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2021年2月11日木曜日

長老支配  gerontocracy!

東大駒場に入学して、おもしろいと思った授業がいくつもあったうち、京極純一先生の「政治学」はまた特段でした。定員700か800くらいの大教室で、最前列の2・3列は席取りが激しく、真ん中あたりでも、早めに行かないと席がなくなる。立ち見の学生もいるし、後方には双眼鏡をもって板書を写すヤツさえいる、といった授業。法学部進学者には必修だったからだけでなく、とにかく面白かったのです。
 「ふかいことをおもしろく、
  おもしろいことをまじめに、
  まじめなことをゆかいに」
井上ひさしより前から、こういう講義を心がけておられたのか。

あの三木清か藤田嗣治みたいな眼鏡をかけて、老先生のような雰囲気だったけれど - 1924年生まれということは、まだあのころ御年42歳だったのか!-、「わたしは保守主義だ」とのたまいながら、飄々と政治現象を分析なさる。のちに『日本の政治』(東京大学出版会)になる前の原型だったのかもしれません。

その京極先生の講義で、大学1年になったばかりのぼくは、Gerontocracy と板書された英語をみて、知らないだけでなく、意味を想像することさえできない英単語がある、という衝撃を受けたのでした!

Geronto- とは老人、年寄りという意味。-cracy とは権力、支配をいう(ギリシア語から来ている)。政界の長老の意向で国政がうごくとか、会社でも先代の社長が方針を決める場合がそうですね。「伝統主義」と同じことになる場合もあるが、なにより年季の入った者がそれゆえに力をもって、他の人は異論を言えない場合が、この老人支配です。年齢自体より、年季ゆえの権力関係‥‥。 とかいった説明を受けて、もぅ忘れられない。講義の上手な方でした。

今回のオリパラ組織委・森喜郎会長の「不注意」放言と、それを厳しく批判できない自民党。なにより「なにがいけないんだ」と言い出しそうな二階幹事長。これこそ gerontocracy の見本です。
十代で男女共学を経験していない世代は、じつはぼくの母親たちも含めて男尊女卑だった/あるいはそうした価値観に順応しないと生き苦しかった。森、二階ばかりでなく、彼らに直言できない橋本聖子オリパラ担当大臣も、自由に発言できないなら、降板する好機ではないかな。
現在のオリンピックの理念は、美しいナニカではなく、IOCバッハ会長の姿勢に現れているように、あくまで国際スポーツ興行の金もうけ主義だと思います。だからこそ、協賛企業の意向(スポンサーから降りるかどうか)を気かけているわけ。ここはガラパゴス・差別文化をニヤニヤと/苦笑いでやり過ごすのでなく、好機ととらえて、スッキリしましょう。

じつは靖国合祀問題も同じですね。

2020年8月2日日曜日

さみだれを集めて‥‥


先週のことですが、NHKニュースで河川工学の先生が
さみだれを集めて早し 最上川
と朗じて、このさみだれとは梅雨の長雨のことで、流域が広く、盆地と狭い急流のくりかえす最上川は増水して怖いくらいの勢いで流れているんですね‥‥と解説しているのを聞いて、忘れていた高校の古文の教材を想い出しました。

さみだれを集めて早し 最上川 (芭蕉、c.1689年)
さみだれや 大河を前に家二軒 (蕪村、c.1744年)

