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2022年7月1日金曜日

梅雨明けの日射し

 いつのまにか夏至を過ぎたと思う間もなく、6月というのに関東は早々と梅雨明け。しかも今日からは7月! 今年は季節の移ろいが速い。
 このところ連日最高は35℃前後で、昼間に散歩に出かけるのは勇気を要します。
 この日当たりの良い通りで、左手の緑と花はとても爽やかで良いのですが、それを愛でる余裕はなく、みなさん右手の欅の並木がつくる日陰を選んで歩いています。

2022年6月5日日曜日

カワセミ

毎日、近隣を散歩しますが、すでに5月は終わり、バードウォッチングがてら立ち寄っていたスポットからカワセミの子鳥4羽が巣立ってしまいました。
池の水面の何10cmか上に伸びている枯れ枝に3羽がとまっています。もう1羽は左手の茂みのなかです。
5月の後半にはこんな具合に立派なカメラを構えた人たち(ほとんど定年退職世代!)で朝も夕も一杯、ぼくのようにスマホで撮影する者は、なんだか肩身の狭い思いをしたもんです。連日人が寄せてきた池のわきも、今はたいへん静かになりました。

2021年6月11日金曜日

集団接種に参りました

暑い6月の金曜午後でしたが、江東区の公共施設でのワクチン集団接種に行って参りました。

5月17日から予約期間が始まり、区の通知で「ワクチンの安定的な供給が見込まれたことから」65歳以上の集団接種は「最大予約可能人数46,400人分」と明記されていたので、慌てることなく5月18日にPCに向かい、拍子抜けするくらい簡単に予約できました。ただちに自動的に確認メールも来たので、実際の接種まで3週間あまり待ちましたが、安心していました。前日にはリマインド・メールも到来。
これに続き区内医療機関での「個別接種」が始まり、さらにマスコミは政府の大規模接種センター(大手町・自衛隊)による接種を大きく報じました。選択肢が増えたこと自体はよいことですが、これで「浮気して」or「浮き足だって」大規模センターに押しかけ、地域自治体の接種予約をネグレクトする人々の気が知れないと思っています。最近の報道だと、その大規模接種センターがガラガラだというのも問題ですね。早く65歳未満にも接種対象を広げるべきです。

江東区は広いので、集団接種会場は区のスポーツセンター6カ所。接種時間は予約の段階で15分ごとに別けられていますが、到着した人は検温のあと全員屋内の待機室に案内されて、予約時刻が1時間以内の人から奥のホール(アリーナ)へ。老人たちは1時間以上前からやってきたりするので、そのための待機室だったわけです。
ざっと見たところ(撮影は禁止でした!)広いホールでは、15分枠ごとに15人が座って(1人1分という計算)順を待つように椅子が整然とならび、4列×15=60席ではなく、余裕をみて6列用意されていました。うち2列は全空席として、次に受付する該当列とそうでない列とを視覚的にはっきり区別しつつ、同時に席のアルコール消毒や忘れ物確認などをゆっくり施すという方針のようです。
会場には「事務」「責任者」「看護師」といったゼッケンをつけた係員がたくさん。
 (郵送された)「接種券」「予診票
  そして本人確認書類
の計3点の必須アイテムを携行しているかどうかは、最初の入館時から、くりかえし再確認されました。実際は順に
受付」(であらためて本人確認と予診票記載の遺漏がないかどうか形式的に確認)
→ 「予診」(予診票をみながら医師が問診) *
→ 「接種」(別の医師と言葉を交わしつつ) *
→ 接種後の経過観察(15分~30分)
→ 「最終受付」(体調確認と接種券の済証へのシール貼りなど)
と進みました。(2回目の接種予約は1回目に済ませています。)
【* この2つのプロセスのみ個室的に囲ったブースで、他はオープンな空間でした。】

ここまでの人のフローをいかに確実に間違いなく実現するか。これが枢要で、要するに Operations Research (大学一年・林周二先生の授業でやりました)をきちんと具体的に・集団的にやっているかどうかで運用は決まり、ときに報道されているような事故・混乱は防げるはずですね。
なお大学や事業所で集団接種をするというのは、たいへん良いことだと思います。社会的免疫状態(collective immunity)という観点から考えると、なによりも公共的な業務に従事している人、活動的に飛び回っている人からドンドン接種していただくべきでしょう。横並びの順番、平等主義がじつはあまり合理的でない無責任主義だったかもしれない、と再考しておく必要があります。

2021年6月3日木曜日

散歩の風景

健康管理の第一歩は散歩(a walk)ということで、近隣のあらゆる方角へ歩いています。湾岸のタワマン群を見上げたり
→ https://kondohistorian.blogspot.com/2020/08/blog-post_31.html
また伊能忠敬(彼もまた18世紀人!)の「始めの一歩」像を拝んだりもします。

