なんとこれを拡大してみると(真ん中やや上の部分)、こんなことが記してある。
サッチャ首相、ブッシュ大統領、ダイアナ妃は、さもありなんという方々だが、Emperor of Japan って今上陛下のこと?
美智子皇后もこの活気ある空間に立たれたのか! グーラシュを召し上がったのだろうか? そこで検索してみると、宮内庁のサイトに「平成14年7月16日(火)」ハンガリー大統領主催の晩餐会@国会議事堂(!)で述べられた「お言葉」が載っています。つまり2002年。そこでは、
1770年に来日し,長崎のオランダ商館に滞在したイェルキ・アンドラーシュから、
翌年,ハンガリー生まれの冒険家であったベニョフスキー・モーリツの来航に言及したうえで、
「オーストリア・ハンガリー帝国が成立した1867年は,私の曾祖父明治天皇がその父孝明天皇を継いだ年であり,二百年以上続いた徳川将軍を長とする幕府が廃された年でもあります。我が国が,諸外国との交流を深め,国の独立を守り,近代化を進めるための非常な努力を始めた時でありました。オーストリア・ハンガリー帝国と我が国との間に国交が開かれたのは,その翌々年になります。‥‥」そして
「ハンガリー語と日本語が共にウラル・アルタイ語族に属しているということから,20世紀初頭,語学研究のため,ハンガリーに滞在した白鳥庫吉のような東洋史学者‥‥」といったことまでディナースピーチは及んだのでした。引用は、http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/speech/speech-h14e-easterneurope.html#HUNGARY より。わが不明を恥じます。
ブダペシュト議会
ヨーロッパ滞在中は花粉症の気はなかったのですが、調子に乗って、帰国翌日に早稲田あたりでウロウロしたあげく、対馬で3日間外歩き。その結果がこの数年に経験しないほどの苦しい症状となってしまいました。
その後はもっぱら休養と必要最低限の外出にとどめて、なんとかなっています。
想い起こすに、中欧の経験はやはり強烈です。
19世紀ブダペシュトの繁栄は建築史的にもおもしろい証を残していて、それは19世紀前半までのダブリンの繁栄と比較できるくらい。人口的にはブダペシュトのほうがずっと大きく、アイルランド島よりも広いハンガリー王国の人口も大きい。なんといってもドナウ流域圏の「女王」です。19世紀にアイルランドがブリテンと連合王国(UK)をなしていたのと似て、ハンガリーはオーストリアとアウスグライヒ(二重帝国)をなして、従属的とはいえ、どんどん成長しました。
隣接する大国の普遍言語(英語、ドイツ語)が浸透しつつもゲール語、マジャール語に集約される豊かな民俗文化が強烈に残っているという共通性も指摘できます。
この場合、アイルランドとハンガリーの違いは、地理的に内陸か臨海かといった相違点に加えて、1) アイルランドの人口流出が人口減少にいたったのにたいし、ハンガリーは人口減少にはいたらなかった。2) アイルランドは歴史的な議会を失い、ハンガリーは歴史的な議会を維持した。3) ハンガリー(ブダペシュト)におけるユダヤ人口の大きさ。といった差異は決定的かもしれない。
Annabel Barber, Blue Guide Budapest (3rd ed., 2018) によると、
18世紀までハンガリー議会は開催地を固定せず、時に応じて召集されていたが、19世紀に入るとプレスブルク(ブラティスラヴァ)からペシュトに召集されるようになり、1880年に上下両院を一つ屋根のもとに収容できる立派な建物、「他のすべての建物を下に見、ハンガリー国民の力を表現し、ハンガリー人の全体を代表具現するような象徴的建造物をドナウ川岸に」たてる計画が始まり、1902年に竣工した。両翼の端から端まで265m、真ん中のドームの高さ96m.大きさと威容だけでなく、ドナウ川に面したゴシック・リヴァイヴァル様式の美しさは、テムズ河畔のウェストミンスタ議会(1852竣工)にも比すべきものです。
ところで、両議事堂はそれぞれ大きな川に面していますが、ブダペシュトでこれは西に面し、ウェストミンスタでは東に面し、そのため千数百キロを隔てつつも、両議事堂は対面している、という関係です!
