ラベル 柴田三千雄 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 柴田三千雄 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年12月5日木曜日

日仏文化講座

すでにみなさんご存知かもしれませんが、12月14日(土)に日仏会館でたいへん有意義な催しが企画されています。 → https://www.fmfj.or.jp/events/20241214.html
日仏会館 日仏文化講座
近代日本の歴史学とフランス――日仏会館から考える〉
2024年12月14日(土) 13:00-17:30(12:40開場予定)
日仏会館ホール(東京都渋谷区恵比寿3-9-25)
定員:100名
一般1000円、日仏会館会員・学生 無料、日本語
参加登録:申込はこちら(Peatix) <https://fmfj-20241214.peatix.com/>

日仏会館の案内をそのまま転写しますと ↓
 日仏会館100年の活動を幕末以降の歴史の中に置き、時間軸の中でこれを反省的に振り返り、次の100年を展望します。フランスとの出会い、憧憬、対話、葛藤は、日本語世界に何をもたらしたのでしょう。フランスに何を発信したのでしょう。100年前に創設された日仏会館は、そこでどのような役割を果たしたのでしょうか。本シンポジウムは、この問題を日本の歴史学の文脈で考えます。その際、問題観の転換と広がりに応じて、大きく四つの時期にわけ、四人の論者が具体的テーマに即して報告します。
【プログラム】
司会:長井伸仁(東京大学)・前田更子(明治大学)
 13:00 趣旨説明
 13:05 高橋暁生(上智大学)
 「二人の箕作と近代日本における「フランス史」の黎明」
 13:35 小田中直樹(東北大学)
 「火の翼、鉛の靴、そして主体性 - 高橋幸八郎と井上幸治の「フランス歴史学体験」」
  休憩
 14:15 高澤紀恵(法政大学)
 「ルゴフ・ショックから転回/曲がり角、その先へ - 日仏会館から考える」
 14:45 平野千果子(武蔵大学)
 「フランス領カリブ海世界から考える人種とジェンダー - マルティニックの作家マイヨット・カペシアを素材として」
  休憩
 15:30 コメント1 森村敏己(一橋大学)
 15:45 コメント2 戸邉秀明(東京経済大学)
  休憩
 16:10 質疑応答ならびに討論
 17:25 閉会の辞

主催:(公財)日仏会館
後援:日仏歴史学会

NB〈近藤の所感〉: 「近代日本の歴史学」を考えるにあたってフランスにフォーカスしてみることは大いに意味があります。プログラムから予感される問題点があるとしたら、
第1に、箕作・高橋・井上・二宮のライン(東大西洋史!)が強調されているかに思われますが、これとは違う、法学・憲法学の流れ、京都大学人文研のフランス研究がどう評価されるのか。
第2に、20世紀の学問におけるドイツアカデミズムの存在感(とナチスによるその放逐 → 「大変貌」)の意味を考えたい。箕作元八も、九鬼周造もフランス留学の前にドイツに留学しました。柴田三千雄も遅塚忠躬もフランス革命研究の前に、ドイツ史/ドイツ哲学を勉強しました(林健太郎の弟子でした)! さらに言えば、二宮宏之の国制史は(初動においては)成瀬治の導きに負っていました!!

