2015年2月7日土曜日

工藤光一さん

もう1ヶ月近く経ってしまいましたが、1月10日に工藤光一さんが亡くなりました。56歳でした。先月にはある方からメールで悲報をいただきましたが、昨夜は、ご夫人からの寒中見舞いが到来しました。

彼が院生の頃からのつきあいで、いろいろな場面が想い起こされます。樺山先生のお宅で毎正月に開かれていた(らしい)「一斗会」のこととか、柴田先生と彼とのやりとりとか‥‥。外語大からの、自他ともに任じる二宮宏之さんの愛弟子の一人でしたから、『二宮宏之著作集』第3巻(岩波書店、2011)の「解説」も執筆しておられます。闘病生活が長いことは存じていましたが、そのころは復調していたようだし、ぼくとしてはこの文章のトーンに不満で、そのように伝えました。

ぼくが「礫岩政体と普遍君主:覚書」の最後を執筆したときに想い浮かべていた人の一人が彼であることを隠す必要はないでしょう。
彼とのメールのやりとりの最後は2013年6月13~14日でした。
工藤さんの長いメールには次のような部分がありました。
以下引用
‥‥「礫岩政体と普遍君主:覚書」は、スケールの大きな問題提起にうならされるとともに、「おわりに」の二宮先生のお仕事についてのご見解には、考えさせられました。確かに、1990年代以降の二宮先生については、エトノスの複合性をふまえたうえでの res publica 論やホッブス的秩序問題、思想史・概念史にかかわる議論は棚上げされたかにみえます。ルフェーヴルの「革命的群衆」論文が集合心性の研究への橋渡しとしていかに枢要だったかを強調される一方で、「複合革命」論には言及されなかったのもご指摘のとおりでしょう。からだとこころとソシアビリテを軸に「社会史」ないし「歴史人類学」を構想してゆくうえで、「複合革命」論を取り込むことは、さしあたって必要なかったということなのかもしれません。
ご高論の中で、二宮先生の「文化史的な内向の磁力が、追随する若手研究者におよぼす抑制的影響力」を懸念しておいでで、「2000年代の内省的二宮は、具体的にその〔六角形の〕枠組ををこえて内外に浸透した秩序問題、そして概念史、世界史へと研究を広げようとする者に対する抑止力でもあった」とおしゃっておいでですが、「抑制的影響力」や「抑止力」という二宮先生が一番嫌われた力が現にあとに続く者に働いているかというと、私にはそうは思えません。私の場合、確かに「六角形の枠組」を越えることなく、フランス農村世界の政治文化史に一貫してこだわってきましたが、これは二宮先生からの直接的な影響力によるものというよりは、アラン・コルバンの「感性と表象の歴史学」が政治史に新たな地平を拓いたことに触発を受けています。コルバンの研究によって、農村世界の政治文化史には、まだ広大な未開拓の領野が残されていることが明確に見えてきたと思っています(詳しくは、『歴史を問う4 歴史はいかに書かれるか』岩波書店、2004年に所載された拙稿「記録なき個人の歴史を書く―アラン・コルバンの試みが意味するもの」pp.105-106をご参照ください)。
この未開拓の領野を切り拓いてゆく方向性において、私は二宮先生の「呪縛」なるものを感じたことはありません。他の研究者の場合は分かりませんが、多くの人たちが「偉大な先達をおもいつづけ、そのたおれたあと、未完の課題を引き継いで前へ進もうとする」点では、近藤さんと同じ立場を採っているのではないでしょうか。二宮先生のあとに続く者たちの間に、大塚史学の場合のように、「護教論者の集団」ができるようなことはないと信じています。
自分の病に対する不安で、少々鬱々とした気分でいましたところに、近藤さんから喝を入れられた思いがいたしました。刺激を与えて下さったことに深く感謝いたします。
工藤光一
以上引用

これにたいして、ぼくは謝意を表すると同時に、「‥‥歴史学はなにより体力勝負のようなところがあります。ぼくも家族も壮健ではありませんが、どうぞお大切に。」
と書いて送ったのでした。そのあと1年半、ついにふたたび拝顔することはかないませんでした。
ご冥福を祈ります。

1 件のコメント:

近藤 さんのコメント...

 ご遺著『近代フランス農村世界の政治文化』(岩波書店、2015)が出版されました。
http://kondohistorian.blogspot.jp/2015/11/blog-post_26.html