その後はもっぱら休養と必要最低限の外出にとどめて、なんとかなっています。
想い起こすに、中欧の経験はやはり強烈です。
19世紀ブダペシュトの繁栄は建築史的にもおもしろい証を残していて、それは19世紀前半までのダブリンの繁栄と比較できるくらい。人口的にはブダペシュトのほうがずっと大きく、アイルランド島よりも広いハンガリー王国の人口も大きい。なんといってもドナウ流域圏の「女王」です。19世紀にアイルランドがブリテンと連合王国(UK)をなしていたのと似て、ハンガリーはオーストリアとアウスグライヒ(二重帝国)をなして、従属的とはいえ、どんどん成長しました。
隣接する大国の普遍言語(英語、ドイツ語)が浸透しつつもゲール語、マジャール語に集約される豊かな民俗文化が強烈に残っているという共通性も指摘できます。
この場合、アイルランドとハンガリーの違いは、地理的に内陸か臨海かといった相違点に加えて、1) アイルランドの人口流出が人口減少にいたったのにたいし、ハンガリーは人口減少にはいたらなかった。2) アイルランドは歴史的な議会を失い、ハンガリーは歴史的な議会を維持した。3) ハンガリー(ブダペシュト)におけるユダヤ人口の大きさ。といった差異は決定的かもしれない。
Annabel Barber, Blue Guide Budapest (3rd ed., 2018) によると、
18世紀までハンガリー議会は開催地を固定せず、時に応じて召集されていたが、19世紀に入るとプレスブルク(ブラティスラヴァ)からペシュトに召集されるようになり、1880年に上下両院を一つ屋根のもとに収容できる立派な建物、「他のすべての建物を下に見、ハンガリー国民の力を表現し、ハンガリー人の全体を代表具現するような象徴的建造物をドナウ川岸に」たてる計画が始まり、1902年に竣工した。両翼の端から端まで265m、真ん中のドームの高さ96m.大きさと威容だけでなく、ドナウ川に面したゴシック・リヴァイヴァル様式の美しさは、テムズ河畔のウェストミンスタ議会(1852竣工)にも比すべきものです。
ところで、両議事堂はそれぞれ大きな川に面していますが、ブダペシュトでこれは西に面し、ウェストミンスタでは東に面し、そのため千数百キロを隔てつつも、両議事堂は対面している、という関係です!
2019年3月31日日曜日
対馬の厳原(いづはら)
3月14日から以降、ブダペシュト(ブラティスラヴァ) → ロンドン → 早稲田 → 対馬
と順序よくご報告すべきですが、(しばらく忘れていた花粉症の辛さに翻弄されつつ)対馬の歴史には圧倒されました。
近世日本列島の「4つの窓」とよく言いますが、それが幕府にも十分に重視されていたこと、また古代から中世、近世、そして近現代の(小中学生でも知っている)画期ごとに顕著な痕跡=史跡を残していることが知れて、たいへんな勉強になりました。チームの皆さん、ありがとうございます。
なおまた『つしまっ子郷土読本』(対馬市教育委員会,2016)というすばらしい、小学6年生むけの副読本があると知って、厳原唯一の大西書店でさっそく購入しました。
2019年3月19日火曜日
ブダペシュト
ただいま、ブダペシュトに滞在中。初めての地です。
ヨーロッパのど真ん中ゆえにCEU(Central European University)があって、そこでこんな話をしています。
→ https://pasts.ceu.edu/events/2019-03-18/european-jacobins-and-republicanism
本日までは、(原稿未完のまま飛来したので)寝ても覚めてもナーヴァスな日夜でした。報告・討論を終えて、ようやくホッとしています。
リスト、ルカーチ、ポランニ、バルトーク、セル、といった人材を輩出したハンガリー。
ブダ+ペシュトは、ドナウ川が流路を90度変えたあと、ハンガリーの大草原に出てくる所にある、というわけで西と東、ヨーロッパ・カトリック教圏と正教圏、あるいは近世ですと神聖ローマ帝国とオスマン帝国との境目にあたります。ユダヤ人街がこんなにも広く展開しているとは、想像もしていませんでした。
CEUもここになくてはならぬわけではない . . .