2024年2月5日月曜日

「68年世代」の修業時代

とくにどうということのない小文ですが、〈わたしの問い、わたしの研究〉というコーナーに
「68年世代」の修業時代」 → https://ywl.jp/view/cIqWX  という、回想をしたためました。
山川出版社のサイトで『歴史PRESS』のNo.17(12月号)、計4ぺージ。ダウンロードなどできます。かつて「70年代的現象としての社会運動史研究会」を『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013)に寄稿しましたが、それと対をなすものです。
こんなものを書いた動機の一つは『歴史PRESS』誌から依頼があったからですが、もう一つは、昨夏の終わりにある人と同道した列車中の会話でした。
彼は、「今の学生たちは、"全共闘とかいって暴れていた学生たちは何も勉強せずに卒業していった" と考えているようです」と話を持ちかけ、ぼくを挑発して(?)きたのです。
いまは昔 年譜・著作ノート』(2012年3月)と合わせて読んでくださると、年次が分かりやすいかと思います。1969年12月に「文スト実」の最後の会議で、無期限ストライキの解除決議をした後のことですが、70年の春だったか、再開された柴田三千雄先生の授業2コマの期末の課題として2つのレポートを提出しました。ことの顛末は、2013年12月『10講』の刊行時の柴田家にまで及びますが、こんなことをしたためたのは、上の会話への答えといった意味もあります。
ところで、その69年12月に最後の「文スト実」を招集して筋を通した委員長Yは、その後、卒業論文「戦前における社会科学の成立」を70歳になった2017年に復刻自費出版し、さらに -「初心を忘れることは一度もなかった」と本人は言う - それを飛躍的に展開したような実証研究を2021年に公刊しました。グローバルにわたるフランクフルト学派の社会思想史/学問史です。

この1・2週にわたって新聞紙上では、「東アジア反日武装戦線」とかいうテロ組織の Leftoverメンバー、桐島聡のこと、その近辺にいたかもしれない「連合赤軍」の男女の惨劇などを想い出したように書きたてています。1974年~75年に三菱重工・三井物産‥‥大成建設・間組をはじめとする海外進出企業をねらった爆破・襲撃を繰りかえしていた秘密集団です。ぼくもYも、こういった悲しくニヒルな小宇宙とは全然別の世界、対話も成り立たない所にいて、思考し議論していたのでした。ミリゥ(milieu)が違った、と「総括」するほかありません。

50年余をへると、昭和も遠くなりにけり。「語り部」としてきちんと語り明かしておかねばならないことも少なくありません。

2021年11月21日日曜日

ジャコバンと共和政(12月11日)

 このかんのパンデミックのもたらした「副反応」、明らかな革新の一つは、Zoom Meeting をはじめとするオンライン会議や授業の普及です。こんなにも便利な会談やセミナーのツールを知ってしまうと、パンデミックが収まった後にもお払い箱どころか、利用する機会は維持されるでしょう。
逆に、この流れに乗りきれなかった方々は、こうした関係性から(意図せずも)排除されてしまうわけで、以前から云々されていた IT divide はますます進行するのでしょうか。
 昨日(土)午後は、12月に予定されている早稲田の WIAS 公開シンポジウム「ジャコバンと共和政」のための準備会があり、十分な緊迫感をともなう研究会となりました。 初めての方とお話する場合も、対面なら1メートル~ときには数メートル以上の距離を保っての会話ですが、ウェブ会議ですと数十センチのところに据えたスクリーンで向かいあうわけで、(自分の)髪やシワなども含めて、クロースアップのTVを見るような感覚です。 自室の文献などをただちに参照できるのも便利。
 ところで、「ジャコバンと共和政」というタイトルのシンポジウムに、よくも大きな顔をして出てこれるな、という声もあるかもしれません。
じつはぼくの指導教官は柴田三千雄さんですから、「ジャコバンとサンキュロット」という問題も「複合革命」という論点もしっかり刻まれています。Richard Cobb を読んでから E・P・トムスンに向かった、というのは日本人では(英米人でも?)珍しい経路でしょう。コッブの人柄については、柴田さんから60年代前半にパリでソブールのもと付き合った逸話など聞いていました。ずっと後年になって、オクスフォードの歴史学部の廊下で歴代教授の肖像として比較的小さなペン画に対面しました。 → その後任がコリン・ルーカスでした。
どこかでも申しましたとおり、1950年代のおわりに、コッブ、トムスン、そしてウェールズの Gwyn Williams の3人はフランス革命期の各地のサンキュロット(patriot radicals)を発掘する研究をそれぞれ出し揃えて比較するのもいいよね、と話合い、その一つの結果が『イングランド労働者階級の形成』という名の radical republican 形成史だったのです。

 もう一つの共和政/respublica 論については、成瀬治さんの国制史(そしてハーバマス!)を経路として、時間的にはやや遅れましたが、ナチュラルにぼくの中に入ってきました。