こういった水鳥の姿になごむことも。(写真の右寄りに)異種の2羽があまりヒトを気にせず休息しているのか、餌を狙っているのか。鳥の動きがあまりないので、最初は姿を見つけて喜んでいた大人も子どもも、やがて飽きて次のなにかのために歩き出す、というのも可笑しい。

2021年3月31日水曜日

はないかだ

 今春は花も若葉も早く、すでにソメイヨシノの盛りは過ぎました。
 この間ゆったりと花見をする心境ではなく、ようやく今日お昼に行ってみた大横川では、花筏(はないかだ)状態でした。

2021年3月20日土曜日

大横川の春

 すでに、ご無沙汰一ヶ月以上になりますか。
 パンデミックも日本政治も、世界政治も、気の滅入る現状。それに花粉症が加わって、じつに憂鬱。‥‥とはいえ、なにもせず内向しているわけではなく、いくつかの有意義な仕事を続けてはいます。これについては、もうすこし具体化してからお伝えします。

 今日は桜の開花宣言はあっても、まだまだ

  楽しさも中くらいなり 大横川の春

ということで、川面の光景をご覧に入れます(最寄り駅は門前仲町です)。

2021年2月2日火曜日

きさらぎの小春日和

「如月小春」という知的できれいな演劇人がいました。書評でも活躍していた。惜しくも20年前に立教大学の教室で、くも膜下出血のため亡くなりました。

今日はその名を想い起こすほど穏やかな日。運河の鵜3羽と鴎2羽が(争うことなく)日なたで昼休み中です。

2021年1月3日日曜日

謹 賀 新 年

   新年をいかがお迎えでしょうか。

 1年前には想像もしなかった変事つづきの旧年でしたね。アタフタと対応しているうちに時は経過し、季節は移ろい、いつの間にかお正月。(雪国と違って)関東平野は寒いけれど無風の快晴がつづきます。パンデミックは収まらないどころか、ますます猛威をふるっています。この1年間の行動は自宅から約30kmくらいの範囲内にとどまり、飛行機を利用しての旅行など遠い昔のことのようです。

 そうした中でもITのおかげで遠隔の知友の顔を拝みながら対話したり、会合に参加したりできるのは、小さな幸せです。授業も学会もかえって便利になったかなという印象もありますが、しかし失われたものも少なくない。無駄なソシアビリテやちょっとした所作も大事だったんですね。

 そうしたグローバルな非日常のなかでも、古今の書物を読み、書きながら考え、ときには分かった!という気持になれるのは、職業の恵みでしょうか。幸運な人生なのかもしれません!

 加齢とともに、時折の知友のやさしさがいとおしく、身にしみますし、家族の生活と健康に思いをめぐらし、‥‥毎日散歩しています。この写真の横綱力士碑の左手にたつ横書の碑には「安政四年正月」とあります。

 みなさまも どうぞご健勝に!

 2021年正月     近藤 和彦

2018年3月26日月曜日

満開の夜桜

あっという間にソメイヨシノも満開ですね。
千鳥ヶ淵とか大横川といった名所もありますが、ごく近所でもライトアップすると、こんなに、きれい。上に小さく見えるのは半ばの月です。

2016年10月18日火曜日

「豊洲問題」


今マスコミと小池知事が、あげて土壌、地下水、空気を問題にしています。でも、ここで問題にしたいのは市場建設の是非よりも「豊洲」という地名そのものです。
あなたは江東区豊洲に来たことがありますか? 一度も歩いたことのない人には想像もできないくらい広い地域です。1988年から隣接する越中島の住民として、よく知っていました。夜中に遠く、ドックの船舶の汽笛が聞こえたものです。
http://www.toyosu.org/  豊洲2・3丁目まちづくり協議会
豊洲1丁目~5丁目」は一つの島をなし、戦間期からおおむね石川島播磨工業の造船・メインテナンスの大工場と関連の中小企業、そして住宅、飲食店が拡がっていました。国鉄の貨物線も走っていました。いま地図で計ってみると、全部で約1400m×800mの広さ。石川島播磨工業は1980年代に、まず創業の地・中央区佃から撤退し、そこは今、超高層住宅が林立しています。やがてさらに江東区豊洲2・3丁目の主工場敷地も再開発することが決まり、最初の超高層・NTTデータの豊洲センタービルが竣工したのは1992年でした。そして IHI と改名した本社ビル(豊洲3丁目)、芝浦工業大学、いくつものタワーマンション、商業施設、オフィス、「アーバンドックららぽーと」(豊洲2丁目)が開業したのが、2006年。湾岸を代表する、職住近接の街として楽しい空間ができました。子どもをもつ親(と祖父母)にとってキッザリアは一度は行くメッカでしょう。