 明治になってこの二句を比べ論じた正岡子規の説のとおり、芭蕉の句には動と静のバランスを描いて落ち着いた絵が見える。しかし、蕪村の句は、増水した大河に飲み込まれそうな陋屋2軒に注目したことによって、危機的な迫力が生じる。蕪村に分がある、というのでした。
 しかしですよ、子規先生! 
第1に、そもそも蕪村は尊敬する芭蕉の歩いた道を数十年後にたどり歩き、芭蕉の句を想いながら自分の句を詠んだわけで、後から来た者としての優位性があって当然です。ないなら、凡庸ということ。
第2に、句人・詩人なら、完成した句だけでなく、
さみだれを集めて涼し 最上川
とするかどうか迷い再考した芭蕉の、そのプロセスにこそ興味関心をひかれるでしょう。蕪村はそうしたことも反芻しながらおくの細道を再訪し、自らを教育し直したわけです。
 さらに言えば、第3に正岡子規(1867-1902)もまた近代日本の文芸のありかを求めて先人芭蕉、蕪村、明治のマスコミ、漱石との交遊、‥‥を通じて自らの行く道を探し求めていたのでしょう。そのなかでの蕪村の再発見だとすると、高校古文での模範解答は、論じる主体なしの芭蕉・蕪村比較論にとどまって、高校生にとっては「はぁそうですか」程度の、リアリティに乏しいものでした。教える教員の力量ももろに出ちゃったかな。

 たとえれば、ハイドンの交響曲とベートーヴェンの交響曲を比べて、ベートーヴェンのほうがダイナミックに古典派を完成しているだけでなく、ロマン派の宇宙をすでに築きはじめていると言うのは、客観的かもしれないが、おこがましい。ハイドンが楽員たちと愉快に試みつつ完成した形式を踏襲しながら、前衛音楽家として実験を重ねるベートーヴェン。啓蒙の時代を完成したハイドンにたいして敬意は失うことなく、しかし十分な自負心をもって新しい時代を切り開いてゆく。(John Eliot Gardiner なら)révolutionnaire et romantique ですね。

 両者を論評しつつ自らの道を追求したシューマン(1810-56)が、上の子規にあたるのかな。優劣を評定するだけの進化論や、それぞれにそれぞれの価値を認めるといった相対主義ではつまらない。自らの営為と関係してはじめて比較研究(先行研究)は意味をもつ、と言いたい。

2019年10月8日火曜日

編集力の問題


 10月7日、『日経』文化欄にて、「誤記や捏造、揺らぐ出版」と題する、久しぶりに郷原記者の署名記事を読みました。
・池内紀『ヒトラーの時代』(中公新書、2019)
についてあまりに誤記、間違いが多い、という指摘に、研究者・小野寺さんのコメントが引用されています。じつは、こちらはそう珍しくない、多作な執筆者になくはない話かな、と思わせます。池内さんの翻訳文について、二昔ほど前にも話題になったことがありました。ゆったり温泉につかって書いているような随筆文なんでしょう。脇から舛添要一のコメントも加わったりして、やや混乱していますが、問題はやはり編集力ということではないでしょうか。

・深井智朗『ヴァイマールの聖なる政治的精神』(岩波書店、2012)
こちらはずっと深刻で、表向きは学術的な、学問を否定する作品でした。捏造、盗用、デッチ上げ。すでに本人は東洋英和女学院を懲戒解雇され、岩波書店も公に謝罪してこの本を回収しています。

 郷原記者は、こうしたことが続く原因を、現今の出版社の点数主義と、編集者の(忙しすぎるゆえの)手抜きとしています。そのとおりですが、もう一つ、編集者の水準の低下、「ゆとり世代」の基礎学力不足も深刻なのではないでしょうか。専門書ならばレフェリー制度、というのが一つの解決策ですね。

・かくいうぼくも、じつは剽窃まがい(無断の借用)の被害者です。加害者は多作で名の通った大学教授(and 創業100年をこえた出版社の担当編集者)で、もしや教授殿から、本文はできたから、「地図等はテキトーにやっといて」と任されたのでしょうか。若い編集者が、それこそテキトーに手にした、近藤和彦編『イギリス史研究入門』(山川出版社、2010)p.394 の地図を無断で拝借したのでした(対照してみると、ぼくが選択した地名だけでなく、文字の配置・傾斜も、イタリックもすべて一致。海の波線は異なります!)。完璧なコピー&ペイストです。参考文献表のある本でしたが、近藤の名も『イギリス史研究入門』という表記も、巻頭から巻末まで、どこにも見当たりませんでした。
 その著者先生の人柄は前から存じていましたので、ご本人と交渉してもノレンに腕押し(!)でしょうから、出版社の編集部に釈明を求めました。
 直ちに、担当編集者とその上司から平身低頭の対応がありました。担当編集者(20代?)のセリフによると「地図なんてどれも同じ」、コピーライトがあるなんて知らなかったというのです。この老舗出版社の名声を揺るがすような発言でした。
 おそらく事態をはじめて認識した上司が奮闘したに違いありません。次の第2刷から(微妙にニュアンスをつけて)「近藤和彦著『イギリス史10講』による」という1行が地図の下に加わりました。執筆者ご本人はというと、ある時、ある所で遭遇したら、‥‥頭を下げずに「お騒がせしました」とのご挨拶でした!