その12月11日の WIAS催しの案内はこちらです。↓
https://www.waseda.jp/inst/wias/news/2021/10/29/8504/ 
ポスターは https://bit.ly/3bHG3cr 
無料ですが、予約登録が必要です。 ただし、【グローバル・ヒストリー研究の新たな視角】とかいった謳い文句は、ぼくの与り知らぬものです。

2020年1月8日水曜日

『丸山真男と戦後民主主義』

 昨年には読んで良かったなという本がいくつもありましたが、清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』(北海道大学出版会、2019)もその1冊。
このたび、恒例の『みすず読書アンケートへの原稿をまとめるにあたり、これを再読しました。【近年は丸山眞男という表記が一般化しましたが、ぼくたちの世代には、丸山真男という表記の方が馴染むのです。1965年、高校3年のとき『朝日新聞』の文化欄で、最近の学界を展望して注目すべき学者たちというコラムがありました。そのときもそうでしたし、以来、大学に入って『日本の思想』でも『現代政治の思想と行動』増補版でも、眞男でなく真男でした。清水さんも1950年代終わり~80年代の実際・慣行に従い、丸山真男と表記します。】
 その後、勉強が進むにつれて、丸山真男は強烈な存在感のある、ちょっと距離を保ちたい人と感じつつも、しかし読むに値する人であり続けました。1996年夏につづいた大塚久雄の告別式には行きませんでしたが、丸山真男の告別式には参りました。
 人格的に100%好きになれなくても、100%学ぶべき人はいる、というのがぼくの人生後半の知恵です。極端な例をあげれば、マルクスは嫌いだし、もし友人・隣人としたら厄介このうえないヤツでしょう。しかし、彼の書き残したものは再読三読に値するのです。

 著者・清水さんは「‥‥丸山真男と戦後民主主義について未解明のことを明らかにし、その思想を継承したい、ただ批判的に継承したい」(p.318)という立場で、東京女子大の「丸山文庫」や「東大闘争資料集」DVDに収められた手記やビラなどにも分け入り、関係者を捜し出して面談し、誠実に緻密に腑に落ちる解釈を呈示します。その姿勢は爽快で、敬服します。
 ただし、本書のうち唯一、1968年12月23日の「法学部研究室」(という固有名詞の研究棟、正門脇)の封鎖について、翌24日、毎日新聞に載った
軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ」(本書では p.182 に写真)
とされる丸山発言の真偽については、まだ納得できません。
その場にぼくも居なかったので、報道や人々の証言に依拠するしかないのですが、「ナチ」と明記したニュース源、一次証言は結局のところ毎日新聞しかありません(他はその拡散か、「ファシズム」「ファシスト」です)。
 一昨年秋の和田英二『東大闘争 50年目のメモランダム:安田講堂、裁判、そして丸山眞男』でも、この点が第Ⅱ部のテーマでした。
 なんと清水さんは2008年にその毎日新聞の担当記者に尋ねあたり、「ただ聞いたままを記事にした」「山上会議所の電話で本社に送稿した」という証言をえたということです(p.185)。ご努力には頭が下がりますが、これで証拠は十分といえるのでしょうか。
 申し訳ないが、40年経過して自分の行為を正当化した記者は、ナチスとファシストの違いが問題だと認識していたのでしょうか。たしかに自分で了解した言説を(法学部から山上会議所・現山上会館まで移動するのに急いでも数分以上かかり反芻する時間があります)整理して、電話でデスクに伝えたのでしょう。オーラル・ヒストリの方法論にかかわりますが、記憶が正しいとして、彼の頭脳を経由した記憶ではないでしょうか。

