2019年2月27日水曜日

富永健一さん、1931-2019


 富永さんが亡くなったと新聞で知りました。
 学問的にはあまり重なることのなかった社会学者ですが、ぼくのまだ若いころ、「学問的に考える(論じる)ということは specific に、ということだ。(最近の若者のように)整理もできないまま、漠然たる diffuse な文を書いていては学問とは言えない」といった趣旨を『思想』に書いておられたのが、たいへん印象的でした。折原先生が1960年代前半にバークリから来日した Reinhard Bendix(『マックス・ヴェーバー』の著者)に面会するとき(英語の助力のため)富永さんが同行したというのも、意外なエピソードだったので記憶に残ります。

 その富永さんとぼくは1988年から東大文学部の同僚となりました。ただの「同僚」でなく、法文一号館の4階【富永さんは南向き銀杏並木側、ぼくは西向きの部屋】で消灯・閉館まで、たいてい二人で頑張ってるという、ほとんど戦友のような経験を共にしています。じつはようやく1988年から東大文学部の建物は夕刻19:00まで使えるようになったのです。その10分前に構内放送で閉館(施錠)が予告されるのですが、やりかけた仕事があれば、キリをつけるまで居るしかないので、どうしてもギリギリになる。
 当時はまだエレヴェータがなく【エレヴェータを設置させたのは、富永さんの後任、上野千鶴子先生です】、非常階段みたいな唯一の階段で4階は繋がっていました。今でも3階までとは異なる仕様ですね。18:55を過ぎたころ、富永さんのドタバタという革靴の音がこの階段に響き、(静かな時間帯なので)1階に着いて最後に鉄の小扉をバタンと閉めるところまで聞こえて、ぼくも覚悟を決めて帰り支度にかかるわけです。ときには順番が変わって、ぼくが階段室まで行ってもまだ富永研究室に灯が点っていることもあり、二人で並んで階段を降り始めることもあり。
 ときには、警備員が厳格に19:00に閉鎖してしまって、扉はウンともスンとも言わず、しかたない、非常灯を頼りに4階まで戻って、内線電話で警備員室を呼び出して、「済みません」と開扉をお願いすることもありました。

 やがて閉館時刻は21:00に延長されましたが、結局は同じパターンを2時間後にくりかえすこととあいなり、そういった一種の戦友(?)同志愛(?)のような経験が1992年3月のご定年まで4年間続いたからでしょうか、論文抜刷やご著書をいただくこともあり、退職後のパーティでも声をかけていただきました。
 1992-94年あたりから大学院重点化という名の改編(のための準備)が東大を席巻することになりますが、その直前、自分流に学問一筋でやっていればだれも文句を言わない、いわばアンシァン・レジームの東大本郷でした。

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