2019年7月17日水曜日

折原先生とヴェーバー


レイシストではないかと抗議する記者に向かって、例のトランプ大統領が "Silence!" と繰りかえす場面がNHKテレビでも放映されました。
"Shut up!" ほど下品ではない(!)とはいえ、公人が公共の場で使う言葉ではありません。せいぜい "Please be quiet." かあるいは "No. I'm not following you./I don't agree with you." までが許容範囲かな。

ぼくがしばらく沈黙していたのは、トランプに威嚇されたからではなく、この数週間、公私のさまざまなことが続いて、その対応に追われていただけのことです。

さて、13日(土)には東洋大学にて折原先生を囲む会合があり、三部編成でたっぷり4時間話し合い、その後も懇親会が続きましたが、半ば同窓会に近い感じもありました。残念ながらもうこの世にいない人も。
なお、出席者・発言者の年次というか世代の違いが第一部と第二部という形で顕在化するような気配がちょっとみえたので、第三部のおわりに挙手して、次のようなことを言おうとしました(即興でうまく言えなかったので、ここで補います)。

折原先生はヴェーバー『宗教社会学論集』第I巻(1920)の序言、最初の段落、とりわけその
der Sohn der modernen europäischen Kulturwelt
という表現の意味について、1968-9年以後でなく以前から慎重に解読してくださっていました。ぼくの仮訳ですと、
「近代ヨーロッパの文化世界の子が、普遍史[世界史]的な諸問題をあつかうにあたって、次のように問いかけるのは不可避にしてまた正当であろう:すなわち、いかなる事情の連鎖によってまさしく西洋という地において、ここにおいてのみ - 少なくともわたしたちがそう表象したがるように wie wenigstens wir uns gern vorstellen - 普遍的な意味と有効性をもつ方向に発展する文化現象が出現することになったのか、という問いかけである。」GAzRS, I, S.1.

1段落1センテンス、息の長い緊密なヴェーバーの文体です。これはときにヴェーバーによる近代ヨーロッパ、その普遍性の全面的な正当視、むしろその信仰告白と受けとめられることもありました。しかし、
「近代ヨーロッパの文化世界の子(der Sohn)」というからには、父と息子の単純でない関係(継承・反抗・独立)が暗示されています(ここまでは13日第二部の三苫さんも指摘)。さらに「少なくともわたしたちがそう表象したがるように」といった挿入句には、はるかに自己意識的なニュアンスに富む比較文明史的なマニフェストが込められている、と読みとれます。第一次世界大戦が終わり、(インフルエンザで急死する前の)56歳、脂の乗りきった著者が大冊論集3巻本の劈頭にかかげる序言の、最初の段落です。
この挿入句は、ヴェーバーが近代ヨーロッパ文化世界の普遍性を自明の前提とはしていないばかりか、その(中近世からの)歴史的形成をみようとしている証、と理解することができるのではないか。ヴェーバーをみる際にも、折原先生をみる際にも、第一部と第二部に通じる、連続性にこそ注目したい、と考えて、発言しました。
(早くは『岩波講座 世界歴史』第16巻(1999)の「近世ヨーロッパ」pp.3-4 でわずかながら論じました。)

会合を準備してくださったみなさんにお礼を込めて。

2019年5月16日木曜日

近代社会史研究会(1985-2018)