 これに加えて、清水さんは「ナチは‥‥ユダヤ人教授や反ナチ教授が早く追放されたので、研究室を封鎖する必要もなかったということだろう」(p.186)と述べられます。これは矮小化に近づいています。さらにまた「「ファシストもやらなかった」(佐々木武回顧)と言っても、「軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった」(毎日新聞)と言っても、ほとんど違いはなかった」(p.187)とまで述べられます。
 これは西洋史をやっている者には、そして丸山を政治学者・思想史学者と考える者には、かなり抵抗を覚える箇所です。
焚書やマルク・ブロック銃殺やベンヤミン自殺を例に挙げるまでもなく、問題は学問や知性の圧殺です。そうしたナチスさえ東大の「法学部研究室」の封鎖まではしなかったと、もし本当に丸山が言ったのなら、おそろしく錯乱していたことになります。当時も今も、ちょっと信じがたいことです。

 とここまで書いて、今日、清水さんご本人から私信をいただきました。「ナチもしなかったと言った」という(毎日新聞とは別の)たしかな私的証言があるとのことです。そうだとすると、ぼくの疑念も、和田の論証も覆されることになります!

 1968年11月から12月にかけての丸山の言動、林団交にたいするシュプレヒコールやナチス報道に接したぼくたち(文スト実)は、今だったら「ウソーッ」「マジか」といった感覚でした。 林団交にたいする坂本・丸山両教授たちのデモンストレーションの際に、当時社会学の院生だった杉山光信さんは図書館前にいらしたようですが、「正直のところ違和感がないわけではなかった」と記しています(『丸山眞男集』16巻月報)。丸山月報への寄稿文なので、抑制された表現ですが、たしかに多くの学部生・院生が共有した違和感だと思います。
 1968年、ぼくたちサンキュロット学生とアリストクラート教授陣の間のズレ・隔絶が、6月の機動隊導入 → 無期限ストライキを招き、秋から以降の丸山真男を錯乱させた、ということなのか。【ついでに言うと、柴田三千雄『バブーフの陰謀』(岩波書店、1968)は1月刊行で、『朝日新聞』にも紹介が載ったし、すぐに増刷されて、フランス革命の後半局面についての重要で分析的な仕事ということは知れていたと思われますが、『丸山眞男集』全16巻にも、『自己内対話』にも柴田についての言及はないようです。ジャコバン主義とサンキュロット運動、というフレームワークは丸山の頭にはなかったのでしょうか?】
 (なお、67年2月の法学部学部長選挙で丸山が当選した後、医師の診断書を提出してこれを辞し、3月に再選挙の結果、辻清明が当選したという事情がありました。辻は同期の助手、丸山は24年前に「国民主義理論の形成」稿を新宿駅で彼に託して出征したのでした。法学部長職を旧友辻に押しつけることになったことが仁義の負い目となり、以後の丸山の言動に抑制がかかったというか、不自然が生じた、というのが当時の -事情を知る人たちの- 憶測でした。

 なおさらに究明すべきことが示されている、という意味も含めて、とにかくこの書は丸山真男論として、これまでぼくが接したうち、一番啓発的で、説得力のある力作です。有り難うございました。

