2011年4月12日火曜日

次高さんのこと

 あの佐藤次高さんが亡くなるとは、にわかに信じられない事実です。一晩あけると、いろいろな場面が想い出されます。
 ぼくが東大文学部に赴任した1988年には「助教授の会」というのがあって、佐藤次高、樺山紘一、青柳正規、藤本強といった大物たちがまだ助教授で、若々しくのさばっておられた。この方たちは教授になってからも、しばらくは「助教授の会」を牛耳っておられた。正確に言うと、彼らが「助教授の会」のメンバーでなくなると、この会そのものが無くなったのです。大学院重点化とともに多くのことが転変しました。

 佐藤という名は東大に多いので、「次高さん」と呼ばれていました。その次高さんには、大学の外でも、『現代の世界史』いらい高校教科書や各種の委員会で親しくお付き合いいただきました。右にしめす(著作権の関係でごく一部しかご覧にいれませんが)文章は、山川出版社の世界史教科書の販促パンフレットで、表紙の次、最初(p.2)に佐藤さん、その次(p.3)にぼくという担当でしたためたものです。ぼくは世界史教科書とか教育といったことを書きましたが、佐藤さんの場合は、むしろ日本におけるイスラーム研究の主導者のお一人としての自覚が正面に出た文章となっています。
 そうした編集委員会では、1991年、ぼくが『思想』にしたためた「世界史の教科書を書く」という短文について、「悲鳴をあげるより前に[本文の]原稿を‥‥」と戒められたり、ごく最近でも、ぼくが教科書の新稿で〈‥‥だった。〉〈‥‥だが、〉という文体で書いている数カ所をみて「やはりこれは教科書ですから、〈‥‥であった。〉〈‥‥であるが、〉にしませんか」というようにやんわりと、しかし妥協の余地なく方針をお示しになったり。
 穏やかだが、しかし原則をまげない人;そして原稿は(冗談まじりの言い抜けかもしれないことを口になさりながらも、たいていは)期日通りにできあがってくる;夕食の座談はもっぱら佐藤さんの逸話を中心にめぐる、というわけで、出版社の覚えは最高によかったのではないでしょうか。学問的な実力に裏づけられた、余裕の人でした。

 ぼく個人としては、それより先に、大きなご恩にあづかりました。1989年秋、Martin Daunton との出会いをアレンジしてくださったのが佐藤さんだったのです。
 Urbanism in Islam という、初めて聞いたときは、なんだかよく分からん企画だなと思わせる国家的プロジェクトで、板垣雄三さんや佐藤次高さんが中心になって、80年代から多数のイスラム研究者を招聘していました。
 そのなかに紛れて、イスラームなんか全然関心のない、しかしイギリス都市史の有望らしい研究者として「ダーントン」とかいうロンドン大学の若手教授が来ているんです、近藤さん お相手してくださる? というお声掛かりで、三鷹のホテルに行き、シンポジウムそのものはお呼びでなかったのですが、夕食は佐藤さんの基金で、しかし Martin とぼくの二人で会食したのが最初です。
 いやぁ、楽しかった。Martin はまだ30代の終わりで、初対面なのに、Jim Dyos や Asa Briggs や Theo Barker や Derek Fraser そして Vic Gatrell といった都市社会史の人びとのことで盛り上がりました。そのころはまだ日英歴史家会議(AJC)の生まれる気配さえなかったのですが、次にイギリスで長期滞在するなら、彼のいる UCL だな、と思いました。
→ これは両方とも1994年に実現することになります。

 次高さんに話は戻りますが、日本のイスラーム研究と東洋史をたばね、山川出版社、講談社、岩波書店、等々の多くの歴史書出版を表裏で学術的に支えてきた佐藤さんがいなくなって、これからどうなるのでしょう。
 それから、ウイグル自治区からの留学生トフティ君の問題は、結局、佐藤さんの元気なあいだには解決しなかったわけで、中国政府への憤りも増します。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~toyoshi/tohti.html

佐藤次高さん ご葬儀

昨夕、佐藤次高さんが亡くなりました。68歳でした。


通夜・葬儀告別式は次のとおり執り行われます。

   通 夜    4月14日(木) 午後6時より
   葬儀・告別式 4月15日(金) 午前11時より
   場 所    芝 増上寺(港区芝公園4-7-35)

謹んでお知らせいたします。

2011年4月10日日曜日

年年歳歳 花相似


  年年歳歳 花相似 
  歳歳年年 人不同 
という対句が、今年ほど染みいる春はないかもしれない。

 洛陽の城東、大横川につらなる桜並木は例年どおり、この日曜に静かに満開を迎えました。けれども、恒例となっていた石島橋における門前仲町商店街と東京海洋大による露店と甘酒、そして大道芸のもてなしは、なし。
 花は相似て美しいがゆえに、人間すなわち社会の転変がきわだって認識される。