 ミネルヴァ書房より『越境する歴史家たちへ:近代社会史研究会(1985-2018)からのオマージュ』到着。谷川稔・川島昭夫・南直人・金澤周作の四方による編著ですが、「近社研」という京都の集いの生誕から消滅まで、[序章]谷川稔の語り、[第一部]何十人もの関係者の語り、[第二部]記録篇、という3つのレヴェルを異にした証言が編まれて、独特の世界=小宇宙が再表象されています。
 ぼく自身も書いていて「1986~98年の近社研」との個人的かかわりをしたためていますが(pp.172-175)、別に何人かの方々の証言のなかで一寸言及されていたり、また(川北・谷川論争の翌月なのに、何もなかったかのごとき)ぼく自身の「報告要旨:民衆文化とヘゲモニー」(pp.330-331)が採録されていたり、‥‥そうだったなぁ、という感懐をもよおす出版です。
 近社研の運営にはいっさいかかわることなく、ゲスト・一出席者としてのみ関係したわたくしめなので、漏れ聞いていた諸々と、今回の編集出版のご苦労には頭が下がります。
 歴史学方法論ということでは、記憶と記録の交錯、ひとの記憶や記録と出会い、それが繰りかえされることによる「上書き」、そして「フェイク・ヒストリー」の可能性にまで谷川さんの「あとがき」は言及しています。金澤「あとがき」では「史料編纂‥‥、非常に貴重な体験」と表現されています。たとえば1987年初夏に名古屋で、福井憲彦さんの『新しい歴史学とは何か』の書評会をやって、若原憲和さんとヤリトリがあった事実などは、ぼくは完全に忘れていました!
 この出版の企画を最初に聞いて執筆を依頼されたときには、「いまさら」という気もないではなかったのですが、一書として公刊されてみると、やはり出てよかった、と思います。谷川稔という人、そして色々あっても彼を盛り立ててきた良き友人たちのこと(そして、そうした時代)を理解するよすがにもなります。関係者の皆さん、ありがとう!

2019年1月4日金曜日

亥年のご挨拶

 新しい年をいかがお迎えでしょうか。
 亥年、年男です。昨年に大学勤めをおえて、年金生活者となりました。時間はたっぷりあるかと思いきや、あれこれと心が動かされ、考えていたよりずっと落ち着かない毎日です。「感極まる」ということが増えました。

 小冊『近世ヨーロッパ』を仕上げたうえで、年末には都市史学会で北九州・小倉に参りました。駅前から商店街、紫川、城の周り、松本清張記念館、そして西日本工業大学と連結した「リバーウォーク」という複合施設あたりしか歩いていませんが、それにしても活気があります。市内にたつ鴎外碑や、記念館の清張旧居などを見ながら、この二人、全然異質な才人だが、多作だという点では共通する、その生を想い、自らの微力を恥じました。

 また年の瀬にかけて「東大闘争50年」をうたう出版が続きました。ぼくが手にしてこの半年間に読んだ新刊書は、
小杉亮子『東大闘争の語り 社会運動の予示と戦略(新曜社、2018)
和田英二『東大闘争 50年目のメモランダム(ウェイツ、2018)
折原浩『東大闘争総括 戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』(未来社、2018)
ですが、既刊の
山本義隆『私の1960年代』(金曜日、2015)
渡辺眸『東大全共闘 1968-1969』(新潮社、2007 → 角川ソフィア文庫、2018)
も含めて、歴史と語りに想いを致しています。
 折原さんの『東大闘争総括』p.155 で、ぼくは大庭、舩橋、八木、八林といった人たち(50音順。当時、4年、3年、2年でした)とともに「実存主義社会派 ・・・ 勉強家にして論客」として名が挙がっています。フルネームは5名だけですが、じつはあと何名もいました。関連して所感を『みすず』1-2月号にちょっと書きました。なお渡辺眸さんの写真集については、和田に指摘されるまで気付かなかったけれど、カメラマンが近接して撮影した場面も想い出しました。

 68年は世界的な現象だったというので、イタリアの逸品ワインCinquanta(五十年)をいただきました。そこにイタリア語と併記されている英語の説明には
May . . . celebrate their hope, their bravery, their intelligence.
とあります。ただし、この their とはワインを作った人々のことのようです。
 希望、勇気、知性。あらまほしきことなり、ですね。

2015年12月29日火曜日

村上春樹の旋回!?