2019年1月29日火曜日

R. R. パーマ『民主革命の時代』


 The Age of the Democratic Revolution, 1959-64年の2巻本(Princeton U. P.)で、アメリカ独立およびフランス革命をそれぞれの「祖国愛の史観」から一歩はなれて、1760~1800年くらいの「大西洋史」のダイナミックな動きのなかで捉えなおした「古典」ですが、皆さん、(その本があることは知っていますよ、といった具合に)言及するだけで、しっかり読んでないんじゃないかと思われます。
 かくいうぼくは、名古屋大学に赴任して2年目、1978年、- 隣の南山大学に青木くんが赴任してきたし、ちょうどフランス革命の天野さんが大学院に進学した、イギリス急進主義の松塚くん、アメリカ(Oberlin)留学から帰ってきた高木くんも院に在籍している - といった環境で、輪読にふさわしいテクストとして選定し、この2巻本を相手に奮闘しました。アメリカ史のさかんな名古屋という土地柄、院生たちの勉強と知恵にも支えられて、1980年夏にイギリスへ飛び立つ直前の鳥羽合宿まで続きました。アメリカの「自由の息子たち」や、ポーランド人コシチューシコについて基本的な知識をえたのも、パーマのこの本のお陰です。
 1970年代の日本では、パーマも大西洋革命もいささか不評で、理由を憶測してみますと、
1) 冷戦体制のなかで「右寄り」かリベラル(当時は「反共」という意味)の歴史家とみなされ、フランス革命の人類史におけるユニークな意義をパスして、18世紀末の国制史に議論をフォーカスしてゆく、「反動」ではないが主流でもない歴史家、相対主義者という位置づけだったのではないでしょうか。日本学界でも、ましてやフランス学界でも不人気だったようです。日本のフランス革命研究者では、柴田三千雄さんが注目していましたが、これはかなりレアで、今思えば勇気ある立場でした。
 ぼくはフランス革命では、その前に(75~76年) Richar Cobb, The Police and the People を読んで、おもしろい本だけれど、(ちょっと E. P. トムスンに似て)細部にこだわりすぎ;コッブの議論はこの10分の1くらいの量でも証明できそう、なんて思っていました。だからパーマの、経験的な叙述でありつつ「構造」を鮮明に打ち出す論理に、一種の爽快感を覚えました。成瀬先生の授業で「身分制議会史国際委員会」というのがあるのだと聞き知っていたし、それが新版のp.23の註1と2に挙がっているのをみると、それだけでも「えっ」という興味関心を励起されますよね。そういった感想を申しましたら、柴田先生もなにか曖昧な共感めいたことを言ってくれた覚えがあります(考えてみれば、早くも星雲状態ながら『近代世界と民衆運動』を構想されていた時期ですね)。遅塚さん、二宮さんの場合は、ほとんど反応ゼロでした!
 1989年に来日したリン・ハントとフランス革命関連で読んだ本という話題となり、まず Palmer, Age of Democratic Revolution と申しましたら、反応はネガティヴで、パーマでおもしろいのは Twelve Who Ruled だ、Age of Democratic Revolution は広い学識は示されているが、いささか退屈、ということでした。ジャコバン史家の面目躍如でした。
2) また、アメリカ史学界では「古いヨーロッパ」から自己を解放したはずの独立革命について、ヨーロッパ史と同一の動きと構造を指摘するパーマ教授は、やはりアメリカ史の世界史的なユニークさを捉えきれない学者という評価でしょうか。1960年代から以降の「新しい歴史学」になると、なおさら中途半端で退屈な仕事という受け止めかな。

 この二つの理由で、第2版の前言(2014)を書いているアーミテジの表現では「その後ほとんど40年ほど、古典であって、崇拝はされても読まれることのない本」に落とし込まれたと言います。1955年の 国際歴史学会議@ローマ におけるパーマとゴドショによる「大西洋革命」論の提唱と、それはNATO(北大西洋条約機構)擁護論だ、といった強い批判をよくは知らなかったぼくが、「ホッブズ的秩序問題」「躍動する国制史」といった問題を意識するよりはるか前に、なんとルースをはじめとする「社団的な社会編成」をキーワードとするコーポラティストを理論的な指針としたパーマ先生の主著に取り組んでいた。これは「偶然」というよりは、幸せな contingency (複数の契機からなる時代情況)の賜物、というしかありません。

2018年7月31日火曜日

東大闘争の語り

災害と猛暑が交替で襲来します。お変わりありませんか。
小杉亮子『東大闘争の語り-社会運動の予示と戦略』(新曜社)が出たことを、塩川伸明さんから知らされ、購入しました。

読んでみると、pp.38-39に聞き取り対象者44名の一覧が(許諾した場合は)本名とともにあり、最首助手、長崎浩助手、石田雄助教授、折原浩助教授、から大学院の長谷川宏さん、匿名の学部生がたくさん、そして当時仏文だった鈴木貞美にいたるまで挙がっています。匿名ではあれ、話の内容(と学部学年)からダレとわかる場合も。ふつうは東大闘争の抑圧勢力として省かれる共産党(当時は「代々木」とか「民」とか呼んでいた)関係の証言もあり、叙述に厚みがあります。何月何日ということを極めつつ歴史を再構成して行くのも好感がもてます。45年~50年前の集団的経験について、インタヴューに答えつつどう語るか。当事者の証言を史料としてどう扱うか、方法的にも価値があると思われます。