昨日はたいへん暖かい快晴日、ドナウ川をさかのぼる形ですが、ブラティスラヴァまで出かけました。
今日はふたたび曇天、夜は冷えます。
(写真はたくさん撮っているのですが、カードリーダを忘れできたので、こちらに転送することができません。帰国してからゆっくりご覧に入れます。)
ヨーロッパのど真ん中ゆえにCEU(Central European University)があって、そこでこんな話をしています。
→ https://pasts.ceu.edu/events/2019-03-18/european-jacobins-and-republicanism
本日までは、(原稿未完のまま飛来したので)寝ても覚めてもナーヴァスな日夜でした。報告・討論を終えて、ようやくホッとしています。
リスト、ルカーチ、ポランニ、バルトーク、セル、といった人材を輩出したハンガリー。
ブダ+ペシュトは、ドナウ川が流路を90度変えたあと、ハンガリーの大草原に出てくる所にある、というわけで西と東、ヨーロッパ・カトリック教圏と正教圏、あるいは近世ですと神聖ローマ帝国とオスマン帝国との境目にあたります。ユダヤ人街がこんなにも広く展開しているとは、想像もしていませんでした。
CEUもここになくてはならぬわけではない . . .
昨日はたいへん暖かい快晴日、ドナウ川をさかのぼる形ですが、ブラティスラヴァまで出かけました。
今日はふたたび曇天、夜は冷えます。
(写真はたくさん撮っているのですが、カードリーダを忘れできたので、こちらに転送することができません。帰国してからゆっくりご覧に入れます。)
2019年2月13日水曜日
琉球王国
じつは4日間、沖縄に行き、明代の琉球王国から以降の交易ハブ、1609年の薩摩侵攻、1879年、明治政府による琉球処分、「国民統合」、そして沖縄戦、戦後国際政治に翻弄されたあげくの佐藤内閣による「本土復帰」という名の再沖縄処分、といった歴史に圧倒されて、まだ余韻にひたっています。きれいな首里城の夜景も撮りました。
沖縄は2度目です。1度目は沖縄戦と戦後政治といったことしか考えていなかった。今回は中世末からとくに近世の「礫岩のような政体」のありかたに心揺さぶられました。 琉球の中でも、グスク[城]のあいだの覇権争いのようなことも伺われて興味深かったです。写真は、もっとも保存状態のよい(つまり戦災の少なかった)中城[ナカグスク]の城址。
年来の友人夫妻が33年の在琉を経て、イギリスに帰国するから最後にというので、呼ばれて行ったのですが、彼らの案内による historic places 巡り、そして、英語の琉球史研究文献がどんどん出ているのが印象的でした。
ペリーが1853年6月6日に宮廷で dinner speech をしたこと、その前にすでにフランスの宣教師、イギリスの宣教師が来ていたことを記念する碑も見ました。
アジア太平洋戦争は愚劣な戦争で、しかも終わり方は最悪でしたが、平和祈念公園の海を望み、敵・味方(沖縄んちゅ、大和んちゅ)・朝鮮・台湾籍の人々の墓(記銘碑)が一緒に一面に広がっているのは、ほんの少し慰めになります。
沖縄は2度目です。1度目は沖縄戦と戦後政治といったことしか考えていなかった。今回は中世末からとくに近世の「礫岩のような政体」のありかたに心揺さぶられました。 琉球の中でも、グスク[城]のあいだの覇権争いのようなことも伺われて興味深かったです。写真は、もっとも保存状態のよい(つまり戦災の少なかった)中城[ナカグスク]の城址。
年来の友人夫妻が33年の在琉を経て、イギリスに帰国するから最後にというので、呼ばれて行ったのですが、彼らの案内による historic places 巡り、そして、英語の琉球史研究文献がどんどん出ているのが印象的でした。
ペリーが1853年6月6日に宮廷で dinner speech をしたこと、その前にすでにフランスの宣教師、イギリスの宣教師が来ていたことを記念する碑も見ました。
アジア太平洋戦争は愚劣な戦争で、しかも終わり方は最悪でしたが、平和祈念公園の海を望み、敵・味方(沖縄んちゅ、大和んちゅ)・朝鮮・台湾籍の人々の墓(記銘碑)が一緒に一面に広がっているのは、ほんの少し慰めになります。
2017年9月14日木曜日
海港コーヴ
港町コーヴは南西部の中心都市コーク(それ自体が中世からの港市です)から大西洋に出てゆく外航船のための「外港」のような役割で、入江のなか、水深の深い良港です。いまは海軍基地があります。多数の Irish の人々がここからアメリカに移民として渡りました。アメリカで成功した Irish Americanたちが故郷に寄付して、坂道の上の丘に、立派な大聖堂を建てました。
