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2022年8月25日木曜日

真夏の大雪山国立公園

8月も下旬。みなさま、いかがお過ごしでしょう。
ぼくは母の新盆の後は、北海道に飛び、札幌から道東へ。十勝平野の北、大雪山の南の秘湯めぐりと洒落込んだのですが、警報が出るほどの強雨で、通行止めにも遭遇しました。 でも翌日にはカァーっと晴れて、たっぷり紫外線を浴びるとか。相客もそれなりに居て、(みんなマスクをしていますが)パンデミックも終局に向かいつつある、という空気でした。

然別(しかりべつ)湖糠平(ぬかびら)湖といった名は初耳のような気がするけれど、帯広から糠平を経由して十勝三俣にいたる士幌線については、中学の人文地理で習ったな、とあやふやな記憶がよみがえり、糠平のひがし大雪自然館の脇からおりて廃線跡を歩き、左手の橋梁跡へ、右手の鉄道博物館まで行ってみました。

糠平川橋梁の下では前日の強雨のためものすごい濁流(↓)を間近にみて危険を感じ、鉄道博物館の士幌線関連の展示は、モータリゼイション≒高度成長期の前までの林業と鉄道を想わせ、そこはかとなく懐かしいものでした。

2020年1月26日日曜日

大相撲・取組編成の不始末


 大相撲は14日目を終えて、なんと幕尻(前頭17枚目)の徳勝龍が1敗で単独首位。千秋楽の貴景勝戦で万が一にも勝てばそのまま優勝、負けても正代が2敗のままなら優勝決定戦、正代が負けて3敗ならば、13勝2敗で徳勝龍の優勝となります。
 これをおもしろいと考えるか、取組編成会議の不始末と考えるか。あきらかに後者です。タカをくくっていたに違いないが、下位の取り組みばかりでまさかの連勝を続け、これは想定外と、ようやく12日目から豊山、正代と成績の良い実力者と当ててみたが、こと遅し。
 今日14日目に、徳勝龍は正代に勝ったけれど、この3日ほどの勝ち方はウンの御蔭といった様で、おもしろくない。たまにそういうことがあってもよいが、それで優勝してよいのか、という問題です。
 負けた正代のほうは、前頭4枚目という位置もあるので、高安栃ノ心豪栄道貴景勝といった元・現大関と当たり、また炎鵬北勝富士朝乃山松鳳山阿炎といった好調の力士と取り組んだうえでの成績(2敗)ですから、立派なものです。(徳勝龍は、こうした実力者とほとんど当たっていないのです! 11日目までは弱いのとばかり当たって勝ちを重ねていた。)
 いかに横綱、大関が不調の場所だからといって、幕尻の力士が強豪と当たることなく千秋楽にようやく大関と組んで、優勝が決まる、というのは、だれがみても取組編成会議の不見識、見通しが甘かったということでしょう。
 平幕力士が奮闘して幕内優勝することは嘆かわしくはない、慶賀すべきことでしょう。しかし、強い力士に連勝することなくマグレで優勝賜杯を抱く、というのは、なにより取組編成会議が恥ずべきことです。

2019年10月31日木曜日

首里城 炎上


今朝、寝ぼけ眼でスマホをみると首里城の炎上する写真。にわかに信じられず、TVをみましたが、法務大臣の交代だの、マラソン開催地の変更だの、ちょっと二次的なニュースが続きました。マスコミ側もにわかに対応できなかったのでしょうか。
今年2月に島内をめぐり、首里城については見学もしたし、外から美しい写真もいろいろと撮れて(戦中の陸軍の陣地跡もふくめて)、良い印象をもっていたものですから、本当ににわかに信じがたい惨事です。
  ↓
http://kondohistorian.blogspot.com/2019/02/blog-post_13.html

先のパリ・ノートルダム大聖堂の「再建」案についてと同じく、中世以後、いつの首里城を復元・再建するのかという問題も、歴史家たちが参加して真剣に議論してほしいと思います。日本列島の歴史の本質に触れる重要なモニュメントです。21世紀にのこすべき歴史遺産なのですから、防火・防災についてはもちろん。再建資金については、ノートルダムに負けないくらいの民間寄付を集めても良いのではないか。