ただし、方法的に社会学であることに文句はないが、当時の東大社会学関係者の証言が偏重されています。いくらなんでも東大闘争の関係者として、和田春樹さんや北原敦さん(そして塩川伸明さん)を含めて、歴史学関係者の証言がゼロというのは、どうかと思います。
(『文学部八日間団交の記録』を録音からおこして編集した史料編纂者はぼくですし‥‥)文学部ストライキ実行委員会の委員長は西洋史のK(Kは69年に全学連委員長になってしまったので、下記のFFに交替)、学生会議を仕切っていたのは仏文のF、あまり知的でなく行動派のSも西洋史でした(このイニシャルは本書のなかの証言者の記号とはまったく別)。東洋史院生の桜井由躬雄さんは亡くなってしまったので、ここに登場しないのは仕方ないとしても。69年1月10・11・12日に安田講堂や法文2号館に泊まり込んでいた西洋史の学生で後に重要な学者になった人は何人もいる。
哲学の長谷川さんの言として、「白熱した議論を哲学科と東洋史と仏文はやってて‥‥」(p.259)、また学部3年のFのことを紹介しつつ社会学科ではノンセクトの学生が活発に活動しており(p.262)といった一面的な語りは、大事ななにかが抜けていませんか? と問いただしたくなる。本書全体の導き手のような福岡安則の好みによるのだろうか。
そうした偏りはあるとしても、これまでの類書に比べると、相対的に信頼できる出版です。いろいろとクロノロジーの再確認を促されます。
社会学だと運動が予示的(≒ユートピア的)か、戦略的かという問題になるのかもしれません。しかし、『バブーフの陰謀』(1968年1月刊!)とグラムシを読んでいた歴史学(西洋史)の者にとって、「ジャコバン主義とサンキュロット運動」という枠組、そしてカードル(中堅幹部)の決定的な役割、といったことの妥当性を追体験するような2年間でした。

なお69年12月に文スト実のFFが呼びかけて(代々木の破壊工作を避けて)検見川で集会をもち、議論のあげくに「ストライキ解除」決議をとった。これは敗北を確認し、ケジメをつけて前を見る、という点で、たいへん賢明な決断でした。その後のFFは立派な学者になっていますが、先には70歳を記念して、ご自分の卒業論文をそのまま自費出版なさった。尊敬に値する人です。

2018年6月5日火曜日

映画「マルクス・エンゲルス」


 今朝、岩波ホールで映画「マルクス・エンゲルス」を見ました。朝から行列ができて、若いのも退職世代も一杯なのには驚きました。

 フランス語原題は Le jeune Marx (若きマルクス)で、1840年代のケルン、パリ、ブリュッセルにおける妻イェニ(ジェニ)との生活、エンゲルスとの出会いと社会主義者たちとの論争。1848年2月の共産党宣言で終わる映画というので、あまり多くは期待できないな、と思いながら行ったのですが、案の定。
(ほとんどレーニン・スターリンの教科書にも出てきそうな)ドイツのヘーゲル哲学、フランスの労働運動、イギリスの経済学という3つの伝統(資産!)の合体したところに生まれる正しい理論・運動としてのマルクス主義。その生成過程をカール、イェニ、フレッド(エンゲルス)の信頼と友情と協力関係で描くという構えです。
 監督ラウル・ペックさんは1953年、ハイチ生まれとのことですが、ちょっと勉強が足りないのではないかと思わせるほど、図式的な(共産党の)マルクス主義理解です。そもそも若きマルクスの学位論文 -マルクスは19世紀前半の「大学は出たけれど」どころか、オーバードクター=アルバイターのハシリです- からのつながりは一切触れられないし、(『経済学哲学草稿』にも、いや後年の『資本論』の価値論にも現れていた)ヒューマンな人間論、むしろ実存哲学的な考察はオクビにも出てこない。