1912年4月、当時は(ヴィクトリア女王の1849年来訪を記念して) Queenstown と改名されていましたが、Titanic 号の最後の寄港地でした。『イギリス史10講』p.255. 沖に停泊した豪華客船の2224名の乗客・乗組員は、先にも登載した Gothic revival の大聖堂を見上げたわけです。
昔の鉄道は廃線となり、駅舎が観光用に残っています。1912年のタイタニックと1915年のLusitania撃沈を記念する(忘れない)ために、湾を一望する丘の上に小公園ができていました。
1912年4月、当時は(ヴィクトリア女王の1849年来訪を記念して) Queenstown と改名されていましたが、Titanic 号の最後の寄港地でした。『イギリス史10講』p.255. 沖に停泊した豪華客船の2224名の乗客・乗組員は、先にも登載した Gothic revival の大聖堂を見上げたわけです。
昔の鉄道は廃線となり、駅舎が観光用に残っています。1912年のタイタニックと1915年のLusitania撃沈を記念する(忘れない)ために、湾を一望する丘の上に小公園ができていました。
2016年12月18日日曜日
大阪歴史博物館
今月10-11日には大阪歴史博物館で都市史学会大会、17日には大阪大学中之島センターで関西中世史研究会と古谷科研の合同研究会。2つの週末に連続して(帯状疱疹の痣をさらしつつ)歴史的な大阪の空気を呼吸しました。
大阪はぼくの両親(松山と尾道)が1945年2月4日に結婚して住んだ所です。その3月に大阪大空襲で焼け出されて松山に戻りましたが、戦後1953年にふたたび大阪に出て働きました(戦後に住んだのは阪急沿線・桂の住宅で、こどものぼくには大阪市はよくわからない広大な都会でした)。
このたびの都市史学会大会は、大阪城と難波宮跡にはさまれた歴史博物館で、なぜかNHKと礫岩のようにくっついた建物にて。
古代から近代までの大坂・大阪史の問題の豊かさを具体的に示していただき、また合間に博物館の展示を拝見しました。閉会後の夕刻には難波宮のあとを歩いてみました。
古代からの歴史の長さという点でも、水運による瀬戸内海・東アジアとの接続という点でも、大坂は(江戸より)はるかロンドンに近い存在かなと考えました。
もし1868年に東京でなく大阪に遷都していたとしたら、ロンドンとの類似性はさらに増した、というより複雑になったかな。
午後のブルッゲ・ベルゲン・ヴェネチア・カイロ・アムステルダム・長崎における商人集団と多文化のありかたをめぐるシンポジウムでも、いろいろと示唆をいただき、なお考えを深めてゆきたいと思いました。
みなさま、ありがとうございます。
2016年10月18日火曜日
「豊洲問題」
今マスコミと小池知事が、あげて土壌、地下水、空気を問題にしています。でも、ここで問題にしたいのは市場建設の是非よりも「豊洲」という地名そのものです。
あなたは江東区豊洲に来たことがありますか? 一度も歩いたことのない人には想像もできないくらい広い地域です。1988年から隣接する越中島の住民として、よく知っていました。夜中に遠く、ドックの船舶の汽笛が聞こえたものです。
→ http://www.toyosu.org/ 豊洲2・3丁目まちづくり協議会
「豊洲1丁目~5丁目」は一つの島をなし、戦間期からおおむね石川島播磨工業の造船・メインテナンスの大工場と関連の中小企業、そして住宅、飲食店が拡がっていました。国鉄の貨物線も走っていました。いま地図で計ってみると、全部で約1400m×800mの広さ。石川島播磨工業は1980年代に、まず創業の地・中央区佃から撤退し、そこは今、超高層住宅が林立しています。やがてさらに江東区豊洲2・3丁目の主工場敷地も再開発することが決まり、最初の超高層・NTTデータの豊洲センタービルが竣工したのは1992年でした。そして IHI と改名した本社ビル(豊洲3丁目)、芝浦工業大学、いくつものタワーマンション、商業施設、オフィス、「アーバンドックららぽーと」(豊洲2丁目)が開業したのが、2006年。湾岸を代表する、職住近接の街として楽しい空間ができました。子どもをもつ親(と祖父母)にとってキッザリアは一度は行くメッカでしょう。
これとは水路をはさんで、直角に接する「豊洲6丁目」というこれまた広大な、約1800m×600mほどの埋め立て地があって、東京ガスおよび東京電力の工場が占めていました。ほとんど住宅はなかったみたい。やがて、こちらの用地が収用され、それぞれガステナーニおよびTEPCOのミュージアム施設以外は空き地がひろがり、そこに「ゆりかもめ」が走り、湾岸の高速道路へのアプローチ公道が何本か伸びる、付随して流通業の大配送センターが建つ、という状態が長く続いていました。ここに新市場が移転・建設されることになったのです。http://www.tokyogas-toyosu.co.jp/project/toyosu22/ とよす22