 遡って、20日(日)午後には東京ステーションホテルで4時間ほどの密度ある会議をもち、編著『礫岩のようなヨーロッパ』の出版の具体的な見通しをえました。
 気持が高揚し、そのまま帰宅する気になれず、夕刻、OAZO の丸善に入ったら、1階で唯一赤い表紙の岩波新書、『村上春樹はむずかしい』が目に飛びこんできました。著者は加藤典洋、ぼくの同期で仏文でした。どんなことを書いているんだと立ち読みを始めて、止まらなくなった。結局、二息ついてから、別の1冊とともに計2冊をもってレジの列に並ぶことになりました。

 村上春樹は、近代日本の、そして今日のアジアのインテリ、物書きから低く評価されている。芥川賞もとっていない。しかし、現代の日本および海外の若者、大衆的な読者、そして編集者や中文の藤井先生にアピールする何かを表現してきました。その理由は?
 村上春樹は明快に、近代日本のインテリの宿痾のような「否定性」(68年にぼくたちは「否定的直観」と呼んでいた)のダイナモを motivation とすることなく、肯定的なことを肯定する作品を自分のペースで生産し続けている(「気分が良くてなにが悪い」)。芥川賞の選考委員はこの「否定性のなさ」を「浅い」とか「空気さなぎ」とか片づけてきました。なにを隠そう、インテリの一人であるぼくも、遠い距離を感じてきました。
 だが、第1の事実として、村上春樹は(ぼくの2歳下で)1968年に早稲田の文学部に入学して、74年に卒業する。ヴェトナム戦争期に重なります。その間の早稲田の文学部がどういった所だったか、『村上春樹はむずかしい』p.65 には端的に「内ゲバによる死者数の推移」が挙がっています。ぼくも歴史として、記憶として』(御茶の水書房)p.182に書き付けたような経験を、村上はもっと生々しく、繰りかえし見聞きしていたようです。
  I keep straining my ears to hear a sound.
  Maybe someone is digging underground;
  or have they given up and all gone home to bed,
  thinking those who once existed must be dead? (pp.70-71、句読点を補充)
 そして第2に、父親の中国経験。
「暴力と死とセックス‥‥を避けてでなく、その内側に入り‥‥反戦と非戦の意志へと抜け出ていくことができるか。‥‥私たち日本人の戦後の冥界くぐり」として村上文学を最大限に称揚したのが、加藤の本書と言えるようです。一種の「ラブレター」とでも言えそう。

 これではなんだか、団塊の世代の村上文学を団塊の世代の評論家=加藤が論評したものを、団塊の世代の読者=近藤がどう読みとったか、といった具合ですが、しかし、じつは団塊の世代といっても、1968年に大学3・4年だった(本郷にいた)者と、1・2年だった者とではかなり経験の受けとめ方が違うのではないか、と思ってきました。大学にいなかった人なら、なおさらに違うでしょう。
 その点で、ぼくは村上春樹と彼の周囲の人たちの世界を垣間見て知っているし、彼と似た空気を呼吸したことはあります。しかし、70年代に異なる思考回路を選択し、以後、別の小宇宙で生活してきました。そうした村上がいま、「歴史に行くしかないんじゃないか」と言明し、「近代日本批判の従来型の否定性を‥‥脱構築しながら、なおかつ別種の新しい否定性を作り上げること、コミットすること」(加藤、pp.131,139)に力点を置いているのだとしたら、これはすごい事態の展開/転回なのかもしれない。
 村上の言では、こうなります。「‥‥井戸を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだ‥‥。」(p.140から重引)