 3.11は、10年前の9.11よりも、文明にとってはるかに大きい衝撃となるのではないか。「敵」を作りだして攻撃することによってごまかしたり、やりすごしたりはできません。国家か無国家か、という問題の立て方もまちがっているのではないでしょうか。

Amazing Grace

 このところ、映画どころじゃないという空気かもしれませんが、「アメイジング・グレイス」は、銀座テアトルにて15日まで、とのことです。
→ http://www.ttcg.jp/theatre_ginza/nowshowing
かなり宗教的な感想を述べているブログもあると知りました。
→ http://blog.goo.ne.jp/mamedeifque/e/efd8991a02e3b0f35a9453a61fba64d4

 ぼくの場合は、小ピットというかなり近代的な statesman なしには説明のつかない歴史だと考えています。ピット → ピール → グラッドストンへとつながる系譜。
ちかごろ論議される、国難に直面した「リーダーシップ」の問題ですね。これに「男の友情」が加わった映画ですから、当然ながら『イギリス史10講』でも引用させていただきます。
 ジャコバン史観に支配された日本の高校教科書では、ピットはまるで保守反動の権化みたいに描かれてきた。めぐりめぐって無能な首相がほぼ1年前後で交替をくりかえすという醜態は、戦後世界史教育のひとつの結果か、という気もします。

2011年4月8日金曜日

『二宮宏之著作集』 第2巻

 第2巻〈深層のフランス〉(岩波書店)は、8日(金)発売です。
 巻末の「解説」には、こんなことをしたためました。

・「各論考は、執筆された時代とときの学界にたいして発言する著者のアンガジュマンであったが、そうした時代と学界のあり様をあらためて考えることによって、何がどうみえてくるだろうか。」p.435

・「一九八〇年代~九〇年代に広く日本の読書公衆に知られることになる二宮連峰の最初の頂き‥‥」p.438

・「二〇世紀日本の考える歴史家、二宮宏之の自己意識の証言がある。‥‥『講座』と『歴史哲学』は、彼の一生ついてまわる問いとなった。」p.445

・「ブルターニュにおける地域慣行と領主制、土地経営と新税を分析し、民衆の心性を論じる「印紙税一揆」には、一九六〇年代までの二宮戦後史学のエッセンスが流れ込み、ここから七〇年代の二宮社会史が流れ出す。高橋幸八郎の退官を記念する弟子たちの論文集‥‥への寄稿という象徴性、そして長い病臥からの恢復の喜びが明らかである。‥‥二宮は高橋史学のエスプリを継承しつつ、その呪縛から自らを解放した。」pp.445-6

・「第2巻〈深層のフランス〉という名の豊穣な社会文化史のディナーの最後に設けられた、美味なるデザート・コース‥‥。このコースは、苦いコーヒーで締められる。」p.451

2011年4月6日水曜日

CALL for PAPERS: AJC 2012

2012年9月にケインブリッジで開催される日英歴史家会議(AJC)の報告者公募が始まりました。まだ第一報ですが、詳細は、右肩の FEATURES の項目をクリックしてご覧ください。
ダウンロードや転載もご自由に。
これについての質問などお問い合せがある場合は、各委員あてにどうぞ。
プロポーザルの〆切期日については「夏」とのみ記されていますが、この期日は5月に確定します。

なお、junior session については、いましばらくしてから公募が始まりますので、お待ちを!

2011年4月3日日曜日

東大西洋史

 2日の晩のパーティは旧知のかた、初めての人と、いろいろお話しできて幸いでした。地震・津波・原発とともに、それぞれの二宮さん・遅塚さんのことがずいぶん話題になりました。

『二宮宏之著作集』第2巻(4月8日刊)の月報でも赤堀さんがお話なさるとおり、「二宮君と遅塚君のこと」は語り尽くせないものがあるんですね。外川さんの世代にとっては当然、ぼくの世代でも自然のことかもしれません。でも小林さんにとって、遅塚さんの死に装束が特別のものだったとは知りませんでした。「食いっぱぐれ」の清水さんもまた良い挨拶をしてくださいました。
 一太郎とルビの話のツヅキも良かった。大出版社は大きく構えているんだ、と思いました。大ならぬ山川出版社は一太郎でやってくれます。
 クラレットとイギリスの話は、ウソではありません。岩波新書にきちんと書きこんであります。

 とはいえ、一寸ばかり気にかかることがあって、懇談を中断して、失礼しました。いずれ釈明いたします。