繰りかえしになりますが、「豊洲1丁目~5丁目」と「豊洲6丁目」とは別で、(2丁目・5丁目の境にある)「ゆりかもめ」豊洲駅から二つ目の駅が「新市場前」です。「豊洲1丁目~5丁目」の住民・勤め人は、ジョギングか犬の散歩でもなければ、行ったことはないんじゃないでしょうか。おなじ豊洲という地番で一緒くたにするのは、迷惑な話で、たとえれば築地全部(1200m×800m)を銀座9丁目と呼んで、銀座(約1100m×700m)と築地を区別することなく一緒にするのより、もっと乱暴な企てです。
2015年9月15日火曜日
おもろい大阪
ぼくの父母は結婚してすぐに大阪・住吉区に住み、1945年3月の大阪大空襲に遭難してたいへんな思いをしました。松山に戻ったあと、1954年からは父が大阪梅田に通勤するにあたって、阪急・桂駅の近くに新居を構えた、といったことがありますから、ぼくは東京・関東しか知らない人びととは違う感覚をもっています。
それにしても、このところ大阪に行く機会がふえて、阪大・中之島センターに行くには環状線・福島駅から歩ける;中之島・川の手がおもしろいし、東洋陶磁美術館はすばらしい;そこから鉾流橋を渡って裁判所の裏手にまわると、古美術店やフランス料理店などの連なる一瞬、ここはどこだったかと迷うような街路が出現して、楽しいですね。
でも駅のエスカレータで、うっかり左手に立つ自分が目立つのを認識すると、こうした写真をおもろいと考えるのと相通じるものがありそう。
中之島の市役所で、こんなコーナーを見つけました。カワいいね。ぼくが東京で住んでいる深川から日本橋にかけても川の手です。近世までの大都市は、水運の便がなければ成り立たないとは、このブログでも先に書き付けましたかね。
堂島に米市場ができ、商売人の市民社会が形成される1730年は、なぜか時代的にロンドンで a polite and commercial people が語られるのと同時代です。
でも、こういう「面白い」大阪土産の命名はよそではしないと思うんですが。
それにしても、このところ大阪に行く機会がふえて、阪大・中之島センターに行くには環状線・福島駅から歩ける;中之島・川の手がおもしろいし、東洋陶磁美術館はすばらしい;そこから鉾流橋を渡って裁判所の裏手にまわると、古美術店やフランス料理店などの連なる一瞬、ここはどこだったかと迷うような街路が出現して、楽しいですね。
でも駅のエスカレータで、うっかり左手に立つ自分が目立つのを認識すると、こうした写真をおもろいと考えるのと相通じるものがありそう。
中之島の市役所で、こんなコーナーを見つけました。カワいいね。ぼくが東京で住んでいる深川から日本橋にかけても川の手です。近世までの大都市は、水運の便がなければ成り立たないとは、このブログでも先に書き付けましたかね。
堂島に米市場ができ、商売人の市民社会が形成される1730年は、なぜか時代的にロンドンで a polite and commercial people が語られるのと同時代です。
でも、こういう「面白い」大阪土産の命名はよそではしないと思うんですが。
2013年4月30日火曜日
2012年11月28日水曜日
近世都市 金沢
あいかわらずアタフタしていますが、週末から3日間フルに文化都市金沢を堪能することができました。お城や兼六園にも行きましたし、武家屋敷跡、東西の茶屋街、そしてタテマチも歩きましたが、次の研究の見通しとして、最初に宮腰の港と銭屋五兵衛の記念館と醤油の大野を見学。積極的ブルジョワ「銭五」のこと、みなさん、ご存じでした?
近世都市は水運がなければ成り立たないだろう、と考えていますので、それを確かめるという意図もありました。観光案内が充実していると思いました。
金沢は地域の大学都市でもあるようですが、四高と県庁の跡が、よい具合に大学コンソーシアムの共同施設になっていました。
晴と雨の金沢を、短期日ですが効率的に楽しめたのは、もちろん御案内と御指南が良かったから。
観光客で一杯の「野村家」のほうは、じつは所有者の交替が重なり、すばらしい庭のほかは性格が変わってしまったようですが、「寺島邸」のほうは近世の武家の空気を一家で代々守っていらっしゃるのですね。 おいしい海の幸、山の幸も賞味しました。 ありがとうございました。
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