 映画の最初に森林伐採法・入会権にかかわる場面があるけれど、これもプロイセン政府の暴虐ぶりを表現するエピソードというだけの意味づけ? プルードンとの論争も、(字幕では)「所有」か「財産」か、といった無意味な訳になってしまった。Propriété も Eigentum も、自分自身(proper/eigen)であることと領有する(appropriation)ことにも掛けたキーワードです。
平田清明の『市民社会と社会主義』(岩波書店、1969)を読んでから出直すべきかも。これは、往時のベストセラー、もしや「岩波現代文庫」に入れるべき一つかもしれません。

 この映画で唯一、映画らしい説得力があったのは、ことばの運用です。マルクス、エンゲルス、イェニともに場面に応じて、相手と感情のままにドイツ語、フランス語を用い、ときにチャンポンでも通じた。むしろ19世紀前半はまだ英語がマイナーな言語であったのだとわかる作りです。そしてマルクスは、経済学を勉強するために、必要に応じて、英語を習得してゆく。メアリはアイリッシュ系の英語。

 他党派にたいするマルクス・エンゲルスの容赦のなさは、この後、ますますひどくなり、また48年議会におけるドイツ周辺部を代表して出てくる議員のドイツ語(の発音)にたいするエンゲルスの差別発言たるや、恐るべきものがありました。ぼくは『マルエン全集』で48年前後の赤裸々な表現を見て以来、エンゲルスをこれっぽっちも好きになれない。これほどの証言を全部収録して全訳する「全集刊行委員会」は何を考えていたのだろう‥‥。冷めた心でマル・エンに接しましょう、とか?

 大学院に入ってすぐの柴田ゼミのテキストは、1864年ロンドンの「第1インター」の議事録(英・仏・独語)でした。そこでの少数派=マルクス・エンゲルスの党派的で強引な動きもまた印象的で、柴田先生はどういうつもりでぼくたちにこのテキストを読ませているのだろう(そろそろセクト主義から足を洗うように‥‥とか?)、とにかく愉快でない経験でした。そして権威的マルクス・エンゲルス主義者であることから気持が確実に離れるきっかけにもなりました。『社会運動史』のメンバーへの援護射撃というおつもりだった?
 70年代半ばの柴田先生は19世紀フランス社会主義の歴史に集中しようと考えておられたようで、西川正雄さんと院ゼミを合同で持たれたこともありました。

2015年1月29日木曜日

『西洋史学』253号の『イギリス史10講』評

新年のご挨拶もないままで、失礼しました。余裕のない、しかし皆さんの厚意に守られた日夜がつづき、このブログの更新どころではありませんでした。

学年末、あわただしくも憂鬱な気持でいるところに『西洋史学』253号(2014年)が岩波書店から転送されてきました。金澤周作氏による『イギリス史10講』の書評(pp.63-65)があり、拝読、再読。これだけ「相当の気構えで臨んだ」書評をしてもらえるのは、人生でしばしばあることではなく、著者冥利に尽きるというものです。記されているコメントはいちいちごもっとも。さらにはこちらの意図を忖度して言語化してくださる部分もあります。
感想と弁明を、ちょっとだけしたためてみます。

I. ご指摘のとおり、『民のモラル』(1993年)で描いたような猥雑さや民衆的な生活文化が後景に退いているのではないか、という点は、自分でもこれ以外の書き方はないのかと思案したところです。結局は「国のかたち」「秩序問題」で筋を通すことにしました。政治社会史です。民衆文化的なところにはあまり歴史的変化の相は認められず、丸山眞男なら basso ostinato とでも呼ぶようなものを感じました。
ぼくは決して本質論的な/国民的な political culture 探しをしているわけではないので、その傾きのある「政治文化」論には反対でいます【歴史学研究会(編)『国家像・社会像の変貌』2003年】。むしろ歴史的に与えられた条件のもとで取り組まれた政治構想にこそ、今の興味と課題はあるようです。大学1年で学に志してからすでに50年近くも遍歴したぼくの今の営みを「広義の intellectual history」と呼んでくださるのに異存はありませんが、「卓越した人物たちが織りなす政治史(ハイ・ポリティクス)」とは、すこし違うのではないかという気がします。High politics とは politician たちの(政権/覇権をめぐる)権力闘争・合従連衡のことであって、政治構想・秩序問題の論議とは、やや次元を異にするか、と。
「認識論的歴史プラトニズム」とは、正直のところよく分からない表現でもありますが、しかし、水田洋さんが柴田三千雄『バブーフの陰謀』(1968年)の書評で「(意味ある)歴史とは結局、思想史なのではないか」といったコメントを記されたのを想い出しました【『史学雑誌』1969年】。クローチェが下敷きのコメントかもしれませんが、名言ではないでしょうか。