これとは水路をはさんで、直角に接する「豊洲6丁目」というこれまた広大な、約1800m×600mほどの埋め立て地があって、東京ガスおよび東京電力の工場が占めていました。ほとんど住宅はなかったみたい。やがて、こちらの用地が収用され、それぞれガステナーニおよびTEPCOのミュージアム施設以外は空き地がひろがり、そこに「ゆりかもめ」が走り、湾岸の高速道路へのアプローチ公道が何本か伸びる、付随して流通業の大配送センターが建つ、という状態が長く続いていました。ここに新市場が移転・建設されることになったのです。http://www.tokyogas-toyosu.co.jp/project/toyosu22/  とよす22

繰りかえしになりますが、「豊洲1丁目~5丁目」と「豊洲6丁目」とは別で、(2丁目・5丁目の境にある)「ゆりかもめ」豊洲駅から二つ目の駅が「新市場前」です。「豊洲1丁目~5丁目」の住民・勤め人は、ジョギングか犬の散歩でもなければ、行ったことはないんじゃないでしょうか。おなじ豊洲という地番で一緒くたにするのは、迷惑な話で、たとえれば築地全部(1200m×800m)を銀座9丁目と呼んで、銀座(約1100m×700m)と築地を区別することなく一緒にするのより、もっと乱暴な企てです。

2012年8月16日木曜日

連合渡御


このところ多忙ということもありますが、なぜかこのblogger が写真投稿を受け付けなくなって、困った、というより気をそがれて、書きこみが減りました。

前回8月11日は深川・富岡八幡の例大祭(3年に一度)について言及しました。
11日に日本一の鳳凰神輿が深川から日本橋、お台場までプロセッションで巡回。
12日は55の町内の神輿が連合渡御、という大イヴェントです。
なんと今年は初めて天皇皇后両陛下が八幡宮に行幸される、とは聞かされていなかったので、妻だけが「美智子さんに会ってきた」などと自慢しています。

ぼくはそこから数百メートル離れた路上で、このような写真を撮っていました。
なにしろ各町内の神輿の列は前後にパフォーマンスの男女を控えていますから、かりに各100メートルとすると、100×55=5500m、すなわち5.5キロの長さになります。これが左右計7車線の永代通りを埋めて、はるか見渡すかぎり続くのだから、すごい迫力。

遠くに白い水煙が上がっていますが、これは神輿をかつぐ人びとのための水掛け所。近くで見ると、こんな迫力です。

2012年8月11日土曜日

富岡八幡の例大祭


http://www.tomiokahachimangu.or.jp/reisai/h24/html/reisai.html
関連して渡御経路・時刻などの一覧ページもあります。↑

11日(土)は日本一の神輿=鳳車渡御。午前には富岡からなんとお台場まで行って帰ってきて、午後には深川一帯と清洲橋・永代橋方面への渡御。朝は8:00出発、車列からなる神社のプロセッション。
3年に一遍だし、夏に居ないことも少なくなかったから、ケヤキ並木の越中島通りを直進とは、これまで知らなんだ‥‥

12日(日)は55の町内の神輿の連合渡御。朝は7:30出発。

 こちらこそ町人のパフォーマンス文化。よい写真もあります。
http://kondohistorian.blogspot.jp/2012/08/blog-post_16.html 【写真登載トラブルが解決しました!】
 これに朝イチから付き合ったのは、なんと Contini さん、亀長さんとご一緒した10年前(2002)のたった一回切りでした。ちょうど一昔前。

2011年4月10日日曜日

年年歳歳 花相似


  年年歳歳 花相似 
  歳歳年年 人不同 
という対句が、今年ほど染みいる春はないかもしれない。

 洛陽の城東、大横川につらなる桜並木は例年どおり、この日曜に静かに満開を迎えました。けれども、恒例となっていた石島橋における門前仲町商店街と東京海洋大による露店と甘酒、そして大道芸のもてなしは、なし。
 花は相似て美しいがゆえに、人間すなわち社会の転変がきわだって認識される。

 3.11は、10年前の9.11よりも、文明にとってはるかに大きい衝撃となるのではないか。「敵」を作りだして攻撃することによってごまかしたり、やりすごしたりはできません。国家か無国家か、という問題の立て方もまちがっているのではないでしょうか。

2010年4月10日土曜日

花と散る



「年年歳歳花相似
 歳歳年年人不同
 ‥‥(この後を忘れちゃいけない)‥‥
 まさに憐れむべし半死の白頭翁」

また同時に想起するのは、
「願はくは花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」

古典は、説明なしで、人の心を動かします。

わが叔父(父の弟)は、シベリア抑留のあと、帰国して
松山で彼を迎えた親類全員でとった記念写真があります(ぼくはまだ赤子でした)。
勤勉に働き、老いてもなお美しい妻と二人の子を残して、この6日に亡くなりました。
享年86歳。