2019年10月25日金曜日

ノートルダム大聖堂 と 時代


 10月19日(土)にはパリ・ノートルダム大聖堂の炎上 → 再建・修復をめぐってのシンポジウムが上智大学であり(司会・問題提起は坂野さん)、問題は単純ではないということが具体的に示されて有意義でした。http://suth.jp/event/20191019/ 「つくられた伝統」という観点からも。ただし、多くの報告者が建築の歴史を語るときに、フランス王国ないし共和国の枠組が自明のように前提されて、「美(うま)し国」のなかで歴史も文明も完結するかのごとく、縦の系譜がたどられて、ちょっと待ってくださいという気にもさせられました。
 その点で、最後の松嶌さんの報告は、ケルンやシュトラースブルク、さらにはコヴェントリにも議論を拡げていました。「ゴシック様式」の起源がイル=ド=フランスだったらしいというのはいいとして、建築様式をはじめとする技能は(そもそも中世には薄弱な)国境を越えて遍歴する職人集団によって伝えられたし、そうでなくともアイデアやノウハウは真似られ、流行し、継承され、いずれ改変される。近現代においても技術やアートは、たやすくネーションや国境を越えて伝播しますよね。
 また都市史の観点からも考えさせられる指摘があり、大聖堂とその周囲の街並みとの交わりについて、中島さんの図版に、18世紀前半までパリ・ノートルダム大聖堂のすぐ近くまで町家が建て込んでいたことが示されました。その後のクリアランスはパリやフランス諸都市に限らず、およそ啓蒙ヨーロッパに共通の改良(improvement)運動として展開するのが、おもしろい。イギリスでは18世紀が(道路や広場の)改良委員会の時代です。ロンドンの聖ポール大聖堂も、ケインブリッジのキングズ学寮チャペルも、周囲に(今あるような)公共空間ができるのは18世紀です。有名どころとしては、キャンタベリの大聖堂が「街並み改良」としては立ち遅れて、その結果、今日にいたっても建て込んで、ちょっと離れた位置から大聖堂全体の美しい写真を撮ることができませんね。観光絵ハガキでは、したがって、航空写真を使うのがふつうです!
 18世紀が啓蒙だけでなく、新古典主義とバロック・ロココ、あるいは加藤さんの論じられた「良き趣味」の拡がりという点からも、画期なのだ;ドイツでコゼレクたちの論じてきた Sattelzeit がここにも認められる、と思いました。このシンポジウムでは、ヴィクトル・ユゴーやル=デュクの中世趣味的な「修復」の観点を強調することによって、19世紀の中世=ロマン主義の時代性、それに先行した the age of enlightenment の普遍性みたいなことが浮き彫りにされたのかもしれません。

 音楽演奏では、ブリュッヘンたちの Orchestra of the eighteenth century,
専従指揮者のいない Orchestra of the age of enlightenment,
そして J E ガードナ(Gardiner)の Orchestre révolutionnaire et romantique
が競合し共存した時代をへて、今はまたすこし変貌しているかに見えますが。

2019年2月13日水曜日

琉球王国

 じつは4日間、沖縄に行き、明代の琉球王国から以降の交易ハブ、1609年の薩摩侵攻、1879年、明治政府による琉球処分、「国民統合」、そして沖縄戦、戦後国際政治に翻弄されたあげくの佐藤内閣による「本土復帰」という名の再沖縄処分、といった歴史に圧倒されて、まだ余韻にひたっています。きれいな首里城の夜景も撮りました。

 沖縄は2度目です。1度目は沖縄戦と戦後政治といったことしか考えていなかった。今回は中世末からとくに近世の「礫岩のような政体」のありかたに心揺さぶられました。 琉球の中でも、グスク[城]のあいだの覇権争いのようなことも伺われて興味深かったです。写真は、もっとも保存状態のよい(つまり戦災の少なかった)中城[ナカグスク]の城址。
 年来の友人夫妻が33年の在琉を経て、イギリスに帰国するから最後にというので、呼ばれて行ったのですが、彼らの案内による historic places 巡り、そして、英語の琉球史研究文献がどんどん出ているのが印象的でした。
 ペリーが1853年6月6日に宮廷で dinner speech をしたこと、その前にすでにフランスの宣教師、イギリスの宣教師が来ていたことを記念する碑も見ました。
アジア太平洋戦争は愚劣な戦争で、しかも終わり方は最悪でしたが、平和祈念公園の海を望み、敵・味方(沖縄んちゅ、大和んちゅ)・朝鮮・台湾籍の人々の墓(記銘碑)が一緒に一面に広がっているのは、ほんの少し慰めになります。