II.「‥‥作者のコントロールを越えたポリフォニーよりも、指揮者的な筆者が‥‥編成するシンフォニーが目立ってしまう」という評は、至言です。突き詰めると、近藤は、『フィガロ』のような遊びを知っているアマデウスより古典主義的な意志を通した晩年のモーツァルトの構成的なシンフォニー、そしてほとんど古典主義とロマン主義を体現したベートーヴェンのほうに、換言すれば「近代」に寄り添ってしまっている;その意味で、柴田史学を批判しているようにみえても、じつはその掌中で遊んでいたにすぎない - ということになるでしょうか。
「この‥‥作品を乗り越える一つの方向性は、多声性を叙述に反映させることにある」というのは当たっています。なにしろ通史は生まれて初めての経験でしたから(中学・高校の教科書で世界史を編集執筆したし、また別にヨーロッパ近世史の叙述を繰りかえしてはいますが)、そこまでバロック的な冒険をする自信はなかった。

III. なお最後に「‥‥見る主体である自分自身を反省し、哲学を定めて叙述する」と記しておられます。ぼくの場合は16年間の取り組みによってこそ、自分自身の歴史観/世界観は形成されたと思います。成熟したと言いたいところです。この間の情況的な転変に影響されていることは否定しませんが(ブレたのでしょうか?)、それはまたピューリタン的な純粋主義/原理主義をどう見るか、スミスを、豹変する君子たちをどう理解するか、帝国の経験と公共財、マルクス主義とは全然ちがう企てであるケインズやガンディをどう受けとめるか‥‥といった具合に、「一気呵成に書き下ろすやり方では不可能な」、試行錯誤というか、迷妄と勉強の産物です。
「哲学を定めて」それから書き出したのではなく、E・H・カーが歴史家の仕事について述べているひそみにならえば、史料文献を読みつつ、あるとき興が湧いて書き出し、一定程度すすむとまた史料(というより辞典から始まってあらゆる文献やインターネット情報)に返ってそれを別の視点から読み直す‥‥といった往還の繰りかえしでした。能率が悪く、あまり合理主義的でないぼくの仕事(歴史の作法)のせいで16年もかかってこの程度の書物となりました。叙述しながら哲学していたのです。

感動的な書評に動かされ、元気をいただきました。多謝。 近藤和彦

2013年3月18日月曜日

弥生の鼎談

今日も暖かく風の強い日でした。

ソメイヨシノの開花宣言が聞こえてきますが、わが深川の水辺では写真のように、まだつぼみが張っている状態。ところが茗荷谷、お茶の水女子大の構内に参りますと、ご覧のようにすでにしっかり咲いていました。
隣町は「小日向」ですから、日当たり良好、校舎の南側で風も当たらないのかな。

そもそも今日、お茶の水女子大に参りましたのは、柴田三千雄先生の蔵書の受け入れを決めてくださった大学図書館に詣でるためでした。
遅塚、柴田両先生の蔵書が、こういう穏やかで暖かい環境で合体する、‥‥しかもなんと御縁で、二宮蔵書は春日通りをはさんで旧教育大(現筑波大)の文京校舎に収まるのだとすると、これはすばらしい。三旧友の霊が、茗荷谷=大塚で相まみえて、尽きせぬ鼎談を毎夜つづけることになるのですね。
ダレソレの声はでかすぎるとか、君のルフェーヴルの読み方は違っているとか、こんどの京都の会はだれが仕切るんだとか‥‥